09/04/23 22:24:42 oYhzVaQS
>>1
/. ノ、i.|i 、、 ヽ
i | ミ.\ヾヽ、___ヾヽヾ |
| i 、ヽ_ヽ、_i , / `__,;―'彡-i |
i ,'i/ `,ニ=ミ`-、ヾ三''―-―' / .|
iイ | |' ;'(( ,;/ '~ ゛  ̄`;)" c ミ i.
.i i.| ' ,|| i| ._ _-i ||:i | r-、 ヽ、 / / / | _|_ ― // ̄7l l _|_
丿 `| (( _゛_i__`' (( ; ノ// i |ヽi. _/| _/| / | | ― / \/ | ――
/ i || i` - -、` i ノノ 'i /ヽ | ヽ | | / | 丿 _/ / 丿
'ノ .. i )) '--、_`7 (( , 'i ノノ ヽ
ノ Y `-- " )) ノ ""i ヽ
ノヽ、 ノノ _/ i \
/ヽ ヽヽ、___,;//--'";;" ,/ヽ、 ヾヽ
3:人間七七四年
09/04/23 23:04:40 +vjIx2u0
>>3なら>>4のちんぽをしゃぶる
4:鬼武蔵
09/04/23 23:10:21 aMbCT3cy
よし、さあ来るがいい>>3よ!
5:人間七七四年
09/04/24 00:35:57 5O2oHKga
もういいよ…鬼武蔵くん…
今や嫌いな武将No.1、うんざり…
6:人間七七四年
09/04/24 00:47:08 0TyDXnWg
>>1大儀であった 好きなおにぎりをとっていくがよいぞ
∧ ∧
( ´・ω・) ○
( ∪ ∪ ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 .,.⊥、
と__)__) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
梅干 高菜 おかか こんぶ ごはんですよ わさび漬け オプーナ
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
砒素 明太子 ちりめんじゃこ ゆかり 柴漬 塩辛 とりかぶと
,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、 ,.-、
(,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■) (,,■)
鮭 鮭ごぼう 野沢菜 天むす ツナマヨ ツナマヨ 鮭マヨ 鮭ハラミ
7:ある兄弟の話 1/3
09/04/24 09:05:31 0ZxPb6Qe
新スレ記念に連投失礼
黒田官兵衛の家臣、井口与次右衛門には、四人の息子がいた。
秀吉の命で黒田軍が播磨長坪城を落とした時、官兵衛は四兄弟の長男・猪之介と
三宅藤十郎を留守居として城に残し、他の城の攻略に向かった。
その夜、長坪城から逃げ落ちた兵たちが再び集まり、城を取り戻そうと夜襲をかけて来た。
猪之介は、三宅に言った。
「攻め破ったばかりでロクな備えも無い、この城は長く持つまい。幸い殿は、
そう遠くに行っておるまい。三宅、おぬしが囲みを突破して殿に知らせてくれ。」
三宅は二十人ばかりで包囲を抜けたが、そのスキに敵は城内になだれ込んだ。
わずかな手勢とともに残った猪之介は奮戦したが、ついに足を斬り落とされ、石垣に
寄りかからねば立てぬ程になった。しかし敵はその気迫に呑まれ、近づこうとしなかった。
夜が明ける頃、ついに官兵衛の軍が救援に駆けつけたのを見届けた猪之介は、
「この城の大将、井口猪之介じゃ!首取ってみよ!」と叫んで、自害した。
彼のすぐ下の弟・六太夫も別の砦を守り、見事な討ち死にを遂げた。
8:ある兄弟の話 2/3
09/04/24 09:06:48 0ZxPb6Qe
数年後のある日、官兵衛は罪を犯した家臣に刺客を向けた。
しかし、罪人は刺客を返り討ちにして、仲間二人とともに屋敷に立て篭もった。
「拙者が、見て参りましょう。」
井口四兄弟の三男、甚十郎が名乗り出たのを、はじめ官兵衛は許さなかったが、
再三に及ぶ申し出に折れ、彼を差し向けた。
現場に着いた甚十郎は、門の横にある潜り戸をもぎ取り盾にして、屋敷に飛び込んだ。
戸による体当たりで罪人のうち二人を吹き飛ばし、ひるんだ残る一人を斬り倒した。
そのまま、吹き飛んで倒れたままの二人にもトドメを差した。
たちまち三人の首を獲り、意気揚々と馬にまたがった甚十郎の体に、衝撃が走った。
腹に槍が、刺さっていた。
屋敷に戻った罪人の従者が、主人の遺体を見て、甚十郎に襲い掛かって来たのだ。
返す刀で従者を切り捨てた甚十郎だったが、ついに力尽きて落馬し、戸板で官兵衛の
前に運ばれた。
官兵衛はヒザを枕にして甚十郎を横たえ、問いかけた。
「じ、甚十郎・・・こ、これはどうしたことじゃ・・・・・・」
「・・・かくの如くに、候。」 一言だけ残し、甚十郎は息絶えた。
9:ある兄弟の話 3/3
09/04/24 09:07:38 0ZxPb6Qe
「兄弟三人が、わしのために死んでくれた。言葉もない、この通りじゃ。」
官兵衛は、四兄弟の父・与次右衛門の家に弔問に出向き、深く頭を下げた。
家には末弟・与一が残っていたが、まだ八歳であった。与一は官兵衛に呼び出された。
「おまえの三人の兄は、みな尋常ならぬ勇士だった。
だが、人の性質は測りがたく、おまえもそうであるとは限らぬ。ゆえに、試す。
おまえは、磔にされた者を見たことがあるか?」
「ありません。」与一は答えた。
「今夜は月夜じゃ。刑場に磔にされた者がおる。そこへ行き、磔柱に印を付けて来い。」
「わかりました。」
刑場へ向かった与一が、磔柱に印を付けようとすると、磔柱が動き出した。
「むっ、こやつ、まだしにきっておらぬか?とどめをさしてくれる!」
与一が柱に登り出すと、なんと磔にされた者が飛び降り、逃げ出した。
「まてー!にがさんぞ!」
「ま、待った!わしは殿の仰せで、おまえを脅かすために刑死者に化けておったんじゃ、
許せ!・・・おまえは子供なのに大した奴じゃ。これを持って、殿に見せて証拠にせい。」
罪人(?)は、白装束の片袖をちぎり、与一に渡した。
この話で、幼いながら家中に面目をほどこした与一は、のちに元服して兵助と名乗り、
他家にも名の知られる武辺となった。
すなわち、黒田家きってのメンドクサイ男、井口兵助である。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
10:人間七七四年
09/04/24 09:46:14 66eygMqe
>>9
よくそんな役目を受けたな>刑死者役の人
11:人間七七四年
09/04/24 10:45:32 udWUc9lE
>>1乙也!
>>10
度胸試しの脅かし役みたいなもんで、案外wktkしてたんじゃない?
したら逆にガキンチョに脅かされてちょwまぢかよwwwwやめれww、という
小学生の頃、子供会で度胸試しあって田舎だったから怖かったわ
12:人間七七四年
09/04/24 11:44:28 K86F4Fs+
>5
異なる逸話を紹介して流れを変えるんだ
死ぬ気でやれば案外なんとかなるかもしれないし、ならないかもしれない
13:人間七七四年
09/04/24 14:02:18 e2tWe1WA
>>1
乙
14:人間七七四年
09/04/24 17:28:07 gx1OGd2y
武田信玄の家臣小幡信貞は、長野業正の娘婿であった。
さて、信玄がこの長野氏を滅ぼした後、小幡信貞に「長野家の者であるお前の本妻を離別し、
武田の譜代の家と新たに縁付いてもらいたい。」と言い出した。
これに信貞
「もしこれが、長野家の没落以前の事なら、お受けしていたでしょう。
私は主君、上杉憲政を疎み、その上、越後の輝虎には憎まれ、彼らに一族内の紛争を利用され
討たれる寸前となった所を、武田家に救っていただきました。この信玄公の深い御恩は
どれほどの事をしてもお返しは出来ません。
ですが、今は我妻は、父の実家も既に滅び、もはや寄る辺も無い身柄です。
そうである以上、たとえ御成敗を仰せ付けられようとも、離別する事はできません!」
そう、言い切った。
信玄、信貞の言葉に深く感じ入り、「お前のその見事な意地に、次の戦、先手を申し付けるぞ。」
と、言い渡し、さらに甥の武田信豊を、この信貞の婿にした。
嫁さんを守る旦那と言うのは、やはりこの時代でもかっこいいのだ。
15:人間七七四年
09/04/24 18:03:47 e0rks3wu
信豊を婿養子じゃなくて婿に迎えたのか
男気があるな信貞ァーッ
16:人間七七四年
09/04/24 18:04:29 0TyDXnWg
>>14
細川精神年齢三歳「俺のことだな」
17:人間七七四年
09/04/24 18:55:21 b2Va249y
あんたは離婚「しなかった」んじゃなくて
「できなかった」んだろw
18:人間七七四年
09/04/24 19:36:06 wRqCz7Ui
徳川秀忠「そうじゃそうじゃ。むしろワシのことじゃろう」
19:人間七七四年
09/04/24 21:07:42 gRNJnM6J
遅ればせながら>>1乙です
にしても逸話は尽きないな
20:人間七七四年
09/04/24 21:12:41 DL8FBJDL
逸話だけに、いつわでも続く。ナンツッテ
21:人間七七四年
09/04/24 21:16:27 udWUc9lE
戦国の世にも駄洒落好きの上官がいて部下が苦労したであろうことは想像に難くない
22:人間七七四年
09/04/24 21:42:26 h4C/54Kx
織田信長の初期の有力家臣としてそこそこ有名な佐久間大学助のちょっといい(?)話。
ある日、酔っ払って寝ているところを暗殺者に襲われた。
しかし、そこは剛毅な大学助、逆に暗殺者を斬り伏せ難を逃れた。
とはいえ、無傷とはいかず顔に傷を負ってしまった。
さて、大学助、しばらくして傷は癒えたものの鼻が曲がってしまった。
そこで医者に診てもらったのだが「治すのは無理」と言われてしまった。
それを聞いた大学助、脇差を抜き、鼻の傷と逆側を自ら斬り強引に治してしまったとさ。
23:人間七七四年
09/04/24 22:23:54 Wu3b2GB1
あまり話題にならない今川義元公の逸話。
ある戦で義元は家臣に偵察を命じた。しかし家臣は戦いに巻き込まれて
やむなく敵兵と戦い、その首を持って帰って来た。義元は家臣が
任務を全うしなかったことを怒った。
「偵察したらすぐ戻れと命じたはずだ。それが功名を求めて戦うなど
言語道断、忠義を欠いておる!軍法に従って裁かれるものと思え!」
叱られた家臣はガックリと肩を落としながら、こう言った。
「苅萱に身にしむ色はなけれども見て捨て難き露の下折れ。」
これは歌人の家隆(藤原家隆?)の歌であった。その様子を見て
何か文句を言っていると思い、さらに怒った義元は側近に家臣が何を
言ったのか尋ね、その内容を知った。すると義元はしばらく
家臣の言った歌を口ずさんでからこう言った。
「当意即妙に家隆の歌を連想するとはたいしたものだ。」
義元は家臣の機転のよさに感心して怒りを解いたようであった。
こうして機嫌をよくした義元はこの家臣の罪を許したと伝える。
24:人間七七四年
09/04/24 22:27:36 S3m9e9BK
>>7
如水もポカするんだな
救援は間に合ってるけどさ
>>22
治した…?
25:人間七七四年
09/04/24 22:40:59 h4C/54Kx
>>24
多分、切り傷が治ったことにより鼻が片側に引っ張られてしまったので逆側に傷をつけて同じようにしたんじゃないかな。
26:人間七七四年
09/04/24 22:50:30 S3m9e9BK
それは治すというのか…?w
27:人間七七四年
09/04/24 23:02:16 VA1h2ZHe
治すじゃなく、「直す」だなw
>>23
そういう逸話、いい意味で似合うな、義元
28:人間七七四年
09/04/24 23:30:09 jFlJy5Qs
三斎の息子も奥方関係でアレしちゃったな
問題は親父が爺ちゃんよりもキれた人間だったことだが
29:人間七七四年
09/04/25 12:35:53 5PbosU8L
>>9
この肝試しの話だけまとめの初期になかったっけ
井口さんだったか覚えてないけど
30:人間七七四年
09/04/25 12:37:51 Uk5Qv9Kx
>>29
豊臣家での肝試しならあった覚えが。
ある種のテンプレなんじゃない?
31:人間七七四年
09/04/25 13:52:36 gjOBlMEZ
無学で申し訳ないが、>>23の歌の意味を教えてもらえないだろうか。
検索してみたけどわからんかった。
32:人間七七四年
09/04/25 14:08:06 paH/tCa+
「秋の刈萱には、この身に染み込むような趣があるわけではない
しかし、露に濡れてしっとりと垂れる様を捨て置くには、あまりに惜しいではないか」
みたいな感じなのかな
33:人間七七四年
09/04/25 14:30:30 Uk5Qv9Kx
まあつまり「確かに不必要な事だったかもしれませんが、敵を前にしてそのままスルーするのは
余りに惜しかったのです。」って事を歌に託して言ったわけですな。
34:人間七七四年
09/04/25 18:43:50 Uk5Qv9Kx
永禄8年5月19日(1565年6月17日)、松永久秀と三好三人衆によって、将軍、足利義輝が
殺された永禄の変。
このとき義輝が、足利家稀代の名刀・名物を並べて、次々と取り替えながら奮戦したと言う話は
大変有名です。
ですが、このとき義輝の使った名刀・名物は、今もほとんど残っており、国宝や重要文化財として
大切にされていると言う事は、ご存知でしょうか?
