09/04/22 20:18:26 8CCuEFhh
天正5年(1577)10月、明智光秀は丹波亀山城の波多野氏を攻略していた。
この戦には、初陣を済ませたばかりの親友の息子も加わっており、光秀はやがて
親友の後継者となるであろう若者に、将としての心得を説くつもりで尋ねた。
「この矢文を見てごらん、城兵が助命を求めてきただろう?さて、次に我々がやるべき
事はなんだろうね?」
若者は答えた。「抵抗していた者どもを助ける義理はありません。皆殺しにしましょう。」
「 ( ゚д゚) い、いや、ダメダヨ!?門を開けるように指示すれば、城攻めが楽になるし、
寛大なところを見せれば他の抵抗者も降伏するかもしれないでしょ?
ナニ信長様みたいなこと言ッてんの?!」
若者の父親も呼び寄せ、二人がかりの説得によって、ようやく若者は納得し、亀山城は
開城となった。 しかし、光秀の胸中は暗かった。
(駄目だこいつ…早くなんとかしないと…そ、そうだ!ウチの娘に似合いの年頃の子が
いるじゃないか!結婚させれば義理の父親として、オレが監督できるぞ…!)
「という訳で、ウチの娘とオタクの息子を結婚させてくれ。」
「えぇー?あいつ我が子ながら、凶暴だからオススメできないよ?」
渋る親友を、信長の仲介のもとで了解させ、天正7年(1579)、ついに婚姻が成立した。
ある意味、逆効果だったのは皆様ご存知の通り。
しかし、『綿考輯録』のこの記事とか、『森家家譜』とか、藩祖のDQN言動を残して
どうするつもりだったのか。子孫から見てもm9(^Д^)プギャーな話だったのか。