09/10/15 13:00:55 3Z7lu4AA
>>186
秀吉の刀狩令というのは、厳しく取り立てたわけではなくて、
いわば、庶民に対するお願いだった。
どの農家にも刀・槍は当たり前にあって、取り上げるなんて不可能だった。
(この時代農民が弱者だったというのはウソ)
それで、「あまり武器を持って外出しないでくれ、不要な武器があれば出してくれ」
というお願いだったわけ。
「戦もあまり無いようだし、余っているものがあれば差し出そうかな」そんな感じ。
刀を持って歩く人の数は減ったが、治安の悪い所を通る時や夕方以降は当然持っていった。
江戸期になっても、庶民は遠出をする時には、刀を持っていった。
(「東海道中膝栗毛」のヤジさんキタさんも)
ただし脇差1本のみ。
幕府は、武士と庶民を明確に区別するために、武士は必ず二本差と決めた。
武士の外出時はお供を一人以上連れ、その者には槍を持たせる決まりがあった。
(鉄砲は厳しく不可)
188:人間七七四年
09/10/15 13:01:34 hqyuj7r3
>>186
戦国時代といえども日常から槍や弓、鉄砲を持ち歩くのは、キチガイです。
189:人間七七四年
09/10/15 13:37:05 wGqiDHRk
>>187>>188
ありがとうございます。
イメージとしては、豊臣政権時代頃だと、
特定の主君に仕えてない牢人がかなりいただろうし、
そういう連中が自分の武器を持ち歩いて移動していた際、
それが規制されることはあったのかなあと。
あと、江戸幕府になってからだと、
割と早めにその辺りの規制が法度で出された印象がありますが、
慶長年代だと既にそうなっていたのでしょうか?
ざっと調べたところ、制限があったことだけはわかるのですが、
具体的にいつ頃、どういう規制が出たのでしょうか?
190:人間七七四年
09/10/15 13:58:30 QiLfIMvk
>>189
>戦国時代
具体的な規制は特にはなかったけど、社会の常識というか慣習で、
町中や村落に槍を包まず抜き身のまま、鉄砲を布で包まずそのままで入り込んだら、
敵対の意思ありとみなされてとっつかまるか最悪殺されても文句言えません。
この常識は、治安維持の担い手が現地の村落から幕府や藩が一括するようになる
江戸時代になっても、そのまま通り続けたと思っていいです。
191:人間七七四年
09/10/15 14:09:27 eG59yqJ0
黒澤の七人の侍
戦国時代にあの様に武装もせず盗賊に農産物全部取られる間抜けな
百姓たちがいるのでしょう?
192:人間七七四年
09/10/15 14:39:31 ZW+9XCRy
>191
農村武装論は戦国初期の畿内の村研究だけで成り立ってるから、
あの村を完全否定するのはどうかと思う。
村人全員が兵士になりえたわけじゃないし。
あの映画だと領主は領地の保護にやる気が感じられないから、
すでに滅亡の近い見捨てられた国の村だったんじゃないか?
193:人間七七四年
09/10/15 14:55:16 hqyuj7r3
>>192
そう言う場合は村同士で攻守同盟(一揆)を組んで防衛するし、領主が「頼みがたき」となれば、
その敵対している勢力に寝返るものだから、どっちにせよ無力この上ない七人の侍の村のような
状況は、全くありえない。
当時の惣村はミニ戦国大名だと考えたほうがいい。
194:人間七七四年
09/10/15 15:00:55 3Z7lu4AA
>>191
当時農村には莫大な量の武器(鉄砲含む)があった。
この映画は農民の時代考証という点では全くダメなんだけど、
(ありえない時代のどこかの国の話)
映画として面白いからそれでいいのだ、と言ってみる・・・
>>189
1645年かぶき者禁止令・・刀の長さ形、鞘の色、髪型・髯の形規制
1668年1684年・帯刀規制
それから、農民一揆で鍬や釜で暴動を起こすのも間違い。
そういう人もいたが、刀、槍が主な武器。
弓・鉄砲も当然保有していたが一揆側の自主規制で使われなかった。
規制側が鉄砲の一斉射撃で農民をバタバタ倒すなんてのもウソ。
(そんなことしたら、統治力無しとして改易、代官なら切腹)
名主と領主代行・代官との交渉で殆どが収まった。
今で言うデモ行進に武器を持って行ったくらいに考えよう。
195:人間七七四年
09/10/15 15:45:13 ZW+9XCRy
>193
>攻守同盟(一揆)を組んで防衛するし、
実例が畿内や一向衆のほかにどんなのがありました?
>「頼みがたき」となれば、
>その敵対している勢力に願えるものだから、
それは国境の惣村に限定される話では?
農村ガチ武装論は一部の目立つ例を出してそれが一般論にされているように思うんだよな~。
地域性やこの村を取り巻く環境を考慮すれば、七人の侍村みたいなのは絶対にないと言い切れないんじゃないか。
映画ではなにもこの村が一般的な戦国の村とはしていないし、
勝四郎が「私なら農民に竹やりをもたせます」と発言しているのは、
彼がこれまで見聞きした村がやっていることを適応させようとしているとも取れる。
作り手が今の戦国研究に近い歴史認識をもっていたとは言わないが、
好意的解釈の余地を残すつくりにはなってると思うよ。
196:人間七七四年
09/10/15 16:47:51 UAK//k4r
>>185
本能寺の変直後に、三木氏は同じ飛騨豪族の江馬氏と戦ってる。
その時の兵力が江馬3000、三木2000。
結果は江馬の当主・輝盛が三木勢の伏兵に銃撃されて戦死、三木の勝利。
相手の当主が死んじゃったんだから、三木勢はそんなに損害を受けずに勝利したはず。
その後、牛丸氏などの他の勢力を駆逐して、飛騨統一戦で多少は消耗したかもしれないが
降伏した兵も当然いたはずなので、数百って事はないと思う。
金森1500程度だけと戦ったなら、そんなに簡単には負けないと思う。
まあ、後立てに秀吉とかがいるってわかって兵が逃げちゃったって事も考えられるけど
197:人間七七四年
09/10/15 16:49:00 QiLfIMvk
>>195
別に目立つ例だけではない。室町時代からの様々な訴訟や喧嘩沙汰、村争いなどの大量の記録を見れば、
町や村が基本的に自衛のための武力を持ち、構成員の生命財産を守るためにその発動をまったく躊躇わかった
こともわかる。むしろ、なんでこんな些細なことで、と現代人なら言いたくなるような理由で、あっさりと村どうし
町どうしで喧嘩>殺し合いが発生している。
もちろん様々な状況があり得ることだから、「七人の侍」のようなケースが日本全国に絶対に一つもなかった、
などとは断言できない。飢饉に疫病、戦を避けるための兆散など、村の軍事力が低下している時に、盗賊に
襲われるということもあるだろう。しかしそれらは異常事態であって、本来は村が武力を持っているのが普通。
198:人間七七四年
09/10/15 17:07:58 lJyHxuSm
実際に対抗できるほどもてたのかには地域差がもちろんあるだろうけど
獣や近隣の村、盗賊なんかに対する自衛ぐらいはしていたと考えてもおかしくないわな
今みたいにお巡りさんがいてくれる社会なら全くの無防備でも心配ないかもしれんが
199:人間七七四年
09/10/15 17:24:02 hqyuj7r3
>>195
戦国期の関東や越後などには、村落が横で繋がった一揆が、行政単位として認められてるね。
何も無ければ一揆を汲む必要は無いわけで、村落が同盟体を形成することで、
領主、あるいは外敵に対しての立場を強化した、と言うことはわかるでしょ?
200:人間七七四年
09/10/15 17:54:58 wGqiDHRk
>>190>>194
ありがとうございます。
妙な言い方になりますが、「みんなそれなりに自重してた」ということですね。
明文化された法規制は1645年以降と少し遅かったけど、
それまでは「用も無いのに槍を持ち出すのはどうか」みたいな暗黙の了解があったと。
201:人間七七四年
09/10/15 18:56:48 ZW+9XCRy
>>197
>>199
それは永原慶二の研究で理解してるつもりだけど、
七人の侍世界は一地域の天正中期時代で、
一般に出されている類例(それも具体例は限定的)とは異なるという話だよ。
町同士で喧嘩して殺し合いなどは畿内以外にちゃんとした例はあるのかとか、
そういう問題も残されているでしょう。
村落がどこまで非武装なのかは確定できない。
202:人間七七四年
09/10/15 21:58:19 QiLfIMvk
>>201
もちろん畿内以外にもありましたよ。記録が残っています。
戦国大名の分国法にも村町の争いの対処法が入っているのはその解決の為ですね。
念のためにいっておくと、分国法が制定されたなかった地域では争いがなかった、
なんてことにもなりませんから。
203:人間七七四年
09/10/16 03:52:04 4PpYDTFV
戦国時代の人の名前をみると、ある程度名前にも流行の文字や読みみたいなものがあったと思うのですが、
もしも主人と部下の名前の文字や発音が被ってしまったら、部下が名前や読みを変えさせられることはあったのでしょうか?
例えば信長の部下に親戚でもないのに「信○」・「長○」や字が違っても発音が「のぶなが」という名前の人、名字が「織田」の人
などがいたら改名させられたりする場合があったのかということです。
204:人間七七四年
09/10/16 10:40:17 SdV8WwO3
>>203
いみなはまず公式には使われない。口語で使用さえることも稀。
ほぼ文書上のみで使用される。それだって官位名や通称が多様される。
まあ憚って改名することもあるかもしれない。
205:人間七七四年
09/10/16 15:08:45 lfThVbzo
ついでに言うと、特定の人間を指す場合、名字も口頭ではめったに使用されない。
だいたい拠点とする場所+官位で言う。
織田信長なら「尾張上総殿」→「右府殿」→「安土殿」
徳川家康なら「三河守殿」→「「浜松殿」→「駿河大納言殿」→「江戸内府殿」→「公方様」→「大御所様」
206:人間七七四年
09/10/16 16:44:10 4PpYDTFV
>>204-205
ありがとうございます
つまり名字や名前が主人や権力者と被っても基本的に当時は普段の業務や生活にあまり支障はなく
それを理由に改名を命令されるようなことも原則なかったということですね
207:人間七七四年
09/10/16 21:09:04 JypkumIy
上から言われることは少ないと思うけど>>204の言う通り
下の人が主君を憚って改名、ってのは結構例があるような気がする。
208:人間七七四年
09/10/16 22:02:45 Ifb2YO3h
>>203
主君の実名を憚って改名した例は蒲生氏郷の例がよく知られてると思う。
元の名前は賦秀(ますひで)。
秀の字を下に置いていたため秀吉を憚って氏郷と改名した。
209:人間七七四年
09/10/16 22:44:27 iHIWsdjq
小早川隆景が従三位権中納言に昇り、清華成して五大老に就任して主筋の輝元と同格に
なったのは、金吾中納言秀秋を養子に迎えたことが大きな要因なのでしょうか?
210:人間七七四年
09/10/16 23:51:28 gxJZ0Z0u
武将一人が数千の兵卒を率いるような表現がしばしば見られますが、実際どのように指揮をとっていたのでしょうか。どの程度詳細な指揮が可能だったのでしょうか。
また、兵種ごとに数人単位で兵卒が動員されているような資料がありますが、運用されるときはやはり百人程度の単位でなければ正しく機能しませんよね。彼らはどのような手順を踏んで何人程度収束し、誰のもとに掌握されるのでしょうか。
211:人間七七四年
09/10/17 01:35:30 Ick/7Teu
>>209
秀吉は中国攻略時代から隆景を高く評価しているし
慶長・文禄の役でも、他の将が病欠で帰国を望んでも拒んだのに
隆景だけ「早く帰って来い」って手紙出してる。
(結局、隆景は秀吉の帰還命令を断って、病身をおして戦い続けたんだけど)
単純に秀秋を養子として送ったって関係だけじゃなく、個人的に評価してたんだと思う。
あとは毛利を分裂させる為とかだろうね。
上杉景勝から直江兼続を引き離そうと誘った話と同じで。
それだけ毛利家中でも重要な人物だと判断されていたんでしょう。
212:人間七七四年
09/10/17 07:45:55 mNe+WQd2
>>211
確か最初秀秋を輝元の養子に送りこもうとして、それを断る口実として隆景が希望したんじゃなかったっけ?
213:人間七七四年
09/10/17 11:01:05 YA745NMO
>>196
頼綱は戦で負けていたけれども途中で江馬輝盛を討てたことでの逆転勝利じゃなかったっけ?
戦後もあんまり余裕無かったんじゃないのかなあ
214:人間七七四年
09/10/17 11:50:29 xsgm+iKr
>>208 また小説話をw
215:人間七七四年
09/10/17 14:41:06 PJpliWyU
ありがとうございました。
216:人間七七四年
09/10/17 15:33:56 jySToZkj
>>210
よく知られている通り、
小者(雑兵)⇒者頭⇒足軽(ここから武士)⇒足軽頭⇒足軽大将⇒侍大将(ここから騎馬武者)⇒部将
ピラミッド型で数百~数千
・采配・軍配・ほら貝、太鼓
・伝令将校(赤・黒ほろ衆、ムカデ衆が有名・幹部候補武将)の役割
・騎馬武者の構成単位
・陣形と兵種
というような事項で調べれば戦闘の流れとか、戦い方とかわかると思うよ。
・
217:人間七七四年
09/10/17 15:37:40 z4u6hAoJ
>>212
実際そんなこと出来たのかね?
