09/10/02 20:21:42 sc04/LBj
濃姫については、道三を殺した道三の息子・義龍(よしたつ)が1561年に病没したすぐあと、
濃姫がすでに死亡していることをうかがわせる記述が『濃陽諸士伝記』に見られるという。
織田側の史料にはなく斉藤側にそういう史料があるのは、濃姫が勝手に実家へ帰ったからとも
十分に考えられる。
しかも信忠或いは信雄生母を正室とする史料も散見されるから
1560年過ぎてからの『御台』『信長本妻』『北の方』等の記述も全て道三の娘の事ではない。
信忠を養子にした記述も別の美濃出身の正室でことである。
こう考えると全て辻褄があう。