【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】at SENGOKU
【疑問】スレ立てるまでもない質問 4【戦国時代】 - 暇つぶし2ch400:人間七七四年
09/11/13 12:42:06 NMEAYinN
苗字を付ける時に、寄子が頭首から同名をもらうということもあった
>>399は加賀前田の子孫ではないが、北九州に残った前田との関わりは
あるかも・・・しれない

>『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、
その後、前田が尾張国に移り住すという内容の記載がある

401:人間七七四年
09/11/13 12:48:48 NvpLWnTz
前田みたいなありふれた名字ではねえ
明智なら希少価値があるけどねえ

402:人間七七四年
09/11/13 13:15:25 5EmAW2gb
明智とかゲームのやり過ぎだから…
同和、部落、在日、核家族が多い中
江戸から住んでる先祖や親に感謝しなければならないな
オレなんか部落出身を代表する名字だし、何か?

403:人間七七四年
09/11/13 14:48:46 mt3kx9kb
俺の父方の先祖は、居を移った時今までの土地の名前を名字にしたらしいんだが(この
名字は今の俺の名字だけど、これだけで個人特定されるくらい珍しい)、昔の名字は栗栖
だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。
まぁ、毛利氏に敗れた落ち武者の末裔らしいが。

ちなみに母方の祖先は浅野家の貧乏武士。何か和歌山の方の姫様が浅野家に嫁ぐとき、
姫様に付いて来た(?)とか。何それ。

404:人間七七四年
09/11/13 15:03:15 NvpLWnTz
> だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。

まっとうな理由があれば出来ます。

405:人間七七四年
09/11/13 19:46:53 xeMGS0h1
歴史関連の板では「苗字」と使っていただきたい……
姓、氏、苗字と全部違うものなので

406:人間七七四年
09/11/13 21:23:59 IlMaydze
ここではそれを理解して「武田姓」とか書いているのが大半では?

407:人間七七四年
09/11/14 00:05:00 XTmANhCY
>>399
天保は所謂幕末~明治にかけて生まれた「初代」の親父の代に当たるから、
成功した初代持ちだとそこまでは遡れるケースが少なくない
土地持ちだと住地の移動もほぼ無いから、それだけでは何とも言えん

まぁとにかくだ、何か前田家への由来自体はあるのか?
昔前田家に仕えた武士だとか、前田家の乳母や奉公人だったとか、
前田家を世話したことがあるとかないとか、前田家の末流だとか。

祖父や父、親戚から前田利家に関する話なんて聞いたこともありませんが、
同じ前田という苗字ですし、何か関係があると思いませんか?
なら
ねえよ!
としか言いようが無いぞw

408:人間七七四年
09/11/14 00:25:08 f8vH6OZu
発問4 松代藩は、なぜ「さらに身分の低い人々のきまり」をつくった
    のだろう。

 ・自分が農民よりも上だと気分がいい。ストレスが解消できる。
 ・農民が武士に対する不満をそらすためだったと思う。武士に不満があっ
  ても農民は「おれたちよりもまだ低い人がいるから、頑張ってみよう」
  という気持ちになる。
 ・グラフを見ると、武士が7%、農民が85%。いくら農民が武器を持っ
  ていなくても、一気に攻めてこられたら武士だってひとたまりもない。
  だから、さらに身分の低い人を作った。
 ・作った理由はあったと思う。農民はストレスがたまるから、農業ができ
  るようになった。
 ・農民の不満をそらすためだったと思う。農民は武士に言われっぱなしで、
  みんなで襲いかかってこられると困る。自分たちよりも身分が低い人が
  いれば、自分たちも結構えらいんじゃないかと思える。
 ・自分たちよりも低い人がいたら、農民は上の位の気持ちになれた。

話し合っているなかで「幕府って、頭いいねー」というつぶやきが聞かれた。

【 さらに身分の低い人々のくらし 】

1.家は決められた場所に建て、そこに住むようにせよ。
2.家は土間とし、土間にむしろをしいて寝起きせよ。
3.着物はもめんで青くそめ、おびのかわりになわでしばれ
4.かみの毛は草でしばれ
5.雨ふりでもカサは使わず、ワラジかはだしで歩け
6.夜は外に出歩くな、やむを得ず出る時はわかるように提灯つけよ
7.食事には、茶わんを使わずにぎりめしにせよ
8.百姓、町人と話をするときは土下座せよ
9.百姓の家へは、はだしではいり、土間にむしろをしいて用をたせ。
  物をもらうときは地面に投げ捨てたものをひろえ
10.勝手に奉公したり、結婚をしてはいけない
  ※奉公……他家に仕えること

409:人間七七四年
09/11/14 00:34:28 f8vH6OZu
身分制度の確立

URLリンク(gakusyu.shizuoka-c.ed.jp)

江戸時代から日本人だと仮定して85%の確率で農民

平成12年度在日コリアン数
URLリンク(nidar.hp.infoseek.co.jp)

大阪、兵庫、京都は100人に1人が在日

410:人間七七四年
09/11/14 00:40:36 f8vH6OZu
武士だけに認められていた特権はあったの?

切り捨て御免といって身分秩序維持のため、
武士としてのプライドを傷つけられた時には人を殺しても許される(やむをえない場合や目撃者がいることなどの条件がある)
他にも名字や刀を持つ特権があったんだ。

URLリンク(gakusyu.shizuoka-c.ed.jp)

411:人間七七四年
09/11/14 11:32:05 hbB5EWS8
部落の話はスレ違いじゃね?
厚生省にチクられるよ。

412:人間七七四年
09/11/14 11:48:10 QFUFZx1c
>>408->>410
なんだかわからないが・・・・
エタの主な仕事で皮関連がある(太鼓、三味線、鞄)
今の世の女性はみんなエタのシモベだな、ブランド高級バッグ(笑)

>やむをえない場合(あまりにもザックリだから少し解説)
・相手が抜刀している。
・自分の刀の鞘を握られた
・自分の刀をまたいで行った
・女が素手で刀に触れた
・★「侮辱を受けた」
 ある町人が武士に、背中に蚤が跳ねているのを見て、善意で注意したところ、
 いきなり切り殺されてしまった。
 蚤は畜生にたかる虫であり、武士と畜生を同一視したという理由だ。
 時代劇で「さんぴん」とか「浅黄裏」などと面前で馬鹿にするなどというのは
 無礼打の十分すぎる理由で、影で言うことはあっても面前ではない。
 
それと無礼打は目付けの下で裁判が行われ、謹慎、蟄居等の罰があった。
そのようなスキを見せたことに対する処罰。無罪は殆ど無い。

413:人間七七四年
09/11/14 12:01:41 099ehitj
>>412
皮革関係の仕事は、他国でも大抵被差別集団の仕事だったね

414:人間七七四年
09/11/14 14:10:47 IA9iMubb
抜刀して逃げられたり、負けるようなことがあったりすると、
処分を受けたし、よっぽどの事情でないかぎり処分(流刑や死罪)される
場合がほとんどのようだし、「武士の特権」という言葉は象徴的なもんでしかない
からなあ。武士の側からしてもリスキーすぎる

415:人間七七四年
09/11/14 14:24:04 2B2D7RdH
>>414
それでも特権であることには変わりないさ

たとえばヴェネツィアの都市貴族なんかは、政治に携わることが出来る以外の
特権を持っていなかった。しかし、それでも特権階級であることには変わりない。
それは「象徴」というより、「特権階級を区別する手段」というべきもの。

416:人間七七四年
09/11/14 14:28:34 D4tsbjvi
武士の特権といえば、一般に往来の通行に関しては「武士七分町人三分」と言われたらしい。
ただ、江戸などでは、町人であっても「将軍様お膝元の住民」と言うことで、そういうある種の権威も
余り通用しなかったらしいが。
つーか、江戸は武士の町である事は確かなのだが、江戸府内では、行列に土下座しなくても
いいことなども含めて、武士の特権がかなり制限されてた印象がある。

あと、武士による「切り捨て御免」ってのは、それこそ江戸時代に入るまでは普通に行われていますな。
戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す。

そう言う時代の転換はやはり、家康が将軍になって布告した最初の法令、いわゆる「郷村法令」の第七条、
『百姓をむさと殺し候事御停止たり』からでしょうな。


417:人間七七四年
09/11/14 14:30:05 1GO+XJxk
深掘事件

418:人間七七四年
09/11/14 14:38:02 ZON7ZTV+
>>416
というか、戦国時代では豪農と武士の境目は無いに等しいのではないか?
国人や地侍は、江戸時代には武士階級になった者と名主階級になった者と
に二分されたはずだし。

戦国時代の有徳人の中にも、付近に対する影響力から正規の家臣団に組み
込まれたりしてるし。

419:人間七七四年
09/11/14 14:44:01 D4tsbjvi
>>418
ん?
なんに付いて疑問をはさまれたのか良くわからない。

420:人間七七四年
09/11/14 14:54:05 IcK723W3
>>419
> 戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す
ここ

武士が~~
とか、身分が固定化されていない時代では、簡単に言い切れることではないのではないか。

421:人間七七四年
09/11/14 15:33:11 D4tsbjvi
>>420
いやいや、身分の区分は室町期もはっきりしていたよ?
その辺があいまいになったのは戦国に入ってから。

422:人間七七四年
09/11/14 15:50:12 VLwFm/oo
>>421
うん、だから
> 戦国時代は勿論
ここに突っ込み入れてるの

423:人間七七四年
09/11/14 16:15:26 D4tsbjvi
>>422
戦国期でも「曖昧な層」があるだけで、やはりはっきりとした武士と、町民農民の違いは存在したよ?
武士階級のものが「武士を捨てる」という行為はいろんなところで見られる。

424:人間七七四年
09/11/14 16:23:50 fPZoo1Xn
>>423
国人層には、鎌倉以来の御家人の家柄もあれば、地元の豪農だったり、経済力を付けた
商人層だったりすることもある。

その意味で、戦国時代以前のいわゆる「武士階級」と、江戸時代の「武士階級」には連続
性が無いと見られる部分も大きい(もちろん、連続性がある部分もある)。
簡単に「武士と町民農民の違いは存在した」とか断言できる状況ではない。
だから>>418な訳だが。

425:人間七七四年
09/11/14 16:35:39 D4tsbjvi
>>424
連続性があろうがなかろうが、「身分」として、武士とそれ以外の区別は
厳然と存在したと思うのだが?

426:人間七七四年
09/11/14 17:02:57 /8LJ3eA2
>>425
「身分」とは何か、構成員と特権、またそれを保障する権力・権威は何か。
を考えれば、「厳然と存在」とは断言できないことは理解できるはず。

実際、国人とは武士なのか農民なのか、その区別が明確であったことが
全国的に明らかにされてはいない。むしろそれを否定する事実はある。

427:人間七七四年
09/11/14 17:14:46 YYYXXj9v
武士による無礼討ちはその通りなんだが、一つ付け加えると、無礼討ちは武士だけの特権ではなかった。
農民や町民だって、無礼を受けたを感じれば、即喧嘩殴り合いから戦闘にまで発展している。
江戸時代になって多少は制限されたが、それでも農民町民の無礼討ち敵討ちは消えていない。

428:人間七七四年
09/11/14 17:21:54 099ehitj
>>427
仇討ちは古ゲルマン法やローマ法でも認められていたね。
個人の権利の自力救済ってのは、近世まではむしろ当たり前だった。

それを否定したのは近代以降。

429:人間七七四年
09/11/14 18:13:08 GU3YVIms
村落の寄合でその辺を解決をつけるようなことって無かったのかね。

あと、村落と領主の争いを仲介した司法機関(?)って戦国時代ではどんなものがあったの?
特に機関は無く、領主が仕える戦国大名があんまり争いが激しければ介入してたくらい?

430:人間七七四年
09/11/15 00:55:41 DrRHeoSN
質問させて頂きます。

九州のあたりの武士達の間で普及していた刀は、どこ産なのでしょうか。
銘なども教えて頂ければ幸いです

431:人間七七四年
09/11/15 11:25:27 4ZKuCLU5
>>430
名工、三池典太は北九州。
鉄の産地も北九州、国東半島、薩摩半島などたくさんあって、
典太の流れを汲む刀鍛冶も多くいただろう。
基本的にどの町にも必ず刀鍛冶はいたし、そこで大量生産されていた。
もちろんそれだけじゃなくて、備前・大和・山城・近江からの流通品も。
大名の指料は鎌倉、室町初期の名工のものが多く、家宝や献上品、褒美などに使われた。

432:人間七七四年
09/11/15 12:33:29 4ZKuCLU5
>>429
水利権をめぐる争いでこういうのがある。
URLリンク(74.125.153.132)

433:人間七七四年
09/11/15 12:48:17 VlaMpLET
>>429
村落と領主、もしくは村落同士の争いの司法的解決では、守護所、もしくは戦国大名権力のうち
それを受け継いだ機関が担当します。
北条、今川などの先進大名では、目安(訴訟)や民事裁判に関する制度などを早い段階で
整備するようになります。具体的には訴訟案件に関する、制度としての定期的な裁判の開催など、ですね。

434:人間七七四年
09/11/15 13:25:34 q9Mvd8Wq
>>432
徳島はうどんを茹でる水をよこせ

435:人間七七四年
09/11/15 15:12:28 gGNPNX5U
皆さん詳しいですけど、どのような書籍を読んでるんですか??

