09/11/30 16:17:55 SE3K3beG
~かみの部分は守で間違いない?
同音の雅楽頭(うたのかみ)という官職があるけどそれではないだろうか。
ちなみにこれは雅楽の演奏と奏者の養成を担当する治部省下の機関ね。
533:人間七七四年
09/11/30 17:17:12 qs9UkTC1
当て字で「ウタノ守」とされる可能性はあるね。
兵庫頭を兵庫守と誤記するケースもあるし。
534:人間七七四年
09/11/30 19:10:09 90JqhRN2
~かみ は長官
~すけ は次官
漢字は違えどな。
535:人間七七四年
09/11/30 19:24:59 LS2bBvhn
何故判官と主典をいれないんだ…
戦国時代だとあんまり出てこないけど、源九郎判官義経とか言うじゃないか。
てかじょう、さかんで一発変換出来なかったんだけど…
536:人間七七四年
09/11/30 19:30:42 6pwbTB9p
日本の四等官
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)
537:人間七七四年
09/11/30 21:38:30 PNY5MyW4
そういえば、武家の官位に少納言の人って聞いたことないんですが、存在しなかったのですか?
538:人間七七四年
09/11/30 21:59:34 wl/0ssFU
>>537
昔は要職だが時代を経ると共に蔵人が職務の大半を行っていたため、誰もつかないような閑職だったそうな
公家自身が使わないのだから僭称しようもないし、与えられることもなかった
ついでに江戸時代なら、武家は員外官(定員以外の任官。公家の官位の邪魔にならないようにするため)でなくてはならないが、
権少納言が存在しないので任官もなし(平安時代には合ったらしいが、江戸の頃はなくなってる)。
539:人間七七四年
09/11/30 22:16:58 PNY5MyW4
>>538 早速の解りやすいレスありがとうございました。 皆さんよく歴史をご存知ですが、どのような本を読んでるんでしょうか~。ちょっと気になりました。
540:人間七七四年
09/12/01 00:30:45 rEu2Zko3
>>516
明智光秀に下賜された「惟任日向守」は、惟任日向守惟基にちなんだものと思われる。
官位僭称なら、斎藤正義や姉小路自綱の大納言僭称が最大かな。
541:人間七七四年
09/12/01 02:48:10 O/sWybm1
大納言を勝手に名乗るのはただの笑いものだけど
雷神を切ったと妄言を吐くとみんなに尊敬される。
同じうそつきでも評価が全く違うよな
542:人間七七四年
09/12/01 08:24:50 a6gBvP7J
>>531>>532>>533さん ありがとうございます。
自分の知識教養の無さを痛感しました。
ついでの質問で申し訳ありませんが御願いします。
「琉球守」と「蝦夷守」が無いのは、当該地は外国の
認識だったからでしょうか。
543:人間七七四年
09/12/01 09:57:09 rvKwpIBO
>日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?
信長の戦略の一つ
反信長の島津に対して光秀を日向守、秀吉を筑前守にして牽制した
544:人間七七四年
09/12/01 11:32:26 d7K69jqd
反信長とはいってもいろいろ交流はあった。
家久が1575年に上洛した時の接待役は光秀。
このとき光秀は惟任日向を名乗っていたから、信長の外交政策のひとつかな?
この頃島津は将来織田が九州に勢力を伸ばした時、どうするつもりだったんだろうと?
家久が義久に当てた手紙には織田に対する敵対心は全く見られない。
545:人間七七四年
09/12/01 13:07:42 C3NYlFdz
「センゴク」という漫画にて、火繩銃の火線が十字に交錯する地点に敵を誘い込む
「殺し間」という用兵を明智光秀が得意としていました。
史実でも明智光秀に限らず、このような用兵は行われましたか。
また、行われていたとしたら、どのような名称だったのでしょうか。
546:人間七七四年
09/12/01 13:10:02 ukZVi8Bv
>>542
Yes
だが、琉球に関しては亀井琉球守がいる
これは秀吉にお願いしてOK出たので僭称というわけじゃないんだが
当時琉球守自体が存在しないから、架空の官位を名乗ったというところ
亀井さんはこのあと台州守も名乗っているので逝っちゃってる人ですなw
モラトリアムなんぞ実施したい傍流の亀井さんはどうなることやら
547:人間七七四年
09/12/01 14:00:12 d7K69jqd
>>545
誘い出して十字砲火というのは第二次上田合戦で真田も使った。
大掛かりなものでは、釣野伏を完成させた耳川の最初の一撃。
548:人間七七四年
09/12/01 14:45:42 a6gBvP7J
>>546さん。
ありがとうございました。 勉強になりました。
549:人間七七四年
09/12/01 16:44:39 Klg78ApQ
>>545
喰違・枡形虎口の考えをそのまま野戦に持ち出しただけだと思う。
まあ長篠の特徴の一つは大規模野戦陣地の構築でもあるので、
野戦に攻城戦を持ち込んだって点では同じ発想。
550:人間七七四年
09/12/02 07:45:26 qocBvYfa
伊勢盛時と大谷吉継の家紋は、あれ同じですよね?対い蝶。
知人が「別物」とか言い出したので自信なくなった。
551:人間七七四年
09/12/02 12:56:04 vaU9PSUW
>>550
同じです(見た目)
552:人間七七四年
09/12/02 13:55:59 8vr1I7ew
史実に百合というかレズな人物っています?
553:551
09/12/02 15:04:17 vaU9PSUW
>>550
ごめんごめん、いいかげんなこと言っちまった。
ウェブ上で見つからないので、持っている本を見たら違うものだったよ。
・頭の形:大谷は素直な楕円、早雲はなにかビロンとしたものが右は下に、左は上に伸びている。
・羽の模様:「((○みたいなものの数」が大谷は2個、早雲は3個。
・触覚の曲がり具合。
・胴体:大谷はくびれがある、早雲は胸から尾まで同じ太さ。
で、大谷のは普通に「対い蝶」早雲のは特に「北条対い蝶」とよんでいる。
詳しくは本買って観てくれ。
554:人間七七四年
09/12/02 16:56:35 F9SVT6nX
まあ伊勢平氏の紋だわな
555:人間七七四年
09/12/02 18:57:23 uxFNImPd
質問。
「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。
又、ドラマや映画では 信長公は猜疑心が強く残酷なイメージで
描かれていますが、部下に対しては追放や蟄居や初回の謀反反抗
は許したり、意外と即刻死罪は少ないように思います。
もしかして、本当は優しく寛容な方だったのですか。
最後に、秀吉のあだ名は「サル」ではなく「六つ」というのは
本当ですか。
556:人間七七四年
09/12/02 19:00:43 O9ob+lqd
>>555
前者についてのみ言いたいんだけど、罪に対しての罰は罪の重さだけで決まるもんじゃ
無いと思う。
当時の信長にとっての佐久間信盛の価値と羽柴秀吉の価値が違ったってだけかと。
勿論それだけが理由じゃないだろうけど。
557:人間七七四年
09/12/02 19:06:44 F9SVT6nX
>>555
> 「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
> を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
> 重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。
簡単に言えば佐久間が処分された時は、彼の担当していた大阪戦線はもう決着が付いていて、
佐久間がいなくてもどうとでもなったが、
離陣事件の時の秀吉が担当していた中国戦線は未だ進行中で、秀吉を処分した場合
その影響が大きかったから。
あと、何でもかんでも直ぐ殺すのは「残酷」ではなく「キチガイ」と呼ぶべきもの。
信長はそう言うキチガイではない。ただ、信長は治世者と言うレベルにおいて、
「残酷」であり「猜疑心が強」かったのも確かだろう。
信長が死んだら、秀吉も含めた信長の家臣たちが一斉に
「信長公は疑い深く心が狭かった」と発言している。
秀吉のあだ名は知らん。多分指が6本、って話からのものだろうけど、
そんなもの、サルってのも含めて本当はどうかだったなんて確かめようも無い。
558:人間七七四年
09/12/02 19:20:43 kL0V0Lc9
>>557
秀吉が播磨に派遣されるのは手取川の後。
ある意味、「功を樹てて罪を雪げ」という懲罰の側面もあった。
佐久間折檻状にも「この上はさらに奮闘して功を上げるか、さもなければ全てを捨てて高野山へ行け」
というもので、見方によれば、秀吉と同じことを要求している、とも言える。
559:人間七七四年
09/12/02 21:14:19 HioiEtph
あだ名が「六つ」だったってのは何に書いてあったのか教えて欲しいな。
出来れば引用文つきで。
560:人間七七四年
09/12/02 21:39:13 tE2M1t1H
中務大輔って何って読むんですか?
なかつかさだいゆう?
561:人間七七四年
09/12/02 22:05:57 Vq5wZ1+Y
つか利家とか指を切り落とした方がいいよとか親切に言うトコとか秀吉的には「ふざけんな痛ぇよ」だろうな。
562:人間七七四年
09/12/02 22:08:03 jPRL1/Gx
秀吉のアダナというと、信長が禿鼠、京都の町民がサル、ぐらいしか知らんなぁ
禁教令発布後に宣教師が六ツとか呼んでもおかしくなさそうだな
563:人間七七四年
09/12/02 22:08:23 U/jJk9av
>>560
なかつかさだゆう
564:人間七七四年
09/12/02 22:14:57 HFBPNpGb
なかつかさたいふ
秋月中務大輔文種 古処山城主
草野中務大輔鎮永 鬼ヶ城城主
草野中務大輔鑑員 発心嶽城主
565:人間七七四年
09/12/02 22:25:09 tE2M1t1H
>>563-564
ありがとうございます
で、どっちですか?(;´Д`)
両方とも正解?
566:人間七七四年
09/12/02 22:32:54 U/jJk9av
>>565
んーぐぐったらどっちも出る
でもたいふの方が多いからたいふなんだと思う
567:550
09/12/02 22:48:19 M9OV2Cz7
>>553
どうもありがとう。
言われなきゃわからない。これ間違い探しのレベルだね。
568:人間七七四年
09/12/02 23:06:10 HFBPNpGb
大夫・太夫=たいふ、たゆう、だゆう
569:人間七七四年
09/12/02 23:18:06 tE2M1t1H
>>566-568
ありがとう
どっちも正解みたいだけど、タイフが一般的なのかな
570:人間七七四年
09/12/02 23:30:51 F9SVT6nX
>>567
盛時の伊勢氏は、分家の備中伊勢氏だった事が係わるんじゃないかね?
571:人間七七四年
09/12/02 23:49:20 HioiEtph
あまり知られてないが、秀吉の指は若い頃に切り落としてるよ
572:人間七七四年
09/12/03 09:55:23 RvpUTdEB
>>556 >>557 >>558 >>559 >>561 >>562 >>571 さん
ありがとうございます。 勉強になりました。
秀吉公の「六つ」のあだ名ですが、友人からその話を
聞き早速 「秀吉、あだ名、六つ」 でヤフー検索したら、
以外と多数ヒットしたので質問した次第です。
皆さん ありがとうございました。
良いお年を お迎え下さい。
573:人間七七四年
09/12/03 11:07:07 Wpuk3mXf
戦国時代の武士が話してることを、現代の人が聞けば、何を話してるのか理解出来るのでしょうか? 昔の文章を見ると、何を書いてるのか全然わかりませんが…
574:人間七七四年
09/12/03 11:57:06 WiyO50KF
>>573
君だって、書き言葉や話し言葉が一致していないでしょ?
例えば友人知人に書くメールと、社会で得意先や上司に出すメールでは書き方も文章も違うでしょ。
話す方だって同様。
それといっしょ
文章が読みづらくても、話し言葉まで難しいとは限らない。
575:人間七七四年
09/12/03 12:07:37 Wpuk3mXf
>>574 何を話してるのか理解出来ると考えて良いんですね。 ありがとうございました。
576:人間七七四年
09/12/03 12:32:09 BagW00t0
方言に死ねるよきっと。
577:人間七七四年
09/12/03 13:57:10 sDfQ0fZJ
>>575
逆に理解しづらいと思うよ。
書き言葉というか文書は書式書礼で決まりがあるので、地方が異なっても読解は出来る。
しかし口語は言語にもよるが基本的に変化しやすい。だからこそ方言がそれぞれに発達する。
まあ、意思疎通が図れないほどかけ離れているとも言えないけどね。
578:人間七七四年
09/12/03 14:09:58 wLHU0Ls8
>>577
方言をなめないほうが良い。
地方在住の明治生まれのジジババと話す時、会話が成立しないことがある。
579:人間七七四年
09/12/03 15:05:11 dFRAgMbK
>>578
それは言語不明瞭だから
580:人間七七四年
09/12/03 19:42:31 EPnbP4lG
戦国時代の動員人数ってかなり誇張があるように思えます
たとえば三河すら統一していない松平清康が1万人動員したとか無茶な話だと思います。
合戦の動員戦力などを検証しているスレがありましたら教えてください。
581:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 20:00:54 qyhW60Yk
そういえば以前はあったような気が。新しく立てたら如何か。
582:人間七七四年
09/12/03 20:04:28 EPnbP4lG
それはうれしい情報です。スレタイとか覚えてますか?