この名刀たちを保護したのは、襲撃した三好三人衆の一人、三好政康であったと言われています。
彼は当時一流の、刀剣の目利きであり、「三好下野入道聞書」という、目利き論の著書もあり、
その鑑定術において、細川幽斎の師でもありました。
そんな、剣の価値を知る彼がいたからこそ、義輝としては皮肉な事でしょうが、
将軍邸の消失の中、この文化財は保護されたのでしょう。
三好政康は長く生き、老齢ながら大阪夏の陣に、大阪方として参戦し、討ち死に。
後に真田十勇士の一人、三好青海入道のモデルになったとも言われます。
「将軍の剣」を、救ったお話。
35:人間七七四年
09/04/25 18:54:20 TJXlDhrQ
そのとき童子切安綱が失われていたら
おまもりひまりや11eyesも無かったと思うと感慨深いな。
36:人間七七四年
09/04/25 20:08:27 keYTjb6I
織田信長が鷹狩に出た時に森蘭丸らと民家に立ち寄ったところ、突然
地震が起きた。大きな地震だったのだろうか、お供の連中はこぞって
外に飛び出してしまう。しかし、信長と蘭丸は顔色を変えずに家に
留まった。やがて揺れが収まると二人は外に出て来て、蘭丸が
「どうか危険なことはなさらないで下さいませ!天下を統一なさる
お方がくだらないことで大事な御身を危険にさらすようなことはやめて
ください。揺れてる最中に申し上げようと思いましたが地震を恐れたから
言っていると思われたくなかったので今申し上げるのです。なにとぞ
お願い申し上げます。」
と述べて信長を諌めた。信長は蘭丸の切実な思いに感じたという。
37:人間七七四年
09/04/25 20:54:38 3KJg7jmq
>>35
どらららぁぁぁああ
38:人間七七四年
09/04/25 20:57:35 5dohJfk6
>>36
その晩、信長と蘭丸は寝所で再び地震を起こした。
39:人間七七四年
09/04/25 21:03:25 TSFsl2HA
誰がうまいこと言えと
40:人間七七四年
09/04/25 23:27:19 14Tnsblf
>>33
オレは主君から見限られそうな自分の身を秋の刈萱にみたてたのだと思った。
感じ方も人それぞれだな
41:人間七七四年
09/04/26 00:13:41 gJ44A6sQ
毛利輝元が播州での戦に破れ、撤退していた時の事。
敵の追撃があって危険な状況の中、その先の道は二手に分かれていた。
この時、道脇に神社があるのを見つけた輝元、ここに立ち寄って社人に
「どちらの道を通ればよいか」
と聞けば社人、籤を引いて「そちらの道から落ちられると良いでしょう」
輝元、これをかしこまって申し受けたが、いわれた事をまるっとスルーして
逆の道を通って下った。
さて、間もなく敵の追撃部隊がやってきた。
彼らもこの神社を見つけ、社人に「どちらに逃げたか」と聞いた。
そこで社人は籤でこのように出ましたと経緯を説明。追っ手もその教えられた道を追撃。
おかげで輝元一行は無事、逃げおおせたとか。
輝元籤を逆手に取った気転のお話。
42:人間七七四年
09/04/26 00:38:57 PDdcun8C
とっさの時に、良い判断ですな
43:人間七七四年
09/04/26 00:52:29 /0ZTGJE0
ある時、徳川家康は側近たちにそれぞれ一万石を与えた。しかし、
安藤直次だけ横須賀五千石だった。じつは家康は横須賀が一万石だと
思いこんでいたのだ。
それから十年。家康とかつて加増された者たちが一同に会したことが
あったがそこには直次もいた。
「以前お前たちに一万石ずつ与えたが、その後どんな様子だね」
と家康は家臣たちに尋ねたが、直次だけは五千石しか貰っていない。
そこで家臣たちの一人がそのことに言及したのだった。
「あのー、畏れながら直次だけ五千石なのですが・・・」
「え?!マジで?」
家康は加増から十年目にしてやっと初めて自分の勘違いに気付いた。
「そうだったのか・・・。わしは決して直次だけ低い禄高にしようと
思ったわけではないのだ。それにしても、
直次はわしの間違いを顔に出さず、口にせず、怨みも怒りも抱かずに
今日まで耐えてよく頑張った!感動した!」
そう言うと家康は足りない五千石に十年分の差額を加えて五万石を
加増した。これは今まで勘違いしていたことを恥じたことと、直次が
決して家康の間違いを指摘しなかったことを賞してのことであった。
44:人間七七四年
09/04/26 01:07:08 /0ZTGJE0
>>43
間違った。管理人さん修正お願いします。
×五千石に十年分の差額
○五千石と十年分の差額
45:人間七七四年
09/04/26 01:18:37 /0ZTGJE0
また間違ったorz
×五千石に十年分の差額を加えて五万石を
○五千石と十年分の差額の五万石を併せて
46:人間七七四年
09/04/26 01:41:30 YnD78bO+
>>43
何処かの家臣には500石足りなかっただけで不満ぶちまけて、庇ってくれた同僚にも泥をかける行為をした家臣がいたようなw
47:人間七七四年
09/04/26 02:36:44 B7ww1LE9
加藤さん家の庄屋殺しのことかー
48:人間七七四年
09/04/26 02:37:53 8545qA0V
>>43
これって山内一豊でも同じ話が伝わってるよね
家康うっかりしすぎだろw
49:人間七七四年
09/04/26 03:19:45 3FVLr0/W
安藤直次さんはメンドクサイ三河武士の中でもメンドクサイ逸話が
豊富な人だけど、この場合はいい方に作用したんだな。
50:人間七七四年
09/04/26 07:57:17 GKOsqRac
>>49
めんどくさいから意見具申しなかったってこと?
昔の人はすごいな。
51:人間七七四年
09/04/26 08:49:30 q3FoUt/T
>>34
襲撃してそいつから剣を奪っただけにしかw
52:人間七七四年
09/04/26 08:54:17 Qlq8UZoS
お救いした と言うべきだな
53:人間七七四年
09/04/26 10:18:42 ia0c2yit
>>41
これさらっとしてるけどいいな
社人が気を利かせて逆の道教えていたら大惨事だろうけど
54:人間七七四年
09/04/26 10:34:46 cY7WK7BI
家康の場合、ケチで有名だからわざと間違えたフリしてる様な気がしなくもない。
「あー、こいつはどうせ文句言わない奴だから、余裕が出来るまで後回しでいいや」
55:人間七七四年
09/04/26 10:43:09 jQ0lsR8U
批判がしたいためだけに思い込みで批判をする人間の小さきことよ
56:人間七七四年
09/04/26 10:44:53 gJ44A6sQ
つーか一豊の場合、土佐は太閤検地の時は9万8千石だったのに、
実際に拝領してから検地したら20万2千6百石余だったらしいからね。
倍以上。
これについては家康の持った印象の方が正しかった。
57:人間七七四年
09/04/26 10:58:09 +Juf3Ch9
>>56
一領具足を大粛清したからな。
みんな田んぼせいやー という
58:人間七七四年
09/04/26 12:37:28 bbVM4j9U
>>50
意地にかけて恩賞ごときで主君に不満などいえるか、ってとこじゃね
59:31
09/04/26 13:58:35 RBBtWKMn
>>32
>>33
レスサンクス。勉強になりました。
咄嗟にこういう返句ができる人になりたい……
60:人間七七四年
09/04/26 14:01:44 uEwi+xfM
相手間違えるとバカにしてんのか、貴様で手討ちかもしれないぞ
61:人間七七四年
09/04/26 15:13:56 CR0aSHpK
今でいうとコピペ改変みたいなもんだな
62:人間七七四年
09/04/26 15:53:31 EUF5RgWw
政秀!これを食え!エピソードがまだ無いな
63:人間七七四年
09/04/26 17:28:37 YfWISDUb
>>53
TERU直卒の軍勢が播州で敗走ってそもそもあったっけ?
64:人間七七四年
09/04/26 17:44:07 ia0c2yit
>>63
お、俺に聞くなよ
逸話書いた人に言ってくれよ
65:人間七七四年
09/04/26 18:07:35 B7ww1LE9
上月城の時は毛利の勝利だし
三木城の時はTERUは出陣してないもんなぁ
66:人間七七四年
09/04/26 18:13:41 Rn/Y7nMr
いつから逸話の揚げ足取っていいことになったんだ?
67:人間七七四年
09/04/26 18:31:40 aHolapUk
どこかの奥方を攻めに行ったけどだめで敗走してたって事にしておくんだ
68:人間七七四年
09/04/27 02:58:34 g1rIpQoV
細川忠興が、公儀普請を仰せ付かった時のこと。
忠興は家臣の加賀山権左衛門に、その普請の見積り計画書を作らせた。
加賀山は仔細に検討した綿密な見積りを作るが、それを忠興に提出する前に、
この普請自体が中止になり、当然、加賀山の作っていた見積りも、
もはや不必要と言う事になってしまった。
しかし、忠興の近習の者達は、
「加賀山は実に見事な仕事をしていたのに、これをなかった事にするのは酷すぎる」と、
その見積書を忠興に見せた。
忠興はそれを見て大いに感じ入り、その夜、加賀山を招いて、
「無駄にはなってしまったが、見事な仕事をした。」
そう申し述べ、千石の加増を約束した。
ところが加賀山、翌日さらに忠興に呼び出された。
何事かと思って御膳に出れば
「加賀山、昨晩はお主に千石加増などと言ってしまったが、あれはわしの目利きが違っていた。
あれからお主の見積書を仔細に確認してみた所、そなたの作った見積りは、
そのすべてにおいて完璧であった。
普請がなくなったとはいえ、これだけ詳細なものを作り上げた事、これは普請を勤めたのと同じ事である。
またこれは、今後も普請の見積りを作る際の手本となるであろう。
これほどの仕事をしたお主の手柄は、千石では足らぬ。後日更なる加増を約束する。
今日はわしの不明を謝りたくて呼んだのだ。」
家臣の無駄になった仕事を評価し、さらに評価し足らなかった事も反省した、忠興公のお話。
69:人間七七四年
09/04/27 04:28:17 Ia3zSJ6s
>>68
うちの社長がこんなだったらオレは今頃万石もらって専務だわ
70:人間七七四年
09/04/27 08:17:28 aAmeUaoF
>>68
そこで三河武士なら「普請が沙汰止みになったのに恩賞など頂戴できませぬ」とか何とか
また面倒くさいこと言い出すのだろうな
71:人間七七四年
09/04/27 11:00:21 ew2uVG4P
>>70
ツンデレは日本伝統の様式美だな。
精神年齢三斎のヤンデレも実は源氏物語の昔からあるわけだが('A`
72:人間七七四年
09/04/27 12:41:23 ry4ZEnjz
六条御息所かぁ。精神年齢三斎さまも生霊とか出しそうな雰囲気だな、そういえば。
73:人間七七四年
09/04/27 18:07:35 fccQsgrw
最古のツンデレは乙姫だろ
「べ、別にまた来て欲しいから玉手箱あげたわけじゃないのよ!//」
74:人間七七四年
09/04/27 20:37:04 ew2uVG4P
>73単なる罠じゃ……
75:人間七七四年
09/04/27 20:50:48 aQ6cQfyV
寛容な忠興に続き厳しい忠興。
三斎様から忠利さんへ(いつものように)お手紙ついた…が、時に毛色の違う手紙もあった。
「昨日の墨跡三百貫と申す由候、百五十貫になら、取り申すべき者に候。
たって聞き被るべく候。」
(昨日の掛け軸は金三百貫という話だが、百五十貫で良い。交渉し直してこい。)
「御かざり書立て越し被り候内、円座之御茶入は如何様に見て被り候哉。
ちと平き様に在り被るべきかと存じ候。昔は日本に四つの茶入に候えつる、
入らぬ義ながら様子承りたく候。」
(おまえが将軍の茶会に呼ばれた時の茶器一式を聞いたが、そのうち『円座茶入』を
どう見たか?書いてある様子だと少し平たいようだが、昔から日本四大茶入として
知られた道具のことだ。余計なようでも、感想を言ってほしい。)
「鮎持ち給いて候、此のあぶり様にては無き之候。からりと汁の無きほどに
あぶりたるが能く候。
(略)
利休の茶杓とて持ち給い候、利休の手にも取られざる茶杓にて候。
知らぬ者が似せたる物に候。」
(こないだの鮎、なんだ?焼き方が全然ダメ!鮎はカラッと汁気がないくらい焼くのが
いいんだよ!
あと、『利休作』とか言って送ってよこした茶杓だけどなぁ…こんなモン利休先生は
触ったこともないだろうよ!ニセモノじゃねーか!!)
尊敬する利休から継承した『道』については、たとえ跡取り息子でも容赦しない
三歳様でした。
76:人間七七四年
09/04/27 21:09:13 BtmGPM2Y
浦島って成立年代はいつごろだっけ?
77:人間七七四年
09/04/27 21:13:48 iT3vudze
浦嶋子は風土記じゃなかったっけ?
