戦国ちょっと悪い話8at SENGOKU
戦国ちょっと悪い話8 - 暇つぶし2ch603:人間七七四年
09/04/12 09:37:13 VBaXH66I
蒲生氏郷の死後、蒲生家の家臣、蒲生源左衛門が、本多正信にこんな事をぼやいた事があった。

「秀行様は、先代の氏郷様のように、家来に親しんでくれると言うことがありません。
これは蒲生家が衰微する表れではないかと心配です。」

これに正信
「いや、そう言う事ではありますまい。総じて治世と乱世では、大将の威勢というものも
異なるものです。

乱世と言うのは、大将の威が軽く、下もの者も、これに慣れやすいのですが、
治世では大将の威が重くなって、下の者は馴れ辛くなってしまう物なのですよ。」

大名家も体制が固まれば、君臣間の個人的な親しみは入り込み辛くなる、そう言うことであろうか。
こんな所にも、乱世と治世の違いが現れると言うお話。


604:人間七七四年
09/04/12 10:10:03 C5jGVSwv
組織としてはどちらが良しとは言えないけど
時代の移り変わりに取り残される人ってのは無常観があるよな
こういうのが本当にちょっと悪い話なんだろう

605:人間七七四年
09/04/12 15:04:59 Qb3FYY8g
劉邦の皇帝即位時の話しみたいなもんかなあ。
これまでは戦場で親分子分の間柄だったけど、これからは君臣の分をハッキリさせなくちゃならんだろうって事で。

606:人間七七四年
09/04/12 16:04:05 TiM/yMnL
成田長泰は嫡子・氏長が成人し、自身年老いても家督を譲ろうとはせず、
そのクセ少女を忍城郊外に作った別荘に囲い、夜な夜な通って遊んでいた。

これを見て、家老ながら日ごろ長泰に粗略に扱われ、恨みを持っていた手島美作守が、
氏長とその母に言った。
「長泰様のご乱行は他家にも知れ渡り、みな呆れ果てております。
なにとぞ、お二人で相談され、氏長様が当主の座に着くよう、策を練るべきです。」

その夜も長泰は別荘の愛人の所へ行き、酒盛りなどして、さんざん遊び呆けた。
深夜になり、忍城へ戻ったが城門は城主の前に、固く閉ざされていた。
手島に説得された氏長の、「父はもはや城へは入れない」という構えである。

しかし勝手知ったる自分の城のこと、長泰は堀端の配水管に潜り込み、潜入を開始した。
驚いた氏長は、家臣の三友十兵衛を配水管の出口に派遣した。
槍を持って待ち構えた十兵衛、長泰の頭が見えたところで、配水管に槍を突っ込んだ。

ところが、塚原卜伝の弟子でもある長泰は、槍先を見切るとガキンとこれを口で受け、
十兵衛が槍を戻すと、そのまま一緒にズルズルと引きずられ、城内に出た。
あまりの事に仰天した十兵衛は、槍を捨てて逃げ出した。

長泰はそのまま本丸へ駆け出した。兵たちも低レベルな裏事情を知ってはいたが、
主君である長泰に手を出せず、ついに長泰は氏長のもとにたどり着いた。
ここで長泰、頭が冷えたか
「これもワシがいい年になっても隠居しなかったせいだろう。このまま話がこじれて、
小田原あたりの介入を受け、滅びるよりは・・・」

と思いなおし、菩提寺である龍淵寺の和尚を仲介して氏長と話し合いの末、
手島を追放して、みずからは出家・隠居した。
ただし、その後三年の間、親子に交流はなかったという。


意外に弱い、のぼうの城 in 1566の話。氏長が城に残ってたら、三成も(城攻めしても)
案外あっさり落とせてたかもね。

607:人間七七四年
09/04/12 16:08:55 WBbW/yw3
成田さんも随分な化け物だな

関東武士ってw

608:人間七七四年
09/04/12 16:43:06 S0M5Zr8c
黒田如水の息子に宛てての言葉。

黒田如水が臨終の時に、倅の長政にこう言ったそうな。

「息子は父に及ばぬと言うけれども、お前は私よりも5つ優れている点がある。
 1つは、私は時の天下人に疎まれ、三度も篭居したけど、お前はその時々の天下人に信頼されている。
 2つ目は、私は12万石しか得られなかったが、お前は50万石もの大領を得た。
 3つ目は、私は自らの手であげた武功はないが、お前は数多くの武功を上げている。
 4つ目は、私は無分別者であるが、お前は分別者だ。
 5つ目は、私はお前以外男子はいなかったが、お前は3人もの優秀な男子に恵まれている。」

と、まあここで終われば、父親が息子を認めたいい話なのだが、すんなり行かないのが如水クオリティ。

「さりながら、お前より私の方が優れているのが2つある。
 1つは人の使い方だ。今私が死ねば、家中一統「残念だ」と嘆くであろうが、逆だったら「如水様がおられるからいいか」で終わるだろう。
 お前は人の使い方が悪いからその点は治しなさい。
 もう1つは、私は博打が上手いが、お前はとことん下手だと言うことだ。
 関ヶ原の時、私はお前を見殺しにしてでも博打を打とうと考えたが、お前には出来まい。それがお前の劣るところだ」

息子の性格を良く見ていると言えばそれまでだけど、長政も顔が引きつっていたかもなぁ。
特に最後の部分に関して言えば、有岡城の一件で絶体絶命に陥ったんだから余慶にね・・・。

609:人間七七四年
09/04/12 18:54:17 F1U7gbqz
>>606
三友「釣れた!はじめてなのに釣れちゃったあ!」

610:人間七七四年
09/04/12 19:08:40 /zHeB52I
官兵衛ってホントニ言余計だなあw

611:人間七七四年
09/04/12 19:16:12 C5jGVSwv
息子に博打しろを言う親父もどうなんだ…

612:人間七七四年
09/04/12 19:21:10 U0Sla5tO
>>603-605
山本博文の『遊びをする将軍踊る大名』の最後の方に
DQN家久の跡を継いだ島津光久に家老の伊勢貞昌が
「お殿様というのは、昔と違ってあっちこっちほっつき歩いては威厳に関わります!!!11」
っていう内容の苦言を送ったという話が書いてあったような。
光久もあっちこっち遊び歩いていたというわけではなくて馬で遠乗りが趣味だっただけなようなんだが、
寛永末期あたりになるとそれだけでも殿様の権威が落ちる、という考えに変わっていたようだ。

613:人間七七四年
09/04/12 20:53:26 6RKl9Dc7
>>608
家中の信頼度は仕方ないにしても幕府が体制作りの真っ最中でピリピリしてる中博打しろってお前...

614:人間七七四年
09/04/12 20:55:55 F/DY2yXk
お前は下手なんだしどうせチャンスももう来ないんだから馬鹿な真似はするなよって意味だろ

615:人間七七四年
09/04/12 20:56:53 C5jGVSwv
東西交易で重要な産物となった茶
西洋人にとってその存在は始め中国において富貴な客に対して出されるものとして
知られていたがそれだけであった
状況が変わるのは宣教師が日本で布教し始めたとき
アルメイダが商人の茶室に案内され日本の茶の湯に触れる機会が増えた事から始まる
当初はあまりに形式化され茶室の清潔さや作法を見て宗教儀式と思ったようだが
権力者が重要視し宗教儀式ではないと分かると日本にある全教会に茶室を設けた
ヴァリニャーノははっきり「不味い飲物」としているが始めは布教の手段として受容されたのである
その後現地の西洋人に徐々に受容されていき
1610年、日本から出港したオランダ船が日本茶を伝えられる
質の悪い水を飲みやすくできる茶は後に広く受容され西洋における喫茶文化の皮切りとなった

…その後の歴史を考えると悪い話って事で
開国後、茶は日本の重要な輸出物になるけどさ

616:人間七七四年
09/04/12 21:01:40 iuX2w/LV
「目黒のさんま」の殿様の、
「いざ一朝(いっちょう)の事があり、千軍万馬往来のみぎりだ。
 あれは食えん、これは嫌いだ、で武士が勤まるか。」
っていうのはかなり時代錯誤な台詞だったから家来も困ったんだな。

617:人間七七四年
09/04/12 21:49:19 KhZnLQQ3
>>614の言っていることが正しいだろうなぁ<博打
もっとも、長政にしてみれば「まだ未練持っていたのかよ」と思ったかもしれんが。

618:人間七七四年
09/04/12 21:51:06 46Ood9HU
>>611
博打といえばコレのことなんだろうなw
如水「あの時、お前の左手は何をしていたんだ、(けつを拭くためか?)」

619:人間七七四年
09/04/12 21:59:45 R3j7Soch
>>616
現代の寺社が「自衛のために武装します」なんて言うようなものだからな。
まあ武士というもの自体はそうであるべきものではあるのだけれど。

620:人間七七四年
09/04/12 22:55:48 SqSGPJRv
>今私が死ねば、家中一統「残念だ」と嘆くであろうが、
>逆だったら「如水様がおられるからいいか」で終わるだろう。

禿ワロスwwwwww
まあ事実なんだからしょうがない罠

621:人間七七四年
09/04/12 23:43:45 XyG7sosw
>>615

アルメイダといえば元商人権医師。
で最初に本邦で外科手術した修道士かな。
大友宗麟と豊後でのつきあい深かったから彼に茶道習ったのかな?

西洋人に、今日はともかく当時では茶道は理解不能でしょう。

622:人間七七四年
09/04/13 09:52:02 qch+/Jxh
>>616
もう泰平の世で、時代遅れのセリフには違いないけど
武家の頭領たる征夷大将軍の心構えとしては間違ってなかろ

脂を抜いて出す大名家(将軍家)料理人の徒労と、
お殿様の世間知らずっぷりを庶人が笑った話…でいいジャマイカ

623:人間七七四年
09/04/13 09:53:33 1NJgf0Tl
>>621
資料上ではキリシタンの堺の商人に招かれたのか初出みたいね
日本は美味の物産に乏しいとか言ってるw

624:人間七七四年
09/04/13 13:14:07 7OVItxOu
家久も家久だが息子の光久も結構エグい

625:人間七七四年
09/04/13 15:15:45 qoP+6X7q
ある時、武田信玄の旗本の中に罪を犯し逃亡したと言う者が有り、
信玄は辻弥兵衛に討ち取る事を命じた。

辻はこの者を探索し、ついに発見する。が、見つかったとわかったこの男も
走って逃げた。
辻も急いで追いかけ、ついに接近すると見えた、その時である!


こけた


辻弥兵衛、つまずいて、転んだ。それはもう派手に。ひっくり返るくらい。
これによりかの男、ついに逃げおおせた。

しかしこの事を世間の人々は、「あの逃げた男は剛勇の者であり、辻はそれを殺す事を
惜しんで、わざとこけたのだよ。」と、そんな風に話し、大いに感じ入ったそうである。

本当に転んだのかわざと転んだのか、真実は、定かではない。


626:人間七七四年
09/04/13 18:42:27 GoX5BVt+
        ∧∧
       ヽ(・ω・)/   ズコー
      \(.\ ノ
    、ハ,,、  ̄
     ̄

627:人間七七四年
09/04/13 18:57:33 qNf5Ifih
剛勇な者が逃げたらあかん気がするがw

628:人間七七四年
09/04/13 18:57:56 q2l1uvJr
確実にわざとじゃない気がする…。

しかし好人物ならば世衆ひ好評価されるんだろうなぁ~
わしも好人物にならねばな

629:人間七七四年
09/04/13 19:28:58 8yiXKE4h
裏切りの男・安富源内

晩年の大内義隆にはとても可愛がっていた寵童がいた
名は安富源内。この男は超絶イケメンだったらしく
春の花が咲いたように美しいとまで言われてもてはやされていた
やがて義隆が陶に謀叛を起こされ逃げ回る途中に、源内は義隆一行とはぐれてしまった
源内の安否が気になって気になってしょうがない義隆は
自らの状況も忘れて「源内はまだか」「源内はどうした」としつこく聞くありさまだった
しかし結局、源内が義隆一行と合流することはなかった
義隆は「源内はもう討たれてしまったのか。生きるも死ぬも共にしようと契ったのに
先立ってしまったか」と涙をこらえて嘆いたのである

で、その源内はというと…
わざと義隆一行から抜け出したあと、陶方についた内藤家の内藤隆世を頼ってちゃっかり生き延びていた
世の人は源内を主から寵愛を受けた身でありながら
その主を裏切るとはなんたる不忠不義の男と嘲り罵倒したという

※陶隆房の謀叛についてはつっこんではいけない

630:人間七七四年
09/04/13 20:50:38 l/CRcVss
隆房に突っ込むのは左京大夫様のお役目よ

631:人間七七四年
09/04/13 21:03:04 wRkUZl0q
URLリンク(www.jiji.com)

森蘭丸の弟、森長隆が自由契約に。

632:人間七七四年
09/04/13 22:21:05 Vw8KUc68
内藤隆世もそう遠からず死ぬ羽目になるはずだが・・
その後は隆春を頼った、とかだったら、うらやましいほど世渡りうまいな

633:人間七七四年
09/04/14 00:16:14 g5DIoJYr
可愛がられたっても、上下関係があれば拒否権なんてないんだろうしな。
出世の糸口とは分かってても逃げたいほど嫌だったんだろう。
考えてみるとあの時代にイケメンに生まれすぎるのも考えものかもな。
戦国に生まれるならデカくてごつくて力持ちに生まれたい。