キーワードがわかれば過去ログを調べてみますが。
583:人間七七四年
09/12/03 20:07:20 BagW00t0
戦闘員は動員数の1/3以下と言われているね。
んで補給部隊を襲えば、大将が離脱するやつは斬るなんて言ったところで、軍隊はほぼ確実に離散崩壊する。
584:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 20:17:01 qyhW60Yk
>>582
ごめんなさい。板違うわ現存するわ盛り上がってないわ。
スレリンク(nanminhis板)l50
585:人間七七四年
09/12/03 20:20:26 EPnbP4lG
>>584
ありがとうございます。難民板なんてあったんですね。
戦国時代板にも立ててみます。
586:516
09/12/03 21:49:08 rf0Zbaek
>>540さん、>>543さんを初めとして、
官位に付いての回答皆さんありがとうございました。
家紋に付いての質問なのですが、
織田家の『織田木瓜』と徳川家の『葵』は似ていますが偶然でしょうか?
587:人間七七四年
09/12/03 21:52:07 hjHTzJBv
丸いって部分意外似て無いと思う
URLリンク(strapyanext.com)
URLリンク(kirisai.hp.infoseek.co.jp)
588:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 21:53:36 qyhW60Yk
家紋に絡む数字ってのは何らかの意味を内包させられてるよな。
589:人間七七四年
09/12/04 03:37:08 OTtciomL
>>543は釣りだろw
590:人間七七四年
09/12/04 11:32:56 quMg+BhC
>>552
いたことは確実。
確率の問題にすぎないので。
しかしそれを史書に書いて後世に伝え続けるかというとはなはだ疑問。
591:552
09/12/04 15:47:39 PmRXEfGR
>>590
おお!まさか答えてくれる人がいたとは!!ちょっと感動しますた・・。
やっぱり「こういう人物がいた」みたいな事は分からないですよね。
592:人間七七四年
09/12/04 16:57:47 rAiR0wW/
歴史上の人物なら、実証されたわけでもなんでもないが清少納言と、
清少納言が仕えた中宮定子が百合関係だった、と言う説は一応ある。
593:人間七七四年
09/12/04 17:57:33 gq16K9Q6
愛姫と喜多
594:人間七七四年
09/12/04 18:08:40 DCe0bPeu
>>589
お前が釣り
595:人間七七四年
09/12/04 18:41:06 N4MMBIKm
一番槍の武士は、討ち取られても賞は貰えるのですか? 単騎で敵に突っ込むから、討ち取られる可能性が高かったと思いますが…
596:人間七七四年
09/12/04 19:48:28 V7EwplfT
>>595
貰える、「家」に対してね。
逆に言えば勇士に対してちゃんと遇さないと、誰も命を懸けて戦ってくれなくなるからね。
597:人間七七四年
09/12/05 12:37:19 oI1e1TE4
>>595
一番槍と一番乗りとは違うぞ
598:人間七七四年
09/12/05 14:08:49 ff4qwI1a
討ち死にした際の家督継承を認めてやることが褒美だったりする
599:人間七七四年
09/12/05 15:52:10 +7/Rvd2t
ウィキペディアには一番槍のほかに一番太刀もある、って書いてあるけど、
一番鉄砲とか一番弓もあったのかな?
600:人間七七四年
09/12/05 16:24:18 YfJTeRsl
一番首ってのもあるね
基本的に弓鉄砲は手柄として認められることは少ないな
601:人間七七四年
09/12/05 16:25:24 YfJTeRsl
↑あくまで個人の手柄としての話ね
602:人間七七四年
09/12/05 18:51:45 Kq10kdZA
よく合戦前のシーンで、単騎で敵陣に向かって、あっさり鉄砲で討ち取られるみたいなのがあるけど、本当にあったのかな? 無駄死ににしか思えない。
603:人間七七四年
09/12/05 18:55:25 irZ/5Kbc
>>602
状況による。
まあこの時代の鉄砲の、対処までかかる時間や命中率を考えれば、
現代の人間が思うほど無謀な事でもないが。
604:人間七七四年
09/12/06 07:20:07 4l/W2DqT
将軍が政治を司る法的裏付けが良くわかりません。軍事司令官がなんで政治するの?
摂政とか関白とかは何してたの?
605:人間七七四年
09/12/06 08:03:20 Gm9BLEDa
>>604
武家は戒厳令が常態化していると解釈させてるんじゃないの?
606:人間七七四年
09/12/06 08:37:55 4l/W2DqT
>>605
平安末期に戒厳令とか夜間外出禁止令とか憲法停止とか非常事態法があったの?
607:人間七七四年
09/12/06 08:42:20 dPNhTZig
>>604
「権門体制論」と言うのを調べなされ。それで大体解る。
608:人間七七四年
09/12/06 09:36:43 ZG9eRtHq
朝廷から頼朝がもらったじゃん
609:人間七七四年
09/12/06 12:53:59 LCYtw1z+
>>604
>摂政とか関白とかは何してたの?
摂関家だけでなく公家は文化や古典の伝承に特化していた。製本(出版事業)はずっと行っている。
荘園は殆ど無くなっているから、大名の家庭教師と官位奏上の手数料などで収入を得る。
信長や秀吉が公家の官位に応じた知行(300石~1000石)を与えるまでは
スポンサーの大名(朝廷へのコネ確保)の所に居ることが多く、京にはあまり住んでいない。
610:人間七七四年
09/12/06 14:51:40 NkLVE9TN
関が原の戦い
慶長出羽合戦
文禄・慶長の役
本能寺の変
応仁の乱
戦い、合戦、役、変、乱の違いは何だろう?
遠征は役、謀反は変っていう感じはするけど
611:人間七七四年
09/12/06 14:54:26 Gm9BLEDa
役は、公権力が主導するもの。
変は、クーデター。
乱は、挙兵して上位権力に逆らうこと。
612:人間七七四年
09/12/06 17:00:58 IIeFK+zN
役は戦争
戦いは戦闘だと思ってた
小牧の役、長久手の戦いみたいな
関ヶ原は戦役全体か、関ヶ原の本戦か区別する気すらないような感じだけど
613:人間七七四年
09/12/06 19:12:03 NkLVE9TN
>>611
ありがとう
なるほど、納得した
614:人間七七四年
09/12/06 19:13:58 NkLVE9TN
そう言えば、大阪冬・夏の陣は、どうして「陣」なんだろう?
大阪の役とも言うけど、陣が一般的な気がする
615:人間七七四年
09/12/06 19:16:02 dPNhTZig
>>614
小田原だって「小田原の陣」と言うよ。
城を大軍で取り囲む戦いを「陣」と言うのでは?
616:人間七七四年
09/12/06 20:26:20 QgRssCsf
秀吉の朝鮮征伐はあちらでは壬申倭乱だよ
617:人間七七四年
09/12/06 20:34:32 ZG9eRtHq
西郷の名誉回復のために神風連の乱や佐賀の乱と違い、西南戦争と格上げされていたりする。
征伐は非文明や蛮族に対する差別語なので朝鮮征伐や蝦夷政宗征伐の時に使う。
618:人間七七四年
09/12/06 20:44:57 vdUqlV/z
>>611
うん、勉強になった。
ってことは、恵美押勝は"乱"でいいのか…
619:人間七七四年
09/12/06 20:57:05 LCAGwDjZ
西南戦争は単に規模の問題だろう
620:人間七七四年
09/12/06 22:46:35 ZG9eRtHq
そもそもロシアとの戦争を前に日本内部対立解消を名目に勝海舟の働きかけによって朝敵西郷の名誉回復がなされたのがきっかけ。
621:人間七七四年
09/12/06 22:58:24 QgRssCsf
>>620
いやそれは弟の従道が働きかけたんだよ
622:人間七七四年
09/12/07 00:31:09 lAxouRbB
義胤顕綱政詮景忠秀元
戦国武将にはこういう漢字が多いのはなぜ?
623:人間七七四年
09/12/07 01:06:56 w+S5aK3e
戦国時代にそういう諱が多いのは、やっぱり偏諱の一字拝領が常習化したせいだろうね
最初の人がどうしてそういう名前を付けたのかは分からんけど
624:人間七七四年
09/12/07 01:43:25 HoGJLdDD
義:これは足利将軍の通字なので、将軍から下賜るれた例が多い
胤:桓武平氏の通字の一つ。特に千葉氏。
顕:坂上田村麻呂子孫の通字の一つ。
綱:渡辺綱系源氏子孫の通字の一つ
詮:斯波氏の通字の一つ
景:桓武平氏通字の一つ
元:細川京兆家の通字
後はまあ、個々に理由はあるが、流行みたいな感じ
政
忠
625:人間七七四年
09/12/07 02:18:06 lAxouRbB
わかりやすい例
ありがとうございます
626:人間七七四年
09/12/07 09:44:46 gY0qzADd
江戸時代に描かれた 「○○の戦い」 などの絵を見ると、
武将の鼻の下部分のヒゲは中央部分は無くて左右のみ
生やしていますが、本当にあのようなヒゲスタイルだったのですか。
(湯漬けを食うとき汚れない?)
627:人間七七四年
09/12/07 11:11:42 PUKvmcYZ
>>624
11代足利義春は名前を押し売りしたらしいぞ。
義が1000貫文、晴が300貫文。
「そなたに義を与えようぞ、これからは義久と名乗るがよい」
「(ええっ!迷惑だな・・・)はは!ありがたき幸せw」
「そなたには晴を与えよう、晴信と名乗るがよい」
「(まあ、しゃあないか・・・)ははっ、名誉この上なしと存知まする」
628:人間七七四年
09/12/07 11:20:38 PUKvmcYZ
あちゃ 足利義春⇒義晴だね
629:人間七七四年
09/12/07 11:44:00 lAxouRbB
>>627
金とるんですか!しかも高いw
630:人間七七四年
09/12/07 12:00:48 PUKvmcYZ
普通は将軍家や管領家などと深く関係を持ったり、縁戚になったりするともらえたんだけど、
かなりの献上品を持ってきた時にも与えたという。
ただし、これらはあくまでも大名からの働きかけによる受身で、
義晴は、使者を方々の大名に派遣し積極的に売り歩いたということ。
631:人間七七四年
09/12/07 12:25:43 lAxouRbB
>>630
なるほど。
烈風伝のように寄付しまくって官位もらうタイプと
革新・天道みたいに公家が寄付を催促して官位もらうタイプみたいですな。
後者だとがめつい印象が強いですよね
632:人間七七四年
09/12/07 15:27:31 7ja05cwf
押し売りといえば、戦国期の天皇の誰かも書物とか絵とかを押し売りしてなかったっけ?
式微極まる様子の涙を禁じ得なかった。
633:人間七七四年
09/12/07 22:51:13 WFaVJwmt
>>617
西南戦争が明治期最大の内乱であったことには異論ないところだが、
実は軍の動員規模では西南戦争>>>>秩父事件>>>>佐賀の乱だった筈。
634:人間七七四年
09/12/08 02:16:02 V0S4zP4u
信長の野望では
筑前の所有者が1550年には大内、1555年は大友になっています
んで毛利が大内を滅ぼしたころは豊前も大友領になっています。
たしか大内義隆のあとを付いだ大内義長は大友宗麟の弟ですよね?
ということは大内義隆や義長の死のどさくさに紛れて大内領に大友が攻め込んでいたのでしょうか?
もしそうなら父子や諏訪や今川ら縁者をを裏切り続けた武田信玄なみに大友宗麟は身内に容赦ないですね。
血縁をみると大友義鑑と大内義隆は義兄弟、義長は大友宗麟の実兄弟
その大内当主が攻められているなら助けるのが筋ではないでしょうか?
635:人間七七四年
09/12/08 02:53:54 KyVP8JRB
元就が大内義長を攻めるに当たり、大友宗麟と密約を交わしたとは聞くな。
まあでも、戦国だから仕方ない。
636:人間七七四年
09/12/08 03:01:46 HMi3oHHd
親子兄弟ですら血で血を洗うから戦国なのだ
637:人間七七四年
09/12/08 03:15:35 V0S4zP4u
>>635
>>636
ということは豊前のほうは毛利からの割譲ですかね。
俺が大友宗麟なら陶が厳島で死んだのをいいことに
弟(大内)を庇護下において全部併呑してしまうかな
638:人間七七四年
09/12/08 03:47:21 KyVP8JRB
>>637
それだけの力は大友にはない時期だったりする。
宗麟が二階崩れの変でドタバタしつつ家督継いで二年くらいだし、
毛利が防長の経略に時間がかかったのと同様、
豊前・筑前の平定にも毛利のちょっかいもあって結構な時間がかかってる。
とてもじゃないけど1555年にいきなり関門海峡を超えて進出できるだけの力はない。
639:人間七七四年
09/12/08 06:02:59 V0S4zP4u
>>638
なるほど。二階崩れの変ってかなり影響があったんですね。
wikiを見ると
>義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城氏の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、
>家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。
>二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、
>義鎮が影で動いていたとも言われている。
大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり必ずしも良好な関係ではなかったですよね。
もしかすると大内は義鎮側に加担していたかもしれませんね。
翌年の大寧寺の変で大内義隆は大友を頼ろうとしていますしそれなりの交流はあったのかも。
そうだとすると大友義鎮は大寧寺の変で後ろ盾を失った危機をうまくチャンスに替えたことになりますね。
640:人間七七四年
09/12/08 06:53:52 16VQ9zuP
むしろ外部の介入を阻止しやすいこの時期を狙った陶氏の慧眼が賞賛に値する。
641:人間七七四年
09/12/08 07:17:22 Cfl5BGZv
しかし大友から養子を迎えたことで大内家中内部で問題が起きてるわけで
642:人間七七四年
09/12/08 07:47:25 7CfvCiow
> 大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり
っていつ頃の話を持ち出してる?
