10/03/11 14:43:20 NS5vSmkm
海野平の戦いの後、上州箕輪城の長野業政の下に身を寄せていた真田幸隆
やがて山本勘助の勧めによって武田に与する決意を固め
ひそかに箕輪城を離れる機会を窺っていた。
そのしばらく前に業政の仲介で上杉憲政に引き合わせられて以来
幸隆は健康がすぐれないと理由をつけて引きこもり、家人にも容易には顔を合わせなかった。
それを聞いた業政は幸隆のもとへ使いを出し
「今度の病気は尋常の薬では治るまい。甘楽郡の余地峠を越えて良薬を求められるよう
今日明日中に決心されたい。」と馬を送った。
驚いた幸隆は「御志は有り難いが、病は思いのほか重く、出立できない」と返したが
「病が重いということだが、治療の為だから一日でも早い方が良い」と促されたため
幸隆も決心し、その暁に出発し、下仁田に至った。
すると後ろから荷を積んだ多くの馬がやってくる。
よくよく見るとそれを連れているのは幸隆の妻や家僕たちである。
話を聞いてみると幸隆が出立した後、業政の老臣がやってきて色々と世話をして出発させたと添え状を差し出してきた。
開いてみると
「武田信玄は年若に似合わぬ立派な武将であるが、箕輪に業政がいる限りは
碓氷峠を越えて馬を飼おうと思ってはなるまい。
本領に帰られたら、旧交を忘れられぬよう。」とこまごまと書いてあった。
甘楽郡の余地峠は上州と信州の国境の峠
その向こうは武田が支配する佐久郡である。
幸隆は深く恥じて、こんなことならば打ち明けねばならなかった、と
馬をとめてしばし佇んでいたという。