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島津忠良(日新斎)には嫡男の貴久の他に、忠将と尚久という息子がいた。
次男・忠将は貴久の6つ年下。
異母弟の三男・尚久は貴久より17歳も年下で、貴久の息子・義久より2つ年上。
尚久は義久・義弘とは日新斎のもとで兄弟同然に育ったといわれる。
忠将は薩摩大隅の領内統一戦に於いて、ほぼ全てに参戦し各地を転戦、武功を上げた勇将だった。
貴久を良く補佐し、戦では常に最前線に立ち続け、初期の戦国島津家を支えたのは武略に優れた忠将だったという。
貴久と忠将の兄弟関係は、後の義久・義弘にも大きく影響を与えていると言って良い。
尚久は日新斎の隠居地・加世田からほど近い鹿籠(現在の枕崎)の地頭になり、こちらも各地を転戦していた。
鹿籠は坊津を含めた南薩摩の南岸一帯を抑える拠点であり交易や倭寇の統括も任されていたと伝わる。
尚久は日新斎晩年の子で可愛がられて育ち、一説には成人する頃には身の丈七尺もあり四尺の大刀を
軽々と振り回す大層なイケメンだったそうな。
そんな貴久の弟二人であるが、肝付兼続や根占氏・伊地知氏との廻城攻防戦(1561年)で一気に運命が暗転する。
忠将は竹原山にて町田久倍らの味方が未明に肝付勢の急襲されたとの報を受け、救援するため馬立塁から出陣。
小勢での救援に家臣は本陣を動かないよう忠将を諫めたが聞き入れず出撃したところ、山中で伏兵の挟撃を受け
後続の味方が駆け付けた時には忠将主従数十人は悉く討ち死にしていたという。享年42。
この後、貴久は肝付勢を一旦退けることには成功したが軍を立て直すために一時撤退。
三州統一に向け順調に邁進していた最中の忠将の若すぎる死は、当然ながら家中に大きな動揺が走る。
殊に忠将に大きな信頼を寄せていた日新斎の嘆きと哀しみは計り知れぬものがあった。
廻城合戦では総大将の貴久を初め、尚久や義久など主だった武将はほぼ参戦していたが、ここで日新斎は
「……なぜ忠将をすぐに助けに行かなかったのじゃー!!」
と、忠将を失くした怒りと悲しみの矛先を 『尚久の敵前逃亡』 と決めつけ激しく叱責したのだった。
尚久としては救援に向かうも城の南方にあった忠将の陣とは深い谷に阻まれていたため
進軍が遅れたわけだが、父・日新斎の敵前逃亡の謗りに大きなショックを受けた。
「何故オレが…」と思ったであろう尚久、このことを大変気に病んだと言い
翌年(1562年)に病を発し、32歳の若さで急死。
地元の郷土史には衝撃と心外の余りショック死したと伝わる程の顛末と相成ることに。
尚久の家臣・尾辻佐左衛門は、悲憤しつつ亡くなった主人を憐れみながらかねての約束もあり、
殉死すべく日新斎のところへ挨拶に伺ったところ、両刀を取り上げられてしまったので
近くにあった石角で切腹して尚久の後を追ったそうな。
日新斎は1568年に77歳の長寿を全うしたが、忠将・尚久の息子二人に先立たれた悲しみは非常に深かったという。
晩年の日新斎のちょっと寂しいお話。