634:人間七七四年
09/04/14 00:16:51 VUUHsd2E
>>630の突っ込みが的確すぎてワロタ

だが、何故こうも義隆アッー様にはこういうお話しか残っていないのか
…彼だから、とでも言うのだろうか

635:人間七七四年
09/04/14 01:04:40 9cdVvJyZ
「他人の不幸でメシウマ」

豊臣秀吉の九州御動座の結果、完膚無きまでに敗北した島津氏。
その人質は出水に集められたがその不安げな様子を見たフロイス
「よし、この様子を見ると、今後は薩摩にバンバン布教できるぞ」
(結果は、その後秀吉がキリシタン禁止令を出したので無理だった)

すぎること数年
朝鮮出兵で島津久保が死去、期待されていた後継者を突然失った
島津氏は大きく動揺した。
それを見たフロイス
「よっしゃ、この不安げな様子、今度こそ薩摩で布教のチャンス!」
(その後理由はよくわからなかったが、やっぱりうまくいかなかったみたい)

※ソースはご本人の自白(フロイス日本史)

636:人間七七四年
09/04/14 01:05:58 drNOKD2o
「気が弱った所におしかけろ!」は、今も昔も宗教の基本ですなあ。

637:人間七七四年
09/04/14 01:07:18 Eql7CiNT
>>635
不安に付け込んで布教しようって腹か?
洗脳する場合、まず不安にさせるようなもんだな。

638:人間七七四年
09/04/14 01:10:00 yZRy/TAT
単なる不幸というよりかは、天下秩序が問われるような場合だろうけどね
秩序の揺らぎは、在来の神々を指弾する風潮を生む

639:人間七七四年
09/04/14 03:18:25 drNOKD2o

織田信長がまだ、尾張において内戦に明け暮れていた頃の話である。

信長の家臣に服部小平太と言う者がいた。そう、後に桶狭間で、あの今川義元を討ち取る男である。

ある合戦にて小平太は、織田春等と言う、これもまた剛の者として知られた男と一騎打ちし、
組打ちとなった。
この時小平太は肘を、春等は喉を突かれた。互いに重症であり、戦いの継続は無理だ。
そこで両人、同時に言った

「今日の合戦は引いて、明日決着をつけよう!」

そうして、互いの陣に帰って行った。

さて、小平太が陣に返ってみると、脇差のはばき(刀身を鞘に固定させる金具)が
なくなっていた。どこを探しても、ない。「もしや!」

小平太、さっきまで戦ってた春等に使いを出した

「俺の脇差のはばきが無くなったんだけど、知らない?」

それに春等「あ?ちょっとまって、喉の傷口にさっきから違和感があって…」ぐりぐり
「あ、やっぱり、傷口の中にあった!これだよな?」

と、傷の中から取り出して、返したそうである。そんな、なんともすさまじいお話。


640:人間七七四年
09/04/14 03:50:00 cvAUFH9/
はばきが埋まるほど深い傷なのに平然と話しているって何つー化け物か
というかそんな傷を手当てしただけで翌日再び戦うつもりだったのかよ

641:人間七七四年
09/04/14 08:38:05 VBQuIaFZ
肘はまだしも喉なんだろおい…

642:人間七七四年
09/04/14 11:42:48 bAUVHP1I
>>635
薩摩はたしか一度、一向宗が広まって苦労してるよな

それから領民にも武家にも、新興宗教に対する警戒心があったんかもね

643:人間七七四年
09/04/14 11:44:42 bAUVHP1I
>>639-641
坂東に限らず、勇者というか脳筋な武士はいるものだね…

644:人間七七四年
09/04/14 13:10:21 TLrzZ5EO
服部小平太、桶狭間から31年後に蒲生氏郷が会津に転封された
後釜として伊勢松阪城に入って3万5千石を領することになるから
ただの軽輩じゃなさげなんだよね。
この戦闘力からいって、津島衆の宿敵服部党からはみ出た親織田派
とかじゃないだろうか。

でも城持ちにまでなったのに秀次失脚に連座してしまい切腹…
サクセスストーリーの幕を綺麗に下ろせなかった後味の悪い話。

645:人間七七四年
09/04/14 13:55:17 tFS3GMou
>>644
毛利新介なんて本能寺の変の際に二条城で討ち死にするし。
本当についてないコンビだ。

646:人間七七四年
09/04/14 14:29:18 WtJzRGbq
>>644
>>645
知らんかった。
ちょっとどころか最悪の話しだ。


647:人間七七四年
09/04/14 14:33:23 Y7lsqjrx
>>635
日新斎の禅宗への傾倒が著しく、貴久や4兄弟も同様であったためキリスト教に
興味を示さなかった上に、おのず仏教勢力が堅固になりすぎてて、キリスト教に
対しての反発が強かったから布教につながらなかったらしい。
あと、大隅の内之浦辺りは明の交易船が頻繁に来てたらしく、唐人町なんかも
普通にあったらしいからインカ帝国滅亡させた話とかも聞き知ってたのかもね。

>>639
以前、大仁田厚がデスマッチ終了後に飯を食ってたら、やたらネギが首に
つくからおかしいなと思って良く見てみたら、喉に穴が開いてて
そこからネギが漏れてたという話を思い出した。



648:人間七七四年
09/04/14 15:00:08 /oilw2gy
大事な血管さえ避ければ結構大丈夫なもんなのか…
試したくないがw

649:人間七七四年
09/04/14 20:39:31 5Ez37hhR
秀次に連座リストって溜息出るほど豪華だよね

650:人間七七四年
09/04/14 21:45:28 dlirfJsA
桶狭間の戦いの時のことである。
今川方についていた尾張荷ノ上の坊主、服部友貞は二十艘ばかりの軍船をしたて大高城近くの河口まで乗り入れたが、結局、大した働きも見せず船を帰すことになった。
その穴埋めとしようとしたのか、帰りがけの駄賃として熱田に船を着け町口へ火を放とうとした。
船を降り大した抵抗も無く町へ攻め入る服部勢。
ところが。
これは熱田の町人たちの策だったのである。
服部勢を近くまで引きつけておいて一斉に反撃に出る熱田の町人たち。
この策にまんまと嵌められ数十人討ち取られてしまった服部勢、命からがら逃げ出すとすごすごと本拠地へと引き上げて行ったそうな。

服部友貞のいろいろと格好の悪いお話。

651:人間七七四年
09/04/14 22:32:48 A+Sf5OAJ
>>650
大高城ってクッキング城代がいた所?

652:人間七七四年
09/04/14 22:45:39 dlirfJsA
>>651
クッキング城代が誰かは知らんが、桶狭間の時に家康が兵糧入れを行った城。
義元もここから桶狭間に出たんじゃなかったかな?

653:人間七七四年
09/04/14 23:13:25 A+Sf5OAJ
今川家臣で家康と交代した人だったと思うから、多分そうだと思う
いや、まとめサイトにあった筈なんだが見つからないんだな

654:人間七七四年
09/04/14 23:47:58 TLrzZ5EO
お話の人は鳴海城に入城していた岡部元信(五郎兵衛/長教/元網/真幸)か
大高城に入城していた鵜殿長照のことかな?

鳴海城、大高城は義元が討死にしたとされる戦場よりもう少し西側。
大高城を救援するための後詰だからね。

655:人間七七四年
09/04/15 00:21:22 ZYAuQNx4
伊東義祐、他二人のちょっと悪い話

菊池家の庶家である大河平氏は、今の宮崎県えびの市と小林市を領有していた
北原氏に従属していた。その北原氏の領地が伊東義祐に根こそぎ簒奪されると、
大河平氏はこの方面を任されていた島津義弘に従属した。
その後、北原氏の領地を相良家と島津家が協力して取り返すと、島津の庇護下で
飯野城に入った北原氏の庶家である北原兼親に従う。
大河平氏の当主は弱冠15歳の隆次。義弘に付けられた300人の派遣兵と自前の兵で
「今城」を守っていた。
そんなある日、隆次と北原兼親が些細な事から不和となるのだが、あろうことか
兼親はこれを根に持ち義弘に、「飯野城と今城はあまり遠くないので、すぐに
今城を救援できるため両方の城に兵を置く必要はありません。 今城の守兵は
撤収した方が良いでしょう」と進言した。
義弘は二人の不和を知らず、納得してしまい派遣兵を撤収させてしまう。

飯野地区を欲していた伊東義祐は、これを好機とばかりに今城を攻撃する。
ところが城は堅城で簡単に落ちそうにない。
そこで義祐は、当主が15歳の若輩者と舐めて掛かりこれを脅して降伏させようとした。
義祐曰く、「優れた鳥は木を選び、知恵者は明者を求めるもの。今、お主は
領地の大きさ、兵の強さを考慮すべきである。速やかに我が臣下となれば数城を与え、
武名を輝かせ、 末永くその栄華を子孫に残せる であろう。
しかし、この命令を聞かないのならば、こんな孤城なんか細切れにしてしまうだろう。
それをよく考えてみる事だ」。と脅した。

しかし隆次、弱冠15歳ながらこれに堂々と「賊め! 無情なる行いとわかっていて、
それでも人の国境に侵攻してくるような不徳の者に何故我らが従わないとならぬのか? 
汝は速やかにここより去れ! 当家は代々忠義を、黄銅の鎖の如くに固く貫くのを
家訓としている。このようになった上は唯々弓矢にて御相手するのみであり、
何故に汝の臣下に降って恥を軍門に晒せるものか」。と返した。

これに義祐53歳は「小僧めが、ぬかしおって!」と年甲斐もなく激怒、総攻撃を開始した。
・・・は良いが、城の間に渓谷があり、矢を放つが全く届かない。しかも近付けない。

そこで地元民を捕まえて城の裏道に案内させて、ようやく攻撃できるに至った。
もはやこれまでと、今城の城兵は城から決死の覚悟で打って出るが多勢に無勢、
隆次を始めとした全員が討死した。
一方の義祐も苦戦して兵を500余人も失った。

北原兼親であるが、今城へは援軍を寄越さなかった。
その徳の無さによる報いか、叔父が伊東に寝返ったのを切っ掛けに、城将らが
伊東、相良、菱刈を恐れて出奔したり裏切ったりしたため領地が激減。
結局、兼親では飯野地区は守れないとして、島津の一家臣として伊集院神殿村に
捨扶持を貰い移り住む。
そして飯野城にはちゃっかり義弘が入った。

今城はその後、史料に記録が探せないほどあっさりと伊東の手から離れる。
そして8年後、義祐は再び飯野地区を奪おうとするが木崎原にて大敗を喫し、
その数年後に義祐は日向から逃げ出しその全領地を失う。
三男・祐兵は秀吉に仕えた事で、その槍働きにより日向の一部旧領を取り戻せたが、
義祐本人には「末永くその栄華を子孫に残せる」ほどの器量はなかったというお話。


656:人間七七四年
09/04/15 15:06:38 N7PIbVCe
天正の初めの頃の事。

秀吉が初めて播州一国を任せられた時、この当時秀吉麾下の武功の者といわれた
神子田半左衛門、宮田喜八、戸田三郎四郎、尾藤甚右衛門の四人に、それぞれ
五千石を与えた。

ところが宮田、戸田、尾藤の三人はこれを大変不満とした。たった五千石か、秀吉様の、
我々の働きの評価はそんなものか!
後の「大気者」と呼ばれた秀吉からは想像しにくいが、この当時の秀吉、ケチだった。

そんな中、神子田だけは大喜びしている。そして三人に向かって「秀吉様のところに、
拝領のお礼を申し上げにいきましょうよ!」などと言い出す。

三人、冗談では無い。我らの今までの戦功をあの程度の評価にされて、礼などできるものか。
そう言うと神子田、こう答えた

「わたしが喜んでいるのは、領地をいただいたことに、ではありませんよ。
私たち四人の勲功、この軍の中にそれを越える人間なんていませんよね?

で、秀吉様は播州という大国を任された。この播州は秀吉家中みなに加増しても、
まだ余ることは誰でも知っています。
ところが秀吉様は私達に、『家中の者に分配してもう余りが無いから、とりあえずこれだけで
我慢せよ』などと命じられました。

こんな言葉で納得させられると思っているとすれば…、はてさて、秀吉様は我らを、
無知無才の者だと思っているようです。

そんな無知無才の我らに五千石も加増してくださるとは!
こんな寛大な秀吉様に仕えていること、これを喜ばずにいられましょうか!?
だからお礼に行こうと言ったのですよ。」

そう、お礼とは「皮肉を言いにいこうぜ!」という事だったわけだ。
このように神子田という人は、武功は多かったが常に秀吉を小馬鹿にしていたそうだ。
そんな、秀吉軍陣の空気の悪い話。

ちなみに秀吉麾下の勇将として鳴らしたこの四人、その後、宮田は三木城で討ち死に。
神子田は小牧長久手の折追放、後切腹。尾藤も九州征伐の折追放、後切腹。
戸田だけは秀吉の時代を生き延びたが、関ヶ原で討ち死にした。


657:人間七七四年
09/04/15 15:14:34 KsO0NVVK
武田勝頼「人は城、人は生垣、徳の無いおこないが家臣団の崩壊を招くもの」

658:人間七七四年
09/04/15 16:38:00 yvbporLb
神子田って家臣を抱え過ぎて破産した話がなかったっけ?