百万石越えの大大名で一族も豊富にいるのに、跡継ぎを
無理やり押し込むだなんて。
218:人間七七四年
09/10/17 16:18:54 iRMpBJr6
>>216
回答ありがとうございます。恥ずかしながら足軽が最下級の雑兵だと思っていました。
おかげでいろいろイメージが固まりました
219:人間七七四年
09/10/17 17:22:17 pgxm5fPq
>>218
戦国の合戦における作戦単位は「備」。
本陣が指令を出すのはこの備の行動に関してであり、備の中に於ける戦闘指揮権は、
本陣からの作戦命令を元に、侍大将を足軽大将が補佐する形で執行されている。
220:人間七七四年
09/10/17 20:05:57 O4UqEw7B
備って何人単位ぐらいなんだろう?
豊臣の軍制だっけ?
221:人間七七四年
09/10/17 20:25:53 pgxm5fPq
>>220
作戦や陣構えによって違うが、一般的には300~800名。
あと備は戦国初期から徐々に発展して、中期くらいにはほぼ完成を見た
軍隊編成であって、豊臣家が始めたものではない。
222:人間七七四年
09/10/17 23:14:00 O4UqEw7B
ためになる。
一般的に「備」という呼び方が一般的になったけど、他の国じゃどう呼んでたんだろうね。
223:人間七七四年
09/10/18 00:13:52 4w23fIKJ
>>222
スペインのテルシオや、ローマのレギオー(軍団)、コホルス(大隊)の様な意味か?
224:人間七七四年
09/10/18 07:55:30 a+Kj44i8
>>217
後北条だって滅んだし、やる気になれば出来るんじゃないの?
225:人間七七四年
09/10/18 11:50:09 hgH7e9kJ
>>224
後北条は停戦命令違反と、どうせ小田原に篭城すれば
切り抜けられると事態を甘く見ていたためだろ。
肥後の菊池みたいに弱体化して養子を入れられるなら
ともかく、こんな大大名に
「養子受け入れるか、さもなくば攻める」
なんて聞いたことがない。
226:人間七七四年
09/10/18 12:22:44 4w23fIKJ
>>225
事態を甘くなんて見てなかったよ<後北条
色々な掛け違いと、後は外交情勢の読み間違い。
227:人間七七四年
09/10/18 12:29:07 RFAtSSb6
ヘタレ政宗と協力しようなんて馬鹿さ加減が盲目北条の限界
228:人間七七四年
09/10/18 17:11:46 9EEdDtnw
>>191-195
wikiだと七人の侍は「時代考証も優れている」という評価があるそうなんだけど…。
229:人間七七四年
09/10/18 17:14:58 qJ8bat5+
>>228
服飾くらいなら。後は全部デタラメ。話にならん。
つーかwikiをまともに信じるな。
230:人間七七四年
09/10/18 17:20:26 kmk9vYul
間違いがあっても優れてるのは確かだろ。
映画であれに勝るのはクレしんぐらい。
231:人間七七四年
09/10/18 19:02:21 6sWu8X1J
>>228
「当時の」時代考証ではね
232:人間七七四年
09/10/18 19:04:39 0Ufe+kaF
銃の打ち方ですが
穴掘ってそこから顔出して打ったり
穴がないときは寝っ転がって打った方が敵の弾が当たりにくいと思います
なんで戦国時代の人はしゃがんだ状態で射撃していたのでしょうか?
233:人間七七四年
09/10/18 19:10:45 vObiI8Tp
>>232
腰に力が入らない、
寝ていては次の弾が込められない、
敵が迫ってるのに寝転がっていてはならない。
城攻めでは塹壕みたいなのを掘って撃っていたらしい。
234:人間七七四年
09/10/18 19:12:06 qJ8bat5+
>>232
> なんで戦国時代の人はしゃがんだ状態で射撃していたのでしょうか?
しゃがんで撃つ時はしゃがんで撃っても大丈夫な遮蔽物があったから。
つーか戦国後期の合戦なんて殆ど塹壕戦だぞ。
235:人間七七四年
09/10/18 20:02:22 hCm+IEHZ
横からすみませんが
どういう塹壕戦だったのか詳しく教えていただけますか?
236:人間七七四年
09/10/18 20:52:17 BYZMInlV
竹束立てたり、文字どおり普通の塹壕を掘ったりしてたらしい。
いわゆる仕寄りもそれか。
237:人間七七四年
09/10/18 22:32:48 0Ufe+kaF
ありがとうございます
ってことは映画とかでよくみる
寝っ転がって打っているシーンは
フィクションだからできる状態なわけですね。
そういえば殺陣で刀を軽々振り回す時代劇も多いですよね
238:人間七七四年
09/10/18 22:34:03 dN9mYqVc
戦国時代の映画で寝転がって撃つのは無いだろ
239:人間七七四年
09/10/18 23:46:24 Tw2mHDFI
関ヶ原で島津隊が1500程度というのはどこからの出典なのでしょうか(日本戦史除く)
どうも石田三成書状や合戦記を見ると3000~5000程いたような気もするのですが
240:人間七七四年
09/10/19 05:36:15 bEUlaeBr
よくわかんないけど、関ヶ原本戦に参加した総数や
有名大名の率いた数すら誇張や憶測が入ってるから
はっきりした数字はわからんのではないだろうか
基本的にあの手のでかい合戦の兵数は大目に書くものだしね
241:人間七七四年
09/10/19 12:53:45 q+k/ML9Z
>>239
「惟新公関原合戦記」
「惟新公御自記 」 (両方共島津家史料集に)
たまたま義弘がわずかな兵を連れて上洛した時、伏見城の戦いが起こった。
そのとき東軍に付くつもりで伏見城に入ろうとするが拒否される。
その後三成に誘われ、島津忠久、新納旅庵を加え1000で伏見城を攻撃する。
大戦の様相を呈して来たため、本国に増援を要請するも断られるが、
義弘を慕う、阿多長寿院盛淳・山田有栄らが到着して1500になった。
242:人間七七四年
09/10/19 13:55:04 HBluiBgl
質問です。
転封先の城に入ったところ奥方が「化け物(?)が出る」と怖がった・・・・
という逸話は佐竹義宣のものだったでしょうか。
ご存知の方教えてください。
243:人間七七四年
09/10/19 14:34:35 3i5LoC2N
>>242
秀吉にも攻め落とした城でそんな話が・・・
某に逆らうと成仏できんようになると町に噂まで流して楽しんでる
244:人間七七四年
09/10/19 15:06:02 q+k/ML9Z
姫路城にもあったね
木下家定の時、宮本武蔵が妖怪退治をして、名刀「郷義弘」を授かったとか
245:人間七七四年
09/10/19 16:04:51 a4JG0ZnG
鳥取城にもそんな話が。
学校七不思議に近いはなしだわな。
246:人間七七四年
09/10/19 17:23:59 h6Oel9of
>>241
「島津家史料集」を読んだけどそういう話は無かった
数字が表記してあったのは
「自記」には味方が負けた時に旗本は200~300騎しかいなかったとか、
「合戦記」に伊集院の謀反で在地が多く、伏見の際には200余だったとか、9月14日に豊久と物見に380人で行く
という程度
後は島津家古文書に義弘が忠恒に7000人の派遣を求め、その内半分を急いで寄越すように言った書状があった
(8月19日)
因みに合戦記で一番多い兵数は3000人だった
247:人間七七四年
09/10/19 17:25:31 h6Oel9of
>>246
>因みに合戦記で一番多い兵数は3000人だった
を修正
因みに合戦記に一番記述が多かった兵数は3000人だった
248:人間七七四年
09/10/19 21:11:30 unYUjUzr
>>242
佐竹義宣の弟・蘆名義勝のエピソードだと思う。
最初は小松山の中腹に住んだが、夫人が城の中で妖怪を見たと怯えたので麓へ引っ越した。
249:人間七七四年
09/10/19 21:20:41 h6Oel9of
>>246
自己解決しました
250:人間七七四年
09/10/19 22:19:17 a4JG0ZnG
まあ戦国期の山城はあくまで戦時の「要害」であって、普段は平野部の屋敷に住むのは
普通のことだけどな。
251:人間七七四年
09/10/20 07:43:54 K4r+oNLU
>>238
映画ではないが大河ドラマにそういった場面があった。
「葵・徳川三代」の関ヶ原で島津が中央突破した後、瀕死の鉄砲足軽がうつ伏せのままで射撃。
勝鬨をあげようとした松平忠吉の肩に命中させたというもの。
252:人間七七四年
09/10/20 10:34:15 MvQOQF3R
>>251
「映像的演出」だな。
当時うつぶせ討ちが完全になかったと言い切ることも出来ないが、一般的には近代になってからだ。
253:人間七七四年
09/10/20 10:34:50 zS1Ydn35
一矢を報いただけなんじゃ?
254:人間七七四年
09/10/20 10:42:45 O4ZA/HPT
戦国時代の武士は苗字なんてのは、なんとでも名乗れたのでしょうか?
255:人間七七四年
09/10/20 11:41:23 3MEPjaNs
苗字は江戸初期からで、戦国までは名字。
名字:平安末期から鎌倉の武士が、自分の所有地(名田)を名乗った。
土地を持たない下級武士は名前しか名乗れなかったが、
出身地やそこの通称を使うことが一般化した。
戦国時代は名字は自分の所属する「家」をあらわすものとなり、
転封や国替えなどが度々起こるようになると、
土地から武士を切り離すための政策として「苗」が使われるようになった。
とうわけで、下級武士ならなんとでも
ちなみに信長は「織田上総介平信長」、織田が名字、平は姓(出身)
256:人間七七四年
09/10/20 13:53:25 MvQOQF3R
まあ下級武士もだいたいは在地を名字にするな。
257:人間七七四年
09/10/20 14:07:32 iOWvHqD6
名家を名字にするとかはないの
258:人間七七四年
09/10/20 15:02:51 3MEPjaNs
>>257
主人が許さない。
証拠になるものがあればいい(伝来の家系図とか先祖の書付とか)
259:人間七七四年
09/10/20 18:11:32 HnIDwfdJ
秀吉家臣で高木守兼(守之とも。美濃高須城主)という人物がいるのですが
この人は、同じく美濃を勢力の基盤とした
高木貞久・差利・貞俊・貞友らの高木一族と同族でしょうか?
もしくは上記の高木一族の誰かと事績が被っているということはあるでしょうか?
詳しい人教えて下さい。
260:人間七七四年
09/10/21 12:17:07 k6FHlNtf
盛兼な。
本人の詳しいことは判らないが、貞久らの高木一族とは無関係だろうと。
理由は、関が原後、盛兼と親族は改易され鳥取に流されそこで没。
貞久らは旗本として美濃に一族で住み、代々川奉行を務めている。
261:人間七七四年
09/10/21 22:55:12 70djrpfm
>>260
すみません、盛兼ですね。
でも、盛兼は西軍、貞久一族は東軍なので
そういう処置になるのは当然かと・・・
一族で東西軍に分かれて命脈を保った例は多いですし・・・
同じ美濃で姓も同じだから、もしかして何かの血縁関係があったのかなあ、とか思ったんですが
262:人間七七四年
09/10/22 00:38:29 zmW7oBwt
上杉謙信と青苧について調べてみたんですが、ほとんどが
「「越後では青苧(あおそ)が日本一の産地であったと言う。
青苧とは植物の一種でカラムシとも呼ばれ
茎の皮から衣類、紙、さらには漁網にまで利用できる繊維をもっていた。
謙信はこの青苧に目をつけ、衣類の原料として海路をつかって
京の都などで販売し、莫大な利益を上げていた。
敵国の領土を奪う事なく数々の戦が出来たのも
こうして得た莫大な金があったからである。」」
と書いてあるだけです。具体的な疑問をあげると
謙信以前に青苧は主要な資金源では無かったのか
為景の時代に比べどの程度利益が上がったのか
莫大な利益とはどの位なのか
何時からこれを根拠に謙信の経済政策が見直され始めたのか
金や銀の産出国、畿内の経済力と相対的にみた越後の経済力
例えば甲州金は下記のサイトがありますが
URLリンク(blogs.yahoo.co.jp)
同じように実際どうだったか解らないなりに
疑問を呈して考察してるようなサイトはありませんか?