そんなものがなくても大友と大内は殺ったり殺られたりが続いてるんだけど、
この時期に目立つ伊予への介入なんてあったでしょうか。
643:人間七七四年
09/12/08 08:25:54 uUa8o/x3
伝統的に大友はそもそも中国地方に興味ないよ。
しかも大内は北九州で拡大を狙ってきて大友とは基本的に対立状態。
大内が大友領の国人扇動やりまくりで大友領支配は常に不安定。
これらの扇動はのちに毛利も踏襲してるし、島津も北上にあたりやっている。
そもそも義長の大内入りに宗麟は「当主になったからと言っても結局は陶の操り人形にしかなれないから危険止めとけ」と反対してた。
義長は「男として大家を継ぐのは誉であり、どのような結果になっても後悔しない」と主張を押し切ってる。
陶の反義隆の挙兵はそもそも毛利の内諾を得てから挙兵してる。
しかし陶の石見遠征の大苦戦を知り、背後を突いて毛利は陶を裏切った。
そのために大友に「北九州はそちらに譲渡するので、大内を支援しないで欲しい」と同盟の密約を持ちかけた。
大友にしても北九州領…特に大内の力の源泉たる博多の富を手に入れられるのに断る理由なんてないから了承。
しかし周防長門の平定を終えると、大内領の継承を唱えて毛利はいきなり同盟を破って門司を奇襲し博多を目指すことになる。
緒戦においては圧倒的な水軍力で海上封鎖をして船舶補給力で毛利は優位に立つが、結局は失敗敗退する。
644:人間七七四年
09/12/08 08:42:38 uUa8o/x3
しかも宗麟は水軍力の重要さに気づいて、水軍育成に力を注いだ為に最後の戦いになった毛利の国東半島封鎖では、
大友水軍が毛利水軍を撃破して封鎖を打破してしまった。
たびたび毛利が和議を破って奇襲してきたが、
これにより大友水軍が毛利水軍よりも強くなるまでに成長したために大友と毛利の戦いはついに集結を迎えた。
この水軍力は対島津戦でも活躍し、
島津は大友水軍に制海権を握られ続け、湾岸部に接する宗麟の丹生島城や杵築城は補給を受け続けて落ちず、
逆に岡城や角牟礼城や栂牟礼城を軸に後方遮断を策せられて、
島津は疲弊と補給困難に追い詰められ、大友の各郡軍区の要衝は以前として健在なまま豊前の龍王城にいる当主義統までたどり着けない状況に追い込まれ、
持久策の前についに島津兵の離散が相次ぎ戦力が時間を経るにつれて急激な低下を迎え撃退された。
九州では水軍力が戦いを左右したと言える。
645:人間七七四年
09/12/08 09:04:14 FkvCPx/D
大友のスレでやれボケ!!
646:人間七七四年
09/12/08 09:04:49 uUa8o/x3
そう言えば350年後の官軍による薩摩征伐では
戦略を理解できない芋侍の島津は350年前のデジャブを繰り返して、長崎を得るために熊本城攻めに戦力集中した挙げ句に苦戦し、
相手にいたずらに時間を与え、
固執して落ちないとやっと理解すると、
今度は兵力分散をして見事に消耗大敗すると言う対大友戦の二の舞の愚を犯したね。
647:人間七七四年
09/12/08 12:12:00 P9AN6FMf
かなり泥縄的に始まった反乱だからなあ
648:人間七七四年
09/12/08 16:40:35 HMi3oHHd
ID:uUa8o/x3はいろんなところで暴れているキチガイ。
649:人間七七四年
09/12/09 01:24:06 NHngfiy9
大友水軍指揮官の若林鎮興はもっと評価されるべき。
650:人間七七四年
09/12/09 01:50:16 VIsuXyu+
秀吉に潰された大友が、どうして関ヶ原では西軍に付いたのだろう?
651:人間七七四年
09/12/09 02:10:46 1hQOzQ0N
カエサルに占領されたガリアだって内乱の時裏切らなかっただろ?
652:人間七七四年
09/12/09 02:43:51 q35lZYQ9
関ヶ原は徳川vs豊臣の戦い
ではなくて、豊臣政権内の権力争いだからな。
むしろこの時期の豊臣政権=家康だから、
非主流派の西軍についたのは必然とも言える。
653:人間七七四年
09/12/09 03:06:59 VIsuXyu+
>>652
関ヶ原軍記大成とか読むと、家康は大友義統に、大名復帰の内諾与えてた
みたいなんだよね。なのに西軍に付いたのが不思議で。
654:人間七七四年
09/12/09 07:06:51 MSB0zaoh
西園寺充実はなにが充実していたのでしょうか?
655:人間七七四年
09/12/09 08:00:38 t/R9rAv+
実際に三成が金をくれ、毛利が水軍を出して後援してくれたから。
家康はなーんにもしてなくね?
大友再興軍に参集した武将たちは家康に付けと主張してたらしいが当主自身が毛利に洗脳されてたからね。
毛利としたら伊予攻略へ派兵したりしてるから、背後の九州をかき回されたくないからね。
家臣が家康に付けと主張したってのも、当時西軍に付いた大名らのほとんどにあるエピソードだから本当かわからんし。
10人の家老のうち徳川に買収された1人が言うだけでも話は成立するわけで。
656:人間七七四年
09/12/09 15:50:48 FjkFlCvk
質問!その関ヶ原で毛利は何がしたかったんですか?
総大将に推されたのに大阪城から動かず、結局何もせずに領地だけ削られる
というバカみたいな結末。教えて下さい!
657:人間七七四年
09/12/09 16:50:41 VIsuXyu+
>>656
三成たち奉行集や安国寺の口車に乗って西軍に参加してみたが、いざ西軍に参画してみると、
その内情が余りにひどいのでこれでは家康に勝てないと(あくまで毛利として)判断、
その後毛利家存続をかけての家康との交渉に入った。
と言うことだろう。
ちなみに、領地を削られなかった島津と比較する人間がいるが、一参加武将に過ぎない
島津と、「西軍総大将」である毛利とはその立場が明確に違い、総大将である以上
毛利は関ヶ原の合戦に係わる責任を全て引き受けなければならないはずだった。
普通に考えて当主当人の切腹、軽くても領地没収であったはず。
それを、家康の側で、関ヶ原を『奉行衆の反乱』と矮小化してまで、
(一般の参加武将並に)改易だけはしたが、毛利は大名家として存続し、毛利家の中で
誰一人責任を取らされる者はいなかった。
これは吉川広家の戦略的勝利と言える。
「領地を削られたから駄目だった」というのは、評価が一面的過ぎる。
むしろ「西軍総大将なのに家が、しかも大大名として存続した」という面に、
積極的な評価をするべきだと考える。
トータルで見れば、毛利の方針は(例え消極的であっても)成功であったのだ。
658:人間七七四年
09/12/09 18:01:21 oLEi57YY
幕府成立後の話だけど、東海道筋の尾張藩はともかく、
なんで水戸と紀伊に家康の子を置いたんだろう?
紀伊は大阪への牽制にしては土地が貧しいし、水戸は奥州の
押さえというなら、宇都宮とかの方が良くない?
微妙に枢要な場所から外れている気が。
659:人間七七四年
09/12/09 18:50:17 y+JxuM/C
>>656-657
西国の覇権拡大を狙っていたと思われる。
関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。
大坂を動かなかったのは腰抜けだからといわれるけど、本当は西に目が向いていただけじゃないかね。
660:人間七七四年
09/12/09 19:57:31 e06rtTXM
>>659
>関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。
?
661:人間七七四年
09/12/09 21:42:50 t/R9rAv+
その内情があまりにひどいので家康に勝てないと判断←毛利厨の妄想だろこれ。
さんざん西軍として派兵しまくっておいて何寝言吐いてるんだ?
662:人間七七四年
09/12/09 22:35:49 RzL8PI6M
関が原の1日でケリがつく、なんて想像してなかったんだろうね。
応仁の乱は10年かかったわけだし。
>>659の言うように、西国を抑えてその先考えるつもりだったんじゃないのかな。
西を抑えた上で、天下はいらないから、そろそろ手打ちしよっかー、くらいの気分でいたのかも、TERU様
663:人間七七四年
09/12/09 22:43:20 iGCcrZAs
小牧長久手みたいな長陣になれば秀頼を抑えた輝はキャスティングボートになる
664:人間七七四年
09/12/09 23:17:50 VIsuXyu+
西軍は家康が赤坂に出現した段階でもう、完全に腰が砕けている。
小早川、吉川、脇坂らの内通は家康が出てきた瞬間に決定していた。
小早川が最初から東軍だと考えれば、関ヶ原の布陣において死地に入ったのは
西軍の方であり、例え戦術レベルで多少、見るべきところがあったとしても、
西軍は負けるべくして負けたと考えるべきだろう。
665:人間七七四年
09/12/10 11:12:07 l3m1mysg
領地をあれだけ大幅削減されるなら、いっそガチで戦って家康ヌッ頃して、
返す刀で治部もヤッちゃえばよかったのにねー。
>>658
水戸は佐竹氏の後で、江戸に近くて豊かな土地だからまだしも、紀伊は
わからんね。貧しい上に雑賀衆とかいて難治の地だったのでは?
あれ雑賀は滅びたっけ?
666:人間七七四年
09/12/10 12:21:52 Yp5t4QoF
一応ね。
ただ雑賀孫市の子孫は水戸藩家老だからなあ。
667:人間七七四年
09/12/10 12:30:50 73Z5sUML
牽制のためだろ。
敵軍が山陽道からやってきて大坂が落ちても紀伊山地で南朝みたいに粘れるからじゃないか?
そのうち江戸を中心に友軍が集まってくるまでの時間稼ぎ
和歌山が健在では大坂をゲットした敵軍も東進に不安を抱えるし、大坂湾を封鎖されても和歌山には船舶補給も可能。
うまくやれば和歌山と尾張藩で挟撃体制も取れる。
668:人間七七四年
09/12/10 13:34:48 ucq3P3J7
池田のところあたりのがどうみても豊かでいいよね
669:人間七七四年
09/12/10 13:54:53 0EUTMoG7
大寧寺之變前夜の頃の大内は大村や龍造寺や島津や大友を従えていたようですが、
肥後の相良氏も大内に従っていたのでしょうか?
それとも大内と相良は対等な同盟関係だったのでしょうか?
670:人間七七四年
09/12/10 14:18:56 5ZMiuXtN
相良氏と相良武任とは関係あるのかな
671:人間七七四年
09/12/10 14:27:02 MXmm6FBM
>>670
肥後の相良の一族だろ?
武任の親父が家督争いに敗れて筑後に逃れ、大内に身を寄せて家臣となった。
672:人間七七四年
09/12/10 14:30:01 5ZMiuXtN
>>671
へ~。もろに関係あったのか
673:人間七七四年
09/12/10 15:12:46 wQr6adjG
>>672
陶がやばいと思って逃げ出したときは本家を頼ったじゃないのさ
674:人間七七四年
09/12/10 15:19:57 0EUTMoG7
少しぐぐってみたが相良は大内の傘下という形で明と貿易したっぽいな
1546年に義隆は相良晴廣に遣明船の準備を命じたらしい
URLリンク(www.m-network.com)
675:人間七七四年
09/12/10 16:41:49 l3m1mysg
>>666
まあ加賀だって一向一揆の国で織田軍が虐殺やらかしたし、秀吉が利家を封じた
のは嫌がらせという説もあるのに、治水に励んで百万石だもんなあ。
>>667
ただ、他の二家と釣り合いが取れないのが不審。尾張も水戸も豊饒の地だが
紀州はお世辞にも豊かとは言い難い。
676:人間七七四年
09/12/10 17:12:39 YBN5hhdf
一族庶流が豊かになりすぎても危険なのではなかろうか
677:人間七七四年
09/12/10 18:53:16 l3m1mysg
>>676
そこはバランスだな。一族を優遇し過ぎて謀叛を起こされた例もあれば
一族を冷遇して、いざという時味方がいなくてアボーンという例もある。
678:人間七七四年
09/12/10 19:29:13 YBN5hhdf
>>677
そうですね。だからあれでうまくバランスが取れていたんじゃないかな。
679:人間七七四年
09/12/10 22:10:29 l+ig5U/r
真田幸村は本名の信繁で呼ばれることが少ないのは何故でしょうか?
680:人間七七四年
09/12/10 22:18:57 l3m1mysg
講談じゃない?
681:人間七七四年
09/12/10 22:29:28 Ko8GlMGU
>>679
明智光秀が惟任光秀で呼ばれてないのと一緒
682:人間七七四年
09/12/10 22:34:23 vj95kYP0
学問の分野では「幸村」の名を使う事は皆無。
683:人間七七四年
09/12/10 22:43:57 Ko8GlMGU
>>682
俺の高校時代の教師には「幸村」と教えられましたが何か?
684:人間七七四年
09/12/10 22:47:47 Yp5t4QoF
「学問」と「教育」は別だぜ。
日本史の先生が戦国時代の専攻とは限らん。
685:人間七七四年
09/12/10 22:54:09 Yyv0eOn3
いや、小中学校はともかく高校で幸村って教えてちゃまずいだろ。
でも普通高校で日本史取るか?