659:人間七七四年
09/04/15 17:04:12 gDHyik7c
神子田って誰かと思えば、
いつぞや書かれた、竹中半兵衛に目をかけられていたやつか。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

なるほど、秀吉に嫌われるわけだ。

660:人間七七四年
09/04/15 17:24:30 JGPnBOC5
>>656>>659
ああ、この人か
そりゃ常日頃これじゃ秀吉も疎ましく思っても不思議無いわ・・・
罪に問う機会を手薬煉引いて窺ってたのかもな

661:人間七七四年
09/04/15 17:30:04 j0fNiXUh
>>647
日新斎の教えは神儒仏の合一に近い独特のものだったらしいね
一向宗の禁教が明治の徹底的な廃仏毀釈に繋がった反動理由の一つ、ってのは有名だな。
お陰で文化財が散逸しまくり。破壊し尽くした後に浄土真宗の寺ぼこぼこ建てたので
今は浄土真宗の寺が異様に多い。何も島津氏の菩提寺とかは壊さなくてもいいだろうに…

内之浦以外の地方にもちっちゃい港町には今でも唐仁原とかいった
縁のある地名が残ってたりするから、風任せで流されたり難破したりして
寄航する船は多かったんだろうな
そういうトコの現地には明人特有の帰化苗字とかあったりする。

662:人間七七四年
09/04/15 17:35:10 WVYiKFBS
>>659
頭の回る男だったんだろうけど、秀吉に文句いうときに嫌味はないよな
思うさま罵倒してちょっぴり正論ぽい理屈つけた方がマシだろ~

663:人間七七四年
09/04/15 19:18:46 imlnqVyd
>>658
家臣抱えすぎて破産したのは加藤光泰じゃなかったっけ?
ただ、この時期での5千石って大領だと思うがなぁ。
秀長や蜂須賀小六は別格としても、この時期の山内一豊や堀尾吉晴が2千石くらいだし。

あと、関ヶ原で討ち死にした戸田は弟の方。本人は朝鮮の役で病没している。



664:人間七七四年
09/04/15 20:49:09 gvQd4+kM
>>656
皮肉にしても回りくどいね。
微妙にいらっとくる回りくどさだ神子田。

665:人間七七四年
09/04/15 22:09:23 5NjTBSa/
播磨一国の段階で五千石なら十分大封じゃないか?

別に播磨全土が秀吉の好き勝手に裁量していい土地になったわけですらないのに。

666:人間七七四年
09/04/15 23:56:40 Lu3q7IWQ
 ある日、軽業の名人が武田家に仕官を願い出た。
そこで信玄の家臣がテストすることになった。テストの内容は
門を閉じた状態で外から入るというもの。名人はニヤリと笑うと、
苦も無く塀を跳び越えて中に入った。これを聞いた信玄は
「塀の中にいばらを敷き詰めろ」と命じて再び名人をテストした。

 名人は塀を跳び越えようと跳んだ。しかし塀の中にいばらが
敷き詰められていることを察知すると、そのままもとに位置に
飛び戻った。これを見たものは誰もが感心して、信玄に名人を
召抱えるように薦めた。

「素晴らしい技ですな。ぜひ召抱えましょう!」

「殺せ」

「…え?」

「あやつの技は武田家を滅ぼす。殺せ」

こうして業師は殺された。信玄は業師の何を恐れたのだろうか…?

667:人間七七四年
09/04/15 23:59:38 GBxJbBdw
>>655
15でそれだけの啖呵切れんのか…

668:人間七七四年
09/04/15 23:59:50 bBJxCH57

荒木村重

信長公の無粋、無体ぶりにはほとほと愛想が尽きはてた昨今です。
しかもあの冷血漢の周囲には私のことを中傷する卑劣な奴ばっかり、
全く嫌になってしまいます。あの細川藤孝なんぞ、
インテリ面して盛んに告げ口する様は、ためぐちJKの世界です。

ところで最近、不思議な手紙が舞い込んできました。
隣国播磨の小寺籐兵衛からなのですが。

「ちょっと内密の頼み事なのです。
当家も荒木殿と同じく信長殿とのこれまでの御縁は無かったことにし、
毛利家、石山本願寺と今後仲良くする腹積もりなのです。
が、うちの家老をやっている小寺官兵衛、あやつだけはほんに強情で
どうにもこうにも埒が明かないのです。
何ゆえか解らぬのですが妙に信長方の大将、羽柴秀吉とかいう
下賤の出に入れあげており、荒木殿を翻意させるため、
とそちらに向かっております。
死ぬ気で行ってくるといっておりますので、
到着次第どうぞ討ちとってやって下さいませ。よろしく。」

なんだ、自分の家来なら自分で始末しちまえばよいのに、
なんで俺に頼むんだろう、ますます疑心暗鬼だよ。

ひとまず殺さず、捕まえておこうかな。


669:人間七七四年
09/04/16 00:02:47 AAWbJEpT
勝手なイメージだが、武田信玄は天才的・超人的人物を好まなかったんじゃなかろーか
普通の人間が能力を発揮する、組織論重視者
そういや、飛び加藤も殺してたんだっけw

670:人間七七四年
09/04/16 00:04:39 TYX86R++
>>669
飛び加藤を殺したのは上杉謙信だったような
謙信といい信玄といい・・・・・・

671:人間七七四年
09/04/16 00:33:00 +qud6yJ9
>>667
たしかに15歳の発言としてみるとむしろ「いい話」かも。
しかし後2名のキャストが・・・だからw

ちなみにある論文でその後の北原氏のことを読む機会があったが
あの伊集院忠棟の甥に養子にはいられた上、
江戸時代になるとどうなったのかよくわからなくなってしまっているらしい。

672:人間七七四年
09/04/16 00:46:13 8ZbaIS8F
>>666
茨程度の妨害工作で課題(主命)を放棄する
信用できない奴と判断されたんだろ

まぁ、一番信用できないのは課題を出した腐れ坊主なんだがw

673:人間七七四年
09/04/16 00:49:06 QD5jTM1Z
>>669
そんな異能な者が何処にも登用されず、ひょっこり仕官に来たから裏があると思ったんじゃない
この場合は塀を乗り越えて出入り自由のスパイだとしたら目も当てられない結果になる

674:人間七七四年
09/04/16 01:46:37 QjBTBPfe
>>671
「さつま」歴史人名集って本には、子孫は諏訪仲左衛門の付衆中って書いてある。
どっちにしても凄まじい落ちぶれ様だ。
関係史料もゼロに等しいから、他家の史料から探し出すしかないし・・・。

675:人間七七四年
09/04/16 09:59:55 eemgkOKr
兜づまり

大阪冬の陣の時のこと。物見台で大阪城の監視をしていた井伊家の侍が突然、
地面に落ちてきた。

「どうした!矢弾にでも当たったか?!」
周囲が引き起こし、甲冑を脱がして傷を確かめようとしたが、兜がどうしても外せない。
ようやく外したが、傷は見つからない。にもかかわらず、その侍は死んでしまった。

死因に不審があったため老巧の者に見せたところ、原因は解明された。
「これは、『兜詰まり』じゃな。」

すなわち変死した侍は、あまりにも頭の形状にピッタリした兜をつけていたのだ。
そこへ、兜のこめかみ部分に鉄砲の弾が当たったため、兜が詰まって外せなくなり、
しかもヘコんだ所が脈を圧迫しており、脳が鬱血して死んだのである。


バイカーのみんなも、メット選びは慎重にね!!

676:人間七七四年
09/04/16 10:04:21 FOt7tlOD
>>675
日本の兜でもそんなことあるのね。
ヨーロッパじゃ、フルフェイスのヘルメットに打撃与えられて頭から抜けなくなることが
しょっちゅうあったらしい。

677:人間七七四年
09/04/16 12:28:32 mLcikPLL
こんな死に方は嫌だ!にエントリー出来そうだなw <兜づまり

678:人間七七四年
09/04/16 13:00:39 X41S0g4F
頭にぴったりくっつけた鉄板ごしに金槌でぶっ叩かれるようなもんか
衝撃がモロに伝わりそうだ



679:人間七七四年
09/04/16 13:01:06 08h/QrvB
リアル孫悟空の頭の輪かよ
ガクブルものだな…

680:人間七七四年
09/04/16 13:55:51 TI0h4KQ2
>>678
それって兜の意味なくね?

681:人間七七四年
09/04/16 15:43:39 sGj+iCmJ
ケブラー化されるまで米軍がナチヘルを採用しなかったのは
そういう理由なのか。

682:人間七七四年
09/04/16 16:15:48 fkOqfk4b
>>681
あれはあの形状が優れていることがわかってきたからだったはず。
冷戦終結後あたりか全世界であの耳まで覆うタイプが普及した。無論例外はあるけど。

鉄砲の弾の直撃なんて鬱血以前に脳震盪を起こしそうだよな…

683:人間七七四年
09/04/16 16:58:03 FOt7tlOD
ある時、聚楽の大広間に大小名が出仕して、四方山の話しをしていた。
その時の事。

前田利家が、いつものように押し黙り、皆との会話に加わらない上杉景勝に向かって、
こんな事を言い出した。

「かつてあなたは、織田軍による越中魚津城攻め(天正10年(1582))の折、魚津城の援軍して
山ノ下の難所を越えられ、天神山まで進出されましたな。
その折、中々のお手柄であったと聞いております。

…ですがそれも、我々が末森の合戦(天正12年(1584))で、能登の末森城への援軍として向かい、
佐々成政の軍を追い散らして、末森城に堂々と入城した功の前では、天神山の件など小さすぎて、
これは比べ物になりませぬな。」

この時この周りにいた者達、利家のあまりに傍若無人な発言に、皆、押し黙ってしまったそうだ。


前田利家の暴言のお話


684:人間七七四年
09/04/16 17:43:19 g30yBMZ0
末森鳥越の戦いで佐々の兵たった400名に敗走させられた利家がそんな事言う筈が無い

と信じたい

685:人間七七四年
09/04/16 18:12:10 8ZbaIS8F
>>684
犬っころは恩義のある柴田を裏切り、娘を合計三人、秀吉に差し出して加越加増してもらうほどの武将だからな
何処かで勘違いして増長しててもおかしくないw



686:人間七七四年
09/04/16 18:17:33 TYX86R++
>>684
織田時代は中途半端と言われ続けて幾星霜・・・
あんまりな増長ぶりだぜ。信長、信忠親子が死んでなかったら、いやそうでなくても
かつて柴田をも苦しめた上杉家にこんな口もきけんだろwww

687:人間七七四年
09/04/16 19:01:25 08h/QrvB
ンなこと言ってるから直江に家柄のことで言い負かされたりするんだよ…
いい家臣がいて良かったな又左……

688:人間七七四年
09/04/16 19:08:57 BMIMkGWc
>>683
やっぱり器量という点では、家康の対抗馬には成り得んよな・・・
旧織田系の家臣で最後まで残った重臣クラスで、なおかつ蒲生や堀が
若死にしたというのが大きいのかもしれんね。

689:人間七七四年
09/04/16 19:23:08 wUOjbkTf
犬っころは笑いを取ろうとして滑っただけだろ
「なんでやねん!」と言いながらバシッっと突っ込みいれる家臣が必要だった

690:人間七七四年
09/04/16 19:33:43 y2hz727u
>>671
その後の大河原家が存続したりしてたら勧善懲悪な話になるだろうが
15歳じゃ子はまずいないだろうしなぁ

691:人間七七四年
09/04/16 19:48:22 CKr9l5WT
>>690
一応、隆次の姉のダンナが名跡を継いで、更に従弟が養嗣子として継いでるから
血筋は続いたみたい。
明治初期に子孫が「大河平騒動」とかいうのに巻き込まれてるし。

692:人間七七四年
09/04/16 19:58:37 y2hz727u
あら
家名が続いてるんならいい話じゃない
武家にとっては御家存続は名誉な事だろう
玉砕も報われるってもんだ

693:人間七七四年
09/04/16 21:28:37 gN1wfaSb
>>675
最上義光「兜に銃弾があたるなんて、そんなおそろしいことになったら死んでしまうよ!」

694:人間七七四年
09/04/16 21:41:10 zCzGIOMX
>>683
その末森合戦も嫁さんに尻叩かれて仕方なく援軍に行ったんじゃなかったの?

695:人間七七四年
09/04/16 21:46:16 lVjXVv+2
そうか、それは利家なりのノロケだったんだよ!

696:人間七七四年
09/04/16 22:17:33 vjY51SIN
有馬晴信

慶長13年のことでした。弱小大名の私はいつも金に困っていました。
そこで家康様にお許しを願いインドシナに伽羅の香木を買い付けに行き、
ひと儲けする算段を致した次第です。
上様も交易には積極的、銀60貫を投資なさり朱印状も頂き万全の構えで現地に赴きました。
買い付けは上手くいき、帰路船はマカオに寄港しました。
ところでそこでひと騒動が持ち上がりました。気の荒い船乗りども、
マカオの住民と喧嘩となり、鎮圧にきたマカオの兵士に刃向ううちに60名の私の部下が殺されたのです。
その結果投資は失敗、大損をしてしまいました。
これには私も腹が立ちましたし、上様もたいそうご立腹でしたが、
遠隔の地ではどうしようもありませんでした。

ところが翌14年、なんとマカオの総督がわが領地にやって来たではありませんか、
お宝満載のポルトガルの大船に乗って。
この千載一遇のチャンス、逸するわけにはまいりません。
上様も、マカオの仇は長崎で、の気合もこめ、
長崎奉行長谷川左兵衛らを派遣し、船内をくまなく臨検、
お宝も没収することにしました。
ところがマカオの前総督、アンドレア・ベッソアはけんもほろろでこれを拒絶、
さらには奉行殿に高圧的侮辱的態度をとる始末。
「わしの奉行を馬鹿にするとは断じて許せん、全員処刑せよ」、
と上様激怒のお言葉。
親しきイエズス会士を使者に送るも、不穏を感じた司令官アンドレア・ベッソンは召喚に応じるどころか、
長崎港の外に逃げ出す始末。
そこで日本国の威信をかけての船いくさとなりました。
この大船、900トンもありなかなかに手ごわく、
1500の兵を小舟に乗せて向かわせるも10門の大砲の威力に近寄れずにおりました。
そうこうするうちの4日目。
高き櫓を組んだ2隻の船を大船に寄せ、ポルトガル船に一気に兵をなだれ込ませました。
ベッソアもしぶとく剣で刃向うも、
わが方が放った火籠が甲板上の火薬に燃え移るや否や大爆発となり船員どもは火だるま、
さすがの大船も轟沈。

私も大手柄に溜飲を下げたのです。
ところが幸事魔多し、ご加増、旧領復活を狙った下心、
これが旗本岡本大八の詐欺騒動までに発展、
わが息子にも裏切られ、挙句の果てには私が死を賜った次第です。

デウスのお導きとはいえ、とほほの人生でした。

697:人間七七四年
09/04/16 22:48:08 UURDdCYa
(>'A`)>
( ヘヘ


698:人間七七四年
09/04/16 23:16:39 eemgkOKr
m9(^Д^)

699:人間七七四年
09/04/16 23:19:30 +qud6yJ9
>>682
なんかの戦国時代解説本で読んだことがあるが
火縄銃の弾って今のダムダム弾に相当するって書いてあった
しかも鉛100%だから、体内に玉が残ったら・・・

>>691
>大河平騒動
ぐぐーる先生に聞いても分からなかった。もしよければkwsk

>>683
これはひどいw


700:人間七七四年
09/04/16 23:48:09 vSTQLoYv
>>683
話に加わらない景勝を挑発して、みんなと会話するように
仕向けたのだと思って読んでいたが
オチもなんもないのか!