263:人間七七四年
09/10/22 01:02:22 9rOyQ2b0
>>262
越後の青苧座が独自のものとして成立したのは、為景のころ。
それまでは三条西家が支配していた青苧座を否定して、御用商人の蔵田五郎佐衛門に独占させた。
それまでの青苧に掛けられていた通行税が一駄(一つの荷車に対してかな?)に20文と高額だったらしいから、
多少割り引いても相当の利益が長尾・蔵田両氏に集まったと思う。
URLリンク(proto.harisen.jp)
URLリンク(ja.wikipedia.org)
264:人間七七四年
09/10/22 01:13:20 jPD57uc6
一駄だと馬の背中だと思う
駄馬、荷駄の駄
265:人間七七四年
09/10/22 11:36:35 EzSCeeQX
>>261
高須城が落城する時、親類である「高木正家」のところに逃げた、とあるが、
この正家の名が「貞久」らの高木一族の系図(東家・西家・北家)の中に無いんだよ。
266:人間七七四年
09/10/22 13:31:47 ZKBrn8R/
>>265
詳しくどうも。なるほど、じゃあ繋がりは薄いかもですね。ありがとうございました。
267:人間七七四年
09/10/23 02:47:33 IJITKmmG
URLリンク(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp)
↑リンク先「Yahoo知恵袋」に書いてありますが、掲載されている人物の生没年について
ウィキペディア以外のソースがあれば、教えて下さい。(知恵袋での回答でも結構です)
1・後藤高治の生まれ年
2・糟屋武則の生没年
3・津田信澄が1555年に生まれたとする説
4・伊勢貞興の生まれ年
5・小川祐忠の生没年
6・氏家行継の生まれ年
7・荒木氏綱の生没年
8・九鬼澄隆の没年
9・筒井順国の生没年
10・高山友照の没年齢(生まれ年)
11・武田元明の没年齢(生まれ年)
12・波多野秀治の没年齢(生まれ年)
268:人間七七四年
09/10/23 20:45:34 SpYdOryN
戦国時代の女性の名字はどうなってましたか?
この時代も夫婦別姓などいってる人がおりますが
秀吉の正妻は豊臣秀子と正式の名前で残っており
こんなのは例外中の例外として無視ですか?
269:人間七七四年
09/10/23 21:01:54 XXMVpJ23
>>268
苗字は基本的に父親のものを継承する。
ちなみに豊臣は苗字でなく、姓。
270:人間七七四年
09/10/23 21:03:46 XXMVpJ23
この時代の武家は夫婦別姓でよい。
家と家の橋渡し的な役割を持つから。
今の家族とは状況が違うね。
271:人間七七四年
09/10/23 21:36:00 EVGOtl2C
>>268
苗字と姓と氏の違いを認識するところから始めてはどうか?
272:人間七七四年
09/10/23 21:44:18 YPabc/3b
ちなみに「豊臣」は恩賜の新姓として創設されたものなので、かなり特殊な例。
273:人間七七四年
09/10/23 22:18:08 cPbR3gps
豊臣は五摂家じゃないのに摂関家なんだっけ?
それとも養子として関白なんだっけ?
もしかして秀吉は近衛とか名乗ったことがある?
274:人間七七四年
09/10/23 22:23:16 YPabc/3b
>>273
秀吉は関白になったときは、近衛前久の養子の「近衛秀吉」として就任した。
その後豊臣姓の下賜を受けて、豊臣が「新摂家」となった。
275:人間七七四年
09/10/24 04:46:08 OvEG+zcx
上杉謙信の衆道相手として著名な人物には、どんな人々が居るのでしょうか?
公卿・武家・僧侶を問わずリストアップして教えて下さいましな。
276:人間七七四年
09/10/24 10:58:09 jBZpowZD
>>275
夏目なんとかいう小姓がいたのと、あと有名なところでは
茶目伯耆守というのがいた。ただし実在しない人物。
んでもってもう一人実在する人物として相模出身で謙信の養子となった
氏康の子がいる。でも彼が謙信の衆道に関わったとする記録はない。
ねんごろにされた武将というのは他には特にありません。
スレリンク(nhkdrama板)
277:人間七七四年
09/10/24 15:40:05 NTqM8DVi
戦国時代の野戦というのはどのような場所で発生したのでしょうか。
やはり、街道上で発生することが多かったのでしょうか。軍勢が行き違いになるようなことはなかったのでしょうか。
また、対陣するという表現がしばしば見られますが、具体的にどういう状況なのでしょうか。
両軍が射程外で展開して睨み合っているのでしょうか。
あと、兵站についてなのですが、荷駄隊はリアルタイムに補給線を往復するのではなく、必要な兵糧を持参して常に随行していたのでしょうか。
最後に、こうした当時の合戦の形態については、どのような史料に基づいて研究がなされているのでしょう?
ある合戦について詳細に明らかにしたいなら、着到状や感状以外に、どのような史料を捜し求めればいいでしょうか。
278:人間七七四年
09/10/24 16:05:49 JVvN8p+V
大歩危小歩危とか親不知とか難所で迎撃したら
それはそれで面白そうだがw
279:人間七七四年
09/10/24 17:57:23 IyYDo8TE
>>277
URLリンク(ja.wikipedia.org)
これを作成した時に調べた範疇で答えます
最初の質問については基本的にその通りで街道近くで行われます。また一般的に物見(偵察)を頻繁に行いますので、
行き違いは双方ともに偵察をしないという阿呆か、濃霧などの特殊気象条件下以外ではありえません。
対陣は例えば赤坂と大垣の対陣では双方とも柵を造って400~600メートルで睨み合ったといいます。射程外といえるでしょう。
兵站は移動中は常に随伴し、対陣になったら後方からユソウスルトいう形になると思います。
足軽の戦い方については雑兵物語が基本的な史料になります。後は合戦記や軍学書を読み集めて、イメージのすり合わせを
行います。近世の大名が作成した陣立書も参考になります。
因みにそこら辺は私の研究内容と被りますがね「備」とか
280:人間七七四年
09/10/24 18:06:23 NTqM8DVi
>>279
わかり易い回答をありがとうございます。
荷駄は補給線を形成することもあるのですね。
雑兵物語は岩波のものがあるので、他の書籍資料についてこれから考えてみることにします。
281:人間七七四年
09/10/24 18:35:25 IyYDo8TE
追記
近書として「日本の軍事革命」という本をお勧めします
282:人間七七四年
09/10/25 03:22:40 fpIuELQg
城址にしばしば神社が建っていますが、何故なのでしょうか。
283:人間七七四年
09/10/25 03:34:43 9FryTaYt
一概にこうとは言えないなあ。
もともと城中に神社が建てられていた場合もあるし、逆にもと社があった場所に後から城が建てられたということも。
284:人間七七四年
09/10/25 06:19:31 v4+i2m1w
お市の方や淀殿は美人だったと言われますが、現代人が見ても美人だったのでしょうか?
285:人間七七四年
09/10/25 08:48:52 rpE1nJor
>>284
肖像画から判断してください。
286:人間七七四年
09/10/25 10:43:52 YAGu32KS
肖像画は、当時の描き方とかあったりするからな参考にならないかもね。
写実主義じゃないし。
それに生きているときに描かれた物は少ないんじゃないかな。
たいてい何回忌とかに描かせてお寺に奉納とか。
江戸時代や現代に描かれた絵がテレビやウィキペディアで肖像画として
扱われたりもする。宇喜多秀家とかね。
287:人間七七四年
09/10/25 11:10:21 oICP9TT8
否定のための否定なら他所でやってください
288:人間七七四年
09/10/25 11:13:00 Wa3iWJyV
風俗を研究した本によると
能面の変化や当時書かれた絵でだいたいの美人の基準が分かるのだそうだ。
それによると、戦国美人は
・ほっそりしたアゴで切れ長の二重の目ぱっちり型、という(そうだ)
289:人間七七四年
09/10/25 11:56:07 Ujrm56zx
絵画資料は少し慣れれば、だいたいいつ頃書かれたものか簡単にわかるよな。
290:人間七七四年
09/10/25 22:17:04 fpIuELQg
当時の武士の手による日記のような、日常の伺える史料はないのでしょうか。
現代語訳か書き下してあるものが出版されていたら併記して頂けると助かります。
291:人間七七四年
09/10/25 22:37:44 rWYOyY/7
上井覚兼…大日本古記録
URLリンク(www.hi.u-tokyo.ac.jp)
のデータベースで閲覧可能
松平家忠…続史料大成
一部未収録品は
URLリンク(kindai.ndl.go.jp)
で閲覧可能
292:人間七七四年
09/10/25 22:59:54 fpIuELQg
>>283
>>291
回答ありがとうございます。
293:人間七七四年
09/10/26 14:11:09 xkAAUrcq
実子が幼少でも病弱でもなく生存しているのに養子が家督を相続した例ってありますか?
294:人間七七四年
09/10/26 18:15:16 mpUr/cPi
信長が乗っ取った北畠とか、なんぼでもあるかと。
295:人間七七四年
09/10/26 21:36:23 i2o9qqlE
歴史に詳しくなるにはどうすればいい?
296:人間七七四年
09/10/26 21:40:51 0zYZM9eD
>>295
好きなところから調べるといいんじゃないかな。
どのレベルを目指しているの?
297:人間七七四年
09/10/26 22:09:02 i2o9qqlE
ぷらっとさんレベル
どうやってしらべるの?
298:人間七七四年
09/10/26 22:14:01 0zYZM9eD
それならぷらっとさんに直接聞きにいけ。俺は彼がどれほど詳しいか知らない。
299:人間七七四年
09/10/26 22:36:01 mpUr/cPi
先ず好きな時代好きな歴史上の人物の一つくらいはあるだろうから、大き目の図書館に行って
その時代、人物について書かれた歴史書をとりあえず一冊読め。
で、興味を持った事や疑問点などが生まれたら、またそれについての本を探して読め。
それを1年くらい繰り返せばある程度歴史に詳しくなるさ。
300:人間七七四年
09/10/26 22:45:18 i2o9qqlE
ありがとう
301:人間七七四年
09/10/27 06:41:12 pnWPmw1V
家の近くに城跡があるのですが、そこは山を削っただけで10メートル四方くらいしかありません。
その周りは溝程度の堀があるくらい。
それって本当に城跡なのでしょうか?
かつてはそこに立派な建物があって殿様がいたのでしょうか?
302:人間七七四年
09/10/27 06:45:12 d2UpbAgI
10Mじゃあ城どころか砦でもなさげ
狼煙台とかじゃない?←適当
303:人間七七四年
09/10/27 12:26:41 RuBOY2P5
城址といっても色々あるからねぇ
城の名前を示す看板とかがあるならその名前を晒して欲しいが
304:人間七七四年
09/10/27 14:33:22 3JnXBDCH
城とはいっても95%は砦だから。
俺の町の近くにも城山(小高い丘)があるが、当時そこは普段は城主はいなくて、
戦になりそうになると丞主を派遣して、情勢を探らせた。
(付城とか出城とかという)
ちょっとした高台は狼煙台か見張り櫓だったそうだ。
305:人間七七四年
09/10/27 14:47:53 NYbZwPC0
小高い丘を柵で囲んだ程度でも城といってたからね
306:人間七七四年
09/10/27 14:55:27 Uucmbfzs
■■織田信成が織田信長の子孫って本当?■■
1 :氷上の名無しさん@実況厳禁:2009/08/29(土) 17:48:08 ID:Du7ELlvd0
めちゃくちゃ胡散臭いんだけど
だいたい何百年も前の人間の子孫だってどうやって証明するんだよ
家系図もいくらでも捏造できるし、織田という苗字だっていくらでもいるし
その苗字も後で名乗ったものかもしれないしな
天皇家や徳川家なら時代が近い分まだ信用できるけどな
織田家なんてちゃんと存続してるかどうかも怪しいってのに
あと親戚中『信~』って名前をつけるとか
いやらしいにもほどがあるw
本人達もことあるごとに『織田の子孫』って自慢するし
どんだけ面の皮が厚いんだか
俺には詐欺師にしか見えない
皇族の名をかたる詐欺師によく似てるわ
スレリンク(skate板)
307:人間七七四年
09/10/27 15:26:31 d2UpbAgI
信成の家は所謂ソーケ
308:人間七七四年
09/10/27 16:09:00 khcWuOvo
>>305
それどころか、戦国初期くらいまでは、特に畿内では普通の屋敷に櫓を上げただけで「城」と呼んでた。
309:人間七七四年
09/10/27 17:08:05 GSaucFZL
関ヶ原で東軍だった大名と西軍の大名との間に
その後手紙のやり取り等はありましたか?(親子・兄弟は除く)
同じく、大阪の役で徳川方・豊臣方にあった大名同士で
江戸時代以降に交流はあったんでしょうか?
310:人間七七四年
09/10/27 17:38:14 khcWuOvo
>>309
関ヶ原では何ぼでも。
例えば元東軍の細川忠興と、元西軍の立花宗茂や島津家久とは友達付き合いしているし、
伊達政宗も領地の近い元西軍の丹羽長重あたりと交流が深い。
あと、大阪の陣の豊臣方に「大名」なんていない。
兵卒として大阪方に参加した連中ならいろいろ。
311:人間七七四年
09/10/27 17:42:51 RTYtEVlv
>>309
毛利輝元と黒田如水とか
敗戦処理を任せられた大名なんかも多いから
西と東に別れたから一切交流が無くなるなんてことはまずない
312:人間七七四年
09/10/27 18:57:29 45Z1c4fI
最近の戦国物の読本に「伊達政宗に外国人の側室が~」という記述が見かけるようになったんだが、
これってソースあるんですか? しかも内一人はスペイン系だとも。
急に現れた説(自分が見かけなかっただけか?)なのでちょっと気になりました。
313:人間七七四年
09/10/27 19:25:58 V/6Se9RQ
>>312
山岡荘八の小説じゃないかな
314:人間七七四年
09/10/27 20:34:14 4ILml1Qp
架空キャラだよ
315:人間七七四年
09/10/27 21:56:05 n04+qwjg
312を見ていると諏訪御寮人の架空の名前である湖衣姫や由布姫も、
へー、そんな名前なんだ~、なんて思っていそうで少し怖い
316:人間七七四年
09/10/27 22:02:30 RuBOY2P5
名前といえば、黒田如水の妻の名はl幸園でいいのでしょうか。
たしか歌会の署名が唯一の手がかりなんですよね?