686:人間七七四年
09/12/10 23:11:31 5ZMiuXtN
摂津ので勢力をふるっていたのはどの大名家なのでしょうか?
信長の野望のように本願寺が一国支配していたのでしょうか?
でも一向一揆が支配していた国は加賀だったはず。
687:人間七七四年
09/12/10 23:13:01 5ZMiuXtN
ついでに、紀伊ですが鈴木重意って傭兵集団ですよね?
そんな程度の勢力の大名しかいなかったのでしょうか?
688:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/10 23:15:54 ZQhZLLhy
畠山という旧態依然とした領主がいることはいました。
689:人間七七四年
09/12/10 23:28:53 vj95kYP0
摂津の実質的な支配者は
畠山→細川→三好→摂津池田氏→荒木村重
こんな感じか。
本願寺は一国を支配したわけじゃなく、石山と言う都市を根拠地にしていたと
考えた方がいいかと。
あと、紀伊の最大勢力は、紀三井寺、高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺などの寺社勢力。
690:人間七七四年
09/12/11 00:32:26 b02yI4Yu
>>688-689
サンクス
管領家を忘れてました。
摂津に関しては細川等を、紀伊は畠山を大名にして
坊主連中を諸勢力にしたら史実に近くなりそうですね。
691:人間七七四年
09/12/11 00:37:52 G9MyxG9H
>>689
畠山が摂津守護になったことなんてあったんだっけ?
畿内では河内と紀伊、あとは山城を抑えた時期もあった、位で。
摂津は戦国時代に入ってからだとずっと細川系の被官が揉めつづけてるだと思うんだけど。
細川の内紛が始まってからは長慶の最盛期を除けば摂津一円を一括支配できた人はいないのでは?
692:質問
09/12/11 05:40:19 K8hwB1Fb
ドラマなんかで武将たちやその家族が「家を守ろう」などと叫んでるけど、
家を守ってどうするんですか?
693:人間七七四年
09/12/11 05:56:18 s5sQ0j6w
>>692
祖先信仰、伝統、家職、歴史観を永続させる。
国を守ろう、みたいなもの。
694:人間七七四年
09/12/11 05:58:02 s5sQ0j6w
徳川時代になってイエ個別の歴史観より、全国共通の歴史観が優位になったから、明治維新は可能になった
695:人間七七四年
09/12/11 06:30:38 cBqAkqSd
戦国期の「家、御家」は、おおむね「家中」を指す。
「家中」とはその大名の家族、一族のことのみではなく、その大名権力を構成する
家臣団まで含めた共同体の事。
基本的に家が続く限り、家中はその家への忠誠等の義務への対価として、
家政への参政権を含む各種の権利を持つ。
つまり「家を守る」とは、その大名家を頂点とする、構成員の家族まで含めた
共同体組織、およびその秩序を守る、という意味合いで考えるといい。
例えば忠臣蔵で大石内蔵助が求めた「浅野家再興」は、最低限でも「家中」が存続できる
規模での再興の事。家中が存続できなければそれは「御家」ではないのだ。
まあ、ある面のみだが、今の言葉で言うと「会社を守る」に語感としては近いと思う。
696:人間七七四年
09/12/11 07:34:13 SCM4zS9p
殿は一代、お家末代。
697:人間七七四年
09/12/11 09:26:35 PVk/He1g
>>692
この場合の「家」とは家族やあるいは建造物として家ではなく、一族から家臣領地領民まで含んだ共同体のこと。
現代で例えれば、会社組織みたいなものだと思いねえ。
698:692
09/12/11 18:17:49 K8hwB1Fb
みなさんあざーっす
699:人間七七四年
09/12/11 20:38:15 XawkJTnN
寺や神社の役割って、今と変わりなかったんですか?大小あちこちにありすぎですよね?
700:人間七七四年
09/12/11 20:41:48 LoKkSbzH
>>699
少し前までは公民館みたいな使われ方をしていました
701:人間七七四年
09/12/11 20:59:15 cBqAkqSd
寺社の役割はそれぞれによって様々でもある。
村落の儀式、祭礼をつかさどる公共の場であったり、
領主として存在していたり
布教の場であったり、
公益事務所であったり、
役所であったり。
まあ江戸期以降は、いわゆる大寺以外は、祭礼の場+教育機関+役所の戸籍科、
ってな感じ。
702:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/11 21:12:34 AZLXcObs
>>700
その説明、オレにはとても分かりやすいけど若い人に通じるのだろうか。
703:人間七七四年
09/12/11 22:10:22 LoKkSbzH
最近は寺で町内会のクリスマス会とかはしなくなったからな
704:人間七七四年
09/12/11 22:13:38 b02yI4Yu
1551年に起きた大寧寺の変は守護代との争いで劣勢だった諸国の守護たちを落胆させた
という内容を聞いたのですが、この時期の守護は
すでに今川のように守護大名から戦国大名化していたり、
守護代に破れているのかとおもいました。
どういった守護家がこの時期でも粘っていたのでしょうか?
705:人間七七四年
09/12/11 22:19:14 l+rqurUG
江戸時代は戸籍を管理をして幕府の民衆支配の出先機関。
そんでそこの所属する僧は階級支配の徹底のために部落の人の墓には人名ではない漢字が刻まれ葬儀の仕方も差別したり。
4歳くらいで死んだ女の子の墓に獣とか書いたりしてたらしい。
だから墓を見れば差別されてたかわかるらしい。
個人情報保護法の真の目的は部落を探し出せなくするため。
あとは城の最外郭に位置してて有事の防衛施設になったりする役割。
706:人間七七四年
09/12/11 23:43:23 PVk/He1g
>>704
能登畠山家はイロイロと頑張ってたな。最後は悲劇で終わったけど。
あと播磨の赤松家も長く権力を保持して守護代と闘争を続けた。
707:人間七七四年
09/12/12 03:19:03 6iJQFgEK
三国志でいう正史、演義のように、戦国時代について知るならこれを読め!って本ありますか?
708:人間七七四年
09/12/12 04:05:20 DwFBCdhh
何をどう知りたいかにもよるが、そう言う古典的な通史なら、日本外史でも
読んでみてはどうだろう?
709:人間七七四年
09/12/12 10:25:21 rR/szRuh
>>706
若狭武田家も忘れないでやって下さい
710:人間七七四年
09/12/12 14:05:04 OfRAaOhb
>>709
若狭武田家は守護代破ってるだろ
若狭武田の凋落は頼りにしてた細川の衰退と後継者争いじゃね?
711:人間七七四年
09/12/12 15:04:52 Naq+bXe9
1550年頃の管領・守護家
安東:蝦夷管領
伊達:陸奧
上杉:關東管領
甲斐武田:甲斐、信濃
今川:駿河、遠江
斯波:尾張
畠山:能登、越中、河内、紀伊
富樫:加賀
朝倉:越前
京極:近江、飛騨、隱岐、壹岐
六角:近江
仁木:伊賀
若狹武田:若狹
細川:管領
一色:丹後
山名:但馬、因幡、伯耆
赤松:播磨、美作、備前
尼子:出雲
大内:周防、長門、石見、豐前、筑前
河野:伊豫
大友:豐後、筑後、肥後
有馬:肥前
島津:薩摩、大隅、日向
712:人間七七四年
09/12/12 15:45:29 zrgjAorn
朝廷の地方官 → 国司(特に守)
室町幕府の地方官 → 地頭・守護・管領
だけど、江戸時代の藩主には幕府としての役名は無かったの?(藩は明治以降の呼び名だし)
713:人間七七四年
09/12/12 17:51:45 rR/szRuh
言われてみりゃそうだな。国司という身分は「日本の土地はすべて国家のもの」
という律令制のタテマエを踏まえてるし、守護は警察権の行使者というタテマエを
踏まえてるわけだ。江戸幕府の「タテマエ」って何だろう。
714:人間七七四年
09/12/12 18:12:54 DwFBCdhh
江戸幕府では、大名の統治は基本的に将軍の代官として権限を行使している事に過ぎない。
大名は代替わりのたびに将軍から領国の統治権を受命する必要があり、また、それが
大名の正当性の源泉にもなっていた。
715:人間七七四年
09/12/12 19:30:59 rR/szRuh
だが一方、明治初期の版籍奉還では各大名が個別に統治権を天皇に返還してる。
どっかでタテマエが変わっちゃったのかねぇ。
716:人間七七四年
09/12/12 19:51:01 DwFBCdhh
>>715
それは慶応3年の大政奉還で、それまで法理論上、将軍が天皇から委任されていた
大名の統帥権を朝廷に返上したため。
717:人間七七四年
09/12/12 22:28:27 zrgjAorn
大政奉還で正式に大名領が藩になって、大名が知藩事に任命された、って習ったなそういえば。
つまり江戸時代での幕府支配って中世的なシステムで無理やり近世的な社会を動かしてた
わけか。唐風に呼べば良いからわざわざ自分たちで名称を作る必要を感じなかったのかね。
718:人間七七四年
09/12/12 22:34:21 zrgjAorn
ん、おかしいな。調べてみたら知藩事の名称が使われたのは版籍奉還後だった。
不版権三部制の頃は大名はなんて呼ばれたんだろ?藩主かな。
719:人間七七四年
09/12/12 23:35:58 SdwKXVWU
>>711
サンクス
これはわかりやすいです
720:人間七七四年
09/12/13 00:29:31 HddKIcXf
>>719
ちょっと待て、711はかなり間違いが多いので注意しとけ
旧字の使用が徹底されてないから日本人ではなく日本史好きの外国人の書き込みっぽい
甲斐武田が信濃を領国としたのは永禄年間
京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで
仁木氏の伊賀も南北朝時代
他にも色々変なのが混ざってる
守護や守護大名について知りたければ、
「越後守護」「紀伊守護」の各守護職名や「半国守護」「分郡守護」等でぐぐったほうがよい
721:人間七七四年
09/12/13 01:01:56 Zv+pxzqi
ついでにいうと、相模守護の北条も無いな。
多分他にも抜けているのがありそうだ。
722:人間七七四年
09/12/13 01:25:55 kec/cT0z
当時の衆道って、どんなことをやってたのでしょうか?
ぐぐっても全然出てこない…
723:人間七七四年
09/12/13 01:44:04 Zv+pxzqi
女とのセックスでケツの穴を使ってはいかん、
何故ならばそこは男同士で使う神聖な穴だから、みたいなことを書き残している奴がいたので、
アナルセックスです。
ちなみに口淫は女色男色とわずアウト。
724:人間七七四年
09/12/13 01:45:54 ZZXKtepy
ちょっと疑問に思ったんだけど、戦国時代の女性は無駄毛の処理とかは
どうしていたのだろうか。腋毛スネ毛ボーボーだったの?
ちなみに、ググったら戦国武将が無駄毛の処理等のサイトがわんさか出てくれて微妙なニアミスしてくれます。
725:人間七七四年
09/12/13 01:52:47 7OgVbK5o
>>722
「稚児草紙」でググれ
>>724
毛を剃ったのは遊女くらいだったと思われる。
726:人間七七四年
09/12/13 01:54:11 bXGPjLyy
へぇ、遊女は剃ってたんだ。
やっぱり毛が生えてるのは見苦しいとかそういう意識があったんだろうか。
727:人間七七四年
09/12/13 01:56:32 wyV4OHj/
むしろ汚い
728:人間七七四年
09/12/13 02:10:02 cTb1GxXF
江戸時代でも毛処理するのが嗜みだったとか聞いたことあるけど
実際はどうだったんだろう。
何でも毛切り石?とかいうものがあったらしいけど。
729:人間七七四年
09/12/13 04:50:32 lp7H/V8C
遊女が剃ったのは毛じらみ防止という身も蓋も無い理由。
江戸時代ならどんな貧乏な家でも剃刀の一本ぐらいはあったと聞いたが、
戦国の頃はどうなんだろうね。
730:人間七七四年
09/12/13 10:42:12 f6GOWHIx
>>687
雑賀って傭兵集団という認識でいいのかな?
土豪の一揆集団だと思ってたけど
731:人間七七四年
09/12/13 10:54:25 4hT+OGGk
>>730
その二つの要素を併せ持ってます
732:人間七七四年
09/12/13 11:06:41 kec/cT0z
>>723,725
ありがとう。見てみます。
733:人間七七四年
09/12/13 14:57:40 W5KFEJIq
>>720
> 京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで
ぐぐってみたが飛騨や隠岐の守護は京極高吉って出たぞ
URLリンク(www.geocities.jp)
734:人間七七四年
09/12/13 17:11:25 t5p3ewi8
>>733
そのググった先で高吉の先代に書かれている政秀は高吉の生前に死んでるみたいね。
ということで、実権を伴いうる守護職を失ったのが16世紀初頭というのは間違ってないのでは。
もっとも飛騨も隠岐も京極氏の本領でもなければ高吉が在国守護だったわけでもないので、
肩書きとして名目上の守護職を足利義晴におねだりして貰ったとしてもおかしくはないのかもしれないけれど。
それより>>711がひどいのは幕府の職制の管領と各国守護がごっちゃになってるところとか、
細川、畠山あたりの一族を一括りにしてるとことかと。
735:人間七七四年
09/12/13 17:54:16 kGZ/iC2/
よく首級をいくつも挙げたと武将プロフィールに出てきたりしますが、これはその武将が個人戦で獲た首でいいのでしょうか?
