10/02/27 07:54:02 4uhwwiOa
>クロカンって三国志の賈?とイメージが被るんだよな。
カクのほうがポカがない
歴史にのこった発言でも
クロカン「御運の…」
カク 「エンショウとリュウヒョウのことを…」
まあ秀次をどうしようか悩むラスボスの前で
「(一族内で殺しあって三代しか続かなかった)鎌倉将軍家のことを考えておりました」
と言うクロカンさんも見てみたいが
246:人間七七四年
10/02/27 08:09:23 Rbj66vnb
謙信とか信玄は死んでからも畏敬の対象でちょこちょこ名前でてくるけど信長は死んだらあんまり話題にもなってないね
247:人間七七四年
10/02/27 08:35:36 SyZn6CiU
信長話題にしたら、秀吉が「え、何、俺ディスってるのメーン?」状態になりそうだし。
248:人間七七四年
10/02/27 08:57:34 W0htTffY
秀吉は信長の死後その子供殺したり改易したりで
信長に受けた恩を仇で返したみたいに言われたし
信長の事を話題に出すのを嫌ったらしいね
249:人間七七四年
10/02/27 09:04:01 M3FZUhWb
家康も信玄のことは喜んで話したが信長のことはあまり話さなかった、という。
250:人間七七四年
10/02/27 09:10:16 W0htTffY
家康は信康の切腹関連で複雑な感情があったのかな
あれって信長が命じた説と家康が切腹命じて信長には許可求めただけ説あったけど
結局真相は不明なんだっけ
251:人間七七四年
10/02/27 11:18:09 MFvoXu7/
武田信玄の兜…あれでいいのか?
252:人間七七四年
10/02/27 11:26:52 GoNdwPo8
>>245
ちょっとスレ違い(板違い)だけどカクの場合、周辺の安寧を守ることにかけてはピカ一だけど、国家的な戦略はイマイチというか、ちょっと甘い面もある。
本人にあまり出世欲とかそういうのは無かったっぽいせいだと思うけど。
253:人間七七四年
10/02/27 11:53:56 NRB9O0O4
>>252
賈?は正史を読む限り、本気で漢を盛り立てようと思ってたみたいですね
メッキが剥がれてきた曹操と、晩年はウマが合わなかったようですし
254:人間七七四年
10/02/27 12:24:00 JFGxx/O3
小早川隆景の評通り、少し軽忽なところがあるのが惜しいな。
実際竹中半兵衛が長政匿ってくれてなければ、伊丹城の件は残念な話になっていたかも。
255:人間七七四年
10/02/27 12:49:34 SyZn6CiU
>>252
彼が甘いとは思わんけどなー。
事実問題として曹操らは彼の進言通りの失敗をしてるし。
むしろ曹操らの見通しの甘さだよあれは。
256:人間七七四年
10/02/27 12:54:44 3lznXYWk
>>252
単に賈詡の戦略を曹操や曹丕が採用しなかっただけ。
無論、賈詡の進言通りにしたからって成功した保障なんか無いが
曹操、曹丕ともに進言却下して兵を進めて敗北した以上、戦略はイマイチとは言えないんじゃないか。
257:人間七七四年
10/02/27 13:00:58 XY3Cjgw8
いい加減スレ違い
258:人間七七四年
10/02/27 13:40:46 GoNdwPo8
>>255,256
董卓死後の件や曹操の荊州討伐の件なんかは裴松之の批判は厳しすぎるとは思うがそれなりに理はあるとおもうよ。
>>257
ごめんね。
259:人間七七四年
10/02/27 14:31:08 1H/hPpKI
>>249
旧武田家臣への話題とか、自分に勝ってる相手だし、持ち上げなきゃならん側面もあるかね
信長の死後、織田の家臣を譜代として組み入れてたっけ?家康は
260:人間七七四年
10/02/27 14:35:16 7fEXyOrX
みんながいろいろ空気読んで信長の話しないのに
一人だけ「俺信長公大好き!超カッケー!」
とかまったく空気を読まない伊達のまーくん
261:人間七七四年
10/02/27 14:51:57 kTOQN0z9
>>260
お前面識無いだろw
父の方は文通とかプレゼントとかやってる筈だけど
262:人間七七四年
10/02/27 14:56:29 rBJn/SM1
実際の信長を知ってる人と知らない人の違いだろうな。その辺は
家康は信長絡みでいろいろ苦労してるだろうし。
263:人間七七四年
10/02/27 14:57:40 DNKSNjtn
>>259
水野ぐらいじゃないの
264:人間七七四年
10/02/27 15:35:44 7yvFFL7p
ありゃ親戚だしな
ただ、徳川傘下に入るときは当主処断してキッチリ影響力はそいでからだし
265:人間七七四年
10/02/27 16:42:18 SlIwXkrV
豊臣秀長て水野一族なんだよな
266:人間七七四年
10/02/27 17:43:59 MFvoXu7/
>>262
まさにそのとおりだな
すげー苦労した
267:人間七七四年
10/02/27 17:45:38 Lo8Ff1lr
トヨタの仕業にされる予感w
268:(1/2)
10/02/27 18:16:14 LLCPYtkW
増田長盛の子に、兵大夫盛次という男がいた。
関が原後、処罰を受けた父とは異なり、徳川義直に召抱えられた。
さて、大坂冬の陣において、盛次は義直に従って出陣した。
しかし、旧主への想い捨てがたかったのだろうか。
大坂方が弱体だと聞けば涙を流し、寄せ手が苦戦していると聞けば大いに喜んだ。
これを聞きつけた徳川家康は、怒ることなく感心した。
「さすがは長盛の子よ。豊家の恩を忘れぬ志、見事じゃ」
こうしたことがあったからか、夏の陣ではお許しがあり、盛次は大坂方へ加勢した。
彼は豊臣秀頼から賜った赤地錦の羽織をつけ、若江の陣で味方が敗戦するなか、独り奮戦した。
そして、沢田但馬の従者と組討し、今にも止めを刺そうというところで、藤堂高虎配下の磯野平三郎に討取られた。
首を得たものの、平三郎らは盛次の顔を見知らなかった。
やがて、分捕りした刀が、秀吉から長盛への下賜品と分かり、正体も知れたということである。
269:(2/2)
10/02/27 18:17:16 LLCPYtkW
一方の増田長盛。
彼は関ヶ原の折の責を問われ、高力清長に預け置かれていた。
大坂の陣が起こると、清長は長盛へこう告げた。
「あなたは豊家の御恩深い身の上。秀頼様の行く末、さぞ気になるところでしょう。
大御所様は、あなたが大坂へ入ることをお許しになりました」
盛次のことがあったゆえの沙汰だろうか。
だが、長盛は答えた。
「大御所のご配慮、まことにありがたく存じます。
しかしながら、ハハハ、今のそれがしはこの通り落ちぶれ、家臣の一人もおりませぬ。
大坂へ参り、新参の浪人の下知をしたとて、さしたる戦ぶりはお見せできますまい。
かえって、それがしを重用してくだすった太閤殿下の名を汚すことになりかねず、それこそ無念。
このまま、配所で生を終える所存です」
やがて、盛次が死に、豊臣家が滅亡したことを、長盛は清長から知らされた。
「この上は命を長らえる理由もない。どうか、お暇をいただきたい」
長盛はそう清長に請い、切腹したという。
270:人間七七四年
10/02/27 18:19:15 SlIwXkrV
でその時、増田盛次を大坂城に入れた責任を問われて、父親の増田長盛は処刑。
271:人間七七四年
10/02/27 18:34:44 OR1RbpWC
>>269>>270
なんという樅の木は残った。
272:人間七七四年
10/02/27 18:52:06 inAtCu7F
家康が浦和周辺で鷹狩りをしたときのこと。
今泉村というところを通りかかると、小さな寺があった。
家康が住職に寺の名を聞くと、住職は片田舎なので名は特にありませんと答える。
家康がふと脇を見ると、軒下に十連なりに野菜が干してあった。
そこで、家康は、
「今日から干菜山十連寺と名乗るがよい。」と名付け、以後、寺を保護したという。
田舎の寺にも名前を考えてあげる家康のいい話・・・なのだが、
名付けのセンスについてはあまりなかったようである。
過去、まとめスレに出てきた家康の名付けの例
また、一番やり→又一と名乗れ。
七の字を書くとき最後に左に曲げた→左七と名乗れ。
本多家に山県昌景と同じ障害を持った子が生まれた。→本多山県と名乗れ。
273:人間七七四年
10/02/27 18:55:17 aBgqETHL
ネーミングセンス無いってちょっとかわいい(?)よね
付けられた方は堪ったもんじゃないと思うが
274:人間七七四年
10/02/27 19:11:30 1H/hPpKI
奇妙とか茶筅とか・・・
275:人間七七四年
10/02/27 19:18:57 inAtCu7F
あるとき、家康が義直(当時13歳)、頼宣(当時11歳)、頼房(当時10歳)の3人の子を伴って庭を歩いていると、蜂が襲ってきた。
義直と頼宣はあわてて逃げたが、頼房は顔に止まった蜂を片っ端から手でつかんで投げ捨て、ついに一歩も引くことがなかった。
また、あるとき、家康が焼き栗を息子たちに食わせてやろうと思って、囲炉裏の中に栗をたくさん放り込んだ後、三人を呼んだ。
火が回ると栗が勢いよくはじけ、義直と頼宣は驚いて飛び上がったが、頼房は近くに飛んできた栗を囲炉裏に投げ入れ、平然としていたという。
さらに、後年、頼房が家光や義直と狩に出かけたとき、義直が仕損じた猪を一矢でしとめ、
家光から、射撃の名人だった能登守平教経にちなんで、「今能登守」と賞賛されたという。
あのめんどくさい名君、義直公と豪胆な南海の龍、頼宣公がかませ犬にされてしまう、頼房公の肝の据わったお話。
なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。
276:人間七七四年
10/02/27 19:23:03 wHinKBLb
>>275
> なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。
マジで腹抱えて笑ったw
どんなだw
277:人間七七四年
10/02/27 19:28:41 1YWh0T7N
信長のそれはある意味センスあるだろw
家康は実用一点張りって感じ
写実派というかw
278:人間七七四年
10/02/27 19:31:13 Uu8ny0CJ
>>272
山県昌景と同じってことは口唇口蓋裂ってことか
なんにしても某ゲームではあんな美男子なのになあ…当時知ったときはショックだった
幸村も腰のひねくれ曲がった爺ちゃんだったらしいし
279:人間七七四年
10/02/27 19:33:50 drPygGCi
最近まとめサイトで、小田氏治の逸話見たんだけど、古代ローマのアウグストゥス帝思い出すな。
軍団長から「今後、世界最強の君主は何人も出るだろうが、世界最弱の君主は間違いなくこの人だ」
っていわれるくらいの戦下手。
まあ、アウグストゥスは政治力があったから良いにしても、
なんで負けっぱのこの人が領民に慕われていたのだろうか。
戦で田畑荒らされて、ろくなことないはずなのに。
・・・・・・・・・・・・・・・肉の芽?
280:人間七七四年
10/02/27 19:48:10 1H/hPpKI
>>275
いやいやいや、息子の晩年の末息子をどうやって・・・というか、徳田さんの生まれる20年近く前に死んでなくね?
281:人間七七四年
10/02/27 20:19:44 GoNdwPo8
なんだよ!暴れん坊将軍かよwwww
で、熊一撃はマジ逸話?それとも「暴れん坊将軍」?
後者……だよね?