317:人間七七四年
09/10/28 00:56:38 uRcI/ksK
>>263
遅くなってすみません、ありがとうございました。
318:人間七七四年
09/10/28 02:04:56 IlX4Tek6
信長の側室といわれる「生駒吉乃」も、武功夜話の創作。架空の人物。
319:人間七七四年
09/10/28 08:35:14 +1//xfbw
武功夜記の発見が信長大河撮影の機運を盛り上げた功績はでかい。
バブル期の財力で戦闘など圧倒的迫力の名作大河。
しかし真面目に考証したために室内シーンがやたら暗くて、視聴者から室内シーンが暗すぎて見づらいから明るくしろ!と大ブーイング。
信長の父死後辺りから室内がやたら明るくなってしまう改悪がなされた。
320:人間七七四年
09/10/28 08:52:38 a/+388S3
光秀の継室といわれる妻木煕子も、「美濃国諸旧記」の創作。架空の人物。
321:人間七七四年
09/10/28 11:55:55 7UoHQ9mU
>>318
ハイハイ、信忠は木の股から生まれたのですか、そうですか
322:人間七七四年
09/10/28 12:26:03 IlX4Tek6
>>321
信忠の生母が生駒氏なんて、もうカビの生えた説だろ。
323:人間七七四年
09/10/28 12:33:52 7UoHQ9mU
なんなのこれ?
ID:IlX4Tek6
>信長の側室といわれる「生駒吉乃」も、武功夜話の創作。架空の人物。
>信忠の生母が生駒氏なんて、もうカビの生えた説だろ
324:人間七七四年
09/10/28 14:36:16 IlX4Tek6
>>323
生駒「吉乃」と言う人物が架空だと言っている事が、キミにはわからないのかい?
325:人間七七四年
09/10/28 17:21:35 NKtpDD7O
屁理屈こねこね
326:人間七七四年
09/10/28 17:43:41 weceUNpT
上杉謙信てどこら辺が軍神だったでしょうか?
327:人間七七四年
09/10/28 17:47:24 a/+388S3
本当に軍神なら簡単に信玄や信長を倒せて天下を取れてるよ
328:人間七七四年
09/10/28 19:03:01 b0FwqN0d
なんで最上厨はスレをむやみにageるの?
329:人間七七四年
09/10/28 22:11:25 38HvLEt9
>>324
架空なのは名前だろ
人物そのものを抹殺すんなよ
330:人間七七四年
09/10/29 13:50:39 4igCUbdy
【もし堀北真希が足利将軍だったら】
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/01(金) 13:06:03 ID:4eQuzdZe
天下は揺るぎなく治まっていたな
スレリンク(sengoku板)
【もしも綾瀬はるかに将軍宣下がくだったら】
1 :幸松:2009/06/09(火) 13:23:13 ID:pDEWwAmF
以下の家訓を残し、子々孫々まで将軍家に忠節を誓います。
大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず
スレリンク(sengoku板)
【もしも新垣結衣に将軍宣下がくだったら 】
1 :外様大名:2009/10/26(月) 13:16:20 ID:Wuwho10l
当家としては、どうすればいいであろうか?
スレリンク(sengoku板)
331:人間七七四年
09/10/30 22:29:25 MMEh4LKt
戦国時代の正室は絶対に1人だったのですか?
2人以上いた例ってのはないのですか?
332:人間七七四年
09/10/30 22:43:15 PcM/kFvS
>>331
正妻が死んだり離婚したりして、複数の女性が正妻の地位に付く、と言うことはあるが、
同時に二人の正妻がいると言う事はありえない。
333:人間七七四年
09/10/30 22:44:07 fZnuJ+p/
>326
最近でも70戦43勝2敗25引き分け、
昔は100戦無敗と言われていた。
そして自ら先陣に立ち、正々堂々と敵と向き合い、
臨機応変に作戦を変え指揮をする…
正に軍神!
334:人間七七四年
09/10/30 22:56:46 PUDwJ5cd
>>333
その戦歴は新潟の神主独自の計算だよ。
俗説に惑わされてはダメ。
謙信が軍神と呼ばれ始めたのは、
童門が毘沙門への逸話を捻じ曲げて伝えたり、光栄のゲームで最強キャラになってから。
軍神ではないが、日本無双の大将と信玄が絶賛したのは事実。
ま、本当に最強クラスの武将ではあったんだろう。
335:人間七七四年
09/10/31 07:39:21 +fdkOskL
ぷらっと(笑)
血統厨房はペット板にでも行ってろ
336:人間七七四年
09/10/31 08:00:47 AI8oV5DA
信玄は九州には鎮西一と呼ばれる道雪という大将がいるから会ってみたいと言ったとか。
毛利の使いが謙信にあった時にあなたが噂の大天狗の謙信公かと絶賛したとか。
京で上杉武田が最強だと言われていたとか。
337:人間七七四年
09/10/31 09:18:00 A/MwgRe4
武将が奉られているところの寺社の宗派と武将本人の宗派は同じでしょうか
338:人間七七四年
09/10/31 09:48:53 IV8STaEP
疑問というか質問なんですが。
最近そこかしこで書き込みが見られる
「一つの地域に展開できる兵員の数は三万が限度。何故なら糞尿の処理が~」
という説を論じている学者かその論文を読んでみたいのですが、オススメの本とかありますかね?
339:人間七七四年
09/10/31 10:00:04 AI8oV5DA
糞尿問題は、論文じゃないが、たしか吉永正春が筑前戦国史2500円&筑前立花城興亡史1600円などに書いてたな。
あっでも毛利4万と大友3万の大軍だから兵数が合わないから違うか。
340:人間七七四年
09/10/31 11:13:13 4MECqVTj
>>338
バート・S・ホール「火器の誕生とヨーロッパの戦争」かと。
341:人間七七四年
09/10/31 15:26:46 lNbqPkYL
城や寺を建築するのに大工のほかに農民も動員されると思うのですが
給料は現金なんでしょうか?
342:人間七七四年
09/10/31 15:31:33 4MECqVTj
>>341
課役として動員された場合は基本的には無給。
そうでなく人夫として雇われた場合は当然賃金が出る。
343:人間七七四年
09/10/31 23:02:25 VePAiJK9
三好三人衆のひとり・三好政康について質問です。
三好政康について、畿内で織田信長に敗れたのち、大坂の陣に豊臣方で戦って
戦死したという記事をネットなどで見かけますが、その出典ってわかりますか?
『戦国三好一族』『国史大辞典』など研究者の文章では行方不明とする記載が
見られるほか、フロイス『日本史』では「奇禍にあって悲惨な死」を遂げたとも
書かれているそうで、信長に敗れた後の動向については触れられていないことが
多いので、質問しました。
344:人間七七四年
09/11/01 19:51:20 Y3Kd6tiY
信長には愛妾が3000人いましたが
秀吉にはどのくらいいたのでしょうか?
345:人間七七四年
09/11/01 20:15:58 egsGyAnf
>>344
日本の女子全員です
346:人間七七四年
09/11/02 02:24:42 3Jw6b48v
「○○左衛門」は「○○左(ざ)」という略称で呼ばれていたそうですが
「○○右衛門」の略称って何ですか?「○○右衛(え)」?
略称通称に詳しい方、昔の名前のよくある略し方教えてください
エリザベスならベス、セバスチャンならセバス、みたいな
347:人間七七四年
09/11/02 05:00:26 0hMSDYfo
>>346
キムタクみたいに、
黒田官兵衛は黒官。
こういう略し方がされていた。
348:人間七七四年
09/11/02 05:03:41 0hMSDYfo
犬千代丸→犬千代
弥七郎→弥七
新左衛門→新左
平八郎→八郎
こんな例もある。
349:人間七七四年
09/11/02 08:57:14 3Jw6b48v
おおお
ありがとうございます!
参考になりました。
で、肝心の「○○右衛門」はどのような愛称があったかご存じの方いますか?
五右衛門とか新右衛門とか伊右衛門とか
350:人間七七四年
09/11/02 09:00:19 UaqSJ1nA
「右衛門」は基本「右」を略して「えもん」とだけ読まれるので、
特に愛称、略称は無い。
351:人間七七四年
09/11/02 09:07:10 UaqSJ1nA
なので「えもん」自体が略称といえる
352:人間七七四年
09/11/02 09:12:57 wuGakYOJ
ドラえもんって名前が
なぜかやたら親しみやすい理由がわかった
353:人間七七四年
09/11/02 12:29:42 3Jw6b48v
へえ、そうなんですね。
じゃあ五右衛門を「ごえ」と呼んだり新右衛門を「しんえ」と呼んだりはしなかった訳ですか
354:人間七七四年
09/11/02 12:44:04 UaqSJ1nA
>>353
少なくとも文章の中でそう言う略しかたはしない。「クロカン」でもわかるように、通常右衛門に限らず、
略する場合は姓と名を縮める。
例えば五右衛門を「石川五右衛門」であるとすれば、略すときは「石五」と言う風にするし、
新右衛門が「蜷川新右衛門」であるとすれば、略は「蜷新」となる。
こういった人が、親しい人間から「ゴエさん」とか「新さん」とか呼ばれた、と言うことはありうるが、
そのあたりはもう、想像の分野になる。
355:人間七七四年
09/11/02 20:51:16 0iz08NZs
甲斐武田家=騎馬軍団というのは誤ったイメージであることは有名ですが、
だとしたらこのイメージは誰あるいはどの文献によって広まったものなのでしょうか?
356:人間七七四年
09/11/02 21:23:39 Jg3H6JRK
>>355
とこらが、やはり武田が騎馬隊を駆使していたのは事実ではという説も注目されつつある。
桐野の「検証・武田騎馬軍団不在説」を探して読むとよい。
信長公記、甲陽軍鑑、絵画史料などに武田の騎馬隊の姿が浮き彫りにされている。
357:人間七七四年
09/11/03 12:44:00 Fpayh+DL
>>354
片倉景綱も「かた十」って自称してたりしてますね。
>>355
馬の産地が東国に多かったのが由来、という説もあり。
358:人間七七四年
09/11/03 16:39:43 JELHXdkO
>>355
文献じゃなく映像じゃないか?
映画やドラマでの迫力を出すための誇張表現を額面通りに受け取っただけの人も多いような。
359:人間七七四年
09/11/04 21:23:31 jNFplyI2
>>357
武田より北条の方が馬を多用した、ってのも文献あるんだよな。
板東武者の伝統だろうが。
360:人間七七四年
09/11/04 22:18:42 z3zV7Z9K
>>359
文献と言うか軍役帳だな。関東の戦は馬を大量に投入している。
武田家でも、いわゆる「騎馬軍団」を担ったのは、武田に亡命した上野出身の
小幡信貞であったと言われている。
361:人間七七四年
09/11/04 22:38:17 rkUO73ug
戦国時代のセックスのやり方を赤裸々に書いた記録とかはないの?
362:人間七七四年
09/11/04 22:49:14 HIHIVbTA
秀次切腹の時
関係無い人が
お供しようとか言って
切腹したそうですが誰ですか
363:人間七七四年
09/11/05 21:51:37 nrQxioXq
>>361
みんなだいすき松永弾正が指南書のこしてなかったっけ
364:人間七七四年
09/11/06 20:30:20 yJLglxnj
「黄素妙論」だな。
ただこれは古典に属する本だから戦国時代のセックスと言えるかどうかは微妙かと。
確かに具体的に書いてあったりするけどなー。
365:人間七七四年
09/11/06 21:30:48 migtKY0a
フェラの仕方まで書いてある?
366:人間七七四年
09/11/07 12:06:35 aC9bTdUr
>>365
うんにゃ
男主体のものだから
ただし前戯から事細かく
ピストンも女の表情・反応にあわせて角度、深さまで懇切丁寧。
367:人間七七四年
09/11/09 01:29:27 0QJK0ze4
譜代と寄騎と母衣衆の違いを教えてください
あと子飼いの兵は一門衆と見られていたのですか?
368:人間七七四年
09/11/09 01:52:10 Wg/aIyqk
>>367
譜代は家中の中のポジション。
寄騎は同盟者から派遣された兵、もしくは君主が将につける兵の事
母衣衆は君主の親衛隊(旗本)のうち、特別に武勇に優れたとされたものたちへの名誉称号
子飼いと一門は意味合いとしてもかけ離れている。
例えば前田利家は信長の子飼いだが、彼は一門でもなんでもない。
つーかこんなの、辞書でもWikiでも見て調べたほうが早いだろ
369:人間七七四年
09/11/09 16:33:40 fFKoa0Gh
別に戦国時代だけでなく、平安後期から江戸時代にまで被る質問なんですが。
武士に与えられた知行ってどんな単位で与えられたんでしょう?
古代の制度に倣って郡や郷という単位ですか? それとも全然別な単位が用いられたんで
しょうか? また、その区切(知行ごとの区画)を調べるにはどういう資料を漁れば良いでしょうか?