それとも配下の者が獲った首もカウントされるの?
736:人間七七四年
09/12/13 18:16:58 7OgVbK5o
>>735
合戦における武士、侍は通常、侍本人とその家臣、下人による
数人から十数人のユニットを組む
「武士の手柄」とは、そのユニットで上げた手柄の事。
737:人間七七四年
09/12/13 19:23:03 kGZ/iC2/
>>736
ありがとうございます。
つまり必ずしも個人対個人ではないと言う事ですね!
738:人間七七四年
09/12/13 19:32:46 7OgVbK5o
>>737
と言うか、合戦において「個人対個人」は殆どありえない。
これは武士の発生時点からそうで、よく「鎌倉武士は名乗りを上げて一騎打ちを~」
などというのは、軍記物の創作にしか過ぎない。
実際は騎馬の士を中心としたユニットで戦闘していた。
ただ、戦国期まではこのユニットごとの戦闘の総体が戦、というのも実態だった。
戦国期はこのユニット最小単位とした「備」と言う部隊編成が行われた事が特徴。
739:人間七七四年
09/12/13 22:26:10 Dxwb2Wsn
豊臣秀次と秀頼や武田義信と勝頼みたいに後継者が変更になった例はほかにもありますか?
740:人間七七四年
09/12/13 22:36:33 Qhoeo/Rh
>>739
小早川秀包と小早川秀秋
毛利秀元と毛利秀就
俺が知ってるだけで二つあるから全国にはもっとあるだろうな
741:人間七七四年
09/12/13 22:47:43 SWNkdzvV
>>739
みたいにって、どうみたいに?
先の後継者が病死とか討死とかの仕方なしじゃなくて
大人の事情で変わった例?
742:人間七七四年
09/12/13 23:04:23 4hT+OGGk
>>739
南部家とか。あとまあ、変更しようとして廃そうとした跡継ぎに反撃くらったという例も多い。
斎藤道三と義龍や武田信虎と信玄、大友家もだね。
あと、豊臣政権から江戸時代初期にも多い。
743:人間七七四年
09/12/14 01:11:50 XRtDCaug
関が原の戦いに、バッファローマンのかぶとをかぶった武将がいると聞きました
知ってる人いますか?
検索した感じでは、黒田か福島かどっちかだと思うんですけど…
744:人間七七四年
09/12/14 01:33:20 Tem5VIxA
>>740-742
ありがとうございました。実子や後妻かわいさに・・・って怖いなーと思い、
怖いもの知りたさで質問しました。
名前を教えてもらったので彼らについて調べてみますー。
745:人間七七四年
09/12/14 08:53:14 mL3drj3H
>>743
水牛兜をつけていた可能性があるとしたら福島正則
746:人間七七四年
09/12/14 11:46:56 nPZeLro8
浅井氏を「あざい」って読むみたいですけど、昔は濁らなかったような
記憶があるんですがどうなんでしょう?
747:人間七七四年
09/12/14 12:32:00 uEk3gwvx
小和田先生だったかが
地元民はあざいと読むからあさいじゃなくてあざいだと主張してるだけ
748:人間七七四年
09/12/14 12:52:12 2cf3iHWF
>>743>>745
長政と正則が喧嘩して長いこと口も聞かなかったが、
仲直りのためお互いの兜を交換した。
際しくは「ちょっとイイ話のマトメ」で。
黒田家の水牛兜は2種類、そのうち、バッファローマンに似ている方を、
正則の一の谷兜と交換した。
正則は水牛兜は家宝として大切にし、戦ではレプリカを作って着用した。
749:人間七七四年
09/12/14 15:29:34 nPZeLro8
>>747
なるほど、「増田→真下」みたいな証拠があるわけじゃないんですね。
現在の読みが戦国時代そのままかも微妙ですしね。ありがとうございました。
750:人間七七四年
09/12/14 18:10:57 3LTWSrz2
いまは「あざい」とにごる方が定着してるね
751:人間七七四年
09/12/14 19:41:34 SNQym8pg
谷口克広氏ってどのくらい信用できる人なんでしょう?
信長の天下所司代は面白かったけど(村井春長軒好きだったし)
公家が来て雑談したり、天皇から松茸を下賜されたり、そういう場面想像するだけで
にやにやできる自分は異常かね。
752:人間七七四年
09/12/14 20:02:08 KfSvux06
大内さんが松茸を所望しています
753:人間七七四年
09/12/14 20:09:11 4/bigeqD
>>751
谷口さんは未だに武功夜話を資料として評価しているのは、研究者として
いただけない。
あと、これはある面仕方の無いところもあるが、研究対象である信長、および織田家について
やや過大評価気味のところがある。
そういった面を気をつければ、基本的には真摯に一次資料を当たる良い研究者だと思う。
754:人間七七四年
09/12/14 20:43:46 +44I9rOF
>>753
一応フォローすると、武功夜話も今ではあくまで参考の一種、他資料による裏づけはとれないが、こんな話もある、程度の扱いに留めている。
先に結論があって、その前提で資料を読むような悪癖もたまに見られるけど、基本的には資料批判をかかさず、資料を基にした論述を展開する、よい研究者の一人。
755:人間七七四年
09/12/14 21:35:54 SNQym8pg
>>753-754
なるほど。普通に優良な研究者なわけですね。
ただ、織田家の過大評価気味は気をつけないといけないかもしれませんね。
自分も織田家贔屓なので余計に。
756:人間七七四年
09/12/14 23:35:22 XRtDCaug
>>745
>>748
変な質問なのに、丁寧に答えてくださってありがとうございます。
確かに、福島正則の方がハリケーンミキサーとかやりそうな気がしますね。
757:人間七七四年
09/12/15 00:38:30 qhqeWjEj
ちなみに家康にもこんな兜がある
URLリンク(www.tokugawa-art-museum.jp)
熊毛植黒糸威具足
ついでに家康の、豊臣政権時代の異名は「関東の猛牛」
758:人間七七四年
09/12/15 00:51:36 L8cREEE+
牛角のかぶとって、意外と人気だったんだな
オレ的には、鹿の角の方がかっこよく見えるけど
759:人間七七四年
09/12/15 00:55:42 qhqeWjEj
信長も水牛角の兜をかぶっていたと言う説がある。
確かにあの時期の流行だった可能性がある。
760:人間七七四年
09/12/15 00:57:37 Os3z4Squ
横から失礼しますが、村井貞勝みたいなバリバリの能吏タイプ(吏僚タイプ?)って
他にどんな人達がいますかね?
江戸時代ならいっぱいいそう(というか活躍できるのが吏僚系の人ばっかり)だけど、
戦国時代だとオールマイティーな人はいても、吏僚としてのみ有能な人はあまり目立たない
ような気がして。
761:人間七七四年
09/12/15 01:30:12 pwPjoPSv
信長の下だったら他に松井夕閑とか、島田秀満、明院良政。
若手で菅谷長頼、大津長昌、矢部家定、万見重元。
塙直政も吏寮系の仕事で伸し上がった人物だなあ。
762:人間七七四年
09/12/15 01:32:26 uUMUGY6v
相良武任なんかは?
763:人間七七四年
09/12/15 01:47:46 v7/xqRIC
大久保長安は技術官僚かな
まあ武辺の人じゃなかったのは確か
764:人間七七四年
09/12/15 11:24:34 io2LKTmx
>>761
津田信澄を忘れないでくれ
765:人間七七四年
09/12/15 13:25:02 Hj0l+CZj
新庄つぼね(元春室熊谷氏)方へ文とも懇ろに御つかはし候へども、一圓とりあひ候はぬ
おもむきのよしうけ給ひ候、誠に其事にてこそ候へ(中略)此四五年、我等などへは一えん文とも
三くだりばかりにて候、尼子与州、弘中三河守などが状の類にて候、いかなるめんもく候哉
元主君の尼子経久はともかく、弘中隆兼って毛利に対して仲が悪いわけでもないだろうに
態度が悪い見本にされているのはなぜ?
766:人間七七四年
09/12/15 14:42:45 io2LKTmx
態度が悪いのは吉川の新庄婦人のことで、
「私への手紙の返事が3行くらいしか書いてないのは、
まるで尼子経久様や大内家の重役の弘中様みたいな
偉い人が(身分の低い者に対して)書いたような手紙で、もう頭へきちゃうわ」
という意味で、尼子経久や弘中隆兼を悪く言っているのではない。
古文にもっと慣れような。
767:人間七七四年
09/12/15 14:50:28 XBthTSjz
濃姫の最後ってどうなっているのだろうか
1)本能寺で信長もろもと死亡
2)本能寺の時には安土にいて
明智勢が来たときに退避
3)本能寺以前に死亡
資料が少ないですね
768:人間七七四年
09/12/15 15:18:50 RMB4B1Iy
>>767
「濃陽諸士伝記」にて1560年以前に死亡したと書かれてある
それと『美濃国諸旧記』には濃姫の母は早くに死亡したと書かれてあり
『言継卿記』には壺事件の後、信長がしゆうとにお礼に言いに行くと書いてあるから
濃姫とは関係のない別人が信長本妻になった
769:人間七七四年
09/12/15 15:46:04 Hj0l+CZj
>>766
そこなんですよ
尼子が毛利に対して格下に扱うのは当然として
弘中って毛利よりも格上だったのでしょうか?
弘中がどのあたりの地位だったかはよく知らないのですが
毛利は大内家中で扱いがよかったと思うのですが。
770:人間七七四年
09/12/15 16:01:27 uUMUGY6v
扱いが良くても所詮一豪族一外様。
弘中は代々大内家の重臣で、隆兼自身も岩国・安芸守護代。
大内傘下に入っている時期ならば、間違いなく格上の存在。
子会社の社長が、本社の重役に頭があがらないのと一緒。
771:人間七七四年
09/12/15 17:01:28 Hj0l+CZj
>>770
なるほど。わかりやすいたとえありがとうございます
772:人間七七四年
09/12/15 18:39:38 pwPjoPSv
>>168
>「濃陽諸士伝記」
この記述は解釈に問題があり、かつ事実関係にも疑問や錯誤が見られるので、あやしい。
773:人間七七四年
09/12/15 19:05:02 RMB4B1Iy
>>772
具体的にどこが?
いっとくけどあの時代全く誤りのない史料など存在しないぞ
774:人間七七四年
09/12/15 19:11:30 SwH6UmD9
成立時期はいつなの?
775:人間七七四年
09/12/16 17:48:20 9PyqSuy6
大阪の冬の陣で、豊臣がたは本当に勝てると思ってたんでしょうか?
織田信雄とか片桐とかが逃げ出す始末なのに。
あと夏の陣に至るまでに、国替えやら淀殿の江戸移住とかで
手を打つつもりはなかったんでしょうか?
徳川方は是が非でも滅ぼすつもりではなかったと思うんですが。
776:人間七七四年
09/12/16 18:22:06 q7i1u95e
一応、夏の陣直前に最後通牒が突きつけられて、
その内容がまさにそれ、追記すると浪人衆の放逐も条件。
もしおとなしく従っていれば、いずれ減俸されるかもしれないけれど、残ったとは思う。
ただ国替え・人質はともかく、浪人衆の放逐は不可能だけどな。
浪人衆を納得させるだけの一時金も用意できないし、武力で排除するのも困難だから。
777:人間七七四年
09/12/16 19:03:29 1c8fP1pu
うがった見方をすれば、豊臣方が承知しても実行不可能な条件を突きつけた、とも言えるが。
まあ、最終的に、残ったとしても十万石級の大名としては残されなかっただろうとも思うが。
778:人間七七四年
09/12/16 20:35:25 ORt1OHN8
大阪の冬の陣の開戦前は、大阪方、特に秀頼周辺の主戦派は、日本の大名の、
少なくとも半分は自分たちに見方をすると、本気で考えてたっぽい。
あと、冬の陣のあと、淀殿周辺は本気で牢人排除に動いていた。
しかしその中心人物だった大野治長の襲撃事件で、その動きがストップし、
牢人衆と組んだ強硬派に大阪城が牛耳られ、ジ・エンド。
大阪の陣は、秀頼の周りにいた、若く過激な反徳川派が主導した戦だと考えて良いと思う。
779:人間七七四年
09/12/16 21:26:58 GSKqtm4p
>>778
>若く過激な反徳川派
っていうとどのあたり?
780:人間七七四年
09/12/16 21:33:58 WOO0XLNW
というか関ヶ原から夏の陣に至るまでの豊臣家のグダグダぶりは何なんでしょうか。
781:人間七七四年
09/12/16 21:39:43 ic0nrZ6E
上杉征伐に徳川軍が向かいますが、具体的に、上杉と石田の戦略はどのようなものだったんですか? 上杉がただのオトリだったとすれば、結果的に西軍の挙兵が早すぎたのかなと思うんですが。
782:人間七七四年
09/12/16 21:50:41 q7i1u95e
>>780
今の日本の政権を見るとよくわかるだろ。
トップがしっかり舵を切れないとああなる。
>>781
上杉と石田がてを組んでいた証拠がありません。
783:人間七七四年
09/12/16 22:04:11 ic0nrZ6E
>>782 とすれば、上杉は何をしたかったんですか? 豊臣家に対する正義感と意地だったんですかね。
784:人間七七四年
09/12/16 22:13:32 ORt1OHN8
>>779
治長の弟の大野治房、道犬斎、渡辺糺、木村重成あたり。
785:人間七七四年
09/12/16 22:23:33 ORt1OHN8
>>783
> とすれば、上杉は何をしたかったんですか?