282:人間七七四年
10/02/27 20:52:17 inAtCu7F
新之助が猪を鉄砲で一撃で殴り殺したのは・・・・・・・・・・実話です。
283:人間七七四年
10/02/27 20:57:25 Y2y/Dq14
凄いな
海外のサバイバル番組で体重20キロの野生の豚ですら危険だってやっていたのに
猪を一撃で殴り殺すって化け物だなw
284:人間七七四年
10/02/27 20:58:38 1YWh0T7N
あの頃の連中っていったら今の軍隊のフル装備40キロとか60キロで戦ってたような
連中だからな
285:人間七七四年
10/02/27 21:03:25 1H/hPpKI
吉宗も後継者選びには、苦労したろうね。イノシシ退治したとか、田安さんでも無理でしょ
286:人間七七四年
10/02/27 21:04:11 Azu0pyoL
その話どうしてもなんで殴るのかというあたりが引っかかるよなw
287:人間七七四年
10/02/27 22:49:29 XY3Cjgw8
>>286
えーと、ネタ的に解釈すると
頼宣自身が山狩りの最中に猪に襲われて鉄砲撃ったけど不発だった、
あわてて鉄砲を猪の足の間に突っ込んでスッ転ばしたら、猪が逃げてった
って逸話があるのよ
で、「やべぇ、猪やべぇ!ウチの子孫は対抗策考えとけ!!」ということで
新之助さんの選んだ方法が肉体言語だったのかとw
288:人間七七四年
10/02/27 23:11:20 mbAoeFNK
>>236
賈⑨は、太尉になったぞ。
289:人間七七四年
10/02/27 23:13:40 aBgqETHL
字がでなけりゃ片仮名の「ク」でいいだろ
なんか分かりにくいよw
290:人間七七四年
10/02/27 23:18:47 xpGzFnng
>>269
何で増田には大坂に入れといいながら福島正則にはなぜ大坂入城を許さなかったのか。
福島の方が縁が深いのに。家康公は中途半端だな。
291:人間七七四年
10/02/27 23:20:37 M3FZUhWb
大名が入っちゃったら洒落にならんだろう
292:人間七七四年
10/02/27 23:20:37 Y/BCeDtZ
>>290
権現様「だってぶっちゃけいてもいなくても変わりないし……」
293:人間七七四年
10/02/27 23:49:35 xpGzFnng
そういえば福島正則は大坂の陣の逸話ここで紹介されてたな。
息子に宛てた大坂方につけともとれるしどっちかあいまいな手紙のやつ。
ああいう逸話から判断すると仮にお許しが出ても増田のように断りそうではある。
294:人間七七四年
10/02/28 00:16:56 Uf725zWJ
>>268
大坂の陣から2年経って盛次の乳母が磯野のところへ訪ねて来たんだよな
ここで初めて討たれたのが盛次だとわかった
ちなみに磯野平三郎は浅井の猛将磯野員昌の孫で、
関ヶ原の時には石田三成に仕えて最後の逃避行まで付き従った人物
295:人間七七四年
10/02/28 00:29:40 hg1y7Vf0
忠興の次男も大坂の陣で豊臣方についたんだよね
割とそういうの多かったのかな
296:人間七七四年
10/02/28 00:32:45 r06myp2g
>>294
その後子孫がおはぎ大食いで・・・
297:人間七七四年
10/02/28 00:53:01 vv4LoGax
>>296
藻屑自重
298:人間七七四年
10/02/28 01:11:51 YrRd+CxW
>>283
新之助はあの時代に身長180cm越えの浅黒い大男だったらしいからな
100年くらい早く生まれてても名を残したような気がする
>>295
実は大坂方をひそかに支援して足り内通してた大名は結構いたらしい
と、南條範夫先生が言ってた
299:人間七七四年
10/02/28 02:49:14 WtFyDSAe
>>295>>298
一番の有名どころは毛利輝元だよね。佐野道可の件とか
300:人間七七四年
10/02/28 02:58:49 Xw33aiqi
>>275
なんか普通に火中天津甘栗拳使えそうな若様だなwww
そして>>282でその大甥っ子は流石暴れん坊将軍というか忍者の子というか・・・( ゚д゚)ポカーン
301:人間七七四年
10/02/28 03:09:15 mWzRB0lL
イノシシ仕留めたのは紀州藩主時代だな。こんなのもある。
吉宗が逃げた鷹を追いかけて、
家来置き去りにして18町(2キロくらい)の道のりを猛ダッシュして
鷹は自力で捕まえたのに不満そうな顔をして、
息も絶え絶えでやっと追いついた家臣がいかがなされましたと尋ねたら
「東照大権現は25町を走って息を切らすことがなかったというではないか。
しかるに余は18町で息が切れた。精進が足りぬ」
しかし家康が25町を走って息を切らさなかったっていつのエピソードなんだろう
302:人間七七四年
10/02/28 03:26:21 mWzRB0lL
>>286
ああちなみにイノシシ撲殺の状況は、狩りの途中だったんだけど
家臣が仕留めるはずだったイノシシが人ごみをすり抜けて吉宗に突撃しちゃって
すわ一大事という場面で新之助すっくと立ち、立てかけていた火縄銃をとって
眉間を狙って台尻で一閃
撃つ暇がなかったのは分かるけど達人すぎだよな
夢想権之助かと
303:人間七七四年
10/02/28 03:29:04 fYbKN7F1
>>301
食い逃げしてばあさんに追っかけられたときだな、間違いないだろう!それが尾ひれ付いたんだな!
304:人間七七四年
10/02/28 03:39:27 PKi4YTnt
家康は大坂の陣の年(72歳)で河に飛び込んで水泳したり大喜びで前線に出たり、
体力的にも化物みたいな人だからなあ。
当時22歳の豊臣秀頼より絶対元気だったと思うw
305:人間七七四年
10/02/28 03:39:29 mWzRB0lL
吉宗はそこまで暴れん坊じゃありませんせいぜい12歳で下女とか山伏の娘とか妊娠させるくらいです(※全部本当)
でも、「着替えてたら時間の無駄だ」と言い放って寝巻きで老中に会った吉宗も
セクロスしながら家臣の話を聞いた爆弾弾正にはさすがにかなわない
306:人間七七四年
10/02/28 05:36:25 NHHhVej7
松平忠吉の受領名は初め「下野守」であった。
ある日、父家康の前に来てこう言った。
忠吉「このところ体に腫れ物ができて困ります」
家康「そうか。ならばこの薬をつければ(薬箱を取り出す)」
忠吉「いえ、実は「下野守」という受領名のせいではないかと思っております。
変えたいと思うのですが・・・」
家康「奇妙なことを言うが、本人がそう思っておるなら仕方ない。うーーーん、
美濃か尾張でどうじゃ?」
忠吉「いけません。それじゃあ『身の終わり』じゃないですか」
家康「じゃあ薩摩にするか」
ということで「薩摩守」になった忠吉、関ヶ原では岳父井伊直政とともに
薩摩勢と一戦交える。
家臣「直政さま、忠吉さまが逸っておられます!いかがいたしましょうか!」
直政「武士の子よ。用心するにも限度というものがあるわ。
討死したらしたでその時のことよ!」
これを聞き、馬の口を取っていた者がその手を離すと敵目掛けて一目散。
奮戦した忠吉、左手と兜の左耳上に斬り込まれ負傷したが、初陣で見事、敵の
首級をとることに成功する。忠吉をかばいながら進んだ直政も銃創を負った。
勝利の本陣にて
家康「忠吉は手に傷を負ったか」
直政「逸物の鷹の子は皆逸物でございますぞ」
家康「何の、鷹匠の腕が良いからよ」
(と、薬箱を取り出して直政の傷口に自ら薬を塗る家康であった)
307:人間七七四年
10/02/28 08:13:13 MqfwQHb6
>>302
まぁ、現代でも虎を一人で仕留めちゃう大統領閣下とかいるからねw
308:人間七七四年
10/02/28 08:48:49 ojMMl4xC
>>302
K家の場合
大将自らしかも鉄砲で撃つのではなく殴りつけるとは・・・嘆かわしい
M国武士
猪なんぞちかづいておらぬ!
309:人間七七四年
10/02/28 08:55:22 pRJYO9ww
>>307
現代じゃ世界に数人いればいい方のそんな人も
戦国時代は都府県知事や市町村長レベルでごろごろしてたんだな
310:人間七七四年
10/02/28 10:38:42 pHfGKAuB
家康「此度の傷はこの薬で癒えるであろう。おやおや?お尻の辺りに大きな刺し傷があるぞ?
直政、この傷一体なんじゃ?」
直政「あんたがあの晩に付けた傷だろうがよ。」
311:人間七七四年
10/02/28 10:51:15 YrRd+CxW
>>308
ところが、K家はむしろ若殿が諌める側らしい
半島で虎退治した又兵衛に「一手の大将が畜生と力比べしてどうすんの」とか叱ってみたり、
襲いかかってきた猪を一太刀にした若者に
「高名な武士相手に命を懸けて挑むならまだしも、猪相手に命懸けで挑んでも無駄」
とか諌めたりしてる
312:人間七七四年
10/02/28 11:06:47 EWnGS4bv
なにこの徳川家な流れ
いいぞもっとやれ
313:人間七七四年
10/02/28 12:11:57 05ltCA8C
>>311
あの大殿と家臣団だとなぁ。
一手どころか一軍の大将のくせに敵と力比べするお前が言うなwww
で流されるんだろうなぁ
314:人間七七四年
10/02/28 13:29:07 UP9NAbvj
>>310
こういうのって、主君が一方的に寵童をいぢめるものなんだろうか
徳川光圀なんかは、男女の場合は両方とも気持ちよいけど、
男男の場合は気持ちいいのは片方だけなんて言ってるよね
315:人間七七四年
10/02/28 13:31:37 MqoNSTqV
忍城篭城戦で大活躍したとか言われる成田氏長の娘、甲斐姫。
実の所、真田勢に破られた城門を取り戻すべく、援軍を率いて真田勢に横槍を入れ、自ら首級数個を手に入れた。
という程度(それでも十分スゴいかも知らんが)で、決して一人無双状態ではなかったようです。
この娘の本当の剛勇は忍城ではなく東北の地で発揮されていたのです。
関東仕置き後、蒲生再生工場に預けられ会津に居た成田氏長、一万石の好待遇で福井城という城を任された。
葛西一揆、九戸の乱など、落ち着かぬ情勢の中、工場長と共に転戦を重ねる毎日だった。
留守を預かるのは氏長の妻にして太田三楽斎の娘、太田氏。
前妻の娘である甲斐姫との関係も良好で、城内には何の問題もないかに思えた。
しかし、城主氏長の留守を狙って、ある時謀反が起きる。
兵を挙げたのは何と、目付けとして蒲生から福井城に出向していた浜田兄弟。
自分達が謀反を起こさないかと見張りにつけられた、その見張り番が謀反を起こしたのだ。そんなコトは想定外だ。
不意をつかれた太田氏は無残に殺されてしまう。
慌てた留守居の者達は逃げ惑い、甲斐姫を伴って城から落ち延びる。
浜田兄弟は氏長や蒲生の援軍が来るまでに十分な迎撃の用意をするつもりであったし、背後には伊達政宗の援助があったとも言う。彼等に勝算はあったのである。
……ただ一つだけ、彼等兄弟に誤算があったとすれば、甲斐姫の存在であった。
甲斐姫は父の援軍など待ってはいなかった。
福井城を脱出した兵達をまとめ上げると、自らがその小勢を率い、敵の手に落ちた福井城にUターンを仕掛けたのである。
これは完全な奇襲だった。
勝手知ったる福井城。成田勢は縦横無尽に暴れ回り、甲斐姫自らの刀で義母の仇、浜田弟を討ち取り、首謀者である兄も手傷を負って捕らえられたと言う。
浜田兄弟の謀反が成功していたら、一揆鎮圧の軍から蒲生勢が外れる事になり、更にまーくんとの挟み撃ち……なんてコトにもなったかも。
東北情勢泥沼化の危機を救った甲斐姫の武勇のお話。
316:人間七七四年
10/02/28 14:03:35 cjkn1Xj9
>>314
医者の書いた本で読んだことがあるが
「入り口」(by水野春郎)のすぐ先あたりにある前立腺が直接刺激されるので
ぶっちゃけ女とやるより入れられるほうが気持ちいいはずだ、という話
(それ書いた人はちゃんと妻子のいるノーマルの人なんですが)
317:人間七七四年
10/02/28 14:07:21 kZUiiRtS
A感覚
318:人間七七四年
10/02/28 14:10:33 cjkn1Xj9
>>315
成田記だけはガチ
319:人間七七四年
10/02/28 14:13:08 0T5uYgAL
まぁ中国とかだととても人間がやったと思えないような逸話とか結構あるが、
その類だよなw>甲斐姫
個人的には師匠への持て成しに妻だか子供を料理して食わせたってあれが一番マジキチだと思ったw
320:人間七七四年
10/02/28 14:14:00 SGdGwizn
ブルガール人は中央アジア発祥のトルコ系遊牧騎馬民族で、5世紀後半にビザンツ帝国に侵入する事で歴史に登場しました。
やがて7世紀にはクブラートの手によって部族連合「大ブルガリア」を結成、ブルガール人の統一に成功します。
クブラートにはバトバヤン、コトラグ、アスパルフという勇敢な三人の息子がいましたが仲が良くありませんでした。
そこでクブラートは息子達に三本の矢を渡し、一本の矢は折れても三本の矢は折れないことを示して一族の結束を説いたといわれています。
(この話は大陸の騎馬民族にはよく出てくる逸話ですが、クブラートのものが遡れる最古のようです)
実際クブラートの息子は三人ではないし、結局彼の死と共に大ブルガリアは分裂してしまいますが、
ずいぶん遠くに源流のあったオチの違う話が感慨深く書き込みました。
321:人間七七四年
10/02/28 14:18:05 cjkn1Xj9
>>319
すごいといえば項羽本紀の項羽、リアル戦国無双そのもの
司馬遷はっちゃけすぎ
322:人間七七四年
10/02/28 14:25:03 iyENjrlt
漢王朝にチンコ切られたせいなのか知らんけど司馬遷は項羽大好きだからw
323:人間七七四年
10/02/28 16:19:50 DRtWnIfU
ある日、島津家久(忠恒)が民情視察と称して五、六人のみ引き連れ鹿児島城下に出かけた。
日も高くなったころ一行は橋端で休息を取り、家久も立ったまま桜島などボーッと眺めていた所、
一匹の子犬がやって来た。犬は家久の足を柱か樹だとでも思ったか、後足を上げてシャーッと
気持ちよくやらかした。
みるみる顔色が変わり大声を上げる家久に合わせ、小姓たちも騒ぎ立てた。
「おのれ、畜生が!斬って捨てい!」「飼い主はどこだ?ここへ引っ立てて参れ!」
(いかん、これでは飼い主の命も危ない!)
一行に加わっていた茶のみ婆さんの話(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))
でおなじみ、徳田太兵衛が突然笑い出した。
「アハハハ、神意も知らずに民情視察とは、チャンチャラおかしいわい!」
「なにぃ、わしが神意をわきまえぬと申すか!」
色めき立つ家久一行にも、徳田はひるまない。
「左様、神さまは犬をたいそう愛され、神意を下し「シャー」を許されておる。それを人間が怒るなど、
おこがましいですぞ?」
「そんな神意、聞いたこともないぞ!どんなものか聞かせてみぃ!!」
なおも言いつのる小姓に、徳田は続ける。
「ならば聞け。そもそも、犬は始めに三本足で造られた。しかし、それではあまりに不恰好で
歩行にも不便なので、神が哀れんで四本足にされたのだ。
以来、犬は神に感謝して、与えられた足を汚さぬよう片足あげてナニするのじゃ。畜生とは言え、
感心なことよのぅ。然るに、こんな礼儀正しい動物を殺すようでは、民情視察どころか…
「…徳田、もう良い!皆の者、行くぞ。」家久は小便袴のまま、スタスタと歩き出した。
324:人間七七四年
10/02/28 16:28:50 cjkn1Xj9
将軍綱吉がアップを始めました
325:人間七七四年
10/02/28 17:31:36 EWnGS4bv
鬼小島が勝負を受けてたつそうです
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
326:人間七七四年
10/02/28 21:01:48 b2FuxRTF
>>323
エノコロメシにされなくてよかったな
327:人間七七四年
10/02/28 21:34:38 ahjpanlK
>>323
こういうこと言えちゃう家臣がいるのがこの時代の面白いところだよねw
まとめ見てみたら寿桂尼の話が無い・・?