あと、例えば戦国大名は勿論自身が直接統治する領地を幾つも持っていたと思うのですが、
こういう直領と家臣等の領地の割合ってどのくらいだったのでしょうか?
領国の半分が直領だったりする大名もあったのですか? それともほとんどは家臣に与えられ
てたのでしょうか?
370:人間七七四年
09/11/09 17:39:45 tP+aZlWP
戦国~江戸だと貫高制・石高制が主流。
田畑の単位面積に対し、どれだけの収穫高を見込めるか算出する方法。
石高制で言えば0.1ha(1反)の田から150kgの米(150kg)が収穫が見込めるって考え方。
つまり知行は農地面積を単位として宛がわれる。
実際の収入は石高×税率(50%で五公五民とか40%で四公六民とか言われる)で求められる。
知行高百石で五公五民なら、米50石の年収ってこと。
貫高制は単位面積当たりの生産量を金銭に換算するだけでほぼ一緒。
調べるなら知行宛行状とかで調べれば出てくると思うよ、戦国なら小田原衆所領役帳がガチ
371:人間七七四年
09/11/09 17:42:00 tP+aZlWP
あと直轄領に関してはピンキリすぎてなあ。
たとえば、
関ヶ原後の最上義光なんかは57万石で取り分が五千石しかないし、
関ヶ原直前の島津家56万石のうち、は義久・義弘・家久+浮地で25万石(うち22万石ほどは無役)相当は島津家としての取り分。
372:人間七七四年
09/11/09 18:11:46 Wg/aIyqk
知行に関しては、数石~数十石程度の小知であれば、実際に領地をもらうわけではなく
君主の蔵米からの給付と言う形。
で、実際に統治を任せられる「領主」となる場合は、戦国時代なら村落単位、室町までなら荘園単位で
与えられる。
373:人間七七四年
09/11/10 14:33:51 KusM1lWW
北条って、知行は細切れみたいにして一箇所に集中して与えるようなことはしてないんじゃなかったっけ
374:人間七七四年
09/11/10 17:54:39 JRW2rGsg
北条はもう、貫高制を確立させたあたりで、領地支配は小田原からの代官がやって、
支配下の武士は実態としてサラリーマンと化していた。
375:人間七七四年
09/11/10 18:01:25 VlMQevDR
領主権の否定って奴だね。
武士のサラリーマン化は江戸時代の特徴みたいによく言われるけど
376:人間七七四年
09/11/10 19:47:16 nBNS8tm0
よくいえば最先端すぎ、悪くいえば独善的すぎて、周辺領主が激しく抵抗したんだよな。
377:人間七七四年
09/11/10 20:04:01 VlMQevDR
それは違う。
他国衆の自治権はおかしてない。
378:人間七七四年
09/11/10 20:13:17 JRW2rGsg
>>377
他国衆に関しては北条の血を引くものを当主に据えることにより、徐々に「北条システム」の中に
組み込んでいくやり方ですな。
379:人間七七四年
09/11/10 20:19:30 nBNS8tm0
>>377
奪い取った伊豆相模を本国と呼ぶことが反発を呼ばないはずがない。
380:人間七七四年
09/11/10 20:22:47 JRW2rGsg
>>379
趣旨が変わってる。
君は北条を批判したいだけだろ。
381:人間七七四年
09/11/10 20:37:47 nBNS8tm0
>>380
批判的に見えたなら謝るけど、本国とされる伊豆相模は最先端の細切り知行システムを実施してるわけだよね。
それを他国に適応できなかったことを「周辺領主が激しく抵抗した」と表現したかったんだよ。
紛らわしくてすまん。
382:人間七七四年
09/11/10 20:54:58 JRW2rGsg
>>381
いや、適応してます。先にも言ったように北条の統治システムは、
他国衆を身内に取り込んでいくことにより、徐々に広がっていきました。
それに対する抵抗が、例えば他の地域で大小名、国人が、戦国大名の家中に
統合されていく過程に比べて、特に激しかった、と言う風な事もありません。
北条氏もいきなり見ず知らずのシステムを導入して、反感や混乱を招くような
マネはしません。
なるべく摩擦が起きない形で、徐々にシステムの中に統合する、と言うやり方をします。
383:人間七七四年
09/11/10 21:48:51 husqC0Sk
超高利貸しで土地を奪っていったんだよな。貫高制も高利貸しゆえだよな。
384:人間七七四年
09/11/10 23:41:50 CcAl2QVZ
事細かに回答ありがとうございます。
>>370-372
村単位、ですか。○○郡や○○荘が領地だったみたいな記録をよく見ますが、それは要するに
その土地単位の中にある村を支配していた(or知行として与えられていた)という意味なんですね。
少禄の武士は封建貴族と云うより官僚だったわけですか。
知行高百国、折半で五十石の収入の村なら、人口はだいたい50人くらいになりますよね?
50人くらいの村ならどこにでもあるでしょうが、200人くらいの村も無いわけでも無かったと
思えるのですが、知行高四百石(折半で二百石の収入)だと給付ではなく領地を与えられる
事になりますよね。という事は知行が村一つなんていう武士も結構いたわけですか。
>>373-383
北条氏の制度は(中央集権化という面から見ると)先進的だったんですね。
明治維新の時すら苦労したんですから、封建制最盛期だった戦国時代ならそのシステムを
適用させるのはかなり苦労したんでしょうね。
もっともその制度を例えば日本全国に拡大するとなると、主に交通の面から様々な問題
が起こったとは思いますけど(でも解決不可能じゃないですよね。古代の朝廷はやってたん
ですから)。
その割には北条早雲以外あまり有名でないのは気の毒としか…。
385:人間七七四年
09/11/10 23:56:46 aNx/1zDG
>>384
中央集権と言うより、北条のシステムは、いわゆる近世封建社会のシステムの原型と
考えたほうがいいです。
近世幕藩体制は、ほぼ北条のシステムを基礎としています。
幕府の旗本は勿論、諸藩もよほどの大身で無い限り、知行を給金として受け取るサラリーマンとなります。
386:人間七七四年
09/11/11 09:52:29 bVWsEaKn
具体例まったくなしで北条マンセー自演キモすぎてワロタw
387:人間七七四年
09/11/11 17:18:15 G+JQEiP0
自演とかマンセー以前に統治システムの話題だと北条の話にならざるを得ないだけなんだがな
なんなら伊達や真田の統治システムの話でもしてよ。
税体系とかどうなってたかとか是非。
388:人間七七四年
09/11/11 23:04:23 FTixTBcT
豊臣秀吉は朝鮮派兵を行う時にどのような大義を掲げたのでしょうか?
やはり国内外にそれなりの理由を説明して宣戦布告したとおもうのですが
389:人間七七四年
09/11/11 23:12:03 OAEXh/3K
そもそもの目的が朝鮮ではなく明。
朝鮮への出兵は、明に派兵するため朝鮮は日本軍に協力しろ、と言ったら
断ったので無礼だから、と言う理由。
390:人間七七四年
09/11/12 05:44:00 qmhZAlJ0
>>387
そこで真田の名前が出てくるところにちょっと笑った
いや規模違いすぎるだろう
391:人間七七四年
09/11/12 13:24:48 /wT5BWsA
運営能力に支障はあるかもしれないけど大名の規模とシステムの優劣は関係ないんじゃないかな
392:人間七七四年
09/11/12 14:14:05 VRa4pw0W
真田が戦国大名だったか否か、と言う事に関しては議論がありそうだな。
393:人間七七四年
09/11/12 18:15:09 edg/P1O4
小規模なら集権的な支配は楽だけど規模が大きくなると難しくなるもんじゃないの?
「信長は北条氏みたいな制度を布かなかったから遅れてる!」って意見が当てはまらないように。
いや、勿論家の規模だけじゃなくて家臣の領地や主君に対する認識とか色々あるだろうけど。
394:人間七七四年
09/11/12 18:53:05 VRa4pw0W
>>393
規模ある程度以上が大きくならないと集権できるほどの権力と組織が生まれない。
信長が遅れているというか、権力として未熟なのは、規模だけは大きくなるのにそれを運営する組織形態を
最後まで作れなかったというところだな。
395:人間七七四年
09/11/12 19:57:04 kreUsQT9
自分の苗字が前田なんですが
自分の先祖が利家の確率教えてください
福岡太宰府付近に江戸末期から住んでいます
それ以前のことはわかりません
396:人間七七四年
09/11/12 20:51:45 5M0yGdXq
長宗我部 元親が「鬼」「鬼若子」と呼ばれることがありますが
これのもともとの出典、由来の文献は何なのでしょう?
「姫若子」「土佐の出来人」なら昔から書籍で目にしてましたが
最近まで「鬼若子」の呼称を聞いた事が無かったもので・・・・
397:人間七七四年
09/11/13 01:14:07 RGBlQN4b
>>395
限りなくゼロに近いだろう。
夢見てないで現実を見ような。
先祖が利家に繋がるなら江戸末期以前のことがわからなくなるなんてことはない。
もし本当に確かめたいのなら本家の菩提寺に行って過去帳を当たれ。
菩提寺が無いならそこで終わり。
過去帳が無いならそこで終わり。
またその江戸末期~明治初期の人物の住所を調べろ。
わからないならそこで終わり。
本家の墓所も調べろ。
墓所に入れないならそこで終わり。
ちなみにたいていの家は江戸末期までなら遡ることができる。
398:人間七七四年
09/11/13 11:40:16 NMEAYinN
>>396
元親記(日本合戦騒動叢書)
399:人間七七四年
09/11/13 12:06:41 lWKp8s4x
>>397
いちおう天保元年以前はわかりませんが
天保元年近くから同じ住所です
400:人間七七四年
09/11/13 12:42:06 NMEAYinN
苗字を付ける時に、寄子が頭首から同名をもらうということもあった
>>399は加賀前田の子孫ではないが、北九州に残った前田との関わりは
あるかも・・・しれない
>『寛永系図』には、道真公が筑紫にあって二子をもうけ、兄を前田と称し、弟を原田といい、
その後、前田が尾張国に移り住すという内容の記載がある
401:人間七七四年
09/11/13 12:48:48 NvpLWnTz
前田みたいなありふれた名字ではねえ
明智なら希少価値があるけどねえ
402:人間七七四年
09/11/13 13:15:25 5EmAW2gb
明智とかゲームのやり過ぎだから…
同和、部落、在日、核家族が多い中
江戸から住んでる先祖や親に感謝しなければならないな
オレなんか部落出身を代表する名字だし、何か?
403:人間七七四年
09/11/13 14:48:46 mt3kx9kb
俺の父方の先祖は、居を移った時今までの土地の名前を名字にしたらしいんだが(この
名字は今の俺の名字だけど、これだけで個人特定されるくらい珍しい)、昔の名字は栗栖
だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。
まぁ、毛利氏に敗れた落ち武者の末裔らしいが。
ちなみに母方の祖先は浅野家の貧乏武士。何か和歌山の方の姫様が浅野家に嫁ぐとき、
姫様に付いて来た(?)とか。何それ。
404:人間七七四年
09/11/13 15:03:15 NvpLWnTz
> だったそうな。現代では復姓とか出来ないのかね。
まっとうな理由があれば出来ます。
405:人間七七四年
09/11/13 19:46:53 xeMGS0h1
歴史関連の板では「苗字」と使っていただきたい……
姓、氏、苗字と全部違うものなので
406:人間七七四年
09/11/13 21:23:59 IlMaydze
ここではそれを理解して「武田姓」とか書いているのが大半では?
407:人間七七四年
09/11/14 00:05:00 XTmANhCY
>>399
天保は所謂幕末~明治にかけて生まれた「初代」の親父の代に当たるから、
成功した初代持ちだとそこまでは遡れるケースが少なくない
土地持ちだと住地の移動もほぼ無いから、それだけでは何とも言えん
まぁとにかくだ、何か前田家への由来自体はあるのか?
昔前田家に仕えた武士だとか、前田家の乳母や奉公人だったとか、
前田家を世話したことがあるとかないとか、前田家の末流だとか。
祖父や父、親戚から前田利家に関する話なんて聞いたこともありませんが、
同じ前田という苗字ですし、何か関係があると思いませんか?
なら
ねえよ!