簡単に言えば北国は秀吉の在世時から決して安定はしておらず、
上杉は秀吉が死ぬと、それにつけこんで、地域に自家の影響力の拡大を計ろうとしていた。
無論、そう言うことをすれば必ず摩擦が起こる。で、当時中央政権の主宰者だった
家康にそこを目につけられて、上杉としては、自家の拡張策を放棄するかどうかの判断を迫られ、
上杉は、その時点での家康の権威は万全では無いと判断し(これは正しかった。
家康の出兵直後に三成のクーデターが起こった)、家康の北伐軍を受けるという事態に至った、
と考えるべきかと。
それから、この時期の政治情勢を、忠誠とかで判断するとほぼ間違うので
気をつけたほうが良い。
786:人間七七四年
09/12/16 23:02:49 ic0nrZ6E
>>785 ありがとうございます。 なるほど~ 思ったほど、盤石じゃなかったんですね。上杉としては、合戦まで至らず、うやむやに事収まると思ってたんですか。 伊達と変わりないですよね。
787:人間七七四年
09/12/16 23:13:47 ORt1OHN8
家康が1年ほどで収拾してしまったので、このへんは誤解されがちなんだけど、
秀吉が死んで、日本はたがが外れた状態になっていた。
各地の大名は、戦国的な自家の拡大策を模索し始めていた。
それを抑えるべき中央政権の担当者である家康も、おせじにも強い政権であったとは言えず、
家康の立場から見れば、他大名との婚姻や、前田征伐などで力を誇示するのは、
「豊臣政権の運営」のためにも、どうしても必要な事だった。
後に家康が徳川家の単独政権を樹立したのはあくまで結果論であり、関ヶ原以前の
家康は、豊臣家大老という立場の中において、現実的な対応をやっていたに過ぎない。
788:人間七七四年
09/12/16 23:35:45 ic0nrZ6E
>>787 豊臣家のために尽力していたのは家康の方だと、関ヶ原までは自分の天下の視野もなかったと言うことですか~。 今まで読んできた本や、見てきて得たことが根底から覆されました。
789:人間七七四年
09/12/16 23:45:50 V+be3L7a
>>788
アホがこんな愚論にもう惑わされてるのか?
全て家康の権力欲でやったにきまっとるだろうがボケ!!!
790:人間七七四年
09/12/16 23:47:11 ORt1OHN8
>>788
「豊臣家のため」と考えるのも間違い。
「政務を委任された豊臣家大老と言う家康の地位のため」って風に解釈した方がいいかと。
今風に解説すると、関ヶ原までは基盤の脆弱な弱い内閣の首班である家康が、
その基盤に弱さに付け入ったいろんな勢力の策謀に対処しつつ、一方で基盤の強化も
図ろうとしていた。
そんななかクーデター騒ぎが起こって、政府はこのクーデターをどうにか鎮圧したものの、
その頃には政府機能自体が崩壊していた。そのため内閣を率いていた家康は、新たに
大統領制の新政府機関を作り、その初代大統領に就任した。
あくまで家康の視点から見た場合だが、こんな感じであったと考えられる。
791:人間七七四年
09/12/17 00:08:08 s4mYG3eB
>>790
はぁ?さすがタヌキ親父の支持者はとんだタヌキだな。
792:人間七七四年
09/12/17 00:33:46 2yR9Q8ol
家康が、豊臣家を滅ぼしたとたん死ぬなんて都合良すぎだよな。影武者じゃねえのか
793:人間七七四年
09/12/17 01:02:01 j1vh2hrv
家康が太閤との約定を違えて、弾劾されたことをどう正当化するつもりだよw
どうせまたアンチ上杉の伊達厨だろw
794:人間七七四年
09/12/17 01:06:18 ICocBwbg
戦国時代に散々戦争したんだから、せめて平成の2chでくらい仲良くしてろよ
795:人間七七四年
09/12/17 01:46:03 CSNOcYQF
狸だ厨だ言いはじめても何もならんのにな
796:人間七七四年
09/12/17 03:03:43 UJ+apD2Q
2chには無職のキチガイが多いんで
797:人間七七四年
09/12/17 05:22:19 JFQsDyzM
職有りの基地外の方が始末におえなそうではある
798:人間七七四年
09/12/17 06:13:11 zneK7k5y
先に秀吉の約定を違えたのは徳川より石田が先だ!
とかいうのも目にするけどどうなんでしょう?
799:人間七七四年
09/12/17 07:18:41 5D8NcVDf
そもそもORt1OHN8は家康が正義の味方だ、正当性を持ってる
なんて主張してないようだがなあ
自己の利権として五大老筆頭の地位・面子を守り
拡大し、のちに豊臣政権という枠を越えた
なんですぐ忠義や正当なんて話になるんだろ
800:人間七七四年
09/12/17 07:27:59 WKfhg8Bs
正義とか忠義とか、単純に白黒分けないと物事が理解できない程度の頭なんだろう。
801:人間七七四年
09/12/17 08:17:11 a701n243
上杉が野心で拡大路線を取っていたなど、ありえないから。
当時の上杉の状況を何も知らないんだな。
802:人間七七四年
09/12/17 08:20:53 WKfhg8Bs
ありえないわけないだろ。上杉は謙信の時代から(それ以前からもだが)拡大路線、覇権路線だ。
だいたい秀吉の死によって中央政権の求心力が弱体化した以上、
野心云々以前に安全保障上からも拡大路線を取るのは当然。
803:人間七七四年
09/12/17 08:50:07 I5lakAI0
関ヶ原の時は、黒田官兵衛なんか空き巣狙いの戦やってたな
804:人間七七四年
09/12/17 08:57:34 uMkVuisH
>>803
そりゃあ九州平定して家康と戦う為だもん
ところが関ヶ原は1日で終わり
悔しさのあまり、家康に握手してもらって喜んでる息子に
「お前の左手は一体何をしていてたんだ?」という人ですから
805:人間七七四年
09/12/17 09:03:27 nkaxJv81
>>802
国替えして国衆の統制はほぼ完了している。石高は増加。
あとは防衛体制や新領地の支配を完成させる段階なのにどうして領土拡大?
きみは思いつきやイメージ以外に何を根拠にそう主張しているの?
806:人間七七四年
09/12/17 09:54:23 WKfhg8Bs
>>804
小説とか俗説を信じるなよ。気の毒な人だと思われるぞ?
807:人間七七四年
09/12/17 10:46:38 jj1tUEPe
秀吉が会津移封と新城許可(大坂に続く規模で許可した広島城に続く神指城)
秀吉は西を毛利、東を上杉で鎮守させるための平城を作らせ領内整備をさせた。
このため神指城は佐竹の協力も得ている。
これに危機感を持ったのが三成と対立する家康。
大老自らが遺令を破り、大名との婚姻同盟を築いて対抗し、前田を恫喝したあと、各個撃破を狙い上杉へ因縁をつけた。
前田を恫喝した時点で家康への暗殺と言う私事でのことで権力拡大思考なのは間違いない。
大老として豊臣のためにやったと言う言い訳はできないどころか大乱を起こそうとしていたのは間違いない。
>>798
それ書いたやつにちゃんと具体的にどのような違反を三成がしたか書いてと要求したら逃走したよね。
808:人間七七四年
09/12/17 12:57:05 lWGDpT3N
>>807
時系列めちゃめちゃだな。
結論のために過程を利用しちゃいかんよ。
809:人間七七四年
09/12/17 18:06:29 LW3W28U9
秀吉の遺命と言われる「御掟」五箇条と「御掟追加」の九箇条
「御掟」五箇条
一、諸大名の間で、私に婚姻関係を結ぶことを禁ずる。
二、諸大名の間で、同盟関係を結ぶことを禁ずる。
三、喧嘩や口論を禁ずる。
四、讒言をした者はこれを糾し、成敗すること。
五、乗物などは許された者以外使ってはならない。
はネット上で見つかったのですが
全9ヶ条の「御掟追加」は見つけられませんでした
御掟追加の内容をお教えください。
810:人間七七四年
09/12/17 19:16:27 5dZQOH+T
戦国時代の足軽ではなくいっぱんの武将などが使う槍は
全長どのぐらいだったのでしょうか?
また武将などは長柄で槍以外でも使用されていましたか?
811:人間七七四年
09/12/17 21:12:52 Lwnc9xCi
徒士槍が2.5m~3.5mほど
騎乗槍が2m~2.5mほど
屋内用の槍が2mほど
812:人間七七四年
09/12/17 21:14:03 Lwnc9xCi
追記すると、
赤穂浪士が討ち入りの時に使った槍は、
屋内で取り回しやすいようにと1.5m程に柄を詰めて使ったそうな。
813:人間七七四年
09/12/17 21:18:43 WKfhg8Bs
ついでに言うと、武士の場合足軽と違って、武器は自分の使いやすいものを
自由に使ってよかった。なので槍のほかにも太刀、大太刀、長刀、棍棒、鎖鎌なんて例もある。
814:人間七七四年
09/12/17 21:42:38 5dZQOH+T
ありがとうございます
鎖鎌なんかも使われてたんですね
長柄などで中国でも使われてる方天戟のような物などは使われたのでしょうか?
815:人間七七四年
09/12/17 21:51:08 feBDXi4F
>>809
御掟追加
一、諸公家、諸門跡被嗜家々道、可被専 公儀御奉公事、
一、諸寺社儀、寺法社法如先規相守、専修造、学問勤行不可致油断事、
一、天下領知方儀、以毛見之上、三分二者地頭、三分一者、百姓可取之、兎角田地不荒様可申付事、
一、小身衆者、本妻外、遣者一人ハ可召置、但別の不可持家、雖為大身、手懸者不可過一両人事、
一、随知行分限、諸事進退可相働事、
一、可致直訴儀、於挙目安堵、先十人ヘ可申、十人衆訴人以馳走双方召寄、慥可被聞申分、直訴目安者、各別之儀候間、此六人ヘ可被申、以談合上、御耳ヘ於可入儀者、可被申上事、
一、衣裳、御赦免外、菊桐不可付之、於御服拝領者、其御服所持間者可着之、染替別衣裳、御紋不可付之事、
一、酒ハ可随様器、但大酒御制禁事、
一、覆面仕往来儀、堅御停止事、
右条々、於違犯之輩者、可被處厳科候也、
文禄四年八月三日 隆景(花押)
輝元(花押)
利家(花押)
景勝(花押)
秀家(花押)
家康(花押)
816:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/17 21:59:16 zrTG+dE8
隆景?
817:人間七七四年
09/12/17 22:01:46 cSbKqOhD
>>816
?
818:人間七七四年
09/12/17 22:41:52 BujvmsSk
勘合貿易
どうして足利以外の大名が明に相手にされたのでしょうか?
819:人間七七四年
09/12/17 22:44:24 s4mYG3eB
景勝が五大老になるのは隆景の死んだあとを次いでなので、連名はおかしいという事でしょ。
820:人間七七四年
09/12/17 22:50:47 Lwnc9xCi
>>814
鎌槍、いわゆる十文字槍あたりが該当すると思うが。
821:人間七七四年
09/12/17 22:55:42 feBDXi4F
>>819
文中でも分かる通り、「追加」では六人衆となっている
五大老五奉行の五の数というのは多分に気分的なものだったりする
822:人間七七四年
09/12/17 23:08:10 hBwhS3Gz
上杉征伐は豊臣公認らしいですが
勝手に動くなとか黙認は無理だったんですか?
823:人間七七四年
09/12/17 23:16:12 WKfhg8Bs
>>818
足利は大名ではなく公儀である。
細川、大内は幕府の命を受けての実務担当者に過ぎない。
>>822
質問の意図がよく解らんが、当時の豊臣政権とは徳川家康そのものだ。
824:人間七七四年
09/12/18 00:28:32 ko3nSQnf
堺が半ば自治権すら持つ戦国期の日本屈指の大都市だったのは有名ですが、それ以外に、
自治権みたいなものを許されてた都市は日本にはなかったのでしょうか?
また、堺程で無くとも、大都市と呼びうる都市はどんなものがあったのでしょうか?
京都は、公権が凋落したとはいえまだ大都市でしたよね?(ザビエルか誰かが寂れてるのに
驚いてたような気もしますが)
勿論、その都市のある地域一帯を支配してる大名の権力の強さにも拠るでしょうけど、大名の
力が弱かったから自治していたというよりも、その都市の強大さそのもので自治権を勝ち取って
いたような都市でお願いします。
自治とはいっても、無論、完全な自治というか、大名からの独立を意味してるわけではないです。
825:人間七七四年
09/12/18 00:55:23 xhNMOB53
>>824
まず、自治というのなら、規模の大小に関わらず、全国の惣村から交易都市、港まで、ほぼ自治だった。
その上で、政治的になんらかの勢力に従属したり、力が強ければ同盟関係を結んだりしていた。
それと、堺も実情を知らん宣教師の記録で誤解されているが、ここも都市内は自治でも、政治的には
室町時代をとおして細川家の勢力下にあり、後に三好長慶が台頭すると、三好に服属した。
信長が上洛して矢銭を要求されたときに蹴ったのは、独立を守るためなどではなく、単に政治的には
三好一党に属していたから。だから、三人衆の援軍を得て信長に対抗しようとしただけ。
826:人間七七四年
09/12/18 11:48:36 dEsDbuYc
まあポルトガル人が堺を見てヴェネツィアあたりを連想するのも無理はない。
どっかで「日本の政体は神聖ローマ帝国に類似している」というのを読んだな。
フロイスだっけ?