というわけで、ファンタジスタのおばーちゃん。
今日、女戦国大名と呼ばれる寿桂尼。
父は、当時歌人としても知られていた権大納言中御門宣胤である。
戦国時代、夫に代わって出陣したり、夫の留守中に城を守った女性は何人かいたが、
政務まで執った女性は、寿桂尼と播磨赤松氏の洞松院尼くらいだと言われている。
夫の今川氏親は、晩年の10年程は中風を患っていたため、その間、彼女が代わって政務を執り行っていた。
また、氏親死後、長男氏輝が後を継ぐが、氏輝は若年・病弱であったため、さらに2年程寿桂尼が補佐として政務をとった。
義元が家督を継いだ後、義元には雪斎という補佐役がついていたこともあって、
寿桂尼が表に出る必要はなくなり、ようやく彼女も穏やかな日々を送ることが出来るようになる。
この頃が今川氏の黄金時代。城中の女性達と香の遊びに興じたり、近くの湯山に湯治に行ったりして過ごしていたようである。
ちなみに、人質として駿府に来ていた実孫の北条氏規を大変可愛がっていたようで、湯治に行く際には一緒に連れて行っていたりする。
しかし、そんな穏やかな日々が、いつまでも続いたわけではなかった。
永禄3年、義元が桶狭間で織田信長に討たれるにおよび、
孫氏真と共に、今川氏の力を回復するため日夜奮闘しなくてはならなくなった。
そのまま、永禄11年3月に没したが、死に臨んで
「墓を駿府今川館の艮に建てよ」と、遺言したと言われている。
艮は古くから鬼門として知られている。死後も今川氏を守り抜こうとしたのであろう。
こうして、駿府今川館の艮の方角に竜雲寺が建てられた。
しかし寿桂尼の願いもむなしく、同年12月、武田信玄が駿府に侵攻。
今川氏真は駿府を守ることが出来ず、遠江の懸川へ落ちて行くことになったのである。
328:人間七七四年
10/02/28 21:42:46 Bbx0zdxm
>>323
徳田太兵衛かっけー
329:人間七七四年
10/03/01 00:47:53 CH2ZbeVq
>>325
鬼が島の桃太郎さん、じゃなかった鬼小島弥太郎さんは雉にまつわる逸話があれば完璧
330:人間七七四年
10/03/01 00:51:54 SrZXoN3S
そいつぁ記事になるな
331:人間七七四年
10/03/01 00:59:25 QgmybhDc
山田く~ん座布団2枚持っていって~
332:人間七七四年
10/03/01 11:21:14 5mZsE8Fl
家康の側室である阿茶局は才知溢れる女性であった
陣中では家康に供奉し、小牧・長久手の戦いではそのため流産し、奥向きの采配だけでなく、
隠密の御用にも関わっていた
家康の死後もただ一人落飾を許され、和子入内時には母代わりとして従一位を賜っている
さて、彼女の活躍でも白眉とされるのは大阪冬の陣での使者役であろう、この時に銃火激しい
大坂城へ向かう彼女の駕籠は
鉄張り
であったという
正しく「鉄の女」と言えよう
333:人間七七四年
10/03/01 11:55:44 S+mh/4vF
信長と衆道関係にあったっぽい顔ぶれを見ると、信長は受ける方を好んだような
気がしないでもない。
334:人間七七四年
10/03/01 12:06:06 uSiQZjPm
>>332
鉄張りの駕籠って、大事にされてたんだなとは思うが、
才知とか胆力みたいなものとは無関係な気がする。
335:人間七七四年
10/03/01 12:53:12 F3Lf5iDy
駕籠かき「弾雨の中を駕籠で進むなんて、無茶ですよ!」
阿茶局「こんなこともあろうかと、駕籠を鉄張りしておいた」
才知あるよ!
336:人間七七四年
10/03/01 13:15:52 wSAKTwBP
駕篭かきは通常装備なのかねw
337:人間七七四年
10/03/01 15:17:34 zLXQb8fT
>333
衆道関係にあったのって蘭丸と利家以外にいるの?
338:人間七七四年
10/03/01 16:17:19 SIySmtNS
でも鉄張りの駕籠って言っても気休めだよね?
そんな分厚い鉄板を使ったら、駕籠かきがとても担げないもんなぁ。
局が勇気あるのは確かだ。
339:人間七七四年
10/03/03 18:42:03 rSh3AHBA
駕籠かき撃たれたらどうすんのよ…
340:人間七七四年
10/03/03 18:48:45 0aPwZwf6
さすがに最前線まではいかないだろうから
流れ弾や流れ矢を防げれば十分なんだろうな。パフォーマンス的にも。
341:人間七七四年
10/03/03 18:54:29 Lo9MpOSd
何か西日本制覇した大内が
立花道雪、島津義弘、小早川隆景
とかで攻めてきてこっちは武田攻めしてたから
取り合えず室町御所に居た
加藤清正、森長可、佐久間盛政他で出陣したら
清正死んだあいつら強すぎだろ
342:人間七七四年
10/03/03 18:55:27 Lo9MpOSd
誤爆申し訳ない
343:人間七七四年
10/03/03 19:19:34 CMNQa+4r
鬼二人に虎でも勝てなかったのか
344:人間七七四年
10/03/03 19:23:56 gcU1exN2
徳川家康が本多忠勝等と共に二股城を攻めに行った時のこと、
徳川十六神将の一人内藤正成は、足が痛む為に留守番として浜松城を守っていた
ところが城を出た家康等は夜中に激しい風雨に見まわれ、引き返さざるを得なくなった
そのため本多忠勝が使いとして城に先に戻り
「殿が帰城するので速やかに開門するように」と言ったのたのだが
城内の正成に城門を開ける様子は全くない
忠勝が城門をドンドン叩き
「殿が帰ってきます!!早く門開けてください!」と
叫ぶものの内藤はこれを完全に黙殺
やがて内藤は櫓に登ると門前の忠勝にこう怒鳴った
「こんな夜中に殿が帰ってきたなどと嘘をついているのは誰だ、騒がしい。
そこを退かねば撃ち殺すぞ」
そう言って忠勝に銃口を向ける始末
このままじゃ殺られると慌てる忠勝
そこに家康が追いつき、「家康本人だけど、入れてくれ」と言うが
「声は似てるが本当に殿か?」と疑い、中々信じてくれない
結局家康の顔を照らしてしっかり目視で確認し、ようやく城門は開いたのだった
この正成の用心深さを、家康は
「お前のような頑固な人間が留守を守ってくれるなら、
敵がどんな策を使ってきてもやすやすと城には入れないだろうから
安心して外に出られる」
と褒め称えたという
345:人間七七四年
10/03/03 19:29:20 gDoCcDWF
>>344
本多忠勝から娘に引き継がれるんだな
346:人間七七四年
10/03/03 21:50:39 6kaXON6L
>>344
褒め讃えているような皮肉っているようなw
347:人間七七四年
10/03/03 22:22:53 tQ79DWDb
>>346
三河者にとって最大の皮肉は褒められることだとちょっと思った。
348:人間七七四年
10/03/03 22:35:49 a9xnsj/R
どっかで読んだと思ったらこれだった
内藤信成、城の留守番・いい話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
正成と信成の違いがあるが、伝わるうちに誰かが書き間違えたのだろうか
349:人間七七四年
10/03/03 22:55:59 Tr740bri
行く全ての城で同じ待遇を受けたに違いない。三河的に考えて
350:人間七七四年
10/03/03 23:03:35 nBAQiwjI
鯖復帰記念にほんの小ネタ。
侍のヘアスタイルのイメージとして一般的となっている月代を剃った姿は、
戦国時代中期から広まった。
だが、これをカミソリで剃って形作るようにしたのは、戦国時代後期の織
田信長だと言われている。
それまでは毛抜きで抜いていたので、痛いやら頭皮に血がにじむやらで不評だったが、
カミソリで剃ることで日常的にできるようになったんだとか。
351:人間七七四年
10/03/04 00:57:18 aWzpZgRM
柳田國男に見る戦国時代
「加藤清正、河童王九千坊を退治するの事」
九州の古伝承に登場する、九千坊〈クセンボウ〉という大河童がいる。
遥かな昔唐土の地より渡り来たといわれ、
筑後川の流域を拠点とし、九千の同胞の頂点に君臨したとされる、
西国一の河童の王である。
ところが、数百年と続いた九千坊の栄光の日々に、
ある日唐突に終焉が訪れた。九千坊の配下である八代川の河童が、
ある日ほんの気まぐれで人間の子供を溺れされたのだが、
この子供というのが実は肥後熊本の鬼将軍、加藤清正の小姓だったのである。
果たして鬼将軍は嚇怒した。
「片鎌槍を持つね!」
「はっ!」
清正配下の勇将たちも奮い立った。
化外の民とはいえど、相手は9000もの軍勢を擁するのだ。
まさに人と河童の大戦が始まる、とみなが思った。
ところが清正の次の言葉は、兵を呼集を命じるものではなかった。
「猿を集めるね!」
「は?」
清正は領民たちに大令を発し、領内全域から 猿 を集めさせた。
あまり知られていないと思うが、このあたりの一部地方の民話の設定では、
河童というものは猿が大の苦手で、
猿を見ただけでフリーズしてしまうことになっているのである。
「出陣じゃああああああ」
「キー!キキー!キキー!」
「あ……はい……行ってらっしゃいませ……」
果たしてハイテンションの清正は猿の大群を率いて筑後川に突撃していった。
驚いたのは九千坊と九千の河童軍団である。
河童たちはもちろん迎撃の準備を整え、
ることなく、全力でびびった。
「勝ち目なくね?」
「鬼将軍怖すぎじゃね?」
「猿嫌い超嫌い」
この同胞たちのふがいなさに、河童王九千坊もまた大激怒し、
長広舌の演説をふるって同胞に発奮を
促さなかった。
九千坊もびびっていた。
兵を率いるどころか、この矮小なる河童の王は知人の僧に仲裁を頼んだ。
結局九千坊は外交僧のとりなしのよきを得て一戦も交えることなく清正に降伏、
「河童一同、二度と人間様に危害は加えません」との誓いを立て、
ようやく鬼将軍清正の許しを得たという。
352:人間七七四年
10/03/04 01:05:15 aWzpZgRM
ちなみになんで「西国一の河童」かというと、
実は利根川流域に東国の河童を率いる祢々子と呼ばれる最強の女河童がいて、
九千坊は彼女にぼっこんぼっこんに負かされたことがあるからです
353:人間七七四年
10/03/04 01:12:32 ZXhr1Tse
河童の正体はやっぱり川原に住んでる人たちなんだろうか
354:人間七七四年
10/03/04 01:13:45 FuLyirsS
小田氏治「不甲斐なき河童だのう、勝とうという意思さえあれば百戦百勝だというのに……」
355:人間七七四年
10/03/04 01:19:18 aWzpZgRM
>>353
豊臣秀吉の倭寇退治を
極限まで戯画化した結果としてこういう話になったんじゃないかという説もある
356:人間七七四年
10/03/04 01:21:40 ZXhr1Tse
>>355
ってことは猿=秀吉で秀吉の威光に恐れおののいたのか
357:人間七七四年
10/03/04 01:23:52 lqbrK2+A
悪い話スレで出てたミカジメ料払うことになったヤツと言い戦国は河童受難の時代だのうw
358:人間七七四年
10/03/04 01:49:55 VR16abjJ
剃刀等で剃った場合はまた生えてくるけど、
抜いた場合はそのうち生えなくなるみたいね。
抜いてるうちに月代の部分だけ髪が生えなくなるんだろうか。
359:人間七七四年
10/03/04 01:50:38 VR16abjJ
>>358は>>350宛てです申し訳ない
360:人間七七四年
10/03/04 02:09:52 qdjFUejF
いにしえより大河に棲み付く人知を超えた存在であり、
人間の恐怖と崇拝の対象であったはずの河童が、
サルを連れた侍にコテンパンにされるほど落ちぶれ、戯画化されてしまった。
もう誰も本気で怖がったりしない。
神仏や妖怪のたぐいがそこらじゅうに存在して、人々の意識を支配していた南北朝・室町時代とはえらい変わりようだ。
昔から疑問だったが、室町→戦国→江戸の短い期間に、
何で人間の意識がこんなに変わったのかね?
361:人間七七四年
10/03/04 02:19:55 aWzpZgRM
民俗学の観点からは、下々の村々にまで治水が行き届くようになって
近在の水辺が根源的恐怖を催すほどの脅威ではなくなったことの反映でないかと言われてる。
堤防工事が完璧に行われてた地域と、それほどでもない地域で
それぞれの河童譚を収集すると、前者の地域のほうがより戯画性が高く、
後者においてはまだ自然神的性向をとどめている例が多いとの研究もある。
362:人間七七四年
10/03/04 02:40:05 xIWFpWTY
室町後期くらいから人間が自然を征服し始めるんだよね、日本でも。
江戸前期に至ると日本中の土地を掘り返す勢いで河川改修やら新田開発やらやってる。
その過度の開発による自然破壊が、いわゆる生類憐れみの令の原因になったと言う説もあるほど。
363:人間七七四年
10/03/04 03:25:50 aWzpZgRM
信濃の黒姫伝説
「高梨政盛、娘をドラゴンにもってかれるの事」
高梨氏は北信濃の古い豪族である。
政盛はその最盛期の当主で、越後の長尾家と縁戚を結んで力をつけたので、
上杉謙信の大叔父だったりもする人だがここではそれはあまり関係ない。
政盛には美しい娘がいた。信州一といわれた、それはそれは美しい娘であった。
名を、黒姫という。
美しい黒姫には当然縁談の求めが絶えなかったが、求婚者の中にちょっと風変わりなのが混じっていた。
沓野奥四十八池の総大将、志賀高原の大沼池のヌシたる大蛇、黒龍である。
黒龍は姫の噂を聞きつけ、その姿を垣間見んとて蝶に変じて姫のもとに忍び込んだのであるが、
たまたま蝶を見つけた姫に微笑みを向けられ、一発でフォーリンラヴしたものであるという。
黒龍は今度は若侍の姿をとって高梨城を訪れ、しかし堂々と大沼池の黒龍であると名乗りをあげ、
どうか黒姫を妻にいただきたいと願い出た。城主高梨政盛以下人間たちはパニックに陥った。
蛇なんぞに娘を嫁にやるなどとんでもないが、しかし神たる相手を怒らせて、
洪水でも起こされたらたまらないからである。そこで政盛は一計を案じた。
「あなた様が神なのはわかりましたが、しかし娘は人間であります。
人間のままでも娘を守っていただけるというのなら嫁に出しましょう。
今のその姿のまま、馬で走る私に合わせて、城を二十周走ってみせてください」
黒龍は応諾し、政盛の馬を追って走り始めた。
実はこれは罠であった。城の周りにはささらのごとく刃が仕掛けてあり、
罠のありかを知っている政盛はこれをなんなくかわしたが、黒龍は幾度となく刃に身を裂かれた。
しかし、どれほど傷ついても、黒龍は諦めない。人間の姿のまま、血にまみれながら、
とうとう二十周を走りぬいた。
「これにて、約束通りにござる。姫を頂きたく」
「なんの。畜生ごときが我が娘を嫁にするなどと、身の程を知れっ」
政盛は身勝手にも約束を反故にし、刀を抜いて黒龍に斬りつけた。
深手を負い、さしもの龍もついに切れた。
「なんと。たばかりおったか人間め、これは許せぬ」
巨大な黒い龍神の本性を現し、咆哮をあげて龍は飛び去る。
その場に飛び込んできたのは、一部始終を見ていた黒姫その人であった。
黒姫はものすごい剣幕で父親を罵倒した。
「父上、なんということをなさいます!彼は約束を守ったではありませんか!
