10/02/20 22:21:04 rtL4OBQH
本田平八郎みたいな戦功がめだつ人だけじゃなくて
こういう優秀な縁の下の力持ちがいたから徳川が天下取れたんだよね
101:人間七七四年
10/02/20 22:26:59 8ZsovsaP
徳川家に伊奈みたいな内政のスペシャリストは貴重だね
彼は三成みたいに武官に疎まれたりはしなかったのかな
102:人間七七四年
10/02/20 22:39:26 iJBmFhEx
幕府が開かれるまでこういう官僚派は徳川家ではかなり立場弱かったし知行も
少なかったからあんまり問題にはならなかったんじゃないか
本田佐渡が恨みを買ってくれてたから陰に隠れてたりw
政権運営するようになってようやく官僚連中が立場逆転してたけどそうなってから武断派の
連中が愚痴を垂れ流すようになったわけでw
103:人間七七四年
10/02/20 22:54:32 uPh3l3EV
関東地方には「伊奈」が付く地名が多いよね
うちの近くにも「伊奈平」があるし
104:人間七七四年
10/02/20 23:04:28 XQHFmvBq
それじゃ武功派のいい話をw
本多平八郎が二人の息子に残したと伝える、「鎗場高名集」という槍働きの極意を述べた書物がある。
その中の一節。
「軟弱なことやさかしいまねはするな、必ず手ぬるくなって、死地にあったら死んでしまう。侍には侍の流儀がある。
しかるに侍らしいことをせず、武道をたしなまず、茶の湯、歌道、不義、弁舌を好むようなぬるい奴らは、折を見て
首を刎ねてしまうべきである。」
105:人間七七四年
10/02/20 23:28:20 rtL4OBQH
>>104
生粋の武人だったんだろうねぇ。
しかし、こういう人は平和な時代になったら有害無益だな・・・
106:人間七七四年
10/02/20 23:29:23 gysVzymM
>>100
優秀な縁の下が、徳川家以外にはいなかったと思っているの?
107:人間七七四年
10/02/20 23:33:15 JgfK9EZ7
>>106
キミは多分文章の捉え方を間違えてる。
108:人間七七四年
10/02/20 23:36:41 rtL4OBQH
>>106
えーと・・・
別に思ってないよ
109:人間七七四年
10/02/20 23:47:41 EYGe8dzi
なんか最近、Aという人物の特定の美点を挙げて賞賛しているのを見て
「他のをディスって持ち上げてる!」と感じるというちょっと意味不明の憤りに遭遇することが多い。
110:人間七七四年
10/02/20 23:56:48 GaTkeukx
>>104
不義が茶の湯や歌道、弁舌と並んでる辺りが武功派らしいな
111:人間七七四年
10/02/21 00:03:36 aFnw/4Ot
侍大将以上なら補給とか物資輸送とか考えないといけないはずなのにどうしてたんだろ?
全部家康任せ?
112:人間七七四年
10/02/21 00:06:47 z2PTyCfh
つーか本田平八とか赤井伊って割と政治的な部分もやってたような?
113:人間七七四年
10/02/21 00:17:26 3sMz+hRb
つか、本当に槍働きしかできない奴が大名クラスに取り立てられることってありえないじゃないの?
114:人間七七四年
10/02/21 00:41:41 k6J/btx4
武功派は武功のために色々な手を打てたから武功派なんでそ
>>104では、どういう心得の人物がよいのか、ということを説いているわけで
115:人間七七四年
10/02/21 01:20:12 ApAe2ZpT
あうぅ
おらいんの 戦国キチのじっさまも 今の時代みたいにパソコンあったら ボケっこどもながったのに
116:人間七七四年
10/02/21 03:18:01 EzraRasX
>>89
政宗公三歳のみぎりの臼かも知れん。
117:人間七七四年
10/02/21 04:59:04 PuNhCCdp
>>111
兵糧を自弁するのは、ある程度以上独立性の強い領主だろ
部将おのおのが小荷駄を仕立ててたら、行軍速度が恐ろしいことになりそうだ
118:人間七七四年
10/02/21 05:09:46 z2PTyCfh
ん?知行貰ってて部下持ってる奴って基本部下の分の
装備は自弁だし武器弾薬食糧すら自弁の時もあったはずだが
119:人間七七四年
10/02/21 05:46:49 PuNhCCdp
地域とか状況によるだろうが、自弁は腰兵糧のレベルじゃないの?
小田原陣レベルではありえない
軍道具を自弁は当たり前だと思うが…(一度運べば済むし)
120:人間七七四年
10/02/21 07:27:22 aFnw/4Ot
>>114
だったらそういう仕事の重要性理解できるんじゃね?ってこと
なぜそこまでくさす(三成や正信に問題なしとは言わないが
121:人間七七四年
10/02/21 07:30:24 QW+xIW9h
>>120
キミは色々勘違いしているんだと思う。
忠勝は一言も補給や文官仕事を否定していない。
122:人間七七四年
10/02/21 08:10:08 aFnw/4Ot
>>121
ただ佐渡が嫌いなだけ?
123:人間七七四年
10/02/21 09:00:55 Hxk2nMBa
>>104の言葉は明らかな文官批判だろう
124:人間七七四年
10/02/21 09:47:23 LxqGXUUW
実際の書状とかが残ってないなら、後世に忠勝のイメージを仮託して作られた言葉かもしれんね
125:人間七七四年
10/02/21 09:57:35 ckUbeTrf
弁舌に走るな、黙々と為すべきことを為せ、とか
流行、趣味に耽溺するな、とか
別に文官非難の内容ではないと思うけど。
そう読み取れなくもないのは武道云々のくだりかな。
でも官僚でもなんでも武士だからなあ。
これも当たり前のこと言ってるだけだろ。
126:人間七七四年
10/02/21 10:08:00 nrU7foS+
本当に問題なのは
折を見て首を刎ねてしまうべきである
ここだと思うんだ
127:人間七七四年
10/02/21 10:09:02 AHN/Y1Be
とゆーか、茶の湯、歌道、弁舌って、官僚とか文官ってより外交官に必須なスキルじゃね?
128:人間七七四年
10/02/21 11:31:50 +/DS0r9E
>>126
そこの言い方をマイルドに変えれば武士の心得のいい話だよね
129:人間七七四年
10/02/21 11:35:05 pjGlAtGY
あくまでも本多の家の問題なのだからそれでいいのだよ。
130:人間七七四年
10/02/21 11:41:07 I/rbT9qv
『首をはねる』が、解雇するって意味の言葉なのか首チョンパなのかが分からん
さすがに頻繁に家内ヒャッハーのすすめを平八がするとは思えないんだけど…
解雇ならば分からんでもないけど、それでも家中が不安になったり暗くなったりしそうだな
江戸期だと、下手すると解雇の方が厳罰かもしれんけど
平八さんの時期は首チョンパの方が重罰っぽいな
131:人間七七四年
10/02/21 11:56:40 hl2XVShl
その前にこの時期、既に「クビになる」という成句があったのだろうかという疑問が。
132:人間七七四年
10/02/21 11:57:00 vz8iVimu
武士の本分を忘れるな
を厳しめに言っただけじゃないの?
まあ、井伊さんとこなら本当に刎ねそうな気がするが
133:人間七七四年
10/02/21 12:03:37 vz8iVimu
>>130
本人だけの刑に限れば、斬首刑は相当な重刑だと思うけどね
残酷な死刑(のこ引き・釜茹でとか)>斬首刑>切腹>改易して奉公構>普通の解雇
の順だと思う
134:人間七七四年
10/02/21 12:42:50 0S6COiOs
奉公構の有無は罪状よりも元の役職やらが大きいのでは?
家中の機密を握ってる奴を放置するわけにはいかんだろうし
135:人間七七四年
10/02/21 12:48:49 LxqGXUUW
高野山追放とかは解雇の部類かな
あとは閉門やら隠居やらがあるか
136:人間七七四年
10/02/21 13:01:51 pjGlAtGY
残酷な死刑(のこ引き・釜茹でとか)>斬首刑>改易して奉公構>普通の解雇>切腹>戦死
こっちじゃないか。
137:人間七七四年
10/02/21 14:43:20 q2guvBFF
討ち死にはむしろ加増対象だろうが
138:人間七七四年
10/02/21 15:02:01 I/rbT9qv
おい、切腹しろ、そうしたら家は取り潰さないから
こう言われちゃったら、江戸期ならみんな切腹しちゃいそうだね
戦国期ならもっといい主君に仕えるわい、で出奔だろうけど
家のことを含めて考えたら、改易追放の方がヒドいと感じるケースもあるかと
139:人間七七四年
10/02/21 15:06:30 L5w1HjFS
武士の打ち止めは切腹と浪人に限ると隆先生が…
140:人間七七四年
10/02/21 19:56:31 0FKHApfN
こんな物があった
★武運長久・学業成就 「最上義光指揮棒えんぴつ」
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141:人間七七四年
10/02/21 20:37:01 7lkb6q12
鮭ネタイラネ
142:人間七七四年
10/02/21 23:12:49 GsdSArBF
>>140
だがヒャッハーしすぎると氏家さんや鮭延さんの霊が枕元に立って叱られるに違いないw
143:人間七七四年
10/02/22 02:44:14 ohllKmN1
>>140どこがいい話?エピソードでも何でもないし。
144:人間七七四年
10/02/22 07:26:16 0S7L8j/F
保科正直は武田滅亡後、滝川一益の寄騎となったが、神流川の戦いで一益に従い北条軍と
戦って敗れ、家臣を抱えながら牢人となった。
「殿、ここはかつて武田家で同じく馬を並べたよしみをもって、真田昌幸どのに頼りましょう。」
正直の子・正光は昌幸の娘を娶っていたが、高遠落城の際、二の丸を守っていた保科家は、
本丸に残した人質を置いて逃げ延びた。正直は恐る恐る昌幸に頭を下げに行ったが、
謀将は保科家の面々を温かく迎えた。
「時に妻子親兄弟を捨てるなど、武士にはよくあること。恥辱と思われるな。」
「かたじけない。だが、これからどうしたものか…」
「そうですな…高遠の地、今は取るに足らぬ土豪ばかりとか。これを制し、伊那郡を切り取られよ。」
「しかし北条家臣となったわが弟・内藤昌月(昌豊養子)も、高遠を狙っているとの噂がある。」
「なぁに、かまう事はない。逆に昌月どのに頼み…」
昌幸に策を授けられた正直は、弟・内藤昌月の居城・箕輪城に向かった。
「…という訳で、兵を借りたい。」正直の頼みに、昌月は冷たく答えた。
「高遠は私が領して良いと、すでに小田原から朱印状をもらっております。あきらめて下され。
兄である貴殿を、悪いようにはしませぬ。わが家中で、重臣となるが良いでしょう。」
(実兄であるわしに、何たる言い様…!しかし昌幸どのが…)
『…と、昌月どのは言うでしょうが、グッとこらえて頭を下げ、兵を借りなされ。』
「…わかった。従うゆえ、高遠を攻める兵を貸してくれ。」
何とか五百人を借り受けた正直は、易々と高遠を手に入れた。「これでよし。昌幸どの、頼んだぞ…」
その頃、徳川家康のもとに真田昌幸からの書状が届いていた。
『上田領主・真田昌幸、高遠領主・保科正直と共に徳川にお味方いたす。ついては、領有を認める
朱印状を、それぞれに賜わりたし。』
さっそく酒井忠次を通じて朱印状が発行され、保科正直はこれをきっかけに伊那半郡を制圧した。
内藤昌月は高遠に居座った正直の非を小田原に訴え、徳川と北条の間に合戦が起こるが
北条は敗北し、そのまま高遠は保科領となった。家康は保科家の臣従を喜び、正直の後妻として
家康の義妹を与えるなど優遇したという、「弾正の子供たち」のお話。
145:人間七七四年
10/02/22 09:34:06 6W1dE8Cq
才にそれほど差がなければ軍師の差は歴然、か…。
146:人間七七四年
10/02/22 10:11:02 PYDsofOf
>>143どこがいい話?エピソードでも何でもないし。
147:人間七七四年
10/02/22 13:39:43 /NgbsO+5
>>146
じゃあ最上義守の逸話で
指揮棒に書かれている通り義光の仏教信仰をちょっと関連して
天正11年、最上義守が大病をわずらって危篤状態におちいった
そのとき彼は義光や義姫夫妻を枕元に呼び、大勢の重臣たちが居並ぶところで訓戒をあたえた
「今自分が亡くなったなら義光と輝宗が仲たがいして合戦をはじめるのではないか。
これだけが心にかかることだ。
最上と伊達がいくさをして、例え輝宗が勝ったとしても最上の主人になることはできまい。
逆に義光が戦いに勝ったところで奥州を手に入れることはできないだろう。
おまえたちのような小さな大名が、身内同士仲たがいをしたら、他の大名がとくするだけだ。
最上も伊達も関東の佐竹や越後の上杉に討たれてしまうだろう。
ただし、両家が仲良くしているならば、佐竹・上杉が一つになって攻めようとも没落することはないはずだ。
最上の氏家・志村よ、伊達の片倉・遠藤よ、おまえたちもこのことをしっかり胸におさめて、けっして背いてはならぬ」
ところが、あやうく見えた義守は、医薬のかいあってかほどなく快復する。
八日町浄光寺の伝えでは日蓮宗の旅の僧日満上人の祈祷が功を奏したとされ
これに感謝した義光が一万坪の寺地と伽藍を建立したのが同寺の始まりだとしている。
148:人間七七四年
10/02/22 14:23:00 EfMda3pl
>>102 らへんの方々
徳川家には個々の吏僚や奉行はいても、官僚団はいなかったですね。
これは北条家をまるごと吸収した際に手に入れたもの。
これが幕府官僚団を形成し、そしてそれはそのまま近代日本の礎となり、
更には戦後の経済成長も支えた。
でも起源を早雲公よりも古くまでさかのぼっちゃうと、
尊氏が建武の新政の混乱をブッチギリ無視して集めたイケメン集団の系譜が
後の日本を形作ったということに・・・
149:人間七七四年
10/02/22 14:24:03 S4vRiO7h
鮭ネタいらん
150:人間七七四年
10/02/22 15:20:15 A7dP0o9N
>>104
茶の湯→畿内屈指の数寄大名。大名物も多数所有
歌道→孫に有名歌人。本人も風流人
不義→裏切ってごめん
弁舌→主君に告げ口ゴニョゴニョ
味方にはしたくない・・・
151:人間七七四年
10/02/22 15:30:46 dQSgsanV
本多って細川に恨みがあったのか
152:人間七七四年
10/02/22 17:23:11 c9tTLAWg
鮭ネタいらん
153:人間七七四年
10/02/22 17:58:42 S/YQC9Km
>>147
ただ、義守の失敗はアレを呼ばなかった事だな。
って呼んでもいっしょか....。
154:人間七七四年
10/02/22 19:34:26 rkXe8dWj
>>153
義光伯父さんも最初は甥っ子の事を可愛がっていたみたいだし
そのまま最上領を譲れば良かったのにね
155:人間七七四年
10/02/22 21:25:28 AR1KfuEv
1570年4月14日の二条御所における能楽に集まったメンバーって地味に凄くない?姉小路は置いといて。
これって他に誰が参加してたんだろ
156:人間七七四年
10/02/22 21:31:21 bwX74uvR
置いといて、って姉小路さんなめんな、飛騨の国司だぞ。
……まあ、乗っ取ったヤツだけど。
157:人間七七四年
10/02/22 21:38:21 TO267KqH
自称姉小路の三木さんだなw
158:人間七七四年
10/02/22 21:47:03 NOmbjeDZ
乗っ取りでも従三位には叙任できてしまったからなw
それを可能にした資金力と人脈は侮れない。
159:人間七七四年
10/02/22 21:53:41 AR1KfuEv
だって書いてある他のメンバーが凄いのに一人浮いてるんだものw
でも何故か筆頭が姉小路なのも不思議w
160:人間七七四年
10/02/22 23:10:52 meYv1W0W
>>147
残念ながら既出なんだよね
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
161:人間七七四年
10/02/23 08:02:27 vplOK7J2
でも後日談は初めてだよな
162:人間七七四年
10/02/23 17:48:50 M7qRwq02
いい話でもないが
ちょっと前に出ていた通り、母里太兵衛の日本号は現存している。
(福岡市立博物館にある)
…が、文化財として何の指定も受けていない。指定してくれよ…
163:人間七七四年
10/02/23 17:54:21 5oDsR1mX
確か持ち主が拒否したら指定できないだろ
164:人間七七四年
10/02/23 19:23:14 3daMQjnz
銘といい箔といい相当な一品なのにな
165:人間七七四年
10/02/24 03:39:39 6Ca/hWf3
>>159
家格
166:人間七七四年
10/02/24 07:27:57 hvM5Xdgh
>>165
室町幕府内で言えば一色、畠山の方が格上だよね。間違ってたらゴメン。
当時でも姉小路の名前は古物だろうに、それでも家名優先とは本当にいい名前名乗ってたな、三木さんは
167:人間七七四年
10/02/24 10:05:13 RqQ2vfLz
文化財指定を受けると移動とかが容易に出来なくなる・・・くらいかなぁデメリットは
金銭面でのメリットしかないから金銭に困ってなければ受けなくてもいい程度
168:人間七七四年
10/02/24 16:31:50 vnGqCpBs
>>167
あと、担当の役人の態度が尊大でぶち切れてって可能性かな。
知り合いのお寺さんの門が歴史あるもので、補修するのに個人じゃまかなえないってんで由来とかまとめて市に申請だした時に担当者の態度に何度やめようかと思ったと語ってた。
「指定してやる」といわんばかりの横柄な態度で、自分の金で補修もまかなえないなんて落ちぶれたもんですねみたいな嫌味言われたとか。
169:人間七七四年
10/02/24 16:56:50 qeAjuZWX
京都?
