10/06/13 07:37:54 WvYjl1Ky
そこら辺は「愛」の効果だな
388:人間七七四年
10/06/13 10:12:34 fX7umctT
実際にどうかは置いて、歴史館はそんなこといってるな。
389:人間七七四年
10/06/13 10:18:40 gmhaSNPn
どこの村もおらが村の殿様が一番と言ってる。
小田さんだって戦国史で見るとこれはひどいと言いたくなるのに
領民達からは慕われてるよ。
長年土着した領主はそれだけで慕われるからね。
越後だって上杉家は江戸時代には去ってるのに
明治になっても「上杉様はいつか戻ってこられる」と信じられてた。
390:人間七七四年
10/06/13 10:46:11 L8EdLNzJ
>>363
直江が撤退を決めたとされる関ヶ原敗報があった慶長5年9月30日の時点で、最上は新庄、楯岡、谷地、白岩、寒河江等を庄内勢に落とされ残る城は山形城周辺(中心から15キロ圏内:長谷堂、天童、上山)のみ。
直江は長谷堂を無理に力攻めせずとも、ただ中央での戦いが長期化してくれるだけで、最上の降伏は目の前まで来ていたと思うんだけど。
局地戦では地元の有利を生かした最上が、例えば上山では上杉右翼隊を破ったり、長谷堂では夜襲が成功し上泉主主を打ち取る等の善戦もあったようだが、勝敗を左右するものでは無いし。
大局的には畑谷城を一日で破って山形盆地に進出している所、庄内勢の快進撃、敗報後の狐越街道での撤退戦、どれを見ても「最上が圧勝した」とは言えないと思う。
「上杉がボロ負けで最上が圧勝」とする論拠を伺いたい。
全くわからん。
391:人間七七四年
10/06/13 10:51:21 L8EdLNzJ
>>386
>最上義光の方が部下や農民たちに慕われてたよね。
斯波家の血筋ってのが大きいと思うよ。
やっぱり山形の田舎で中央から来た名家が殿様だってことは誇りだからね。
392:人間七七四年
10/06/13 17:11:01 IaTBpAYP
義光前後の殿様の統治方法が良かったとは言えなかったからねえ。
とくに庄内は混沌としていたし。
>>390
んっと、やっぱり庄内をとられたことじゃないか?
あと、撤退戦は戦力差や、味方が取り残されたことを考えるとかなり無様だぞ。
畑谷城は……、えっと、大局的?まあ、守備側が撤退しなかった最上のミスでいいけど。
でも、最上義光がかなり追いつめられていたことには同意だ。
実際のところ、時間を稼ぎつつ雪がふるのを待っていたような気がする。
庄内勢の快進撃は予想外だったと思うけど。
393:人間七七四年
10/06/13 20:08:18 fX7umctT
庄内は上杉と徳川の和睦が進んでる中で取ったものだからな。
志駄が普通に上杉へ帰還したのを見てもまともな戦闘があった
とは思えない。
上泉は奇襲ではなく、撤退時に戦死したとの説の方が有力。
長谷堂ではたいした戦闘がなかったし。
394:人間七七四年
10/06/14 01:05:56 Q6rUxA/a
参考
URLリンク(blog-imgs-21-origin.fc2.com)
こんな状況だったみたいですね。
395:人間七七四年
10/06/14 01:54:28 vhYTZAoh
>>393
そこら辺何か資料残ってないのか?