彼が約束を守られた以上、わたくしはあの方の妻となるのが筋目というものではありませんか。
それをこともあろうに斬りつけるなど、それが人間のやることですか!」
黒姫は、いつしか黒龍の想いにほだされていたのである。
しかしそんなことは知らない黒龍は、怒りに我を忘れて暴走し、
人類など滅ぼしてくれんという勢いで暴風雨を巻き起こしていた。
高梨家の領地はまさに水没しようとしていた。事態を収拾すべく飛び出したのは、またしても黒姫。
黒姫は荒れ狂う竜神に向かって叫んだ。
「黒龍さま!わたくしは、あなた様の妻となります!あなた様のもとに参ります!」
嵐はピタリとやんだ。
ところが黒姫は、おずおずと自分の前にやってきた黒龍に対しても説教を始めた。
「お怒りになる気持ちはわかります!ですけど!悪いのは私の父でしょう!
田畑を荒らされた百姓たちに何の罪がありますか!反省なさい!」
人間の娘の説教に対し、龍神は涙を流して、怒りに我を忘れた己の非を詫びた。
黒姫はそのまま黒龍の背に乗って飛び去り、二度と高梨の城へは戻らなかった。
ふたりが幸せな暮らしを送ったとされるその場所は、今も黒姫山の名で呼ばれている。
364:人間七七四年
10/03/04 03:33:07 aWzpZgRM
この話は信玄と争った世代である政盛の孫の政頼のものとされることもあります。
話の筋自体もドラゴンとの戦いで高梨城が焼け落ちて高梨氏がいきなり滅んだり
黒龍も黒姫も死んでしまう話だったりすることもあるんですが
このパターンが一番美しい……まあ肝心の政盛は完全にダメな悪役にされてますが。
365:人間七七四年
10/03/04 04:53:08 /mEk8Ill
黒龍が黒姫の尻に敷かれたのは言うまでもない
366:人間七七四年
10/03/04 04:54:07 hvsJ1KyB
>>361
そういや清正は治水名人だったな。
その説に妙に納得した。
367:人間七七四年
10/03/04 06:52:16 spqkNLyh
>>361
河童って水死体の象徴的にあらわしたものだっけ?
368:人間七七四年
10/03/04 09:07:12 a5gOwYkg
>>363
まんが日本昔話になってなかったっけ?
見たような記憶がある
369:人間七七四年
10/03/04 09:11:58 FvVmLSyM
唐土より来た河童ということは
渡来人系の人たちが大勢流入してきて河原周辺に住みついて
河原者になっていた、ということでは無いだろうか?
猿というのは猿の化身である日吉山王権現(比叡山)勢力の
力を借りた、とも考えられると思う。
加藤清正は延暦寺の石垣を築いた石工集団穴太衆を多く召し抱えているし。
370:人間七七四年
10/03/04 09:49:13 rFKhA8ub
加藤家改易後に肥後に入国した細川忠利が、清正の廟所がある本妙寺へ行き、
「あなたのお城を預からせていただきます」と言ったという逸話は有名だが、
これは単なるパフォーマンスでもなかったようだ。
清正は熊本城を築城した際に、同時に破損しやすい柱・梁の予備資材を作らせて
資材の一本一本に「この木材は本丸のこの部分の柱に用いるべし」と目印をつけ、
それを熊本城の堀に水中格納していたという。
371:人間七七四年
10/03/04 11:58:03 9kDUdjlZ
う~む、清正って拳闘強いだけの男じゃなかったのね
372:人間七七四年
10/03/04 12:07:42 KqyCOCGT
水中格納ってスゲーな、木材は水に強いし、もし火事があったときに燃えてしまわないようにの対策か
373:人間七七四年
10/03/04 12:15:36 fS74Ha3g
熊本で土木学んでいるとどこにいっても「また清正公か」って感じだな
水道の人の話を聞いたことがあったんだが、熊本ってのは地下水が豊富でそいつを水道に使っている町なんだ。
その豊富な地下水は阿蘇から流れる白川流域にある田畑から水が地下に溜め込まれるおかげで、
その田畑を拓いたのは清正公のやったことだ、とか。
熊本には白川って川と坪井川って川が流れてるんだけど、昔は途中で合流して災害の元になってたらしいんだが、
そいつを堰で区切って交わらないようにしたのは加藤清正だとか、
佐賀にインターンシップに行ったときは似た感じで「また成冨兵庫か」って感じだった。
全国津々浦々に土木の有名な武将がいるのかねと思うと、ちょっと興味深い
374:人間七七四年
10/03/04 12:20:54 /mEk8Ill
土建四天王どころか土建二十四将も夢じゃないな
新ジャンルおめでとう
375:人間七七四年
10/03/04 12:24:05 qY/fg00J
田中角栄先生は
376:人間七七四年
10/03/04 12:38:13 BM6W/E63
>>351
ペルシャ軍が猫を引き連れてエジプト軍を破った話を思い出した。
377:人間七七四年
10/03/04 12:49:29 K6kkQt9e
前から思ってたんだが、武将が戦上手だってのはそりゃそういう職業だから解るんだが
築城名人だの土木事業の達人だののスキルはどうやって獲得したんだ?
誰か師に付いたのかそれとも完全な独学なのか
378:人間七七四年
10/03/04 13:13:17 vLLkdR2n
村単位で城作ってる時代だぞ
それに常に攻めたり守ったり修繕したりするんだから技能持ってる人はうようよいるでしょ
名人や達人はその中で特に優れてるだけで
379:人間七七四年
10/03/04 13:44:01 byStucs1
清正は関ケ原後の身の振り方考えても外交能力も高いと思う
何気に徳川家との縁談も重ねてるし
380:人間七七四年
10/03/04 13:55:14 QE3s5wfI
賤ヶ岳の戦いが終わった時。
柴田家家臣の佐久間安次&実政兄弟は紀州に逃れ、秀吉に抵抗した。
紀州が降伏すると、今度は小田原まで逃げた。
北条までもが滅び、秀吉によって天下が統一されると、二人は世を捨てて僧になるつもりでいたのだが、
「亡き伯父、勝家に義理立てをしてここまで秀吉に逆らったのは見事である」
として秀吉は二人を助命。蒲生氏郷に仕える事となった。
そんなワケで二人が氏郷に仕官の挨拶に行った際、畳の縁に躓き、コケてしまった。
その場にいた面々、ドッと笑ったのだが、ただ一人氏郷のみは
「この兄弟は共に畳の上で奉公する武士ではないのだ。そなたらの奉公と彼等を比べるべきではない」
と一同を叱り付けたという。
この兄弟はまとめブログにある「蒲生再生工場・練兵編」の佐久間兄弟と同一人物?
こないだ犬千世で似たような話が出てたし、テンプレになってんのかな?
381:人間七七四年
10/03/04 14:45:35 U4ebZsAY
>>380
二人ともこけたのか?w
382:人間七七四年
10/03/04 16:59:21 IGDRmuWG
妖怪譚の流れがおもしろい。民話っていいね
>>363
りゅうの目のなみだっていう絵本を思い出したんだがw
383:人間七七四年
10/03/04 17:01:21 M74+owsH
>>373
熊本で清正(熊本では「せいしょこさん」)って言ったらガチで神様だからね。特に熊本市内は余計にそうだろう。県の端っこの方に俺は住んでるけど、そこらへんは神様、ってまでは流石にいかないんだけどね。
暴れ川だった白川、坪井川(菊池川、緑川も同様に)の堰を造ったのも確かに清正だから、ちょっと強引に解釈すれば田畑を拓けたのも清正のおかげとも言えるし。
戦国時代以前に勢力張ってた菊池氏が衰えて以降、有力な大名が出てこなかった(城、赤星、隈部ら有力国人程度ならいたが)のもあって、荒れてた肥後を極端に言えば救った人間だからなあ。
384:人間七七四年
10/03/04 17:14:55 qdjFUejF
>>377-378
しかし、縄張りが優れているとか劣っているとか
昔の人はどうやって見分けたんだろうな・・・
実際に攻め込まれて、敵を撃退したら縄張り上手ってことになるのか?
385:人間七七四年
10/03/04 17:44:43 PDiWa44U
>>380
鬼玄蕃盛政の弟の事かね
安政・勝之の呼び方の方が有名な気もするが
386:人間七七四年
10/03/04 18:15:36 KGjRQfAN
空気読まずにスマン。
まとめ読んでて思い出したんだが、
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
増田盛次は藤堂家臣磯野平三郎に討ち取られたわけだが、当初は誰なのか解らなかった。
そこへ増田家に仕えていた老女が噂を聞きつけて尋ねてきた。
老女の話と、その若武者が身に付けていた武具が一致した為、ようやく身元が解った。
磯野は老女に盛次の形見として短刀を与えたと言う。
で、藤堂家でこの一件についてこんな論評があった。
甲「あれほどの勇士なら最初から討死は覚悟してただろうね。
それなのに、武器や甲冑、羽織の裏に名前を書いてなかった。
若いから興奮してて、細かいところまでは気がまわらんかったのかな?」
乙「盛次の立場になってみろよ。父の長盛は幽閉されていたんだぞ。
自分が大坂方について討死したと知れたら、長盛は徳川家に死を命じられる。
だから大坂方へつきながらも名前をだせなかったんじゃね?」
甲「なるほど。親孝行者だなあ。でも、長盛は自殺させられてるし。結局、ばれたんだな」
乙「大坂の陣が起きる以前には真田父子や長宗我部さえ助命されてる。
けど、豊臣が滅亡しちゃえば、もうジャマものはない。長盛やっちゃっても誰も文句いう奴はおらんからな。
ぶっちゃけ息子が大坂へ入城しようがしまいが殺されてたと思うよ。
そのあたりは若い盛次には読めなかったんだろうね。でも父を思う心は尊敬するよ」
『元和先鋒録・附録』より。多分、記録者の論評。
387:人間七七四年
10/03/04 19:48:54 DiK8u/X/
>>383
今、熊本県立美術館で「日本の祈りと縁起物」って催しやってるんだが、
そこに清正公をモチーフにした神像が展示してあったよ。小さかったけど。
清正公信仰っていうのがあるんだな。知らんかったわ。
388:人間七七四年
10/03/04 21:21:27 Q0bIQvje
井伊直孝は他家に贈物をするとき必ず自分で確かめてから
贈るようにしていた。
他家から礼儀のなっていない贈物が届くと、直孝は自分の
贈物係りに贈られてきた物を見せて
「見ろ。このように礼儀がなっていないのは係りが勝手にやった
からだ。贈主はこんなことになっていようとは知らないのだ。
家来が主君を思っていないとこういうことになる。お前も気をつけろ」
と言って注意を促したという
389:人間七七四年
10/03/04 21:30:51 K863Dgry
井伊話だ
390:人間七七四年
10/03/04 23:12:04 V/tgllvx
一方武田信玄は信長から届いた漆器をかち割って
「うむ、心が籠もっておる」と満足した
391:人間七七四年
10/03/04 23:34:20 qdjFUejF
>>388
他家から無様な贈り物が届いても、
「何だ島津家の家久は。こんなもの贈ってきて全くしょーがねーやつだな」
などと短絡的に考えずに、贈り主のせいじゃないと、理性的に対応するのはさすがだ。
逆に、相手に進物を贈る時は、その内容で井伊家と直孝が判断されてしまうことも良く分かっていて注意している。
392:人間七七四年
10/03/05 00:34:44 iEPzBvdn
一方吉川元春は礼儀のなってない贈り物を礼節のために我慢して食し、死亡した
393:人間七七四年
10/03/05 00:44:44 IEYEF8EX
一方元親はクジラを贈り物にした。
394:人間七七四年
10/03/05 00:59:18 vZUR1baG
意外にこの話が出てないようなので投稿してみる
大阪冬の陣のこと
前田利常は丘陵地に陣を張り前田隊の指揮をしていた。が、真田丸からの激しい銃撃が有り、
家臣たちは利常に万が一があっては大変と、陣を銃弾の届かない丘の陰に移すよう進言した。
が、この頃の二十歳の利常は、初陣と言うことも有り血気盛んであり、危ないなどと言われて
引き下がるものではなかった。彼は家臣たちの進言を完全に無視し、丘の上に居座った。
そうしている間にも真田丸からは銃弾が飛んでくる。どうしたものかと家臣たちが
困り果てているところに、山崎長徳がひょっこり現れた。
「へーくしょん!」
利常の側まで来ると長徳、大きくくしゃみをした。利常怪訝に
「どうした長徳、風邪か?」
「いやいや失礼いたしました。、しかしここは風が冷たい上に強くて、こんな所にいては
拙者のみならず殿まで風邪を引いてしまうかも知れません。
しかし戦はまだ序盤でござる。こんなところで風邪を引き、いざ決戦と言うときに間に合わなくなれば
これ以上の恥はありません。どうでしょう、風の当たらぬ丘の陰へと移動いたしませんか?」
利常これを聞くと、「ふむ、確かにその通りだ。」と、長徳の言葉に素直に従い丘の陰へと
陣を変えたとのこと。
前田家中の面々、この長徳の忠告の仕方に甚だ感心したとのことである。
395:人間七七四年
10/03/05 01:12:16 iEPzBvdn
ボンボンの世話ってたいへん
396:人間七七四年
10/03/05 01:13:27 YmSzup4c
>>394
全く同じではないが似た話が徳川秀忠にあるよな
397:人間七七四年
10/03/05 03:14:00 NJwzNmGt
>>363
日本の神様ってギリシャの神様に比べて慎み深いなw
398:人間七七四年
10/03/05 03:18:13 ToaLd4fo
>>396
若殿はこういうところで意地を張って威厳を保たなければならないのね。
399:人間七七四年
10/03/05 08:46:59 bOi0jnyi
三斎様ですら若い頃に突進して額に大怪我負ってるからな
400:人間七七四年
10/03/05 09:02:19 7GnplPqB
>>390
贈り物より入れ物の漆塗りの丁寧さに目を向けると言う発想って凄いよね
401:人間七七四年
10/03/05 09:05:24 3taT0bTW
それを見越して器を選んだ信長が凄い
402:人間七七四年
10/03/05 10:06:59 NJwzNmGt
>>400
でも、この話って信長の本質を見抜いて諫言した信玄の家臣が一番えらいよねw
403:人間七七四年
10/03/05 10:16:22 MrN9TDNa
信は鼻紙は忘れても脇差を忘れない男だから油断できんby内藤
のことか?w
404:人間七七四年
10/03/05 11:13:43 fum/TA8Y
>>398
あー、その考えなかった。
若殿は無茶や意地をはらないと家臣から舐められる可能性があるのか。
唯々諾々と家臣の指示に従ってると、威厳なくなるかもしれんもんな。
若殿は意識して無茶をやっていたのか(そうでないのもあるのだろうけど)。
405:人間七七四年
10/03/05 11:39:58 imhHPV5e
臆病者って思われたら将としてやっていけないからな。
率先して逃げられるのは信長くらいなものじゃないか。
406:人間七七四年
10/03/05 11:51:20 6zU1TLJ9
仙石もやった
407:人間七七四年
10/03/05 12:15:19 VfsZ+5G+
仙石って周りからどう思われてたんだろうな。
特に大名復帰した時期とか。
408:人間七七四年
10/03/05 12:45:16 3taT0bTW
長蘇我部のバカの暴走のとばっちりを喰って
失脚した可哀想な人とか?