170:人間七七四年
10/02/24 19:44:42 iXkJjDN3
伊勢の国司だった北畠も、室町幕府からはそれなりの好待遇?
171:人間七七四年
10/02/24 19:52:36 drpOKt5v
>>170
何度も南朝勢力と連動して幕府に反逆しても、何故か最終的に所領安堵される程度に。
172:人間七七四年
10/02/24 20:18:24 12RNF1jI
将軍から一字貰ってるしな
173:人間七七四年
10/02/25 01:34:00 Iuv63Z4R
酒井忠次と信長
長篠の合戦(設楽ヶ原会戦)直後のこと。
鳶ヶ巣山の奇襲を成功させ、武田軍を設楽ヶ原におびき出す大功を立てた
徳川家四天王筆頭酒井忠次に、信長がねぎらいの言葉をかけた。
「おお、酒井殿!此度の貴公の働き、見事であった!
まるで後ろに目があるかのようであったぞ!」
忠次はニコリともせずこう答えた。
「いえ、後ろに目はありません」
( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)
あまりの空気読まない発言に居合わせた諸将、呆然。
( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)( ゚д゚)
一方、信長は空気を読んだ。
(;´ー`)
あ、うん。ごめんね。
別にそういう意味で言ったわけじゃないんだ。
えと、今日はお疲れ様。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長の面前での
この振る舞いに、世の人は忠次の豪胆を讃えたという。
三河武士、かくの如し。
174:人間七七四年
10/02/25 01:41:34 i4MzDWyv
>>173
そんな忠次さんも三河衆の中ではかなり社交的な方なんだよ!
得意技「海老すくい」で、何度殺伐とした場を和ませてきたことかw
175:人間七七四年
10/02/25 02:15:31 lLvC4f9O
どれ……戦の終りを祝ってひとつそれがしが……
おっ 出ますぞ!
酒井様の「海老すくい」が!!
はぁ~~~ 浜名の~うみ~~~に
そい~そいっ
176:人間七七四年
10/02/25 02:45:52 1EbwdmTz
>>166
飛騨国司は公家
一条と同じだよ
三木は主家の衰えに乗じて飛騨を制圧
さらに姉小路の内紛を利用して家格も奪取する目聡い一族
なのになんで佐々に付いたのか?
伊達騒動でも姉小路の娘(宗興正室)が絡んでくるけど、これは再興されたほんものの姉小路家
177:人間七七四年
10/02/25 03:26:24 lZHnDqaJ
>>175
これはこれで味があるものでござるなボヒヒヒヒwwwwww
178:人間七七四年
10/02/25 09:02:36 XtQBLR92
>>175
さすが酒井様、俺たちに出来ない舞を平然と舞って見せるッそこにシビれる!憧れるぅ!
179:人間七七四年
10/02/25 11:06:34 ZMULYHUG
>>168
それは地域によって違うのでは
うちらの方じゃむしろこうやったらもっと金が出るぞってイケイケだったぞ
180:人間七七四年
10/02/25 11:13:02 Q5z6k+/H
>>175
殿以外の人間に褒められる訳にはいかんということか喃。
別組織の親分に褒められた挙句に身を滅ぼした義経の例なんか、
武士ならよく知ってるだろうし。
181:人間七七四年
10/02/25 11:47:01 eLhHNsGI
実はめちゃめちゃ緊張してたとか……ないか、三河武士だし。
182:人間七七四年
10/02/25 12:12:33 +rTdDHwd
>>180
義経が滅んだ理由はまた違うと思うけど・・・スレ違いなので遠慮しときます
183:人間七七四年
10/02/25 12:18:37 SaXVchiX
>>173
忠次が安土城を見て「大したものではありませんな。」と言った、という話を聞いた
家康だったか信長だったかが「ああ、あいつならそう言うだろう。」と答えた話がなかたっけ?
184:人間七七四年
10/02/25 13:07:11 jTGTU1Cq
まぁ、ドヤ顔で言ったんじゃなくて
冷や汗だらだらで言ったんだと思う
そういうやせ我慢って割と尊重されるし
じゃなかったら家康がまず許さないと思う
平然と言う様なら尊大で無礼なだけだから
185:人間七七四年
10/02/25 13:23:09 mKh4Dgv0
>>184
そこまでやせ我慢て印象もないなぁ
素で爆弾発言しても嫌味や尊大な態度にならないのが天然物の凄さだと思う
無骨なキャラは逆に大事にされるって愛されるっていうか
「自分、不器用ですから…」みたいな
186:人間七七四年
10/02/25 13:26:44 inEfsfs/
関東では超メジャー武将の太田道灌。
多数残る逸話からは才能をひけらかし、しかも結果を残してしまう有言実行のヤな奴という印象ですが……
ある時、道灌の娘が疱瘡の病にかかった。
「ね、ねぇ、大丈夫? 苦しくない? パパに何か出来る事ない?」
可愛い娘の為に、わざわざ京都から疱瘡に霊験があるという一口稲荷を勧請して江戸城内に祭った。
現在の太田姫稲荷神社である。
ある時、道灌の妻が男の子を産んだ。
「よぉし! パパ、息子の為に頑張っちゃうぞっ!」
可愛い息子の武運長久を願って八幡神社を建てた。
現在の誕生八幡神社である。
ある時、江古田原で豊島泰経と戦をした。
散々に追い散らされ、道灌は自軍とはぐれて一人、道に迷ってしまった。
と、目を巡らせたその先に……
「にゃ~ん」
「ねこ~~(はぁと)」
もう回りは見えていない。既にココが戦場であるコトすら忘れてしまったようだ。
「ねこさん~~もふもふさせて~~」
猫の方は鎧武者に抱っこなんかされたくない。当然逃げる。目をハートにして追う道灌。
猫が飼われていた寺に逃げ込んだ時、ようやく道灌はココがどこだか気がついた。
自分の位置さえ判れば軍勢と合流するのも簡単だった。
「殿! ご無事でしたかっ」
「う、うむ。そこの寺の猫が道に迷った私を皆の元まで導いてくれたのじゃ。これは仏の導きに間違いない。
この戦、勝ったぞ!(もふもふしたかったのに……)」
「おぉ~~~!!」
士気の上がった太田軍は見事逆転勝利を収め、豊島氏を滅ぼした後、その寺に地蔵堂を寄進した。
現在の自性院の猫地蔵である。
敵にも上司にも厳しかったが、子供と動物には弱かった太田道灌である。
187:人間七七四年
10/02/25 15:41:41 VOkMJT4d
ちょwww
我が子の幸福を願って神社建てまくるのはともかく
仮にも戦場でしかも敗走中なのに
もふもふを追いかけるなんて何と暢気なwww
だが、気持ちはわかる!
188:人間七七四年
10/02/25 16:29:35 xB0D6VMn
話ぶった切って悪いんだけど、まとめブログの
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
にある、片倉小十郎が市松に「ちんちくりんのりんりん」って言い返した話って
どの本に載ってるの?出典が気になって・・・
189:人間七七四年
10/02/25 17:01:26 u+QR3Z/P
竹を求める数寄者が居るのだから猫を求める好き者が居ても見事だと感心はするが少しもおかしくない。
190:人間七七四年
10/02/25 17:29:01 cES4Pvgc
戦場で竹を求めるのも猫を求めるのもどっちもおかしいとは思うが、だがそれがいい。
191:人間七七四年
10/02/25 17:32:06 rV8PAXOF
敵から逃げる中で、猫と追っかけっこをする人間がいてもいい。自由とはそういう事だ。
192:人間七七四年
10/02/25 17:43:35 u34tvjuY
>>188
小十郎の話は知らないが、
「むちょうとうのへんぷく(無鳥島の蝙蝠)」に
「きんぷくりんのぶくぶく」などで応酬する使者の逸話はすごく多いな。
信玄と鬼小島、信長と中島可之助などなど……講談であちこちに応用されたんではなかろうか?
193:人間七七四年
10/02/25 19:15:45 FCValMqL
阿部忠秋のエピソード
ある寺の僧侶が他国の寺へ転属する様命令を受けた。ところがこの僧侶、どういう訳か頑として
この命を聞き入れなかった。そこで忠秋は松平信綱と共に説得に向かった。
最初に信綱が僧侶に理路整然と僧侶に転属の理由を述べ説得したが・・・
僧侶「信綱様の申される事、一々最もだと思います。」
信綱「おお、では転属の件、受けて頂けますな?」
僧侶「だが断る!拙僧の最も好きな事の一つは理路整然と理由を話せば納得するだろうと思っている者に
「否」と断る事です。どうしてもと申されるなら他の方を転属させればよろしいでしょう。」とかえって反発してしまった。
今度は忠秋が説得を試みた。
忠秋「「誰だ」って聞かれる前に自己紹介しますが私はおせっかい焼きの阿部忠秋!同僚の信綱殿が心配で付いて来た。
僧侶殿、どうしても他の寺へ行きたくありませんか?」
僧侶「たとえこの事でお咎めを受ける事になろうとも、ここから離れる気はありません。」
忠秋「では咎めとして御坊には転属を申し付ける!これなら文句はありますまい。」と忠秋がいったとたん、僧侶は笑いながら
僧侶「これは一本取られましたな。知恵伊豆様(信綱)より豊後様(忠秋)の方が上手ですね(知恵がある)。私もクールに去るとしましょう。」
と話を受け入れたという。上手く相手の揚げ足をとった忠秋のいい話。
194:人間七七四年
10/02/25 19:37:26 wFCamCAf
俺が信綱なら、このクソ坊主を叩き斬ってやりたいw
195:人間七七四年
10/02/25 20:10:46 Q6NiX4Ea
昔々あるところに、おじいさんとおばぁさんがいました
おじいさんは山に首つりに、おばぁさんは川にどんぶらこどんぶらこ
196:人間七七四年
10/02/25 20:55:13 3lmPwJE/
>>193
文章の感じからして忠秋が僧侶に向かって「コイツはくせぇー!」とかやるのかと思ったが、
さすがにそんなことはなかった
197:人間七七四年
10/02/25 21:06:46 jo1znmYw
理由が分からないからどうしてもただのへそ曲がり坊主にしか読めない。
禿頭に落書きしてやりてえw
198:人間七七四年
10/02/25 21:14:36 jTGTU1Cq
こういうの好きそうなのってやっぱ禅僧かなぁ
199:人間七七四年
10/02/25 22:08:02 3+qGwjnD
>>191
ロジャー乙
200:人間七七四年
10/02/25 23:48:54 11u1C/Np
海老すくい踊りってどんな踊り?