としか言いようが無いぞw
408:人間七七四年
09/11/14 00:25:08 f8vH6OZu
発問4 松代藩は、なぜ「さらに身分の低い人々のきまり」をつくった
のだろう。
・自分が農民よりも上だと気分がいい。ストレスが解消できる。
・農民が武士に対する不満をそらすためだったと思う。武士に不満があっ
ても農民は「おれたちよりもまだ低い人がいるから、頑張ってみよう」
という気持ちになる。
・グラフを見ると、武士が7%、農民が85%。いくら農民が武器を持っ
ていなくても、一気に攻めてこられたら武士だってひとたまりもない。
だから、さらに身分の低い人を作った。
・作った理由はあったと思う。農民はストレスがたまるから、農業ができ
るようになった。
・農民の不満をそらすためだったと思う。農民は武士に言われっぱなしで、
みんなで襲いかかってこられると困る。自分たちよりも身分が低い人が
いれば、自分たちも結構えらいんじゃないかと思える。
・自分たちよりも低い人がいたら、農民は上の位の気持ちになれた。
話し合っているなかで「幕府って、頭いいねー」というつぶやきが聞かれた。
【 さらに身分の低い人々のくらし 】
1.家は決められた場所に建て、そこに住むようにせよ。
2.家は土間とし、土間にむしろをしいて寝起きせよ。
3.着物はもめんで青くそめ、おびのかわりになわでしばれ
4.かみの毛は草でしばれ
5.雨ふりでもカサは使わず、ワラジかはだしで歩け
6.夜は外に出歩くな、やむを得ず出る時はわかるように提灯つけよ
7.食事には、茶わんを使わずにぎりめしにせよ
8.百姓、町人と話をするときは土下座せよ
9.百姓の家へは、はだしではいり、土間にむしろをしいて用をたせ。
物をもらうときは地面に投げ捨てたものをひろえ
10.勝手に奉公したり、結婚をしてはいけない
※奉公……他家に仕えること
409:人間七七四年
09/11/14 00:34:28 f8vH6OZu
身分制度の確立
URLリンク(gakusyu.shizuoka-c.ed.jp)
江戸時代から日本人だと仮定して85%の確率で農民
平成12年度在日コリアン数
URLリンク(nidar.hp.infoseek.co.jp)
大阪、兵庫、京都は100人に1人が在日
410:人間七七四年
09/11/14 00:40:36 f8vH6OZu
武士だけに認められていた特権はあったの?
切り捨て御免といって身分秩序維持のため、
武士としてのプライドを傷つけられた時には人を殺しても許される(やむをえない場合や目撃者がいることなどの条件がある)
他にも名字や刀を持つ特権があったんだ。
URLリンク(gakusyu.shizuoka-c.ed.jp)
411:人間七七四年
09/11/14 11:32:05 hbB5EWS8
部落の話はスレ違いじゃね?
厚生省にチクられるよ。
412:人間七七四年
09/11/14 11:48:10 QFUFZx1c
>>408->>410
なんだかわからないが・・・・
エタの主な仕事で皮関連がある(太鼓、三味線、鞄)
今の世の女性はみんなエタのシモベだな、ブランド高級バッグ(笑)
>やむをえない場合(あまりにもザックリだから少し解説)
・相手が抜刀している。
・自分の刀の鞘を握られた
・自分の刀をまたいで行った
・女が素手で刀に触れた
・★「侮辱を受けた」
ある町人が武士に、背中に蚤が跳ねているのを見て、善意で注意したところ、
いきなり切り殺されてしまった。
蚤は畜生にたかる虫であり、武士と畜生を同一視したという理由だ。
時代劇で「さんぴん」とか「浅黄裏」などと面前で馬鹿にするなどというのは
無礼打の十分すぎる理由で、影で言うことはあっても面前ではない。
それと無礼打は目付けの下で裁判が行われ、謹慎、蟄居等の罰があった。
そのようなスキを見せたことに対する処罰。無罪は殆ど無い。
413:人間七七四年
09/11/14 12:01:41 099ehitj
>>412
皮革関係の仕事は、他国でも大抵被差別集団の仕事だったね
414:人間七七四年
09/11/14 14:10:47 IA9iMubb
抜刀して逃げられたり、負けるようなことがあったりすると、
処分を受けたし、よっぽどの事情でないかぎり処分(流刑や死罪)される
場合がほとんどのようだし、「武士の特権」という言葉は象徴的なもんでしかない
からなあ。武士の側からしてもリスキーすぎる
415:人間七七四年
09/11/14 14:24:04 2B2D7RdH
>>414
それでも特権であることには変わりないさ
たとえばヴェネツィアの都市貴族なんかは、政治に携わることが出来る以外の
特権を持っていなかった。しかし、それでも特権階級であることには変わりない。
それは「象徴」というより、「特権階級を区別する手段」というべきもの。
416:人間七七四年
09/11/14 14:28:34 D4tsbjvi
武士の特権といえば、一般に往来の通行に関しては「武士七分町人三分」と言われたらしい。
ただ、江戸などでは、町人であっても「将軍様お膝元の住民」と言うことで、そういうある種の権威も
余り通用しなかったらしいが。
つーか、江戸は武士の町である事は確かなのだが、江戸府内では、行列に土下座しなくても
いいことなども含めて、武士の特権がかなり制限されてた印象がある。
あと、武士による「切り捨て御免」ってのは、それこそ江戸時代に入るまでは普通に行われていますな。
戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す。
そう言う時代の転換はやはり、家康が将軍になって布告した最初の法令、いわゆる「郷村法令」の第七条、
『百姓をむさと殺し候事御停止たり』からでしょうな。
417:人間七七四年
09/11/14 14:30:05 1GO+XJxk
深掘事件
418:人間七七四年
09/11/14 14:38:02 ZON7ZTV+
>>416
というか、戦国時代では豪農と武士の境目は無いに等しいのではないか?
国人や地侍は、江戸時代には武士階級になった者と名主階級になった者と
に二分されたはずだし。
戦国時代の有徳人の中にも、付近に対する影響力から正規の家臣団に組み
込まれたりしてるし。
419:人間七七四年
09/11/14 14:44:01 D4tsbjvi
>>418
ん?
なんに付いて疑問をはさまれたのか良くわからない。
420:人間七七四年
09/11/14 14:54:05 IcK723W3
>>419
> 戦国時代は勿論だけど、それなりに秩序が維持されていた室町時代でも武士は簡単に町人農民を殺す
ここ
武士が~~
とか、身分が固定化されていない時代では、簡単に言い切れることではないのではないか。
421:人間七七四年
09/11/14 15:33:11 D4tsbjvi
>>420
いやいや、身分の区分は室町期もはっきりしていたよ?
その辺があいまいになったのは戦国に入ってから。
422:人間七七四年
09/11/14 15:50:12 VLwFm/oo
>>421
うん、だから
> 戦国時代は勿論
ここに突っ込み入れてるの
423:人間七七四年
09/11/14 16:15:26 D4tsbjvi
>>422
戦国期でも「曖昧な層」があるだけで、やはりはっきりとした武士と、町民農民の違いは存在したよ?
武士階級のものが「武士を捨てる」という行為はいろんなところで見られる。
424:人間七七四年
09/11/14 16:23:50 fPZoo1Xn
>>423
国人層には、鎌倉以来の御家人の家柄もあれば、地元の豪農だったり、経済力を付けた
商人層だったりすることもある。
その意味で、戦国時代以前のいわゆる「武士階級」と、江戸時代の「武士階級」には連続
性が無いと見られる部分も大きい(もちろん、連続性がある部分もある)。
簡単に「武士と町民農民の違いは存在した」とか断言できる状況ではない。
だから>>418な訳だが。
425:人間七七四年
09/11/14 16:35:39 D4tsbjvi
>>424
連続性があろうがなかろうが、「身分」として、武士とそれ以外の区別は
厳然と存在したと思うのだが?
426:人間七七四年
09/11/14 17:02:57 /8LJ3eA2
>>425
「身分」とは何か、構成員と特権、またそれを保障する権力・権威は何か。
を考えれば、「厳然と存在」とは断言できないことは理解できるはず。
実際、国人とは武士なのか農民なのか、その区別が明確であったことが
全国的に明らかにされてはいない。むしろそれを否定する事実はある。
427:人間七七四年
09/11/14 17:14:46 YYYXXj9v
武士による無礼討ちはその通りなんだが、一つ付け加えると、無礼討ちは武士だけの特権ではなかった。
農民や町民だって、無礼を受けたを感じれば、即喧嘩殴り合いから戦闘にまで発展している。
江戸時代になって多少は制限されたが、それでも農民町民の無礼討ち敵討ちは消えていない。
428:人間七七四年
09/11/14 17:21:54 099ehitj
>>427
仇討ちは古ゲルマン法やローマ法でも認められていたね。
個人の権利の自力救済ってのは、近世まではむしろ当たり前だった。
それを否定したのは近代以降。
429:人間七七四年
09/11/14 18:13:08 GU3YVIms
村落の寄合でその辺を解決をつけるようなことって無かったのかね。
あと、村落と領主の争いを仲介した司法機関(?)って戦国時代ではどんなものがあったの?
特に機関は無く、領主が仕える戦国大名があんまり争いが激しければ介入してたくらい?
430:人間七七四年
09/11/15 00:55:41 DrRHeoSN
質問させて頂きます。
九州のあたりの武士達の間で普及していた刀は、どこ産なのでしょうか。
銘なども教えて頂ければ幸いです
431:人間七七四年
09/11/15 11:25:27 4ZKuCLU5
>>430
名工、三池典太は北九州。
鉄の産地も北九州、国東半島、薩摩半島などたくさんあって、
典太の流れを汲む刀鍛冶も多くいただろう。
基本的にどの町にも必ず刀鍛冶はいたし、そこで大量生産されていた。
もちろんそれだけじゃなくて、備前・大和・山城・近江からの流通品も。
大名の指料は鎌倉、室町初期の名工のものが多く、家宝や献上品、褒美などに使われた。
432:人間七七四年
09/11/15 12:33:29 4ZKuCLU5
>>429
水利権をめぐる争いでこういうのがある。
URLリンク(74.125.153.132)
433:人間七七四年
09/11/15 12:48:17 VlaMpLET
>>429
村落と領主、もしくは村落同士の争いの司法的解決では、守護所、もしくは戦国大名権力のうち
それを受け継いだ機関が担当します。
北条、今川などの先進大名では、目安(訴訟)や民事裁判に関する制度などを早い段階で
整備するようになります。具体的には訴訟案件に関する、制度としての定期的な裁判の開催など、ですね。
434:人間七七四年
09/11/15 13:25:34 q9Mvd8Wq
>>432
徳島はうどんを茹でる水をよこせ
435:人間七七四年
09/11/15 15:12:28 gGNPNX5U
皆さん詳しいですけど、どのような書籍を読んでるんですか??
436:人間七七四年
09/11/15 15:35:07 5AqXaXS+
僕は歴史群像を読んでおります
437:人間七七四年
09/11/15 15:38:25 JEcyz6bV
一揆による自治でも、分国法を出した大名でもみんなその程度のことはやっていて、大してすごい事でも珍しいことでもない
438:人間七七四年
09/11/15 17:31:20 zeOSQR7J
ただし、司法を専門で取り扱う組織・部署は無かった。それは行政と一体化されていた。
これは江戸時代も変わらない。この点は鎌倉・室町と異なるところ。
439:429
09/11/15 18:37:47 /TfiI87p
詳しい話をどうも。
やっぱり日本の村落の最重要課題と云えば水なのか。
重要なだけに、そういう民事訴訟を専門に掌る機関が設置されなかったってのは意外。
行政と一致した司法というと、町奉行の御白州で行われた裁きなんかが有名かな。
三権分立なんて18世紀の思想だから分離してなくてどうこうとかいう気は無いけど(そも
そも鎌倉・室町の司法と行政の分離も近代的な意味でのそれじゃないし)、今まで分離
されてたのが統一されたのはなんでだろう。
一元命令的な中央集権が発達して、司法と行政が一致しても(為政者にとって)不都合が
無くなったからかな。
440:人間七七四年
09/11/15 18:56:31 agEeB5BW
>>439
日本の武家政権は、むしろ司法作用(争い事の仲裁)を期待され、担ってきた部分が
大きい(鎌倉政権が典型)。
だから、鎌倉~室町~江戸と司法と行政の一体化が進んだのは、政権内における行
政の重要性が高まり、政権の中心的な作用となっていったからでは無かろうか。
事後仲裁から事前調整へと政権のありようが変わっていったとも言える。
その意味では、まさに近世化、中央集権化の典型例ではあるのだろうね。
441:人間七七四年
09/11/15 19:39:17 eosL9CqZ
>>437
そうはいっても、地域ごとに背景も性格も異なるわけで、
そこを考慮する必要があるだろうし、すごいとかすごくないとか
それとだけは言えないだろうし。
>>440
水ってのは死活問題だからな。
三好氏の例だと、長慶が発給した文書といっしょに、水利の絵図
つけられており、それにはその相論に関与した奉行と長慶の花押が
据えられているな。
442:人間七七四年
09/11/15 20:33:32 /TfiI87p
>>440
なるほど。だから源氏は「武家の棟梁」なのか。
そもそも武家の台頭自体、地方の権利を守ろう!みたいな運動の結果だったわけだし。
443:人間七七四年
09/11/16 15:06:31 fXgYn24/
この時代大名に嫁いで来た女性の事を実家の苗字ををとって○○夫人とか○○御寮人って呼ぶのは普通でしたか?
どうも濃姫は織田家では齋藤夫人とかで呼ばれてたのではとういう気がするのですが…
444:人間七七四年
09/11/16 21:45:25 Ed2T9x7Z
質問です。
主君と家臣の衆道なのですが基本は主君が家臣に挿入する側なのでしょうか?
あと肛門は直接だと危ないですよね。当時の予防対策などはどうしてたのでしょうか?
445:人間七七四年
09/11/17 07:41:12 hIL4nrvA
>>435
通史で良いんでない?
446:人間七七四年
09/11/17 12:25:30 RF11abid
>>443
農姫は美濃一国を支配する斉藤家から嫁いできたという意味で
<格式の高い呼び名>「農姫」「美濃の方」と言われた。
「~の方」は正室のみに許される呼び名。
家臣たちもそう呼んでいた。
当時女性たちの本名は旦那さんにしか名乗らなかったから、よほど緊密な家臣以外は
知らないことが多かった。
それで実家の名を付けて○○婦人と呼んだ。 と覚えている。
>>444
質問するスレが違うんでない?