409:人間七七四年
10/03/05 13:11:28 Fp3kuqd3
目上の人には「よく頑張って復帰したね」と賞賛もされたかもしれんが、
同じくらいの立場の人には嫉妬半分で
「全身鈴だらけで戦うって、何だよ、そのあざとさは」とか
「すっかり徳川に鞍替えかよw」
とか言われてたと予想。
410:人間七七四年
10/03/05 18:11:30 Lhh9y6m1
「しょせん、復帰できたのは殿下のお気に入りだからだろ」ぐらいは言われてた筈
411:人間七七四年
10/03/05 18:20:42 1kSrD8vZ
妄想だけなら何とでも言えるわな
412:人間七七四年
10/03/05 18:51:55 03YvOZWd
北条早雲と6人の友の逸話を見て思い出した侍の話を投稿してみる。
明智光秀の義弟として知られている明智孫十郎
彼は旧姓を恩田といい、若かりし頃は武者修行をしながら諸国を渡り歩く浪人だったそうな。
で、同じく浪人をしていた明智光秀と意気投合。彼とある約束を交わす。
その約束とは「どちらかが立身出世したら、もう一人を取り立てる」というもの。
織田家に仕えることとなった光秀はかねての約束通り孫十郎を家臣として迎えいれ、孫十郎も
これに従い、以降は明智孫十郎と名乗って光秀に従う。
そして本能寺の変。
首尾よく信長を自害させ、続いて二条御所へと足を進める明智勢。
今こそ旧友・光秀の恩義に報いるときと思い立った孫十郎は二条御所攻めに先鋒として突入。
主君を手にかけ、その嫡男に刃を向けている後ろめたさと、知らずのうち謀叛に加担したという事実で動揺する組下を叱咤激励しながら
自ら槍を奮って奮戦する。
一方、信忠勢もここを死に場所と見定めての防戦に務め、乱戦の中でついに孫十郎は討ち取られる。
友との約束に殉じた男、明智孫十郎。二条城跡には彼が最後を迎えたという場所に石碑が残っている。
413:板倉重矩
10/03/05 22:07:56 QYuRd/Dj
病気の者は療養中は医者に頼り、友として過ごすものだ。
が、回復すると逆に医者を嫌って遠ざけてしまう。
戦国時代草創の君主と家臣はこれと似ている。
君主は最初、必要に迫られて親しく家臣を使う。
しかし、目的が遂げられると家臣がうるさくなり遠ざけてしまう。
一方、家臣は家臣でおのれの功を誇り、恩賞の不満を訴えるので
終わりをまっとうできないことがほとんどだ。
君主も家臣もこのことをきちんと心に留めなければいけない。
414:人間七七四年
10/03/05 22:51:19 ci+e//Eh
>>413
その辺りの機敏を心得て身を引いた人に張良が居るけど、
戦国日本でこういう人って誰かねえ
415:人間七七四年
10/03/05 23:02:35 mF42Exgl
>>412
>「どちらかが立身出世したら、もう一人を取り立てる」というもの。
早雲や堀秀政・直政の例を鑑みるに、この手の逸話はあちこちに埋もれてるのかもね。
なんか一種のテンプレと化している気がする。
416:人間七七四年
10/03/05 23:10:44 06h0K1pA
>>414
黒田の大殿とめんどくさい家臣団
一人若殿時代にドロップアウトしたし大殿自身は上に疎まれ気味だったけどw
417:人間七七四年
10/03/05 23:18:10 Qjk10Ifx
字の巧い四天王の人は関ヶ原後に身を引いた説があるね
この人は兄も信康事件に後悔して隠居したんだっけか
418:人間七七四年
10/03/05 23:37:34 GajkJZ2U
望めば相当な地位を得ることが出来たのに、
それを拒否して引退っていうのも簡単に出来ることではないよな。
まぁ某佐渡守が要職に就くのを妨害したって説もあるけど。
419:人間七七四年
10/03/06 00:31:39 NYYWfN6W
>>414
本多正信とか?息子でだいなしだけど
420:人間七七四年
10/03/06 00:41:40 jsh5s4xD
一族郎党を養わなきゃならんってのもあるしねえ。
張良も、孤児で一族がいなかったから、個人の思惑で好きに生きれたってのもあるし。
421:人間七七四年
10/03/06 00:50:15 NYYWfN6W
大久保彦佐衛門が最晩年に加増を断ったって話もどうなんだろうね
三河物語を読む限り、絶対に泣いて喜ぶ人だと思うのだけどな
422:人間七七四年
10/03/06 01:06:29 kmH+I2+N
>>414
敢えて言うなら柳生宗矩。
自分は政治能力あったから活躍したけど、息子はないからただの剣術指南に格下げしたあたりとか。
423:人間七七四年
10/03/06 06:26:38 STPEOhCn
>>415
そういう取引しないと協力が求められないからじゃないかな
一族とかいないで裸一貫からのし上がるためには
424:人間七七四年
10/03/06 10:10:47 xgEf1Oid
昨日カーチャンの誕生日だったので、本日は車でスパリゾートに連れて行って
帰りにちょっとゼイタクな食事をして来る予定。みんなはどうだい?
井伊直孝は日頃からURLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)といった厳しい環境に
身を置き、食事も一汁一菜で満足していた。
その日、帰宅した直孝が夕食の膳に向かうと、いつもの飯・味噌汁・香の物の他に焼き魚が乗っていた。
夜叉掃部は激怒した。
「なんだ、これは!いつもの膳はどうした!この魚は、いったい何の奢りの沙汰じゃ!!」
呼び出された台所番は、青い顔をして弁明した。
「い、いえ!それがしも殿の命に逆らう気はございませぬ!その魚は先刻、殿のご母堂様より
頂戴いたしましたので、膳に加えた物にございます!」
「なんと、母上が・・・それを早く言わぬか。」
直孝の母は、“赤鬼”井伊直政の侍女、あるいは農家の娘であったとされる貧しい出身で、
大名の母となった後も直孝以上のつつましい暮らしを送っていた。
そんな女性が、息子の栄養を心配して、たまの贅沢にとわざわざ買い求めたというのだ。
直孝は台所番を下がらせると、膳を押し頂いて頭を下げた後、ゆっくりと焼き魚を平らげた。
425:人間七七四年
10/03/06 10:34:39 mGK0HS2U
それって平和な時代だから質素な食事で足りるんだろうけど
戦となればエネルギー消費激しいからたっぷり食わないと体もたないと思うが
味噌汁の中には具がいっぱい入ってるちゃんこ鍋みたいのだと信じたいw
一汁一菜じゃ体もたんだろう
426:人間七七四年
10/03/06 10:46:01 3/dT73wN
でも幕末の下級武士の超絶質素な生活で超人的な活動してるやついるからな
江藤とか謹慎時代に収入一切なくて一時期山の木の実食って生活してたくらいだおw
他にも食うや食わずで修行して大成した学者もごろごろいる。
つくづくあの時代の日本人ってすげぇよ。
427:人間七七四年
10/03/06 10:49:03 t/GeMoFA
直孝の母親って、息子を認知してもらうために自害しただか、直政に殺されたって話なかったっけ?
そう言えば、井伊直政って恐妻家って言われるけど、具体的なエピソードは直孝絡みの話以外にあるのかな
428:人間七七四年
10/03/06 10:54:52 Zo/ZJdkY
>>424
直政は、直孝を息子として認める代わりに、母親に死ぬように条件出したような
正室に気を使っているので
429:人間七七四年
10/03/06 10:58:54 Y17feInD
じや、正室の話なのかな。
身分絡みの注釈に矛盾は出るけど。
430:人間七七四年
10/03/06 13:24:46 yJ4gHpGm
つうか母親のことは、ほとんどよく解ってないんだよな?
431:人間七七四年
10/03/06 13:32:41 C3pthBD+
色々な説が出ていたはず
432:人間七七四年
10/03/06 13:45:42 +V7Pac4Z
フランシスコ・ザビエルが来日した当初、薩摩の国にて布教を始めた。
その当時、薩摩で一番の高僧であり、島津家の菩提寺の住持を忍室と言ったのだが、この人は善良で聡明な人物であり、ザビエルと親しく友人と
して付き合いがあった。
この忍室、禅宗の僧侶であった為、彼の寺院では修行として座禅を行っていた。
ある時ザビエルは、修行僧が並んで黙想しているのを見て、
「彼等は何をしているのですか?」
と忍室に尋ねた。
忍室答えて、
「彼等の内、ある者は信者からの寄進がいくらあったのかを計算しており、ある者は自分がもっと良い待遇を得るにはどうしたらいいのかを考えて
おります。またある者は暇つぶしにどーしよーもない事などを考えており、まぁ、要するに、コイツらは皆、どーしよーもない事ばかり考えている
のですよww」
また、ザビエルが「あなたの青年時代と老人になってからと、どちらが良い時代ですか?」と尋ねた。
忍室答えて、
「青年時代ですね。青年時代は海のど真ん中に漂う船の様で、どこに行けば良いのか判りませんでした。しかし老人になって港に落ち着いてからも、
どこの港に行くのが正解だったのか、私には判らないのです」
この様に聡明な人であったが、所詮は邪教の司祭。結局は自分の利益のみを考えて改宗しなかった為に地獄に落ちたのである。
(出典:日本史/ルイス・フロイス)
えーっと、修行僧達の悪い話と、忍室&ザビエルの良い友人関係の話、尊敬するザビエルの友人であろうと異教徒は全て悪と言
い切るフロイスの悪い話、どれが正解?(^^;
433:人間七七四年
10/03/06 14:15:55 LkU2RgHG
フロイスにこれを聡明と認識する理性があったとは驚きだ
434:人間七七四年
10/03/06 14:50:07 Lra6yolj
>>425
江戸時代までは一日に玄米を4~5合食べたというから
一汁一菜といっても栄養価はそれなりだったと思う。
435:人間七七四年
10/03/06 15:14:24 rUnAFpOw
ちなみに戦国時代足軽に支給されていた米は平均して一日一升。
戦場では、戦ってないときはとにかく食ってるって感じだったらしい。
436:人間七七四年
10/03/06 15:27:46 62kWGs1L
一度にたくさん支給すると酒を造り始める阿呆が出るので
少しずつ小出しにして配給していたという話だね
437:人間七七四年
10/03/06 17:00:17 2xiao9Pv
高度成長期までの日本では、おかずがなかったために
一日一升飯を食う人はそう珍しくなかった。
運動不足の現代人がやったら、デブ一直線だけどね。
438:人間七七四年
10/03/06 17:22:04 JKqqT3/S
一升ってご飯茶碗何杯くらいなの?
439:人間七七四年
10/03/06 17:25:53 rUnAFpOw
>>438
一般的なご飯一食分が1合だと言われているから、10杯。
440:人間七七四年
10/03/06 17:26:04 l0fn9tE0
二十杯くらい
441:人間七七四年
10/03/06 17:28:47 l0fn9tE0
>>439
米を炊いた事が無いだろう…
三合炊いてみな、お茶碗三杯なんて量じゃないから。
442:人間七七四年
10/03/06 17:32:11 T/Q180Ma
つか消耗品の調達代金としての意味もあったんじゃね>一日一升
443:人間七七四年
10/03/06 17:35:30 63AV562M
毎日一升=5000kcal食べてたらいくら重労働でも太るだろ
444:人間七七四年
10/03/06 17:50:42 JKqqT3/S
もののけ姫の冒頭でアシタカが碁石金だして米買ってジコ坊がおかゆ作って食ってるの
うまそうだったな
445:人間七七四年
10/03/06 18:05:05 VkYzJIV6
徳川家康みたいに、底が見えるくらい薄い味噌汁(しかも具なし)でも
栄養になるんだろうか…
446:人間七七四年
10/03/06 18:05:49 l0fn9tE0
家康は玄米食ってたから大丈夫じゃね?