78:人間七七四年
09/04/27 21:14:35 MPu1wz+O
>>75
英才教育だね。
79:人間七七四年
09/04/27 21:36:02 Cdej5ynw
>>75
やな父親だよったくw
80:人間七七四年
09/04/27 21:46:15 nDjNxJm+
今度鮎焼くときは細川家風にしてみよう
81:人間七七四年
09/04/27 22:18:19 wX9Wk8Pn
_ □□ _ ___、、、
//_ [][]// ,,-―''':::::::::::::::ヽヾヽ':::::/、 誰 焼 こ
// \\ // /::::::::::::::::::::::::::::::i l | l i:::::::ミ だ い の
 ̄  ̄  ̄/ /:::::::::,,,-‐,/i/`''' ̄ ̄ ̄ `i::;| あ た
―`―--^--、__ /:::::::::=ソ / ヽ、 / ,,|/ っ の 鮎
/f ),fヽ,-、 ノ | 三 i <ニ`-, ノ /、-ニニ' 」') !! は
i'/ /^~i f-iノ |三 彡 t ̄ 。` ソ ハ_゙'、 ̄。,フ | ) を
,,, l'ノ j ノ::i⌒ヽ;;|  ̄ ̄ / _ヽ、 ̄ ゙i )
` '' - / ノ::| ヽミ `_,(_ i\_ `i ヽ、 ∧ ∧ ∧ ∧
/// |:::| ( ミ / __ニ'__`i | Y Y Y Y Y
,-" ,|:::ヽ ミ /-──―-`l | // |
| // l::::::::l\ ||||||||||||||||||||||/ | // |
/ ____.|:::::::| 、 `ー-――┴ / __,,..-'|
/゙ー、,-―'''XXXX `''l::,/| ー- 、__ ̄_,,-"、_,-''XXXXX |
/XX/ XXXXXXXXXX| | _, /ノXXXXXXXXXX|
82:人間七七四年
09/04/27 22:22:11 NfgKVbmD
鮎をたらふく食って死にたい
83:人間七七四年
09/04/27 22:26:21 KHFjlfRW
>>81
wwwww
おまえの息子だよw
84:人間七七四年
09/04/27 23:17:00 RP0YfCYp
律義者と二代目大御所の話
最初の養子を廃嫡してしまった佐竹義宣
すでに五十七歳、急ぎ甥の岩城義隆を新たな世継ぎに仕立てようとした
頼ったのは、当時大御所となっていた徳川秀忠である
義宣「かくかくしかじか、というわけなんですが」
秀忠「佐竹家は旧家だし、親戚とか家来筋に、義宣がこれはって思う人がいるんじゃないの?」
義宣「いえ、みな非才で…義隆は御前で挨拶してますし、大御所様がご存知なだけでもマシかと…」
秀忠「律儀だねー、まあその辺は義宣の好きにしていいよー」
義宣「ありがとうございます」
秀忠「義宣はまだ若いから、これから子供できちゃうかもしれないけどね(・∀・)ニヤニヤ
そうなっても、義宣の選んだ人が世継ぎなのは変わらないから」
妙に義宣に優しい秀忠であった
85:人間七七四年
09/04/27 23:20:25 cLzxjDfQ
ってか名門には甘い気がする徳川幕府
86:人間七七四年
09/04/27 23:25:07 g1rIpQoV
「名門」って一朝一夕に作れないからね。
変に名門を潰すと、秩序体系そのものに影響を与えかねない。
87:人間七七四年
09/04/27 23:30:39 cLzxjDfQ
当時の名門は佐竹、、伊達、上杉、細川、島津辺りかな?
家格は何処が上なんだろ?
88:人間七七四年
09/04/27 23:46:18 NiqUqB5s
一番は佐竹では?
伊達、島津は家系が怪しいし
89:人間七七四年
09/04/27 23:50:35 cLzxjDfQ
まぁ確かなのは佐竹だけど当時どの程度真偽を疑問視されてたのかによるよな
徳川が源氏と言ってる建前もあるし
新羅三郎義光も源氏ではあるけどどっちかっていうと平家よりだよな
90:人間七七四年
09/04/28 00:18:44 evGzxcoB
>>74
玉手箱でジジイになった後、鶴にトランスフォームして
乙姫の元へ行き結ばれる、って話だったはず。
91:人間七七四年
09/04/28 00:38:30 nPOmxtln
細川は芸風から考えると細川の血よりも清原の血のほうが濃いのかしら
それとも生き様からするとまさに細川の血そのものな生き方なのかしら
92:人間七七四年
09/04/28 01:34:15 78epXXKV
蜂須賀家政の孫の忠英は幼年の頃やんちゃで、家来たちは非常に
手を焼いた。もうどうにもならんということで、家臣たちは家政に
忠英を戒めるよう頼んだ。しかし家政はすぐに忠政を戒めなかった。
しばらく経って、家政は忠英と食事しているところに、家臣に命じて
犬を連れてこさせたが、なぜかその犬は家政の顔を見ると怯えだし、
逃げ去ってしまった。犬が逃げると、家政は庭に粟をまいた。すると、
雀がまかれた粟に群がった。そして政はおもむろに忠英を抱えると
「いいかい忠英。さっきの犬はわしがいつも杖でひどく叩いたので、
わしを見て逃げ去ったのじゃ。対して雀はいつも可愛がっておるから
すぐに集まって逃げたりはしないのじゃ。主君と家臣の関係も同じで、
日頃愛をもって接していれば自然と家臣は主君を慕うのじゃ。だが、
権威で押さえつけるようなことをすれば、従わないだけでなく、犬の
ように逃げだすことじゃろう。今言ったことはよく心に留めるのじゃぞ。」
と諭したのだった。どうやらすぐに忠英を戒めなかったのは、犬の
仕込みと雀の飼い馴らしをしていたからのようだ。
93:人間七七四年
09/04/28 01:57:51 dLVvj9sF
>>81
いつから雄山先生になったんだYOw
94:人間七七四年
09/04/28 04:01:46 pO1AnOht
『こんなこともあろうかと。』
吉田修理は元は関白秀次に仕え、後に結城秀康に仕えた人であった。
・修理が始めて結城秀康にお目見えしたときの事。
秀康は丁度その頃、北ノ荘の城を改修しており、修理に向かって
「これより二の丸の虎口縄張りの改めをせねばならぬ。おぬしも付いて参れ。」
と、その席より立ち、修理もそれに付き従った。
さて、工事現場に着くと、どういうことか長さを測る間竿をなくし、その場の者たちが困っていた。
「何をやっておるのか!早く見つけて縄張りの計測を再開せよ!」秀康公も不機嫌そう。
しかし間竿は見つからずみな慌てている。その時である
「お待ちください!」
秀康の傍にいた吉田修理が声をかけた
「こんなこともあろうかと、家臣にこれを持たせておりました。」
一同「ああーっ!それは間縄(一間ごとに結び目をつけた縄)!!これで長さが測れるー!」
流石は名臣吉田修理。
・結城秀康の嫡男松平忠直の下に、将軍秀忠の娘、勝姫のお輿入れがあったときの事。
吉田修理はお迎えのため、街道まで出ていた。その日は快晴であったのだが、どうしたわけであろう、
にわかに曇ったかと思えば、たちまち激しい雨となった。お輿入れのお供の者たち、突然の雨に打たれ
困惑した、その時である
修理「こんなこともあろうかと。これを用意しておりました。」
一同「ああーっ!それは大量の傘!お供の者全員にいきわたるように2,3百本はそろえてあるーっ!」
流石は名臣吉田修理。
・松平忠直が、その家臣久世但馬を成敗する、と言うときの事。
吉田修理の屋敷は、久世但馬の隣であった。
この久世成敗の時、その混乱の中で屋敷は出火し、大変な家事になったのだが、
不思議と隣の吉田修理邸に延焼することは無かった。
後で人々が、「あなたの屋敷は無事で本当によかった」と言えば、修理
「こんなこともあろうかと、あれを用意してました。」
一同「ああーっ!久世の屋敷に近い長屋には残らず濡れムシロがかけられているー!!
延焼対策は万全だーっ!!」
流石は名臣吉田修理。
95:人間七七四年
09/04/28 06:55:16 jVetBLIH
そんな用意のいい吉田修理ですが、秀次、忠直と主君二人の暴走を止める事は出来ませんでしたとさ・・・
96:人間七七四年
09/04/28 09:10:22 vfKB/cMf
秀次の暴走は嘘だらけだが
97:人間七七四年
09/04/28 09:12:37 i7AWNKbR
>>92
ずいぶんと回りくどいことをw
ってか結果息子はちゃんと心変わりしたんだろうか?
98:人間七七四年
09/04/28 10:10:38 Hy9SfFOw
吉田修理の家臣、常に大荷物を持って付き従ってそうだな。
99:人間七七四年
09/04/28 10:41:41 Uuks431N
>>94某宇宙戦艦の真田技師長かとおもたw
どこかで忠直卿を諌めることができたら名臣に「忠臣」の評も加わったんだろうがちと惜しい。
100:人間七七四年
09/04/28 10:48:36 Uuks431N
>>97蜂須賀家政公て
なんか病で出仕を休んでて(なのに)往来で殿と出くわし、
錯乱した家臣の受け答えをサラッと流した寛容仁愛の人だね。<まとめスレにあったはず
きっと小六正勝さんも面白い人だったろうと期待してしまふ
101:人間七七四年
09/04/28 11:02:15 Uuks431N
>>87河内源氏の出自なら小笠原、南部なんかもそうだっけ
大江広元の裔って毛利家に意外と甘いあたりも名門旧家マニアが故か?
なんだかんだ桓武平氏や田原藤太流もいたよな
あとは石高低くても高家の人とかね。小弓御所、陪臣だが平島公方あたりは前の将軍・足利さんの親戚筋
吉良さんちは徳川に家系図を貸したんだっけ、よく覚えてないが新田義貞の末裔
逸話でなくてすまん
102:人間七七四年
09/04/28 11:33:13 nqOR1X53
日本史上で一番新しく氏族として認められたのって豊臣氏で当ってるよね?
まさか秀吉も二代で豊臣氏の栄華が終わるとは思わなかっただろうな・・・・
と思ったが五大老への遺書を見ると、豊臣氏の先行きに関してはけして楽観視してはいないな。
103:人間七七四年
09/04/28 12:23:22 ofVoG2N1
>>102
秀吉自身幼君を立てて権力を握っていったからな
この先どうなるか嫌っていうほどわかってるだろう
104:人間七七四年
09/04/28 20:34:37 2kFRY5vE
そういえば、島津って頼朝の子孫って設定になってんのねw
105:人間七七四年
09/04/28 20:37:41 yx6NYlMK
>>94
吉田修理があのタヌキ型ロボットとしか思えなくなったじゃないかw
106:人間七七四年
09/04/28 20:46:55 u3/+4KUG
>>104
初代当主の忠久は、頼朝の愛妾の丹後の局、
あの十字の紋も頼朝からもらったことになってる。
まあ、島津家の資料にしかない記載だからあくまで
そういう設定なだけかもしれないけど。
ちなみに丹後の局のお産を狐が助けたという言い伝えもあって
島津家では狐は大事にされたそうな。
107:人間七七四年
09/04/28 20:47:36 QfIzPQnM
戦国の世で、さすがに虎右衛門と名乗るのはいないだろうな。
108:人間七七四年
09/04/28 20:48:09 u3/+4KUG
ごめーん、訂正。
誤)
初代当主の忠久は、頼朝の愛妾の丹後の局、
正)
初代当主の忠久の生母は、頼朝の愛妾の丹後の局、
慌てて打ち込んじゃダメだなー…
109:人間七七四年
09/04/29 00:17:58 KURZYAm1
近江でのこと
ある旱魃の年、隣り合う村同士で水論があり、ついに一方の村が、隣村への水を堰き止めるため
堤を作る。そこで双方、出入りとなった。
水を止められた隣村の方、大勢を出してこの堤を切りに来る。
堤を作った方の村は、人数では少なく甚だ不利であった。
その頃この、堤を作った方の村には、一人の牢人が住んでおり、村人は彼に相談した。
牢人、地下の者たちのうち、老人達を大勢集め一隊とし、少数だが壮健な若者達も又一隊とした。
そして老人の部隊には、堤の所に小石を多く集めさせ、若者の部隊には竹槍を持たせ、
川の下のほうにおいて合図を待たせた。
さて、隣村の勢が堤に近づく。
彼らは集まっているが老人達ばかりであるのを見て侮り、これを蹴散らさんと一気に近づいた。
矢ごろの距離まで来た、その時である。老人達は一斉に小石を取って投げつけた。
これに隣村の衆、辟易して足が止まる。ここに牢人の合図と共に隠しておいた若者の部隊が現れ
竹槍で散々に突く。
これには隣村の衆もたまらず、ほうほうの体で逃げ帰ったとのことである。
村の軍師と、名も無い合戦のお話。
110:人間七七四年
09/04/29 01:03:04 jJ/wGlDg
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111:人間七七四年
09/04/29 01:19:22 oZurEIPs
姉妹スレで坂崎出羽守の話が出たので関連した話でも。
幕府の要人たちは坂崎事件の対応を協議していた。結論は早期鎮圧
ということになり、坂崎の家老に書面を送ることになった。内容は
「あなたの主君の罪は許されないが、あなたが主君に薦めて自害させた
ならば出羽守の嫡男が家督を継ぎ、坂崎家が存続することを約束する」
というようなものだった。
本多正純は協議していた人たちに「家老がその要求どうりにしたら本当に
坂崎家を存続させるのか」と聞いた。この問いに要人たちは「この書面は
鎮圧のための謀略です。謀反人の家を存続させるわけがない」と答えた。
正純は書面の内容が偽りと知ると「謀略なら書面を出すのはよくない。
出羽守の不忠を断罪するために、その家老に不忠な行為をさせるような
ことを天下の政道を守る幕府がやってはならない。天下の政道は信に
基づかなければならないのだ。この事件を鎮圧するためにはすぐに兵を
派遣して誅罰すべきだ。家老に不忠を行わせた上に、騙すようなことを
すれば天下の風儀は乱れるであろう」と言って要人たちの案に反対した。
要人たちは「ですが正純殿、既に議論の上、結論は出ております」と言った
のだが、正純は「そんな結論に賛成できるか。私は署名しないぞ」と言って
署名しなかったという。
その後、このやり取りを知った柳生宗矩は「正純は批判されることを
いろいろやったが、この一言だけは天下の名言である」と言って感心したという。
正純いいこと言ってるけど、孤立してる気がしなくもない・・・。
112:人間七七四年
09/04/29 01:30:12 w6tya9yd
どっかの三成を思い出すな
113:人間七七四年
09/04/29 02:05:52 4Hk4+/io
もし生きていたら三成が辿ったかもね
前も言われていたけれど
114:人間七七四年
09/04/29 08:59:25 L05OLb4I
>>109
牢人って浪人のこと?