447:人間七七四年
09/11/18 07:37:03 XNo/H2LN
戦国時代では、よく寺を戦争時の拠点として使ったと聞きましたがこれはどういう理由からなんでしょうか?
448:人間七七四年
09/11/18 10:38:57 irLoS4Ic
太刀を提げる時に使う、紐?のようなものの名前を教えて下さい。
また、あの紐?のようなものはどうやって装着するのでしょうか。鎧が前提でしょうか。
ならば、平時はどのようにして太刀を佩いていたのでしょう。
また、太刀と脇差しはどうやって同時に装備したのでしょうか。
脇差しは袴に挿して、太刀は提げていたのですか?
それだと刀の反りが逆方向だから、収まりが悪いような気がします。
449:人間七七四年
09/11/18 12:57:36 BtC+atVt
下げ緒のこと?
あれは太刀も差すようになっちゃったから、
役に立たないただの紐になりさがったぜ、宣教師達が指摘したようにね。
もっぱら装飾用で、それは流派によって違う。
そういえばへうげものでゲヒ様が平時に刀を佩く時に使ってたな、下げ緒。
450:人間七七四年
09/11/18 13:34:13 FE+WyjWu
>>447
・当時の寺は基本的に防衛機能を備えていた
・戦略の要衝にある
・多人数を収容できる
とりあえずはこんな理由。
451:人間七七四年
09/11/18 17:38:45 9qA+jRNM
今、読んでいる小説に「いかさま」と相づちをうつ言葉がでてきますが
いかさま=いかにも
なのでしょうか?
452:人間七七四年
09/11/18 17:58:57 FE+WyjWu
>>451
いかさま=如何様
「さもその様に見える、いかにも本物らしい」と言う意味で、
『その通りでしょうね』と言う意味になる。
これが転じて、「いかにも本物に見える偽物、インチキ」と言う意味にもなった。
453:人間七七四年
09/11/18 18:39:30 9qA+jRNM
>>452
ありがとうございます!
454:人間七七四年
09/11/18 20:03:00 KKw1GzFN
よく時代劇の合戦シーンで、鎧兜を着てるのに太刀で斬られるシーンがありますが、そこまで斬れるんでしょうか? あれでは鎧兜を着てる意味がないと思うのですが。
455:人間七七四年
09/11/18 20:34:51 QO+HOX11
>>454
実際には、鎧の隙間を狙います。時代劇はフィクションということで。
リアリティを追求すると、派手なアクションにならないんですよ。
456:人間七七四年
09/11/18 20:53:15 KKw1GzFN
>>455 やっぱりそうですか。 ありがとう。
457:人間七七四年
09/11/19 21:01:45 exIjgs1F
そもそも鎧兜で武装した相手に刀で応戦する意味は余り無い・・・ってことだよね?
えっと、槍なんかがあればそっちを使うってことで
458:人間七七四年
09/11/19 21:20:03 0hyxXCBD
何のために戦うかにもよると思うけど。
合戦での組合?村とかでの偶発戦闘?
勝つことが優先?逃げることが優先?
逃げるなら石とかの方がよっぽど有用な武器になるだろうさ。
戦う場合、介者剣術なんてものがあるように、鎧を着た状態での剣術もちゃんとあった。
でも槍を使い慣れてる人間なら刀より槍を使うだろうな。その逆もありえる。
ちなみに、大太刀や長巻みたいな刀は普通に合戦で使用してたって記録がある。
459:人間七七四年
09/11/19 21:27:34 q2fLs0JL
>>457
いいや、接近戦になると刀。
鎧の隙間や手首を狙う。
460:人間七七四年
09/11/19 21:27:44 0RJbfxTx
相手を殺傷するより、怖がらせて逃がした方が好ましい場合もあるよね
461:人間七七四年
09/11/19 23:39:51 MooIy1GP
>>457
コツが必要になるけど使える。
ただし455や459が指摘しているようにピンポイントへの攻撃が必要になる。
で、ピンポイントに鎧の隙間などを突き刺す必要があるわけだけど
日本刀は湾曲してるから狙い済まして突きを繰り出すのは難しい。
まあ完全武装の武士ばかりが戦場に居るわけじゃないからなんとでもなると思うぞ。
462:人間七七四年
09/11/20 02:29:43 nX3vnKBR
西洋の鎧だと手も足も出ないような気がします。
463:人間七七四年
09/11/20 03:03:27 1l2mm3HS
多分体中を覆うタイプの西洋鎧をイメージしてるんだろうけど、
あんな動きの取れないもの、接近戦になったら良いカモ以外の何者でも無いぞ。
囲まれてボコボコにされるだけ。
鎌倉時代の大鎧みたいなもんだ。
464:人間七七四年
09/11/20 03:26:43 Oxt1uKcL
何だろ…この話題、凄い既視感が…
465:人間七七四年
09/11/20 10:07:03 rq/k9PeA
>>464
前世?
466:人間七七四年
09/11/20 10:32:38 9z//w2gT
>>464 彼の名は歴団ひとり
467:人間七七四年
09/11/20 12:18:23 HMX+2DTa
まあ戦での死亡率も低いからね。
石、矢の順で死傷してるから。
刀を使うより、取っ組み合いして、力で組み伏して従者に首をかききらせる方が早い。
468:人間七七四年
09/11/20 13:59:54 1l2mm3HS
接近戦用に、「鎧通し」という、十手の先を尖らせたような武器もあった。
昔、知り合いに先祖が尼子の武士って家があって、そこに伝えられてた鎧通しを
見せてもらった事があったが、いかにも実戦武器と言う感じがしてちょっと怖かったことを
覚えている。
469:人間七七四年
09/11/20 15:32:48 oIuyPZlS
戦国時代の農民は、名字が無かったんですか?
また、農民の娘はどんな名前だったんですか?
470:人間七七四年
09/11/20 19:42:31 HMX+2DTa
名字がないってのは嘘で実際は庶民レベルでも持ってるやつは持ってた。
471:人間七七四年
09/11/20 19:50:45 1l2mm3HS
この時代女の名前は、農民にせよ武家にせよ、記録には殆ど出てこないな。
たいていは「女」(○○娘、○○妻)って記録されてる。
戦国時代は、日本の歴史上、女性の地位が最も低下した時代で、
その時代の風潮が、女の名前の記録にも現れている、そうな。
472:人間七七四年
09/11/20 19:52:09 Oxt1uKcL
というか、現代的な意味での「名字(苗字)」の意識っていつごろ出来たんだろうな。
士分、公家なら氏と苗字の違いははっきり意識しただろうし、姓について考えたことだって
あったかもしれないけど、庶民は? いや、「本当はうちは○○氏の末裔でな…」とかいう
農民は別にして。
どこどこ村の誰とか、なになに荘の某とか、そういう区分けのための呼び名が苗字に転化
したのはいつなんだろ。
いやまあ、そんな単純な話じゃないのは十分に理解してるけど。
俺の島根の実家でも、苗字より屋号でご近所さんや親戚を呼ぶ事の方が多い。皆苗字は
違うのに。
473:人間七七四年
09/11/20 20:15:57 1l2mm3HS
「現代的な意味」って言うのなら、それは江戸時代だろうな。
江戸期は庶民の間に、それまでの屋号から、「家族」の単位が小さくなった事により、
隠し姓などを含めた「名字」が表に出てきた。
幕府や諸藩も住民把握の必要性から、その流れを積極的に後押しした。
474:人間七七四年
09/11/21 12:48:15 ySeShkIO
田舎の農村や漁村なら、戦前まで「氏族」ってのは普通に残っていたけどな。
それが解体されたのは、実は戦後しばらく経って、農地改革と高度経済成長によって
田舎がズタズタになってから。
475:人間七七四年
09/11/21 13:11:20 wRuCMhhg
実は明治維新以降は、江戸期に解体しかかっていた「氏族」の復活した時期なのだそうな。
476:人間七七四年
09/11/21 13:16:57 /eZCR66M
日教祖左翼基地害が庶民の暗黒時代みたいな妄想ストーリーで名字ないって主張してただけ
寺の住民台帳に名字が記載されてないからと言って名字がなかったなんてことはない。
477:人間七七四年
09/11/21 18:16:43 rdxb0vEO
戦国時代から江戸時代にかけて武士の役職に「○○奉行」というのがやたらと多いですよね?
織豊政権・江戸幕府で天下統一された江戸時代以降はともかく、戦国時代までどこもかしこも
似たような職名を使っていた理由は何なんでしょう?
例えば小荷駄奉行を小荷駄頭と呼んでた家とか、侍大将を侍督と呼んでた家とかは無かった
んでしょうか?
「○○奉行」ってのは、現代で言う「○○長」程度の意味なんでしょうか?
例えば村の村長とかだと、西国で庄屋、東国で名主、北陸で肝煎と、違う呼び方をされてました
よね?
478:人間七七四年
09/11/21 18:39:01 wRuCMhhg
>>477
「奉行」はもともと動詞で、「奉行する」と使われた。これは今の官僚などが「執行する」というのと
ほぼ同じ使いかただと考えていい。
つまり奉行とは、主君、或いは上司から命ぜられた案件を与えられた権限において行う、と言う
意味であって、過去において普遍的な言葉だった。
で、後にこれが名詞化した。
だから正規の名称が何であれ、何らかの権限を与えられそれを執行する場合は
「○○を奉行する」のであって、すなわち「○○奉行」となる。
479:人間七七四年
09/11/21 18:46:56 1ixPBjdl
>>477
上杉謙信のところだと「奉行」は家老に相当する
480:人間七七四年
09/11/22 00:10:27 t+WGNqlX
奉行っていうと裁判をしきる人のイメージがある
481:人間七七四年
09/11/22 00:30:44 yRi9wOe3
奉行が家老…じゃあ他家で奉行って呼ばれてた役職は何て呼ばれてたんでしょう?
単に、そもそも役職を作ったり官名を付けたりするほど組織が発達してなかっただけ?
>>480
町奉行ですか。行政と司法の分離って結構最近の思想ですよね。上の方でも話題に
なってましたけど。
482:人間七七四年
09/11/22 14:29:43 vqUB0LrY
事業を担当統括する役目=奉行だから
領主や家臣からの信頼が厚くなければ、ということで家老格が任命されたという自然な人事。
ただし大掛かりな事業の場合は統括する奉行の下に各役割に応じた奉行が置かれた。
戦の場合、戦(統括)奉行の下に、兵糧担当、武器担当、馬担当、輸送担当など。
483:人間七七四年
09/11/22 14:50:32 vqUB0LrY
ついでながら安土築城の場合は
丹羽長秀が総奉行、普請奉行が森三郎左衛門、石奉行が西尾山左衛門など
484:人間七七四年
09/11/22 15:33:31 p3PkMTPF
「行いを奉じる(下命された事を恭しく実行する)」で「奉行」なわけだしな。
485:人間七七四年
09/11/23 00:53:45 xXt1atwe
奉行以外だと○○方という呼び方はあるな。勘定方とか
486:人間七七四年
09/11/24 15:08:45 ++OOnnuU
戦国時代の資料とか見ると、船の上でも弓を構えている人もいました。
(戦国時代じゃないかもだけど、山田長政とかのも)
湿気とかひどくて弓を使うのは大変かと思いますが、どのような工夫をしたのでしょうか?
漆塗弓とか?
487:人間七七四年
09/11/24 15:12:04 mpINyi4b
あとは使用時まで油紙に包んでいるとか、そんな感じかと。
488:人間七七四年
09/11/25 16:09:44 +0Ua1jWW
>>483
江戸時代にも外国奉行の後の総奉行とかありましたけど、
当時だと「惣奉行」って書いたんじゃないでしょうか?
いえケチつけてるわけじゃないんですが、当時から総奉行って字を書いたんですか?
489:人間七七四年
09/11/25 17:01:11 BRieg55c
信長や家康は奉行の名称を使っていたが秀吉時代にはない?
五奉行って後世に作られた名称でしょ
490:人間七七四年
09/11/25 17:12:19 QAxoFcp1
当時の手紙には奉行とある
491:人間七七四年
09/11/25 17:20:55 BRieg55c
奉行とあるのか 失敬
492:人間七七四年
09/11/26 01:34:46 cy79hwus
例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか? あと、軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?
493:人間七七四年
09/11/26 02:01:46 7FiLlgLs
>>492
> 例えば、一万の軍勢で出陣した場合、実際に戦闘に参加出来る武士は何人ぐらいなんですか?
それは、君の言う「軍勢」が何を指しているかにもよるし(純粋に戦闘員だけか、
陣夫も含むのか?)、又戦況、戦場の状況にもかかわる。
ともあれ、基本的に実際の戦闘に出るのは、全体の3割くらいのものかと。
勝ちが確定した追撃戦で5割くらいかな?
> 軍勢の一割死傷者が出たら大敗と聞いたことがあるんですが、そんなものなのですか?