436:人間七七四年
09/11/15 15:35:07 5AqXaXS+
僕は歴史群像を読んでおります

437:人間七七四年
09/11/15 15:38:25 JEcyz6bV
一揆による自治でも、分国法を出した大名でもみんなその程度のことはやっていて、大してすごい事でも珍しいことでもない


438:人間七七四年
09/11/15 17:31:20 zeOSQR7J
ただし、司法を専門で取り扱う組織・部署は無かった。それは行政と一体化されていた。
これは江戸時代も変わらない。この点は鎌倉・室町と異なるところ。

439:429
09/11/15 18:37:47 /TfiI87p
詳しい話をどうも。
やっぱり日本の村落の最重要課題と云えば水なのか。
重要なだけに、そういう民事訴訟を専門に掌る機関が設置されなかったってのは意外。

行政と一致した司法というと、町奉行の御白州で行われた裁きなんかが有名かな。
三権分立なんて18世紀の思想だから分離してなくてどうこうとかいう気は無いけど(そも
そも鎌倉・室町の司法と行政の分離も近代的な意味でのそれじゃないし)、今まで分離
されてたのが統一されたのはなんでだろう。
一元命令的な中央集権が発達して、司法と行政が一致しても(為政者にとって)不都合が
無くなったからかな。

440:人間七七四年
09/11/15 18:56:31 agEeB5BW
>>439
日本の武家政権は、むしろ司法作用(争い事の仲裁)を期待され、担ってきた部分が
大きい(鎌倉政権が典型)。

だから、鎌倉~室町~江戸と司法と行政の一体化が進んだのは、政権内における行
政の重要性が高まり、政権の中心的な作用となっていったからでは無かろうか。
事後仲裁から事前調整へと政権のありようが変わっていったとも言える。
その意味では、まさに近世化、中央集権化の典型例ではあるのだろうね。

441:人間七七四年
09/11/15 19:39:17 eosL9CqZ
>>437
そうはいっても、地域ごとに背景も性格も異なるわけで、
そこを考慮する必要があるだろうし、すごいとかすごくないとか
それとだけは言えないだろうし。

>>440
水ってのは死活問題だからな。
三好氏の例だと、長慶が発給した文書といっしょに、水利の絵図
つけられており、それにはその相論に関与した奉行と長慶の花押が
据えられているな。

442:人間七七四年
09/11/15 20:33:32 /TfiI87p
>>440
なるほど。だから源氏は「武家の棟梁」なのか。
そもそも武家の台頭自体、地方の権利を守ろう!みたいな運動の結果だったわけだし。

443:人間七七四年
09/11/16 15:06:31 fXgYn24/
この時代大名に嫁いで来た女性の事を実家の苗字ををとって○○夫人とか○○御寮人って呼ぶのは普通でしたか?
どうも濃姫は織田家では齋藤夫人とかで呼ばれてたのではとういう気がするのですが…

444:人間七七四年
09/11/16 21:45:25 Ed2T9x7Z
質問です。
主君と家臣の衆道なのですが基本は主君が家臣に挿入する側なのでしょうか?
あと肛門は直接だと危ないですよね。当時の予防対策などはどうしてたのでしょうか?

445:人間七七四年
09/11/17 07:41:12 hIL4nrvA
>>435
通史で良いんでない?

446:人間七七四年
09/11/17 12:25:30 RF11abid
>>443
農姫は美濃一国を支配する斉藤家から嫁いできたという意味で
<格式の高い呼び名>「農姫」「美濃の方」と言われた。
「~の方」は正室のみに許される呼び名。
家臣たちもそう呼んでいた。
当時女性たちの本名は旦那さんにしか名乗らなかったから、よほど緊密な家臣以外は
知らないことが多かった。
それで実家の名を付けて○○婦人と呼んだ。   と覚えている。

>>444
質問するスレが違うんでない?




447:人間七七四年
09/11/18 07:37:03 XNo/H2LN
戦国時代では、よく寺を戦争時の拠点として使ったと聞きましたがこれはどういう理由からなんでしょうか?


448:人間七七四年
09/11/18 10:38:57 irLoS4Ic
太刀を提げる時に使う、紐?のようなものの名前を教えて下さい。

また、あの紐?のようなものはどうやって装着するのでしょうか。鎧が前提でしょうか。
ならば、平時はどのようにして太刀を佩いていたのでしょう。
また、太刀と脇差しはどうやって同時に装備したのでしょうか。
脇差しは袴に挿して、太刀は提げていたのですか?
それだと刀の反りが逆方向だから、収まりが悪いような気がします。

449:人間七七四年
09/11/18 12:57:36 BtC+atVt
下げ緒のこと?
あれは太刀も差すようになっちゃったから、
役に立たないただの紐になりさがったぜ、宣教師達が指摘したようにね。
もっぱら装飾用で、それは流派によって違う。

そういえばへうげものでゲヒ様が平時に刀を佩く時に使ってたな、下げ緒。

450:人間七七四年
09/11/18 13:34:13 FE+WyjWu
>>447
・当時の寺は基本的に防衛機能を備えていた
・戦略の要衝にある
・多人数を収容できる

とりあえずはこんな理由。

451:人間七七四年
09/11/18 17:38:45 9qA+jRNM
今、読んでいる小説に「いかさま」と相づちをうつ言葉がでてきますが

いかさま=いかにも

なのでしょうか?

452:人間七七四年
09/11/18 17:58:57 FE+WyjWu
>>451
いかさま=如何様

「さもその様に見える、いかにも本物らしい」と言う意味で、
『その通りでしょうね』と言う意味になる。

これが転じて、「いかにも本物に見える偽物、インチキ」と言う意味にもなった。

453:人間七七四年
09/11/18 18:39:30 9qA+jRNM
>>452
ありがとうございます!

454:人間七七四年
09/11/18 20:03:00 KKw1GzFN
よく時代劇の合戦シーンで、鎧兜を着てるのに太刀で斬られるシーンがありますが、そこまで斬れるんでしょうか? あれでは鎧兜を着てる意味がないと思うのですが。

455:人間七七四年
09/11/18 20:34:51 QO+HOX11
>>454
実際には、鎧の隙間を狙います。時代劇はフィクションということで。
リアリティを追求すると、派手なアクションにならないんですよ。

456:人間七七四年
09/11/18 20:53:15 KKw1GzFN
>>455 やっぱりそうですか。 ありがとう。

457:人間七七四年
09/11/19 21:01:45 exIjgs1F
そもそも鎧兜で武装した相手に刀で応戦する意味は余り無い・・・ってことだよね?
えっと、槍なんかがあればそっちを使うってことで



458:人間七七四年
09/11/19 21:20:03 0hyxXCBD
何のために戦うかにもよると思うけど。

合戦での組合?村とかでの偶発戦闘?
勝つことが優先?逃げることが優先?

逃げるなら石とかの方がよっぽど有用な武器になるだろうさ。
戦う場合、介者剣術なんてものがあるように、鎧を着た状態での剣術もちゃんとあった。
でも槍を使い慣れてる人間なら刀より槍を使うだろうな。その逆もありえる。
ちなみに、大太刀や長巻みたいな刀は普通に合戦で使用してたって記録がある。

459:人間七七四年
09/11/19 21:27:34 q2fLs0JL
>>457
いいや、接近戦になると刀。
鎧の隙間や手首を狙う。

460:人間七七四年
09/11/19 21:27:44 0RJbfxTx
相手を殺傷するより、怖がらせて逃がした方が好ましい場合もあるよね

461:人間七七四年
09/11/19 23:39:51 MooIy1GP
>>457
コツが必要になるけど使える。
ただし455や459が指摘しているようにピンポイントへの攻撃が必要になる。
で、ピンポイントに鎧の隙間などを突き刺す必要があるわけだけど
日本刀は湾曲してるから狙い済まして突きを繰り出すのは難しい。
まあ完全武装の武士ばかりが戦場に居るわけじゃないからなんとでもなると思うぞ。

462:人間七七四年
09/11/20 02:29:43 nX3vnKBR
西洋の鎧だと手も足も出ないような気がします。

463:人間七七四年
09/11/20 03:03:27 1l2mm3HS
多分体中を覆うタイプの西洋鎧をイメージしてるんだろうけど、
あんな動きの取れないもの、接近戦になったら良いカモ以外の何者でも無いぞ。
囲まれてボコボコにされるだけ。
鎌倉時代の大鎧みたいなもんだ。


464:人間七七四年
09/11/20 03:26:43 Oxt1uKcL
何だろ…この話題、凄い既視感が…

465:人間七七四年
09/11/20 10:07:03 rq/k9PeA
>>464
前世?

466:人間七七四年
09/11/20 10:32:38 9z//w2gT
>>464 彼の名は歴団ひとり

467:人間七七四年
09/11/20 12:18:23 HMX+2DTa
まあ戦での死亡率も低いからね。
石、矢の順で死傷してるから。
刀を使うより、取っ組み合いして、力で組み伏して従者に首をかききらせる方が早い。

468:人間七七四年
09/11/20 13:59:54 1l2mm3HS
接近戦用に、「鎧通し」という、十手の先を尖らせたような武器もあった。
昔、知り合いに先祖が尼子の武士って家があって、そこに伝えられてた鎧通しを
見せてもらった事があったが、いかにも実戦武器と言う感じがしてちょっと怖かったことを
覚えている。

469:人間七七四年
09/11/20 15:32:48 oIuyPZlS
戦国時代の農民は、名字が無かったんですか?
また、農民の娘はどんな名前だったんですか?

470:人間七七四年
09/11/20 19:42:31 HMX+2DTa
名字がないってのは嘘で実際は庶民レベルでも持ってるやつは持ってた。

471:人間七七四年
09/11/20 19:50:45 1l2mm3HS
この時代女の名前は、農民にせよ武家にせよ、記録には殆ど出てこないな。
たいていは「女」(○○娘、○○妻)って記録されてる。

戦国時代は、日本の歴史上、女性の地位が最も低下した時代で、
その時代の風潮が、女の名前の記録にも現れている、そうな。


472:人間七七四年
09/11/20 19:52:09 Oxt1uKcL
というか、現代的な意味での「名字(苗字)」の意識っていつごろ出来たんだろうな。
士分、公家なら氏と苗字の違いははっきり意識しただろうし、姓について考えたことだって
あったかもしれないけど、庶民は? いや、「本当はうちは○○氏の末裔でな…」とかいう
農民は別にして。

どこどこ村の誰とか、なになに荘の某とか、そういう区分けのための呼び名が苗字に転化
したのはいつなんだろ。

いやまあ、そんな単純な話じゃないのは十分に理解してるけど。
俺の島根の実家でも、苗字より屋号でご近所さんや親戚を呼ぶ事の方が多い。皆苗字は
違うのに。

473:人間七七四年
09/11/20 20:15:57 1l2mm3HS
「現代的な意味」って言うのなら、それは江戸時代だろうな。
江戸期は庶民の間に、それまでの屋号から、「家族」の単位が小さくなった事により、
隠し姓などを含めた「名字」が表に出てきた。
幕府や諸藩も住民把握の必要性から、その流れを積極的に後押しした。

474:人間七七四年
09/11/21 12:48:15 ySeShkIO
田舎の農村や漁村なら、戦前まで「氏族」ってのは普通に残っていたけどな。
それが解体されたのは、実は戦後しばらく経って、農地改革と高度経済成長によって
田舎がズタズタになってから。

475:人間七七四年
09/11/21 13:11:20 wRuCMhhg
実は明治維新以降は、江戸期に解体しかかっていた「氏族」の復活した時期なのだそうな。

476:人間七七四年
09/11/21 13:16:57 /eZCR66M
日教祖左翼基地害が庶民の暗黒時代みたいな妄想ストーリーで名字ないって主張してただけ
寺の住民台帳に名字が記載されてないからと言って名字がなかったなんてことはない。

477:人間七七四年
09/11/21 18:16:43 rdxb0vEO
戦国時代から江戸時代にかけて武士の役職に「○○奉行」というのがやたらと多いですよね?
織豊政権・江戸幕府で天下統一された江戸時代以降はともかく、戦国時代までどこもかしこも
似たような職名を使っていた理由は何なんでしょう?
例えば小荷駄奉行を小荷駄頭と呼んでた家とか、侍大将を侍督と呼んでた家とかは無かった
んでしょうか?
「○○奉行」ってのは、現代で言う「○○長」程度の意味なんでしょうか?

例えば村の村長とかだと、西国で庄屋、東国で名主、北陸で肝煎と、違う呼び方をされてました
よね?

478:人間七七四年
09/11/21 18:39:01 wRuCMhhg
>>477
「奉行」はもともと動詞で、「奉行する」と使われた。これは今の官僚などが「執行する」というのと
ほぼ同じ使いかただと考えていい。
つまり奉行とは、主君、或いは上司から命ぜられた案件を与えられた権限において行う、と言う
意味であって、過去において普遍的な言葉だった。
で、後にこれが名詞化した。

だから正規の名称が何であれ、何らかの権限を与えられそれを執行する場合は
「○○を奉行する」のであって、すなわち「○○奉行」となる。

479:人間七七四年
09/11/21 18:46:56 1ixPBjdl
>>477
上杉謙信のところだと「奉行」は家老に相当する

480:人間七七四年
09/11/22 00:10:27 t+WGNqlX
奉行っていうと裁判をしきる人のイメージがある

481:人間七七四年
09/11/22 00:30:44 yRi9wOe3
奉行が家老…じゃあ他家で奉行って呼ばれてた役職は何て呼ばれてたんでしょう?
単に、そもそも役職を作ったり官名を付けたりするほど組織が発達してなかっただけ?