115:人間七七四年
09/04/29 09:02:53 7XZsnuGM
>>114そだよ。俗字かもしれんが牢人て書き方もある。
116:人間七七四年
09/04/29 09:28:38 7XZsnuGM
>111正純さんらしいな。一理あんのにその言い方じゃあ同僚に嫌われるわなぁ。
>>112-113
ただ信義っつーよか謀略としての巧拙を評しただけのようにも読める。
「赦免や御家存続の許可を(後々残り得る)書面で渡すって馬鹿なの?死ぬの?」てニュアンス。
関ヶ原後の毛利との交渉みたいに徳川(幕府)から直の手紙は出さず
仲介役を挟んでそいつに交渉させ、後で反故にする方がいいじゃん、という……
大坂の陣では上野介正純さんも色々やってるワケだが、
アレは悪名被ってでも乱世を終わらせて天下泰平百年保たせるためだって
徳川幕府なりに民衆に強弁できる大義名分を押し立てたからでしょー。
マスタープランを描いたのは(正純じゃなくて)神君と本多サドの守だけど。
117:人間七七四年
09/04/29 10:36:32 Y8vMbgNv
三斎殿を(頭が)三歳殿と書くのと同義。
118:人間七七四年
09/04/29 11:58:22 kXn74eZv
>>114
古代中国じゃ主家が潰れたり職を辞したら自宅でヒキッて晴耕雨読がフツー、
これを「牢籠(ろうろう)する」と言った。
「牢人」というのは、ここから転じて、宮仕えをやめて落ちぶれた人のこと。
対して「浪人」ってのは本来は戸籍を離れた「浮浪者」つまりホームレスのことだった。
江戸時代中期から「牢人」もフラフラするようになって、ゴッチャになったらしい。
119:人間七七四年
09/04/29 12:03:55 9Wh5GN8d
>>106
そう言えば義久の兜の前立にちっちゃい狐ついてたっけな
島津家伝来の大鎧だったっけ?
狐の嫁入りとも言われる天気雨(狐雨)は島津家にとって吉兆の験だったらしーね
戦場では大いに士気があがったとか
120:人間七七四年
09/04/29 12:20:59 6BvWbNve
正純は自分が反対したところで覆らないとわかった上での
ポーズ作りのような気がする。
121:人間七七四年
09/04/29 12:54:21 +QXUItJN
>>118
>>114じゃないけど、トンクス。
知識が一つ増えたよ。こういうのを教養っていうんだな
122:人間七七四年
09/04/29 13:09:41 L05OLb4I
>>115>>118
私が114でございます。
勉強になりました。
わからないことは質問してみるもんだね
123:人間七七四年
09/04/29 13:46:15 68zAVEv8
おれも牢籠してー
124:人間七七四年
09/04/29 14:59:47 xLxrkhBd
>>110なんと言う七人の侍w
125:人間七七四年
09/04/29 15:03:42 T5Qybrp8
>>109
こういうのって各地でありそうだな
俺もちょっと郷土史漁ってみようかなぁ
126:人間七七四年
09/04/29 16:31:29 VmuoeKUA
>>119
>狐の嫁入りとも言われる天気雨(狐雨)は島津家にとって吉兆の験だったらしーね
>戦場では大いに士気があがったとか
そうそう、島津雨って言うらしいです。
島津で狐ということでこんな逸話を。
義弘・忠恒親子が朝鮮の役で明の大軍を迎え撃ったときのこと。
いざ敵を迎え撃たんという時に、親子が篭る泗川の新塞から
白い狐が現れ、敵中に駆け入るや風を起こし雨を降らせ、様々な奇瑞を起こして敵を混乱に陥れた。
ありがたやありがたやと親子で拝んでいると、
今度は赤い狐が現れて敵方の城へ駆けていった。
実は敵方の火薬庫爆破の使命を帯びた決死隊の佐竹、瀬戸口、市来の3人が
城の付近に潜伏していたのだが、この狐に驚きつつも導かれるままに
着いていったところ無事に火薬庫にたどり着く事が出来た。
火薬庫の爆発によって生じた混乱を逃すことなく、
『朝鮮の方扉』と呼ばれる大勝利を得た義弘だが、後に戦場を見て回っていると
矢を射られて死んだ白狐と火傷を負って死んだ赤狐の遺体を見つけた。
義弘は
「この狐達こそ我が軍に勝利を導いた霊狐に相違ない」
と、先に戦死した決死隊の三名とともに
この狐達を帰国後に市来郷の稲荷神社に祀ることにした。
このことを伝え聞いた国元の義久も
「戦場へお稲荷様語出現の様子承り奇特神妙に候」と
書状を義弘親子に送り、京都と鹿児島のお稲荷様へお礼に詣でたという。
猫に時間を教えてもらった話は有名だけど
狐もいろいろ助けてくれたんだよ!というお話。
猫神神社もいいけど鹿児島にお越しの際は稲荷神社にもお越しください
(最後に宣伝)
127:人間七七四年
09/04/29 17:55:59 MnG+G+jk
政宗は10年早く生まれれば天下を取ったとか言うけど、実際の天下人家康と比べて貫禄が違いすぎる
一揆扇動して、後で証拠もみ消しとか、子供のやること
128:人間七七四年
09/04/29 18:18:55 T5Qybrp8
>>126
この手の話にはいい話でも悪い話でも大抵狐が出てくるな
しかし紅白とは縁起がいい
129:人間七七四年
09/04/29 18:29:27 qB+SHhzV
政宗に平定後のビジョンとかあったのかな
まあ、信長横死で天下人になった秀吉も元から持ってたわけじゃないだろうから
政宗もそれだけの地位になっていれば考えたんだろうけど
一揆扇動とか嫌がらせみたいなことやってんのも鬱屈してた立場なせいもあるんだろ
せっかく獲った会津没収させられちゃうし
自業自得だけど100万石のお墨付きも反故にされちゃうし
130:人間七七四年
09/04/29 18:48:43 IUhbQQkJ
天下取りなんて運次第だよ
131:人間七七四年
09/04/29 18:49:10 L05OLb4I
政治や戦争は、あまり先のことを考えすぎてもダメなんだろうな・・・・
状況は刻々と変化していくし、
なにか決まった将来像があったとしても、それに拘りすぎていると、
不測の事態が起きたときに固まって身動きがとれなくなってしまうし。
そこいくと、本能寺の変後の太閤と神君の動きは他とは違ったからな(運を含めて)
やっぱ天下人はどこか違うんだろうな
132:人間七七四年
09/04/29 19:36:03 kI0qyD7s
>>126
二年前に知っていたら・・・
駆け足の鹿児島観光だったけど無理矢理にでもコースに入れたなあ
133:人間七七四年
09/04/29 22:16:06 9VxVrzLe
>>126
赤い狐と聞いてつい緑の狸が出ないかと期待してしまったw
そういや日露戦争では赤いちゃんちゃんこ着た狸が203高地攻略に尽力した話があったような。
134:人間七七四年
09/04/29 23:13:44 MGGrjqgg
>>133
遠野物語であったような
太平洋戦争ではカラスが僧に化けて戦地で死者を弔ったとか
んで今は犬が服着て人間より美味いもん喰って肥満気味だとか
135:人間七七四年
09/04/29 23:30:34 KURZYAm1
徳川家光が将軍に就任したばかりの頃の事である。
安藤帯刀の鷹師が、将軍家の御鷹場にて、鷹を使ったという事が老中に報告された。
老中一同そろって安藤に迫る、
「家光公治世の始まりでもあり、この不届きな鷹師を成敗すべし!」
つまりこの鷹師を処分する事により、家光の政治の強さを世間に印象付けよう。
そういう思惑なのだ。
が、安藤、一言の返答もせず、これには老中達もどうにも出来ず帰っていった。
その後、井伊直孝が一人で安藤を呼び、再びその意見を聞いた。
「私の心底を申しましょう。
私は公儀がその能力を認め信任され、紀伊公に御付けなされたほどの者です。
さて、今回の事、これは鷹師の責任ではありませぬ。責任の無い者を成敗するなど、
これは勇士が本意とするものではありませぬ。
そして御公儀より篤い信任を受けた私が、老後に無実の鷹師を成敗するような、不覚な事をして、
それが世間に知らされれば、さてはて、これは御公儀のためになりますかな?
すなわち、かの鷹師を成敗など、公儀の御為にも、私は断固として拒否いたす!」
この安藤の態度に、鷹師の件は結局、沙汰無しという事になったそうである。
安藤帯刀、幕閣の浅慮をたしなめたお話。
136:人間七七四年
09/04/29 23:59:28 ZI0qH5PD
逆ギレだなあ
137:人間七七四年
09/04/30 00:42:02 LsQ8+CXD
徳川家康が駿府にいた頃のお話。
家康は大奥の女中たちが浄慶の悪口を言っているのを聞いた。
浄慶とは台所頭のようなことをしていた坊主である。家康は
年寄の女中にどうして浄慶を嫌うのかと問いただした。
「それが浄慶のつくるおしんこが塩辛いのなんのって、それはもう
酷いのでございます。いつも何とかしろと言っているのですが、いまだに
塩辛くて食べられたものじゃございません。」
「成る程。では、わしからよく言い聞かせておこう。」
約束通り家康は浄慶におしんこの塩を減らすように言った。すると・・・
「そのことですが大御所様、実は・・・ゴニョゴニョ。」
「ふむふむ。フフフ、成る程。」
浄慶は家康に何か囁いたのだった。それからしばらく経っても
おしんこの塩辛さに変化はなかった。疑問に思った家康の近習は
「いったい大御所様になんと言ったのだ。」と質問すると、浄慶は
「女中たちはいくら塩辛くてもおしんこをたくさん平らげます。まして
女中たち好みの味にしたら、いくらつくっても追い付かないことでしょう。
ですから、女中たちの話は聞かなかったことになさるとよろしいでしょう、
と申し上げたのだ。」
と答えたという。
138:人間七七四年
09/04/30 00:54:57 CGnprqNi
>>137
ケ……倹約家のツボをついたなw
139:人間七七四年
09/04/30 01:36:25 EqMMbB6h
>>135
自分の身分と御所の威光を嵩に罪をうやむやにした、悪い話だと思う
140:人間七七四年
09/04/30 02:27:43 r3kE7ifX
もしくは戦の経験も無いのに余は生まれながらの将軍じゃんとか言ってる糞ガキを
自分の身分や評判を賭けてまで諌めようと仕組んだめんどくさい三河者の忠義かな
家光の阿呆さ加減や小さなことにまで目くじらを立てる幕閣の態度に腹を据えかねて
141:人間七七四年
09/04/30 12:59:54 9K4FjIx7
暗に処罰すんなら俺を処罰しろっつーてるな
142:人間七七四年
09/04/30 13:07:16 DSq56PEK
将軍の御鷹場とわかっていてやったのかにもよるな。
不可抗力なら殺してはならないが、そうでなければ専制君主としては殺すべき。
まぁ、責任がないという言葉を信じる限り不可抗力だったのだろう。
不可抗力だったのに殺したら残虐のそしりは免れないだろうな。
式典の進行を遅らせたとか、行事に関わることならともかく。
ただ厳しくすることが厳格な法運用だというわけではなく、量刑を正しく、かつ例外なく罰するべきなわけで。
鼻息荒く勢い込み過ぎている点を指摘したのかもな。
143:人間七七四年
09/04/30 15:15:06 0p1VJH8y
>>137
八丁味噌と同じ発想w
144:人間七七四年
09/04/30 23:11:51 d5XLo8Sf
もしかして関東の醤油が塩辛いのはそういう理由か?
145:人間七七四年
09/04/30 23:23:46 eMWLTJKi
>>144
東日本のほうが味付けが辛いのを好むのは昔から。
信長もそれで三好の料理人から馬鹿にされたでしょ?w
146:人間七七四年
09/04/30 23:42:13 3/ZUsyss
>>137
>塩辛くて食べられたものじゃございません。」
>「女中たちはいくら塩辛くてもおしんこをたくさん平らげます。
女中達はツンデレなのか…
まあ食べ物を粗末にしないのはいいことだよね。
147:人間七七四年
09/05/01 00:41:54 YafMd8XC
細川幽斎が豊臣秀吉に物語などを申し、やがて次の間に下がると言う時、
秀吉近習の若い悪戯者が、幽斎が床を踏む瞬間に足を取って転ばしてやろう、と、企んだ。
その時幽斎、足を返そうとこっそり伸びてきた手を見もせずに、そのまま踏みつけた。
「おっと失礼。そんなところに手を出しては危ないぞ?」
これには悪戯者、言葉も無かったそうである。
148:人間七七四年
09/05/01 02:42:00 hEtW5ndw
>>62亀ナリヨ、
信長が後々まで平手の爺様を敬っていた話かな。
だいぶん前のスレに何かあったから、まとめサイトで探せばあるかも。
今携帯厨なんで検索できんが
149:人間七七四年
09/05/01 06:39:23 zc+e64Cz
>>147
その悪戯っ子、幽齋さんが豪腕の持ち主ってしらなかったのか?
