09/04/11 16:04:42 ca+3IYpo
渡辺惣左衛門の冒険
関ヶ原の折のことである。小山会議にて東軍への参加を決めた池田輝政。
が、この事を、彼の北の方のいる大阪屋敷に知らせ、状況を説明せねばならない。
輝政と重臣達は、誰を使いに出すべきか、紙に名前を書いて一斉に出すことにした。
全ての紙にこう書かれていた
『渡辺惣左衛門』
渡辺「オレっすか!?無理無理無理!こんな大事な使い、オレに出来るわけ無いです!!」
輝政&重臣一同「全会一致だ」
いかなる艱難があってもお前ならばそれに耐えて出来る!そんな勝手なことを言われる。
戦の困難なら耐えられるけどこれは…、どうにかして逃げなきゃ
「ほ、ほら、病気とかになるかもしれないし、一人じゃ無理、無理ですよ!」
「それならこの野中市左衛門を連れて行くと良い!」用意いいなお前ら。逃げ道、無し。
輝政「もし殺されれば、わしの前で討ち死にしたのと同じように考えてやるぞ。
うまく大阪まで行けば、一番首以上の評価をする。」気軽に言ってくれる。
そんなわけで、それぞれに同じ書状を一通づつ渡され、7月15日、小山を出発したのである。
途中、三河の吉田を通った。ここは池田家の領地なわけで、無論俺の家もあるわけなのだが、
寄っている暇はないと通り過ぎた。
尾張の熱田まで来ると、船着場は大竹の虎落(もがり)が作られしっかり守られていた。船は無理。
野中も役に立つ提案はない。
そこで知り合いである熱田神宮の神職、大原左衛門太夫のところに密かに立ち寄り、どうしたものかと
相談すれば、太夫所の下人に7~8町先に行かせて道案内をさせ、伊勢との境まで連れて行ってもらう。
さて、この先は敵地。食料を乞う事もできず、手持ちの玄米を生のまま噛む他ない始末。
行き会う人達が露骨に俺達を怪しんでいる。「関所に言ったら殺されるよ?」と、親切に言ってくれる
人さえいる。涙が出てくる。まあ、関所にたどり着かなくても、このままじゃ飢え死にするのは
間違いない。どうしたものか。野中は何の役にも立たない。
とにかく関を通るのは無理だという事はわかった。そこで伊賀越えか浅間越えのルートを取るしか
ないのだが、どちらを通ったものか。ともかく、知り合いの伊勢神宮の祝上部左近の所に、
とりあえず宿を借りに行く。「すまん、泊めさせてくれ」
左近「誰だお前!出てけ!!」
下人に棒を振るわれたたき出された。おいおいお前は池田家の恩を受けてる人間じゃねえか。
一生恨んでやる。おい俺より先に逃げてどうする、野中は本当に役に立たない。
しょうがないので行く当てもないがとにかく立ち去ろうとすると、左近がこっそり近づいてきて
耳打ちする「川堤ノ下デ、乞食ノ格好シテ待ッテロ」