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徳川秀忠は京都二条城で、いかにして福島正則を改易するか協議していた。
この時、正則は江戸にいた。正則は大大名であるので事は慎重に運ばなければ
ならなかった。
秀忠の側近達が言うには、江戸で改易を伝えれば将軍不在の関東で騒ぎが
起こらないとも限らない。関東に使いをおくり京都に正則を呼び寄せて伝えるべき
である。そうすれば江戸や国元の正則の家臣達はおとなしくする事だろう、という。
側近達はいずれも同じ意見であった。
これに異議を唱えたのが末座にいた若年の井伊直孝である。
「それは良策とは思えませぬ。確かに将軍の命とあらば必ず正則は京都まで来るでしょう。
しかし、そのような改易の前例を作ってしまえば、大名達は緊急の呼び出しのたびに
今度は自分の番かと疑念を抱き、喜んで命に従おうとはしないでしょう。
それではまことに不都合です。ですから改易は江戸で伝えるのが良いと思われます。
私は若年ながらこのような職についておりますゆえ、私に使者をお任せ頂きたい」
直孝の発言で議論は紛糾した。
ある者は「若僧が余計な事を申すな!もはや結論は出ておる!」と直孝を叱責したが
直孝は「私の策が最良でございます」と言い張った。あまりに結論が出ないのでとうとう
秀忠は気分を害し、奥に入ってしまった。
その夜、秀忠は直孝を呼び出し、
「私はそちの意見をもっともだと思うておった。されど、重臣達が反対している手前、
強く発言できなかったのだ。しかし、そちの申すとおり改易は江戸で伝える事にいたす」
と言った。そして直孝ではない者を江戸に派遣したという。