701:人間七七四年
09/04/16 23:49:31 9NRYJBL2
>>700
景勝は何も言い返さないし周りもノーツッコミで利家困ったんじゃないのw

702:人間七七四年
09/04/17 00:08:10 X1H9IO77
>>699
唯一見つけた。
URLリンク(www.town-takajo.jp)
ここの「大楽哀話と戦場余話」以下が大河平騒動の事らしい。



703:人間七七四年
09/04/17 00:11:11 6dGOr0f0
>>700
利家は仕向けようとしたけど失敗した話なんでない?

704:人間七七四年
09/04/17 00:30:10 MC3q6x/Q
関ヶ原の戦勝のあと、家康は大津城に立ち寄った。
京極高次が籠城し、関ヶ原の決戦直前に開城した城であった。

ここで、家康のお供をしていた山岡道阿弥は、
「京極殿も良く持ちこたえられましたが、残念ながらあと少しのところで、御戦勝に
間に合いませんでしたな。」
と、申し上げた。

これに家康は、呟くように言った。
「持ちこたえた、…か。
奥平信昌が長篠に籠城した時は、こんな物ではなかったぞ。

長篠城は戸も障子も壁も、銃弾のため鹿の子斑のように穴だらけになり、土も落ち板も抜けた。
それを城の者たちは、床板や畳を立て、その影に隠れて、我らが来るまで持ちこたえたものだ。」

長篠とこの大津城では、寄せ手の攻めようも守り手の心構えも、大変に違っていた、

そう言うお話。


705:人間七七四年
09/04/17 00:32:17 qxOh2Izg
>>702
トン楠
複雑かつえぐい話ですね・・・

706:人間七七四年
09/04/17 01:18:44 TqFRdiTp
>701
みんな景勝の縦ジワが凄くなっちゃったからツッコメなかったんだよ!

707:人間七七四年
09/04/17 02:40:03 PpMV/8zr
>>704
んでも京極きゅんは(嫁と自分ちの家柄で)戦後もちゃうと遇されたしええやん。

こんな扱われようだけど....
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

 倅が相撲フリークでさえなければもっとよかったろうにqw

708:人間七七四年
09/04/17 07:27:33 OagF7o2k
天正7年のことである。
武田勝頼が浅間大社に詣でた時、社殿の裏にある神立山の杉が(落雷か何かで)突然煙を出すという奇妙な出来事が起きた。
それを見た勝頼が吉田守警斎に尋ねたところ

「千早振る神心より成す業を 何れの神かよそにみるべき」
「身は社、心の神をもちながら、よそを問うこそ愚かなりけれ」

と歌を詠んだ。意味はまあ、

「神様が何か大切なことをお示しになっているようですよ、心当たりありませんか?本当の所どうしたら良いのかわかっている癖に、あえてその良い方法を取らないのは愚かなことです」

みたいな感じ。

この当時の武田家は、四年前長篠の戦いで大敗北を期して以降、家中の緊張を深めていて、あちこちもめ事だらけで外交・戦争・経済、どれも上手くいかず、ジリジリと滅亡に向かいつつあった。吉田守警斎はそんな勝頼の周囲の問題についてチクリと言ったわけだ。

これを聞いた勝頼は吉田守警斎にこうキッパリと答えた。

「信長に降れば私も国も長らえるだろうけれど、たとえ私が死ぬことがあっても信長に降る気はないよ。その内北条が信長と結べば、私は挟まれて必ず滅亡するだろうね。この事を神様は私達に教え示して下さっているのだろう。しかしもうどうしようもないんだよ。」

と言ったという話が残っている。

その言葉の通り三年後の天正10年、勝頼は北条と織田に挟撃されて滅んでしまう。
本当にどうしようもなかったのか。
武田滅亡にまつわる寂しい話。

709:人間七七四年
09/04/17 07:56:06 95tLgIpJ
嫁さんの北条婦人が武田八幡に必死こいて祈祷してんのに旦那がそんな意気込みじゃあ…

710:人間七七四年
09/04/17 10:31:17 yHRjs9Ww
たぶんまとめになかったと思うので。ちょっとお行儀の悪い話。


あるとき秀吉が曽呂利新左衛門の淹れるお茶はいついかなる時でも
絶妙の温度であると褒めた。
なんぞ秘訣はあるのか?と疑問に思った秀吉は、曽呂利にお茶を淹れてくるよう命じると、
こっそり後をつけて様子をのぞきみた。

すると曽呂利は茶を飲みつつ温度を確かめていた。そして飲みさしの茶を秀吉に献じようとする。

秀吉はさっきの場所にすばやく戻ると、曽呂利から出された茶を口にせず、
「のう曽呂利。おみゃーこの世でなにが一番穢れてると思う?」と尋ねた。
そこで曽呂利新左衛門、シレっとこう答えた。
「……こそこそ他人の行動を覗き見する心ですな」

じつは曽呂利は秀吉がのぞき見ていることを知っていてこんなことをしたのだという。
(もちろんいつもこんなことやってたわけじゃない)


よくラスボスにぶっ殺されなかったなーって思う。
あと秀吉ってお茶の温度にウルセー気がするけど、猫舌だったのかな。

711:人間七七四年
09/04/17 10:34:30 OC14IyZD
>>683
景勝をしゃべらせようと荒業仕掛けたのかな?
それでもしゃべらない景勝であった。。。

712:人間七七四年
09/04/17 11:58:49 1+F5DQO5
>>708
降っても養子入れられて、北畠コースだろうしな。
徳川みたいな同盟軍にしてくれたかな?
もうどうしようもなかったんだろう。

713:人間七七四年
09/04/17 12:16:52 ru6SGMJu
>>708
勝頼はな...信長も言ってたけどホント運が悪すぎた。
親父のせいで降伏も出来ないし、親父が騙まし討ちしまっくったせいで
まともな外交できなくて360度仮想敵国という。
信玄死んだ後の武田ってかなり無理

714:人間七七四年
09/04/17 12:18:23 9ScUVsnk
景勝のと似ているね
信長は終盤必ず一大決戦で勝負しようともちかける
確実な死を覚悟させる何かがあるんだろう

715:人間七七四年
09/04/17 12:29:39 OC14IyZD
>>714
信長勝利をアピールする政治パフォかもね。

716:人間七七四年
09/04/17 12:50:51 2yxDX7be
仮に降ったとしても家臣に闇討ちされそうだしな。
謀反でも起こされたら連座で処刑だろうし

717:人間七七四年
09/04/17 14:09:44 95tLgIpJ
本人は滅亡覚悟してるのに周りはやる気だからこんな噛み合わない話も出てきたんだろうか?
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
まぁ最後の最後まで責務を果たした勝頼はマシだけどさ
義隆とか宗麟なんかは酷い

718:人間七七四年
09/04/17 15:23:12 +aJUa6WC
天正7年ってことはもう北条から嫁貰ってるよな
あ、でも前年お館の乱じゃあもう北条を警戒してるのか
これが甲越同盟前後の勝頼の心境だとするとなんかなあ
上杉と組んだのもこういう心境からなんだろうか

719:人間七七四年
09/04/17 16:31:20 dZt0n/ml
勝頼の立場に誰かが入れ替わって滅亡を防げたかと問われればなぁ
信玄でも無理だろ
織田と北条に挟まれて上杉と徳川に隣接とかどうしろってんだ
姉小路?そんなのもいたよね

720:人間七七四年
09/04/17 16:44:50 2yxDX7be
信玄が80まで生きたとしても滅亡は避けられないだろう
なんて言ったら荒れそうwww

長篠で奇跡でも起こさない限り逆転は難しかった

721:人間七七四年
09/04/17 17:19:08 /9d1s8Uh
綱吉がカギ!

Wii 『朧村正』
公式サイト更新!
URLリンク(www.mmv.co.jp)

・お知らせ:「朧村正」の品薄について!
・概要、キャラクター、システム、スペシャル更新!
・発売記念アンケート実施中!

722:人間七七四年
09/04/17 17:47:42 HEO8MgXj
つーか信玄の外交は
相手が同盟を組まざるを得ない状況にしているから
相手もどうせ裏切るんだろと思いつつも悔しいでも組んじゃうビクッビクッ
になる訳であって


723:人間七七四年
09/04/17 17:54:53 95tLgIpJ
80まで生きてれば家臣団を繋ぎ止めることは出来ただろうが外交情勢が変わるわけじゃないしなぁ
立地条件が悪すぎる

高麗を服属させた元が日本にも服属を迫りこれを鎌倉幕府が拒否したため起こった元寇
2度に渡る侵攻は鎌倉武士の奮戦で撃退したが
2度目の大軍を退けた時には長大な防塁が防衛に大きな役目を果たした
しかし現代ではそのような長大な防塁は残っていない
では防塁はどこに消えたのか?

九州征伐後、筑前に入った小早川隆景は名島城を拡張
その際防塁の一部が持ち去られる
このときはまだ残っていた部分があったようだ
しかし関が原後、今度は黒田長政が筑前に入ったが名島城を放棄して福岡城建設の計画を建てる
このときも防塁が持ち出され福岡城が築城されるとほとんど石垣に消え無くなってしまった
日本を守り鎌倉武士を守った防塁はこうして一地方の支配者に過ぎない戦国武士の居城として消え去った

724:人間七七四年
09/04/17 18:02:24 MC3q6x/Q
>>723
つーか、元寇防塁って建設が1276年だから、小早川景隆や黒田長政の時代から300年以上前だな。
300年以上前のものが再利用できるほどの状況で残っていたってのもすごいな。

725:人間七七四年
09/04/17 18:08:48 nNtQ8qEp
>>717
義隆は謀反があったその日も足利義輝の使者と大友義鎮の使者をもてなすために
前日からの日をまたいだ酒宴を開いていた
報が耳に届くその瞬間まで小太夫に幸若舞を舞わせていたという

数日前から陶決起の噂が山口の町は持ちきりで住民は避難をし始めているような状況
勿論義隆の耳に入ってる筈なのに義隆はなーーーーーんもしなかったんだよな
ある意味死を覚悟した上で現実逃避していたのかもしれない

726:人間七七四年
09/04/17 18:12:43 IeNVl1zf
ローマの建造物も中世ヨーロッパで建築の材料にしばしば使われたとか。

727:人間七七四年
09/04/17 18:20:09 95tLgIpJ
>>724
防塁って言っても石だしな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
みたいに200年以上たった鉄砲が使えるって例ならともかく
その辺はそれほど驚くことじゃないかもしれん
福岡城は再建計画があるけど防塁は無いみたいね

>>726
ローマの長城も後世で悪魔の壁とか言われてたしな
ピラミッドもはじめはきれいな四角錐だったのに
イスラム教徒にゴリゴリ削られて今の階段状の姿になっちゃったらしい

728:人間七七四年
09/04/17 18:38:06 qxOh2Izg
ピラミッドは表面の石は大理石だったらすぃね
その表面のきれいな部分だけがリサイクル(といえば聞こえはいいが要は盗用)されたという
-------------------------
まとめスレになかったので ついでに

豊臣秀長は大和の領主となり今の大和郡山市に居城を築いた。
今も一部が残る大和郡山城である。
しかし、あまりの突貫工事だったため石垣を築くための岩や石の調達が
全く間に合わない。
ふと周囲を見渡して気がついた。

「さすが寺社仏閣が多くいにしえから都だった大和
 石仏とか古墳の石室を転用すればいいじゃーん」(ぴこーん)

・・・今も壮大な野面積みの石垣を残す大和郡山城
実は壮大な文化破壊の跡地でもあった。
豊臣秀長家があっさり2代であぼーん(しかも2代目の養子は曰く付きの変死)は
これらの祟り・・・かどうかは不明。
ちなみに一部の石仏は露出しているので、今も確認することができる。

729:人間七七四年
09/04/17 19:09:35 dZt0n/ml
>>752
京を見捨てて貿易で栄えた大内氏を頼った公家も大勢巻き込まれてるんだよな
戦国に安住無し

730:人間七七四年
09/04/17 19:17:18 HEO8MgXj
>>752・・・だと・・・?