大河ドラマとかで披露されたことあるかな?
201:人間七七四年
10/02/26 00:07:20 9rJSOCXU
漫画板へうげものスレより
651 名前: 名無しんぼ@お腹いっぱい 投稿日: 2010/01/23(土) 21:00:26 ID:Le1hu93a0
所用で酒井家のご当主にご挨拶に伺ったのだが、つい弾みで「えびすくい」について聞いてしまった・・
ついかっとなってやった
今は反省している
へうげものという漫画があることはご存じなかったそうです。
665 名前: 名無しんぼ@お腹いっぱい [sage] 投稿日: 2010/01/23(土) 22:20:49 ID:Le1hu93a0
>>652
まず、この二つの話を知っているのが前提になります。
「酒井の太鼓」
徳川家康が三方原の戦いに敗れて、浜松城へ逃げ帰ってきた後、武田方は勢いよく城門の近くまで追ってきた。
このとき家康は、後から逃げ帰って来る者のために、城門を開いたままにして、城門の外へ、とてつもない大きなかがり火を焚かせた。
武田方はこの大きなかがり火を見たとたん「何か策略でもあるのではないか」と城の近くで様子を見ることにした。
すると城の中を守っていた酒井尉忠次が、突然、太鼓を高々と打ち鳴らし始めた。
驚いた武田方は「きっと何かあるにちがいない」と思い、急いで浜松城から離れていき、徳川家康は、かろうじて城を守ることができた。
「海老すくい」
三方ケ原の一戦で敗れて意気消沈している徳川軍の前に、またもや甲州武田軍が来襲してきた。
家康は、すっかり元気を失くしている所将を見渡して、酒井忠次に海老すくいの踊りをいたせと命令した。
これから出陣という間際に、家臣筆頭の酒井に海老踊りをいたせというのだから、これはなんたることかと一同驚いた。冗談にもほどが
すぎると呆れていると、よもやと思った重臣中の重臣が、やおら立ち上がると珍妙きわまりない海老すくいを踊り出したのである。
泥鰌すくいに似た滑稽な踊りに、一同思わず笑い転げてしまった。
そのためあの憂鬱顔も消し飛んで陽気な男たちの哄笑がつづいた。
で、ご当主のお話。
酒井の太鼓は歌舞伎の演目になっているくらい有名な話だが、歴史上の出来事としては「史実」と言いきることができるものではなく、
「逸話」と呼ぶべきものでしょう。忠次公も踊り自体は知っていたかもしれないが、海老すくいの話も同じように「逸話」と言うべきだと
思います。とのことでした。
あ、それから、踊れないそうです(笑
202:人間七七四年
10/02/26 00:31:00 KS4CzbBl
>>200
いわゆる「ドジョウすくい」の原型ですね
203:人間七七四年
10/02/26 00:36:52 ZtZtOKXE
オレも海老すくい踊りマスターしたい。
アンサイクロペディアに画像があるけど、あれじゃよく分からないよ。
204:人間七七四年
10/02/26 01:03:21 HDJ29+YD
>>173だけども
出典の記述を読む限り、忠次は本当に、
「後ろに目がある、というのはほめ言葉である」
ということが理解できなかったんだと思う
信長もそれを読み取った上でフォローを入れてる
悪意でああ返されて怒らないほど人間ができてる人でもないし
205:人間七七四年
10/02/26 01:47:12 jA4/AuOD
>>200見た瞬間「どじょっこほい」の悪夢がフラッシュバック… orz
どじょっこほいみたいな、困った時の万能ダンスじゃなくてよかった>海老すくいの逸話
206:人間七七四年
10/02/26 02:11:52 1fjA9n1J
このスレのアイドルの一人である細川忠興が手紙魔で
息子の忠利とこまめに手紙のやり取りをしてたのは有名な話ですが、
転封時の年貢問題で揉めに揉めて犬猿の仲になったお隣の黒田長政の行動を
半ばストーカーのように監視しては(こき下ろしながら)報告し合っていたのもたぶんよく知れた話だと思います
さて、その黒田家、二代藩主の時代にお家騒動を起こしたどさくさの時に都合の悪い文書を処分してしまったのか、
長政時代までの資料にやや乏しいところがあるようです(遺言状も偽書疑惑があるくらい)
黒田如水・長政が筑前に加増転封されて間もなく築城にかかったのが別名舞鶴城こと福岡城です
この福岡城、その規模も石垣も相当立派な52万石にふさわしい名城だったようなのですが、天守がありません
1646年に作成された『福博惣絵図』に天守が描かれていなかったため、最初からなかったというのが通説でした
ところが近年になって、細川親子の往復書簡の中に「ふく岡の天主、又家迄もくづし申し候。」という一文が発見されます
福岡城には天守閣があったんだけど長政が幕府に気を遣ってぶち壊した説が浮上しました。
(ちなみにこの書状の前年に福島正則が城の改修問題を理由に改易されたことも無関係ではないかもしれません)
現在、福岡城の天守閣論争はいまだ決着がついていないようですが、
細川親子が黒田家について細かく情報交換をしていたおかげで、新たな可能性が示されたわけです
さらに、毛利輝元が1611~1612年頃、密偵を使って九州の諸藩の城郭位置を調べさせた記録が発見され、
そこにも福岡城の天守が描かれているそうです
ちなみに福岡城は1601年に築城が開始され、1607年に完成しています
1604年に亡くなった黒田如水はその完成を目にすることはなく、
1602年に誕生した黒田忠之は城が完成してないので、実は筆頭家老であるあの栗山さんちで生を受けたとか
個人的には、父と同じく吝嗇家ではありながら見栄っ張りな性分に見え隠れする長政が
あれだけ立派な天守台を作っておきながら、天守閣を立てなかったとは思えないんですけどね
207:人間七七四年
10/02/26 02:51:28 tWngrnu0
「長政は変わりもんだから、そういうこと(天守破壊)もやるだろう」って書かれてたってやつかな。
208:人間七七四年
10/02/26 02:53:05 47OcUZ6C
>>207
そうなると、長政からしちゃ、まさしくお前が言うな、な文だなあ。
209:人間七七四年
10/02/26 03:24:09 K8L6PN/u
大坂の陣で天守が砲撃目標になった戦訓から
実用性を考えて天守撤去とかした可能性は無いだろうか?
210:人間七七四年
10/02/26 03:43:05 tWngrnu0
大坂城普請の部材に転用したっていう噂話があったらしい。
211:人間七七四年
10/02/26 09:57:12 u8cIdJIO
伊達政宗の家臣のお話
政宗の家臣に大塚宗頼という者がいる。宗頼の父は天文の乱において中野宗時、牧野久仲、桑折景長と並ぶ最高の功労者として名をあげた。
宗頼も伊達家に仕え、政宗の信頼厚い人物であったが、岩出山移封の時、自分が老年であったので未開の地で土地を開拓していく自信がなかった。
政宗に帰農の申し出をして、自分は置賜の地に残る事にしたが、代わりに自分の息子二人をついて行かせる事にした。
政宗はこれを許し、息子二人には名家に相応しい知行を与えようとしたが、この息子二人は
「父は帰農し、大塚氏は断絶しました。私たちは新しく大塚家を建てただけですのでそのような立派な知行はいりませぬ」
と頑なに断った。政宗は納得し、この二人にはほんの少しの知行180石を与えただけにしたが、
代々伊達家に仕えてくれた大塚氏の事を思い、長男の方には「伊達一族」の格式が与えられている。
男気がある大塚氏とそれを高く評価してくれた政宗のちょっといい話?
212:人間七七四年
10/02/26 13:16:01 8vvH5+QA
武将兜ペーパークラフト無料ダウンロード
URLリンク(www.yonezawa-naoe.com)
徳川四天王の二人目、榊原康政が登場。
以後は井伊直政→本多忠勝の予定。
213:人間七七四年
10/02/26 18:08:39 TM9WqURO
>>192
お礼遅れてすいません。
親切にありがとう。結構あるタイプの話なんだな~初めて知った!
214:人間七七四年
10/02/26 19:42:59 ZQ0pIszw
>>212
黒田長政のなら黒い厚紙ペタッとはればできそうだな
215:人間七七四年
10/02/26 20:04:02 2LhlYkWX
>>214
ワロタ
216:人間七七四年
10/02/26 20:24:37 hlwC5mYe
天地人の企画なんだから、兼続のはベースボール前立ての兜も作るべき
217:人間七七四年
10/02/26 20:44:34 FnS/7hxi
>>214
大水牛のでも角が結構大変だし、兜鉢も桃形だからそこで転用できるのはないと思うけど・・・一の谷も構造が難しいんですよ?
一の谷は、歯磨きチューブの使い終わりによく似てるw
218:人間七七四年
10/02/26 20:48:22 ryUBB9NV
>>214
一ノ谷形兜だよね
一ノ谷形兜っていうと黒田長政のが有名でさ、なんじゃこれwって話題になるたびに
「当時の流行だよ、義経の一ノ谷での活躍をイメージ化した由緒正しい意匠だよ」みたいに
言われるけどさ
こないだ読んだ甲冑の本に「一ノ谷形」兜が複数載ってたけど
黒田以外はもっとおとなしくて、形も工夫されててなかなかスタイリッシュな兜だったんだよ
これは流行ってもおかしくないな、と思った
みんながみんなソーラーパネルみたいじゃないんだよ
なのに黒田長政の兜ばっかり有名になって、また子孫が似たような形のを愛用するもんだから…
219:人間七七四年
10/02/26 21:03:19 KS4CzbBl
>>218
この肖像画の力もあるよね
URLリンク(www.sengoku-expo.net)
長政の苦虫を噛み潰したような表情といい兜のインパクトといい、傑作だわw
220:人間七七四年
10/02/26 21:04:50 q9tjcJF6
馬のたてがみって結ぶもんなん?
221:人間七七四年
10/02/26 21:11:13 QnYhq1Ac
くるくる回ってレーダーになるんじゃないの?
222:人間七七四年
10/02/26 21:18:33 1fjA9n1J
>>219
その絵は幼少時から長政とともに育った側近中の側近で義弟の黒田美作が長政一回忌くらいに描いたものだから、
適当な絵師が伝聞とかおぼろげな記憶を頼りに描いた他の肖像画に比べるとおそらく本人の姿に忠実なんだと思う
一ノ谷の兜は、半兵衛→正則→長政と渡っているんだよね、確か
長政が交換してもらったのはレプリカらしいが
223:人間七七四年
10/02/26 21:21:46 FnS/7hxi
後の福岡藩主がつくらせた、長政の兜のレプリカ。
現在東博所蔵品の画像。
URLリンク(image.tnm.jp)
URLリンク(image.tnm.jp)
てっぺんがかなりオーバーハングしてるのがわかると思います。
224:人間七七四年
10/02/26 21:23:03 vZMOWD1R
>>220
競馬中継見なさい
225:人間七七四年
10/02/26 21:28:49 QaUb4ziH
>>162
見に行った時、三名槍の一つなのにあまりプッシュされてないな~と思ったら、何にも指定されてなかったのか!
日本号の横に、市松の「酒飲んだらやるよ」から次の日の「え、そんな事言ったっけ!」までの話が、
小学生にも分かる位軽快に説明されているんだけれど、も少し市松に優しくしてあげて(ノ∀`)
226:人間七七四年
10/02/26 21:37:18 QaUb4ziH
>>222
じゃあ、あのしかめっ面が長政のデフォってことか・・
227:人間七七四年
10/02/26 22:02:37 lBZNSwhI
>>226
まぁ、何事につけても親父さんと比較されてダメだしされてりゃそんな顔にもなるわな。
228:人間七七四年
10/02/26 22:44:33 r5vH1VDH
単純に
苦み走った俺シビィイ、俺カッコええ、なのかもしれんけどなw
229:人間七七四年
10/02/26 22:47:07 P63uiLM5
若殿は自分に自信が持てないから自然体で居られないのだ
暴虎馮河の行いもその裏返しよ、大殿と比べるととてもとても…
230:人間七七四年
10/02/26 22:56:59 tzwGmNeT
又兵衛自重w
231:人間七七四年
10/02/26 23:14:41 eV2RmtHd
能力だけなら経歴見ても実績見ても戦国最高クラスだからなー>官兵衛
初期の寡兵での戦いでもすげぇ勝ち方してるし大軍運用させても隙がない
官兵衛が織田にいたら最低でも明智は超えてるだろ
232:人間七七四年
10/02/26 23:18:30 1fjA9n1J
如水さんはここ一番でポカが多いというか、いまいち出世できないタイプだからなあ
233:人間七七四年
10/02/26 23:20:54 f0qHaXOf
何でも切れる妖刀みたいな奴に大権持たせる奴なんてそうはおらん
234:人間七七四年
10/02/26 23:23:32 47OcUZ6C
妖刀如水……うん、ありそうだ。
235:人間七七四年
10/02/26 23:23:37 eV2RmtHd
ラスボス全盛期の如水の見極めがハンパなかっただけじゃね
236:人間七七四年
10/02/27 00:16:41 xkQoMqng
クロカンって三国志の賈詡とイメージが被るんだよな。
有能さといい、その能力の割に出世できない点といい、だからといってそこそこ重要ポジションで畳の上で死んでる点といい。
237:人間七七四年
10/02/27 00:20:45 ZaGZ/ehm
>>231
荒木村重説得失敗(織田家)
238:人間七七四年
10/02/27 00:23:28 S0EMmY1A
市村正親って61歳なのか?