>>480
町奉行ですか。行政と司法の分離って結構最近の思想ですよね。上の方でも話題に
なってましたけど。

482:人間七七四年
09/11/22 14:29:43 vqUB0LrY
事業を担当統括する役目=奉行だから
領主や家臣からの信頼が厚くなければ、ということで家老格が任命されたという自然な人事。
ただし大掛かりな事業の場合は統括する奉行の下に各役割に応じた奉行が置かれた。
戦の場合、戦(統括)奉行の下に、兵糧担当、武器担当、馬担当、輸送担当など。

483:人間七七四年
09/11/22 14:50:32 vqUB0LrY
ついでながら安土築城の場合は
丹羽長秀が総奉行、普請奉行が森三郎左衛門、石奉行が西尾山左衛門など


484:人間七七四年
09/11/22 15:33:31 p3PkMTPF
「行いを奉じる(下命された事を恭しく実行する)」で「奉行」なわけだしな。

485:人間七七四年
09/11/23 00:53:45 xXt1atwe
奉行以外だと○○方という呼び方はあるな。勘定方とか

486:人間七七四年
09/11/24 15:08:45 ++OOnnuU
戦国時代の資料とか見ると、船の上でも弓を構えている人もいました。
(戦国時代じゃないかもだけど、山田長政とかのも)
湿気とかひどくて弓を使うのは大変かと思いますが、どのような工夫をしたのでしょうか?
漆塗弓とか?

487:人間七七四年
09/11/24 15:12:04 mpINyi4b
あとは使用時まで油紙に包んでいるとか、そんな感じかと。

488:人間七七四年
09/11/25 16:09:44 +0Ua1jWW
>>483
江戸時代にも外国奉行の後の総奉行とかありましたけど、
当時だと「惣奉行」って書いたんじゃないでしょうか?

いえケチつけてるわけじゃないんですが、当時から総奉行って字を書いたんですか?

489:人間七七四年
09/11/25 17:01:11 BRieg55c
信長や家康は奉行の名称を使っていたが秀吉時代にはない?
五奉行って後世に作られた名称でしょ

490:人間七七四年
09/11/25 17:12:19 QAxoFcp1
当時の手紙には奉行とある

491:人間七七四年
09/11/25 17:20:55 BRieg55c
奉行とあるのか 失敬

492:人間七七四年
09/11/26 01:34:46 cy79hwus
例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか? あと、軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?

493:人間七七四年
09/11/26 02:01:46 7FiLlgLs
>>492
> 例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか?
それは、君の言う「軍勢」が何を指しているかにもよるし(純粋に戦闘員だけか、
陣夫も含むのか?)、又戦況、戦場の状況にもかかわる。

ともあれ、基本的に実際の戦闘に出るのは、全体の3割くらいのものかと。
勝ちが確定した追撃戦で5割くらいかな?

> 軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?

そんなもんです、2~3割死傷すれば全滅扱いです。

494:人間七七四年
09/11/26 09:50:29 /xmMf+Z9
久保田正志の『日本の軍事革命』によれば、戦国日本の戦死者数:死傷者数は 1:1.5~3

仮に、一万の軍で一割が戦死したとすると、戦死が1000人に、負傷者が500~2000人で、
合計して一万人中、1500~3000が戦闘参加不可能になる。
ちなみに時代や国・地域にもよるが、近代以前の軍隊は、4割~5割くらいが非戦闘要員で
占められていたと言われる。(ただし、絶対に参加しないわけではなく、状況によっては参加する場合もある)

仮に5割として、一万の軍勢中、戦闘部隊員が5000人。そして戦闘続行可能人員が2000人。
また戦闘続けられる?続けようと思う?

ちなみに、同じく『日本の軍事革命』によれば、戦死傷率が上がる戦国後期において、
部隊の戦死率3%が、「戦闘継続に支障あり、要再編成」の目安だったそうな。

495:人間七七四年
09/11/26 09:58:40 O2A/YeZT
武田信玄は信濃一国征服するだけでなぜあんなに時間がかかったのですか?
アホだったからでいいのですね?

496:人間七七四年
09/11/26 11:25:42 cy79hwus
>>493 >>494 ありがとうございます。 考え直してみれば一割って大きいですよね~。 もう陣形が保てないということかな。長篠の戦いなんかは、もう武田家は壊滅状態だったんでしょうね。

497:人間七七四年
09/11/26 13:22:56 8k4fGIIA
>>496
アメフトで言うと、壁が崩れた状態だな >一割の損害
後衛が無事でももう勝負にならん。

498:人間七七四年
09/11/26 19:29:55 RQrq5myN
双方7,8万の兵力を動員した関ヶ原ですら死者5000人くらいらしいからな。
日向の戦いで大友側の死者3000じゃほぼ全滅といっていい。

499:人間七七四年
09/11/26 19:55:22 Cnr880a/
川中島だけはガチ
双方に異常な戦意があってはじめて成立する合戦

500:人間七七四年
09/11/26 19:59:34 6v+FyA4F
耳川の戦いは大友の戦死者多すぎて
太平洋戦争の時より帰還できた男が少なかったとか
この戦で伴侶を失った女性は「豊後ごけ」と呼ばれたとか

501:人間七七四年
09/11/26 22:29:13 uJQjO22R
戦国時代前期~中期の守護代って調べられるサイトありませんか?

502:人間七七四年
09/11/26 22:58:18 7FiLlgLs
戦国初期はともかく、中期くらいになると守護代なんて中間存在は殆ど消滅してるような。
最後まで残ってたのは京兆家と大内家くらいか?

503:人間七七四年
09/11/26 23:08:24 8k4fGIIA
大内家も京兆家もバリバリの守護ですがな。
守護代ってのは織田とか朝倉とか陶とか。

504:人間七七四年
09/11/26 23:11:44 7FiLlgLs
>>503
守護の元に守護代って存在が残っている、って意味。
織田や朝倉は守護代の位置から国主になったでしょ?

505:人間七七四年
09/11/27 00:05:59 geTLnLJC
守護は幕府の任命で
守護代は守護の任命であってますか?
たとえば守護代でもない新興勢力が国を支配した場合は幕府に守護なり、旧守護家に守護代なり任命させて
名目上の支配権を手にしていたと推測しますが実際はどうだったのでしょうか?
もしくは~守とか地頭系の任官かも。

506:人間七七四年
09/11/27 00:50:15 IiICFUvM
基本的には守護代は守護の任命だが、将軍家が守護代人事に
介入する事もあった。
また、斯波家の甲斐氏や、土岐家の斉藤氏など、守護代ではあるが
将軍直臣、と言う家もあった。

室町幕府は、よく言えば融通が効く、悪く言えば原理原則が余り存在しない政府だった。

507:人間七七四年
09/11/27 22:40:59 r6dvUy32
>>501
越後守護代…長尾氏(守護:上杉氏)
佐渡守護代…本間氏(守護:上杉氏?)
越中守護代…神保氏(守護:畠山氏)
能登守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
加賀守護代…本折氏(守護:富樫氏)
加賀守護代…小寺氏・間島氏(守護:赤松氏)
越前守護代…甲斐氏・朝倉氏(守護:斯波氏)
上野守護代…白井/総社長尾氏(守護:上杉氏)
武蔵守護代…大石氏(守護:上杉氏)
遠江守護代…甲斐氏(守護:斯波氏)
尾張守護代…織田氏(守護:斯波氏)
美濃守護代…斎藤氏(守護:土岐氏)
飛騨守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…目賀田氏(守護:六角氏)
河内守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
和泉守護代…松浦氏(守護:細川氏)
紀伊守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
摂津守護代…薬師寺氏ほか(守護:細川氏)
讃岐守護代…安富氏・香川氏(守護:細川氏)
阿波守護代…三好氏(守護:細川氏)
丹波守護代…内藤氏(守護:細川氏)
丹後守護代…延永氏(守護:一色氏)
伯耆守護代…南条氏・進氏(守護:山名氏)
出雲守護代…尼子氏(守護:京極氏)
播磨守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備前守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備中守護代…石川氏・庄氏(守護:細川氏)
周防守護代…陶氏(守護:大内氏)
長門守護代…内藤氏(守護:大内氏)
豊前守護代…杉氏(守護:大内氏)
筑後守護代…田原氏(守護:大友氏)

508:人間七七四年
09/11/27 22:45:06 r6dvUy32
ぱっと調べた感じなんで、これを元に調べるといいんでないかいな
一応15世紀中のものが大半で、ごく一部に1510年代がある
守護代にしぼったサイトはさすがに知らんので、参考までに
自分で調べるときはちゃんと論文や諸史料で裏を取って頂戴

509:人間七七四年
09/11/28 00:27:08 FO9RlrfP
>>508
おお、ありがとうございます

510:人間七七四年
09/11/28 00:54:57 zp6qLNeM
「守護代」は在京している守護の代わりに、任国の統治を担当していたのではない。
守護代とは守護の執事であり、守護と共に在京し、守護を補佐するのが主な任務であった。
江戸期で言えば江戸家老のような存在。

実際に在国していたのは、「守護又代、小守護」などと呼ばれた
守護代のさらに下の官。

511:人間七七四年
09/11/28 01:00:26 Pl9KTwHz
何その別当代とか課長代理補佐みたいな

512:人間七七四年
09/11/28 09:50:40 Urp4ZeVf
質問します

一石とは、現在の日本円に換算するといくらぐらいなのでしょうか?
また、家臣や足軽の給料はいくらぐらいだったのでしょうか。

よろしくお願いします。

513:人間七七四年
09/11/28 10:14:58 zp6qLNeM
>>512
一石=1000合
米1合が約150グラム
今のブランド米の買取価格が平均して、一俵(60キロ)で12000円くらいだと言うので、
1合が30円
30×1000=30000

つまり現在の米価で換算すれば一石が3万円となる。
と言うことは、100万石は三百億円の収入。正直、余り大したことも無いな。

514:人間七七四年
09/11/28 10:45:46 BxsFRTwK
>>512
URLリンク(www.imes.boj.or.jp)
上記のHPでも言われてるけど、
米価は江戸初期と明治初期で20倍もの価格差があるから、
米価基準は正直、あまり参考にならないと思うぞ。
戦国末期に米が貨幣みたいな扱いされていた特殊性も考慮すべきだしね。

515:人間七七四年
09/11/28 11:03:29 uLZdtVGe
>>513
米の価値が違う。
「値段の日本史」によると戦国時代は1石=10万円
例えば500石取り(知行とは違う)なら総収入5000万円。
配下数人+賄い人3人ほどに給金2000~2500万円払って
残り2500~3000万円で、馬、武具と衣食住で家族を養うわけだ。

516:人間七七四年
09/11/28 18:44:02 M/hlBiCE
武将の名前の中にある『○○守』っていうのは朝廷または室町幕府から貰った
官位なのでしょうか?

またそうだとしたどういう基準で決めているのでしょうか?

徳川家康の『三河守』とかはまだ分かるんですが(本拠地だし)
明智光秀の『日向守』とか・・・

日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?

517:人間七七四年
09/11/28 18:48:44 Pl9KTwHz
質問限定の俺でも、朝廷の官位は(形式上は)朝廷からもらうものだというのはわかる。
自称してた人もいたかもしれんが。

で、どういう基準で与えられてたのか教えて詳しい人。

518:人間七七四年
09/11/28 19:28:39 gegrPVDe
下賜された惟任の姓と関係あるのかな?
なんか九州縁の姓だってどっかで見たことあるけども。

519:人間七七四年
09/11/28 19:39:44 /gpMLN7B
大名自身は支配の正統性や侵略の大義名分のために献金して官位を貰ったりしてたが、
大名以外はほぼ自称と思った方が正しい。
家臣団まで正式に任官してたのは、保守系の大内家と
京の支配者で公家との交流も多い三好家や織田家くらい。

与えられる規準は、過分でなければ求められたものをそのままあげてたんじゃないかな。
日向守・筑前守の任官や惟任・惟住の賜姓はいくつか説があるね。
将来の九州侵攻を意図してとか、最終的な領土配分の構想とか、
東国の勢力にすでに九州まで支配してると思わせる策略とか。
(最後のはねーよと個人的には思うが)

520:人間七七四年
09/11/28 21:59:43 qwa0hmAq
家臣の任官が承認されたケースはそれほど知られていないが、
織田や三好の他にもある。大名が任官されると同時に授かった家臣とか、
上洛や献金の際に昇格した家臣たちはそのケースに当てはまると考えていい。

521:人間七七四年
09/11/29 00:31:23 ELojTUSg
長男なのに三郎五郎、二郎三郎、藤次郎などと名乗るのは何故?
家康(二郎三郎)の場合代々受け継がれてきた名称らしいが
他のもそうなのですか?