731:人間七七四年
09/04/17 19:26:10 95tLgIpJ
>>728
宣教師もビックリだよな
わざわざ見えるように積むなよ…

>>729
伊東義祐「公家の皆さんもうちに来れば良かったのに」

732:人間七七四年
09/04/17 19:31:57 rxjWCbku
>>728
光秀の築いた福知山城もどっかに墓石が使われていると聞きました
当時はこういう事が結構あったんですかね

733:人間七七四年
09/04/17 19:49:44 nNtQ8qEp
>>729
うn
殺された公家で有名なのは武田信玄の正室・三条の方の父親三条公頼や、二条良豊など
特に二条良豊は死ぬ前に内藤興盛に伝言を頼もうとしたが、良豊を襲った兵は
話が通じないタイプだった為に伝言を聞く前に良豊の首をはねてしまった
陶の兵がここまでやった背景には都落ちした公家に対する積年の恨みがあったと思われる

734:人間七七四年
09/04/17 20:07:06 95tLgIpJ
宣教師も山口が安定してると見て拠点にしてたがこの乱のせいで拠点を失ってるんだよな
当時としては衝撃的な事件だったんだろう

735:人間七七四年
09/04/17 20:11:34 MC3q6x/Q
>>734
経済力で言えば、当時最大の大名が大内だっただろうしね。

736:人間七七四年
09/04/17 23:05:15 MC3q6x/Q
二羽の鴨

蘆名盛氏が岩崎の向羽黒山城で隠居の頃、鷹狩りで、鷹が一度に二羽の鴨を捕えた事があった。
それから間もなく、盛氏は死んだ。

後を継いだ蘆名盛隆も鷹狩りの際、秘蔵の鷹が一度に二羽の鴨を捕えた事があった。
盛隆はこの年、家臣によって殺された。

そして会津に移封されてきた蒲生氏郷も、塩川での鷹狩りで一度に二羽の鴨を捕えた事があり、
その年に死んだ。


つまり会津では鷹狩りの際、一度に二羽の鴨を取ると、死亡フラグなのだ。
会津の人、鷹狩りの際は気をつけて!


737:人間七七四年
09/04/17 23:45:43 2yxDX7be
そうカモな

738:人間七七四年
09/04/18 00:07:28 3UZhcpqZ
>>737

739:人間七七四年
09/04/18 00:25:43 5TVpKKrF
>>737

740:人間七七四年
09/04/18 00:29:04 3p4zWcSZ
>>737

741:人間七七四年
09/04/18 01:05:15 awLEZejE
>>737は一言で三羽の鴨を釣りました。
もう死亡確定です

742:人間七七四年
09/04/18 01:15:49 Wn67dZPd
島津忠良(日新斎)には嫡男の貴久の他に、忠将と尚久という息子がいた。

次男・忠将は貴久の6つ年下。
異母弟の三男・尚久は貴久より17歳も年下で、貴久の息子・義久より2つ年上。
尚久は義久・義弘とは日新斎のもとで兄弟同然に育ったといわれる。

忠将は薩摩大隅の領内統一戦に於いて、ほぼ全てに参戦し各地を転戦、武功を上げた勇将だった。
貴久を良く補佐し、戦では常に最前線に立ち続け、初期の戦国島津家を支えたのは武略に優れた忠将だったという。
貴久と忠将の兄弟関係は、後の義久・義弘にも大きく影響を与えていると言って良い。

尚久は日新斎の隠居地・加世田からほど近い鹿籠(現在の枕崎)の地頭になり、こちらも各地を転戦していた。
鹿籠は坊津を含めた南薩摩の南岸一帯を抑える拠点であり交易や倭寇の統括も任されていたと伝わる。
尚久は日新斎晩年の子で可愛がられて育ち、一説には成人する頃には身の丈七尺もあり四尺の大刀を
軽々と振り回す大層なイケメンだったそうな。

そんな貴久の弟二人であるが、肝付兼続や根占氏・伊地知氏との廻城攻防戦(1561年)で一気に運命が暗転する。
忠将は竹原山にて町田久倍らの味方が未明に肝付勢の急襲されたとの報を受け、救援するため馬立塁から出陣。
小勢での救援に家臣は本陣を動かないよう忠将を諫めたが聞き入れず出撃したところ、山中で伏兵の挟撃を受け
後続の味方が駆け付けた時には忠将主従数十人は悉く討ち死にしていたという。享年42。
この後、貴久は肝付勢を一旦退けることには成功したが軍を立て直すために一時撤退。

三州統一に向け順調に邁進していた最中の忠将の若すぎる死は、当然ながら家中に大きな動揺が走る。
殊に忠将に大きな信頼を寄せていた日新斎の嘆きと哀しみは計り知れぬものがあった。

廻城合戦では総大将の貴久を初め、尚久や義久など主だった武将はほぼ参戦していたが、ここで日新斎は
「……なぜ忠将をすぐに助けに行かなかったのじゃー!!」
と、忠将を失くした怒りと悲しみの矛先を 『尚久の敵前逃亡』 と決めつけ激しく叱責したのだった。

尚久としては救援に向かうも城の南方にあった忠将の陣とは深い谷に阻まれていたため
進軍が遅れたわけだが、父・日新斎の敵前逃亡の謗りに大きなショックを受けた。
「何故オレが…」と思ったであろう尚久、このことを大変気に病んだと言い
翌年(1562年)に病を発し、32歳の若さで急死。
地元の郷土史には衝撃と心外の余りショック死したと伝わる程の顛末と相成ることに。

尚久の家臣・尾辻佐左衛門は、悲憤しつつ亡くなった主人を憐れみながらかねての約束もあり、
殉死すべく日新斎のところへ挨拶に伺ったところ、両刀を取り上げられてしまったので
近くにあった石角で切腹して尚久の後を追ったそうな。

日新斎は1568年に77歳の長寿を全うしたが、忠将・尚久の息子二人に先立たれた悲しみは非常に深かったという。
晩年の日新斎のちょっと寂しいお話。

743:人間七七四年
09/04/18 08:40:16 cxaLeUHe
陶決起を知っていたのに遊蕩三昧の義隆は世の末を感じてたんだな。

744:人間七七四年
09/04/18 08:58:57 vCqVIurp
陶って、いい加減にしないと謀叛するぞって言い続けながら我慢してきたんだっけか

745:人間七七四年
09/04/18 09:27:05 8ENrp2SP
島津一族は鎌倉以来といっても、あまりに支族が増えすぎて
この時代、実力は国人とそれ程変わらなかったのでは。
精々数百人規模の動員力では。運悪ければ大将も逝くでしょう。
貴久は、鉄砲が上手かったとか。

746:人間七七四年
09/04/18 09:52:18 CjE82gJS
>>743
スエの決起を知り世のスエを感じてたんですね。
わかります。

747:人間七七四年
09/04/18 10:22:28 NvHg6h7O
>>725
義隆だけ平和ボケしてる感じだな。
あと陶さんの性格は短慮らしい。

748:人間七七四年
09/04/18 10:24:43 mSl77JJF
>>747

余の陶を感じてたんですね義隆さん
わかりまアッー!。

749:人間七七四年
09/04/18 10:38:50 SBrP0tZO
義隆は敗戦で嗣子を失うまでは西国の雄に相応しい立派な大将だったのに。それ以降はなぁ・・・
都落ちした貴族達との交流があるせいで諸行無常を強く感じていたのかな

討死にした嗣子・晴持は土佐の一条房基の弟でなかなか立派な大将だったらしい
・・・と聞くとなんとなく義隆と長曽我部元親とが被るように感じる

750:人間七七四年
09/04/18 12:29:20 mSl77JJF
信玄「嗣子を失う、なんと悲しい事か!その気持ち良く判る」

751:人間七七四年
09/04/18 12:46:06 5TVpKKrF
甲斐宗運「いや本当によく分かる!」

752:人間七七四年
09/04/18 13:33:42 53fFVnJU
徳川家康「忠次よ、お主も倅はかわいいか……」

753:人間七七四年
09/04/18 13:40:51 53fFVnJU
>>711
猿芸をみせればよかったのに…… なるべく太閤さんの前でうw@!くせmω

754:人間七七四年
09/04/18 13:42:00 3p4zWcSZ
植宗「倅がかわいくないわけなかろう」
晴宗「いやまったく」

755:人間七七四年
09/04/18 14:41:01 Y1vNKVCt
宇喜田直家「娘はかすがいじゃ」

756:人間七七四年
09/04/18 14:58:37 r2yQH4pG
>>742
そんな尚久さんの同母妹が同じ戦に参加していた義久さんの嫁です・・・
義久から見るとおばさんのはずだが、>>742さんの話からすると年離れてないのかも。

>>750-755
くそっ、ここが2ちゃんねるなら「おまいらまとめて逝ってよし」といえるのだが
そうそうたる胡散くs・・・いやご立派過ぎるメンバーだぜ_

757:人間七七四年
09/04/18 15:26:17 WnCCQo08
おばさんと結婚したのか?
珍しいな。どういう政略結婚だ

758:人間七七四年
09/04/18 16:45:53 dgvH6NBl
武田信玄の四男が元服し、諏訪四郎勝頼を名乗った頃
まだ武田家には、信玄の正室三条の方の長男義信がいた。
勝頼は四男だが、次男は病を得て盲目で出家しており、
三男は幼い頃に病で亡くなっているから
長男さえ居なければ勝頼でも家を継ぐことができる。
かくして勝頼はある企みを思いついた。


その頃義信はとある女性を寵愛していたのだが
あまり衆目に晒されたくない関係だったのか
というか正妻や父に知られたくなかったのか
守り役の飯富虎昌の家に預け、近習の長坂源五郎(長坂釣閑斎の息子)
を連れて毎晩飯富の家を訪れては朝帰りをしていた。
これを知った勝頼は目付や横目を買収して
「義信様が飯富虎昌の屋敷にて曾根周防らと
人を遠ざけ御密談をなさっておられるのですが
これがどうもお屋形様を信虎様の例に習って遠ざけ
家中を手っ取り早くものにしようという謀に違いありません」
と訴えさせた。

この訴えを知った信玄は、義信を蟄居させると
飯富・曾根・長坂らを捕らえて尋問したのだが、元来忠臣の飯富らは
「そのようなことは決して御座いません。
何故我々がお屋形様に背きましょう。
これは何かの間違いです」
と涙を流して言って、女性のことも正直に言ったので信玄はこれを信じかけた。

それを知った勝頼は、今度は信玄の側近や侍女達を買収し
「どうやら謀叛の首謀者は飯富だとか
飯富は義信様を美女を用いて迷わせ
反逆を唆したそうです」
と言わせた。

信玄はそれを信じ、飯富らを切り
更に義信を三年幽囚させた後切腹させた。
そして勝頼に家督を継がせたのである。
武田勝頼という男はこんなひどい男なのだから、
武田滅亡もさもありなん。




……なんていう話が江戸時代、まことしやかに囁かれたそうなんだが、
読めばわかる通りツッコミ所は満載。
まだ十七な上に高遠に入って諏訪を名乗っていた勝頼が
なんでそんなに賄賂ごときで人を動かせる?とか
あの信玄がこの程度の謀見抜けないわけねーだろwどんだけ信玄バカなのwwとか

死者に鞭打つ江戸徳川史観の悪いお話。


759:人間七七四年
09/04/18 16:49:19 rL+U23HR
>>758
徳川史観関係無しに、家滅ぼした当主は悪く言われるもんだろ。

760:人間七七四年
09/04/18 16:53:14 dpDBX3fS
>>758
徳川じゃなくゴシップ好きな江戸庶民と言うべきでしょうよ

761:人間七七四年
09/04/18 17:04:42 SWOezVJC
>>758
これ改正後三河風土記にある逸話だよな
一応徳川史観ではあるか
海音寺潮ゴローが本のなかで引用してたから覚えてる
こんなんありえねーって言ってた


762:人間七七四年
09/04/18 17:05:10 AtBe+RG8
神話や説話、史話に登場する刀剣類のエピソードを集めたサイトを見てたんだが、その中の「姫切」について。

「毛利元就の次男、吉川元春の所持していた脇指。ある晩、元就を訪ねた元春の後ろから、元春の娘がついてきた。
抜き討ちに斬りつけると女は足早に逃げ去り、血を追っていくと岩穴の中に至った。
地を掘り崩してみたところ、女が死んでいたので、この脇指を姫切と名付けたという。」

元春のDQNっぷりに唖然としたんですが、これについて詳しい人いません?
ググってみても、「姫切」ではろくにヒットしないし、元春の逸話も嫁絡みばっかりだし、気になって…

763:人間七七四年
09/04/18 17:18:25 53fFVnJU
>>757だお。
日新斎じきじきの采配で自分の娘と嫡孫を合体!
一応、総領息子の倅を見込んでやったことらしいが……

764:人間七七四年
09/04/18 17:24:11 53fFVnJU
>>728
信心深い人にはキツい話だが、城や館を築き街を拓こうって時に
毎回々々大石を切り出してくるのは大変な軍役負担だぞ。

むしろ領民や寄騎(大名)の負担を減らすためだったろう

海際や河口でもない内陸部に大石持っていく苦労はわかるっしょや

765:人間七七四年
09/04/18 17:32:23 Pikexkz3
>>764

信長は、わざわざ出所の寺院や石仏を晒しあげるように
石組み作らせたよ。

766:人間七七四年
09/04/18 17:34:01 QXBx2fAi
>>762
何かよく分からないエピソードだな
元春の娘=女って事か?