396:人間七七四年
10/06/15 08:05:30 HUyohRH0
>>395
>>331で分かるように、10月には上杉、徳川双方が和睦を図っている。
最上が庄内を奪ったのは翌春らしいから、すでに和睦の話が進んでいる。
直江の九月二十二日清野長範あて書状では「長谷堂を攻め落とすべきとも
思うが、山形城が近いので、そちらにも兵を出して対陣している。陣構え
は堅固に命じている。その上で戦おうと考えている。上方の様子を知れば、
政宗・最上も覚悟が変わる(降伏する)だろう」と言っている。
直江は真田の情報を通じて上方が西軍優勢だと思っているので、にらみ合
いながら、その情報が政宗らに届くのを待っている。その後の書状でも
「最上が攻めてきたけど撃退した」というのが何回かあるけど、上杉方か
ら攻めた様子なし。たしかに二十二日には伊達の援軍が到着しているので、
書状のような考えだと、ますます堅固になった敵軍に戦闘を仕掛けるわけ
がない。
上泉は長谷堂だったり上山だったり死んだ場所(明らかに上山ではない)
も、討ち取った人間もばらばらでよくわからない。
397:人間七七四年
10/06/15 14:29:19 NVcgxYhT
毛利好きが上杉の話になるとついてこれないからじゃないか
398:人間七七四年
10/06/15 15:32:07 NVcgxYhT
誤爆
399:人間七七四年
10/06/18 04:27:11 ZWVneZlT
>>394
ひどいボロ負けぶりだな。
侵攻状況の推移を見ると
最上はもってあと1ヶ月ってとこだな。
400:人間七七四年
10/06/18 12:47:18 ZWVneZlT
自力で上杉を追い払う妙策もない
完全に他力本願状態。
実際、関が原には真田が秀忠の徳川譜代の足止めが成功して
家康が決戦に用いるのは信用におけない豊臣恩顧武将ばかり。
関が原での布陣も西軍有利
おまけに難攻不落の大坂城は輝元が押さえてるし
こんな状態だから毛利が最強のアホ過ぎてラッキーとしか言えん。
401:人間七七四年
10/06/18 20:30:01 W9TtN2+S
>>396
最上が庄内を奪ったのは翌春らしいから、すでに和睦の話が進んでいる。
雪降る前に、尾浦城などを奪って酒田を孤立させている。
位置は>>394を参考にしてほしい。この段階で酒田はほぼ積み状態だ。
あと、和睦の話が進んでいた資料をほしい。
5月の石川義宗から家康の手紙で分かる通り伊達は戦闘を行い、成果を報告している。
和睦がまとまっていたとは考えにくく、また、和睦がまとまっていたとしてもその情報が
最上に流れているとは思えないんだけど。
>>400
そういや、義光もなんで勝ったかわからないと言っていたな。
籠城っていうのは援軍が目的だけど、一日で戦いが終わるとは本当に運がよかったわ。
402:人間七七四年
10/06/19 01:17:27 qrgb0oN2
10月23日付安田吉親あて直江書状「佐竹口より働き、江戸より無事の内
証候に付き、相止め候」
11月19日付横田式部あて直江書状「上方の儀、御無事の様子、舟岡・中
島下着候、これに就き、近日、本庄越州上洛有り候」
403:人間七七四年
10/06/19 01:51:20 qrgb0oN2
政宗は上杉討伐で終盤まで中立的な立場をとったので、実績が必要。
それで慶長三月には南部が領土を侵してきたとか、上杉が上洛するのを
止めたのは確実だなどとうそをついて、上杉征伐を要請している。
政宗は家康の意思とは別に行動している。
404:人間七七四年
10/06/19 07:32:09 qIbyImth
>>402
これは、佐竹にお願いするって書状と和睦の使者が向かう書状じゃないか?
和睦交渉を始めた時期=和睦がまとまった時期じゃない。
11月19日時点で、ようやく使者を送れたように見えないが、
405:人間七七四年
10/06/19 09:15:21 qrgb0oN2
>>404
「佐竹口からの働きは、江戸より無事の内証があったので、中止しました」
佐竹口から関東に攻め込む計画は、江戸の徳川方から和平の話があったので
中止した。
「上方から(千坂対馬のところから)舟岡、中島がやってきて無事である
旨伝えたので、近日本庄越州を上洛させます」
十月二十六日
安田能元→甘糟備後「和睦の件は私が強く主張したので大丈夫でしょう」
直江書状と合わせてもこの時点で上杉家は徳川からの和睦の話に乗る方針に
なっているのが分かる。
十二月二十二日
景勝→本庄「お前の上洛について、直江が榊原康政に相談したところ、道中
の無事を保障する旨を伝えてきた」
同月二十三日
景勝→千坂「お前が中島、舟岡をこちらに寄越し、本多佐渡、本多中務、榊
原式部からの内々の話をじっくり聞いた。なので本庄を上洛さ
せることにした」
406:人間七七四年
10/06/19 10:19:18 EPfPLpeF
兼続は一方的に謀反を疑われケンカを売ってきた
家康が和睦を持ち出してきてるから
話に乗るよって感じだもんなあ。
上杉の方は家康がケンカ売るなら買うよって姿勢だから
メンツが守れればいいわけだし
407:人間七七四年
10/06/19 11:02:23 EPfPLpeF
年末~年初の最上軍は上杉の鋭鋒を避けて
小野寺の横手城包囲してたでしょ。
その時に上杉と徳川の和睦は進んでた。
そして上杉は争うのを避けてたね。
この時点で庄内や佐渡や白河等の領有は諦めていたっぽい。
伊達信夫米沢の死守で家康から安堵をもらう話が付いていたんじゃないかな。