10/03/10 22:35:08 3W7heOj6
>>545
訳してみた。色々意訳したので、間違いなどあったら許して欲しい。
昨朝お訪ねしたところ、早朝に大津へ行かれたとのこと、大助に申し置いて帰ったのですが、主水も
念のため遣わしました。ですが、内府(家康)の軍は大軍であるため、道は渋滞し、近江守も山辺を動けないようです。
昨日主水も諦めて途中で帰ってきました。こんな状況です。
・一昨日の夕方、戦場より私のところに参ったものが直に語ったことです。そういう重大な情報なので良く心得て
読んでください。
内府は今月1日に国元を出て14日に大垣表に到着しました。大垣の石田三成、島左近、小西行長などの軍勢は
これを見て山に上がり陣をはったとのこと。内府の軍勢は5万ほどで、手人数別に備えを敷いた布陣であったそうです。
・東軍の先手は、福島正則が1番、細川忠興が2番、金森長近が3番、そのあと田中吉政など、計4万ばかり。
それぞれに備を作っていた。
青野ヶ原での合戦ですぐに敵を斬りたて大いに手柄を立てたとのこと。そのうちに小早川秀秋が手を返し、
その攻撃により大谷吉継が討死し、大谷の陣はをのまま斬り崩されたとのこと。
上方より出陣した(西軍の)人数は5万ほどだったそうですが、そのうち4,5千も討死したということです。
・吉川広家は毛利輝元の命で家康と交渉し、領地はすべてそのままと言う条件で家康の味方になる、との
扱いになったが、それはあくまで表向きの発表で、実際には領土半減の条件で、家康に降参したとの話である。
安国寺は乗り物に乗って逃亡した。吉川の手の者たちが追いかけたが見失い、行方が知れない。
捕縛されたとの情報も無い。
・宇喜多秀家は討死したとの噂です。これを否定する話も聞きません。秀家が東軍に降伏し、命乞いを
するようなことも無いでしょう。
・上杉景勝との和睦はありえないとのこと。家康は景勝に対処するため結城秀康、伊達政宗らを残しておいたのだと
言うことです。政宗がこの様に信頼されたのは、政宗が一途に家康に一味しているためであったからだそうです。
白石城と言う景勝方の城を政宗が取り、ここに入城したとのこと。この城は元々政宗の城だったとのことです。
・佐竹は上杉景勝、石田三成などと一味していたので、家康との間は心隔たる関係であると聞き及んでおります。
・信州の真田は東軍の敵になり、徳川秀忠、榊原康政などが信州に差し向けられたと言うことです。
これも手間の掛ることです。上洛のことなど申し付けているようです。
・長束正家は水口の城にいたようですが、そこにも東軍の軍勢が派遣され討ち果たされるだろうとのこと。
三奉行はみな成敗されるであろうと言うことです。
・昨日聞いた噂によると、長束正家が家康の元に駆け込んできたとのこと。これに家康は
「良いことでも有り、悪いことでも有る」と言ったそうです。この事は昨日聞いたのですが、真偽は不明です。
右のことは私と親しい関係の者が、あの戦場より直に私のところに来て、それを私が直に聞いたものです。
これをよくよく心得てください。以上
九月二十日 東入
P.S. 今、津小平から書状が来て、家康は今日大津に行かれるそうです。そういう事なので主水もまた差し遣わします。
今日家康が大津に来られると言う事、ご当地にいるあなたも聞いていらっしゃるとは思いますが、一応
ここに書いて置きます。
この書状を見たら、火の中に火の中に。