767:人間七七四年
09/04/18 17:34:38 JrIS5bax
>>762
元就に会いに行く道中、誰か知らん女が付いてきていて、それを振り向きざまズバッと斬ったら
首がスポーンと逝った訳だが何故かその女はその場で倒れることなく走って逃げていった。
血の跡を辿って岩山に行き掘り返してみると、女が真の姿で死んでいたっつー話

768:人間七七四年
09/04/18 17:42:45 58P2yRbX
石の話が出たので。
徳川家による大坂城再建が始まったころのお話。
ある日、細川忠興が普請総奉行である藤堂高虎と出会った。
話が石垣用の石について及んだ時
高虎は「伏見城の石を持ってくればいい。
ついでに日雇い人夫を使えば安くあがる」
それを聞いた忠興「さすがは」と褒めたたえた。

後日息子の忠利へあてた手紙の内容。
「伏見の石だけで足りるわけないじゃないか。
ホント高虎ってやつはつまらんやつだ」




769:人間七七四年
09/04/18 17:43:58 AtBe+RG8
>>767
あぁー、オカルトな話だったって事か。ありがとうスッキリした。

770:人間七七四年
09/04/18 17:45:41 ePeZllAw
>>757
義久の元服後の名乗りは「忠良」だから、日新斎の爺さんは
義久には自分の同名許すくらい相当入れ込んでたらしいね、>>763の言う通り。

771:人間七七四年
09/04/18 18:54:42 WnCCQo08
同じ名門の武田勝頼なんかは外交道具の姫を娶ったのになぁ
せっかくの姫を身内で使っちゃうってなんか勿体無い気も
後妻は種子島氏の子らしいけどさ

772:人間七七四年
09/04/18 19:10:55 Pikexkz3
>>768

築城名人も最強BPD三斎公にかかるとかたなしだわさ。

773:人間七七四年
09/04/18 19:21:51 uwF89boi
その手紙を知った高虎
『ちくじょ~(≧ε≦)』

774:人間七七四年
09/04/18 19:23:38 r2yQH4pG
>>771
せっかくの姫だから目の届くところにおいておきたいのじゃよ

>>768
京都人風味いけずなお話

775:人間七七四年
09/04/18 19:58:51 EflVdIiL
血を集中させる事で特殊性や権威を高める狙い
エジプトみたいに兄弟婚まで行くとアレだが

776:人間七七四年
09/04/18 20:05:40 GKbcSKly
京都人「近江なんて琵琶湖しかないやんw」

777:人間七七四年
09/04/18 20:43:50 ZcUyI14Q
>>776
アメトーークの見すぎ。



778:人間七七四年
09/04/18 21:38:41 WnCCQo08
調べたら義久の後妻もいとこじゃねーか!
悪いほうの家久もいとこだし島津家どーなってんだよ
上代皇室並みの近親婚じゃねーか!

779:人間七七四年
09/04/18 21:43:28 CI8taEQG
一族の縁を繋ぎ止めるのには結婚が一番ですしおすし
毛利もやってんじゃん
五龍局が生んだ娘二人と吉川元長と毛利輝元がそれぞれ結婚

780:人間七七四年
09/04/18 21:48:42 WnCCQo08
もしかして意外にポピュラー?
姫って外との結びつきに使うもんだと思い込んでたわ

781:人間七七四年
09/04/18 22:00:37 3p4zWcSZ
戦後までで武士公家農民問わずもっともポピュラー結婚スタイルが、いとこ婚らしいぞ。

782:人間七七四年
09/04/18 22:52:18 2JIQDORU
下手に他所と縁戚持つと厄介だしな

783:人間七七四年
09/04/18 23:04:42 VXYyOkvT
島津の近親婚は同族間の結束を固める意味もあったんじゃないかな。
一族での争いに明け暮れてたわけだし。
でも久保が死んだからって弟の家久(悪)に嫁がされる亀寿は…

784:匿名希望武将さん
09/04/18 23:45:50 7ifaFiXZ
>>782
滅ぼすチャンスではありませんか?

785:人間七七四年
09/04/19 00:08:36 Dudfa+Bi
U喜多さんあらわる

786:人間七七四年
09/04/19 00:15:55 6lm44Mnt
S玄公「何、妹の嫁ぎ先? そんなの関係ねえ」
S玄公「何、息子の嫁の実家? そんなn(ry

787:人間七七四年
09/04/19 00:44:55 DiZwEyhZ
日新斎の別の娘は肝付家に嫁いでるよ。
しかも権力握った嫁ぎ先を島津に吸収させてる。

788:人間七七四年
09/04/19 01:05:06 D+JQ/QTQ
>S玄公「何、妹の嫁ぎ先? そんなの関係ねえ」
忠興「いやあ」
忠恒「まったく」
義光「同感ですな。」

789:人間七七四年
09/04/19 01:06:06 BXAtYlJe
>>788
義光さん、心配そうにソワソワしながら言われても……。

790:人間七七四年
09/04/19 01:07:16 Dudfa+Bi
>>788
>義光
妹に叱られて戦をやめちゃうような人に言われてもw

791:人間七七四年
09/04/19 01:12:12 pSyMYG4X
>>779
>五龍局が生んだ娘二人と吉川元長と毛利輝元がそれぞれ結婚

元長は早世
TERU元はご存じの通り

実はこの結婚悪い話だったのか?

792:人間七七四年
09/04/19 01:18:54 /7pK8ML5
義光「オレはいざとなれば、妹なんか関係ない非情な男だぜ!?」

793:人間七七四年
09/04/19 01:39:12 2alRbgEa
>>791
>TERU元はご存じの通り
でも決して正室がないがしろにされていたわけじゃないぞ
側室との間に生まれた秀就のことは南の方もかわいがってたみたいだし
墓所は輝元と南の方でセットになってるし

794:人間七七四年
09/04/19 02:43:30 AU3TS5xe
斉藤義龍がその父、斉藤道三を討つため挙兵した時のこと。

稲葉山より川を越え出撃した部隊は、待ち受けた道三側に手ひどくやられ、七段の備えのうち、
六段まで崩されると言う惨状になった。
この時、崩壊寸前の義龍側を、国枝助右衛門がその一手で支えた。

さて、義龍本陣では戦況に付いての詮議が続いていたが、ここで長谷川越中守進み出て、

「今は是非を論ずる段階ではない!全軍、川を越え一気に勝負をつけるべきである!
それがし、先に渡河させていただく!」

と、たちまち部隊を率いて川を超えて行った。
この長谷川の行為に義龍たちも引きずられ、軍を移動させる。
これに前線で耐えていた国枝も力を得、先に渡ってきた長谷川と一緒になり
道三の軍に押し掛かり、義龍側はついに大勝を得た。


さて、問題はその後であった。論功行賞である。

国枝は言う
「今日の勝利は私一人の働きに極ります!
あの、七段の備えのうち六段まで破られた状況の中、私が耐えきったからこそ、
後続部隊が川を渡り、この勝利を得たのです!」

長谷川も言う
「今日の勝利は私一人の勇謀のおかげです!
私の行動こそがお屋形様を動かし、敗北寸前の国枝の命を助け、今日の勝利を得たのです!」

双方、自分が一番だと譲らない。
そこで義龍

「国枝が支え、長谷川が川を越えた。これは確かである。だがな、
余が麾下の大軍を、川を越えよと下知しなければ、今日の勝ちはありえなかった。
これはすなわち、今日の勝利の一番の功は、余、自身にあるということだ。
そうではないか?」

これには両人とも言葉に詰まり、二人は年が明けてからようやく賞せられたとの事である。

手柄の独り占めを主張して、かえって不利を被った、と言うお話。


795:人間七七四年
09/04/19 03:02:16 ULC8BsTH
ちょっと前に墓石を石垣に使った話があったけど
近畿あたりじゃ古墳をそっくりそのまま使った城も結構あるんだよな
なんでも前方後円墳のあの形は城にぴったりで、大した費用もかけずに作れたとか
しかも当時の思考じゃ墓主の加護を期待できるとかで作る側にとっちゃ二重に得
物言わぬ墓主は何を思ったことだろうか

796:人間七七四年
09/04/19 04:53:30 zYPXjnCR
>>792
義光さん、それ妹さんの耳に入るとマズイのでは……?。


797:人間七七四年
09/04/19 05:32:36 vhByb6rw
>>795
案外にぎやかになって嬉しいかもしれないよ
古墳に住んでる方々って血の気が多そうだし
そういうふうに利用されなきゃ結構さびしいんじゃないかな

798:人間七七四年
09/04/19 11:13:38 6cIz4MAu
徳川頼宣の家臣の従士が盗みを働いた。怒った頼宣はその組の
頭・水野甚三郎を呼び寄せた。

「愚か者め、お前は組にこんな阿呆がいることにも気づかなかったか!
即刻、切り捨てて来い!」

「なんと、あまりのことを仰る!親の心子知らずといいます。どうして
組の人間全ての心まで知ることができましょうや。このような辱めを
受けては、もはや上様にお仕えすることはできませぬ!」

そして甚三郎は髪を小刀で切ると城を去ってしまった。翌朝、甚三郎が
気になった頼宣は甚三郎の小舅・水野重良に甚三郎のことを尋ねると、
重良は答えに困って平伏した。そこに家老・安藤直次がやって来て
「重良殿、すぐに甚三郎を呼び戻すのです」と2、3度繰り返して言った。
これを聞いて頼宣はこう言った。

「帯刀はなぜそんなことを言うのだ。あいつはわしに責められて勝手に
出て行ったのだ。呼び戻す必要などあるまい」

「親の心子知らずといいます。組子全ての心中を把握するなど不可能です」

直次が甚三郎と同じことを言うので、頼宣は反論したが…

「ムッ!だがな、かつて父上は従士が奥女中に恋文を送ったときに、
その従士頭だった松平若狭守を改易したという先例がある!」

「権現様は仏でも神でもない、ただの凡夫であらせられました。どうやら
子というものは親の行ったくだらぬことまで学んでしまうようですな?」

頼宣の顔をじっと見つめながらそう皮肉ると、直次は退出したという。

799:人間七七四年
09/04/19 11:40:49 pSyMYG4X
>>793
       ____
     / TERU \
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   そうだお!
  |     |r┬-|     |   南の「うちの嫁さんは婆で立つ物も(ry」といったDQNとは違うんだお!
  \      `ー'´     /

こうですかよく分かり(ry

>>795
茶釜を爆発させた人の多聞山城は聖武天皇陵の真上に建ってたと推測されてるわね

>>798
また面倒くさい三河武士かw
で、頼宣さんは直次首にしたん?

800:人間七七四年
09/04/19 12:19:50 0ena50X7
気持ち悪い

801:人間七七四年
09/04/19 13:11:45 K1a1USVI
>>788
そう言えば忠恒の妹は誅殺した伊集院忠真の嫁だったなw
しかも事件の後に島津尚久の孫の久元に無理やり嫁がせてる鬼畜ww

久元は既に4人も子どもいて夫婦仲睦まじかったのに
わざわざ離婚させてまであてがうという無茶をやらかす忠恒さん半端ないw

802:人間七七四年
09/04/19 13:44:14 Ugc9IrAy
イトコ婚というと尼子晴久(経久嫡孫)もそうだな
尼子国久(経久次男)の娘と結婚している

その妻が病死後
国久・誠久親子を粛清(新宮党事件)


803:人間七七四年
09/04/19 18:45:37 HNOMCaRP
安藤直次も水野重良も付家老なので頼宣が首に出来たりできる
人じゃないんだなこれがw

甚三郎の素性もちょっと調べてみた。
小舅が水野重良(=甚三郎は水野重良の婿)ということなので、
水野義重あたりだろうか。
この人も家康直臣が出自で6000石というかなりの上級家臣だなあ。
やはり頼宣個人の判断でクビにしたら問題になりそうな人だ。

頼宣さん、目の上の瘤がたくさんいて厳しく躾けられたんだなあ。

804:人間七七四年
09/04/19 19:51:06 cvicAGXc

大村純忠
弱小大名の窮余の策

戦国大名といっても、この肥前辺境の地で私は無力です。
三城七籠をやんないと生きていけなかったくらいです。

とうとう最近宿敵、佐賀の龍造寺隆信の毒牙に抗しきれなくなってきたのです。
彼らは、わが領地もさることながら、私がこつこつと国際外交、
交易に力を尽くした成果である長崎の港を喉から手が出るほど
欲しがっているのです。
ポルトガルからのナウ船は1千tクラスはざらでしたから、
南蛮渡来の珍品、香木、毛皮、装飾品、それに火薬や大砲、
それに何よりも中国からの絹織物は莫大な利益を生み出しますもんね。

平戸の松浦法印は、仏教徒に気兼ねして耶蘇教を拒んだばかりに
ポルトガル商人との通訳、通商の交渉を担っていたイエズス会に去られ、
カトリック教徒である私のところにイエズス会士とともに
ポルトガル商人達も転がり込んできたのです。今も私を逆恨みとか。

ところでイエズス会からは金や火薬を随分とカンパして頂きましたが、
敵、龍造寺は10倍以上の戦力、まともにはとても敵いません。

で、思いついた妙案、長崎の港をイエズス会に寄進してしまうという離れ業なのです。
彼らに裁判権や港湾使用の利権は渡しますが、関税は取り立てるように
配慮しましたので益は上がりますし、全国から集まる夥しい商人達の落とす金も
相変わらず私のポッケに入ってまいります。

龍造寺、力づく無理やり長崎を占領すれば、イエズス会には去られ、
船は来なくなる、もともこうもなくなるというものです。

何せあちらさんはお寺の出ですからね。ww


805:人間七七四年
09/04/19 21:19:07 Sb+m7kzz
まぁその龍造寺の傘下になっちゃうんだけどね

806:人間七七四年
09/04/19 23:05:03 AU3TS5xe
蒲生氏郷が伊勢松ヶ島城にいた頃の話。
ある時、氏郷の家臣、蒲生主計と粟口美濃が口論をしたことがあった。