522:人間七七四年
09/11/29 01:47:43 iS/tQYS7
>>519
自称ってことは、ある家の家臣が別の家の家臣と同じ官位を名乗っちゃってた、みたいな
こともあるのかな?

523:人間七七四年
09/11/29 01:54:36 VRoN2tnx
伝統とか融通とか。

家の祖が八男(八郎)だと、
その長男が代々八郎を名乗ってみたり、
その次男は九郎を名乗ってみたり、三男以降一番初めに戻って太郎、次郎・・・となってみたり、
ひねくれものは次男を八郎次郎とか名づけちゃったり、
ずーっと時代が下れば新八郎にしてみたり、
まあ、色々です。

524:人間七七四年
09/11/29 01:54:40 uRg4LvjV
>>522
なんぼでもある。
例えば武田家の板垣信方と北条家の大道寺政繁は同時代の武将だが、
同じ駿河守。

525:人間七七四年
09/11/29 06:38:23 vW55gTdV
>>520
織田は三郎、長男は六郎が代々伝わる仮名。
御家を興した祖先がその仮名だったことにちなむことが多い。

526:人間七七四年
09/11/29 10:50:56 SEEX3E65
自称官位は仕える大名からもらうんだけど、
その大名の「あの国欲しいな、自分の領土だったらいいな」
という希望の現われ。

527:人間七七四年
09/11/29 11:42:13 b5bJ0qXa
位階があって初めて任官されるもの。
僭称や受領名だと位階が無いからすぐばれる。

なんですぐバレル嘘をつくんだとつっこまないこと

528:人間七七四年
09/11/29 14:12:38 iS/tQYS7
少納言とか式部大輔とか兵部少輔とかなら数があるから僭称してもばれにくいだろうに…
いやそんな官位僭称して何の意味が?って言われたらそれまでだけど。
てか京官は不味いのか。当時も誰か公家が就いてただろうから。

そういや渋江政光の通称が内膳だけど、あれも僭称なんだろうか?

529:人間七七四年
09/11/29 14:37:45 SEEX3E65
内膳は正式には宮内の食事の取り仕切り頭だが、
渋江政光のような場合、家中の兵糧・食料担当のトップということで、
宮内の役職名で呼ばれた。
まあ一種のかっこつけだ。
弾正なんかも大勢名乗っているが、これも朝廷の治安担当という意味で、
武士にはあこがれの役職で、家中の目付け役が名乗ることが多い。

と記憶してる。
間違ってたら訂正してくれ。



530:人間七七四年
09/11/30 16:05:36 8x5RokDC
質問。
大名の名前で「○○守」というのを見ますが、全て昔の国名
かと思っていたら先日「ウタノ守」というのを知りました。
大名が大勢になって国名が足りなくなってのことですか。
又、「ウタノ」って何ですか。

531:人間七七四年
09/11/30 16:17:30 6pwbTB9p
>>530
それは「ウタノ守」じゃなくて、「雅楽頭」(うたのかみ)

雅楽寮の長官で従五位上相当の官。
国司とは違う。

532:人間七七四年
09/11/30 16:17:55 SE3K3beG
~かみの部分は守で間違いない?
同音の雅楽頭(うたのかみ)という官職があるけどそれではないだろうか。
ちなみにこれは雅楽の演奏と奏者の養成を担当する治部省下の機関ね。

533:人間七七四年
09/11/30 17:17:12 qs9UkTC1
当て字で「ウタノ守」とされる可能性はあるね。
兵庫頭を兵庫守と誤記するケースもあるし。

534:人間七七四年
09/11/30 19:10:09 90JqhRN2
~かみ は長官
~すけ は次官

漢字は違えどな。

535:人間七七四年
09/11/30 19:24:59 LS2bBvhn
何故判官と主典をいれないんだ…
戦国時代だとあんまり出てこないけど、源九郎判官義経とか言うじゃないか。

てかじょう、さかんで一発変換出来なかったんだけど…

536:人間七七四年
09/11/30 19:30:42 6pwbTB9p
日本の四等官

長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)

537:人間七七四年
09/11/30 21:38:30 PNY5MyW4
そういえば、武家の官位に少納言の人って聞いたことないんですが、存在しなかったのですか?

538:人間七七四年
09/11/30 21:59:34 wl/0ssFU
>>537
昔は要職だが時代を経ると共に蔵人が職務の大半を行っていたため、誰もつかないような閑職だったそうな
公家自身が使わないのだから僭称しようもないし、与えられることもなかった

ついでに江戸時代なら、武家は員外官(定員以外の任官。公家の官位の邪魔にならないようにするため)でなくてはならないが、
権少納言が存在しないので任官もなし(平安時代には合ったらしいが、江戸の頃はなくなってる)。

539:人間七七四年
09/11/30 22:16:58 PNY5MyW4
>>538 早速の解りやすいレスありがとうございました。 皆さんよく歴史をご存知ですが、どのような本を読んでるんでしょうか~。ちょっと気になりました。

540:人間七七四年
09/12/01 00:30:45 rEu2Zko3
>>516
明智光秀に下賜された「惟任日向守」は、惟任日向守惟基にちなんだものと思われる。

官位僭称なら、斎藤正義や姉小路自綱の大納言僭称が最大かな。


541:人間七七四年
09/12/01 02:48:10 O/sWybm1
大納言を勝手に名乗るのはただの笑いものだけど
雷神を切ったと妄言を吐くとみんなに尊敬される。
同じうそつきでも評価が全く違うよな

542:人間七七四年
09/12/01 08:24:50 a6gBvP7J
>>531>>532>>533さん ありがとうございます。
自分の知識教養の無さを痛感しました。

ついでの質問で申し訳ありませんが御願いします。

「琉球守」と「蝦夷守」が無いのは、当該地は外国の
認識だったからでしょうか。

543:人間七七四年
09/12/01 09:57:09 rvKwpIBO
>日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?

信長の戦略の一つ
反信長の島津に対して光秀を日向守、秀吉を筑前守にして牽制した

544:人間七七四年
09/12/01 11:32:26 d7K69jqd
反信長とはいってもいろいろ交流はあった。
家久が1575年に上洛した時の接待役は光秀。
このとき光秀は惟任日向を名乗っていたから、信長の外交政策のひとつかな?
この頃島津は将来織田が九州に勢力を伸ばした時、どうするつもりだったんだろうと?
家久が義久に当てた手紙には織田に対する敵対心は全く見られない。

545:人間七七四年
09/12/01 13:07:42 C3NYlFdz
「センゴク」という漫画にて、火繩銃の火線が十字に交錯する地点に敵を誘い込む
「殺し間」という用兵を明智光秀が得意としていました。

史実でも明智光秀に限らず、このような用兵は行われましたか。
また、行われていたとしたら、どのような名称だったのでしょうか。

546:人間七七四年
09/12/01 13:10:02 ukZVi8Bv
>>542
Yes
だが、琉球に関しては亀井琉球守がいる
これは秀吉にお願いしてOK出たので僭称というわけじゃないんだが
当時琉球守自体が存在しないから、架空の官位を名乗ったというところ
亀井さんはこのあと台州守も名乗っているので逝っちゃってる人ですなw
モラトリアムなんぞ実施したい傍流の亀井さんはどうなることやら

547:人間七七四年
09/12/01 14:00:12 d7K69jqd
>>545
誘い出して十字砲火というのは第二次上田合戦で真田も使った。
大掛かりなものでは、釣野伏を完成させた耳川の最初の一撃。

548:人間七七四年
09/12/01 14:45:42 a6gBvP7J
>>546さん。
ありがとうございました。 勉強になりました。

549:人間七七四年
09/12/01 16:44:39 Klg78ApQ
>>545
喰違・枡形虎口の考えをそのまま野戦に持ち出しただけだと思う。
まあ長篠の特徴の一つは大規模野戦陣地の構築でもあるので、
野戦に攻城戦を持ち込んだって点では同じ発想。

550:人間七七四年
09/12/02 07:45:26 qocBvYfa
伊勢盛時と大谷吉継の家紋は、あれ同じですよね?対い蝶。

知人が「別物」とか言い出したので自信なくなった。

551:人間七七四年
09/12/02 12:56:04 vaU9PSUW
>>550
同じです(見た目)

552:人間七七四年
09/12/02 13:55:59 8vr1I7ew
史実に百合というかレズな人物っています?

553:551
09/12/02 15:04:17 vaU9PSUW
>>550
ごめんごめん、いいかげんなこと言っちまった。
ウェブ上で見つからないので、持っている本を見たら違うものだったよ。

・頭の形:大谷は素直な楕円、早雲はなにかビロンとしたものが右は下に、左は上に伸びている。
・羽の模様:「((○みたいなものの数」が大谷は2個、早雲は3個。
・触覚の曲がり具合。
・胴体:大谷はくびれがある、早雲は胸から尾まで同じ太さ。

で、大谷のは普通に「対い蝶」早雲のは特に「北条対い蝶」とよんでいる。
詳しくは本買って観てくれ。


554:人間七七四年
09/12/02 16:56:35 F9SVT6nX
まあ伊勢平氏の紋だわな

555:人間七七四年
09/12/02 18:57:23 uxFNImPd
質問。
「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。

又、ドラマや映画では 信長公は猜疑心が強く残酷なイメージで
描かれていますが、部下に対しては追放や蟄居や初回の謀反反抗
は許したり、意外と即刻死罪は少ないように思います。
もしかして、本当は優しく寛容な方だったのですか。

最後に、秀吉のあだ名は「サル」ではなく「六つ」というのは
本当ですか。

556:人間七七四年
09/12/02 19:00:43 O9ob+lqd
>>555
前者についてのみ言いたいんだけど、罪に対しての罰は罪の重さだけで決まるもんじゃ
無いと思う。
当時の信長にとっての佐久間信盛の価値と羽柴秀吉の価値が違ったってだけかと。
勿論それだけが理由じゃないだろうけど。

557:人間七七四年
09/12/02 19:06:44 F9SVT6nX
>>555
> 「佐久間信盛追放理由」 と 「手取川の羽柴秀吉離陣事件」
> を比べたとき、戦の直前にも係わらず離陣した秀吉の方が罪が
> 重いと思うのですが、何故しばらくして復帰できたのですか。

簡単に言えば佐久間が処分された時は、彼の担当していた大阪戦線はもう決着が付いていて、
佐久間がいなくてもどうとでもなったが、
離陣事件の時の秀吉が担当していた中国戦線は未だ進行中で、秀吉を処分した場合
その影響が大きかったから。

あと、何でもかんでも直ぐ殺すのは「残酷」ではなく「キチガイ」と呼ぶべきもの。
信長はそう言うキチガイではない。ただ、信長は治世者と言うレベルにおいて、
「残酷」であり「猜疑心が強」かったのも確かだろう。
信長が死んだら、秀吉も含めた信長の家臣たちが一斉に
「信長公は疑い深く心が狭かった」と発言している。

秀吉のあだ名は知らん。多分指が6本、って話からのものだろうけど、
そんなもの、サルってのも含めて本当はどうかだったなんて確かめようも無い。


558:人間七七四年
09/12/02 19:20:43 kL0V0Lc9
>>557
秀吉が播磨に派遣されるのは手取川の後。
ある意味、「功を樹てて罪を雪げ」という懲罰の側面もあった。

佐久間折檻状にも「この上はさらに奮闘して功を上げるか、さもなければ全てを捨てて高野山へ行け」
というもので、見方によれば、秀吉と同じことを要求している、とも言える。

559:人間七七四年
09/12/02 21:14:19 HioiEtph
あだ名が「六つ」だったってのは何に書いてあったのか教えて欲しいな。
出来れば引用文つきで。

560:人間七七四年
09/12/02 21:39:13 tE2M1t1H
中務大輔って何って読むんですか?
なかつかさだいゆう?

561:人間七七四年
09/12/02 22:05:57 Vq5wZ1+Y
つか利家とか指を切り落とした方がいいよとか親切に言うトコとか秀吉的には「ふざけんな痛ぇよ」だろうな。

562:人間七七四年
09/12/02 22:08:03 jPRL1/Gx
秀吉のアダナというと、信長が禿鼠、京都の町民がサル、ぐらいしか知らんなぁ
禁教令発布後に宣教師が六ツとか呼んでもおかしくなさそうだな

563:人間七七四年
09/12/02 22:08:23 U/jJk9av
>>560
なかつかさだゆう

564:人間七七四年
09/12/02 22:14:57 HFBPNpGb
なかつかさたいふ

秋月中務大輔文種 古処山城主
草野中務大輔鎮永 鬼ヶ城城主
草野中務大輔鑑員 発心嶽城主



565:人間七七四年
09/12/02 22:25:09 tE2M1t1H
>>563-564
ありがとうございます
で、どっちですか?(;´Д`)
両方とも正解?

566:人間七七四年
09/12/02 22:32:54 U/jJk9av
>>565
んーぐぐったらどっちも出る
でもたいふの方が多いからたいふなんだと思う

567:550
09/12/02 22:48:19 M9OV2Cz7
>>553
どうもありがとう。
言われなきゃわからない。これ間違い探しのレベルだね。

568:人間七七四年
09/12/02 23:06:10 HFBPNpGb
大夫・太夫=たいふ、たゆう、だゆう

569:人間七七四年
09/12/02 23:18:06 tE2M1t1H
>>566-568
ありがとう
どっちも正解みたいだけど、タイフが一般的なのかな


570:人間七七四年
09/12/02 23:30:51 F9SVT6nX
>>567
盛時の伊勢氏は、分家の備中伊勢氏だった事が係わるんじゃないかね?

