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天正の初めの頃の事。
秀吉が初めて播州一国を任せられた時、この当時秀吉麾下の武功の者といわれた
神子田半左衛門、宮田喜八、戸田三郎四郎、尾藤甚右衛門の四人に、それぞれ
五千石を与えた。
ところが宮田、戸田、尾藤の三人はこれを大変不満とした。たった五千石か、秀吉様の、
我々の働きの評価はそんなものか!
後の「大気者」と呼ばれた秀吉からは想像しにくいが、この当時の秀吉、ケチだった。
そんな中、神子田だけは大喜びしている。そして三人に向かって「秀吉様のところに、
拝領のお礼を申し上げにいきましょうよ!」などと言い出す。
三人、冗談では無い。我らの今までの戦功をあの程度の評価にされて、礼などできるものか。
そう言うと神子田、こう答えた
「わたしが喜んでいるのは、領地をいただいたことに、ではありませんよ。
私たち四人の勲功、この軍の中にそれを越える人間なんていませんよね?
で、秀吉様は播州という大国を任された。この播州は秀吉家中みなに加増しても、
まだ余ることは誰でも知っています。
ところが秀吉様は私達に、『家中の者に分配してもう余りが無いから、とりあえずこれだけで
我慢せよ』などと命じられました。
こんな言葉で納得させられると思っているとすれば…、はてさて、秀吉様は我らを、
無知無才の者だと思っているようです。
そんな無知無才の我らに五千石も加増してくださるとは!
こんな寛大な秀吉様に仕えていること、これを喜ばずにいられましょうか!?
だからお礼に行こうと言ったのですよ。」
そう、お礼とは「皮肉を言いにいこうぜ!」という事だったわけだ。
このように神子田という人は、武功は多かったが常に秀吉を小馬鹿にしていたそうだ。
そんな、秀吉軍陣の空気の悪い話。
ちなみに秀吉麾下の勇将として鳴らしたこの四人、その後、宮田は三木城で討ち死に。
神子田は小牧長久手の折追放、後切腹。尾藤も九州征伐の折追放、後切腹。
戸田だけは秀吉の時代を生き延びたが、関ヶ原で討ち死にした。