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アソ氏バイバイ・相良義陽の史書伝説
皆さんは「求麻外史」という史書を御存知でしょうか?
これは延宝3年(1675年)までの人吉・相良氏の歴史を人吉藩家老・田代政輔が
記した文献のことです。
今日はその「求麻外史」に書かれていたこんなお話。
ときは天正9年9月23日、耳川で大友氏に大勝したばかりの島津軍により、
人吉の相良氏が逼迫を受けていた頃の事です。
このとき島津軍は、正に相良家臣・犬童頼安が護る水俣城を包囲していました。
この事態に当主・相良義陽は臣下の溝口半五郎という者を、水俣城への
使者として遣わします。
半五郎は夜陰に紛れて水俣の地に入り、島津の陣を抜けて城に入ろうと試みます。
しかし、そうはうまくいくはずもなく半五郎は島津の衛兵に捕らえられて
しまうのです。
ここで半五郎、咄嗟に言い訳をします。
「私は球磨の住人で、城中にいる身内の者を訪ねてやってきたものです」と。
下手な言い訳云々はさておき、衛兵はこれを信じません。結果、半五郎は
真意を問い質され拷問を受けてしまいます。
そこへ、水俣攻めを一任されていた新納忠元が現れます。
新納は、そなたが城に向かって『義陽様は、悪戯に兵を失わないよう速やかに
城から退去するよう頼安様に命じられました』と言えば、そなたの命を救って
やると言いました。
半五郎はこれを承知したので、城の下へと連れられて来ます。
ところが半五郎はこの約束を破り、城内に向けて「自分は八代からの使者です。
ここ数日にも義陽公は球磨、八代の兵を率いて救援に駆けつけます」。
と叫んだのです。
当然これに腹を立てた島津軍は、半五郎の首級を竿の先に刺し貫き、城内の者に
見える様に高々と掲げられました。
しかし半五郎のこの命を賭けた行いは甲斐もなく、相良氏は島津氏に事実上降伏、
新納の言わせようとした通り城は島津に明け渡されてしまうのです。
ですが、ここで不思議な事が一つあったのです。
これと同じような出来事が、なんと天正3年の長篠で起こっていたのです。
たった6年の間に日本の中央と西で起こった偶然、これを奇跡と言わずして
何と言いましょうか。正に神の悪戯と言うべき出来事です。
この事実は人吉藩家老・田代政輔に偶然にも伝わり、更に享保5年までの相良氏の
歴史を記した「南藤蔓綿録」へも受け継がれ、今日にまで語り継がれることが
出来ました。
以上、信じるか信じないかはあなた次第。