握撃食らったら漏らすぞ
150:人間七七四年
09/05/01 09:32:27 yPG8iXXk
黒田に弱兵とボロクソ言われた鍋島
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
が、その鍋島にボロクソ言われる軍があった
その軍とは朝鮮、明軍
朝鮮から帰った鍋島は家臣に常々
「朝鮮の役ほど働きやすい楽な戦は無かった。」
と語っていたという
諸将と語り合ってる時も
「日本の戦とは全然違う。敵脆過ぎ。先鋒がすぐ崩れる。」
とボロクソ言っていた
下には下がいる
日本では弱兵でも国外では十分通用した
そんなお話
鍋島の扱いがこのスレでは悪い気がするのでちょっと支援
151:人間七七四年
09/05/01 09:34:14 hEtW5ndw
>149
手や指の関節が強制的に増やされてな。
152:人間七七四年
09/05/01 10:56:51 4jiXoic1
>>150
実は殺した数で言うと
鍋島家はあの鬼島津よりも加藤清正よりもずっと多くてダントツの一位らしい・・・
これはちゃんとした史料に載っていたと思うが、その史料名が思い出せない・・・
なのに綺麗さっぱり半島民には忘れ去られている鍋島さんなのでした。
鍋島さんちの(都合が)いい話。
153:人間七七四年
09/05/01 11:14:07 4bOhHmy1
織田有楽斎の述懐
あれは忘れもしない天正10年のこと。
6月2日未明、妙覚寺の外が騒々しい。
小者の喧嘩かと思うと、やがて木がはぜる音が地を這うように響いてきた。
何事かと外に出ると、本能寺の方角が火の海である。
仰天しておると、村井定勝からの知らせ。
惟当日向守謀反、攻め寄せられた兄信長は火の中で自刀したと。
本能寺に向かおうにも大軍にはなす術もない。
茫然とする間もなく手狭な妙覚寺では適わぬと、二条御所に慌てて逃げ込んだ。
10歳年下の主君で甥でもある信忠、その一党は、評定となる。
逃げ出そうにもすっかり囲まれている。信忠から尋ねられたが、
腹を切るとしか言いようもない。
寄せ手の光秀軍に手向かいながら、信忠は切腹、側近旗本、弟の長利までも皆後を追った。
遺体は御殿と共にすぐに火に呑み込まれていった。
自分も腹を切るつもりであった。遺体は燃やすつもりで薪を寄せ集めた。
ところがそこに敵兵がなだれ込んできた。
腹を切るいとまもない。とっさに薪の中に身を隠した。
誰も気づかない。助かってしまった。
薪の中で考えたのであるが、織田一族、皆が死に絶えてどうなろうか。
それこそ光秀の思うつぼである。
一人でも生き残れば、また運はめぐってくるというものである。
それにわしは兄からそれ程目をかけてもらった、というわけではないからな。
生き残ったおかげで陰口も散々叩かれたが、茶という瑞々しい世界が
わしには開けつつあったし、現に今花開いておる。
今思えば死に損なって良かったぞ。
154:人間七七四年
09/05/01 11:14:55 Rf1F68P+
鍋島って朝鮮でなんか活躍してたっけ?
155:人間七七四年
09/05/01 11:43:01 jFPmZjTN
鍋島は焼き物の職人を大量に連れ帰って伊万里を興してるな
156:人間七七四年
09/05/01 12:07:17 hEtW5ndw
つ シグルイ(の元祖)
>150
つうか戦術は洗練されてなかったかもしらんが佐賀竜造寺、鍋島は普通に強いだろ?
沖田畷でコテンパンにされてっけど、それまで勝って支配地を広げてたからこそ
肥前のクマーさんは五州大守なんて吹きまくってたわけで。
157:人間七七四年
09/05/01 12:24:39 X5bkA68X
直茂さんの扱いってそんな悪いか?
人気者じゃないか。
158:人間七七四年
09/05/01 12:35:53 Ophlqd6B
スレ違いスマソ
>>156
ただ、最後まで戦った大友と違って、沖田畷でコテンパンにされた後は島津に
臣従しちゃったのがねい。しかも、裏で秀吉と通じていて、秀吉がやってくると
すぐに裏切るし。
関が原のときだって、日和見したあと裏切るし。
159:人間七七四年
09/05/01 12:37:15 KTzOXAAv
近畿東国といった軍制先進国からみたら、しょぼいってだけで
九州でも弱いって話じゃないな
160:人間七七四年
09/05/01 12:45:17 Cyqo4bLP
1570年、今山合戦では鍋島直茂、油断していた大友親貞を700の手勢で
討ち取って一躍名をあげたと。
絶体絶命の死地での起死回生の大ギャンブル
佐賀の周囲をぐるり取り囲む大友勢6万の間隙を突いて小勢で
急襲し、酒宴の後で寝込んでいた大友の御曹司を討ち取ってしまった。
すぐ横には猛将戸次鑑連の陣があったが、なす術もなくまんまとやられてしまった。
161:人間七七四年
09/05/01 13:01:58 hEtW5ndw
>158
九州征伐や関ヶ原での去就は評価が割れるだろけど、
巧みに勝つ方へついて家を残したら弱いと言われるんじゃいい気はしないよ…
何か最前線では猪武者みたいな鍋島武士と、背後で政略巡らす直茂公のギャップがあるから、かなあ。
162:って
09/05/01 13:03:06 hEtW5ndw
サパーリ逸話から脱線しちまった。御免
163:人間七七四年
09/05/01 13:59:23 g6JTvg1I
>>145
薩摩の醤油は甘い…甘すぎる。
九州や日本各地に甘口醤油の地域あるけど薩摩のは別格。
鹿児島には甘口以外にも辛口醤油とかもあるんだけど、辛口も甘いんだよw
濃口とか淡口とか薄口とは全くの別モン
他地域の人が引越しとかで来県するとスゲー戸惑う。地元の醤油の持参は必至
味噌や醤油の話すると薀蓄や逸話多くて長くなるよね
164:人間七七四年
09/05/01 14:33:08 k9r8XADZ
ちなみに醤油のことを"Soy sauce"って言うのは、
外人に醤油を指して"これは何だ?"ときかれた
薩摩の侍が"そい(鹿児島弁で醤油のこと)"と答えたのが由来。
豆知識な。
鹿児島出身だけど、>>163の言うとおり鹿児島に来るときは
地元の醤油を持参したほうが良いよ。いやホント。
165:人間七七四年
09/05/01 14:56:12 3VMxZNHL
大豆のソースだからじゃないんか
166:人間七七四年
09/05/01 15:00:37 Ophlqd6B
>>165
URLリンク(en.wikipedia.org)
The English word soy is derived from the Japanese pronunciation of 醤油
(しょうゆ, shōyu), the Japanese word for Soya sauce; soya comes from
the Dutch adaptation of the same word.
167:人間七七四年
09/05/01 15:02:04 usk5ftlO
>>165
醤油の方から大豆の名前が付いた格好らしい
168:人間七七四年
09/05/01 15:05:58 3VMxZNHL
大豆って中国原産だったと思うからそっちから来てるもんだと思ってたわ
知らんかったな
169:人間七七四年
09/05/01 15:41:08 9NvB0gRR
薩摩醤油w
知らないでお寿司食べた人吹くね、
あと味噌wなんでみそ汁に砂糖!!
でもって、聞いた話。
高価で貴重な甘味料、それだけで美味い(うましはあましの転訛説あり)時代、
琉球南西諸島の窓口で比較的砂糖が手に入りやすかった薩摩と中継港長崎
料理だったらなんでも砂糖いっぱい使うようになったそうです。
長崎の地元コース料理、卓袱(しっぽく)これ自体コース全般いいかげん甘いのに
最後のデザートがさらさらのぜんざい。甘いのなんのってこれ全部砂糖じゃないかとわろたw
170:人間七七四年
09/05/01 16:34:19 u4yPjPp0
まぁ、香川県の雑煮は砂糖入りの白味噌に餡子餅なわけだが
子供の頃、正月帰省して無理やり食わされて泣きじゃくってたw
脱線スマソ
171:人間七七四年
09/05/01 16:41:08 k9r8XADZ
こういう地方の料理やお菓子関連で良い話って無いかな。
戦国時代に考案された非常食が時代とともに名産品にって…
伊達のずんだもちは政宗が考えたんだっけ。
172:人間七七四年
09/05/01 17:04:51 hEtW5ndw
>>171
讃岐や阿波の和三盆糖は密偵だったのか?腕利き浪人が
あのよそ者に厳しい薩摩から苗を密輸(もろ窃盗)して、東四国の特産品に育てたんだよな。
サトウキビ自体の糖度は薩摩や琉球より低く、そのままでは砂糖の用をなさないってんで
秘伝の職人芸で「砂糖を研ぐ」工程を繰り返す。
ちょっぴり雑味を残して、かえって深みのあるまろやかな甘味になっているよ
天領、とくに上方で高級菓子や薬扱いされていい値がついたそうなー
漏れも白味噌あん餅雑煮はアレだ、一膳は平気だけどおかわり出されると倒れるw
173:人間七七四年
09/05/01 18:43:53 FvQBufao
家康の小姓に大久保藤五郎という者がいた。
この者、三河一向一揆の時に足を怪我して不具となり、もう武者働きはできぬ
と家康の元を致仕した。
武士を辞めた藤五郎は菓子作りをはじめ、時おり浜松の家康のもとに手作りの
菓子や餅を献上していた。
やがて家康が関東移封となると、藤五郎も不自由な身体をおしてこれに従った。
家康は「また藤五めの菓子が食えるわい」とたいそう喜び、藤五郎に三百石の
知行を与えるとともに、徳川家の菓子司に任じたという。
174:人間七七四年
09/05/01 19:03:40 LFOC5tRy
>>153
ダメだ、どうしても介錯人蹴倒して颯爽と逃走する長益さんしか思い浮かばない
175:人間七七四年
09/05/01 19:13:26 GvmXFZ0U
愛知県知多半島の銘菓『生せんべい』の物語
永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元公に加勢した徳川家康公は織田信長公に押され、
やむなく母(伝通院)のいる坂部城(今の知多郡阿久比町)に逃れて来ました。
そこから伝通院の妹の嫁ぎ先の岩滑(やなべ)城(今の半田市)を訪れようと、さらに南下。
矢勝川を渡り半田に着いた時は昼近く、疲労と空腹のために駒の足もにぶっていました。
家康公は、とある百姓家の庭先に干してあるせんべいを目にしました。
娘みつは、そのせんべいが生であることを恐る恐る申し上げたところ、
「いや、生のままでもよい」と、家康公はたってそれを所望。いかにも美味しそうに頬ばりました。
そして、家康公が半田に滞在中はせんべいを生のまま献上するように申し付けて、百姓家を後にしました。
翌日、献上品を持って岩滑城を訪れ、再び家康公に会ったみつは思わず目を見張った。
この方が昨日のお人・・・・。
その天下をのむ気概と精悍な面持ちに心を奪われ、一人ひそかに慕うようになりました。
しかし所詮届かぬ思いのはかなさを知ったみつは、家康公が陣をととのえ三河に去ったそのとき、知多の山の緑にかこまれた美しい池に姿を消しました。
そのしらせに村人がかけつけた時は折りしも昇る朝日にきらきら輝く雲母があるばかりであったそうです。
のちにその雲母にちなんで一枚一枚重ね合せた生せんべいを作るようになったと伝えられてます。
URLリンク(www.namasenbei.jp)
176:人間七七四年
09/05/01 19:44:51 jFPmZjTN
>>173
ただの菓子屋に三百石とは、ドケチのヤスがずいぶん奮発したもんだ
177:人間七七四年
09/05/01 19:56:39 XXGRyLil
176氏は>>175での神君モテモテエピソードに嫉妬したんだと思います
178:人間七七四年
09/05/01 20:12:08 9SJdEWkp
扱いの差が酷すぎる、とH.Y様が申しております
179:人間七七四年
09/05/01 20:50:40 mPUOClTk
>>172
おぉ、それテレビで作ってる所を見たことがあるぞ
そういう歴史があったんだなぁ
180:人間七七四年
09/05/01 21:19:57 00yTRdc8
>>179
テレ東?
181:人間七七四年
09/05/01 21:33:34 q4i2AQib
正月の雑煮紹介には欠かせないやつだぜ
俺もろ地元だけどな
一個がやっとだぜwww
182:人間七七四年
09/05/01 21:34:34 X5bkA68X
家康はケチなイメージが強いけど、いわゆる守銭奴的なものではないと思う。
俺の勝手なイメージだけど。
183:人間七七四年
09/05/01 21:38:40 y98CFT2Z
>>172~175
こういう話があると地方へ出張したときのお土産探しにも
気合が入るな~
184:人間七七四年
09/05/01 22:14:02 mPUOClTk
>>180正解!