ただの口論である。が、この当時の口論である。当然、口論から斬りあいになることも
珍しくもない。そのためであろう

主計の後ろでは、その家来の山中大運が、美濃の後ろではその家来東某がそれぞれ、
いつの間にやら脇差を手に、主人の傍に備えた。

「事あれば、斬る。」

山中も東も、傍目からでもはっきりわかる、その覚悟だ。
口論をしていた当の主計と美濃、途中で、自分の家来達の異様な殺気に気がつく。

「おいおい、こいつらに剣を抜かせたら、人死にが大量に出るぞ。」

その日は冬の寒い日であったが、この時主計と美濃、大汗を流したそうだ。
そして早々に口論をやめた、と言うことである。

殺る気満々の忠誠心に、熱くなって口論していた当人達の方がほうがドン引きしたお話。


807:人間七七四年
09/04/19 23:36:08 ZA7aOWNk
>>802
某大河だとお返しに密かに砒素を飲ませてたなw



808:人間七七四年
09/04/20 00:22:13 uSXrD0s4
>>806
あれか、お化け屋敷で他の人が悲鳴上げすぎると自分は怖くなくなる法則。

809:人間七七四年
09/04/20 01:06:36 19wRXfir
織田信長がまだ、尾張一国の大名であった頃の事。

信長の下では、柴田勝家と坂井右近が、軍部行を勤めていたが、信長はこの中に、
蜂屋頼隆を加えたいと考えた。

これを知った柴田、坂井の両人は、信長にこのように言った
「蜂谷を軍奉行にするのであれば、我らの軍奉行の役職を召し上げていただきたい。」

要は、俺らを蜂谷みたいなぽっと出と同格にする気なのなら、そんな役職
御免こうむります。ということだ。

これに信長は激怒―、しない。
彼らを無視して自分の考えを強行―、も、しない。

良く誤解されているが、信長という人物は特に短気という訳でもなく、独善的なわけでもない。
この時も信長、書状で二人に懇願した。「どうにか蜂谷の軍奉行就任に、同意してくれないか?」
しかし両人とも、にべもなく拒絶。
そこで信長は二人を呼び、直接説得をした

「蜂谷が、お前達二人と同じ武功があるわけでは無い事、これはわしもちゃんと解っている。
しかし蜂谷は諸事、頭の回転が速い男だ。
例えば戦の状況によって、お前達二人のうちどちらかがわしの元に報告に行かねばならぬことも
あるであろう。また、わしの方から、両人一致の意見を聞かねばならぬこともある。

そのような時蜂谷がいれば、これをわしの元への使いよこし、又、わしがそなた達の意見を問う時にも
奴を遣わせば、いかにも便利になるではないか。
そのようなわけで、蜂谷をお前達の中に加えたいのだ。」

この言葉に柴田、坂井は納得をし、蜂谷の件に同意したとのことである。

信長も、人事には色々苦労したのだ、と言うお話。


810:人間七七四年
09/04/20 09:11:13 1gymT2WM
キリストのメッセージ 
「最も大きな罪を犯した人であっても、わたしの憐れみを願うならば、わたしは、彼に罰を与えることが出来ない。
その代わりに、わたしの限りない、はかり知れないいつくしみによって彼を義とする」
URLリンク(nowaksvd.nanzankyokai.net)

ご遺体は腐敗していなかった 日本を愛した宣教師 チマッティ神父様
URLリンク(www.v-cimatti.com)
URLリンク(www.v-cimatti.com)

煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣
URLリンク(www.sanpaolo-shop.com)

キリストと会話できる女性 ヴァッスーラ・ライデン
URLリンク(www.tlig.org)

キリストの人生を見せられた女性 マリア・ワルトルタ
URLリンク(swedenborgian.hp.infoseek.co.jp)

キリストの受難を目撃し体験した女性 アレキサンドリーナ・ダ・コスタ
URLリンク(www.newsalesian2007.com)
URLリンク(salveregina.dyndns.org)

病を患いながらも信仰心が篤かった女性 マルタ・ロバン
URLリンク(homepage3.nifty.com)

カトリック書店/日本国内にあるカトリック教会の住所と地図
URLリンク(www.donboscosha.com)
URLリンク(www.sanpaolo-shop.com)
URLリンク(shop-pauline.jp)
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)
URLリンク(www.cbcj.catholic.jp)

811:人間七七四年
09/04/20 10:15:27 1kipdIoU
>>809
でも明智が言ったら怒られそうだww

812:人間七七四年
09/04/20 12:00:38 31NE9IsF
>>809
パシリかよ!w

813:人間七七四年
09/04/20 14:10:08 2GRPpkiy
あんちら様の話

真田幸隆が戦に出かけて家を留守にしている間に、
幸隆の娘が天狗に見初められその子供を産んだ。
戦から帰ってきた幸隆は当たり前だが激怒して生まれたばかりの子供を
雪が降り積もる庭へと全力で放り投げた。
ところが流石は天狗の子と言うべきか
子供は転びもしないでピョコンと雪に着地して
ニコニコ笑うと幸隆にお辞儀をした。
何度繰り返しても平気で雪に着地してニコニコ笑う。
そうしている内に幸隆はこの不思議な子供が気に入って十文字の槍を与えた。
子どもは大喜びで、戦にはいつもその槍を持っていった。
そして大いに活躍した。
この子どもはあんちら様と呼ばれているが、
後に真田幸村と言う名前で大いに武名を立てたそうな。


という小さい頃俺が亡くなった婆ちゃんから聞いた話なんだが
最近までなぜか史実の真田信繁(幸村)と頭の中で一致しなかった。
ていうか幸村って幸隆の息子の昌幸の子だよな。
しかし幸隆の娘の子として話は聞いてるんで直さないでおく。
赤ん坊だろうと容赦しない真田一族の……良いのか悪いのかゆるい感じの不思議な話


814:人間七七四年
09/04/20 16:11:36 u+kCWd3U
あんちら様って安底羅大将から取ったのかな

815:人間七七四年
09/04/20 17:09:03 2GRPpkiy
>>814
それはどうか知らないけれど
あんちら様は武名を立てた後でまた山に帰ってきて
迷子の子どもを家に帰してくれるって婆ちゃんは言ってた
婆ちゃんの兄ちゃんが雪の中に埋まった時も
あんちら様が見つけてくれたって話だが
本当かどうかは知らん

816:人間七七四年
09/04/20 19:03:38 PvvSCtEp
幸村云々の話は後からくっついた話で、もとは天狗とか山神がメインだったのかな
民俗的にもおもしろそうな話だぬ

817:人間七七四年
09/04/20 19:11:55 xd/RokHa
おれも70過ぎたら孫や近所の子供集めて
あることないこと昔話ほら話してみたいもんだ。

818:人間七七四年
09/04/20 19:59:58 pAIwEdjQ
>>813
URLリンク(nakahori2.mints.ne.jp)
こういう木像があるみたいだね

幸村が山に戻って神様になってるっていうと
なんかロマンがあるな

819:人間七七四年
09/04/20 20:05:07 /vyi8gbN
鬼武蔵が門の下で座り込んでいると一人の老婆が死体から髪を抜きとっている
刀を抜いて目の前に突きつけると老婆が語りだした
老婆曰く、
「死人の髪を抜くことは悪かもしれないがそこにある死体は皆そのぐら」
みなまで言う前に老婆は切り捨てられた
老婆の目に最後に映ったのはこんこんとした暗闇だった
鬼武蔵の行方は誰も知らない…



820:人間七七四年
09/04/20 20:17:12 O0Lrt8h8
>>819
何これ作り話?

821:人間七七四年
09/04/20 20:19:07 /vyi8gbN
817を受けてのジョークでした
判りづらくてスマン

822:人間七七四年
09/04/20 21:53:29 IBZKM5jD
羅生門か

823:人間七七四年
09/04/20 22:42:23 VLv8Ts6Z
>>820
国語の教科書にのってるだろ。

824:人間七七四年
09/04/20 22:44:57 hg+SVoU8
819が国語の教科書に載ってたらビビるわw

825:人間七七四年
09/04/20 23:10:03 PvvSCtEp
信長なら布を与えて家を建ててやるだろうに・・

826:人間七七四年
09/04/21 00:38:42 4aHApkAD
軽くホラーじゃね?
あなたの側にも鬼武蔵がとか最後に付いたら子供いなすのに使えそう

827:人間七七四年
09/04/21 00:55:40 B7kb7oEH
>>813
この天狗とは南蛮人、おそらくイスパニア人のことだと思われる。
つまり、城田優が大河ドラマで真田幸村を演じる事を予言していたんだよ!

828:人間七七四年
09/04/21 01:02:20 o7/L3Ub7
な、なんだってー

829:人間七七四年
09/04/21 01:33:18 B6nwfKMd
真田十勇士のアニメに鎌助がロシア人てのがあったな

830:人間七七四年
09/04/21 03:43:35 I7WbHjWw
民俗学的に山男も外人説があるよな
移住、漂着、脱走したりで貴賎問わず在日外人数が多かったかもね。考えられてるよりも
三浦按針の例もあるくらいだし金髪碧眼の足軽がいたりして

831:人間七七四年
09/04/21 03:54:23 p6Ng86WC
昔の絵にある赤鬼青鬼は白人黒人とおもう

832:人間七七四年
09/04/21 04:56:29 +xZdnqWj
白人を天狗に似てるってな話もあるしなー
けど平安時代あたりの鬼ってのは賊や朝廷に従わなかったものの総称な感じがある
大江山の酒呑童子や藤原藤太の百足退治とか

833:人間七七四年
09/04/21 05:36:52 7xBQMDXP
長宗我部元親が、土佐において本山氏と争っていた頃の事である。

本山氏の長浜城は本山の本拠よりは八里も離れていたが、元親の居城からは
僅か三里ほどの近さであり、元親はどうにもこの城が邪魔であった。


ある時本山氏が、この長浜城の門を建て直す事になり、腕利きの大工を探していた。
このとき本山の所に元親の元から、肩口を斬られ負傷した大工が駆け込んできた

「お助けください!長宗我部元親の気が狂い、このような目にあいました!」

本山はこれを信じて保護。また、この大工が中々の腕利きだと言う事がわかり、
丁度良いと、長浜の城門工事を任せることにした。


もちろん罠である。


長浜城の工事を知った元親は、あらかじめこの大工と示し合わせ、人質まで取って
この狂言を行った。

間もなく長浜城に長宗我部軍が来襲。たちまちに乗っ取られる。
無論、城内の大工が内通していた為であった。

謀略もスケールが小さくどうにも泥臭いのが、初期の元親らしいというべきか。
そんな長宗我部元親、長浜城奪取のおはなし。


834:人間七七四年
09/04/21 11:30:29 NJErpDN5
>>833
大工さんを頃さない程度に斬った達人は誰だろ?とか余計なことを考えさせられる策略だなー

長宗我部家中で腕の立つ人といえば福留パパンや泰泉寺さんあたりか。泰泉寺さんは槍だが

835:人間七七四年
09/04/21 12:56:04 inW7ap6e
>>829
佐助が宇宙人のコレ?
URLリンク(www.sanada10.com)

836:人間七七四年
09/04/21 13:00:09 wEJ5Lymp
>>833
元就公「間者にあらかじめ怪我させるなんて酷い真似できませんw」

837:人間七七四年
09/04/21 13:05:46 yLUWO5Wl
>>836
宇喜多直家「お前が言うな」

838:人間七七四年
09/04/21 13:54:15 0j863Yx4
信長に仕えてた黒人はホントにドコ行ったのかね

839:人間七七四年
09/04/21 14:04:05 /qPNGogx
今まさに俺を掘ってる

840:人間七七四年
09/04/21 16:28:29 CvoUDfY2
>>838
なんかさっきテレビで「♪あなたを追って出雲崎~」とか歌ってたよ。
誰を追ってたんだろう?