239:人間七七四年
10/02/27 00:34:58 1YWh0T7N
>>237
あの頃は織田家に仕えたばっかだったしせっかく官兵衛が頑張って構築に一役たった
織田家の中国戦線が瓦解する瀬戸際だったからあそこで特攻したのはある意味しょうがない
結局一年も独房の劣悪な環境で生き残った事といい、説得の献身といい、それで信長と秀吉に認められてる
事といいある意味いい話だろ
栗山さんとの主従話も戦国屈指のいい話だしな
240:人間七七四年
10/02/27 01:10:14 /o0i9Q04
関ヶ原で家康に楯突いてしまった上杉や島津の
江戸でのエピソードは無いでしょうか?
いびられて針のむしろだったのか
内府と戦った男として畏敬の念をうけていたのか
241:人間七七四年
10/02/27 01:19:36 EXLyfxDY
特筆するような逸話は知らないなぁ
大坂の陣で官僚達が出した関所の強化案を却下すると、その理由を問う若手官僚に
今の世なら儂以外だと景勝なら解るだろう、景勝に聞けって家康が答えたって話とか
242:人間七七四年
10/02/27 01:25:58 1YWh0T7N
また隣の変な兜の人の通訳を聴く仕事が始まるお・・
243:人間七七四年
10/02/27 01:28:08 XzOVo14E
島津は例の息子が江戸でも賑やかしいことやってるじゃん
244:人間七七四年
10/02/27 02:09:29 748wWMX7
家康が島津義久を褒めた話って、あれ将軍就任後じゃないの?
上杉家は直江が一生懸命徳川家ヨイショしてるね
245:人間七七四年
10/02/27 07:54:02 4uhwwiOa
>クロカンって三国志の賈?とイメージが被るんだよな。
カクのほうがポカがない
歴史にのこった発言でも
クロカン「御運の…」
カク 「エンショウとリュウヒョウのことを…」
まあ秀次をどうしようか悩むラスボスの前で
「(一族内で殺しあって三代しか続かなかった)鎌倉将軍家のことを考えておりました」
と言うクロカンさんも見てみたいが
246:人間七七四年
10/02/27 08:09:23 Rbj66vnb
謙信とか信玄は死んでからも畏敬の対象でちょこちょこ名前でてくるけど信長は死んだらあんまり話題にもなってないね
247:人間七七四年
10/02/27 08:35:36 SyZn6CiU
信長話題にしたら、秀吉が「え、何、俺ディスってるのメーン?」状態になりそうだし。
248:人間七七四年
10/02/27 08:57:34 W0htTffY
秀吉は信長の死後その子供殺したり改易したりで
信長に受けた恩を仇で返したみたいに言われたし
信長の事を話題に出すのを嫌ったらしいね
249:人間七七四年
10/02/27 09:04:01 M3FZUhWb
家康も信玄のことは喜んで話したが信長のことはあまり話さなかった、という。
250:人間七七四年
10/02/27 09:10:16 W0htTffY
家康は信康の切腹関連で複雑な感情があったのかな
あれって信長が命じた説と家康が切腹命じて信長には許可求めただけ説あったけど
結局真相は不明なんだっけ
251:人間七七四年
10/02/27 11:18:09 MFvoXu7/
武田信玄の兜…あれでいいのか?
252:人間七七四年
10/02/27 11:26:52 GoNdwPo8
>>245
ちょっとスレ違い(板違い)だけどカクの場合、周辺の安寧を守ることにかけてはピカ一だけど、国家的な戦略はイマイチというか、ちょっと甘い面もある。
本人にあまり出世欲とかそういうのは無かったっぽいせいだと思うけど。
253:人間七七四年
10/02/27 11:53:56 NRB9O0O4
>>252
賈?は正史を読む限り、本気で漢を盛り立てようと思ってたみたいですね
メッキが剥がれてきた曹操と、晩年はウマが合わなかったようですし
254:人間七七四年
10/02/27 12:24:00 JFGxx/O3
小早川隆景の評通り、少し軽忽なところがあるのが惜しいな。
実際竹中半兵衛が長政匿ってくれてなければ、伊丹城の件は残念な話になっていたかも。
255:人間七七四年
10/02/27 12:49:34 SyZn6CiU
>>252
彼が甘いとは思わんけどなー。
事実問題として曹操らは彼の進言通りの失敗をしてるし。
むしろ曹操らの見通しの甘さだよあれは。
256:人間七七四年
10/02/27 12:54:44 3lznXYWk
>>252
単に賈詡の戦略を曹操や曹丕が採用しなかっただけ。
無論、賈詡の進言通りにしたからって成功した保障なんか無いが
曹操、曹丕ともに進言却下して兵を進めて敗北した以上、戦略はイマイチとは言えないんじゃないか。
257:人間七七四年
10/02/27 13:00:58 XY3Cjgw8
いい加減スレ違い
258:人間七七四年
10/02/27 13:40:46 GoNdwPo8
>>255,256
董卓死後の件や曹操の荊州討伐の件なんかは裴松之の批判は厳しすぎるとは思うがそれなりに理はあるとおもうよ。
>>257
ごめんね。
259:人間七七四年
10/02/27 14:31:08 1H/hPpKI
>>249
旧武田家臣への話題とか、自分に勝ってる相手だし、持ち上げなきゃならん側面もあるかね
信長の死後、織田の家臣を譜代として組み入れてたっけ?家康は
260:人間七七四年
10/02/27 14:35:16 7fEXyOrX
みんながいろいろ空気読んで信長の話しないのに
一人だけ「俺信長公大好き!超カッケー!」
とかまったく空気を読まない伊達のまーくん
261:人間七七四年
10/02/27 14:51:57 kTOQN0z9
>>260
お前面識無いだろw
父の方は文通とかプレゼントとかやってる筈だけど
262:人間七七四年
10/02/27 14:56:29 rBJn/SM1
実際の信長を知ってる人と知らない人の違いだろうな。その辺は
家康は信長絡みでいろいろ苦労してるだろうし。
263:人間七七四年
10/02/27 14:57:40 DNKSNjtn
>>259
水野ぐらいじゃないの
264:人間七七四年
10/02/27 15:35:44 7yvFFL7p
ありゃ親戚だしな
ただ、徳川傘下に入るときは当主処断してキッチリ影響力はそいでからだし
265:人間七七四年
10/02/27 16:42:18 SlIwXkrV
豊臣秀長て水野一族なんだよな
266:人間七七四年
10/02/27 17:43:59 MFvoXu7/
>>262
まさにそのとおりだな
すげー苦労した
267:人間七七四年
10/02/27 17:45:38 Lo8Ff1lr
トヨタの仕業にされる予感w
268:(1/2)
10/02/27 18:16:14 LLCPYtkW
増田長盛の子に、兵大夫盛次という男がいた。
関が原後、処罰を受けた父とは異なり、徳川義直に召抱えられた。
さて、大坂冬の陣において、盛次は義直に従って出陣した。
しかし、旧主への想い捨てがたかったのだろうか。
大坂方が弱体だと聞けば涙を流し、寄せ手が苦戦していると聞けば大いに喜んだ。
これを聞きつけた徳川家康は、怒ることなく感心した。
「さすがは長盛の子よ。豊家の恩を忘れぬ志、見事じゃ」
こうしたことがあったからか、夏の陣ではお許しがあり、盛次は大坂方へ加勢した。
彼は豊臣秀頼から賜った赤地錦の羽織をつけ、若江の陣で味方が敗戦するなか、独り奮戦した。
そして、沢田但馬の従者と組討し、今にも止めを刺そうというところで、藤堂高虎配下の磯野平三郎に討取られた。
首を得たものの、平三郎らは盛次の顔を見知らなかった。
やがて、分捕りした刀が、秀吉から長盛への下賜品と分かり、正体も知れたということである。
269:(2/2)
10/02/27 18:17:16 LLCPYtkW
一方の増田長盛。
彼は関ヶ原の折の責を問われ、高力清長に預け置かれていた。
大坂の陣が起こると、清長は長盛へこう告げた。
「あなたは豊家の御恩深い身の上。秀頼様の行く末、さぞ気になるところでしょう。
大御所様は、あなたが大坂へ入ることをお許しになりました」
盛次のことがあったゆえの沙汰だろうか。
だが、長盛は答えた。
「大御所のご配慮、まことにありがたく存じます。
しかしながら、ハハハ、今のそれがしはこの通り落ちぶれ、家臣の一人もおりませぬ。
大坂へ参り、新参の浪人の下知をしたとて、さしたる戦ぶりはお見せできますまい。
かえって、それがしを重用してくだすった太閤殿下の名を汚すことになりかねず、それこそ無念。
このまま、配所で生を終える所存です」
やがて、盛次が死に、豊臣家が滅亡したことを、長盛は清長から知らされた。
「この上は命を長らえる理由もない。どうか、お暇をいただきたい」
長盛はそう清長に請い、切腹したという。
270:人間七七四年
10/02/27 18:19:15 SlIwXkrV
でその時、増田盛次を大坂城に入れた責任を問われて、父親の増田長盛は処刑。
271:人間七七四年
10/02/27 18:34:44 OR1RbpWC
>>269>>270
なんという樅の木は残った。
272:人間七七四年
10/02/27 18:52:06 inAtCu7F
家康が浦和周辺で鷹狩りをしたときのこと。
今泉村というところを通りかかると、小さな寺があった。
家康が住職に寺の名を聞くと、住職は片田舎なので名は特にありませんと答える。
家康がふと脇を見ると、軒下に十連なりに野菜が干してあった。
そこで、家康は、
「今日から干菜山十連寺と名乗るがよい。」と名付け、以後、寺を保護したという。
田舎の寺にも名前を考えてあげる家康のいい話・・・なのだが、
名付けのセンスについてはあまりなかったようである。
過去、まとめスレに出てきた家康の名付けの例
また、一番やり→又一と名乗れ。
七の字を書くとき最後に左に曲げた→左七と名乗れ。
本多家に山県昌景と同じ障害を持った子が生まれた。→本多山県と名乗れ。
273:人間七七四年
10/02/27 18:55:17 aBgqETHL
ネーミングセンス無いってちょっとかわいい(?)よね
付けられた方は堪ったもんじゃないと思うが
274:人間七七四年
10/02/27 19:11:30 1H/hPpKI
奇妙とか茶筅とか・・・
275:人間七七四年
10/02/27 19:18:57 inAtCu7F
あるとき、家康が義直(当時13歳)、頼宣(当時11歳)、頼房(当時10歳)の3人の子を伴って庭を歩いていると、蜂が襲ってきた。
義直と頼宣はあわてて逃げたが、頼房は顔に止まった蜂を片っ端から手でつかんで投げ捨て、ついに一歩も引くことがなかった。
また、あるとき、家康が焼き栗を息子たちに食わせてやろうと思って、囲炉裏の中に栗をたくさん放り込んだ後、三人を呼んだ。
火が回ると栗が勢いよくはじけ、義直と頼宣は驚いて飛び上がったが、頼房は近くに飛んできた栗を囲炉裏に投げ入れ、平然としていたという。
さらに、後年、頼房が家光や義直と狩に出かけたとき、義直が仕損じた猪を一矢でしとめ、
家光から、射撃の名人だった能登守平教経にちなんで、「今能登守」と賞賛されたという。
あのめんどくさい名君、義直公と豪胆な南海の龍、頼宣公がかませ犬にされてしまう、頼房公の肝の据わったお話。
なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。
276:人間七七四年
10/02/27 19:23:03 wHinKBLb
>>275
> なお、3番目の話を聞いた頼宣は、孫の新之助を、一撃で猪を殴り殺すよう鍛えたそうな。
マジで腹抱えて笑ったw
どんなだw
277:人間七七四年
10/02/27 19:28:41 1YWh0T7N
信長のそれはある意味センスあるだろw
家康は実用一点張りって感じ
写実派というかw
278:人間七七四年
10/02/27 19:31:13 Uu8ny0CJ
>>272
山県昌景と同じってことは口唇口蓋裂ってことか
なんにしても某ゲームではあんな美男子なのになあ…当時知ったときはショックだった
幸村も腰のひねくれ曲がった爺ちゃんだったらしいし
279:人間七七四年
10/02/27 19:33:50 drPygGCi
最近まとめサイトで、小田氏治の逸話見たんだけど、古代ローマのアウグストゥス帝思い出すな。
軍団長から「今後、世界最強の君主は何人も出るだろうが、世界最弱の君主は間違いなくこの人だ」
っていわれるくらいの戦下手。
まあ、アウグストゥスは政治力があったから良いにしても、
なんで負けっぱのこの人が領民に慕われていたのだろうか。
戦で田畑荒らされて、ろくなことないはずなのに。
・・・・・・・・・・・・・・・肉の芽?
280:人間七七四年
10/02/27 19:48:10 1H/hPpKI
>>275
いやいやいや、息子の晩年の末息子をどうやって・・・というか、徳田さんの生まれる20年近く前に死んでなくね?
281:人間七七四年
10/02/27 20:19:44 GoNdwPo8
なんだよ!暴れん坊将軍かよwwww
で、熊一撃はマジ逸話?それとも「暴れん坊将軍」?
後者……だよね?
