10/05/19 18:03:57 TxJYTm83
>>908
ああお前は時系列も理解できてないみたいね。
それにその当時の状況や外交相手も知らんと見えるw
あのな、そもそも北畠国王丸は11歳。
そんで当時のこの地域は、政宗の虐殺による死体の遺棄によるものか
疱瘡は流行っていて葦名亀王丸はまもなく3歳で死去っていう前後の状況。
こういう状況の中で政宗はガキイジメやってるわけ。
その幼君相手に敗北続きで、しかも秀吉の命で
6/17に小笠原貞慶から田村へ惣無事の連絡がやってきて
家康が朝日姫を娶って秀吉に臣従し、上杉も上洛してきたことも知らされ、
上意んみ背いたら御追罰の旨があるからと言われた
田村清顕と伊達実元が狼狽して、相馬盛胤夫人になってた
実元の妹(つまりは当主義胤の叔父が実元)に和睦の斡旋依頼を陳情してんだよ。
お前そういうことぜんぜん知らんくせに自信満々に書いてそうとう痛いよw
惣無事を守らないと名門畠山氏も滅亡になると聞いて相馬を信用して開城したんだよ。葦名も二本松も幼君でなく、当主が凛々しい武者だったら敢然として拒否してたかもな。
二本松開城の頃にちょうど南部信直も秀吉に臣従するって使者をよこしてるしな。
そんで家康も上洛してきて、奥羽には正式に金山宗洗が秀吉に派遣されてきて巡察してまわるわけだ。
ちょうどこの辺りから北条が伊達にいろいろと歪曲情報を吹き込んで政宗をだまくらかして反惣無事令的な行動に誘導させるようになる。
もちろん秀吉の目が九州鎮圧へ向かっていたこともある。
政宗は惣無事令を無視し大崎家内紛の鎮圧という名目で侵攻し伯父の義光の激怒を買い大崎合戦で大敗
それと連動しての南方戦線での郡山合戦では連合軍が新国貞通を囮として伊達の砦の近くをゆったり進軍させたら
伊達成実と片倉景綱がバカみたいに脊髄反射して片倉重継に襲撃させたら
佐竹側の二つの砦からわんさか兵が繰り出され包囲され
ヤベェと思った伊達成実と片倉景綱が兵を率いて救援に向かったら
佐竹全軍が一挙に逢瀬川を渡河しまくってフルボッコされ脱出不能になり
政宗も必死に前線まで出てきて救援せざる負えなくなり
二階堂の矢田野義正が伊達の伊東重信を討ち取ったりで伊達100人以上が討ち取られ惨敗して山王館へ逃げていったんだろ。
そんで山上に大量の銃を構えて籠もったままビビリまくり挑発しても一切出てこなくなり伯父の岩城・石川に和議斡旋を哀願したってのが郡山合戦。
ビビリ症の伊達は退却中に追撃されるのを恐れて佐竹が完全に危険ラインから消えるまで見届けてから退却したんだよなw
(その頃北方では母の義姫に政宗が泣きついて最上義光との和睦を願ってた)