827:人間七七四年
09/12/18 15:53:31 7pgLiua1
合戦場にも、お金を持って行ってたんですか? そうだとすれば、何に使ってたんですか? 散々負けた時は、お金も放って逃げたんですかね。
828:人間七七四年
09/12/18 16:06:17 EysfihvK
>>822
質問の意味がよくわからないけど、豊臣奉行衆は家康に一度諌止状を送っていて
家康もそれを飲んだ。上杉も上洛する方向で調整していたけど、讒言した堀などの
詮議を要求したところ断られたので上洛拒否した。んで会津征伐。
三成が挙兵すると淀殿や豊臣奉行衆は家康に「早く帰ってきて、そして助けて」と手紙。
家康は福島らを先発させたが、やがて豊臣奉行衆が三成についた(豊臣公儀が三成についた)
ことを知る。逆賊が上杉から徳川に移る。
829:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/18 19:44:21 /VJP60tm
>>817
ごめん、「遺命」を秀吉の遺言だと脊椎反射して書いただけ。
830:倭冦
09/12/18 20:13:05 rLIO8US+
既出ならご容赦を
以前時代劇ドラマの中で、徳川家から石川数正が出奔した際、同家ではその人的損失より軍制上の機密流出を危惧し対応に追われるというシーンを見ました
何気にさもあらんと思いはしたものの、具体的な事例が浮かびません
どなたか上述のケースで急務とされる軍制上の変更項目についてご教示下さい。
831:人間七七四年
09/12/18 20:41:25 +KnLqQFE
>>830
軍隊なんだから例えば最初からある程度、どういう状況になったら誰が出てどういう行動をする、
こう言った部隊が出ているときはこう言う作戦が行われる、なんて決め事はなんぼでもあるわけで、
そう言うのが筒抜けになれば、相手に自分達が今どういう状況認識でいるか、と言うのが
まる解りになるわけだ。
つまり、決め事の類を全部、一から作り直さないといけない。
832:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/18 20:43:43 /VJP60tm
んでもって軍法を武田流に変えるというストーリーが付いて回ります。
833:人間七七四年
09/12/18 20:45:35 pyxlKd12
>>830
そこら辺の事情は「駿河土産」に記述がありますが、キッカケはその通りですが実際の変更の真意は
これまでその場その場で行ってきた家康の軍制が、駿・甲・信の領国の急速な膨張で対応できなくなり、
新たに統一した軍制を制定した際に、整備された軍制であることと先の三国に加え、その他の家康領国
の一部も武田領にあったので、導入しやすい武田軍制を採用したというのが真相のようです
834:倭冦
09/12/18 21:29:08 rLIO8US+
>>831
確かに、考え始めたら諸々の取り決めが危険要素になりますね
>>832-833
領土の拡充期にあった事を忘れていました。一家臣の出奔が無くても、いずれ軍制の改定の必要性があった訳ですね。
私はプロ野球選手(特にキャッチャー)の移籍時にチラッと話題になるサインパターンの変更と似た視点ばかり連想してましたが、そればかりでは当然ないですよね。
ありがとうございました。
835:人間七七四年
09/12/18 21:31:38 DpGU7KSH
室町末期の大大名って広域の版図を築いていたと思います。
最大でどのあたりまで支配していたのでしょうか?
以下勝手な予想
細川
山城・摂津・河内・和泉・大和・丹波・讃岐・阿波・土佐・淡路
大内
安芸・備後・長門・周防・石見・筑前・筑後・豊前・肥前
尼子
出雲・石見・隠岐・備前・備中・安芸・備後・美作・因幡・伯耆
836:人間七七四年
09/12/18 21:50:15 u8SKS3Wa
戦国時代最盛期とされる十六世紀中期に、武田信虎のように、
本貫地を離れて室町将軍に近仕した在京大名は何人かいたのでしょうか?
837:人間七七四年
09/12/18 22:58:16 wHjrI9+U
>>820
遅れましたがありがとうございます
838:人間七七四年
09/12/19 03:10:27 z81le9Om
>>827
鎧の草摺に貴重品入れ(通称金玉隠し)を拵えていたり、
兜の裏打ちに金を仕込んでいた武士もいたそうです(で丸儲けした考証家がいたとか)。
人間、いざという時にたよりになるのはやはり、金です。
839:人間七七四年
09/12/19 08:47:36 Y/2wUkQG
軍隊が行動する時にある程度の金銭を準備するのは常識。物資の欠乏が生じた場合に
全部略奪していたらさすがにヤバいので、金を払って買い取る。
840:人間七七四年
09/12/19 11:27:31 zaQRWFnl
>>827 >>838
それにな、戦場のそばには売春婦達の掘っ立て小屋(木の枠に蓆)ができるから
そこで使うんだよ。
841:人間七七四年
09/12/19 13:39:33 z81le9Om
>>840
使っていたら現代の考証家が発見できないじゃないかw
842:人間七七四年
09/12/19 14:30:52 zaQRWFnl
>>841
戦の直前に女は厳禁だ(軍法)
戦った後のお楽しみがあるから、張り切って戦えるんだよ。
>>現代の考証家が発見
いい思いをする前にやられちゃったんだよ。残念ながら
843:人間七七四年
09/12/19 17:35:37 z81le9Om
だがちょっとまって欲しい。
一つは、やられたら釘一本残さず戦場を漁る村人にやられて具足として後世には残らない。
二つは、勝利者なら乱取りヒャッハーでわざわざ秘蔵の金を出すことも無く、
奪って得た金で春を買うか、あるいは略奪ついでにゴーカーンでおk。
844:人間七七四年
09/12/19 17:46:14 mFUOeiIc
兵士全員がそんな事出来るほど略奪だらけの戦国時代でもあるまいに。
845:人間七七四年
09/12/19 18:36:57 eJeIdvj5
島津や伊達は略奪強盗横領撫で斬りばっか
846:人間七七四年
09/12/19 19:44:38 Y/2wUkQG
質問!戦国時代は足軽がモヒカンでヒャッハーだらけだったんですか?
847:仙台藩百姓
09/12/19 21:39:14 i9jkInIn
極端な例では上杉みたいに初めから兵糧揃えずに出陣する大名もいたしね( ^ω^)
848:人間七七四年
09/12/19 21:45:36 q1nN+eV0
上杉は兵站が特に貧弱だったから仕方が無い。
849:人間七七四年
09/12/20 00:52:43 6ZGU9JsX
>>778
とすると夏の陣では勝つ見込みなくても、反家康武将たちの
意地で闘ったようなもんですか?
淀殿周辺も最初に自分たちの方から浪人衆を招いた経緯があるし、
夏の陣ではどうしようも無かったってことかな。
850:人間七七四年
09/12/20 02:37:47 oWcdLz+U
上杉は沼田や厩橋から利根川を利用しての船舶輸送してたろ。
当時の利根川沿岸部は交通通商で栄えて、あちこちに船着き場がありましたよ。
関宿に至ってはその通行税から一国に値すると言われてましたし。
謙信と違い佐竹はその重要性をまったく理解できなかったようですが。
851:人間七七四年
09/12/20 03:04:17 2+xYXIBP
加賀の国は信長の平定まで一揆が支配してた国だそうですけど、その統治機構は
どうなってたんでしょう?
土豪や名主クラスの合議的な貴族民主制だったんですか?
852:人間七七四年
09/12/20 03:32:42 FtVc8Wph
「備中備前に至るまでなびかぬ武士はなかりけり」とありますが
大内氏の備前での影響力はどの程度だったのでしょうか。
853:人間七七四年
09/12/20 03:37:25 EX3RZcIh
>>851
一向一揆の支配と言うが実際には守護家富樫氏の人間が名目上の守護についていて、
支配体制も守護のシステムをそのまま使っていた。
基本その運営は合議だが、その合議のレベルは戦国大名が配下と合議で
国を運営するのと変わらない。
基本的には加賀は、一揆の支配と言うよりも、世俗領主たる本願寺が
守護職を任された地域、と考えた方がいいかと。
854:人間七七四年
09/12/20 09:43:13 N96zKgK1
>>852
相良氏は大内の部下でーすって明に勝手に名乗って
明と私貿易やってた
855:人間七七四年
09/12/20 18:29:39 aJ3PZvfx
写本って良く聞きますけど、原本を見て書き写すだけなんでしょうか??
写本とわかるようになってるんでしょうか??
856:人間七七四年
09/12/20 21:07:33 B8tyK6x7
何年何月何日何某が写すとたいてい書いてある。
857:人間七七四年
09/12/20 22:03:33 aJ3PZvfx
>>856
そうなんですか!
疑問が解けました!
ありがとうございます。
858:人間七七四年
09/12/20 22:31:31 DkBBDlcI
しかし写本を騙った原本もあるから侮れない。
成立時期を偽るのによく使われた手。
859:人間七七四年
09/12/20 23:33:00 2+xYXIBP
>>853
どうもです。
一揆支配とはいっても、実態は他の国とそう変わったものでもなかったんですね。
860:人間七七四年
09/12/23 02:22:03 zYl9kJWU
>>854
大内が遣明船の手配を相良に命じた節もあるようですね
861:人間七七四年
09/12/23 05:58:55 kqMu4Fqp
相良氏は明だけでなく朝鮮や琉球とも交易をしているからな
市木丸大活躍
862:人間七七四年
09/12/24 02:06:15 l2LCeDE5
戦国時代の教育機関について質問です。
足利学校ってすごく有名ですが、卒業生で有名な人ってあまり聞いたことがありません。
名前が残ってる人だとどんな人がいるんでしょうか? また、どんな活躍をしたんでしょうか?
あと、イエズス会の人間(ザビエル? フロイス?)が日本にある大学の中で一番大きいもの
が足利学校だと書いてたそうですが、つまり彼らから見ると大学に見える機関が他にもあった
という事ですよね? この他の大学とは、何のことを指してたのですか?
あと、大学寮はやっぱり戦国時代には完全に形骸化してしまってたんでしょうか?
それとも、多少は機能が残ってて、朝廷の下級官吏を養成したりはしてたんですか?
863:人間七七四年
09/12/24 02:22:38 C/k2ORiu
>>862
足利学校出で有名というと曲直瀬道三だな。
あと武田信玄が「足利学校も出ていないようなやつを軍師として雇えるか」って言った
逸話があるので、少なくとも武田家では、いわゆる軍師(戦の作法を指導し吉凶などを占う)は
皆足利学校出だったと思われる。
864:人間七七四年
09/12/24 02:34:58 l2LCeDE5
>>863
曲直瀬道三は初めて知りました。自分の勉強不足を痛感します…。
この場合の軍師というのは、いわゆる後世でイメージされるような参謀的な人たちじゃなくて、
軍付式部官みたいな人たちですよね?
兵士の士気を考えると当時の易経はものすごく重要だとは思うんですが、現代の士官学校
とか官僚学校で教えるような軍学や法学を足利学校で教えてたわけじゃないんですね。
どちらかと言うと技術系の学校みたいな感じだったんですかね。
何にせよ、戦国時代でも実用的な学問を教える教育機関はあって、そこの卒業生はちゃんと
重んじられていたわけですね。
武家の教育というとどうしてもOJTばかりのようなイメージがあったので。
865:人間七七四年
09/12/24 02:37:36 elobyPQ8
曲直瀬は遊学だから卒業にあたるのかどうかは知らないけど、その師である田代三喜が有名
866:人間七七四年
09/12/24 02:39:08 elobyPQ8
>>864
儒学・易学・兵学が講義内容だよ
867:宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c
09/12/24 03:25:39 /HiaM+zv
卒業生だと、7代玉崗瑞?の弟子で9代庠主の閑室元佶
保護を受けていた北条氏が滅亡し、豊臣秀次の援助を受けたが、
秀次事件の際に流された・・・などと、徳川実記にあったり、
以後は家康に仕えて、関ヶ原への出陣の日取りを占い、「学」という字の
指物を持って従軍したという事が下毛埜州学校由来記に書かれているみたいです。
ただ家康専属だったという訳でもないようで、関ヶ原後毛利輝元に頼まれ新しい城地の
候補地を選んだ時の事が毛利家文書に残ってる。
「戦国武将を育てた禅僧たち」に詳細が書かれてます。
868:人間七七四年
09/12/24 11:39:48 z26RTbUi
一般には「寺」
武将の子は5・6歳になると寺に通学した。
教師は僧や都落ちした公家(大名専属となることが多いが)
講義内容に医学(「救急救命士」の基礎・薬草の知識)もあった。
869:人間七七四年
09/12/25 00:58:46 yV6EENhY
足利学校では自分たちで食べる野菜や薬草を栽培していたそうだね
870:人間七七四年
09/12/26 11:59:10 YVYn2mlP
録画した大河ドラマの「天地人」を見てるのですが、
「兼続が私財を投じて作った学問所」のシーンで
コンクリートの階段が出てきます。
この時代にコンクリートってあったのでしょうか?