そんなもんです、2~3割死傷すれば全滅扱いです。
494:人間七七四年
09/11/26 09:50:29 /xmMf+Z9
久保田正志の『日本の軍事革命』によれば、戦国日本の戦死者数:死傷者数は 1:1.5~3
仮に、一万の軍で一割が戦死したとすると、戦死が1000人に、負傷者が500~2000人で、
合計して一万人中、1500~3000が戦闘参加不可能になる。
ちなみに時代や国・地域にもよるが、近代以前の軍隊は、4割~5割くらいが非戦闘要員で
占められていたと言われる。(ただし、絶対に参加しないわけではなく、状況によっては参加する場合もある)
仮に5割として、一万の軍勢中、戦闘部隊員が5000人。そして戦闘続行可能人員が2000人。
また戦闘続けられる?続けようと思う?
ちなみに、同じく『日本の軍事革命』によれば、戦死傷率が上がる戦国後期において、
部隊の戦死率3%が、「戦闘継続に支障あり、要再編成」の目安だったそうな。
495:人間七七四年
09/11/26 09:58:40 O2A/YeZT
武田信玄は信濃一国征服するだけでなぜあんなに時間がかかったのですか?
アホだったからでいいのですね?
496:人間七七四年
09/11/26 11:25:42 cy79hwus
>>493 >>494 ありがとうございます。 考え直してみれば一割って大きいですよね~。 もう陣形が保てないということかな。長篠の戦いなんかは、もう武田家は壊滅状態だったんでしょうね。
497:人間七七四年
09/11/26 13:22:56 8k4fGIIA
>>496
アメフトで言うと、壁が崩れた状態だな >一割の損害
後衛が無事でももう勝負にならん。
498:人間七七四年
09/11/26 19:29:55 RQrq5myN
双方7,8万の兵力を動員した関ヶ原ですら死者5000人くらいらしいからな。
日向の戦いで大友側の死者3000じゃほぼ全滅といっていい。
499:人間七七四年
09/11/26 19:55:22 Cnr880a/
川中島だけはガチ
双方に異常な戦意があってはじめて成立する合戦
500:人間七七四年
09/11/26 19:59:34 6v+FyA4F
耳川の戦いは大友の戦死者多すぎて
太平洋戦争の時より帰還できた男が少なかったとか
この戦で伴侶を失った女性は「豊後ごけ」と呼ばれたとか
501:人間七七四年
09/11/26 22:29:13 uJQjO22R
戦国時代前期~中期の守護代って調べられるサイトありませんか?
502:人間七七四年
09/11/26 22:58:18 7FiLlgLs
戦国初期はともかく、中期くらいになると守護代なんて中間存在は殆ど消滅してるような。
最後まで残ってたのは京兆家と大内家くらいか?
503:人間七七四年
09/11/26 23:08:24 8k4fGIIA
大内家も京兆家もバリバリの守護ですがな。
守護代ってのは織田とか朝倉とか陶とか。
504:人間七七四年
09/11/26 23:11:44 7FiLlgLs
>>503
守護の元に守護代って存在が残っている、って意味。
織田や朝倉は守護代の位置から国主になったでしょ?
505:人間七七四年
09/11/27 00:05:59 geTLnLJC
守護は幕府の任命で
守護代は守護の任命であってますか?
たとえば守護代でもない新興勢力が国を支配した場合は幕府に守護なり、旧守護家に守護代なり任命させて
名目上の支配権を手にしていたと推測しますが実際はどうだったのでしょうか?
もしくは~守とか地頭系の任官かも。
506:人間七七四年
09/11/27 00:50:15 IiICFUvM
基本的には守護代は守護の任命だが、将軍家が守護代人事に
介入する事もあった。
また、斯波家の甲斐氏や、土岐家の斉藤氏など、守護代ではあるが
将軍直臣、と言う家もあった。
室町幕府は、よく言えば融通が効く、悪く言えば原理原則が余り存在しない政府だった。
507:人間七七四年
09/11/27 22:40:59 r6dvUy32
>>501
越後守護代…長尾氏(守護:上杉氏)
佐渡守護代…本間氏(守護:上杉氏?)
越中守護代…神保氏(守護:畠山氏)
能登守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
加賀守護代…本折氏(守護:富樫氏)
加賀守護代…小寺氏・間島氏(守護:赤松氏)
越前守護代…甲斐氏・朝倉氏(守護:斯波氏)
上野守護代…白井/総社長尾氏(守護:上杉氏)
武蔵守護代…大石氏(守護:上杉氏)
遠江守護代…甲斐氏(守護:斯波氏)
尾張守護代…織田氏(守護:斯波氏)
美濃守護代…斎藤氏(守護:土岐氏)
飛騨守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…多賀氏(守護:京極氏)
近江守護代…目賀田氏(守護:六角氏)
河内守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
和泉守護代…松浦氏(守護:細川氏)
紀伊守護代…遊佐氏(守護:畠山氏)
摂津守護代…薬師寺氏ほか(守護:細川氏)
讃岐守護代…安富氏・香川氏(守護:細川氏)
阿波守護代…三好氏(守護:細川氏)
丹波守護代…内藤氏(守護:細川氏)
丹後守護代…延永氏(守護:一色氏)
伯耆守護代…南条氏・進氏(守護:山名氏)
出雲守護代…尼子氏(守護:京極氏)
播磨守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備前守護代…浦上氏(守護:赤松氏)
備中守護代…石川氏・庄氏(守護:細川氏)
周防守護代…陶氏(守護:大内氏)
長門守護代…内藤氏(守護:大内氏)
豊前守護代…杉氏(守護:大内氏)
筑後守護代…田原氏(守護:大友氏)
508:人間七七四年
09/11/27 22:45:06 r6dvUy32
ぱっと調べた感じなんで、これを元に調べるといいんでないかいな
一応15世紀中のものが大半で、ごく一部に1510年代がある
守護代にしぼったサイトはさすがに知らんので、参考までに
自分で調べるときはちゃんと論文や諸史料で裏を取って頂戴
509:人間七七四年
09/11/28 00:27:08 FO9RlrfP
>>508
おお、ありがとうございます
510:人間七七四年
09/11/28 00:54:57 zp6qLNeM
「守護代」は在京している守護の代わりに、任国の統治を担当していたのではない。
守護代とは守護の執事であり、守護と共に在京し、守護を補佐するのが主な任務であった。
江戸期で言えば江戸家老のような存在。
実際に在国していたのは、「守護又代、小守護」などと呼ばれた
守護代のさらに下の官。
511:人間七七四年
09/11/28 01:00:26 Pl9KTwHz
何その別当代とか課長代理補佐みたいな
512:人間七七四年
09/11/28 09:50:40 Urp4ZeVf
質問します
一石とは、現在の日本円に換算するといくらぐらいなのでしょうか?
また、家臣や足軽の給料はいくらぐらいだったのでしょうか。
よろしくお願いします。
513:人間七七四年
09/11/28 10:14:58 zp6qLNeM
>>512
一石=1000合
米1合が約150グラム
今のブランド米の買取価格が平均して、一俵(60キロ)で12000円くらいだと言うので、
1合が30円
30×1000=30000
つまり現在の米価で換算すれば一石が3万円となる。
と言うことは、100万石は三百億円の収入。正直、余り大したことも無いな。
514:人間七七四年
09/11/28 10:45:46 BxsFRTwK
>>512
URLリンク(www.imes.boj.or.jp)
上記のHPでも言われてるけど、
米価は江戸初期と明治初期で20倍もの価格差があるから、
米価基準は正直、あまり参考にならないと思うぞ。
戦国末期に米が貨幣みたいな扱いされていた特殊性も考慮すべきだしね。
515:人間七七四年
09/11/28 11:03:29 uLZdtVGe
>>513
米の価値が違う。
「値段の日本史」によると戦国時代は1石=10万円
例えば500石取り(知行とは違う)なら総収入5000万円。
配下数人+賄い人3人ほどに給金2000~2500万円払って
残り2500~3000万円で、馬、武具と衣食住で家族を養うわけだ。
516:人間七七四年
09/11/28 18:44:02 M/hlBiCE
武将の名前の中にある『○○守』っていうのは朝廷または室町幕府から貰った
官位なのでしょうか?
またそうだとしたどういう基準で決めているのでしょうか?
徳川家康の『三河守』とかはまだ分かるんですが(本拠地だし)
明智光秀の『日向守』とか・・・
日向は現在の宮崎県ですけど、光秀自体は日向とは何の縁も無いですよね?
517:人間七七四年
09/11/28 18:48:44 Pl9KTwHz
質問限定の俺でも、朝廷の官位は(形式上は)朝廷からもらうものだというのはわかる。
自称してた人もいたかもしれんが。
で、どういう基準で与えられてたのか教えて詳しい人。
518:人間七七四年
09/11/28 19:28:39 gegrPVDe
下賜された惟任の姓と関係あるのかな?
なんか九州縁の姓だってどっかで見たことあるけども。
519:人間七七四年
09/11/28 19:39:44 /gpMLN7B
大名自身は支配の正統性や侵略の大義名分のために献金して官位を貰ったりしてたが、
大名以外はほぼ自称と思った方が正しい。
家臣団まで正式に任官してたのは、保守系の大内家と
京の支配者で公家との交流も多い三好家や織田家くらい。
与えられる規準は、過分でなければ求められたものをそのままあげてたんじゃないかな。
日向守・筑前守の任官や惟任・惟住の賜姓はいくつか説があるね。
将来の九州侵攻を意図してとか、最終的な領土配分の構想とか、
東国の勢力にすでに九州まで支配してると思わせる策略とか。
(最後のはねーよと個人的には思うが)
520:人間七七四年
09/11/28 21:59:43 qwa0hmAq
家臣の任官が承認されたケースはそれほど知られていないが、
織田や三好の他にもある。大名が任官されると同時に授かった家臣とか、
上洛や献金の際に昇格した家臣たちはそのケースに当てはまると考えていい。
521:人間七七四年
09/11/29 00:31:23 ELojTUSg
長男なのに三郎五郎、二郎三郎、藤次郎などと名乗るのは何故?
家康(二郎三郎)の場合代々受け継がれてきた名称らしいが
他のもそうなのですか?
522:人間七七四年
09/11/29 01:47:43 iS/tQYS7
>>519
自称ってことは、ある家の家臣が別の家の家臣と同じ官位を名乗っちゃってた、みたいな
こともあるのかな?
523:人間七七四年
09/11/29 01:54:36 VRoN2tnx
伝統とか融通とか。
家の祖が八男(八郎)だと、
その長男が代々八郎を名乗ってみたり、
その次男は九郎を名乗ってみたり、三男以降一番初めに戻って太郎、次郎・・・となってみたり、
ひねくれものは次男を八郎次郎とか名づけちゃったり、
ずーっと時代が下れば新八郎にしてみたり、
まあ、色々です。
524:人間七七四年
09/11/29 01:54:40 uRg4LvjV
>>522
なんぼでもある。
例えば武田家の板垣信方と北条家の大道寺政繁は同時代の武将だが、
同じ駿河守。
525:人間七七四年
09/11/29 06:38:23 vW55gTdV
>>520
織田は三郎、長男は六郎が代々伝わる仮名。
御家を興した祖先がその仮名だったことにちなむことが多い。
526:人間七七四年
09/11/29 10:50:56 SEEX3E65
自称官位は仕える大名からもらうんだけど、
その大名の「あの国欲しいな、自分の領土だったらいいな」
という希望の現われ。
527:人間七七四年
09/11/29 11:42:13 b5bJ0qXa
位階があって初めて任官されるもの。
僭称や受領名だと位階が無いからすぐばれる。
なんですぐバレル嘘をつくんだとつっこまないこと
528:人間七七四年
09/11/29 14:12:38 iS/tQYS7
少納言とか式部大輔とか兵部少輔とかなら数があるから僭称してもばれにくいだろうに…
いやそんな官位僭称して何の意味が?って言われたらそれまでだけど。
てか京官は不味いのか。当時も誰か公家が就いてただろうから。
そういや渋江政光の通称が内膳だけど、あれも僭称なんだろうか?
529:人間七七四年
09/11/29 14:37:45 SEEX3E65
内膳は正式には宮内の食事の取り仕切り頭だが、
渋江政光のような場合、家中の兵糧・食料担当のトップということで、
宮内の役職名で呼ばれた。
まあ一種のかっこつけだ。
弾正なんかも大勢名乗っているが、これも朝廷の治安担当という意味で、
武士にはあこがれの役職で、家中の目付け役が名乗ることが多い。
と記憶してる。
間違ってたら訂正してくれ。
530:人間七七四年
09/11/30 16:05:36 8x5RokDC
質問。
大名の名前で「○○守」というのを見ますが、全て昔の国名
かと思っていたら先日「ウタノ守」というのを知りました。
大名が大勢になって国名が足りなくなってのことですか。
又、「ウタノ」って何ですか。
531:人間七七四年
09/11/30 16:17:30 6pwbTB9p
>>530
それは「ウタノ守」じゃなくて、「雅楽頭」(うたのかみ)
雅楽寮の長官で従五位上相当の官。
国司とは違う。
532:人間七七四年
09/11/30 16:17:55 SE3K3beG
~かみの部分は守で間違いない?
同音の雅楽頭(うたのかみ)という官職があるけどそれではないだろうか。
ちなみにこれは雅楽の演奏と奏者の養成を担当する治部省下の機関ね。