571:人間七七四年
09/12/02 23:49:20 HioiEtph
あまり知られてないが、秀吉の指は若い頃に切り落としてるよ

572:人間七七四年
09/12/03 09:55:23 RvpUTdEB
>>556 >>557 >>558 >>559 >>561 >>562 >>571 さん
ありがとうございます。 勉強になりました。
秀吉公の「六つ」のあだ名ですが、友人からその話を
聞き早速 「秀吉、あだ名、六つ」 でヤフー検索したら、
以外と多数ヒットしたので質問した次第です。

皆さん ありがとうございました。
良いお年を お迎え下さい。



573:人間七七四年
09/12/03 11:07:07 Wpuk3mXf
戦国時代の武士が話してることを、現代の人が聞けば、何を話してるのか理解出来るのでしょうか? 昔の文章を見ると、何を書いてるのか全然わかりませんが…

574:人間七七四年
09/12/03 11:57:06 WiyO50KF
>>573
君だって、書き言葉や話し言葉が一致していないでしょ?
例えば友人知人に書くメールと、社会で得意先や上司に出すメールでは書き方も文章も違うでしょ。
話す方だって同様。

それといっしょ
文章が読みづらくても、話し言葉まで難しいとは限らない。

575:人間七七四年
09/12/03 12:07:37 Wpuk3mXf
>>574 何を話してるのか理解出来ると考えて良いんですね。 ありがとうございました。

576:人間七七四年
09/12/03 12:32:09 BagW00t0
方言に死ねるよきっと。

577:人間七七四年
09/12/03 13:57:10 sDfQ0fZJ
>>575
逆に理解しづらいと思うよ。
書き言葉というか文書は書式書礼で決まりがあるので、地方が異なっても読解は出来る。
しかし口語は言語にもよるが基本的に変化しやすい。だからこそ方言がそれぞれに発達する。
まあ、意思疎通が図れないほどかけ離れているとも言えないけどね。

578:人間七七四年
09/12/03 14:09:58 wLHU0Ls8
>>577
方言をなめないほうが良い。
地方在住の明治生まれのジジババと話す時、会話が成立しないことがある。

579:人間七七四年
09/12/03 15:05:11 dFRAgMbK
>>578
それは言語不明瞭だから

580:人間七七四年
09/12/03 19:42:31 EPnbP4lG
戦国時代の動員人数ってかなり誇張があるように思えます
たとえば三河すら統一していない松平清康が1万人動員したとか無茶な話だと思います。
合戦の動員戦力などを検証しているスレがありましたら教えてください。

581:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 20:00:54 qyhW60Yk
そういえば以前はあったような気が。新しく立てたら如何か。

582:人間七七四年
09/12/03 20:04:28 EPnbP4lG
それはうれしい情報です。スレタイとか覚えてますか?
キーワードがわかれば過去ログを調べてみますが。


583:人間七七四年
09/12/03 20:07:20 BagW00t0
戦闘員は動員数の1/3以下と言われているね。
んで補給部隊を襲えば、大将が離脱するやつは斬るなんて言ったところで、軍隊はほぼ確実に離散崩壊する。


584:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 20:17:01 qyhW60Yk
>>582

ごめんなさい。板違うわ現存するわ盛り上がってないわ。
スレリンク(nanminhis板)l50

585:人間七七四年
09/12/03 20:20:26 EPnbP4lG
>>584
ありがとうございます。難民板なんてあったんですね。
戦国時代板にも立ててみます。

586:516
09/12/03 21:49:08 rf0Zbaek
>>540さん、>>543さんを初めとして、
官位に付いての回答皆さんありがとうございました。

家紋に付いての質問なのですが、

織田家の『織田木瓜』と徳川家の『葵』は似ていますが偶然でしょうか?


587:人間七七四年
09/12/03 21:52:07 hjHTzJBv
丸いって部分意外似て無いと思う

URLリンク(strapyanext.com)

URLリンク(kirisai.hp.infoseek.co.jp)



588:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/03 21:53:36 qyhW60Yk
家紋に絡む数字ってのは何らかの意味を内包させられてるよな。

589:人間七七四年
09/12/04 03:37:08 OTtciomL
>>543は釣りだろw

590:人間七七四年
09/12/04 11:32:56 quMg+BhC
>>552
いたことは確実。
確率の問題にすぎないので。
しかしそれを史書に書いて後世に伝え続けるかというとはなはだ疑問。

591:552
09/12/04 15:47:39 PmRXEfGR
>>590
おお!まさか答えてくれる人がいたとは!!ちょっと感動しますた・・。
やっぱり「こういう人物がいた」みたいな事は分からないですよね。

592:人間七七四年
09/12/04 16:57:47 rAiR0wW/
歴史上の人物なら、実証されたわけでもなんでもないが清少納言と、
清少納言が仕えた中宮定子が百合関係だった、と言う説は一応ある。


593:人間七七四年
09/12/04 17:57:33 gq16K9Q6
愛姫と喜多

594:人間七七四年
09/12/04 18:08:40 DCe0bPeu
>>589
お前が釣り

595:人間七七四年
09/12/04 18:41:06 N4MMBIKm
一番槍の武士は、討ち取られても賞は貰えるのですか? 単騎で敵に突っ込むから、討ち取られる可能性が高かったと思いますが…

596:人間七七四年
09/12/04 19:48:28 V7EwplfT
>>595
貰える、「家」に対してね。
逆に言えば勇士に対してちゃんと遇さないと、誰も命を懸けて戦ってくれなくなるからね。

597:人間七七四年
09/12/05 12:37:19 oI1e1TE4
>>595
一番槍と一番乗りとは違うぞ

598:人間七七四年
09/12/05 14:08:49 ff4qwI1a
討ち死にした際の家督継承を認めてやることが褒美だったりする

599:人間七七四年
09/12/05 15:52:10 +7/Rvd2t
ウィキペディアには一番槍のほかに一番太刀もある、って書いてあるけど、
一番鉄砲とか一番弓もあったのかな?

600:人間七七四年
09/12/05 16:24:18 YfJTeRsl
一番首ってのもあるね
基本的に弓鉄砲は手柄として認められることは少ないな

601:人間七七四年
09/12/05 16:25:24 YfJTeRsl
↑あくまで個人の手柄としての話ね

602:人間七七四年
09/12/05 18:51:45 Kq10kdZA
よく合戦前のシーンで、単騎で敵陣に向かって、あっさり鉄砲で討ち取られるみたいなのがあるけど、本当にあったのかな? 無駄死ににしか思えない。

603:人間七七四年
09/12/05 18:55:25 irZ/5Kbc
>>602
状況による。
まあこの時代の鉄砲の、対処までかかる時間や命中率を考えれば、
現代の人間が思うほど無謀な事でもないが。

604:人間七七四年
09/12/06 07:20:07 4l/W2DqT
将軍が政治を司る法的裏付けが良くわかりません。軍事司令官がなんで政治するの?
摂政とか関白とかは何してたの?

605:人間七七四年
09/12/06 08:03:20 Gm9BLEDa
>>604
武家は戒厳令が常態化していると解釈させてるんじゃないの?

606:人間七七四年
09/12/06 08:37:55 4l/W2DqT
>>605
平安末期に戒厳令とか夜間外出禁止令とか憲法停止とか非常事態法があったの?

607:人間七七四年
09/12/06 08:42:20 dPNhTZig
>>604
「権門体制論」と言うのを調べなされ。それで大体解る。

608:人間七七四年
09/12/06 09:36:43 ZG9eRtHq
朝廷から頼朝がもらったじゃん

609:人間七七四年
09/12/06 12:53:59 LCYtw1z+
>>604
>摂政とか関白とかは何してたの?
摂関家だけでなく公家は文化や古典の伝承に特化していた。製本(出版事業)はずっと行っている。
荘園は殆ど無くなっているから、大名の家庭教師と官位奏上の手数料などで収入を得る。
信長や秀吉が公家の官位に応じた知行(300石~1000石)を与えるまでは
スポンサーの大名(朝廷へのコネ確保)の所に居ることが多く、京にはあまり住んでいない。


610:人間七七四年
09/12/06 14:51:40 NkLVE9TN
関が原の戦い
慶長出羽合戦
文禄・慶長の役
本能寺の変
応仁の乱

戦い、合戦、役、変、乱の違いは何だろう?
遠征は役、謀反は変っていう感じはするけど

611:人間七七四年
09/12/06 14:54:26 Gm9BLEDa
役は、公権力が主導するもの。
変は、クーデター。
乱は、挙兵して上位権力に逆らうこと。

612:人間七七四年
09/12/06 17:00:58 IIeFK+zN
役は戦争
戦いは戦闘だと思ってた
小牧の役、長久手の戦いみたいな
関ヶ原は戦役全体か、関ヶ原の本戦か区別する気すらないような感じだけど

613:人間七七四年
09/12/06 19:12:03 NkLVE9TN
>>611
ありがとう
なるほど、納得した

614:人間七七四年
09/12/06 19:13:58 NkLVE9TN
そう言えば、大阪冬・夏の陣は、どうして「陣」なんだろう?
大阪の役とも言うけど、陣が一般的な気がする

615:人間七七四年
09/12/06 19:16:02 dPNhTZig
>>614
小田原だって「小田原の陣」と言うよ。

城を大軍で取り囲む戦いを「陣」と言うのでは?

616:人間七七四年
09/12/06 20:26:20 QgRssCsf
秀吉の朝鮮征伐はあちらでは壬申倭乱だよ

617:人間七七四年
09/12/06 20:34:32 ZG9eRtHq
西郷の名誉回復のために神風連の乱や佐賀の乱と違い、西南戦争と格上げされていたりする。
征伐は非文明や蛮族に対する差別語なので朝鮮征伐や蝦夷政宗征伐の時に使う。

618:人間七七四年
09/12/06 20:44:57 vdUqlV/z
>>611
うん、勉強になった。

ってことは、恵美押勝は"乱"でいいのか…

619:人間七七四年
09/12/06 20:57:05 LCAGwDjZ
西南戦争は単に規模の問題だろう

620:人間七七四年
09/12/06 22:46:35 ZG9eRtHq
そもそもロシアとの戦争を前に日本内部対立解消を名目に勝海舟の働きかけによって朝敵西郷の名誉回復がなされたのがきっかけ。

621:人間七七四年
09/12/06 22:58:24 QgRssCsf
>>620
いやそれは弟の従道が働きかけたんだよ

622:人間七七四年
09/12/07 00:31:09 lAxouRbB
義胤顕綱政詮景忠秀元
戦国武将にはこういう漢字が多いのはなぜ?

623:人間七七四年
09/12/07 01:06:56 w+S5aK3e
戦国時代にそういう諱が多いのは、やっぱり偏諱の一字拝領が常習化したせいだろうね
最初の人がどうしてそういう名前を付けたのかは分からんけど

624:人間七七四年
09/12/07 01:43:25 HoGJLdDD
義:これは足利将軍の通字なので、将軍から下賜るれた例が多い
胤:桓武平氏の通字の一つ。特に千葉氏。
顕:坂上田村麻呂子孫の通字の一つ。
綱:渡辺綱系源氏子孫の通字の一つ
詮:斯波氏の通字の一つ
景:桓武平氏通字の一つ
元:細川京兆家の通字

後はまあ、個々に理由はあるが、流行みたいな感じ






625:人間七七四年
09/12/07 02:18:06 lAxouRbB
わかりやすい例
ありがとうございます

626:人間七七四年
09/12/07 09:44:46 gY0qzADd
江戸時代に描かれた 「○○の戦い」 などの絵を見ると、
武将の鼻の下部分のヒゲは中央部分は無くて左右のみ
生やしていますが、本当にあのようなヒゲスタイルだったのですか。
(湯漬けを食うとき汚れない?)