447:人間七七四年
10/03/06 18:37:35 JfY5+Sjw
>>426
青春を謳歌している貧乏大学生みたいなものか。
448:人間七七四年
10/03/06 18:41:21 3/dT73wN
>>447
適塾なんかまさにそんな感じだね
夏の賄いはフンドシで立ってかっこむとかw
449:人間七七四年
10/03/06 19:11:13 4KP6eBO+
>>383
他県民にとっては熊本市内は車の運転しにくい街。
今はナビがあるからいいけど
450:人間七七四年
10/03/06 19:19:41 2xiao9Pv
>>443
太らんよ。
何でも人力でやる時代の農業・肉体労働の消費カロリーはすごい。
451:人間七七四年
10/03/06 19:44:30 3RT+OcsF
女子のマラソンランナーが1日5000kcalぐらい食わんといかんらしいな
452:人間七七四年
10/03/06 19:55:44 Zo/ZJdkY
>>451
毎日マラソンすれば、5000kカロリーも食べていいのか
453:人間七七四年
10/03/06 20:04:27 rUnAFpOw
マラソンではないが、アメリカの競泳選手、マイケル・フェルプスの1日の食事
朝食:チーズ、生野菜、炒めたオニオン、マヨネーズなどを大量を挟み込んだエッグサンドイッチ3個、
玉子5個を使って作った玉子焼き、コーンスープ、フランス風揚げパン3個、チョコレートを載せた焼き菓子3個。
昼食:スパゲッティ500グラム、ハムとチーズを挟んだ大き目のサンドイッチ2個、1000キロカロリー分の栄養ドリンク。
夕食:スパゲッティ500グラム、ピザ1枚、栄養ドリンク。
URLリンク(www.excite.co.jp)
計12000カロリーだそうな
454:人間七七四年
10/03/06 20:07:49 3/dT73wN
それで一日1万キロとか泳ぐんだろ・・
455:人間七七四年
10/03/06 20:18:34 MM//jo1B
戦国時代のどこにそれだけのカロリーがあるというのか!謎すぎる
一日中食ってないとやってらんねぇぞ! 草とか…
456:人間七七四年
10/03/06 20:19:23 s9wzrEXG
1万キロは言い過ぎww
4日で地球1周できるw
457:人間七七四年
10/03/06 21:00:39 KjsrL4T/
>>456
だがあの御方なら…ッ!
458:人間七七四年
10/03/06 21:17:06 l0fn9tE0
>>454
二十四時間フルで泳いだとして、時速420km弱ですw
金メダルどころか、パワーボートもぶっちぎれるぜ…
459:人間七七四年
10/03/06 21:41:46 YQvqUJGS
>>449
まあ、城下町だったからなあw
460:人間七七四年
10/03/06 22:23:29 t/GeMoFA
>>424
この話、「百傑スケッチ」によると「北の御部屋様から頂戴いたしましたので~」となってるから、
実母じゃなくて養母(直政正室で直勝実母の唐梅院)のことなのかな
461:人間七七四年
10/03/06 22:42:37 qspiyGHi
武田信玄は喧嘩の始末について喧嘩両成敗を採用しようと
重臣たちと相談した。この時、猛烈に反対したのが内藤修理だった。
「両成敗との事ですが、恥をかかされて我慢するような者は役立たずで
ありましょう。そのような法があっては家中に男道をもつ侍がいなくなる。
他家では弓矢の道を推奨しているのに、武田家だけ喧嘩防止のために
男道が失われてしまいます。あなた方はどうかわからないが、
私は自分の子に男道をくじいてまで我慢しろとは言えない。
なんでもかんでも我慢となれば臆病侍が増え、口論や打擲ともなろう。
口論に負けるくらいは我慢するかもしれない。たいした害はないのだから。
しかし、殴られでもしたならば、たとえ一族を串ざしにされようとも、
所構わず、すぐさま殴った相手を殺すほかはござらぬ!
それでも両成敗となって、自分の罪なき肉親が裁かれた時、武田家に忠誠を
尽くせるだろうか。あなた方はどうお考えか知らぬが、私は尽くす事はできない。
ゆえに恐れながら申し上げますが、私は喧嘩を仕掛けた者を罰するほうが、
家中の風紀も引き締まると考えております」
462:人間七七四年
10/03/06 23:24:03 3/dT73wN
職場にキチガイじみた団塊おっさんがいる俺には内藤さんの言葉が身にしみる・・
反応した時点で負けなレベルだからな・・基地外相手は
463:人間七七四年
10/03/07 00:00:01 l3sdYKIr
悪いスレでちょっと荒れたので、ちょっと宗教に関する良い話を。
一休「世の中にはいろんな宗派があるけど、結局はみんな同じことを説いているんだ。
ただ、人間ってみんな性格がちがうだろ?だから仏の道に入るのもそれぞれにあった方法がある。
そのため諸宗はそれぞれに名を変え方法を変えているのだよ。
旧仏教の言う「大日如来」、法華教で言う「妙」、禅宗で言う「本来の面目」など、
これらは皆、ただひとつの仏を表しているに過ぎないのさ。」
小笹少将「そのようなこと、それらの宗派の祖師達はご存知なのでしょうか?
ご存知なのなら何故他の宗派を批判し自分の宗旨を誇り、場合によっては宗論などして
争うのでしょうか?」
一休「諸派の目的とは、先に言った同じ仏への帰依に至ることであって、それらの祖師たちは
同一である仏の本質について争っているわけじゃない。その同一の仏に至る方法が
様々に多いために、どの方法がより有効か、より容易かについて争っているんだ。
歌にもあるだろ? 『分け登る 麓の道は多けれど 同じ雲居の 月を眺むる 』
そういうことなのさ。」
そんな、「阿弥陀裸物語」より、宗教に関する一休禅師のありがたいお言葉
464:人間七七四年
10/03/07 03:53:22 ixBzccBN
>>449
逆に考えるんだ。
それだけ清正の縄張りが優れていたと。
465:人間七七四年
10/03/07 05:01:24 IfLCbvtG
荒れたつうか、思い込み激しくて一方通行な一名が独り言を大声で言ってただけじゃないの
466:人間七七四年
10/03/07 05:06:42 NkcpSzUk
>>453
スラムダンクの「おばちゃーんカツどん大盛りー。それがメシで、おかずはねー」
を思い出した。あれも漫画的誇張じゃあないんだな
467:人間七七四年
10/03/07 08:16:25 HXbZFC7x
元運動部が部活やめたらピザになるのはデフォ
468:人間七七四年
10/03/07 11:06:03 DdOcQJvP
イチローなんかは焼肉3人前食べるらしいね
それで体脂肪率6%
オレなんか2人前しか食べないのに、体脂肪率はイチローの5倍
なんか不公平だよな
469:人間七七四年
10/03/07 11:21:56 wdT3695j
まあ待て。
体動かさないのなら、2人前食うなw
470:人間七七四年
10/03/07 12:55:02 nL4hdY/i
清原を見ろよ、引退しても現役の頃と同じくらい食うからすっかりメタボってるじゃん
471:人間七七四年
10/03/07 14:20:42 HXbZFC7x
>>470
あれは筋肉が贅肉に…
472:人間七七四年
10/03/07 14:53:23 ixBzccBN
筋肉がしぼんで、その隙間に贅肉が付くのであって、筋肉が脂肪に変化するわけではないんだよー。
そして、「筋肉量落ちる→基礎代謝落ちる→脂肪付きやすくなる」という恐ろしいスパイラルに陥ることに・・・
473:人間七七四年
10/03/07 16:07:35 wWdcoM6a
北条家で代々当主に受け継がれた「祿壽應穩」の虎印判。
家督を継ぐこととなり、氏康から譲与されたこの印判を
使って氏政が最初に発給した印判状の内容は、
瑞渓院殿の台所への肴の納入を用意させるものであった。
瑞渓院殿とは氏康の正室、つまり氏政の母である。
「当主としての初仕事はオカンのために!!」
初任給で母親にご馳走を買って帰る新入社員を思わせる
氏政の気概に、氏康が「これで北条家は安泰!」と
思ったかどうかは定かでないが、北条家の家族仲の良さを
垣間見ることができるエピソードの一つである。
474:人間七七四年
10/03/07 16:53:01 JpNdemjC
黙れマザコン野郎 戦国にホームドラマしてんじぇねぇ
そんなんだから汁かけもまともにできねーんだよ!
ってパパが言ってたよ
475:人間七七四年
10/03/07 17:10:15 9Qx9Lepe
>>463
一休さんは蓮如さんとも友達だったな
まあ友達の商売道具を枕に昼寝しちゃうような友人関係だけど・・・
476:人間七七四年
10/03/07 17:22:48 Vw3Q2try
>>474
子持ちの分際で親孝行も考えられない奴は正真正銘の人間の屑って伝えておいて。
ま、孝行かどうかはともかく、なんか納入させる場合は必ず印判状だす家だからなあ。
生真面目と言うか、システマチックと言うか、迂遠と言うか。
477:人間七七四年
10/03/07 17:30:46 aHxWa1vS
>>476
> 生真面目と言うか、システマチックと言うか、迂遠と言うか。
毛利隆元「それは同じ城の中に住んでいながらいちいち書状で会話してた僕たち親子に対する」
毛利元就「批判と受け取ってよろしいか?」
478:人間七七四年
10/03/07 17:33:28 gjMhGE4X
教室の隅と隅でメール送り合うカップルじゃあるまいしw
479:人間七七四年
10/03/07 17:33:38 +a4GTZDg
いや元就さんあんたがちょっと変人すぎるからでしょう
480:人間七七四年
10/03/07 17:34:40 tmkXxz2W
交換日記や連絡帳や日誌みたいなものと思えば
481:人間七七四年
10/03/07 18:29:42 0bXOo6OI
細川忠利「生真面目にやらないと週二でお叱りが来たり、ハンコが薄いだけで手紙が突っ返されたりします。」
482:人間七七四年
10/03/07 18:49:29 DdOcQJvP
>>475
友達といっても、だいぶ歳離れとるじゃげな
483:人間七七四年
10/03/07 20:14:02 oVA6mYum
>>475
一休禅師と蓮如上人の交友はまとめスレにいくつか載ってるな。
そして、まとめスレで蓮如および一向宗関連の記事のいくつかに例の人らしきのが噛み付いてるわw
>>482
そうじゃげな。
484:人間七七四年
10/03/07 22:15:25 RyHvEIb/
>そして、まとめスレで蓮如および一向宗関連の記事のいくつかに例の人らしきのが噛み付いてるわw
安土宗論で敗れた法華の人かな
485:人間七七四年
10/03/08 11:11:57 MqApcsTR
以下Kitty-Guyの話禁止。
486:人間七七四年
10/03/08 17:01:05 QTO3J2T/
>>485
三楽斎<猫ちゃん禁止なの(´・ω・`ノ)
勝茂<そうだ、そうだ猫の話題は禁止だ。
487:人間七七四年
10/03/08 17:56:27 +FzsHLFA
高房・氏治「ねこみみもーど!」
488:人間七七四年
10/03/08 21:32:12 gUhdGWxl
前田利長が本能寺の変事を知ったのは京都見物に行く道中で
今の滋賀県あたりだった。
事態に動揺した一行はとりあえず領地の越前は遠いので
利長の妻(信長の娘)の郷里である尾張に行く事にした。
ところがふと利長が輿をかつぐ者達を見ると、どうも尾張に行くのが
嫌そうな顔をしている。
「私が妻子の事を思っているように、彼らもまた郷里の妻子を
気にしている。越前に妻子を残しているのだから無理もない事か…」
利長はそう言うと、輿を棄てて妻を馬に乗せ尾張に行かせた。
そして自信は安土城に入ったという。
489:人間七七四年
10/03/08 22:16:43 SIitZ2rH
本拠は安土、自領は越前だったのに尾張にあてはあったんだろうか(荒子?)
織田一門も他にいるし…
単に安土や岐阜よりは京から遠いからってことなのかな
490:人間七七四年
10/03/08 23:51:07 /1UGV3/V
とはいえ、20前後の若侍が10も下の嫁と行動しているのが
戦国時代のすごいところ。
491:人間七七四年
10/03/09 00:04:36 CGOpwSwC
平塚為広の奮闘
さてさて関ヶ原、小早川秀秋の寝返りにより西軍総崩れの中、大谷吉継隊に属した
平塚因幡守為広は頑として退かず、吉継と最後の詠歌を取り交わすと、逃げる味方を尻目に
敵の大軍の中に突入した。
平塚隊は火を吹くように戦ったが郎党皆討死し、残ったのは為広一人。
が、為広、少しも恐れず退かず、高名な大薙刀を水車と振り回し薙ぎ通る。
為広、元来大力な上薙刀の達人、それが決死となって戦うのだから、彼の鉾先に回る者、
あるいは兜の真ん中、あるいは面頬篭手の端と、斬って落とされる者その数知れず。
このため件の大軍進みかね、為広の周りを開けて通る始末。
為広はなお勢いに乗って人馬ともに敵を薙ぎ払って回り、つっと敵の後ろへ駆け抜けたところで
暫く息を継ぎ薙刀を見ると、その刃は敵の槍刀を受けすぎたため、あたかも彫り込まれたように
傷だらけであった。
ここに小早川に呼応し寝返った小川祐忠家臣、樫井太兵衛現れる。
十文字の槍を高く掲げ
「天魔鬼神の平塚も、樫井が槍は受け止められぬぞ!」
と高らかに叫び突き掛る。
為景これを見てうち笑い
「優しき樫井の心底か、最後の暇を取らせてやろうぞ!」
と、件の薙刀を取り直し、樫井の槍をはじき落としてやろうと力任せに打ち込んだ。
…が、為広の運も尽きたるか。薙刀の刃、鍔元から折れたりけり。
樫井すかさず飛び入り突き倒し、終にその首を取る。
これを見ていた山内一豊は「心利きたる早業、広大の高名」と激賞し、後で徳川家康にもこれを語り、
家康もまたこれを賞した。
…さて、家康の本陣から戦勝祝の諸侯たちも皆帰陣した後の事。
家康は言う
「平塚の武勇、義心、彼の家をこのまま絶えさせてはなるまい。」
そして為広の嫡男左馬助を召し出し、徳川の家臣とした。
後にその家は頼宣に付けられ紀州へと移った、との事である。
492:人間七七四年
10/03/09 00:10:54 DiMtCuRb
らいてうさんの先祖か
関が原では刑部よりも奮闘したと思うんだけど、いまいち評価が上がらないんだよなあ
493:人間七七四年
10/03/09 00:25:03 MpLBc9LF
>>491
名調子だなw。琵琶法師に語らせたいぜ
494:人間七七四年
10/03/09 00:50:50 4HpWz1pX
山内一豊はどうやってそこまで移動したんだ?