282:人間七七四年
10/02/27 20:52:17 inAtCu7F
新之助が猪を鉄砲で一撃で殴り殺したのは・・・・・・・・・・実話です。
283:人間七七四年
10/02/27 20:57:25 Y2y/Dq14
凄いな
海外のサバイバル番組で体重20キロの野生の豚ですら危険だってやっていたのに
猪を一撃で殴り殺すって化け物だなw
284:人間七七四年
10/02/27 20:58:38 1YWh0T7N
あの頃の連中っていったら今の軍隊のフル装備40キロとか60キロで戦ってたような
連中だからな
285:人間七七四年
10/02/27 21:03:25 1H/hPpKI
吉宗も後継者選びには、苦労したろうね。イノシシ退治したとか、田安さんでも無理でしょ
286:人間七七四年
10/02/27 21:04:11 Azu0pyoL
その話どうしてもなんで殴るのかというあたりが引っかかるよなw
287:人間七七四年
10/02/27 22:49:29 XY3Cjgw8
>>286
えーと、ネタ的に解釈すると
頼宣自身が山狩りの最中に猪に襲われて鉄砲撃ったけど不発だった、
あわてて鉄砲を猪の足の間に突っ込んでスッ転ばしたら、猪が逃げてった
って逸話があるのよ
で、「やべぇ、猪やべぇ!ウチの子孫は対抗策考えとけ!!」ということで
新之助さんの選んだ方法が肉体言語だったのかとw
288:人間七七四年
10/02/27 23:11:20 mbAoeFNK
>>236
賈⑨は、太尉になったぞ。
289:人間七七四年
10/02/27 23:13:40 aBgqETHL
字がでなけりゃ片仮名の「ク」でいいだろ
なんか分かりにくいよw
290:人間七七四年
10/02/27 23:18:47 xpGzFnng
>>269
何で増田には大坂に入れといいながら福島正則にはなぜ大坂入城を許さなかったのか。
福島の方が縁が深いのに。家康公は中途半端だな。
291:人間七七四年
10/02/27 23:20:37 M3FZUhWb
大名が入っちゃったら洒落にならんだろう
292:人間七七四年
10/02/27 23:20:37 Y/BCeDtZ
>>290
権現様「だってぶっちゃけいてもいなくても変わりないし……」
293:人間七七四年
10/02/27 23:49:35 xpGzFnng
そういえば福島正則は大坂の陣の逸話ここで紹介されてたな。
息子に宛てた大坂方につけともとれるしどっちかあいまいな手紙のやつ。
ああいう逸話から判断すると仮にお許しが出ても増田のように断りそうではある。
294:人間七七四年
10/02/28 00:16:56 Uf725zWJ
>>268
大坂の陣から2年経って盛次の乳母が磯野のところへ訪ねて来たんだよな
ここで初めて討たれたのが盛次だとわかった
ちなみに磯野平三郎は浅井の猛将磯野員昌の孫で、
関ヶ原の時には石田三成に仕えて最後の逃避行まで付き従った人物
295:人間七七四年
10/02/28 00:29:40 hg1y7Vf0
忠興の次男も大坂の陣で豊臣方についたんだよね
割とそういうの多かったのかな
296:人間七七四年
10/02/28 00:32:45 r06myp2g
>>294
その後子孫がおはぎ大食いで・・・
297:人間七七四年
10/02/28 00:53:01 vv4LoGax
>>296
藻屑自重
298:人間七七四年
10/02/28 01:11:51 YrRd+CxW
>>283
新之助はあの時代に身長180cm越えの浅黒い大男だったらしいからな
100年くらい早く生まれてても名を残したような気がする
>>295
実は大坂方をひそかに支援して足り内通してた大名は結構いたらしい
と、南條範夫先生が言ってた
299:人間七七四年
10/02/28 02:49:14 WtFyDSAe
>>295>>298
一番の有名どころは毛利輝元だよね。佐野道可の件とか
300:人間七七四年
10/02/28 02:58:49 Xw33aiqi
>>275
なんか普通に火中天津甘栗拳使えそうな若様だなwww
そして>>282でその大甥っ子は流石暴れん坊将軍というか忍者の子というか・・・( ゚д゚)ポカーン
301:人間七七四年
10/02/28 03:09:15 mWzRB0lL
イノシシ仕留めたのは紀州藩主時代だな。こんなのもある。
吉宗が逃げた鷹を追いかけて、
家来置き去りにして18町(2キロくらい)の道のりを猛ダッシュして
鷹は自力で捕まえたのに不満そうな顔をして、
息も絶え絶えでやっと追いついた家臣がいかがなされましたと尋ねたら
「東照大権現は25町を走って息を切らすことがなかったというではないか。
しかるに余は18町で息が切れた。精進が足りぬ」
しかし家康が25町を走って息を切らさなかったっていつのエピソードなんだろう
302:人間七七四年
10/02/28 03:26:21 mWzRB0lL
>>286
ああちなみにイノシシ撲殺の状況は、狩りの途中だったんだけど
家臣が仕留めるはずだったイノシシが人ごみをすり抜けて吉宗に突撃しちゃって
すわ一大事という場面で新之助すっくと立ち、立てかけていた火縄銃をとって
眉間を狙って台尻で一閃
撃つ暇がなかったのは分かるけど達人すぎだよな
夢想権之助かと
303:人間七七四年
10/02/28 03:29:04 fYbKN7F1
>>301
食い逃げしてばあさんに追っかけられたときだな、間違いないだろう!それが尾ひれ付いたんだな!
304:人間七七四年
10/02/28 03:39:27 PKi4YTnt
家康は大坂の陣の年(72歳)で河に飛び込んで水泳したり大喜びで前線に出たり、
体力的にも化物みたいな人だからなあ。
当時22歳の豊臣秀頼より絶対元気だったと思うw
305:人間七七四年
10/02/28 03:39:29 mWzRB0lL
吉宗はそこまで暴れん坊じゃありませんせいぜい12歳で下女とか山伏の娘とか妊娠させるくらいです(※全部本当)
でも、「着替えてたら時間の無駄だ」と言い放って寝巻きで老中に会った吉宗も
セクロスしながら家臣の話を聞いた爆弾弾正にはさすがにかなわない
306:人間七七四年
10/02/28 05:36:25 NHHhVej7
松平忠吉の受領名は初め「下野守」であった。
ある日、父家康の前に来てこう言った。
忠吉「このところ体に腫れ物ができて困ります」
家康「そうか。ならばこの薬をつければ(薬箱を取り出す)」
忠吉「いえ、実は「下野守」という受領名のせいではないかと思っております。
変えたいと思うのですが・・・」
家康「奇妙なことを言うが、本人がそう思っておるなら仕方ない。うーーーん、
美濃か尾張でどうじゃ?」
忠吉「いけません。それじゃあ『身の終わり』じゃないですか」
家康「じゃあ薩摩にするか」
ということで「薩摩守」になった忠吉、関ヶ原では岳父井伊直政とともに
薩摩勢と一戦交える。
家臣「直政さま、忠吉さまが逸っておられます!いかがいたしましょうか!」
直政「武士の子よ。用心するにも限度というものがあるわ。
討死したらしたでその時のことよ!」
これを聞き、馬の口を取っていた者がその手を離すと敵目掛けて一目散。
奮戦した忠吉、左手と兜の左耳上に斬り込まれ負傷したが、初陣で見事、敵の
首級をとることに成功する。忠吉をかばいながら進んだ直政も銃創を負った。
勝利の本陣にて
家康「忠吉は手に傷を負ったか」
直政「逸物の鷹の子は皆逸物でございますぞ」
家康「何の、鷹匠の腕が良いからよ」
(と、薬箱を取り出して直政の傷口に自ら薬を塗る家康であった)
307:人間七七四年
10/02/28 08:13:13 MqfwQHb6
>>302
まぁ、現代でも虎を一人で仕留めちゃう大統領閣下とかいるからねw
308:人間七七四年
10/02/28 08:48:49 ojMMl4xC
>>302
K家の場合
大将自らしかも鉄砲で撃つのではなく殴りつけるとは・・・嘆かわしい
M国武士
猪なんぞちかづいておらぬ!
309:人間七七四年
10/02/28 08:55:22 pRJYO9ww
>>307
現代じゃ世界に数人いればいい方のそんな人も
戦国時代は都府県知事や市町村長レベルでごろごろしてたんだな
310:人間七七四年
10/02/28 10:38:42 pHfGKAuB
家康「此度の傷はこの薬で癒えるであろう。おやおや?お尻の辺りに大きな刺し傷があるぞ?
直政、この傷一体なんじゃ?」
直政「あんたがあの晩に付けた傷だろうがよ。」
311:人間七七四年
10/02/28 10:51:15 YrRd+CxW
>>308
ところが、K家はむしろ若殿が諌める側らしい
半島で虎退治した又兵衛に「一手の大将が畜生と力比べしてどうすんの」とか叱ってみたり、
襲いかかってきた猪を一太刀にした若者に
「高名な武士相手に命を懸けて挑むならまだしも、猪相手に命懸けで挑んでも無駄」
とか諌めたりしてる
312:人間七七四年
10/02/28 11:06:47 EWnGS4bv
なにこの徳川家な流れ
いいぞもっとやれ
313:人間七七四年
10/02/28 12:11:57 05ltCA8C
>>311
あの大殿と家臣団だとなぁ。
一手どころか一軍の大将のくせに敵と力比べするお前が言うなwww
で流されるんだろうなぁ
314:人間七七四年
10/02/28 13:29:07 UP9NAbvj
>>310
こういうのって、主君が一方的に寵童をいぢめるものなんだろうか
徳川光圀なんかは、男女の場合は両方とも気持ちよいけど、
男男の場合は気持ちいいのは片方だけなんて言ってるよね
315:人間七七四年
10/02/28 13:31:37 MqoNSTqV
忍城篭城戦で大活躍したとか言われる成田氏長の娘、甲斐姫。
実の所、真田勢に破られた城門を取り戻すべく、援軍を率いて真田勢に横槍を入れ、自ら首級数個を手に入れた。
という程度(それでも十分スゴいかも知らんが)で、決して一人無双状態ではなかったようです。
この娘の本当の剛勇は忍城ではなく東北の地で発揮されていたのです。
関東仕置き後、蒲生再生工場に預けられ会津に居た成田氏長、一万石の好待遇で福井城という城を任された。
葛西一揆、九戸の乱など、落ち着かぬ情勢の中、工場長と共に転戦を重ねる毎日だった。
留守を預かるのは氏長の妻にして太田三楽斎の娘、太田氏。
前妻の娘である甲斐姫との関係も良好で、城内には何の問題もないかに思えた。
しかし、城主氏長の留守を狙って、ある時謀反が起きる。
兵を挙げたのは何と、目付けとして蒲生から福井城に出向していた浜田兄弟。
自分達が謀反を起こさないかと見張りにつけられた、その見張り番が謀反を起こしたのだ。そんなコトは想定外だ。
不意をつかれた太田氏は無残に殺されてしまう。
慌てた留守居の者達は逃げ惑い、甲斐姫を伴って城から落ち延びる。
浜田兄弟は氏長や蒲生の援軍が来るまでに十分な迎撃の用意をするつもりであったし、背後には伊達政宗の援助があったとも言う。彼等に勝算はあったのである。
……ただ一つだけ、彼等兄弟に誤算があったとすれば、甲斐姫の存在であった。
甲斐姫は父の援軍など待ってはいなかった。
福井城を脱出した兵達をまとめ上げると、自らがその小勢を率い、敵の手に落ちた福井城にUターンを仕掛けたのである。
これは完全な奇襲だった。
勝手知ったる福井城。成田勢は縦横無尽に暴れ回り、甲斐姫自らの刀で義母の仇、浜田弟を討ち取り、首謀者である兄も手傷を負って捕らえられたと言う。
浜田兄弟の謀反が成功していたら、一揆鎮圧の軍から蒲生勢が外れる事になり、更にまーくんとの挟み撃ち……なんてコトにもなったかも。
東北情勢泥沼化の危機を救った甲斐姫の武勇のお話。
316:人間七七四年
10/02/28 14:03:35 cjkn1Xj9
>>314
医者の書いた本で読んだことがあるが
「入り口」(by水野春郎)のすぐ先あたりにある前立腺が直接刺激されるので
ぶっちゃけ女とやるより入れられるほうが気持ちいいはずだ、という話
(それ書いた人はちゃんと妻子のいるノーマルの人なんですが)
317:人間七七四年
10/02/28 14:07:21 kZUiiRtS
A感覚
318:人間七七四年
10/02/28 14:10:33 cjkn1Xj9
>>315
成田記だけはガチ
319:人間七七四年
10/02/28 14:13:08 0T5uYgAL
まぁ中国とかだととても人間がやったと思えないような逸話とか結構あるが、
その類だよなw>甲斐姫
個人的には師匠への持て成しに妻だか子供を料理して食わせたってあれが一番マジキチだと思ったw
320:人間七七四年
10/02/28 14:14:00 SGdGwizn
ブルガール人は中央アジア発祥のトルコ系遊牧騎馬民族で、5世紀後半にビザンツ帝国に侵入する事で歴史に登場しました。
やがて7世紀にはクブラートの手によって部族連合「大ブルガリア」を結成、ブルガール人の統一に成功します。
クブラートにはバトバヤン、コトラグ、アスパルフという勇敢な三人の息子がいましたが仲が良くありませんでした。
そこでクブラートは息子達に三本の矢を渡し、一本の矢は折れても三本の矢は折れないことを示して一族の結束を説いたといわれています。
(この話は大陸の騎馬民族にはよく出てくる逸話ですが、クブラートのものが遡れる最古のようです)
実際クブラートの息子は三人ではないし、結局彼の死と共に大ブルガリアは分裂してしまいますが、
ずいぶん遠くに源流のあったオチの違う話が感慨深く書き込みました。
321:人間七七四年
10/02/28 14:18:05 cjkn1Xj9
>>319
すごいといえば項羽本紀の項羽、リアル戦国無双そのもの
司馬遷はっちゃけすぎ
322:人間七七四年
10/02/28 14:25:03 iyENjrlt
漢王朝にチンコ切られたせいなのか知らんけど司馬遷は項羽大好きだからw
323:人間七七四年
10/02/28 16:19:50 DRtWnIfU
ある日、島津家久(忠恒)が民情視察と称して五、六人のみ引き連れ鹿児島城下に出かけた。
日も高くなったころ一行は橋端で休息を取り、家久も立ったまま桜島などボーッと眺めていた所、
一匹の子犬がやって来た。犬は家久の足を柱か樹だとでも思ったか、後足を上げてシャーッと
気持ちよくやらかした。
みるみる顔色が変わり大声を上げる家久に合わせ、小姓たちも騒ぎ立てた。
「おのれ、畜生が!斬って捨てい!」「飼い主はどこだ?ここへ引っ立てて参れ!」
(いかん、これでは飼い主の命も危ない!)