185:人間七七四年
09/05/01 22:21:19 jFPmZjTN
>>182
どうしても秀吉と比較されてしまうからな
その点は不利だと思う
186:人間七七四年
09/05/01 23:05:01 YafMd8XC
黒田如水の訓戒より、本当に恐ろしいもの。
「神の罰より主君の罰のほうが恐ろしい、しかし主君の罰よりも、臣下、百姓の罰が恐ろしい。
何故なら、神の罰は祈れば免れよう。主君の罰は詫び言をすれば許されよう。
だが、臣下百姓に疎まれては、必ず国家を失うものだ。
祈っても詫び言しても、その罰は免れ難い。
ゆえに神の罰主君の罰よりも、臣下万民の罰が最も恐ろしいのである。」
元キリスト教徒でありながら神が最も怖くないと言ってのけるあたり、如水の怜悧さが垣間見える
感じがしますな。
187:人間七七四年
09/05/02 00:14:25 iyIi9UGS
>>171
政宗ずんだはガセだと思う。そもそもずんだって、宮城だけじゃなくて
山形にも福島にもフツーにある。あれがなぜかいつの間にか宮城名物になっているのは、
山形福島の民にとってはちと納得いかんのだよ。
188:人間七七四年
09/05/02 00:22:58 SCHixyT7
紀州徳川頼宣が、晩年に語ったことである。
頼宣四歳の頃、父家康に従って、漁り(すなどり)をしたことがあった。
その道すがらに、谷川があったのだが、この時家康は頼宣に向かって
「ここを馬に乗って渡れ」
と言ったが、頼宣はためらい、頼宣の左右の者たちはこれを察して手助けしようとしたので、
家康は「臆病な事である」と言って、頼宣の従者達を叱り、結局谷川を渡る事はなかった。
頼宣七歳の時にも、家康が漁りに連れて行った。
この時にも途中谷川があり、家康もまた「ここを馬に乗って渡れ」と言う。
頼宣は四歳の時、渡らず臆病と言われた事を思い出し、一人で憤然と谷川に乗り入れた。
しかし過って水に落ち、流された。
ところが、である。
水の途中には網が張ってあり、そこに引っかかった頼宣を、従者達が引っ張って助けた。
川にはあらかじめ、家康の命により網が取り付けられていたのだ。
このようにして家康は、頼宣に剛毅の心を育てようとしたのであろう。
これを語ると頼宣は、「今にして思えば、父上が私のことを思い訓育してくれたこと、
涙の出る思いである。」
と、振り返ったそうだ。
自分の子供に冷たいイメージのある家康の、父性愛を感じさせるエピソード。
189:人間七七四年
09/05/02 00:34:14 Zd51S0RB
結城秀康、松平忠輝 「今にして思えば、父上が私のことを思い訓育してくれたこと、
涙の出る思いである。」
190:人間七七四年
09/05/02 04:02:23 te2ha9Ni
>>189
信康「良いぞ二人とも、もっと言ってやれ!」
191:人間七七四年
09/05/02 07:12:28 QeXyOw91
>>171-172
越後長岡9代目藩主・牧野忠精が病に倒れた。
心配した近臣が菓子商・大和屋に相談を持ちかけた。
大和屋が試行錯誤の末に創ったのは、口にすれば淡雪の如く溶ける真白な干菓子。
身体に染みいるその甘さに、忠精はたちまち食欲を取り戻したという。
快復して後、大和屋を召して曰く、
「このうまさ、私一人にはもったいない。我が藩の名産とし広めよ」
藩主直々に『越乃雪』と名付けられたその菓子は、
やがて日本三大銘菓に数えられるまでになり、
現在も当時のままの製法で伝えられている…。
和三盆で思い出した。
戦国でなくてすまん。
192:人間七七四年
09/05/02 08:18:19 PErHbdVx
>>186
富樫一族「まったくだw」
>>188
この場合の正しい答えは「馬をこんなことで損なうわけには参りませぬ」だと思う
詳しくは神君の小田原の陣の時のエピ山椒もとい参照
193:人間七七四年
09/05/02 08:50:50 PyEQ8bLk
富樫は政争の結果でしょ
194:人間七七四年
09/05/02 11:55:40 0/HDd7iL
昔の教科書だと加賀一向一揆は戦国の話として普通に載っていたが今はどうなんだろ
百姓の持ちたる国・・・として持ち上げられていたが、実際には下手な武家勢力より重税を課せられていたわけでいいもんじゃない
あと、なぜかこの時点で富樫氏滅亡扱いになっていたようなw
実際には1574年の富樫泰俊まではれっきとした一勢力として残っているわけだし、その前の富樫晴貞(でも泰俊の弟)の代だと
一向宗とやりあえるまでには勢力を回復していたわけで。・・・・まあ結局攻めおとされたけどさ。
富樫氏はその後は泰俊の孫が帰農して十村肝煎(10の村を統括する庄屋)として残っていくわけだけど。
・・・流れ的に書いたがいい話に書くことじゃないな
195:人間七七四年
09/05/02 12:02:02 CBXgoMyH
>>194いや、その後の顛末まで書いてくれたから
一向宗、門徒に翻弄されながら家名を残した一点を「いい話」でいいっしょ。
守護、大名としての家格は失ってもさ
196:人間七七四年
09/05/02 12:10:54 SCHixyT7
本願寺もそうだが、寺社領と言うのは、農民、惣村が、代官などの中間の存在を通さず、
領主である寺社に直接訴訟を上げる事ができる権利を持っていた。
これは守護大名や戦国大名の支配地域では不可能な事で、こういう、領民の権利の意味で寺社領は
戦国大名の支配より、確かに進んでいた。
197:人間七七四年
09/05/02 12:17:18 MEtlXHpr
調べてみたらWikipediaには富樫氏は明治以降もその地域で村長を務めたり名家として残ったみたいだね
まあ、統治の方向はともかく実際にそれを担当する人間次第だからなあ
加賀一向一揆崩壊の元凶の一つは統治担当の七里頼周や下間頼照がアレな手合いだったのもあるし
198:人間七七四年
09/05/02 12:32:27 mKB4JKHC
徳川が天下取ったから家康に都合がいい記録が残りがちだろうけど
数々のエピソードを見ると、家康の人間の大きさ、政治家としての貫禄が目立つね。
上から押さえつけるだけの信長とは違いすぎる。
199:人間七七四年
09/05/02 12:42:30 SCHixyT7
そう言う単純比較は荒れるもとでござるよ。
あと、信長が上から押さえつける武将かといえば(そうイメージされがちだけど)
調べるとそう言うわけじゃなく、むしろ合意形成を大切にする、待ちのタイプの政治家だったりする。
たしかに独裁色は強いけどね。
信長秀吉家康のキャラクターの違いは、置かれた状況による部分が、正直大きいと思うよ?
200:人間七七四年
09/05/02 13:32:35 dCnazr1M
上から押さえつけるってのも後世のイメージなんだけどね
秀吉時代に比べればかなり自由だったらしい資料もあるよ
ただ、今で言うDQNには厳しかったようだね
201:人間七七四年
09/05/02 13:42:20 ydTvCfPT
>>196
戦国大名にも守護大名にも、直接訴訟を受け付けた記録が残っているのだが
202:人間七七四年
09/05/02 14:08:26 Mj5GM+xA
島津が朝鮮の役に非常食として持参した灰汁巻は
今では端午の節句に欠かせないお菓子。
帰省の土産に買ってきたのはいいが、
糸で引き切るのを説明しないまま大学の友人におすそ分けしたら
『包丁一本台無しになった』といわれてしまった。ゴメンよ…
もち米を蒸したお菓子だから包丁じゃ切れないんだよなー。
URLリンク(www.kt.rim.or.jp)
203:人間七七四年
09/05/02 15:11:10 CFHNfAh+
示現流開祖東郷重位と弟子の話 1/2
重位と弟子が雑談していたときのこと。
突然、真剣な表情で弟子が重位に問う。
弟子「斬り合いの場にて、絶対に負けない奥義を教えてください!!」
現代人からすると無茶苦茶な質問に見えるが、流石に達人東郷重位。
静かな口調で弟子に答える。
重位「それなら斬り合いの場で何があっても刀を抜かなければいい。
そう、戦いの場にて刀を抜かない。
これこそが百戦百勝の奥義だよ。」
弟子が唖然として問い返す。
弟子「…あの失礼ですが、こちらが抜かねば、相手だけ抜いて、私はたちまち斬られないですかね?
それでも抜かないんですか?」
重位が涼しい表情で答える。
重位「うん」
しばらく黙って考えていた弟子が言う。
「わかりました!弟子は尊敬する師匠の言うことを信じればいい。
今後はそのようにしたいと思います。」
204:人間七七四年
09/05/02 15:13:53 CFHNfAh+
示現流開祖東郷重位と弟子の話 2/2
それから数日の後、坊の津で牢人らしき者が役人と従者の二人を斬りすて、
民家に立てこもるという、平成の今にもありそうな事件がおこった。
坊の津地頭の重位と件の弟子も事件に駆けつける。
数人で民家を取り囲んだところ、
このまま籠城しても埒があかぬと覚悟を決めた牢人が上段に構え民家から身を現わした。
牢人は討手全員をゆっくりと見定める。
その落ちついた様子にかなりの手錬者だと重位も気付いた。
そのとき討手を見回す牢人の視線が止まる。
ひとりだけ刀を抜かず青ざめた顔をしている討手を見つけたからだ。
そう件の弟子である。
流石の重位も、抽象的に剣の奥義を教えたすぐ後に実戦の場に立った弟子を心配し不安にもなったのかもしれない。
そして牢人の刀が弟子に振り下ろされる。
重位「抜け!!」
心の中でさけぶ重位。
そして激しい逆袈裟の抜き打ちの音が響きわたる。
当たりに静寂が戻ったときに倒れていたのは牢人だった。
弟子は重位の教えの真髄を体得していたのであった。
205:人間七七四年
09/05/02 15:35:11 N2ryNTFW
死中に活ありってことですか?師匠…
206:人間七七四年
09/05/02 15:43:30 flZ4RAVZ
・・・居合い?・・・・・・・示現流??
207:人間七七四年
09/05/02 15:45:45 SCHixyT7
後の先って事か?
208:人間七七四年
09/05/02 15:59:03 kwUcreHA
こういう話は禅問答と同じ感覚で見たほうがいいと思う。
剣禅一如という言葉もあるし。
言葉だけ見るとただ矛盾した話だから。
現われている言葉の裏を読むみたいなことじゃないか?
月という言葉は月を指す指であって、
本当の月は夜空に浮かんである綺麗なもの。
じゃあ湖に映る月はあれはなに?
喩えになってないね(笑)
209:人間七七四年
09/05/02 16:09:29 v7/1OTVN
これが簡単に理解できたら誰でも
百戦百勝の猛者になってしまうじゃないかw
210:人間七七四年
09/05/02 18:20:03 GN6yP79e
一休さんの屏風のトラのとんちみたいなもんで
「絶対に負けない」というのは「刀を抜かずに勝つ」
と同様に不可能だって言ってる…じゃだめかな(´・ω・`)
211:人間七七四年
09/05/02 18:49:28 CBXgoMyH
>>210
塚原卜然
「ふむ、場所が川の中洲でよければ勝負に応じましょう」
212:人間七七四年
09/05/02 18:53:28 AsVbGF3E
さすがに先生は格が違った
213:人間七七四年
09/05/02 20:03:16 CBXgoMyH
>197
坊主貴族て、織田や上杉の武士より味方の筈の一揆衆からボロカスに非難されていたんだっけ。
織田方の北陸一向一揆征伐軍に攻められて、門徒百姓に紛れて逃げようとしたが
お歯黒していて、いい着物着ていてあっさり捕まり斬首
北斗の拳の拳王先遣隊みたく怪しすぎる変装でバレバレだったんだろう
214:人間七七四年
09/05/02 20:26:35 6vMqYba+
ヒャッハー富田長繁が一時的に越前を手にした後、これを撃破したはいいが結局それまでを
上回る悪政で人心を得られずあっさり奪還され追撃で殺されているなかなかに駄目な二人ですな。
下間は専修寺で、七里は朝倉景健にぬっ殺された(鏑木頼信という説も)
215:人間七七四年
09/05/02 22:19:55 WBnkI1Rg
力で自衛しないといけない時代、富田さんみたいな人の方が信頼できたんじゃないかな
それでも富田さんなら・・・富田さんなら俺達の田畑を守ってくれる
みたいな感じでさ
216:人間七七四年
09/05/02 22:22:22 KsXv7Hkz
なんという世紀末救世主伝説
世紀末じゃないし、死んじゃったけどな
217:人間七七四年
09/05/02 22:48:27 te2ha9Ni
世紀末って言うか末法の世って感じだねw
218:人間七七四年
09/05/02 23:07:31 SCHixyT7
大久保忠成は小田原陣の折、まだ13歳であったが、家康に直訴してこれを初陣とし、
お供として、家康の傍にあった。
ある時忠成が、大筒の音を聞いて、驚いて頭を下げた。するとこれを見た家康が
「侍の子はそんなふうにはしないものだぞ」
と、注意をした。
そこで大久保忠成、この小田原陣の最中、鉄砲の音が鳴る度ごとに、ぴょこんと
飛び上がるようにしていたそうだ。
子供がむきになっている感じの、戦場のちょっとほほえましいお話。
219:ちょっと補足しま。
09/05/02 23:13:07 KO47OFhs
>170-172
和三盆て江戸時代も後期、宝暦以後たぶん安永天明ごろからの産だからほんまはスレ違いなんだけど、ご容赦。
当初、白砂糖の製法を研究したのは脱藩前の平賀源内センセだったそうな。讃岐では弘法さんに並ぶ「お約束」だがこれは確からしい。
実際のサトウキビ苗窃盗犯は讃岐高松を治めた松平さん-水戸系、初代は光圀の兄の松平頼重公-の家臣(NINJA)説がある……
とか言いつつ源内さんの知り合い藩医のお弟子さんだった向山周慶って医者が製法を完成させたんだと。
向山が偶然、旅先で病に苦しんでいた関良助って薩摩人を助け、関がアングラ突破者と化して
サトウキビの苗を密輸入したって話が製糖業者さんのパンフや案内看板にのっとる 。なんだこれ。
原書を読んでない伝聞交じりだからアレだけど、
現東かがわ市の白鳥町と、高松城下の松島に「向良神社コウラジンジャ」てのが残る。向山+良助で向良、ね
220:人間七七四年
09/05/02 23:31:45 ABz4qG/5
しかし藩が違えば特産品の持ち出しが許されるとは思えないし、阿波三盆糖は讃岐三盆糖とは別ルートでサトウキビが流れたんじゃないのかなあ。
221:人間七七四年
09/05/03 02:23:58 NGAVX0Iz
豊臣秀吉は良く、こんな事を言っていたそうだ
「お前達が部下の立場から、主人に対して何か諫言がある場合には、主人の事を褒めた上で
語るべきだぞ?