495:人間七七四年
10/03/09 01:00:27 V6l8QR5d
一豊「ぶっちゃけやる事なかったんで……」
とまあ、それは冗談として、確かに、なんで家康どころか有馬の後方に布陣してた一豊なんだ、って感は受けない事はないけど。
496:人間七七四年
10/03/09 01:02:18 CGOpwSwC
それは後に樫井太兵衛が山内家に仕えるからなのです。
497:人間七七四年
10/03/09 03:29:36 ySZZNh4I
うん、樫井太兵衛が山内氏家臣になるのは本当の話。
12000石の平塚因幡守を討った武名で1200石の高禄なのだから樫井も頑張った
甲斐があった。
498:人間七七四年
10/03/09 10:18:57 Hau0spFR
悪い話だと悪意を持って書かれる事が多かったり、アンチが寄って来て
大いに盛り上がるが、良い話だとあまりレスがつかない伊達政宗の
ちょっと良い話。
ある時、近隣の小姓や若手衆に屋敷の掃除を命じたのだが、その際に
某という者に掃除の差配役を執らせた。するとその某はなぜか表立っては
見えぬ場所ばかりに掃除の指示を出していたので、他の若衆がなぜ見えぬ
場所ばかり掃除させるのだと詰め寄ってきた。
するとその某は「見える所はそれほど入念にせずともよい。
むしろ縁の下や人の目が付かぬ場所こそが、お家のためには肝心ぞ。」
と説明した。
これを聞いたあるものは「ははーん、これは奉公の心構えの事を
言ってるおるのだな」と思い、あるものは「そんなものか」と思い
それぞれ納得して指示に従った。
それをたまたま見聞きしていた政宗、掃除が終わったあとにその差配していた
某を呼びつけこう言った。
「よいか、お前は見所のある若者なので、いずれ人の上に立つ役職を
任せるつもりである。たしかに武士においては表だけでなく裏にも
気を使うのは重要であろう。だが才気ばしって裏にばかり気を使い、表を
おろそかにするものは、いたずらに足元を救われる事になる。
人の上に立つ者であれば裏だけでなく表も十分に気をつけておくのが肝要ぞ。
でないと下の者を路頭に迷わせる事になろう。ゆめゆめ忘れるでないぞ。」
と諭したので、その若者は自分の考えを恥じ、次からは表も裏も両方綺麗に
掃除するようになったそうな。
政宗の家臣への心構えを教訓した、ちょっと良い話。
499:人間七七四年
10/03/09 10:32:29 EziRHQmd
これが徳川や北条だったら「GJ!」だったんだろな。
500:人間七七四年
10/03/09 11:29:50 PD5IsPJx
まーくんは意外にいいこともいろいろ言っているよね
ただまぁ・・・普段の行動がいろいろアレだから仕方ないんじゃないかw
501:人間七七四年
10/03/09 11:54:01 08SWcPaB
>>495
一豊は初め、毛利の押さえとして後方にいたけど、西軍が崩れて毛利が動く気配がないから、
後半は少し前に出ているよ
502:人間七七四年
10/03/09 11:56:21 YYpR8QBi
まーくん言うなキモイ
503:人間七七四年
10/03/09 12:13:54 SmfJ7ABA
俺の友達にも「まーくん」がいるので混同・・・はしないがウザイね
504:人間七七四年
10/03/09 15:39:59 b2i+KLzP
定着しちゃってるからいんじゃね?
505:人間七七四年
10/03/09 15:48:24 RBpEHrNq
そう呼びたい奴は呼べば良い。
嫌ならスルーするなりNGワードに登録するなりすれば良い。
自分が気にくわないからと言って自分の意見を押し付けるのは大人げないよ。
506:人間七七四年
10/03/09 16:13:57 4nI+tBEE
あいだをとってぼんちゃんではどうだろう
507:人間七七四年
10/03/09 17:07:32 crCk++yG
>>498
政宗の言うことが『正しい』というわけでもなさそうだ。
彼は見えるところを非常に重視しそうなタイプだからね。
508:人間七七四年
10/03/09 17:22:37 nkAajDRY
>506
「まっさん」とかどうよw
509:人間七七四年
10/03/09 18:12:57 6E4TWjYl
分相応に表側もきちんとしとかないと、いらない誤解を招くんだよ
どんなに立派な人だって
それじゃつまんないよ?という説教だから、政宗も年の功がついてきた頃か
510:人間七七四年
10/03/09 18:23:29 zz0hgMtj
四天王筆頭なんだから、筆頭でいいじゃん。
511:人間七七四年
10/03/09 18:38:15 OxRzOlIA
筆頭とかいってるとアレが沸くから止めてくれ
512:人間七七四年
10/03/09 19:12:19 2FRun1PX
竜造寺五天王が湧くからな
513:人間七七四年
10/03/09 19:17:24 8Gj7q8mq
>>507
才気ばしった若侍を、たしなめたんだろうな。
俺はその若侍のやり方はなんかいやらしいと思った。
自分が正しいとおもってやってるというより、人の意表を
突いたり、裏をかくようなやり方。
514:人間七七四年
10/03/09 20:25:51 YShFZs9P
まとめにも載ってるけど、平塚為広といえば娘も怪力で、
関ヶ原の後に京で捕まった時、捕り方をぶちのめして逃亡したという逸話があるな
弟の越中守も怪力だったという
515:人間七七四年
10/03/09 20:29:07 /uMwPcHR
>>491
樫井が桜井に見えてしまった・・・広大・・・ すまん。
516:人間七七四年
10/03/09 21:37:41 EiK8r/3/
1. 武田信玄 382 (110 82 96 94)
2. 織田信長 380 (100 89 94 97)
3. 徳川家康 377 (96 87 94 100)
4. 太田道灌 376 (99 88 99 90)
5. 北条氏康 376 (96 79 94 107)
6. 北条早雲 369
7. 伊達政宗 367
8. 毛利元就 365
9. 真田昌幸 362
10. 明智光秀 361
関東半端ねえな
517:人間七七四年
10/03/09 21:38:38 EiK8r/3/
誤爆
518:人間七七四年
10/03/09 22:18:24 iblcA1nR
>>506
むかしマガジンでやってたトンデモ漫画思い出すから勘弁w
519:人間七七四年
10/03/09 22:39:44 ljGEONfb
一升もらった米のうち、おかずと交換したり売ったりすんだろ
みな食えるわけねえべバカ
520:人間七七四年
10/03/09 23:58:33 sd48GHx1
いや、基本的に食べるんだ。
そもそも戦場では出火を恐れるから炊事はまとめてやるので
末端の兵士には炊き上がったコメが回ってくる。
で、炊いてあるので麹を仕込むだけで酒が作れる。
一週間もかからずに酒らしいものができるみたい。
それに敵地で敵の領民と食べ物の交換なんて危険なことしないよ。
そもそも地元民は付近の城や山中に避難してるからしたくても無理。
521:人間七七四年
10/03/10 00:30:54 4rIOzYmV
戦国時代におかずって発想はねえよw
522:人間七七四年
10/03/10 01:19:31 CSkD1zzo
つーか、おかずは配給されないのか?
おかずを運搬する荷駄方はいないのか?
味噌だけ?
まあ桶狭間と小田原でもぜんぜん違うだろうし一概には論じられまいが
523:人間七七四年
10/03/10 01:34:32 4QUdxjx4
おかずっていうかなぁ
普通は米配給、後は持ち出しで味噌とか梅干しとかだろう
腐ると困るし、普通のおかずとか調理してられんしな
524:人間七七四年
10/03/10 01:42:33 CSkD1zzo
せめて塩くらいはほしい
525:人間七七四年
10/03/10 02:23:43 4QUdxjx4
まぁ、行軍時とか危険じゃ無いときは普通に汁物とか作って飯喰ってただろうけどね
獣狩ったり、戦闘中じゃなきゃ物売りとかも居ただろうし
戦国後期つうか、秀吉時代になると飯は完全配給制になるらしいけどね
526:人間七七四年
10/03/10 07:54:57 c+fHEDUu
忠世殿が芋汁を煮込み始めたようです
527:人間七七四年
10/03/10 08:21:48 +fs0BLaT
>>514
怪力一族についてkwsk
528:人間七七四年
10/03/10 10:34:11 Y35P95PK
>>526
直正「醤油入れて!」
529:人間七七四年
10/03/10 12:40:39 B45w+b/S
名将言行録と武功夜話ソースの話しは止めろ
信憑性がまったく無い
530:人間七七四年
10/03/10 12:51:44 /opLw7ZH
ここは信憑性を議論するようなスレじゃないんだがね
こういう逸話もあるよ、と紹介するスレなんだし
信じるも信じないもあなたの自由
531:人間七七四年
10/03/10 15:03:55 fX078q3W
芋づるを干し、そこに味噌汁をしみこませた物を縄になって、腰紐にして持って行ったという話は
何かの番組で見たような記憶がある
今は亡きCSベネッセチャンネルの番組だったような
芋づるとは言っても縄は縄、こんなの食えるのかよと思いながら見ていたんだが
何もおかず無いよりましだったんだろうな
532:人間七七四年
10/03/10 15:15:24 6UHPSk7P
心が甘う感ずるのです
533:人間七七四年
10/03/10 15:19:12 7k6iORGP
>>522
この時代は、基本は一汁一菜だから
534:人間七七四年
10/03/10 15:27:39 07vNpo+b
テンプレを読まずに書き込むのは止めろ
マナーがまったくなって無い
535:人間七七四年
10/03/10 18:05:49 /oZAprLP
>>533
一汁一菜は中流階層以上。
下層になると汁ものに香のもののみ。
ちなみに香の物を一品と数えるようになったのは明治以降。
西洋料理が流入した時にサラダが一品と数えられているのを真似たらしい。
江戸時代にも松江藩がおかず禁止令を出して一汁一菜を贅沢扱いしてるよ。
536:人間七七四年
10/03/10 18:49:16 nZNYcY5s
勉強になるなぁ
ゲームヲタばっかりのスレとちがってええなぁ
537:1/2
10/03/10 19:10:24 3W7heOj6
関ヶ原の決戦が終わったが、信州上田城では真田昌幸が未だ、籠城を解いてはいなかった。
このため徳川家康の命により、真田信之が降伏勧告の使者として上田に派遣された。
上田城で信之は昌幸に対し、降参するよう様々に説得したが一向に聞き入れず、かえって
「信之、お主は長く家康に仕え、さらに本多忠勝の婿でもある。であれば家康も、お主には心を許しているだろう。
ならば信之!お前が近侍した際、父の望みに従い家康を刺殺すのだ!
それは出来ないと言うのなら今ここでおまえの首を撥ねる!」
などと言い出した。しかし信之、これに少しも騒がず
「御高恩を頂いている内府公を討つと言うのなら、父ではあっても君敵であります。
その君敵とは今ここで雌雄を決するべきなのでしょうが、私は大事の使者としてここに参っており、
使者として帰り、家康公に子細を言上しない内に、わたくしに討ち果たすような真似をすれば、それも君への
不忠で有ります。
…ご報告を終えた上で、重ねて潔く勝負を決しましょう!その容易をして待たれよ!」
そう言い放って座を立った。これには昌幸も、「信之の言う事、尤もである」と言って、奥の間に引っ込んだそうだ。
さて、家康の元に戻った信之は会談の内容をありのままに家康に報告した。
家康は昌幸の武勇、信之の忠節に感じ入り
「そう言うことであればお主の手で上田を攻め、父弟の首を取ってくるが良い。
その時は信州一国を与えるであろう。」
信之は宿所に帰り、早速出陣の準備をした。
ところがそれから暫くして信之、再び家康の元に御目通りを願い出た。
「いったいどうした?出陣の引き延をしたいのか?」
「この度父への討手を仰せ付けられ、その御高情上身に余ると感じております。
…しかしながら出来れば、御恩賞の御朱印を賜った上で出陣いたしたいのです。」
「おお、その事忘れておった。」
538:2/2
10/03/10 19:11:07 3W7heOj6
家康はその場で御朱印を信之に渡した。信之は畏んでこれを頂き宿舎に帰ると、
何故か又すぐに家康の元に戻った
「お訴えしたき儀が有ります!」
「度々どうしたのだ?出陣にあたり加勢が欲しいのか、それとも具足兵糧が不足しておるのか?それであれば
望みどおりに…」
「いいえ、先程も言いましたが、私が父の討手を仰せつかったこと、生前の面目、これに勝ることは
ございません。」
「ならば…」
「…ですが!我が父の一命をお助けいただけるのなら、その上の厚恩でございます!