一行に加わっていた茶のみ婆さんの話(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com))
でおなじみ、徳田太兵衛が突然笑い出した。
「アハハハ、神意も知らずに民情視察とは、チャンチャラおかしいわい!」
「なにぃ、わしが神意をわきまえぬと申すか!」
色めき立つ家久一行にも、徳田はひるまない。
「左様、神さまは犬をたいそう愛され、神意を下し「シャー」を許されておる。それを人間が怒るなど、
おこがましいですぞ?」
「そんな神意、聞いたこともないぞ!どんなものか聞かせてみぃ!!」
なおも言いつのる小姓に、徳田は続ける。
「ならば聞け。そもそも、犬は始めに三本足で造られた。しかし、それではあまりに不恰好で
歩行にも不便なので、神が哀れんで四本足にされたのだ。
以来、犬は神に感謝して、与えられた足を汚さぬよう片足あげてナニするのじゃ。畜生とは言え、
感心なことよのぅ。然るに、こんな礼儀正しい動物を殺すようでは、民情視察どころか…
「…徳田、もう良い!皆の者、行くぞ。」家久は小便袴のまま、スタスタと歩き出した。
324:人間七七四年
10/02/28 16:28:50 cjkn1Xj9
将軍綱吉がアップを始めました
325:人間七七四年
10/02/28 17:31:36 EWnGS4bv
鬼小島が勝負を受けてたつそうです
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
326:人間七七四年
10/02/28 21:01:48 b2FuxRTF
>>323
エノコロメシにされなくてよかったな
327:人間七七四年
10/02/28 21:34:38 ahjpanlK
>>323
こういうこと言えちゃう家臣がいるのがこの時代の面白いところだよねw
まとめ見てみたら寿桂尼の話が無い・・?
というわけで、ファンタジスタのおばーちゃん。
今日、女戦国大名と呼ばれる寿桂尼。
父は、当時歌人としても知られていた権大納言中御門宣胤である。
戦国時代、夫に代わって出陣したり、夫の留守中に城を守った女性は何人かいたが、
政務まで執った女性は、寿桂尼と播磨赤松氏の洞松院尼くらいだと言われている。
夫の今川氏親は、晩年の10年程は中風を患っていたため、その間、彼女が代わって政務を執り行っていた。
また、氏親死後、長男氏輝が後を継ぐが、氏輝は若年・病弱であったため、さらに2年程寿桂尼が補佐として政務をとった。
義元が家督を継いだ後、義元には雪斎という補佐役がついていたこともあって、
寿桂尼が表に出る必要はなくなり、ようやく彼女も穏やかな日々を送ることが出来るようになる。
この頃が今川氏の黄金時代。城中の女性達と香の遊びに興じたり、近くの湯山に湯治に行ったりして過ごしていたようである。
ちなみに、人質として駿府に来ていた実孫の北条氏規を大変可愛がっていたようで、湯治に行く際には一緒に連れて行っていたりする。
しかし、そんな穏やかな日々が、いつまでも続いたわけではなかった。
永禄3年、義元が桶狭間で織田信長に討たれるにおよび、
孫氏真と共に、今川氏の力を回復するため日夜奮闘しなくてはならなくなった。
そのまま、永禄11年3月に没したが、死に臨んで
「墓を駿府今川館の艮に建てよ」と、遺言したと言われている。
艮は古くから鬼門として知られている。死後も今川氏を守り抜こうとしたのであろう。
こうして、駿府今川館の艮の方角に竜雲寺が建てられた。
しかし寿桂尼の願いもむなしく、同年12月、武田信玄が駿府に侵攻。
今川氏真は駿府を守ることが出来ず、遠江の懸川へ落ちて行くことになったのである。
328:人間七七四年
10/02/28 21:42:46 Bbx0zdxm
>>323
徳田太兵衛かっけー
329:人間七七四年
10/03/01 00:47:53 CH2ZbeVq
>>325
鬼が島の桃太郎さん、じゃなかった鬼小島弥太郎さんは雉にまつわる逸話があれば完璧
330:人間七七四年
10/03/01 00:51:54 SrZXoN3S
そいつぁ記事になるな
331:人間七七四年
10/03/01 00:59:25 QgmybhDc
山田く~ん座布団2枚持っていって~
332:人間七七四年
10/03/01 11:21:14 5mZsE8Fl
家康の側室である阿茶局は才知溢れる女性であった
陣中では家康に供奉し、小牧・長久手の戦いではそのため流産し、奥向きの采配だけでなく、
隠密の御用にも関わっていた
家康の死後もただ一人落飾を許され、和子入内時には母代わりとして従一位を賜っている
さて、彼女の活躍でも白眉とされるのは大阪冬の陣での使者役であろう、この時に銃火激しい
大坂城へ向かう彼女の駕籠は
鉄張り
であったという
正しく「鉄の女」と言えよう
333:人間七七四年
10/03/01 11:55:44 S+mh/4vF
信長と衆道関係にあったっぽい顔ぶれを見ると、信長は受ける方を好んだような
気がしないでもない。
334:人間七七四年
10/03/01 12:06:06 uSiQZjPm
>>332
鉄張りの駕籠って、大事にされてたんだなとは思うが、
才知とか胆力みたいなものとは無関係な気がする。
335:人間七七四年
10/03/01 12:53:12 F3Lf5iDy
駕籠かき「弾雨の中を駕籠で進むなんて、無茶ですよ!」
阿茶局「こんなこともあろうかと、駕籠を鉄張りしておいた」
才知あるよ!
336:人間七七四年
10/03/01 13:15:52 wSAKTwBP
駕篭かきは通常装備なのかねw
337:人間七七四年
10/03/01 15:17:34 zLXQb8fT
>333
衆道関係にあったのって蘭丸と利家以外にいるの?
338:人間七七四年
10/03/01 16:17:19 SIySmtNS
でも鉄張りの駕籠って言っても気休めだよね?
そんな分厚い鉄板を使ったら、駕籠かきがとても担げないもんなぁ。
局が勇気あるのは確かだ。
339:人間七七四年
10/03/03 18:42:03 rSh3AHBA
駕籠かき撃たれたらどうすんのよ…
340:人間七七四年
10/03/03 18:48:45 0aPwZwf6
さすがに最前線まではいかないだろうから
流れ弾や流れ矢を防げれば十分なんだろうな。パフォーマンス的にも。
341:人間七七四年
10/03/03 18:54:29 Lo9MpOSd
何か西日本制覇した大内が
立花道雪、島津義弘、小早川隆景
とかで攻めてきてこっちは武田攻めしてたから
取り合えず室町御所に居た
加藤清正、森長可、佐久間盛政他で出陣したら
清正死んだあいつら強すぎだろ
342:人間七七四年
10/03/03 18:55:27 Lo9MpOSd
誤爆申し訳ない
343:人間七七四年
10/03/03 19:19:34 CMNQa+4r
鬼二人に虎でも勝てなかったのか
344:人間七七四年
10/03/03 19:23:56 gcU1exN2
徳川家康が本多忠勝等と共に二股城を攻めに行った時のこと、
徳川十六神将の一人内藤正成は、足が痛む為に留守番として浜松城を守っていた
ところが城を出た家康等は夜中に激しい風雨に見まわれ、引き返さざるを得なくなった
そのため本多忠勝が使いとして城に先に戻り
「殿が帰城するので速やかに開門するように」と言ったのたのだが
城内の正成に城門を開ける様子は全くない
忠勝が城門をドンドン叩き
「殿が帰ってきます!!早く門開けてください!」と
叫ぶものの内藤はこれを完全に黙殺
やがて内藤は櫓に登ると門前の忠勝にこう怒鳴った
「こんな夜中に殿が帰ってきたなどと嘘をついているのは誰だ、騒がしい。
そこを退かねば撃ち殺すぞ」
そう言って忠勝に銃口を向ける始末
このままじゃ殺られると慌てる忠勝
そこに家康が追いつき、「家康本人だけど、入れてくれ」と言うが
「声は似てるが本当に殿か?」と疑い、中々信じてくれない
結局家康の顔を照らしてしっかり目視で確認し、ようやく城門は開いたのだった
この正成の用心深さを、家康は
「お前のような頑固な人間が留守を守ってくれるなら、
敵がどんな策を使ってきてもやすやすと城には入れないだろうから
安心して外に出られる」
と褒め称えたという
345:人間七七四年
10/03/03 19:29:20 gDoCcDWF
>>344
本多忠勝から娘に引き継がれるんだな
346:人間七七四年
10/03/03 21:50:39 6kaXON6L
>>344
褒め讃えているような皮肉っているようなw
347:人間七七四年
10/03/03 22:22:53 tQ79DWDb
>>346
三河者にとって最大の皮肉は褒められることだとちょっと思った。
348:人間七七四年
10/03/03 22:35:49 a9xnsj/R
どっかで読んだと思ったらこれだった
内藤信成、城の留守番・いい話
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
正成と信成の違いがあるが、伝わるうちに誰かが書き間違えたのだろうか
349:人間七七四年
10/03/03 22:55:59 Tr740bri
行く全ての城で同じ待遇を受けたに違いない。三河的に考えて
350:人間七七四年
10/03/03 23:03:35 nBAQiwjI
鯖復帰記念にほんの小ネタ。
侍のヘアスタイルのイメージとして一般的となっている月代を剃った姿は、
戦国時代中期から広まった。
だが、これをカミソリで剃って形作るようにしたのは、戦国時代後期の織
田信長だと言われている。
それまでは毛抜きで抜いていたので、痛いやら頭皮に血がにじむやらで不評だったが、
カミソリで剃ることで日常的にできるようになったんだとか。
351:人間七七四年
10/03/04 00:57:18 aWzpZgRM
柳田國男に見る戦国時代
「加藤清正、河童王九千坊を退治するの事」
九州の古伝承に登場する、九千坊〈クセンボウ〉という大河童がいる。
遥かな昔唐土の地より渡り来たといわれ、
筑後川の流域を拠点とし、九千の同胞の頂点に君臨したとされる、
西国一の河童の王である。
ところが、数百年と続いた九千坊の栄光の日々に、
ある日唐突に終焉が訪れた。九千坊の配下である八代川の河童が、
ある日ほんの気まぐれで人間の子供を溺れされたのだが、
この子供というのが実は肥後熊本の鬼将軍、加藤清正の小姓だったのである。
果たして鬼将軍は嚇怒した。
「片鎌槍を持つね!」
「はっ!」
清正配下の勇将たちも奮い立った。
化外の民とはいえど、相手は9000もの軍勢を擁するのだ。
まさに人と河童の大戦が始まる、とみなが思った。
ところが清正の次の言葉は、兵を呼集を命じるものではなかった。
「猿を集めるね!」
「は?」
清正は領民たちに大令を発し、領内全域から 猿 を集めさせた。
あまり知られていないと思うが、このあたりの一部地方の民話の設定では、
河童というものは猿が大の苦手で、
猿を見ただけでフリーズしてしまうことになっているのである。
「出陣じゃああああああ」
「キー!キキー!キキー!」
「あ……はい……行ってらっしゃいませ……」
果たしてハイテンションの清正は猿の大群を率いて筑後川に突撃していった。
驚いたのは九千坊と九千の河童軍団である。
河童たちはもちろん迎撃の準備を整え、
ることなく、全力でびびった。
「勝ち目なくね?」
「鬼将軍怖すぎじゃね?」
「猿嫌い超嫌い」
この同胞たちのふがいなさに、河童王九千坊もまた大激怒し、
長広舌の演説をふるって同胞に発奮を
促さなかった。
九千坊もびびっていた。
兵を率いるどころか、この矮小なる河童の王は知人の僧に仲裁を頼んだ。
結局九千坊は外交僧のとりなしのよきを得て一戦も交えることなく清正に降伏、
「河童一同、二度と人間様に危害は加えません」との誓いを立て、
ようやく鬼将軍清正の許しを得たという。
352:人間七七四年
10/03/04 01:05:15 aWzpZgRM
ちなみになんで「西国一の河童」かというと、
実は利根川流域に東国の河童を率いる祢々子と呼ばれる最強の女河童がいて、
九千坊は彼女にぼっこんぼっこんに負かされたことがあるからです
353:人間七七四年
10/03/04 01:12:32 ZXhr1Tse
河童の正体はやっぱり川原に住んでる人たちなんだろうか
354:人間七七四年
10/03/04 01:13:45 FuLyirsS
小田氏治「不甲斐なき河童だのう、勝とうという意思さえあれば百戦百勝だというのに……」
355:人間七七四年
10/03/04 01:19:18 aWzpZgRM
>>353
豊臣秀吉の倭寇退治を
極限まで戯画化した結果としてこういう話になったんじゃないかという説もある
356:人間七七四年
10/03/04 01:21:40 ZXhr1Tse
>>355
ってことは猿=秀吉で秀吉の威光に恐れおののいたのか
357:人間七七四年
10/03/04 01:23:52 lqbrK2+A
悪い話スレで出てたミカジメ料払うことになったヤツと言い戦国は河童受難の時代だのうw
358:人間七七四年
10/03/04 01:49:55 VR16abjJ
剃刀等で剃った場合はまた生えてくるけど、
抜いた場合はそのうち生えなくなるみたいね。
抜いてるうちに月代の部分だけ髪が生えなくなるんだろうか。
359:人間七七四年
10/03/04 01:50:38 VR16abjJ
>>358は>>350宛てです申し訳ない
360:人間七七四年
10/03/04 02:09:52 qdjFUejF
いにしえより大河に棲み付く人知を超えた存在であり、
人間の恐怖と崇拝の対象であったはずの河童が、
サルを連れた侍にコテンパンにされるほど落ちぶれ、戯画化されてしまった。
もう誰も本気で怖がったりしない。
神仏や妖怪のたぐいがそこらじゅうに存在して、人々の意識を支配していた南北朝・室町時代とはえらい変わりようだ。
昔から疑問だったが、室町→戦国→江戸の短い期間に、
何で人間の意識がこんなに変わったのかね?