主人は『諫められている』と感じても、褒められれば嬉しくなる物だ。
逆に批判的なトーンで語れば、言っている事は正しいと感じても、どうしたって機嫌は悪くなる。
同じ事を話すにも、相手の感情の機微をきちんと考えた上でやるものなのだぞ。」
信長にもこの手で接していたのか。そんな事を想像させる、秀吉流処世術の一旦。
222:人間七七四年
09/05/03 02:39:37 VTCK/ll6
これは現代社会でも通じる部分があるなぁ。
秀吉は今の時代にいたら出世しそう。
223:人間七七四年
09/05/03 04:16:50 NGAVX0Iz
「山本菅助」への信玄書状を発見
群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通
URLリンク(www.sannichi.co.jp)
こんな大ニュースがあった記念、武田信玄と山本勘助のお話
ある時武田晴信が、山本勘助にこのようなことを問われた
「他国を占領した際、その国の侍達を皆斬り捨てるか追放をし、一人も召抱えることなく元からの
自分の配下達だけに、その国の知行を分けるという事はいかがであろうか?」
勘助これに答えるに
「それはその大将が手柄を誇り、将来への配慮もなく、外聞を気にしての浅はかな判断だと
申せましょう。
その措置には先ず、国持ち大名として無くてはならない慈悲の心がかけております。
これでは天より憎しみを受け、必ずや災いを呼ぶでしょう。
私もそのような例を、いくつも見聞きしております。」
又、晴信は問うた
「関東の上杉憲政の様子はどうか?」
「はい。憲政は新規の人を召抱え大切に扱います。しかしこれは、そう言う外聞を大切にすれば、
各国各郡から四方にこの事が宣伝され、諸国から大いに人が集まってくることを、
期待してのものです。
人多く集まり憲政に奉公すれば、関東管領としての上杉憲政の威光が上がり、
北条氏康やその支配下の者たちもこれを恐れる。そう言う目論見の元に、大身の親類、或いは
遠国の牢人がやってくれば、これを抱え厚遇しているのです。
このため上杉家中では新参の者が幅を利かし、知行を過分に取り、働いております。
ですが、そのせいで譜代の人々で、上杉家のため熱心に働くものは、十人に一人もいないという
有様になっております。」
晴信はこれを聞いて笑い
「憲政は後先を考えず新参を厚遇するため、古参の者は恨みを抱いて役に立たず、
新参は思い上がって主君を軽んじているため、これも役に立たない。それで双方忠功を怠る。
そんな事だから北条氏康の少数の兵に切り崩され、合戦に敗れるのだ。
憲政のやり方は、下手糞な医者が工夫を間違え、薬を毒にしてしまったようなものだ。
『薬は人を殺さぬ、医者が人を殺す。』と言うやつだな。
大将の人の使い方が悪ければ家臣もまた悪くなる。
世の中にはそれを勘違いをして、家臣が悪くなった事を、家臣の責任だとする者達がいるが、
この武田晴信は、絶対にそのようには考えないと、御旗盾無に誓おうぞ。」
この晴信の言葉に勘助、かたじけなく、感じ入ったとの事である。
224:人間七七四年
09/05/03 09:40:49 zvGJ7m4p
>>222
秀吉はどの時代に生まれてても出世しただろうな。
225:人間七七四年
09/05/03 10:35:28 /PlM/CtP
出自でガッチリ決まっちゃう社会だと無理じゃね
重宝されるだろうとは思うけどそんな社会でやる気出るかは微妙だな
226:人間七七四年
09/05/03 11:16:42 RyuzDG1g
インドとかだと無理じゃね?
227:人間七七四年
09/05/03 12:16:16 a3vYXFyi
>224
古代ローマは無理かもしれん。
ガチホ……アッー!ガイファイトで勝ち上がらなければ良いローマ兵、退役してローマ市民になれない
228:人間七七四年
09/05/03 18:54:09 Lt8lpMGd
大名達の酒席の多さについては、まとめサイトにあるとおり
さて、彼らはこれ以外に茶会で付き合いをしなくてはならなかった
以下、佐竹義宣が元和五年に参勤した際の記録である
3月8日 数奇屋の料理屋を御成書院風に改築させるよう命令
3月10日 米津勘兵衛の数寄に出かける
3月11日 島田直時の数寄に出かける
3月12日 内藤正重の数寄に出かける
3月13日 今小路親清の数寄に出かける
3月14日 岡孝賀と朝会、ますや道句と昼会
3月16日 森川氏信と朝会、田代養元と昼会
3月18日 猪子一時と朝会、山名禅高と夜会、料理屋改築の入札
3月19日 島田利正に茶を振る舞う
3月20日 堀田若狭と朝会、土方雄重と夜会
3月・・・
とまあ、こんな調子で4月28日までほぼ毎日、どころか日に二度も茶会をやっていた
茶の相手は幕府要人や有力商人だけでなく、
丹羽長重、黒田長政、安藤重信、細川忠興、津軽信枚、相馬利胤ら大名もいて、
数寄は接待に必須の場だったらしい
お付き合いのいい話
229:人間七七四年
09/05/03 18:59:29 LPdeCFYg
あんたも数奇ねえ
230:人間七七四年
09/05/03 19:01:21 kxuz9VOv
なんという過密日程
231:人間七七四年
09/05/03 19:44:53 kqhXMGFb
大名稼業も楽じゃねえな
232:人間七七四年
09/05/03 19:48:05 I84Q6hz/
家臣任せに出来ないし、大名本人の教養も問われるし
大変だな、こりゃ。
233:人間七七四年
09/05/03 19:49:49 I84Q6hz/
…と書いた端から思ったけど、茶会と聞いて
「望むところだ!」と張り切っちゃう大名も居たかもしれん。
234:人間七七四年
09/05/03 22:47:11 dY8KohpT
現代社会も茶の湯接待が必要だな
茶道やってたけどあれって会話のきっかけがたくさんあるから楽なんだよな
花とか茶道具とか掛け軸とか
初対面でも会話に花が咲くんだよ
235:人間七七四年
09/05/03 22:58:10 KBbLOaTI
>>224
秀吉は今川家の松下で働いていたけど、一人だけ頑張りすぎて回りにいじめられて逃げ出したとか
光秀は朝倉家では見込み無しと織田に鞍替え
本人の努力、才能、運勢の他に、使える大名家などで変わってくる
236:人間七七四年
09/05/03 23:02:15 w2KXqfSu
見てるこっちの腹ががばがばになりそうだ。
…厠に閉じこもる大名が多かったのはそのせいか?
237:人間七七四年
09/05/03 23:06:36 w9O7Bhja
>>236
ただ単に当時の食料が今のより消化し辛かっただけだと思うぞ
238:人間七七四年
09/05/03 23:37:04 iGzx9N7n
>>234
風流に取り入る術ってのがあったな
むっつりした人でも自分の趣味の話になると、口が軽くなるもんだから
趣味をもつことは重要だと
239:人間七七四年
09/05/04 01:30:40 zw89xRT3
武闘派の武将だと、武士が茶の湯なんかにうつつ抜かしてどうするんだ?みたいな人もいる。
風流を嗜む武士も良いけど、あくまでも武骨な武士も格好いい。
240:人間七七四年
09/05/04 01:48:52 +hLfnim5
既出だったらスマソ。
「幽斎と百姓の狂歌」
丹後国、鉈の庄の百姓が同じ村の百姓に米を貸した。ところが、その後いくら催促しても返してくれないのでこんな狂歌を詠んだ。
「借銭を 乞へどもくれぬ気の毒や なま木に鉈の 庄の者かな」
いくら言っても借りを返さない、難儀なことだ。という事であるが、「なま木に鉈=木の毒(気の毒)」という当時のはやり文句を「鉈の庄」という地名にかけて読み込んでいる。
この歌を細川幽斎が聞いて大いに感心して褒美に米を三石与えた。百姓はお礼にまた一首詠んだ。
「日本さへ 及びなき身に三石(三国)を
ままにせよとの 御意ぞめでたき」
日本一国さえ及ばぬ身に三ごくを意のままにせよ(飯ママにせよ)とはありがたい仰せ。
こんな風流百姓もいたんだなって話し。
241:人間七七四年
09/05/04 01:51:44 hAw+G9bq
すげえな、百姓!
242:人間七七四年
09/05/04 01:53:51 o9b9+S/E
地方では中央権力との繋がりがきたいできるから茶や連歌なんかが持て囃されてたのかなあ
あと蹴球とか
243:人間七七四年
09/05/04 01:59:51 L+WjALSG
二条河原の落首とかもあるんだし、
町人や農民にも教養のある人はいたんだろうね。
244:人間七七四年
09/05/04 02:00:41 /LFpNEDm
百姓といっても豪農とかそういうんじゃない?
中央文化の地方への伝播に一役買っていた人達
245:人間七七四年
09/05/04 02:15:01 zw89xRT3
皇族だろうが部落民だろうが、
賢い奴は賢いし、アホはアホだろ
246:人間七七四年
09/05/04 02:51:03 Lf9pNoDV
そういう話はしていない
247:人間七七四年
09/05/04 03:04:29 zw89xRT3
>>246
逃げるなチンカス
248:人間七七四年
09/05/04 04:18:36 Limu2FPZ
>>245
そういう話ではないだろう。
ある程度は訓練あるいは既存の技術を見る機会が必要な、落首や狂歌の技術が高いということは、
相応の階級である可能性は確かに高い。
別に階級の低い人が愚かだなどとは誰も言っていない。
近代にならないと、階級が低くなる程そういう技術を学ぶ機会が与えられていない、
ましてや戦国期は江戸期よりも学ぶ機会は少ないということを背景に言っているんだよ。
249:人間七七四年
09/05/04 08:32:14 eweNkCi3
幽斎はこの歌をどこで聞きつけたのか。
250:人間七七四年
09/05/04 11:25:51 YgpNnMWZ
>>248
立場によって育ち方が違うよね。
同じ大名家でも、嫡男でなかったために教育を手抜きしたのか、
島津忠恒や森長可は、DQN四天王に加えられてる。
農民なんて字を学ぶ必要も余裕も無い
251:人間七七四年
09/05/04 11:58:00 tnARPYsg
>>250
教養とDQNは関係ない。
政宗は立派な教育を受けた教養人だし、忠興はとーちゃんはインテリナンバーワン。
教養があろうがなかろうが、DQNはDQN。
252:人間七七四年
09/05/04 12:25:11 qKLQgpyn
教養とDQNに関係無し
教育とDQNに関係有り
253:人間七七四年
09/05/04 12:27:31 hQNrQetV
鬼武蔵はともかくとして何故に悪い家久は育成に失敗したんだろうか
254:人間七七四年
09/05/04 12:42:15 JzeeLw+Y
DQNは人間性の違いでしょ。生い立ちやらなんやら。
けど北条家には子育てマニュアルやら性格矯正システムやらありそうだが。
255:人間七七四年
09/05/04 12:46:35 gZBEeQUy
おっと氏政タンの悪口はそこまでだ
飯くらい好きに食わせろ
256:人間七七四年
09/05/04 12:58:31 Z0kSDEgK
本来久保が次期当主のはずだったし家久(悪)は英才教育してなかったんじゃねぇの?