841:人間七七四年
09/04/21 18:03:25 fnUXTf+t
>>838
言い伝えでは本能寺で一緒に死んだとか。
東アフリカ、モザンビークの黒人奴隷でしょ。
おかげでこの地で難破すると恨みを買ってる西洋人は、皆殺しにされたとか。

西洋がらみで

原マルテイーノの述懐   大公妃のおっぱい

今私は、追放の地マカオで、もう日本語を忘れてしまった仲間のドラードと共に
活版印刷機械でキリストの教えを印刷しております。

多忙な毎日の中でふと蘇ってきた記憶。

あれは天正13年2月、花の都、フィレンチェの舞踏会でした。
日中は動物園なる不思議な庭園で、象、ライオン、豹、麒麟、鸚鵡、犀、
数々の不思議な動物の数々を目にして驚嘆したものでした。
花の聖母教会のとてつもなく巨大なドームと華麗な装飾、広場で見た
ミケランジェロのダビデ像、ルネッサンスの傑作彫刻の数々、華麗な噴水、

でも、トスカーナ大公の居城での舞踏会は圧巻でございました。 

舞踏会を主催されたフランチェスコ1世の威光は絶大なるもので、
当時のフィレンチェ中の貴族のみならず、外国の駐在大使諸卿は残らず来席され
もの凄い人い人混みでございました。
その中で、仲間の伊東マンショは、我らが代表者として大公妃と踊りを為さればならない
はめとなったのです。
大公妃はふくよかで大柄と言うか、有り体に申せばデブでござりました。
私どもは田舎育ちで小柄、未だ16歳でございます。そそり立つ巨大な胸の辺りに
あわれな伊東の頭が見え隠れしておりました。
中浦ジュリアンは、よぼよぼのお婆様と踊っておりました。
今思えば不思議な体験でございます。

後年耳にしたのですが、このビアンカ大公妃、とんだ食わせ者、元はと言えば
ベネチィアからの流れ者、上手くフランチェスコ1世をたらし込んで
大公妃に収まるは良しとしても、邪魔になった自分の夫を密かに手にかけたとか。

でも神はよくご覧になっております。フランチェスコ1世、公妃、
共に2年後にぽっくりと亡くなられました。
ヒ素による毒殺だそうです。

842:人間七七四年
09/04/21 19:08:47 7xBQMDXP
>>841
おもしろいなw
しかしこの頃はイタリアも、戦国時代みたいな感じだよね。
あっちは天下統一とは行かなかったけど。

843:人間七七四年
09/04/21 21:18:15 NJErpDN5
>>842
だが乱世が一段落ついたら一挙に平和ぼけ?ヘタレ化したところは日伊共通かもね

844:人間七七四年
09/04/21 21:22:56 z3+QzHRS
それはないわ…
世界初のファシスト政権誕生の地だぞ
しかも恐慌前だ
マフィアは割拠してるし

845:人間七七四年
09/04/21 21:52:38 XQQyP4TI
>>841
記録では、捕虜になったあと光秀に「こいつは人間じゃないから」と言って
解き放たれたという。その後の行方は不明。
イエズス会に払い下げられた、という話もある。可能性としてはこちらも
あると思う。ある意味有名人で、どこいっても目立つ人物のその後が全く
ないってのも、イエズス会の奴隷に戻されて海外に売り飛ばされたと思えば
しっくりくるか。

846:人間七七四年
09/04/21 22:00:54 v3LS1SP1
イタリアは、この当時は戦国時代というより、他国に支配下にされ
まくり。
実質的な独立国はヴェネツィア共和国のみという体たらく。

そのヴェネツィアは、この当時は強国と言っていいが。

847:人間七七四年
09/04/21 23:44:47 BQp8uWKN
アソ氏バイバイ・相良義陽の史書伝説

皆さんは「求麻外史」という史書を御存知でしょうか?
これは延宝3年(1675年)までの人吉・相良氏の歴史を人吉藩家老・田代政輔が
記した文献のことです。
今日はその「求麻外史」に書かれていたこんなお話。

ときは天正9年9月23日、耳川で大友氏に大勝したばかりの島津軍により、
人吉の相良氏が逼迫を受けていた頃の事です。
このとき島津軍は、正に相良家臣・犬童頼安が護る水俣城を包囲していました。
この事態に当主・相良義陽は臣下の溝口半五郎という者を、水俣城への
使者として遣わします。
半五郎は夜陰に紛れて水俣の地に入り、島津の陣を抜けて城に入ろうと試みます。
しかし、そうはうまくいくはずもなく半五郎は島津の衛兵に捕らえられて
しまうのです。
ここで半五郎、咄嗟に言い訳をします。
「私は球磨の住人で、城中にいる身内の者を訪ねてやってきたものです」と。

下手な言い訳云々はさておき、衛兵はこれを信じません。結果、半五郎は
真意を問い質され拷問を受けてしまいます。
そこへ、水俣攻めを一任されていた新納忠元が現れます。
新納は、そなたが城に向かって『義陽様は、悪戯に兵を失わないよう速やかに
城から退去するよう頼安様に命じられました』と言えば、そなたの命を救って
やると言いました。
半五郎はこれを承知したので、城の下へと連れられて来ます。
ところが半五郎はこの約束を破り、城内に向けて「自分は八代からの使者です。
ここ数日にも義陽公は球磨、八代の兵を率いて救援に駆けつけます」。
と叫んだのです。

当然これに腹を立てた島津軍は、半五郎の首級を竿の先に刺し貫き、城内の者に
見える様に高々と掲げられました。
しかし半五郎のこの命を賭けた行いは甲斐もなく、相良氏は島津氏に事実上降伏、
新納の言わせようとした通り城は島津に明け渡されてしまうのです。

ですが、ここで不思議な事が一つあったのです。

これと同じような出来事が、なんと天正3年の長篠で起こっていたのです。
たった6年の間に日本の中央と西で起こった偶然、これを奇跡と言わずして
何と言いましょうか。正に神の悪戯と言うべき出来事です。
この事実は人吉藩家老・田代政輔に偶然にも伝わり、更に享保5年までの相良氏の
歴史を記した「南藤蔓綿録」へも受け継がれ、今日にまで語り継がれることが
出来ました。

以上、信じるか信じないかはあなた次第。

848:人間七七四年
09/04/21 23:48:12 7xBQMDXP
東に忠臣あれば、西にも忠臣あり。

849:人間七七四年
09/04/22 00:56:57 QdeRMpQh
>>841
中世ヨーロッパでは、貴婦人はトップレスファッションらしいね。
事実かな?気になって仕方ない。

850:人間七七四年
09/04/22 01:01:51 RmbyPRj/
>>845
光秀もすげえ理由で解き放ったんだな

851:人間七七四年
09/04/22 03:31:27 YDWjQWHP
>>849
奴隷なんかの前では普通に素っ裸だったらしいよ

奴隷を人間としてみてないから

852:人間七七四年
09/04/22 07:15:12 1NfubA9b
奴隷にとっては普通にご褒美だったのでは

853:人間七七四年
09/04/22 08:46:58 qq30wM4F
ちょっと奴隷になってくる

854:人間七七四年
09/04/22 10:02:41 DNp7ACey
図らずもおっきしたらどうなったんだろう?

855:人間七七四年
09/04/22 12:22:44 bnqhs+W/
>>854
家畜やペットが勃起したからって気にはしないだろ。






獣姦っていつからあったか、それによっちゃあ

856:人間七七四年
09/04/22 12:31:53 TQ8XJrDG
女性の側に仕えるからちょん切ってたりして・・・

857:人間七七四年
09/04/22 12:32:03 AlzEhvLB
獣姦は貴族達の見せ物だったんじゃない?
会員制の秘密クラブみたいなやつ。
地獄の火クラブだっけ?

858:人間七七四年
09/04/22 12:41:12 FgurobbZ
寝そべって裸体に麦蒔いて鳥に啄ませるのを見せ物にしてた王女がいたんだっけ?
戦国にこういう変態はいないのか

859:人間七七四年
09/04/22 12:56:50 AlzEhvLB
日本の変態って言っても、
ホモ→武士のたしなみ
ロリ→福島正則が変態とは伝わってない
獣姦→昭和初期に象とやろうとしたのは居る
ネクロ→怪談ではそんな話も
絶倫→彈正様
くらいしか思い付かないなぁ。

860:人間七七四年
09/04/22 13:37:42 jE0PPotW
なんかまとめサイトで
少女を無理矢理暴れ馬に乗せて
落ちておっぴろげる様子を眺めるのが好きな変態の話読んだ覚えがあるぞ
それて唯一落ちなかった女の子のまんまんが気になって手込めにしたら
その子がその変態好みのパイパンで
毎日それを眺めて過ごしてるうちに
その娘の親父に謀反されて追放されたんだったかな
誰の話か覚えてないけど

861:人間七七四年
09/04/22 13:58:32 dn4P13Qk
>>847
ちなみにそれらの逸話と若干似た話が、中国の五代十国時代の南唐でも起こっている。

南唐の皇帝は快進撃を続ける後周軍と和睦するため、宰相の孫晟を後周の皇帝柴栄に遣わすと、
柴栄は和睦の交換条件として、寿州を割譲することを求めた。
寿州は柴栄、趙匡胤らが束になっても土をつけられなかった不敗の名将、劉仁贍の守る地である。
柴栄は寿州の開城のため、その使者として孫晟自身に説得するよう求めた。
後周軍の監視の中、孫晟は寿州城下から城壁上に立つ劉仁贍の姿を認めると、叫んだ。

「公が国から受けた厚恩を思うなら、決して門を開けて賊を入れてはならない!」

柴栄は孫晟の言葉を聞くと大いに怒り、これを斬ろうとすると、
孫晟は「臣は唐の宰相である。何故節度使を叛かせることができようか。」と言った。
忠心に感心した柴栄は、彼を許した。

以上、参考は『五代史平話』。
…史実では確か孫晟を殺してから悔やんでるってのは内緒。

862:人間七七四年
09/04/22 14:56:47 qFkDF/2M
戦国「後」の、世の中


渡辺勘兵衛が睡庵と名乗り、坂本に居住していた頃の事である。
渡辺の家来が大津の町で喧嘩騒ぎを起こした、と言う話が広まった。
これを聞いた、友人で、元の福島家臣であり、正則改易後牢人をしていた吉村又右衛門は
京より坂本に駆けつけた。

坂本の自宅に現れた吉村に、渡辺
「吉村殿、今日こられた用件が喧嘩見舞いであるのなら、特にさしたることもないゆえ
帰られよ。
何か話でもしたいと思ってこられたのならどうぞ、うちで飯でも食って語り合いましょう。」

心配して急いでやってきたのだ。感謝されることこそあれ、この渡辺の態度はどうか。
吉村、気を悪くし「いや、喧嘩の沙汰を聞いたので見舞いに来たまでです。そのような事であれば、
これで帰ろう。」

「そうか…。では、少々待たれよ。」

渡辺は次男を吉村につけ、街道まで見送りをさせた。
道すがらこの次男は、「父から、密かに吉村様に伝えよとの、言付けがあります。」と語りだした。
その内容はこうだ。

『吉村殿、今日の見舞いの事は、吉村殿には似合わぬ行動ですぞ。
今は天下の大法が定まり、もし我が家来が殺されれば、殺したものは切腹を申し付けられ、
逆に人を斬れば我が方の者が切腹を申し付けられる、そう言う世の中になりました。
しかれば、喧嘩であっても無責任に放置する事はできません。

そうであるのに、喧嘩騒ぎがあったこのようなときに、吉村又右衛門ほどの剛の者が
京都より渡辺の下に来たと知られれば、双方の徒党を組んだ若者達を刺激する事は間違いなく、
いたずらに事態を悪化させるでしょう。

そのような事なので、今回は慎んで頂いたのです。』

戦国の自力救済社会からの転換が、はっきりと感じられる、そんな、戦国が遠くになった頃のお話。


863:人間七七四年
09/04/22 15:24:15 +cYaHvS/
>>860
神保さんだか畠山さんだかの話だな
まとめサイトに多分ある

864:人間七七四年
09/04/22 15:54:56 CT9mNtel
だかで悪いイメージつくとただでさえ影の薄い神保さんが可哀想なので畠山さんだと断定しておくw

865:人間七七四年
09/04/22 16:47:39 HbDZ52U5
ちんぽだか、はだかやまとな・・・?

866:人間七七四年
09/04/22 17:00:53 qq30wM4F
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
畠山だった

867:人間七七四年
09/04/22 17:51:21 ZVnnsq4e
内乱に定評のある畠山さんじゃないですか。
河内も能登も遊佐家に殺されたのは不思議な限りだが。

868:人間七七四年
09/04/22 17:55:16 LNZhmGAA
>>855
まぁ仕事の支障になるようなら去勢だわな

869:人間七七四年
09/04/22 20:18:26 8CCuEFhh
天正5年(1577)10月、明智光秀は丹波亀山城の波多野氏を攻略していた。
この戦には、初陣を済ませたばかりの親友の息子も加わっており、光秀はやがて
親友の後継者となるであろう若者に、将としての心得を説くつもりで尋ねた。

「この矢文を見てごらん、城兵が助命を求めてきただろう?さて、次に我々がやるべき
事はなんだろうね?」

若者は答えた。「抵抗していた者どもを助ける義理はありません。皆殺しにしましょう。」

「 ( ゚д゚) い、いや、ダメダヨ!?門を開けるように指示すれば、城攻めが楽になるし、
寛大なところを見せれば他の抵抗者も降伏するかもしれないでしょ?
ナニ信長様みたいなこと言ッてんの?!」

若者の父親も呼び寄せ、二人がかりの説得によって、ようやく若者は納得し、亀山城は
開城となった。 しかし、光秀の胸中は暗かった。
(駄目だこいつ…早くなんとかしないと…そ、そうだ!ウチの娘に似合いの年頃の子が
いるじゃないか!結婚させれば義理の父親として、オレが監督できるぞ…!)

「という訳で、ウチの娘とオタクの息子を結婚させてくれ。」
「えぇー?あいつ我が子ながら、凶暴だからオススメできないよ?」

渋る親友を、信長の仲介のもとで了解させ、天正7年(1579)、ついに婚姻が成立した。


ある意味、逆効果だったのは皆様ご存知の通り。
しかし、『綿考輯録』のこの記事とか、『森家家譜』とか、藩祖のDQN言動を残して
どうするつもりだったのか。子孫から見てもm9(^Д^)プギャーな話だったのか。

870:人間七七四年
09/04/22 20:19:01 4AuTd2kk
>>861
いやこれ、何かおかしくね?

軍を撤兵する交換条件で、土地割譲を出して、一国の使者である宰相はそれを呑んだわけでしょ?
それでいざ城の明け渡しの段になってから反故にするってのは、美談にもならないと思うんだが。
鳥居のエピのように、脅迫されて嘘を言わされようとしたってわけでもない、そもそも自分が約束
したことでしょうに。

871:人間七七四年
09/04/22 20:30:31 /Nvjx19W
>>869
他のDQN四天王にも光秀の娘がとついでいたらすばらしい名君が生まれたに違いないw


872:人間七七四年
09/04/22 20:43:12 qq30wM4F
>>869
親友の子ってアイツかよww
明智が関わると四天王唯一の常識人も形無しだなw

873:人間七七四年
09/04/22 21:00:44 PFhDEMiV
>>849
幕末にアメリカに言った使節団は
「女房諸肌脱ぎ、旦那たすき掛け」と表現している。
当時の礼装がそう見えたらしい。

トップレスではないだろ、胸をぎゅうぎゅうっとつめてもりあげていただけで。


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