361:人間七七四年
10/03/04 02:19:55 aWzpZgRM
民俗学の観点からは、下々の村々にまで治水が行き届くようになって
近在の水辺が根源的恐怖を催すほどの脅威ではなくなったことの反映でないかと言われてる。
堤防工事が完璧に行われてた地域と、それほどでもない地域で
それぞれの河童譚を収集すると、前者の地域のほうがより戯画性が高く、
後者においてはまだ自然神的性向をとどめている例が多いとの研究もある。
362:人間七七四年
10/03/04 02:40:05 xIWFpWTY
室町後期くらいから人間が自然を征服し始めるんだよね、日本でも。
江戸前期に至ると日本中の土地を掘り返す勢いで河川改修やら新田開発やらやってる。
その過度の開発による自然破壊が、いわゆる生類憐れみの令の原因になったと言う説もあるほど。
363:人間七七四年
10/03/04 03:25:50 aWzpZgRM
信濃の黒姫伝説
「高梨政盛、娘をドラゴンにもってかれるの事」
高梨氏は北信濃の古い豪族である。
政盛はその最盛期の当主で、越後の長尾家と縁戚を結んで力をつけたので、
上杉謙信の大叔父だったりもする人だがここではそれはあまり関係ない。
政盛には美しい娘がいた。信州一といわれた、それはそれは美しい娘であった。
名を、黒姫という。
美しい黒姫には当然縁談の求めが絶えなかったが、求婚者の中にちょっと風変わりなのが混じっていた。
沓野奥四十八池の総大将、志賀高原の大沼池のヌシたる大蛇、黒龍である。
黒龍は姫の噂を聞きつけ、その姿を垣間見んとて蝶に変じて姫のもとに忍び込んだのであるが、
たまたま蝶を見つけた姫に微笑みを向けられ、一発でフォーリンラヴしたものであるという。
黒龍は今度は若侍の姿をとって高梨城を訪れ、しかし堂々と大沼池の黒龍であると名乗りをあげ、
どうか黒姫を妻にいただきたいと願い出た。城主高梨政盛以下人間たちはパニックに陥った。
蛇なんぞに娘を嫁にやるなどとんでもないが、しかし神たる相手を怒らせて、
洪水でも起こされたらたまらないからである。そこで政盛は一計を案じた。
「あなた様が神なのはわかりましたが、しかし娘は人間であります。
人間のままでも娘を守っていただけるというのなら嫁に出しましょう。
今のその姿のまま、馬で走る私に合わせて、城を二十周走ってみせてください」
黒龍は応諾し、政盛の馬を追って走り始めた。
実はこれは罠であった。城の周りにはささらのごとく刃が仕掛けてあり、
罠のありかを知っている政盛はこれをなんなくかわしたが、黒龍は幾度となく刃に身を裂かれた。
しかし、どれほど傷ついても、黒龍は諦めない。人間の姿のまま、血にまみれながら、
とうとう二十周を走りぬいた。
「これにて、約束通りにござる。姫を頂きたく」
「なんの。畜生ごときが我が娘を嫁にするなどと、身の程を知れっ」
政盛は身勝手にも約束を反故にし、刀を抜いて黒龍に斬りつけた。
深手を負い、さしもの龍もついに切れた。
「なんと。たばかりおったか人間め、これは許せぬ」
巨大な黒い龍神の本性を現し、咆哮をあげて龍は飛び去る。
その場に飛び込んできたのは、一部始終を見ていた黒姫その人であった。
黒姫はものすごい剣幕で父親を罵倒した。
「父上、なんということをなさいます!彼は約束を守ったではありませんか!
彼が約束を守られた以上、わたくしはあの方の妻となるのが筋目というものではありませんか。
それをこともあろうに斬りつけるなど、それが人間のやることですか!」
黒姫は、いつしか黒龍の想いにほだされていたのである。
しかしそんなことは知らない黒龍は、怒りに我を忘れて暴走し、
人類など滅ぼしてくれんという勢いで暴風雨を巻き起こしていた。
高梨家の領地はまさに水没しようとしていた。事態を収拾すべく飛び出したのは、またしても黒姫。
黒姫は荒れ狂う竜神に向かって叫んだ。
「黒龍さま!わたくしは、あなた様の妻となります!あなた様のもとに参ります!」
嵐はピタリとやんだ。
ところが黒姫は、おずおずと自分の前にやってきた黒龍に対しても説教を始めた。
「お怒りになる気持ちはわかります!ですけど!悪いのは私の父でしょう!
田畑を荒らされた百姓たちに何の罪がありますか!反省なさい!」
人間の娘の説教に対し、龍神は涙を流して、怒りに我を忘れた己の非を詫びた。
黒姫はそのまま黒龍の背に乗って飛び去り、二度と高梨の城へは戻らなかった。
ふたりが幸せな暮らしを送ったとされるその場所は、今も黒姫山の名で呼ばれている。
364:人間七七四年
10/03/04 03:33:07 aWzpZgRM
この話は信玄と争った世代である政盛の孫の政頼のものとされることもあります。
話の筋自体もドラゴンとの戦いで高梨城が焼け落ちて高梨氏がいきなり滅んだり
黒龍も黒姫も死んでしまう話だったりすることもあるんですが
このパターンが一番美しい……まあ肝心の政盛は完全にダメな悪役にされてますが。
365:人間七七四年
10/03/04 04:53:08 /mEk8Ill
黒龍が黒姫の尻に敷かれたのは言うまでもない
366:人間七七四年
10/03/04 04:54:07 hvsJ1KyB
>>361
そういや清正は治水名人だったな。
その説に妙に納得した。
367:人間七七四年
10/03/04 06:52:16 spqkNLyh
>>361
河童って水死体の象徴的にあらわしたものだっけ?
368:人間七七四年
10/03/04 09:07:12 a5gOwYkg
>>363
まんが日本昔話になってなかったっけ?
見たような記憶がある
369:人間七七四年
10/03/04 09:11:58 FvVmLSyM
唐土より来た河童ということは
渡来人系の人たちが大勢流入してきて河原周辺に住みついて
河原者になっていた、ということでは無いだろうか?
猿というのは猿の化身である日吉山王権現(比叡山)勢力の
力を借りた、とも考えられると思う。
加藤清正は延暦寺の石垣を築いた石工集団穴太衆を多く召し抱えているし。
370:人間七七四年
10/03/04 09:49:13 rFKhA8ub
加藤家改易後に肥後に入国した細川忠利が、清正の廟所がある本妙寺へ行き、
「あなたのお城を預からせていただきます」と言ったという逸話は有名だが、
これは単なるパフォーマンスでもなかったようだ。
清正は熊本城を築城した際に、同時に破損しやすい柱・梁の予備資材を作らせて
資材の一本一本に「この木材は本丸のこの部分の柱に用いるべし」と目印をつけ、
それを熊本城の堀に水中格納していたという。
371:人間七七四年
10/03/04 11:58:03 9kDUdjlZ
う~む、清正って拳闘強いだけの男じゃなかったのね
372:人間七七四年
10/03/04 12:07:42 KqyCOCGT
水中格納ってスゲーな、木材は水に強いし、もし火事があったときに燃えてしまわないようにの対策か
373:人間七七四年
10/03/04 12:15:36 fS74Ha3g
熊本で土木学んでいるとどこにいっても「また清正公か」って感じだな
水道の人の話を聞いたことがあったんだが、熊本ってのは地下水が豊富でそいつを水道に使っている町なんだ。
その豊富な地下水は阿蘇から流れる白川流域にある田畑から水が地下に溜め込まれるおかげで、
その田畑を拓いたのは清正公のやったことだ、とか。
熊本には白川って川と坪井川って川が流れてるんだけど、昔は途中で合流して災害の元になってたらしいんだが、
そいつを堰で区切って交わらないようにしたのは加藤清正だとか、
佐賀にインターンシップに行ったときは似た感じで「また成冨兵庫か」って感じだった。
全国津々浦々に土木の有名な武将がいるのかねと思うと、ちょっと興味深い
374:人間七七四年
10/03/04 12:20:54 /mEk8Ill
土建四天王どころか土建二十四将も夢じゃないな
新ジャンルおめでとう
375:人間七七四年
10/03/04 12:24:05 qY/fg00J
田中角栄先生は
376:人間七七四年
10/03/04 12:38:13 BM6W/E63
>>351
ペルシャ軍が猫を引き連れてエジプト軍を破った話を思い出した。
377:人間七七四年
10/03/04 12:49:29 K6kkQt9e
前から思ってたんだが、武将が戦上手だってのはそりゃそういう職業だから解るんだが
築城名人だの土木事業の達人だののスキルはどうやって獲得したんだ?
誰か師に付いたのかそれとも完全な独学なのか
378:人間七七四年
10/03/04 13:13:17 vLLkdR2n
村単位で城作ってる時代だぞ
それに常に攻めたり守ったり修繕したりするんだから技能持ってる人はうようよいるでしょ
名人や達人はその中で特に優れてるだけで
379:人間七七四年
10/03/04 13:44:01 byStucs1
清正は関ケ原後の身の振り方考えても外交能力も高いと思う
何気に徳川家との縁談も重ねてるし
380:人間七七四年
10/03/04 13:55:14 QE3s5wfI
賤ヶ岳の戦いが終わった時。
柴田家家臣の佐久間安次&実政兄弟は紀州に逃れ、秀吉に抵抗した。
紀州が降伏すると、今度は小田原まで逃げた。
北条までもが滅び、秀吉によって天下が統一されると、二人は世を捨てて僧になるつもりでいたのだが、
「亡き伯父、勝家に義理立てをしてここまで秀吉に逆らったのは見事である」
として秀吉は二人を助命。蒲生氏郷に仕える事となった。
そんなワケで二人が氏郷に仕官の挨拶に行った際、畳の縁に躓き、コケてしまった。
その場にいた面々、ドッと笑ったのだが、ただ一人氏郷のみは
「この兄弟は共に畳の上で奉公する武士ではないのだ。そなたらの奉公と彼等を比べるべきではない」
と一同を叱り付けたという。
この兄弟はまとめブログにある「蒲生再生工場・練兵編」の佐久間兄弟と同一人物?
こないだ犬千世で似たような話が出てたし、テンプレになってんのかな?
381:人間七七四年
10/03/04 14:45:35 U4ebZsAY
>>380
二人ともこけたのか?w
382:人間七七四年
10/03/04 16:59:21 IGDRmuWG
妖怪譚の流れがおもしろい。民話っていいね
>>363
りゅうの目のなみだっていう絵本を思い出したんだがw
383:人間七七四年
10/03/04 17:01:21 M74+owsH
>>373
熊本で清正(熊本では「せいしょこさん」)って言ったらガチで神様だからね。特に熊本市内は余計にそうだろう。県の端っこの方に俺は住んでるけど、そこらへんは神様、ってまでは流石にいかないんだけどね。
暴れ川だった白川、坪井川(菊池川、緑川も同様に)の堰を造ったのも確かに清正だから、ちょっと強引に解釈すれば田畑を拓けたのも清正のおかげとも言えるし。
戦国時代以前に勢力張ってた菊池氏が衰えて以降、有力な大名が出てこなかった(城、赤星、隈部ら有力国人程度ならいたが)のもあって、荒れてた肥後を極端に言えば救った人間だからなあ。
384:人間七七四年
10/03/04 17:14:55 qdjFUejF
>>377-378
しかし、縄張りが優れているとか劣っているとか
昔の人はどうやって見分けたんだろうな・・・
実際に攻め込まれて、敵を撃退したら縄張り上手ってことになるのか?