871:人間七七四年
09/12/26 12:21:18 /E/oXgMq
コンクリの種類によるが、セメントは紀元前七千年前の中東が起源とされ、
中国でも紀元前三千年前には使用されていた。ローマではよく多用されている。
日本ではよく判らん。19世紀中ごろにフランスで鉄筋コンクリートが発明されて、
末には日本でも鉄筋コンクリ使った建造物が立てられた。
幕末の頃にはセメントを国内製造開始したという記録もどこかで見たような。
872:人間七七四年
09/12/26 12:50:22 YVYn2mlP
>>871
ありがとうございました。
やっぱり江戸初期の日本にはなかったと考えていいですかね。
873:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/26 12:58:24 h0hgLeVL
漆喰なら室町時代には建築物に使われているし、古墳からも出土しているけどコンクリとは違うかね。
874:人間七七四年
09/12/26 19:20:06 9raAFg6L
階段にしっくいは塗らないのではなかろうか
875:人間七七四年
09/12/27 21:59:05 VQq+C7Ub
戦国時代にもやっぱり暗号ってあったの?
アルファベットの暗号だと、カエサル暗号とか有名だけど、日本だとどんなのがあったんだろ。
忍者文字(平仮名を偏と旁で表す奴)は見たことがあるけど。
876:人間七七四年
09/12/28 00:07:20 /m5zSggu
日本の場合は漢字仮名混じり文な上統一的な表記が出来ていないから、
現代人にわかりやすい「暗号」なるものは無かったんじゃないかな?
漢字の旧字・新字が明確に区別されるようになったのは戦後のことだし、
平仮名・片仮名が統一されるのは明治以降の話で、
戦国時代の文章は新字・旧字・別字・国字・片仮名・平仮名・変体仮名という、
7種類の文字が同時に混在する非常に難しい文体だった。
また、本来漢字で表されるべき個所を平仮名にしたり(「丹花」を「たんくわ」と表記)、
本来仮名であるべき個所を感じにしたりと(「あるまじく」を「有間敷」と表記)、
表記方法も作者によって統一性がなくバラバラで、暗号の素材としては非常に頼りない。
代わりに素養としての和歌や漢詩が暗号の変わりに用いられたような。
和歌の場合は本歌取り、掛詞などが暗号となりうる(現代ミステリーみたいに)。
あるいは文字そのものに頼らず、何かの道具を用いたりしたと思われる。
お市が浅井の裏切りを信長に教えたとされる小豆袋の話なんかはこれに当たる。
877:人間七七四年
09/12/28 02:09:03 XvFNtzYV
当然ながら符丁、隠語と言うべき、書状をやり取りする双方のみで理解出来る言葉で
書かれた文書は普通に存在した。
あと、戦国期の文書はその多くが内容を漠然としか書かず、『詳しくは使者に聞いてください』と
なっているものがほとんど。
変に暗号化するより、人間に口頭で説明させるのが一番安全だったと言うことだろう。
その為書状の使者というのは、どこの戦国大名でも非常に重要視された仕事だった。
書状を無事送り届ければ合戦での戦功と同等に扱われたし、その最中何らかの事故で
死亡すれば、それも合戦での討死と同一とみなされ、主人にはその使者の子や親類を
取り立て家を存続させることが、半ば義務となっていた。
878:人間七七四年
09/12/28 02:14:46 10qHx4GS
いや、暗号って使者とかに持たせるようなものなのかね?
例えば人質として他家に預けられてる大名の息子が、主家に今いる家の状況を知らせる際に、
普通の手紙に見せかけて使用したりするんじゃないの?
そういう事(駐在武官みたいな行為)があったのかどうかはしらないけど。
879:人間七七四年
09/12/28 04:03:00 J1q1OUsj
手紙だって結局使者が持っていくわけで
だったら口頭の方でよろしいでしょ
880:人間七七四年
09/12/28 08:55:21 /m5zSggu
>>879
>>878の例もあるように、使者は必ずしも味方じゃないだろ
881:人間七七四年
09/12/28 11:26:35 u+/xc6th
暗号といえば、信玄が家康に送った手紙。
(今川領をお互いで切り取ろうという誘い)
「啐啄」とだけ書いてあって、家康は禅僧に意味を聞くまでなんのことか分からなかった。
卵の中の雛が中から卵を突き割ろうとする。
親鳥が外から卵を割り雛を外へ出そうとする。
それを同時に行うという意味。
882:人間七七四年
09/12/28 12:19:46 QHjK3z9F
年を書かない書状なんかも、露見されたくない相手に渡ったとしても、いくらでも言い訳できるからとも言うな。
おかげで年代特定が大変なわけだが。
チュコチョコとサインや名乗りを変えるやつは分かりやすいが。
883:人間七七四年
09/12/28 19:28:03 2RbJEqsJ
大内義興や大内義隆には異名があったのでしょうか?
大内家は当時西国で最も危険な大名で周囲には恐れられていたことでしょう。
部下の陶隆房は「西国無双の侍大将」と恐れられているのに当主が異名すらないのは妙です。
884:人間七七四年
09/12/28 20:48:46 C3I2g2yf
>>883
大内義隆は「末世の道者」
義隆の死後すぐに書かれた大内義隆記という軍記にそういう記述がある
義興は分からない
つか西国無双の侍大将ってそれほどいい二つ名ではないと個人的には思う
隆房の将としての器が侍大将止まりと言ってようなものだから
885:人間七七四年
09/12/28 21:05:00 2RbJEqsJ
>>884
ありがとうございます
道楽で滅ぶまでは近隣だけでなく諸国の脅威の対象だったのに
なんとも哀れですな
886:人間七七四年
09/12/29 01:03:14 v6yVThC6
JRトラベルナビゲータの、ケータイ国盗り川柳のポスターの肖像画は誰でしょうか?
夏バージョンは伊達政宗でしたけど
887:人間七七四年
09/12/29 01:10:10 vSjj8t1P
聞きたければそのポスターの画像のURLをちゃんと貼ってから言えよ。
最低限のマナーだろ。
888:人間七七四年
09/12/29 07:15:49 XfYHd6gB
>>884
>隆房の将としての器が侍大将止まりと言ってようなものだから
どういう意味?
義隆の家臣である以上、最高の褒め言葉だと思うけど
889:人間七七四年
09/12/29 07:31:39 /vXoFOzU
>>888
のちに謀叛を起こして形だけの当主を立てて、実権を握っていた晴賢が
実質的な総大将として出陣した厳島の戦いで敗死する事を考えるとすごい皮肉が効いてる
この西国無双の総大将って誰が言い出したのかは知らんが
890:人間七七四年
09/12/29 09:58:51 1N56/n7/
陶の場合の侍大将は総大将の次席って意味じゃね?
どっかのゲームのような大名>宿老>家老>部将>侍大将>足軽頭って意味だと
酷い侮辱だがw
891:人間七七四年
09/12/30 09:34:22 DMjsVZL7
>>889
確かに皮肉ですね
総大将になったとたんに敗死とは
892:人間七七四年
09/12/30 09:41:02 6KgjKYwY
武田信玄だったかな?「名門家臣の子弟で使えない連中は侍大将にでもさせておけ。
実際の指揮は(実力のある)足軽大将にやらせるから。」って言ったのは。
893:人間七七四年
09/12/30 12:25:21 4jl7qa8j
「侍大将」の定義をはっきりさせないと水掛け論というか結論はでないでしょ。
単語が同じでも意味が違うなんていくらもあるのだし。
894:人間七七四年
09/12/30 15:25:00 4VR+ivc/
現代の軍隊の階級見たくかっちりしたものだったわけでもないだろうし。
英語の階級は日本語に直せば「頭」とか「親分」とか言ってるようなもんだけど。
895:人間七七四年
09/12/30 16:18:23 p3UQsu5Y
国によって意味がちがうだろうね
896:人間七七四年
10/01/01 08:45:54 iqLwo/io
戦国時代にも新年会とかあったのかな?
897:人間七七四年
10/01/01 08:57:48 dMCCpBL3
正月朔日は家臣が主君の居城で新年のお祝いをし、そのまま宴会ってのが普通。
挨拶の順番が通常、その家に置ける家内序列とされる。
家格や譜代、外様の違いにより、日を分けて正月の儀を行う場合もある。
898:人間七七四年
10/01/01 10:25:51 piAI3Iqf
御年玉や盃の儀式もあったね
899:人間七七四年
10/01/01 10:26:26 iqLwo/io
ありがとうございます。当時の宴会というと本膳とか式三献とか面倒臭い奴でしょうか?
900:人間七七四年
10/01/01 13:23:21 piAI3Iqf
献杯行事は上座の主君と盃を酌み交わす。
序列による順番や作法の違いが厳しい。
これが終わったら気楽な宴会だろうね。
御家によっては違うでしょうけど。
901:人間七七四年
10/01/01 17:52:43 iqLwo/io
日本人の宴会は非常にしつこく酒を勧め合うので泥酔者が多く出る(ルイス・フロイス)
フロイスの見た日本の宴会って武将クラスだったんでしょうか。
902:人間七七四年
10/01/01 18:53:32 dMCCpBL3
せいぜい地侍クラスかと。
903:人間七七四年
10/01/01 19:34:33 S3OBwF3u
貴族や大名重臣たちの宴会に招待される身分かってえとなあ。
大名レベルから歓待を受けたことはあっても、それは宣教師をもてなすためのものであって、普段やっているような宴会とはまた違っただろうし。
その場合は、宴会というよりは客をもてなす晩餐会?
904:人間七七四年
10/01/01 19:41:52 8UPMdpy0
でもフロイスは信長が運んだお膳で饗応されてるから、信長の宴会も見てるんじゃないの?
905:人間七七四年
10/01/01 19:42:39 iqLwo/io
むしろキリシタン信者の宴会でしょうか?
906:人間七七四年
10/01/02 09:28:08 FWLa2dJm
武田みたいな守護大名家と織田みたいな成り上がり大名家では宴会も違ったんだろうか
907:人間七七四年
10/01/02 10:23:14 VenamTkc
細かい点で言えば各家それぞれの特色があるが、基本は変わらないよ。
あと信長の弾正忠家もそうだが、伝統のない家ほど定型的。
908:人間七七四年
10/01/02 21:32:16 nMW6NrSi
昨夜やっていた『相棒』というドラマの中で
明の皇帝が日本国王宛に送った茶器という架空の話が出てきたんですが
ドラマ中の仮説によると
それが明による日本国王(天下人)のお墨付きの証になると言われていたのですが
そういうものが実在したとして、そういった価値はあるものなんでしょうか?
秀吉は朝鮮出兵時に明から日本国王に封じるという話を怒ったとか
蹴ったとも言われていますが
当時、日本で明という国は権威ある存在だったんでしょうか?
909:人間七七四年
10/01/02 22:07:52 VenamTkc
>>908
「茶器」に価値を認めていたのは日本独自の価値観なので、明の皇帝がわざわざ
茶器なんぞを送ることはない。
あと、明はたしかに地域最大の大国としてある種の権威を持っていたが、日本側は
足利義満の時代ですら、せいぜい貿易パートナー程度の認識しか持っていない。
しかも大内が滅んだ後は正式な国交は断絶した。
そのドラマの仮説は、実際の歴史に照らして言えば「荒唐無稽」の一言で済ませられる。
910:人間七七四年
10/01/02 22:08:51 4YCedGzv
権威以上に実利のある相手じゃないかなーと。
通商での利益もそうだが、当時の日本に流通してる通貨は大陸製だからな。
国内で銭を流通させるには銭は多くて困るってことはない、
というか大陸との通商が減り銭の供給がなくなってしまい、
銭の劣化が進行して撰銭が横行、貨幣経済が破綻したくらいだしね。
日本国王を望むってことは、冊封体制内に組み込まれると言う意思表示で、安定した通商の裏付けになる。
もちろんそれだけではないだろうけど、安定経済(自分の懐を肥やすのも込みで)ってのが足利義満が日本国王に封じられるを望んだ一因かと。
逆に秀吉はそんなの望んでないから、日本国王なんていらん訳で。
911:人間七七四年
10/01/02 22:55:04 5ya7yVlZ
大内義長が明と交易しようとしたところ
簒奪者として相手にされなかったんだよな
912:人間七七四年
10/01/02 23:35:11 60OUp+8A
んなこといったら、当時の明との朝貢貿易はすべて建前上は明皇帝から日本国王への下賜品だ
>>908
権威ってのが度の程度のことを指すのかによるが、よく説的な実利以上の権威はないよ。
現代日本人はローマ法王の権威を知っていても、だからって信徒でもなければ恐れ敬って畏まったりしない。
913:人間七七四年
10/01/03 00:01:03 lrnHU44B
四代将軍足利義持が、義満の政策ひっくり返して明との国交を断絶させると
明の永楽帝が
「てめえふざけるな俺を皇帝として崇めないなら貿易停止するぞクズ」
って言ってきて、これに義持が
「こっちはおまえなんかに頭下げる言われはないんだよ糞が」
みたいな対応して両国関係がそれはそれはギスギスした。
まあこの辺を見ればわかるように、貿易のことさえ考えなければ
日本は特に大陸王朝を尊重するような気持はさらさら無かった。