しかれば先に賜った御朱印を、返上したします!」
そう、涙を流して訴えた。御朱印を返すとは、信州一国の報奨を放棄してでも父の助命を願う、
ということである。
家康これを聞いてたちまち機嫌を悪くし、黙然と座を立って奥に入ってしまった。
信之は一人、その場に残された。
暫くして、
信之に声がかかった。「内府公が呼んでおられる。」
御前に出ると、家康が言う
「そなたの願い、尤もである。日頃の忠節に免じ父弟の命、助けてとらす。」
信之はこれに大いに喜び、すぐに上田へと馳せ行きて助命のことを報じ、これによって昌幸、信繁親子も
城を出ることに同意した、とのことである。
真田信之、父弟の助命を得る、の一席。
539:人間七七四年
10/03/10 19:23:51 ajLypH9w
奥では平八郎が戦の準備をしてました
540:人間七七四年
10/03/10 19:31:34 CRtaOmN8
褒美の約束させといて、それを元手に自分の要求通すとかw
こういうしたたかさがあったからちゃんと家を守れたんだろうな。
541:人間七七四年
10/03/10 19:38:31 DOIfwgLL
真田信之「やれやれ、寿命が10年縮んだわ」
542:人間七七四年
10/03/10 20:00:17 BvrQAUfP
信之兄ちゃんかっこいいぜ!
543:人間七七四年
10/03/10 20:26:17 To0lDGnM
ここでお兄ちゃんの逸話を読んでからは
「信繁の兄」じゃなくて信繁の方が「信之の弟」
の認識になったぜ。
一昔前は「乱丸の兄」と呼ばれていたあの人のように有名になって欲しいな。
544:人間七七四年
10/03/10 20:31:07 ihGsASaS
>>543
真田三代といえば幸隆、昌幸そして幸村
「幸村の兄」と「幸村の中の人」には不憫な話だ
545:人間七七四年
10/03/10 20:46:41 2bnwTzRy
昨朝御見廻申候ヘバ、早天ニ大津ヘ御越之由候間、大助ニ申置帰山申候。主水ヲモ遣シ候ヘ共、未内府ハ大軍ニ付、路つかへ、江州守山辺ニ居陣之由申、
昨日主水も従((二)中途(一)帰申候。御仕合如何候哉
一一昨夕彼陣床ヨリ拙者ヘ参候者、直ニ語候趣、為ニ御心得一申候。内府ハ当月朔日ニ国本ヲ出馬候テ、十四日ニ大ガキ表ヘ被(二)押寄(一)候ヲ、
大ガキノ軍勢石治少・島兵入・小西ナド見候而、山ヘ取上リ候。内府ハ五万程ニテ、手人数各別ニ備ラレ居陣候
一先手之人数ハ、福島一番・長岡越中二番・金森法印三番・田中兵部其外上方之人数四万計、面々ニ備、青野カ原ニテノ合戦ニテ候。即時ニ切立得(二)大利(一)候。
番ヒニ金吾手ヲカヘサレ候。其太刀場ニテ、大谷刑部討死候テ、其マヽキリ崩候。上方ヨリ出陣ノ人数五万計候。四五千モ討死候ト申候
一十九日ニ沢山ヘ取カケラル、則落居候テ、石治少子・杢ナド討果候由候
一石治少・島兵入ハ山ツタイニ引退候ト相見、行方不レ知候。越州ヘノキ候ハンカト申候。生捕ニ仕候トノ沙汰ハ、ウソニテ候ト申候
一キヅ川ハ輝元被レ取候。知行分悉給置候者家康ヘ味方ニ可レ参候トノ(アツカイ)ニテ候ヘドモソレハ余之□之由候テ、半分ノ契約ニテ、一味申候トノ事候。
安国寺ハ乗物ニテノキ候ヲ、キヅ川者共追懸候ヘ共、行方シラス見失候。生捕之沙汰不(レ)存候ト申候
一備前宰相ハ討死トノ事雑説候。無(ニ)異儀(一)之由申候。是以味方ニハ不(レ)成被(レ)申
一長尾景勝トノ和睦ハ無レ之候。其手当ニ結城三河守・政宗ナド被(レ)残候ト申候。政宗ハ一筋ニ家康ヘ一味之由候。白石ト哉ラン申候城、景勝抱候ヲ此方ヘ被(レ)取、政宗入城之由候。
此城前々政宗城由候
一佐竹ハ景勝・石治少ナドヘ一味之由申候而隔心ト相聞候ト申候
一信州サナダハ敵ニ成候テ、中納言忠秀・榊原式部少輔ナドハ、彼国ヘサシムケラレ候ト申候。是モ手間不(レ)可(レ)入候間、一途被(二)申付(一)、上洛トノ事ニテ候ト申候
一ナツカ大蔵ハ、ミナクチノ城ニ居候。ソレヘモ人数サシコサレ、可(二)討果(一)之由ト申候
三奉行ハ可(レ)有(二)成敗(一)之由ニテ候ト申候
一昨日ヨリ風聞ハ、ナツカ大蔵ハ内府ヘカケ入候ト申候。内府被レ申候ハ、ヨクトモ悪クトモノ事候由候ト申候。此儀ハ昨日ヨリ承候、事実ハ不(レ)存候。
右之趣ハ水不(レ)入慥之事候、彼虎口ヨリ直二当所ヘ参候モノニテ候。直ニ承候間、為(二)御心得(一)ニ申候。以上
九月廿日 東入
猶々如レ此処ニ、津小平かたより書状くれ候て、内府今日大津へ被(レ)越候由、由来候間、主水をも又さし遣し候。今日又御越候哉、定可(レ)有(二)御聞(一)候へ共、令レ申候。
書中御らんじ候ハヾ火中々々
近衛前久が子の信尹に送った手紙なのだが…何、この状況把握の正確さ
これこそが本当の情報戦というものなんだろうな
それにしても信尹、親父に読んだら燃やせと書いてあるのに何故残す。こういう所が駄目なんだろうなと思うわけで
546:人間七七四年
10/03/10 20:54:05 wNODDkV7
大助とか主水って誰だろ
547:人間七七四年
10/03/10 21:02:57 2bnwTzRy
>>546
近衛家の家臣でしょうな
548:人間七七四年
10/03/10 21:15:00 wNODDkV7
いやそれは解るんだがw
名も無き中間みたいなモンかな
549:人間七七四年
10/03/10 21:22:43 2ceSwBpA
黒田孝高はカコイイ!
550:人間七七四年
10/03/10 21:33:13 c0TrDTqW
>>543-544
昌幸は4兄弟、信之と信繁で二人兄弟だと思ってる人も多いんだろうな
551:人間七七四年
10/03/10 22:33:46 m201krkJ
>>545
佐竹、政宗なんかの言及はあるけど九州方面は記述がないんだな
しかし読みなれてないから候文は読みづらいわw
552:2/2
10/03/10 22:35:08 3W7heOj6
>>545
訳してみた。色々意訳したので、間違いなどあったら許して欲しい。
昨朝お訪ねしたところ、早朝に大津へ行かれたとのこと、大助に申し置いて帰ったのですが、主水も
念のため遣わしました。ですが、内府(家康)の軍は大軍であるため、道は渋滞し、近江守も山辺を動けないようです。
昨日主水も諦めて途中で帰ってきました。こんな状況です。
・一昨日の夕方、戦場より私のところに参ったものが直に語ったことです。そういう重大な情報なので良く心得て
読んでください。
内府は今月1日に国元を出て14日に大垣表に到着しました。大垣の石田三成、島左近、小西行長などの軍勢は
これを見て山に上がり陣をはったとのこと。内府の軍勢は5万ほどで、手人数別に備えを敷いた布陣であったそうです。
・東軍の先手は、福島正則が1番、細川忠興が2番、金森長近が3番、そのあと田中吉政など、計4万ばかり。
それぞれに備を作っていた。
青野ヶ原での合戦ですぐに敵を斬りたて大いに手柄を立てたとのこと。そのうちに小早川秀秋が手を返し、
その攻撃により大谷吉継が討死し、大谷の陣はをのまま斬り崩されたとのこと。
上方より出陣した(西軍の)人数は5万ほどだったそうですが、そのうち4,5千も討死したということです。
・吉川広家は毛利輝元の命で家康と交渉し、領地はすべてそのままと言う条件で家康の味方になる、との
扱いになったが、それはあくまで表向きの発表で、実際には領土半減の条件で、家康に降参したとの話である。
安国寺は乗り物に乗って逃亡した。吉川の手の者たちが追いかけたが見失い、行方が知れない。
捕縛されたとの情報も無い。
・宇喜多秀家は討死したとの噂です。これを否定する話も聞きません。秀家が東軍に降伏し、命乞いを
するようなことも無いでしょう。
・上杉景勝との和睦はありえないとのこと。家康は景勝に対処するため結城秀康、伊達政宗らを残しておいたのだと
言うことです。政宗がこの様に信頼されたのは、政宗が一途に家康に一味しているためであったからだそうです。
白石城と言う景勝方の城を政宗が取り、ここに入城したとのこと。この城は元々政宗の城だったとのことです。
・佐竹は上杉景勝、石田三成などと一味していたので、家康との間は心隔たる関係であると聞き及んでおります。
・信州の真田は東軍の敵になり、徳川秀忠、榊原康政などが信州に差し向けられたと言うことです。
これも手間の掛ることです。上洛のことなど申し付けているようです。
・長束正家は水口の城にいたようですが、そこにも東軍の軍勢が派遣され討ち果たされるだろうとのこと。
三奉行はみな成敗されるであろうと言うことです。
・昨日聞いた噂によると、長束正家が家康の元に駆け込んできたとのこと。これに家康は
「良いことでも有り、悪いことでも有る」と言ったそうです。この事は昨日聞いたのですが、真偽は不明です。
右のことは私と親しい関係の者が、あの戦場より直に私のところに来て、それを私が直に聞いたものです。
これをよくよく心得てください。以上
九月二十日 東入
P.S. 今、津小平から書状が来て、家康は今日大津に行かれるそうです。そういう事なので主水もまた差し遣わします。
今日家康が大津に来られると言う事、ご当地にいるあなたも聞いていらっしゃるとは思いますが、一応
ここに書いて置きます。
この書状を見たら、火の中に火の中に。
553:人間七七四年
10/03/10 22:40:20 m201krkJ
>>552
乙、大分読みやすくなった
ってか燃やす必要あったのかなこれ?
554:人間七七四年
10/03/10 22:47:45 2bnwTzRy
家康の周辺にこれだけの情報を入手できる者がスパイとしている事になる
555:人間七七四年
10/03/10 22:48:10 3W7heOj6
>>552
ああ、入れ忘れがあった。12行目の
>上方より出陣した(西軍の)人数は5万ほどだったそうですが、そのうち4,5千も討死したということです。
の後に
・19日に佐和山城を攻撃し、落城、石田三成の子や石田正澄(木工頭)など討ち果たされたとのこと。
・石田三成、島左近は山伝いに引き退いたようで、現在行方不明です。越後へと逃亡したのではないかと言う噂です。
生け捕りになったと言う噂もありますが、それは嘘だと言うことです。
これを入れてくださいw;
556:人間七七四年
10/03/10 23:02:08 zsWXBu5D
やっぱ一番情報をもっていたのは豊臣政権の中枢だったナイフなんだな
他とは力量が違いすぎる感じがする
557:人間七七四年
10/03/10 23:08:06 yCcBCKHJ
あれ?内府は”だいふ”って読むんじゃ…?
558:人間七七四年
10/03/10 23:23:10 UvpuqCrj
鳥見の新助の忠勤
関ヶ原の勝利の余韻も覚めやらぬ慶長十三年頃の話である
駿府の城下に鷹匠の下役で「お鳥見」を勤める大岩新助という五十石取りの若い小者がいた
この新助、大変な大酒飲みなのだが、酒癖が極めて悪く、いつもいつも泥酔しては
半裸で全身泥だらけになって大手門の前で大の字になっている
そんな新助を町の衆らが戸板に乗せて、ワッショイワッショイ担いで
神輿のように部屋に戻してやるのが、城下町の名物になっている有り様であった
それだけの酒癖ならかわいいものなのだが、時折新助は酒を飲むと
女の行水を覗きに行くという悪癖があり、これがどうしても直らなかった
この時代のことだから、あまり問題にはならなかったが、それでもやはり
人の屋敷をこっそり覗き込み、女のあられもない姿を見つめているのはあまり誉められる行いではない
ある日とうとう武家の屋敷を覗きこんでいる所を同心に見咎められてしまった
本来なら召し放ち、悪ければ屋敷の主人に斬られてもおかしくない所だったが
新助は、口笛一つで五十羽百羽の鳥を集められる天才的な鳥刺しだったから
家康に庇われて、街道筋から伊勢路、美濃路にかけて、
鳥見をしながら三年ほど廻ってこいと命じられた。体のいい追放だった
百姓の小倅であった自分が、二本差しの身分となり禄を得ているのも
主君である家康の寵愛があってのことであるというのに
自分はそんな家康の名前に泥を塗ってしまった
酒が入らなければ基本的に真面目で気弱な新助は恥入った
そしてどうにか汚名を挽回できぬものかと考えた
しかし元々が鳥刺しの腕一本で取り立てられ、無学文盲の新助には
ろくろくその恩に報いる手段も考えつかなかった
新助は鳥見の仕事をし、街道を行き来しながら寺に通い、読み書きを習い始めた
寺に通う間はあまり大酒も飲めなかったから、悪癖は鳴りをひそめた
数年の手習いで、あまり上手いものではないが、文の一つもしたためられるようになり
行儀などもめっきり良くなった新助は、三年の勤めを終えて駿府へ帰った
新助の成長を上司も家康も大変に喜んでくれた
読み書きを覚えた新助には仕事が増えたが、喜んでどんな仕事もしたから
ますます家康に可愛がられ、更に十石を授かった
そうして数年経った頃大坂の役が起こった
ここで働きを見せれば、大御所様の恩に報いることができる
新助も鳥刺しの道具と槍を持って出陣した
奇妙な姿であったから、皆はそれを笑ったが家康は少し笑っただけで何も言わなかった
必ず手柄をたてますると意気込む新助を、家康は笑って送り出した
意気込みは一人前だが、鳥刺しの腕は良くても新助の槍の腕はからっきし
それでも勇敢に戦って、彼は茶臼山の戦いで華々しく討ち死にした。三十四歳だった
知らせを聞いた家康は目を閉じて俯き、しばし無言であったという
新助の最期は駿府の街にも伝えられ、人々はその見事な最期を口々に言い伝えたのだった
559:人間七七四年
10/03/10 23:31:31 tupmrCMS
汚名はやっぱり返上しないとね^^