しかも兄貴の嫁を宛がわれるし叔父が怖かったのか離縁も出来ず側室も持ってない
ストレス堪るような環境ではある
257:人間七七四年
09/05/04 13:03:42 G9D4ezfB
そうだな。
教養人(風流人)=常識人というわけではなし。
258:人間七七四年
09/05/04 13:11:40 lbrGa9Fv
北条教育といえば長老玄庵様の「玄庵おほえ書き」思い出すぜ
北条からよその家に嫁ぐ女の子たちに
嫁ぎ先での四季折々の儀礼やら、
お姑さんへの挨拶の仕方やら、
女子としての礼儀作法の様々
こと細かくアドバイス書き連ねたやつを持たせて送り出してるんだよな。
「わからないことがありましたら、
こういう立場の方や○○さんにお聞きなさい。
その際は玄庵が気にしておりましたと言って聞くのですよ」
なんてことまで書いてあったりする。
氏真の妻や勝頼の妻もこんな感じのアドバイス受けてたのかね
259:人間七七四年
09/05/04 13:17:03 G9D4ezfB
義弘公もなぁ…
家臣に子供が生まれたときには、子供を自分の膝の上に乗せて
『お前も父上を見習って立派な武士になるのだぞ』
とか
『お前も父親のような武士に嫁ぎ、
母上を見習って夫を支え、息子を立派に育てるのだぞ』
と言い聞かせた逸話が残ってるくらい
家臣の子供には教育熱心だったのだが…。
260:人間七七四年
09/05/04 13:27:11 zfEQ2hfy
>>245
身の振り方を知るという意味での賢さではなく、
知識教養を身に着けているという問題。
261:人間七七四年
09/05/04 13:47:17 JzeeLw+Y
>>258
後北条家は始祖が武家のトップに礼節や作法を叩き込む伊勢氏の出で
自身も幕府のエリート官僚で寺で禅を学ぶ完璧節約超人だしな。
そりゃ飯の食い方にも嫁のあり方にもうるさいわな。
262:人間七七四年
09/05/04 13:48:23 4QWdzgkb
>>250
それがよ
宣教師のローマ宛の通信に
この国では路辺の農夫でさえ詩を詠むって書き送ってるんだぜ
農村が豊かで清潔ってさ
室町時代の推定人口の増大から類推すると農業生産が飛躍した時期
テレビドラマみたいな貧乏飢餓農村ってえのはどうもね
263:人間七七四年
09/05/04 13:51:22 4QWdzgkb
>>261
京都だろうがどこだろうが、
飯食い終わった椀に湯茶いれて一粒も残さないって
作法に適ったお行儀
豆知識余計か?
264:人間七七四年
09/05/04 14:21:28 fQoUe2rl
当時は連歌師が全国廻ってたから百姓が歌に触れる機会が
多かったのだろうか
265:人間七七四年
09/05/04 14:54:39 GMcKKSQD
豪農とかは教養への憧れとかあるんだろうかね
266:人間七七四年
09/05/04 16:36:41 eweNkCi3
半農半士はたくさんいたんだし。
戦がなければ見た目は農民というのも当然いるでしょう。
267:人間七七四年
09/05/04 16:56:50 LDDO5JS0
基本的に進歩史観の教育受けてるから近代以前の農村なんて
大暗黒社会としてしかイメージ出来んのよね
アジア諸地域で見られる貧困丸出しの農村の延長でイメージしちゃうんだけど
そうではない日本独自の農村てものがあったんかねぇ
268:人間七七四年
09/05/04 17:36:40 CUX8bANZ
>>267
あったと思うよ
地方に小作人がたくさんできたのは 明治以後でそ
小さな田畑でも 先祖代々守ってきて 長男以外の男は ほとんど奉公に みたいな
269:人間七七四年
09/05/04 17:40:31 cu+Phync
江戸なんて奉公に出された次男三男ばかりなんだろうな
270:人間七七四年
09/05/04 17:49:34 5fM8VKyH
>>262
さすがにほんの100年前まで世界のド田舎だった西欧人から見れば
世界の半分以上の農民は豊かになるんじゃないの
まして近代化始まったりしたら底辺が真っ先に貧しくなるんだしさ
(明治期の日本の農家の落ちぶれ具合を見れば分かるはず)。
271:人間七七四年
09/05/04 19:15:15 a2RmFuzv
>>267
少し前に読んだ本(学術系)によれば、
農民が戦場に出るのは乱取り(奴隷として敵を売り飛ばす)のが目的で、必ずしもみんな武士になろうとはしてなかったらしい。
んである程度豊かになると自分の代わりに流れ者傭って訓練やら戦場に行かせていたとか。
ここから考えるに、当時としてはそれなりに旨みのある職業だったと言えなくもないと思う。
なんせ米の栽培は元の100倍が望めるみたいな話も聞くし。
収穫高とかいろんな意味で>>270の言うように西洋の農民とは違うと思う。
だって西洋の土地の痩せっぷりはスサマジイからな。
土地が痩せすぎているせいで芝刈りしなくても芝生の草自体が成長しないとか。
272:人間七七四年
09/05/04 19:22:02 fQoUe2rl
米と麦じゃ同じ面積でとれる量が段違いだって聞いたなあ
西洋の百姓は大変だね
273:人間七七四年
09/05/04 19:32:50 FKahq63f
米
灌漑整備必須→土が痩せないので狭い農地で重層的生産を発達させる
麦
灌漑いらない→土が痩せるので土地を広く使う輪作を発達させる
274:人間七七四年
09/05/04 19:32:57 Z0kSDEgK
その上小麦は連作出来ないからな
ただ100年戦争とペストで人口が激減して以降、西洋では農奴が農民にジョブチェンジしてるから
戦国の頃なら東欧と比べてまだマシな方
275:人間七七四年
09/05/04 19:44:02 cu+Phync
でも向こうは牧畜も盛んだったから栄養面では何とかなったんじゃないの?
男はエール(酒)でカロリー摂取してたって話も聞いたし
276:人間七七四年
09/05/04 20:34:26 Z0kSDEgK
酒飲んでたのは清潔な水が確保出来ないから水代わりにって理由もあるけどな
中世ヨーロッパは貧しさのあまり農民が50過ぎの妻を一輪車に乗せて体売らせたり
領主に初夜権があったり
両親がいようが鍵がかかってようが男が強姦目的で徒党を組み無理矢理家に侵入したりするのが日常化してたり
キリスト教の教えを守る為に女性を男性に接触させないように結婚まで家に隔離してたら
ゲイが爆発的に増えて教会経営の娼館作るのを真剣に検討されたり色々あるけどスレ違いだろう
277:人間七七四年
09/05/04 20:37:18 tFn6xOgJ
自分は散々好きなだけ語っといて誘導とかw
278:人間七七四年
09/05/04 21:00:12 3BRDPUij
>>272
だから現在のアジアはやけに人口多い国が多いのか
ヨーロッパの国って意外と人口が少ないし
>>276
領主の初夜権は我が邦の地方にもあったって聞いたことがある
どのくらい一般的だったかは知らないけど
279:人間七七四年
09/05/04 21:33:46 j+ZmCmvs
>>275
考え方が逆かな
非効率な牧畜や不安定な狩猟に頼らなくてはならなかったのは、農作物が貧弱だったから
玄米五穀でほとんどのエネルギーやビタミンとれる日本が恵まれてたというか
280:人間七七四年
09/05/04 22:02:01 khmOfjre
麦の倍率が
ヨーロッパが
中世で三~五倍
近世で十二~十三倍
現代でも二十倍くらい
に対して日本が
平安の頃に七~八倍
江戸時代に二十五倍
現代で五十倍
と聞いた。
まあ品種の違いもあるだろうし、ヨーロッパも日本も場所で変わってくるだろうが。
ちなみに日本では古代から文字の普及がハンパでない。
平安時代にすでにものすごい文書行政を確立し、農民でも訴状から生産収支その他の
報告文書を自前で作成している。
281:人間七七四年
09/05/04 22:15:44 fsgwyYnv
>だから現在のアジアはやけに人口多い国が多いのか
>ヨーロッパの国って意外と人口が少ないし
江戸の人口が100万を越えて、世界最大の都市に…ってのを
昔授業で習ったときは、意外だったけど
(他にも江戸くらいの都市があるんじゃないの?と思ってた)
ここの遣り取りを見てると納得だな~。
282:人間七七四年
09/05/04 22:15:46 9bPVB1Jt
ヨーロッパの収穫率の低さは土壌と気候が原因だなぁ。
メソポタミアなんて麦でも収穫率80倍あったんだし。
283:人間七七四年
09/05/04 22:30:16 Z0kSDEgK
URLリンク(www2.ttcn.ne.jp)
都市で言えば昔からそこそこデカイ都市を持っていた日本
スレ違いな流れを変える為にも誰か戦国の農政や牧畜のいい話をするんだ!
284:人間七七四年
09/05/04 23:03:55 fsgwyYnv
じゃあ、こんな話を。
江戸の初期、日本に煙草が伝わってきたが「無用の長物である」として幕府は禁煙令を出した。
だがその一方で、煙草は戦傷の薬になるとも言われていたため、
隠れて吸っていた物も依然として多かった。
ある日、島津義弘が兄の義久を尋ねて加治木から国分に出掛けていた。
道の途中、とある老人の家で水を求めて入ったところお供の目付け(煙草の監視役)が
家中から煙草を見つけた。
老人を問い詰めたところ「それがし、伊地知大膳と申しまする。この上は切腹して罪を謝せん」と答えた。
このことを聞いた義弘は「目付けも家の中まで覗かなくて良かろうに」と言ったが
役目に忠実なのをとがめるわけにも行かない。
また、伊地知大膳が家に尽くしてくれた歴戦の武士であることも知っていた義弘は
苦慮した挙句こう言った。
「伊地知大膳は若い頃から方々の戦に参戦し、幾多の戦功を立てた剛のものである。
ことに福山の役では我が方が敗退し、全滅せんという時に身を挺して私を守り
ついには敵を撃退した主家にとっての功臣でもある。
彼が戦傷を癒すために煙草を吸ったと言うのであれば、彼に傷を負わせるような
戦いをした私の責任でもある。
横目の役目をないがしろにするつもりは無いが、ここは私に免じて見逃してやってはくれまいか」
まるで自らのことのように懇願する義弘の言葉に、
切腹の覚悟を決めていた伊地知はかたじけなさのあまり大声を出して泣き崩れたと言う。
この事件があった国分は、後に義久によって煙草の生産が奨励され
「花は霧島、煙草は国分」と称されるほどの高級煙草の産地になった。
285:人間七七四年
09/05/04 23:09:42 +hLfnim5
薩摩って言えばすごく厳しいイメージがあるけどさすが名将義弘公、泣けた。
286:人間七七四年
09/05/04 23:11:48 Z0kSDEgK
義弘は家臣を大事にする話が多いなぁ
しかし薩摩は色々特産物があるな
287:人間七七四年
09/05/04 23:16:35 j+ZmCmvs
特産の多いところは米がな
288:人間七七四年
09/05/04 23:19:07 fsgwyYnv
そうなんだよね。
米が作れないからタバコに頼らざるを得なかったと言う面もある。
289:人間七七四年
09/05/04 23:25:57 fBxGHIxH
神奈川県の秦野盆地も富士山大噴火の火山灰が積もって水田が作れないので
タバコ生産が盛んになった
290:人間七七四年
09/05/05 00:02:23 hIiqKVnA
福島正則がある時、使番を勤めていた者に、新たに組頭を申し付けたことがあった。この時この者、
「思う次第が有るので、私が頭をおおせつかった組の者たちと話し合いをさせてください」と言った。
そうして宿舎に戻り組の者たちを集め、彼らを前に言った
「私のような若輩者が、この組の頭を命じられました。しかし、あなた方と相談したいと申し上げ、
お請けするかどうかを待って頂きました。
この中で、若輩の者が下地するなど片腹痛い。何を言っても聞くものか、と思われる方が
いるのであれば、この事、お断りしようと思っております。」
これに組の者たちは、「何事もあなたの指図次第に任せましょう。」と答えた。
するとこの者、「ならば、一つだけお願いがあります。私もこの通り若輩であり、全て指図するのは
無理だと思います。そこで、私が『かかれ』と言えば、各々どのような目利きがあってもそれを捨てて、
一度にかかっていくよう、約束していただきたい。
この事、お聞きいただけるでしょうか?」
これにも一同「安き事」と答えた。そこでこの者は組頭をすることを引き受けた。
さてその後、この者の組、合戦の度に、他の老巧なものが頭を務める組より早くかかり、
しかも落ち度なく、正則もこの組頭を招いて褒美を取らせようとすれば、この者
「みな、組の老巧の者たちが指図してくれたおかげです。私の功では有りません。」と言う。
そこで正則、その組の老巧の者たちに尋ねれば、「いいえ、頭に指図などしたことはありません」
と言い出す。
不思議に思って、もう一度その組頭に尋ねると、「別にこれと言った秘密はありません。私は合戦の折、
自分の組の者たちを観察していて、老公の者たちが打ちかかるため、備えに動きがあると、
それをもってかかるようにしているのです。それで多くの利を得ましたが、これは全く、
私の手柄ではないのです。」
これに正則、さらに感じ入り、褒め称えたとのことである。
291:人間七七四年
09/05/05 00:03:25 v8/fAZAo
今と違って果樹栽培を奨励できるような状況じゃないし
292:人間七七四年
09/05/05 00:39:05 fn3LWi/H
>>290
正則って本当に家臣かわいがるよなぁ。
家臣達も主君を愛している感じ。
この話しも感動するなぁ
293:人間七七四年
09/05/05 09:21:37 X6JubW7L
有名かな?でも謙信の話は少ないから投下する。
ある日のこと、上杉謙信は聴衆に混じって説教を聴いていた。
説教しているのは禅僧の益翁で菩提達磨の『不識』についての
話だった。
謙信は「俺は禅について多少は知っている。ちょっとこいつを
試してやろう」と思い、周りの聴衆と同じ格好をして、様子を
うかがっていた。すると益翁は不意に謙信の方を向いて、
「では御屋形様、達磨不識の意味はなんですかな?」
と質問してきた。しかし謙信は呆気にとられてなにも言えなかった。
益翁は続けて、
「どうなされた。あなたはいつも禅の話になると弁舌ではありませんか。
何故お答えにならないのです」
と畳み掛けた。実は謙信は禅についてちょっとした自信があった
のだが、これで彼のプライドはずたずたになったのだった。
その後、己の未熟さを思い知った謙信は益翁のもとで禅を熱心に
勉強し始めた。益翁はいつも、
「真に禅を会得したいならば、命を捨てて死の穴に飛び込まなければ
ならないでしょう」
と謙信に語ったという。