627:人間七七四年
09/12/07 11:11:42 PUKvmcYZ
>>624
11代足利義春は名前を押し売りしたらしいぞ。
義が1000貫文、晴が300貫文。
「そなたに義を与えようぞ、これからは義久と名乗るがよい」
「(ええっ!迷惑だな・・・)はは!ありがたき幸せw」

「そなたには晴を与えよう、晴信と名乗るがよい」
「(まあ、しゃあないか・・・)ははっ、名誉この上なしと存知まする」

628:人間七七四年
09/12/07 11:20:38 PUKvmcYZ
あちゃ 足利義春⇒義晴だね

629:人間七七四年
09/12/07 11:44:00 lAxouRbB
>>627
金とるんですか!しかも高いw

630:人間七七四年
09/12/07 12:00:48 PUKvmcYZ
普通は将軍家や管領家などと深く関係を持ったり、縁戚になったりするともらえたんだけど、
かなりの献上品を持ってきた時にも与えたという。
ただし、これらはあくまでも大名からの働きかけによる受身で、
義晴は、使者を方々の大名に派遣し積極的に売り歩いたということ。

631:人間七七四年
09/12/07 12:25:43 lAxouRbB
>>630
なるほど。
烈風伝のように寄付しまくって官位もらうタイプと
革新・天道みたいに公家が寄付を催促して官位もらうタイプみたいですな。
後者だとがめつい印象が強いですよね

632:人間七七四年
09/12/07 15:27:31 7ja05cwf
押し売りといえば、戦国期の天皇の誰かも書物とか絵とかを押し売りしてなかったっけ?
式微極まる様子の涙を禁じ得なかった。

633:人間七七四年
09/12/07 22:51:13 WFaVJwmt
>>617
西南戦争が明治期最大の内乱であったことには異論ないところだが、
実は軍の動員規模では西南戦争>>>>秩父事件>>>>佐賀の乱だった筈。

634:人間七七四年
09/12/08 02:16:02 V0S4zP4u
信長の野望では
筑前の所有者が1550年には大内、1555年は大友になっています
んで毛利が大内を滅ぼしたころは豊前も大友領になっています。
たしか大内義隆のあとを付いだ大内義長は大友宗麟の弟ですよね?
ということは大内義隆や義長の死のどさくさに紛れて大内領に大友が攻め込んでいたのでしょうか?
もしそうなら父子や諏訪や今川ら縁者をを裏切り続けた武田信玄なみに大友宗麟は身内に容赦ないですね。
血縁をみると大友義鑑と大内義隆は義兄弟、義長は大友宗麟の実兄弟
その大内当主が攻められているなら助けるのが筋ではないでしょうか?

635:人間七七四年
09/12/08 02:53:54 KyVP8JRB
元就が大内義長を攻めるに当たり、大友宗麟と密約を交わしたとは聞くな。

まあでも、戦国だから仕方ない。

636:人間七七四年
09/12/08 03:01:46 HMi3oHHd
親子兄弟ですら血で血を洗うから戦国なのだ

637:人間七七四年
09/12/08 03:15:35 V0S4zP4u
>>635
>>636
ということは豊前のほうは毛利からの割譲ですかね。
俺が大友宗麟なら陶が厳島で死んだのをいいことに
弟(大内)を庇護下において全部併呑してしまうかな

638:人間七七四年
09/12/08 03:47:21 KyVP8JRB
>>637
それだけの力は大友にはない時期だったりする。
宗麟が二階崩れの変でドタバタしつつ家督継いで二年くらいだし、
毛利が防長の経略に時間がかかったのと同様、
豊前・筑前の平定にも毛利のちょっかいもあって結構な時間がかかってる。
とてもじゃないけど1555年にいきなり関門海峡を超えて進出できるだけの力はない。

639:人間七七四年
09/12/08 06:02:59 V0S4zP4u
>>638
なるほど。二階崩れの変ってかなり影響があったんですね。
wikiを見ると

>義鑑の義鎮廃嫡については、義鎮の生母は公家の坊城氏の娘、あるいは大内義興の娘とも言われ、
>家中からの大内氏の勢力排除のために計画された事であるとも考えられている。
>二階崩れの変は、一般的には追いつめられた義鎮派の一部による暴走であると考えられているが、
>義鎮が影で動いていたとも言われている。

大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり必ずしも良好な関係ではなかったですよね。
もしかすると大内は義鎮側に加担していたかもしれませんね。
翌年の大寧寺の変で大内義隆は大友を頼ろうとしていますしそれなりの交流はあったのかも。
そうだとすると大友義鎮は大寧寺の変で後ろ盾を失った危機をうまくチャンスに替えたことになりますね。

640:人間七七四年
09/12/08 06:53:52 16VQ9zuP
むしろ外部の介入を阻止しやすいこの時期を狙った陶氏の慧眼が賞賛に値する。

641:人間七七四年
09/12/08 07:17:22 Cfl5BGZv
しかし大友から養子を迎えたことで大内家中内部で問題が起きてるわけで

642:人間七七四年
09/12/08 07:47:25 7CfvCiow
> 大友と大内は婚姻があるわりに河野の内乱に関与していたり
っていつ頃の話を持ち出してる?

そんなものがなくても大友と大内は殺ったり殺られたりが続いてるんだけど、
この時期に目立つ伊予への介入なんてあったでしょうか。

643:人間七七四年
09/12/08 08:25:54 uUa8o/x3
伝統的に大友はそもそも中国地方に興味ないよ。
しかも大内は北九州で拡大を狙ってきて大友とは基本的に対立状態。
大内が大友領の国人扇動やりまくりで大友領支配は常に不安定。
これらの扇動はのちに毛利も踏襲してるし、島津も北上にあたりやっている。
そもそも義長の大内入りに宗麟は「当主になったからと言っても結局は陶の操り人形にしかなれないから危険止めとけ」と反対してた。
義長は「男として大家を継ぐのは誉であり、どのような結果になっても後悔しない」と主張を押し切ってる。
陶の反義隆の挙兵はそもそも毛利の内諾を得てから挙兵してる。
しかし陶の石見遠征の大苦戦を知り、背後を突いて毛利は陶を裏切った。
そのために大友に「北九州はそちらに譲渡するので、大内を支援しないで欲しい」と同盟の密約を持ちかけた。
大友にしても北九州領…特に大内の力の源泉たる博多の富を手に入れられるのに断る理由なんてないから了承。
しかし周防長門の平定を終えると、大内領の継承を唱えて毛利はいきなり同盟を破って門司を奇襲し博多を目指すことになる。
緒戦においては圧倒的な水軍力で海上封鎖をして船舶補給力で毛利は優位に立つが、結局は失敗敗退する。

644:人間七七四年
09/12/08 08:42:38 uUa8o/x3
しかも宗麟は水軍力の重要さに気づいて、水軍育成に力を注いだ為に最後の戦いになった毛利の国東半島封鎖では、
大友水軍が毛利水軍を撃破して封鎖を打破してしまった。
たびたび毛利が和議を破って奇襲してきたが、
これにより大友水軍が毛利水軍よりも強くなるまでに成長したために大友と毛利の戦いはついに集結を迎えた。
この水軍力は対島津戦でも活躍し、
島津は大友水軍に制海権を握られ続け、湾岸部に接する宗麟の丹生島城や杵築城は補給を受け続けて落ちず、
逆に岡城や角牟礼城や栂牟礼城を軸に後方遮断を策せられて、
島津は疲弊と補給困難に追い詰められ、大友の各郡軍区の要衝は以前として健在なまま豊前の龍王城にいる当主義統までたどり着けない状況に追い込まれ、
持久策の前についに島津兵の離散が相次ぎ戦力が時間を経るにつれて急激な低下を迎え撃退された。
九州では水軍力が戦いを左右したと言える。

645:人間七七四年
09/12/08 09:04:14 FkvCPx/D
大友のスレでやれボケ!!

646:人間七七四年
09/12/08 09:04:49 uUa8o/x3
そう言えば350年後の官軍による薩摩征伐では
戦略を理解できない芋侍の島津は350年前のデジャブを繰り返して、長崎を得るために熊本城攻めに戦力集中した挙げ句に苦戦し、
相手にいたずらに時間を与え、
固執して落ちないとやっと理解すると、
今度は兵力分散をして見事に消耗大敗すると言う対大友戦の二の舞の愚を犯したね。


647:人間七七四年
09/12/08 12:12:00 P9AN6FMf
かなり泥縄的に始まった反乱だからなあ

648:人間七七四年
09/12/08 16:40:35 HMi3oHHd
ID:uUa8o/x3はいろんなところで暴れているキチガイ。

649:人間七七四年
09/12/09 01:24:06 NHngfiy9
大友水軍指揮官の若林鎮興はもっと評価されるべき。

650:人間七七四年
09/12/09 01:50:16 VIsuXyu+
秀吉に潰された大友が、どうして関ヶ原では西軍に付いたのだろう?

651:人間七七四年
09/12/09 02:10:46 1hQOzQ0N
カエサルに占領されたガリアだって内乱の時裏切らなかっただろ?

652:人間七七四年
09/12/09 02:43:51 q35lZYQ9
関ヶ原は徳川vs豊臣の戦い


ではなくて、豊臣政権内の権力争いだからな。
むしろこの時期の豊臣政権=家康だから、
非主流派の西軍についたのは必然とも言える。

653:人間七七四年
09/12/09 03:06:59 VIsuXyu+
>>652
関ヶ原軍記大成とか読むと、家康は大友義統に、大名復帰の内諾与えてた
みたいなんだよね。なのに西軍に付いたのが不思議で。

654:人間七七四年
09/12/09 07:06:51 MSB0zaoh
西園寺充実はなにが充実していたのでしょうか?

655:人間七七四年
09/12/09 08:00:38 t/R9rAv+
実際に三成が金をくれ、毛利が水軍を出して後援してくれたから。
家康はなーんにもしてなくね?
大友再興軍に参集した武将たちは家康に付けと主張してたらしいが当主自身が毛利に洗脳されてたからね。
毛利としたら伊予攻略へ派兵したりしてるから、背後の九州をかき回されたくないからね。
家臣が家康に付けと主張したってのも、当時西軍に付いた大名らのほとんどにあるエピソードだから本当かわからんし。
10人の家老のうち徳川に買収された1人が言うだけでも話は成立するわけで。

656:人間七七四年
09/12/09 15:50:48 FjkFlCvk
質問!その関ヶ原で毛利は何がしたかったんですか?
総大将に推されたのに大阪城から動かず、結局何もせずに領地だけ削られる
というバカみたいな結末。教えて下さい!

657:人間七七四年
09/12/09 16:50:41 VIsuXyu+
>>656

三成たち奉行集や安国寺の口車に乗って西軍に参加してみたが、いざ西軍に参画してみると、
その内情が余りにひどいのでこれでは家康に勝てないと(あくまで毛利として)判断、
その後毛利家存続をかけての家康との交渉に入った。
と言うことだろう。

ちなみに、領地を削られなかった島津と比較する人間がいるが、一参加武将に過ぎない
島津と、「西軍総大将」である毛利とはその立場が明確に違い、総大将である以上
毛利は関ヶ原の合戦に係わる責任を全て引き受けなければならないはずだった。
普通に考えて当主当人の切腹、軽くても領地没収であったはず。

それを、家康の側で、関ヶ原を『奉行衆の反乱』と矮小化してまで、
(一般の参加武将並に)改易だけはしたが、毛利は大名家として存続し、毛利家の中で
誰一人責任を取らされる者はいなかった。
これは吉川広家の戦略的勝利と言える。

「領地を削られたから駄目だった」というのは、評価が一面的過ぎる。
むしろ「西軍総大将なのに家が、しかも大大名として存続した」という面に、
積極的な評価をするべきだと考える。
トータルで見れば、毛利の方針は(例え消極的であっても)成功であったのだ。

658:人間七七四年
09/12/09 18:01:21 oLEi57YY
幕府成立後の話だけど、東海道筋の尾張藩はともかく、
なんで水戸と紀伊に家康の子を置いたんだろう?
紀伊は大阪への牽制にしては土地が貧しいし、水戸は奥州の
押さえというなら、宇都宮とかの方が良くない?
微妙に枢要な場所から外れている気が。


659:人間七七四年
09/12/09 18:50:17 y+JxuM/C
>>656-657
西国の覇権拡大を狙っていたと思われる。
関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。
大坂を動かなかったのは腰抜けだからといわれるけど、本当は西に目が向いていただけじゃないかね。

660:人間七七四年
09/12/09 19:57:31 e06rtTXM
>>659
>関ヶ原当時の毛利は九州や四国をひっかきまわしていて盛りのついた犬みたいに積極的。


661:人間七七四年
09/12/09 21:42:50 t/R9rAv+
その内情があまりにひどいので家康に勝てないと判断←毛利厨の妄想だろこれ。
さんざん西軍として派兵しまくっておいて何寝言吐いてるんだ?


662:人間七七四年
09/12/09 22:35:49 RzL8PI6M
関が原の1日でケリがつく、なんて想像してなかったんだろうね。
応仁の乱は10年かかったわけだし。
>>659の言うように、西国を抑えてその先考えるつもりだったんじゃないのかな。
西を抑えた上で、天下はいらないから、そろそろ手打ちしよっかー、くらいの気分でいたのかも、TERU様

663:人間七七四年
09/12/09 22:43:20 iGCcrZAs
小牧長久手みたいな長陣になれば秀頼を抑えた輝はキャスティングボートになる

664:人間七七四年
09/12/09 23:17:50 VIsuXyu+
西軍は家康が赤坂に出現した段階でもう、完全に腰が砕けている。
小早川、吉川、脇坂らの内通は家康が出てきた瞬間に決定していた。

小早川が最初から東軍だと考えれば、関ヶ原の布陣において死地に入ったのは
西軍の方であり、例え戦術レベルで多少、見るべきところがあったとしても、
西軍は負けるべくして負けたと考えるべきだろう。


665:人間七七四年
09/12/10 11:12:07 l3m1mysg
領地をあれだけ大幅削減されるなら、いっそガチで戦って家康ヌッ頃して、
返す刀で治部もヤッちゃえばよかったのにねー。
>>658
水戸は佐竹氏の後で、江戸に近くて豊かな土地だからまだしも、紀伊は
わからんね。貧しい上に雑賀衆とかいて難治の地だったのでは?
あれ雑賀は滅びたっけ?