385:人間七七四年
10/03/04 17:44:43 PDiWa44U
>>380
鬼玄蕃盛政の弟の事かね
安政・勝之の呼び方の方が有名な気もするが
386:人間七七四年
10/03/04 18:15:36 KGjRQfAN
空気読まずにスマン。
まとめ読んでて思い出したんだが、
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
増田盛次は藤堂家臣磯野平三郎に討ち取られたわけだが、当初は誰なのか解らなかった。
そこへ増田家に仕えていた老女が噂を聞きつけて尋ねてきた。
老女の話と、その若武者が身に付けていた武具が一致した為、ようやく身元が解った。
磯野は老女に盛次の形見として短刀を与えたと言う。
で、藤堂家でこの一件についてこんな論評があった。
甲「あれほどの勇士なら最初から討死は覚悟してただろうね。
それなのに、武器や甲冑、羽織の裏に名前を書いてなかった。
若いから興奮してて、細かいところまでは気がまわらんかったのかな?」
乙「盛次の立場になってみろよ。父の長盛は幽閉されていたんだぞ。
自分が大坂方について討死したと知れたら、長盛は徳川家に死を命じられる。
だから大坂方へつきながらも名前をだせなかったんじゃね?」
甲「なるほど。親孝行者だなあ。でも、長盛は自殺させられてるし。結局、ばれたんだな」
乙「大坂の陣が起きる以前には真田父子や長宗我部さえ助命されてる。
けど、豊臣が滅亡しちゃえば、もうジャマものはない。長盛やっちゃっても誰も文句いう奴はおらんからな。
ぶっちゃけ息子が大坂へ入城しようがしまいが殺されてたと思うよ。
そのあたりは若い盛次には読めなかったんだろうね。でも父を思う心は尊敬するよ」
『元和先鋒録・附録』より。多分、記録者の論評。
387:人間七七四年
10/03/04 19:48:54 DiK8u/X/
>>383
今、熊本県立美術館で「日本の祈りと縁起物」って催しやってるんだが、
そこに清正公をモチーフにした神像が展示してあったよ。小さかったけど。
清正公信仰っていうのがあるんだな。知らんかったわ。
388:人間七七四年
10/03/04 21:21:27 Q0bIQvje
井伊直孝は他家に贈物をするとき必ず自分で確かめてから
贈るようにしていた。
他家から礼儀のなっていない贈物が届くと、直孝は自分の
贈物係りに贈られてきた物を見せて
「見ろ。このように礼儀がなっていないのは係りが勝手にやった
からだ。贈主はこんなことになっていようとは知らないのだ。
家来が主君を思っていないとこういうことになる。お前も気をつけろ」
と言って注意を促したという
389:人間七七四年
10/03/04 21:30:51 K863Dgry
井伊話だ
390:人間七七四年
10/03/04 23:12:04 V/tgllvx
一方武田信玄は信長から届いた漆器をかち割って
「うむ、心が籠もっておる」と満足した
391:人間七七四年
10/03/04 23:34:20 qdjFUejF
>>388
他家から無様な贈り物が届いても、
「何だ島津家の家久は。こんなもの贈ってきて全くしょーがねーやつだな」
などと短絡的に考えずに、贈り主のせいじゃないと、理性的に対応するのはさすがだ。
逆に、相手に進物を贈る時は、その内容で井伊家と直孝が判断されてしまうことも良く分かっていて注意している。
392:人間七七四年
10/03/05 00:34:44 iEPzBvdn
一方吉川元春は礼儀のなってない贈り物を礼節のために我慢して食し、死亡した
393:人間七七四年
10/03/05 00:44:44 IEYEF8EX
一方元親はクジラを贈り物にした。
394:人間七七四年
10/03/05 00:59:18 vZUR1baG
意外にこの話が出てないようなので投稿してみる
大阪冬の陣のこと
前田利常は丘陵地に陣を張り前田隊の指揮をしていた。が、真田丸からの激しい銃撃が有り、
家臣たちは利常に万が一があっては大変と、陣を銃弾の届かない丘の陰に移すよう進言した。
が、この頃の二十歳の利常は、初陣と言うことも有り血気盛んであり、危ないなどと言われて
引き下がるものではなかった。彼は家臣たちの進言を完全に無視し、丘の上に居座った。
そうしている間にも真田丸からは銃弾が飛んでくる。どうしたものかと家臣たちが
困り果てているところに、山崎長徳がひょっこり現れた。
「へーくしょん!」
利常の側まで来ると長徳、大きくくしゃみをした。利常怪訝に
「どうした長徳、風邪か?」
「いやいや失礼いたしました。、しかしここは風が冷たい上に強くて、こんな所にいては
拙者のみならず殿まで風邪を引いてしまうかも知れません。
しかし戦はまだ序盤でござる。こんなところで風邪を引き、いざ決戦と言うときに間に合わなくなれば
これ以上の恥はありません。どうでしょう、風の当たらぬ丘の陰へと移動いたしませんか?」
利常これを聞くと、「ふむ、確かにその通りだ。」と、長徳の言葉に素直に従い丘の陰へと
陣を変えたとのこと。
前田家中の面々、この長徳の忠告の仕方に甚だ感心したとのことである。
395:人間七七四年
10/03/05 01:12:16 iEPzBvdn
ボンボンの世話ってたいへん
396:人間七七四年
10/03/05 01:13:27 YmSzup4c
>>394
全く同じではないが似た話が徳川秀忠にあるよな
397:人間七七四年
10/03/05 03:14:00 NJwzNmGt
>>363
日本の神様ってギリシャの神様に比べて慎み深いなw
398:人間七七四年
10/03/05 03:18:13 ToaLd4fo
>>396
若殿はこういうところで意地を張って威厳を保たなければならないのね。
399:人間七七四年
10/03/05 08:46:59 bOi0jnyi
三斎様ですら若い頃に突進して額に大怪我負ってるからな
400:人間七七四年
10/03/05 09:02:19 7GnplPqB
>>390
贈り物より入れ物の漆塗りの丁寧さに目を向けると言う発想って凄いよね
401:人間七七四年
10/03/05 09:05:24 3taT0bTW
それを見越して器を選んだ信長が凄い
402:人間七七四年
10/03/05 10:06:59 NJwzNmGt
>>400
でも、この話って信長の本質を見抜いて諫言した信玄の家臣が一番えらいよねw
403:人間七七四年
10/03/05 10:16:22 MrN9TDNa
信は鼻紙は忘れても脇差を忘れない男だから油断できんby内藤
のことか?w
404:人間七七四年
10/03/05 11:13:43 fum/TA8Y
>>398
あー、その考えなかった。
若殿は無茶や意地をはらないと家臣から舐められる可能性があるのか。
唯々諾々と家臣の指示に従ってると、威厳なくなるかもしれんもんな。
若殿は意識して無茶をやっていたのか(そうでないのもあるのだろうけど)。
405:人間七七四年
10/03/05 11:39:58 imhHPV5e
臆病者って思われたら将としてやっていけないからな。
率先して逃げられるのは信長くらいなものじゃないか。
406:人間七七四年
10/03/05 11:51:20 6zU1TLJ9
仙石もやった
407:人間七七四年
10/03/05 12:15:19 VfsZ+5G+
仙石って周りからどう思われてたんだろうな。
特に大名復帰した時期とか。
408:人間七七四年
10/03/05 12:45:16 3taT0bTW
長蘇我部のバカの暴走のとばっちりを喰って
失脚した可哀想な人とか?
409:人間七七四年
10/03/05 13:11:28 Fp3kuqd3
目上の人には「よく頑張って復帰したね」と賞賛もされたかもしれんが、
同じくらいの立場の人には嫉妬半分で
「全身鈴だらけで戦うって、何だよ、そのあざとさは」とか
「すっかり徳川に鞍替えかよw」
とか言われてたと予想。
410:人間七七四年
10/03/05 18:11:30 Lhh9y6m1
「しょせん、復帰できたのは殿下のお気に入りだからだろ」ぐらいは言われてた筈
411:人間七七四年
10/03/05 18:20:42 1kSrD8vZ
妄想だけなら何とでも言えるわな
412:人間七七四年
10/03/05 18:51:55 03YvOZWd
北条早雲と6人の友の逸話を見て思い出した侍の話を投稿してみる。
明智光秀の義弟として知られている明智孫十郎
彼は旧姓を恩田といい、若かりし頃は武者修行をしながら諸国を渡り歩く浪人だったそうな。
で、同じく浪人をしていた明智光秀と意気投合。彼とある約束を交わす。
その約束とは「どちらかが立身出世したら、もう一人を取り立てる」というもの。
織田家に仕えることとなった光秀はかねての約束通り孫十郎を家臣として迎えいれ、孫十郎も
これに従い、以降は明智孫十郎と名乗って光秀に従う。
そして本能寺の変。
首尾よく信長を自害させ、続いて二条御所へと足を進める明智勢。
今こそ旧友・光秀の恩義に報いるときと思い立った孫十郎は二条御所攻めに先鋒として突入。
主君を手にかけ、その嫡男に刃を向けている後ろめたさと、知らずのうち謀叛に加担したという事実で動揺する組下を叱咤激励しながら
自ら槍を奮って奮戦する。
一方、信忠勢もここを死に場所と見定めての防戦に務め、乱戦の中でついに孫十郎は討ち取られる。
友との約束に殉じた男、明智孫十郎。二条城跡には彼が最後を迎えたという場所に石碑が残っている。
413:板倉重矩
10/03/05 22:07:56 QYuRd/Dj
病気の者は療養中は医者に頼り、友として過ごすものだ。
が、回復すると逆に医者を嫌って遠ざけてしまう。
戦国時代草創の君主と家臣はこれと似ている。
君主は最初、必要に迫られて親しく家臣を使う。
しかし、目的が遂げられると家臣がうるさくなり遠ざけてしまう。
一方、家臣は家臣でおのれの功を誇り、恩賞の不満を訴えるので
終わりをまっとうできないことがほとんどだ。
君主も家臣もこのことをきちんと心に留めなければいけない。
414:人間七七四年
10/03/05 22:51:19 ci+e//Eh
>>413
その辺りの機敏を心得て身を引いた人に張良が居るけど、
戦国日本でこういう人って誰かねえ
415:人間七七四年
10/03/05 23:02:35 mF42Exgl
>>412
>「どちらかが立身出世したら、もう一人を取り立てる」というもの。
早雲や堀秀政・直政の例を鑑みるに、この手の逸話はあちこちに埋もれてるのかもね。
なんか一種のテンプレと化している気がする。
416:人間七七四年
10/03/05 23:10:44 06h0K1pA
>>414
黒田の大殿とめんどくさい家臣団
一人若殿時代にドロップアウトしたし大殿自身は上に疎まれ気味だったけどw
417:人間七七四年
10/03/05 23:18:10 Qjk10Ifx
字の巧い四天王の人は関ヶ原後に身を引いた説があるね
この人は兄も信康事件に後悔して隠居したんだっけか
418:人間七七四年
10/03/05 23:37:34 GajkJZ2U
望めば相当な地位を得ることが出来たのに、
それを拒否して引退っていうのも簡単に出来ることではないよな。
まぁ某佐渡守が要職に就くのを妨害したって説もあるけど。
419:人間七七四年
10/03/06 00:31:39 NYYWfN6W
>>414
本多正信とか?息子でだいなしだけど
420:人間七七四年
10/03/06 00:41:40 jsh5s4xD
一族郎党を養わなきゃならんってのもあるしねえ。
張良も、孤児で一族がいなかったから、個人の思惑で好きに生きれたってのもあるし。
421:人間七七四年
10/03/06 00:50:15 NYYWfN6W
大久保彦佐衛門が最晩年に加増を断ったって話もどうなんだろうね
三河物語を読む限り、絶対に泣いて喜ぶ人だと思うのだけどな
422:人間七七四年
10/03/06 01:06:29 kmH+I2+N
>>414
敢えて言うなら柳生宗矩。
自分は政治能力あったから活躍したけど、息子はないからただの剣術指南に格下げしたあたりとか。
423:人間七七四年
10/03/06 06:26:38 STPEOhCn
>>415
そういう取引しないと協力が求められないからじゃないかな
一族とかいないで裸一貫からのし上がるためには
424:人間七七四年
10/03/06 10:10:47 xgEf1Oid
昨日カーチャンの誕生日だったので、本日は車でスパリゾートに連れて行って
帰りにちょっとゼイタクな食事をして来る予定。みんなはどうだい?
井伊直孝は日頃からURLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)といった厳しい環境に
身を置き、食事も一汁一菜で満足していた。
その日、帰宅した直孝が夕食の膳に向かうと、いつもの飯・味噌汁・香の物の他に焼き魚が乗っていた。
夜叉掃部は激怒した。
「なんだ、これは!いつもの膳はどうした!この魚は、いったい何の奢りの沙汰じゃ!!」
呼び出された台所番は、青い顔をして弁明した。
「い、いえ!それがしも殿の命に逆らう気はございませぬ!その魚は先刻、殿のご母堂様より
頂戴いたしましたので、膳に加えた物にございます!」
「なんと、母上が・・・それを早く言わぬか。」
直孝の母は、“赤鬼”井伊直政の侍女、あるいは農家の娘であったとされる貧しい出身で、
大名の母となった後も直孝以上のつつましい暮らしを送っていた。
そんな女性が、息子の栄養を心配して、たまの贅沢にとわざわざ買い求めたというのだ。
直孝は台所番を下がらせると、膳を押し頂いて頭を下げた後、ゆっくりと焼き魚を平らげた。
425:人間七七四年
10/03/06 10:34:39 mGK0HS2U
それって平和な時代だから質素な食事で足りるんだろうけど
戦となればエネルギー消費激しいからたっぷり食わないと体もたないと思うが
味噌汁の中には具がいっぱい入ってるちゃんこ鍋みたいのだと信じたいw
一汁一菜じゃ体もたんだろう
426:人間七七四年
10/03/06 10:46:01 3/dT73wN
でも幕末の下級武士の超絶質素な生活で超人的な活動してるやついるからな
江藤とか謹慎時代に収入一切なくて一時期山の木の実食って生活してたくらいだおw
他にも食うや食わずで修行して大成した学者もごろごろいる。
つくづくあの時代の日本人ってすげぇよ。
427:人間七七四年
10/03/06 10:49:03 t/GeMoFA
直孝の母親って、息子を認知してもらうために自害しただか、直政に殺されたって話なかったっけ?
そう言えば、井伊直政って恐妻家って言われるけど、具体的なエピソードは直孝絡みの話以外にあるのかな
428:人間七七四年
10/03/06 10:54:52 Zo/ZJdkY
>>424
直政は、直孝を息子として認める代わりに、母親に死ぬように条件出したような
正室に気を使っているので
429:人間七七四年
10/03/06 10:58:54 Y17feInD
じや、正室の話なのかな。
身分絡みの注釈に矛盾は出るけど。
430:人間七七四年
10/03/06 13:24:46 yJ4gHpGm
つうか母親のことは、ほとんどよく解ってないんだよな?
431:人間七七四年
10/03/06 13:32:41 C3pthBD+
色々な説が出ていたはず
432:人間七七四年
10/03/06 13:45:42 +V7Pac4Z
フランシスコ・ザビエルが来日した当初、薩摩の国にて布教を始めた。
その当時、薩摩で一番の高僧であり、島津家の菩提寺の住持を忍室と言ったのだが、この人は善良で聡明な人物であり、ザビエルと親しく友人と
して付き合いがあった。
この忍室、禅宗の僧侶であった為、彼の寺院では修行として座禅を行っていた。
ある時ザビエルは、修行僧が並んで黙想しているのを見て、
「彼等は何をしているのですか?」
と忍室に尋ねた。
忍室答えて、
「彼等の内、ある者は信者からの寄進がいくらあったのかを計算しており、ある者は自分がもっと良い待遇を得るにはどうしたらいいのかを考えて
おります。またある者は暇つぶしにどーしよーもない事などを考えており、まぁ、要するに、コイツらは皆、どーしよーもない事ばかり考えている
のですよww」
また、ザビエルが「あなたの青年時代と老人になってからと、どちらが良い時代ですか?」と尋ねた。
忍室答えて、
「青年時代ですね。青年時代は海のど真ん中に漂う船の様で、どこに行けば良いのか判りませんでした。しかし老人になって港に落ち着いてからも、
どこの港に行くのが正解だったのか、私には判らないのです」
この様に聡明な人であったが、所詮は邪教の司祭。結局は自分の利益のみを考えて改宗しなかった為に地獄に落ちたのである。
(出典:日本史/ルイス・フロイス)
えーっと、修行僧達の悪い話と、忍室&ザビエルの良い友人関係の話、尊敬するザビエルの友人であろうと異教徒は全て悪と言
い切るフロイスの悪い話、どれが正解?(^^;