666:人間七七四年
09/12/10 12:21:52 Yp5t4QoF
一応ね。
ただ雑賀孫市の子孫は水戸藩家老だからなあ。

667:人間七七四年
09/12/10 12:30:50 73Z5sUML
牽制のためだろ。
敵軍が山陽道からやってきて大坂が落ちても紀伊山地で南朝みたいに粘れるからじゃないか?
そのうち江戸を中心に友軍が集まってくるまでの時間稼ぎ
和歌山が健在では大坂をゲットした敵軍も東進に不安を抱えるし、大坂湾を封鎖されても和歌山には船舶補給も可能。
うまくやれば和歌山と尾張藩で挟撃体制も取れる。


668:人間七七四年
09/12/10 13:34:48 ucq3P3J7
池田のところあたりのがどうみても豊かでいいよね

669:人間七七四年
09/12/10 13:54:53 0EUTMoG7
大寧寺之變前夜の頃の大内は大村や龍造寺や島津や大友を従えていたようですが、
肥後の相良氏も大内に従っていたのでしょうか?
それとも大内と相良は対等な同盟関係だったのでしょうか?

670:人間七七四年
09/12/10 14:18:56 5ZMiuXtN
相良氏と相良武任とは関係あるのかな

671:人間七七四年
09/12/10 14:27:02 MXmm6FBM
>>670
肥後の相良の一族だろ?
武任の親父が家督争いに敗れて筑後に逃れ、大内に身を寄せて家臣となった。

672:人間七七四年
09/12/10 14:30:01 5ZMiuXtN
>>671
へ~。もろに関係あったのか

673:人間七七四年
09/12/10 15:12:46 wQr6adjG
>>672
陶がやばいと思って逃げ出したときは本家を頼ったじゃないのさ

674:人間七七四年
09/12/10 15:19:57 0EUTMoG7
少しぐぐってみたが相良は大内の傘下という形で明と貿易したっぽいな
1546年に義隆は相良晴廣に遣明船の準備を命じたらしい


URLリンク(www.m-network.com)

675:人間七七四年
09/12/10 16:41:49 l3m1mysg
>>666
まあ加賀だって一向一揆の国で織田軍が虐殺やらかしたし、秀吉が利家を封じた
のは嫌がらせという説もあるのに、治水に励んで百万石だもんなあ。
>>667
ただ、他の二家と釣り合いが取れないのが不審。尾張も水戸も豊饒の地だが
紀州はお世辞にも豊かとは言い難い。

676:人間七七四年
09/12/10 17:12:39 YBN5hhdf
一族庶流が豊かになりすぎても危険なのではなかろうか

677:人間七七四年
09/12/10 18:53:16 l3m1mysg
>>676
そこはバランスだな。一族を優遇し過ぎて謀叛を起こされた例もあれば
一族を冷遇して、いざという時味方がいなくてアボーンという例もある。

678:人間七七四年
09/12/10 19:29:13 YBN5hhdf
>>677
そうですね。だからあれでうまくバランスが取れていたんじゃないかな。

679:人間七七四年
09/12/10 22:10:29 l+ig5U/r
真田幸村は本名の信繁で呼ばれることが少ないのは何故でしょうか?



680:人間七七四年
09/12/10 22:18:57 l3m1mysg
講談じゃない?

681:人間七七四年
09/12/10 22:29:28 Ko8GlMGU
>>679
明智光秀が惟任光秀で呼ばれてないのと一緒

682:人間七七四年
09/12/10 22:34:23 vj95kYP0
学問の分野では「幸村」の名を使う事は皆無。

683:人間七七四年
09/12/10 22:43:57 Ko8GlMGU
>>682
俺の高校時代の教師には「幸村」と教えられましたが何か?

684:人間七七四年
09/12/10 22:47:47 Yp5t4QoF
「学問」と「教育」は別だぜ。
日本史の先生が戦国時代の専攻とは限らん。

685:人間七七四年
09/12/10 22:54:09 Yyv0eOn3
いや、小中学校はともかく高校で幸村って教えてちゃまずいだろ。

でも普通高校で日本史取るか?

686:人間七七四年
09/12/10 23:11:31 5ZMiuXtN
摂津ので勢力をふるっていたのはどの大名家なのでしょうか?
信長の野望のように本願寺が一国支配していたのでしょうか?
でも一向一揆が支配していた国は加賀だったはず。

687:人間七七四年
09/12/10 23:13:01 5ZMiuXtN
ついでに、紀伊ですが鈴木重意って傭兵集団ですよね?
そんな程度の勢力の大名しかいなかったのでしょうか?

688:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/10 23:15:54 ZQhZLLhy
畠山という旧態依然とした領主がいることはいました。

689:人間七七四年
09/12/10 23:28:53 vj95kYP0
摂津の実質的な支配者は
畠山→細川→三好→摂津池田氏→荒木村重

こんな感じか。
本願寺は一国を支配したわけじゃなく、石山と言う都市を根拠地にしていたと
考えた方がいいかと。

あと、紀伊の最大勢力は、紀三井寺、高野山金剛峯寺、道成寺、根来寺などの寺社勢力。

690:人間七七四年
09/12/11 00:32:26 b02yI4Yu
>>688-689
サンクス
管領家を忘れてました。
摂津に関しては細川等を、紀伊は畠山を大名にして
坊主連中を諸勢力にしたら史実に近くなりそうですね。

691:人間七七四年
09/12/11 00:37:52 G9MyxG9H
>>689
畠山が摂津守護になったことなんてあったんだっけ?
畿内では河内と紀伊、あとは山城を抑えた時期もあった、位で。

摂津は戦国時代に入ってからだとずっと細川系の被官が揉めつづけてるだと思うんだけど。
細川の内紛が始まってからは長慶の最盛期を除けば摂津一円を一括支配できた人はいないのでは?

692:質問
09/12/11 05:40:19 K8hwB1Fb
ドラマなんかで武将たちやその家族が「家を守ろう」などと叫んでるけど、
家を守ってどうするんですか?

693:人間七七四年
09/12/11 05:56:18 s5sQ0j6w
>>692
祖先信仰、伝統、家職、歴史観を永続させる。
国を守ろう、みたいなもの。

694:人間七七四年
09/12/11 05:58:02 s5sQ0j6w
徳川時代になってイエ個別の歴史観より、全国共通の歴史観が優位になったから、明治維新は可能になった

695:人間七七四年
09/12/11 06:30:38 cBqAkqSd
戦国期の「家、御家」は、おおむね「家中」を指す。

「家中」とはその大名の家族、一族のことのみではなく、その大名権力を構成する
家臣団まで含めた共同体の事。
基本的に家が続く限り、家中はその家への忠誠等の義務への対価として、
家政への参政権を含む各種の権利を持つ。

つまり「家を守る」とは、その大名家を頂点とする、構成員の家族まで含めた
共同体組織、およびその秩序を守る、という意味合いで考えるといい。
例えば忠臣蔵で大石内蔵助が求めた「浅野家再興」は、最低限でも「家中」が存続できる
規模での再興の事。家中が存続できなければそれは「御家」ではないのだ。

まあ、ある面のみだが、今の言葉で言うと「会社を守る」に語感としては近いと思う。

696:人間七七四年
09/12/11 07:34:13 SCM4zS9p
殿は一代、お家末代。

697:人間七七四年
09/12/11 09:26:35 PVk/He1g
>>692
この場合の「家」とは家族やあるいは建造物として家ではなく、一族から家臣領地領民まで含んだ共同体のこと。

現代で例えれば、会社組織みたいなものだと思いねえ。

698:692
09/12/11 18:17:49 K8hwB1Fb
みなさんあざーっす

699:人間七七四年
09/12/11 20:38:15 XawkJTnN
寺や神社の役割って、今と変わりなかったんですか?大小あちこちにありすぎですよね?

700:人間七七四年
09/12/11 20:41:48 LoKkSbzH
>>699
少し前までは公民館みたいな使われ方をしていました

701:人間七七四年
09/12/11 20:59:15 cBqAkqSd
寺社の役割はそれぞれによって様々でもある。

村落の儀式、祭礼をつかさどる公共の場であったり、
領主として存在していたり
布教の場であったり、
公益事務所であったり、
役所であったり。

まあ江戸期以降は、いわゆる大寺以外は、祭礼の場+教育機関+役所の戸籍科、
ってな感じ。

702:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/12/11 21:12:34 AZLXcObs
>>700
その説明、オレにはとても分かりやすいけど若い人に通じるのだろうか。

703:人間七七四年
09/12/11 22:10:22 LoKkSbzH
最近は寺で町内会のクリスマス会とかはしなくなったからな

704:人間七七四年
09/12/11 22:13:38 b02yI4Yu
1551年に起きた大寧寺の変は守護代との争いで劣勢だった諸国の守護たちを落胆させた
という内容を聞いたのですが、この時期の守護は
すでに今川のように守護大名から戦国大名化していたり、
守護代に破れているのかとおもいました。
どういった守護家がこの時期でも粘っていたのでしょうか?

705:人間七七四年
09/12/11 22:19:14 l+rqurUG
江戸時代は戸籍を管理をして幕府の民衆支配の出先機関。
そんでそこの所属する僧は階級支配の徹底のために部落の人の墓には人名ではない漢字が刻まれ葬儀の仕方も差別したり。
4歳くらいで死んだ女の子の墓に獣とか書いたりしてたらしい。
だから墓を見れば差別されてたかわかるらしい。
個人情報保護法の真の目的は部落を探し出せなくするため。
あとは城の最外郭に位置してて有事の防衛施設になったりする役割。

706:人間七七四年
09/12/11 23:43:23 PVk/He1g
>>704
能登畠山家はイロイロと頑張ってたな。最後は悲劇で終わったけど。
あと播磨の赤松家も長く権力を保持して守護代と闘争を続けた。

707:人間七七四年
09/12/12 03:19:03 6iJQFgEK
三国志でいう正史、演義のように、戦国時代について知るならこれを読め!って本ありますか?

708:人間七七四年
09/12/12 04:05:20 DwFBCdhh
何をどう知りたいかにもよるが、そう言う古典的な通史なら、日本外史でも
読んでみてはどうだろう?

709:人間七七四年
09/12/12 10:25:21 rR/szRuh
>>706
若狭武田家も忘れないでやって下さい

710:人間七七四年
09/12/12 14:05:04 OfRAaOhb
>>709
若狭武田家は守護代破ってるだろ
若狭武田の凋落は頼りにしてた細川の衰退と後継者争いじゃね?

711:人間七七四年
09/12/12 15:04:52 Naq+bXe9
1550年頃の管領・守護家

安東:蝦夷管領
伊達:陸奧
上杉:關東管領
甲斐武田:甲斐、信濃
今川:駿河、遠江
斯波:尾張
畠山:能登、越中、河内、紀伊
富樫:加賀
朝倉:越前
京極:近江、飛騨、隱岐、壹岐
六角:近江
仁木:伊賀
若狹武田:若狹
細川:管領
一色:丹後
山名:但馬、因幡、伯耆
赤松:播磨、美作、備前
尼子:出雲
大内:周防、長門、石見、豐前、筑前
河野:伊豫
大友:豐後、筑後、肥後
有馬:肥前
島津:薩摩、大隅、日向

712:人間七七四年
09/12/12 15:45:29 zrgjAorn
朝廷の地方官 → 国司(特に守)
室町幕府の地方官 → 地頭・守護・管領
だけど、江戸時代の藩主には幕府としての役名は無かったの?(藩は明治以降の呼び名だし)

713:人間七七四年
09/12/12 17:51:45 rR/szRuh
言われてみりゃそうだな。国司という身分は「日本の土地はすべて国家のもの」
という律令制のタテマエを踏まえてるし、守護は警察権の行使者というタテマエを
踏まえてるわけだ。江戸幕府の「タテマエ」って何だろう。

714:人間七七四年
09/12/12 18:12:54 DwFBCdhh
江戸幕府では、大名の統治は基本的に将軍の代官として権限を行使している事に過ぎない。
大名は代替わりのたびに将軍から領国の統治権を受命する必要があり、また、それが
大名の正当性の源泉にもなっていた。

715:人間七七四年
09/12/12 19:30:59 rR/szRuh
だが一方、明治初期の版籍奉還では各大名が個別に統治権を天皇に返還してる。
どっかでタテマエが変わっちゃったのかねぇ。

716:人間七七四年
09/12/12 19:51:01 DwFBCdhh
>>715
それは慶応3年の大政奉還で、それまで法理論上、将軍が天皇から委任されていた
大名の統帥権を朝廷に返上したため。

717:人間七七四年
09/12/12 22:28:27 zrgjAorn
大政奉還で正式に大名領が藩になって、大名が知藩事に任命された、って習ったなそういえば。

つまり江戸時代での幕府支配って中世的なシステムで無理やり近世的な社会を動かしてた
わけか。唐風に呼べば良いからわざわざ自分たちで名称を作る必要を感じなかったのかね。

718:人間七七四年
09/12/12 22:34:21 zrgjAorn
ん、おかしいな。調べてみたら知藩事の名称が使われたのは版籍奉還後だった。
不版権三部制の頃は大名はなんて呼ばれたんだろ?藩主かな。

719:人間七七四年
09/12/12 23:35:58 SdwKXVWU
>>711
サンクス
これはわかりやすいです

720:人間七七四年
09/12/13 00:29:31 HddKIcXf
>>719
ちょっと待て、711はかなり間違いが多いので注意しとけ
旧字の使用が徹底されてないから日本人ではなく日本史好きの外国人の書き込みっぽい

甲斐武田が信濃を領国としたのは永禄年間
京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで
仁木氏の伊賀も南北朝時代
他にも色々変なのが混ざってる

守護や守護大名について知りたければ、
「越後守護」「紀伊守護」の各守護職名や「半国守護」「分郡守護」等でぐぐったほうがよい

721:人間七七四年
09/12/13 01:01:56 Zv+pxzqi
ついでにいうと、相模守護の北条も無いな。
多分他にも抜けているのがありそうだ。

722:人間七七四年
09/12/13 01:25:55 kec/cT0z
当時の衆道って、どんなことをやってたのでしょうか?
ぐぐっても全然出てこない…

723:人間七七四年
09/12/13 01:44:04 Zv+pxzqi
女とのセックスでケツの穴を使ってはいかん、
何故ならばそこは男同士で使う神聖な穴だから、みたいなことを書き残している奴がいたので、
アナルセックスです。
ちなみに口淫は女色男色とわずアウト。

724:人間七七四年
09/12/13 01:45:54 ZZXKtepy
ちょっと疑問に思ったんだけど、戦国時代の女性は無駄毛の処理とかは
どうしていたのだろうか。腋毛スネ毛ボーボーだったの?
ちなみに、ググったら戦国武将が無駄毛の処理等のサイトがわんさか出てくれて微妙なニアミスしてくれます。

725:人間七七四年
09/12/13 01:52:47 7OgVbK5o
>>722
「稚児草紙」でググれ

>>724
毛を剃ったのは遊女くらいだったと思われる。

726:人間七七四年
09/12/13 01:54:11 bXGPjLyy
へぇ、遊女は剃ってたんだ。
やっぱり毛が生えてるのは見苦しいとかそういう意識があったんだろうか。

727:人間七七四年
09/12/13 01:56:32 wyV4OHj/
むしろ汚い

728:人間七七四年
09/12/13 02:10:02 cTb1GxXF
江戸時代でも毛処理するのが嗜みだったとか聞いたことあるけど
実際はどうだったんだろう。
何でも毛切り石?とかいうものがあったらしいけど。

729:人間七七四年
09/12/13 04:50:32 lp7H/V8C
遊女が剃ったのは毛じらみ防止という身も蓋も無い理由。
江戸時代ならどんな貧乏な家でも剃刀の一本ぐらいはあったと聞いたが、
戦国の頃はどうなんだろうね。

730:人間七七四年
09/12/13 10:42:12 f6GOWHIx
>>687
雑賀って傭兵集団という認識でいいのかな?
土豪の一揆集団だと思ってたけど

731:人間七七四年
09/12/13 10:54:25 4hT+OGGk
>>730
その二つの要素を併せ持ってます

732:人間七七四年
09/12/13 11:06:41 kec/cT0z
>>723,725
ありがとう。見てみます。


733:人間七七四年
09/12/13 14:57:40 W5KFEJIq
>>720
> 京極が近江・飛騨・隠岐を領国としていたのは16世紀初頭まで

ぐぐってみたが飛騨や隠岐の守護は京極高吉って出たぞ
URLリンク(www.geocities.jp)

734:人間七七四年
09/12/13 17:11:25 t5p3ewi8
>>733
そのググった先で高吉の先代に書かれている政秀は高吉の生前に死んでるみたいね。
ということで、実権を伴いうる守護職を失ったのが16世紀初頭というのは間違ってないのでは。

もっとも飛騨も隠岐も京極氏の本領でもなければ高吉が在国守護だったわけでもないので、
肩書きとして名目上の守護職を足利義晴におねだりして貰ったとしてもおかしくはないのかもしれないけれど。

それより>>711がひどいのは幕府の職制の管領と各国守護がごっちゃになってるところとか、
細川、畠山あたりの一族を一括りにしてるとことかと。

735:人間七七四年
09/12/13 17:54:16 kGZ/iC2/
よく首級をいくつも挙げたと武将プロフィールに出てきたりしますが、これはその武将が個人戦で獲た首でいいのでしょうか?
それとも配下の者が獲った首もカウントされるの?


736:人間七七四年
09/12/13 18:16:58 7OgVbK5o
>>735
合戦における武士、侍は通常、侍本人とその家臣、下人による
数人から十数人のユニットを組む

「武士の手柄」とは、そのユニットで上げた手柄の事。

737:人間七七四年
09/12/13 19:23:03 kGZ/iC2/
>>736
ありがとうございます。
つまり必ずしも個人対個人ではないと言う事ですね!

738:人間七七四年
09/12/13 19:32:46 7OgVbK5o
>>737
と言うか、合戦において「個人対個人」は殆どありえない。

これは武士の発生時点からそうで、よく「鎌倉武士は名乗りを上げて一騎打ちを~」
などというのは、軍記物の創作にしか過ぎない。
実際は騎馬の士を中心としたユニットで戦闘していた。
ただ、戦国期まではこのユニットごとの戦闘の総体が戦、というのも実態だった。

戦国期はこのユニット最小単位とした「備」と言う部隊編成が行われた事が特徴。

739:人間七七四年
09/12/13 22:26:10 Dxwb2Wsn
豊臣秀次と秀頼や武田義信と勝頼みたいに後継者が変更になった例はほかにもありますか?

740:人間七七四年
09/12/13 22:36:33 Qhoeo/Rh
>>739
小早川秀包と小早川秀秋
毛利秀元と毛利秀就

俺が知ってるだけで二つあるから全国にはもっとあるだろうな

741:人間七七四年
09/12/13 22:47:43 SWNkdzvV
>>739
みたいにって、どうみたいに?
先の後継者が病死とか討死とかの仕方なしじゃなくて
大人の事情で変わった例?

742:人間七七四年
09/12/13 23:04:23 4hT+OGGk
>>739
南部家とか。あとまあ、変更しようとして廃そうとした跡継ぎに反撃くらったという例も多い。
斎藤道三と義龍や武田信虎と信玄、大友家もだね。

あと、豊臣政権から江戸時代初期にも多い。

743:人間七七四年
09/12/14 01:11:50 XRtDCaug
関が原の戦いに、バッファローマンのかぶとをかぶった武将がいると聞きました
知ってる人いますか?
検索した感じでは、黒田か福島かどっちかだと思うんですけど…

744:人間七七四年
09/12/14 01:33:20 Tem5VIxA
>>740-742
ありがとうございました。実子や後妻かわいさに・・・って怖いなーと思い、
怖いもの知りたさで質問しました。
名前を教えてもらったので彼らについて調べてみますー。

745:人間七七四年
09/12/14 08:53:14 mL3drj3H
>>743
水牛兜をつけていた可能性があるとしたら福島正則

746:人間七七四年
09/12/14 11:46:56 nPZeLro8
浅井氏を「あざい」って読むみたいですけど、昔は濁らなかったような
記憶があるんですがどうなんでしょう?

747:人間七七四年
09/12/14 12:32:00 uEk3gwvx
小和田先生だったかが
地元民はあざいと読むからあさいじゃなくてあざいだと主張してるだけ

748:人間七七四年
09/12/14 12:52:12 2cf3iHWF
>>743>>745
長政と正則が喧嘩して長いこと口も聞かなかったが、
仲直りのためお互いの兜を交換した。
際しくは「ちょっとイイ話のマトメ」で。

黒田家の水牛兜は2種類、そのうち、バッファローマンに似ている方を、
正則の一の谷兜と交換した。
正則は水牛兜は家宝として大切にし、戦ではレプリカを作って着用した。

749:人間七七四年
09/12/14 15:29:34 nPZeLro8
>>747
なるほど、「増田→真下」みたいな証拠があるわけじゃないんですね。
現在の読みが戦国時代そのままかも微妙ですしね。ありがとうございました。

750:人間七七四年
09/12/14 18:10:57 3LTWSrz2
いまは「あざい」とにごる方が定着してるね

751:人間七七四年
09/12/14 19:41:34 SNQym8pg
谷口克広氏ってどのくらい信用できる人なんでしょう?
信長の天下所司代は面白かったけど(村井春長軒好きだったし)

公家が来て雑談したり、天皇から松茸を下賜されたり、そういう場面想像するだけで
にやにやできる自分は異常かね。

752:人間七七四年
09/12/14 20:02:08 KfSvux06
大内さんが松茸を所望しています

753:人間七七四年
09/12/14 20:09:11 4/bigeqD
>>751
谷口さんは未だに武功夜話を資料として評価しているのは、研究者として
いただけない。
あと、これはある面仕方の無いところもあるが、研究対象である信長、および織田家について
やや過大評価気味のところがある。

そういった面を気をつければ、基本的には真摯に一次資料を当たる良い研究者だと思う。

754:人間七七四年
09/12/14 20:43:46 +44I9rOF
>>753
一応フォローすると、武功夜話も今ではあくまで参考の一種、他資料による裏づけはとれないが、こんな話もある、程度の扱いに留めている。
先に結論があって、その前提で資料を読むような悪癖もたまに見られるけど、基本的には資料批判をかかさず、資料を基にした論述を展開する、よい研究者の一人。

755:人間七七四年
09/12/14 21:35:54 SNQym8pg
>>753-754
なるほど。普通に優良な研究者なわけですね。

ただ、織田家の過大評価気味は気をつけないといけないかもしれませんね。
自分も織田家贔屓なので余計に。

756:人間七七四年
09/12/14 23:35:22 XRtDCaug
>>745
>>748
変な質問なのに、丁寧に答えてくださってありがとうございます。
確かに、福島正則の方がハリケーンミキサーとかやりそうな気がしますね。

757:人間七七四年
09/12/15 00:38:30 qhqeWjEj
ちなみに家康にもこんな兜がある

URLリンク(www.tokugawa-art-museum.jp)
熊毛植黒糸威具足

ついでに家康の、豊臣政権時代の異名は「関東の猛牛」


758:人間七七四年
09/12/15 00:51:36 L8cREEE+
牛角のかぶとって、意外と人気だったんだな
オレ的には、鹿の角の方がかっこよく見えるけど

759:人間七七四年
09/12/15 00:55:42 qhqeWjEj
信長も水牛角の兜をかぶっていたと言う説がある。
確かにあの時期の流行だった可能性がある。

760:人間七七四年
09/12/15 00:57:37 Os3z4Squ
横から失礼しますが、村井貞勝みたいなバリバリの能吏タイプ(吏僚タイプ?)って
他にどんな人達がいますかね?

江戸時代ならいっぱいいそう(というか活躍できるのが吏僚系の人ばっかり)だけど、
戦国時代だとオールマイティーな人はいても、吏僚としてのみ有能な人はあまり目立たない
ような気がして。

761:人間七七四年
09/12/15 01:30:12 pwPjoPSv
信長の下だったら他に松井夕閑とか、島田秀満、明院良政。
若手で菅谷長頼、大津長昌、矢部家定、万見重元。
塙直政も吏寮系の仕事で伸し上がった人物だなあ。

762:人間七七四年
09/12/15 01:32:26 uUMUGY6v
相良武任なんかは?

763:人間七七四年
09/12/15 01:47:46 v7/xqRIC
大久保長安は技術官僚かな
まあ武辺の人じゃなかったのは確か

764:人間七七四年
09/12/15 11:24:34 io2LKTmx
>>761
津田信澄を忘れないでくれ

765:人間七七四年
09/12/15 13:25:02 Hj0l+CZj
新庄つぼね(元春室熊谷氏)方へ文とも懇ろに御つかはし候へども、一圓とりあひ候はぬ
おもむきのよしうけ給ひ候、誠に其事にてこそ候へ(中略)此四五年、我等などへは一えん文とも
三くだりばかりにて候、尼子与州、弘中三河守などが状の類にて候、いかなるめんもく候哉

元主君の尼子経久はともかく、弘中隆兼って毛利に対して仲が悪いわけでもないだろうに
態度が悪い見本にされているのはなぜ?

766:人間七七四年
09/12/15 14:42:45 io2LKTmx
態度が悪いのは吉川の新庄婦人のことで、
 
「私への手紙の返事が3行くらいしか書いてないのは、
 まるで尼子経久様や大内家の重役の弘中様みたいな
 偉い人が(身分の低い者に対して)書いたような手紙で、もう頭へきちゃうわ」

という意味で、尼子経久や弘中隆兼を悪く言っているのではない。
古文にもっと慣れような。

767:人間七七四年
09/12/15 14:50:28 XBthTSjz
濃姫の最後ってどうなっているのだろうか

1)本能寺で信長もろもと死亡
2)本能寺の時には安土にいて
明智勢が来たときに退避
3)本能寺以前に死亡

資料が少ないですね

768:人間七七四年
09/12/15 15:18:50 RMB4B1Iy
>>767
「濃陽諸士伝記」にて1560年以前に死亡したと書かれてある
それと『美濃国諸旧記』には濃姫の母は早くに死亡したと書かれてあり
『言継卿記』には壺事件の後、信長がしゆうとにお礼に言いに行くと書いてあるから
濃姫とは関係のない別人が信長本妻になった


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch