09/07/12 23:50:10 o8RFC/ns
>>398
司馬遼太郎氏は、長州人が金に弱く、薩摩人が女に弱い対比で面白
可笑しゅう書いておられるが、実際女を強姦し、金欲が強いんは
薩摩の方じゃ。
今東光氏は、鹿児島人の脅しの投降に対し「ついでに鹿児島人の
一番悪いことを言っといてやろう。鹿児島県人は金に弱いんだ。
生意気なことぬかすな!きさまらの先輩の海軍軍人でござれ、
政治家でござれ、もう実に金に弱いんだ。だから律儀者の山口県人は
鹿児島人を長く信用しなかった。薩はいつ金で転ぶかわからない
から、長の方じゃ信用してなかったんだ。」
対談集から大石慎三郎氏が西郷隆盛について「非常な策士ですね。」
に対し津本陽氏は、「長州の方がまだ鹿児島に比べると一本気の
ような感じがしますね。」
司馬遼太郎氏と鹿児島人の海音寺潮五郎氏の対談で、薩摩の節操の
無さについて海音寺氏は、「薩摩人の頭の悪さによるもので、
えらい奴が出て来て号令をかければ、その通りに動くという行き方
ですね。薩摩人は現実的過ぎてやることに全然筋道が通ってないから
嫌いだが、有馬新七だけは大好きだといって大変賞める人もあるの
です。三田村鳶魚翁がそうでした。」とされるが、鹿児島人や
薩摩人的な九州人に節操を求めても、寝返るんがオチじゃけんのう。
>>401
三村氏の婦女子軍には相手出来んと退却したよ。毛利勢は。
撫で斬り云うて誰がや。提示せんかい。
406:人間七七四年
09/07/12 23:56:13 8lJ7/GlF
>>403
おいコラ、お前こそ何をほざいとるんじゃボケが!
394に原因は毛利にもある三村の気持ちもわかると書いとるだろが!
お前の目はふしあなか!
素直に謝りゃいいんだよ
「言葉を知らない無知でした」
「備中兵乱を捏造してスイマセンでした」てなww
吠える事しか出来なくなったか?負け犬がww
407:人間七七四年
09/07/13 04:09:33 PEJY3EK6
やはり広島人は日本最大の基地害だな。
自分たちが絶対に正しいと信じて疑わない。
ああ言えば上佑みたいなヤツらだ。
いや萩など山口人も基地会だから
毛利関係者と言うべきか。
408:人間七七四年
09/07/13 10:39:44 lHzb3PWx
(笑)
409:人間七七四年
09/07/13 15:15:23 kKvQS80l
頼むから標準語で書き込んでくれ
読む気失せる
410:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/13 23:55:56 2rg/JUaj
>>407
広島人は戦闘やらしたらキチガイにもなるが、軍紀における自己抑制も
同時に強い。あんたんは、戦勝の為には手段を選ばす、負け戦さを隠蔽し、
戦後も自部隊の正当化をする九州人に云うべき台詞じゃないか。
ほいで>>405の今東光氏は、神戸育ちで両親が津軽藩士。津本陽氏は
和歌山県人。大石慎三郎氏は愛媛県人で、山口県人の意見じゃないど。
411:人間七七四年
09/07/14 20:32:47 kf1wyJkE
文章を方言まじりで書くやつはアホなのか?
それが専門的で素晴らしいものでも、ただのうざいレスにしかならない
412:人間七七四年
09/07/14 22:49:01 I7XEFrWc
>>406
お前はずっと何を言ってるんだ。
俺は三村のみの字も言ってない。
あたま、ぬくいんか?
>>404
> 浦宗勝さんの史料から、「隆景卿伝」「浦備前覚書」じゃが、
これは毛利の自画自賛と捉えてもいいのだろうか。
> 立花道雪つまり戸次鑑連ら大友三将は、浦(乃美)宗勝さんの、籠城長引き
> 策に業をにやしとったけんのう。じゃが麻生隆実さんを唆して、浦宗勝
> さんらを討ち取ろうとする姑息さよ。
これは律儀な九州人、麻生隆実を褒め称えている事例だろうか。
上手く謀殺できなかった失敗例を出し、九州人の謀略の拙さを嘲笑い、
その反面として毛利元就のような手際のよさを褒め称えているものだろうか。
413:人間七七四年
09/07/14 23:11:29 JI+qMy2x
>>412
お前はかなり頭がぬくいようだな
今更なにいってんだかww
414:人間七七四年
09/07/14 23:15:14 rcUbpbbd
牛の相手はよせ
あいつはドコの板でも
ウザがられている
真性基地害
415:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/07/15 07:31:53 PSChHRPG
オレの板では大事な論客だぞ。
416:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/16 01:42:02 rsaFRikb
>>412
浦宗勝さんは、以前立花城の城兵の降人を丁重に扱い志賀島まで送り
届けとる。「降人をなだむるは つはもの(兵)の道なり」よ。
中国者が戦闘の礼を守る性質と九州の大友三老の姑息な礼に反する汚さとの
違いで、九州でも麻生隆実さんに限っては、つはものの道を知っておった
云うだけのことよ。
浦宗勝さんに籠城させたんは、元就さんか隆景が選んだかまで解らんが、
浦宗勝さんは、水軍衆を率いて、兵糧や軍需品の海上輸送を担っとったけん
のう。浦宗勝さんらの籠城が長引くと、大友側の在陣が長引くことでも
あるけぇ、囲む大友側の戦費を使わせることになる。
浦宗勝さん自身が戦費や状況の把握に長けておったゆえの人選でもあろう。
417:人間七七四年
09/07/16 13:28:13 koMrtPYh
毛利の周辺大名はみんな滅亡や改易でいないから、毛利が作った毛利マンセー史料ばっかだしアテにならんよ。
418:人間七七四年
09/07/16 14:46:28 lQTn/m7m
「明らかに未知数」って日本語としておかしくないか?
419:人間七七四年
09/07/16 15:45:50 i0CxQMUR
立花も立花文書とか地元のマンセー史料
420:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/07/17 07:05:15 qukxIoGr
因幡は池田。
出雲は越前松平。
石見は越智と亀井。
美作は森・越前松平と三浦。
備後は浅野と水野阿部。
安芸は浅野。
亀井と森を除けばみんな松平の、三浦を避ければ全て家康の子孫。
江戸時代を通して見るに、毛利マンセーな史料が周辺でのこりやすい状況だっただろうか。
421:人間七七四年
09/07/17 08:28:15 uH/yOUDc
立花文書は残った書状なんだから別にマンセーにならんだろ…
422:人間七七四年
09/07/17 10:40:58 M/G8rBuD
なら毛利家文書はOKなんだな?
423:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/19 01:52:57 jZ7VHEvy
>>417
一番権力の座にあった幕府側の史料なんかどうなるんなら。
>>420
浅野藩でも、毛利の史料の『陰徳記』に出とる百姓家は、
先祖の武勲から、浅野藩武家の養子に望まれる現象も出てきたよ。
>>421
九州の史料は、朱子学の影響かどうか白髪三千丈が激しいけんのう。
薩摩の泗川の戦いもハッタリじゃが、近代の熊本兵団や久留米兵団の
戦史も都合の悪い事例は隠蔽で、強がりや権威だけは張るわい。
日本の史料でも、その土地の郷土の人が書くわけじゃけぇ、
地域の性質や類型構造から史料を考察した方がえかろうに。
424:人間七七四年
09/07/19 08:37:46 bdteOQcS
>>422
ふざけんな!
2ちゃん毛利スレ読んでると
毛利側なんて
元就マンセー歪曲ネタ本の安西軍策から
さらに捏造改良を加えた陰徳太平記からの引用ばかりだろがw
425:人間七七四年
09/07/19 14:28:52 qLLfs3q5
毛利側は信用できず大友・立花側は信用できると?
どっちがマンセーなんだかww
426:人間七七四年
09/07/20 08:00:06 yRu2qDu3
大友は美化捏造ストーリーを編纂する以前に滅亡してしもうたからなあ。
毛利は明治維新から戦前まではさらに歪曲を繰り返して、その歴史観を完全に定着させるのに成功した。
427:人間七七四年
09/07/20 17:33:12 QWQM7L7M
立花は残ってる
428:人間七七四年
09/07/21 00:59:11 jH7tIrfg
>>426
明治維新から戦前まで歪曲を繰り返し?
長州主導で全国民に定着させたという事?
429:人間七七四年
09/07/21 01:02:32 K3jN5hSg
全国民に知られるほど浸透していない。
430:人間七七四年
09/07/21 20:23:39 LJswWXqE
>>429
その微妙な知名度こそが捏造にとって都合がよい。
431:人間七七四年
09/07/22 03:19:41 fXKiJJKx
むしろ戦前は毛利の宿敵、山中鹿之介幸盛のほうが定着していた
江戸時代の太閤記では最も紙数をとってたし戦前の教科書にも載ってた
戦前の人なら授業で習って誰でも知ってるぐらい有名人
長州が毛利捏造するなら山中を英雄視するような事はさせないのでは?
432:人間七七四年
09/07/22 05:23:24 2vj6wPBT
山中は別格だろ
当時の時代背景から忠義を吹聴し
国民国家形成のための洗脳してたしな。
433:人間七七四年
09/07/22 14:38:16 +2svI7nq
別に山中じゃなくても良くね?と宗茂のお父様が仰ってます
434:人間七七四年
09/07/22 19:51:15 fXKiJJKx
そうだな
山中の代役なんぞいくらでもおりますな
伊東の家臣なんか個人的にいいな
435:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/23 00:33:02 0WyPxAb3
>>432
近代合理主義、特にクラウゼビッツ戦争論の洗脳じゃあ織田信長よのう。
436:人間七七四年
09/07/23 08:39:01 gF6gVacd
やっぱりドラマチックじゃん
月に変わってお仕置きよって月から公認受けたり、
我に艱難辛苦を与えたまえ!我が人を欺くとも人、我を欺くこと許さずとか。
もうパクり放題。
そりゃ厨房には憧れの100万パワー超人ベンキマンですよ。
437:人間七七四年
09/07/23 12:35:20 2uFdZfnT
ほんとは略奪、放火、なんでもありの
単なるテロリストなんだけどな
438:人間七七四年
09/07/24 08:38:21 CsJq2+Lx
>>437
そりゃ中国毛利視点ならの話だろ
チベットやウイグルら亡国再興にかける想いを軽んじてはならん。
439:人間七七四年
09/07/24 10:39:55 bFfLIuGF
山中は普通に村に放火や略奪してるぜ
440:人間七七四年
09/07/24 11:21:18 CtAqVa/t
>>439困ったときはみんなそんなもん。所詮893
441:人間七七四年
09/07/24 13:23:32 CsJq2+Lx
戦国時代唯一毛利だけは略奪や村に火をつけない正義の軍ですwww
442:人間七七四年
09/07/24 15:51:12 bFfLIuGF
>>441
は?
山中がテロリストて言っただけで何故そうなる?
誰か毛利が正義の味方とでも言ったか?
過剰反応しすぎだろww
443:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/25 01:24:11 V0IWIy6M
>>441
軍勢狼藉の禁止は、弘冶三年(1957)十二月二日、安芸国人衆の連判状で
決められとったね。
444:人間七七四年
09/07/25 07:41:33 cmaAMPKi
>>443
第二次大戦後ですね。
さすが義と愛の戦士たる毛利。
445:人間七七四年
09/07/25 23:59:23 girHnxil
長男の隆元が長生きしてたら織田に対抗できてたかな?
446:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
09/07/27 06:55:11 Stu98tza
大して差はないと思いつつ・・・
元就・隆元・輝元と家督三代が揃う時期が長いぶん、戦略的に自由度が高まるから
多少は史実よりも強大になっていたのではないかと。
447:白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA
09/07/28 01:28:06 F2hicA88
>>446
義と愛云うたら、大河ドラマの天地人じゃけど、奇麗事に描いとっても、
残忍な信長や出世欲の秀吉のドラマより余程面白いですわ。
NHK大河ドラマの毛利元就は元来「義」と「情」をテーマにすべき
じゃった。諜略のイメージばっかし、うえつけよりましたねえ。まあ、
越後は人身売買の盛んでしたけど、戦場の礼は持っておったでしょう。
URLリンク(www.yurindo.co.jp)
関東兵団出身の伊藤桂一氏の文中の「戦記は同世代のための呼応の文学」に
造兵団が「逃げる敵は背後からは撃たない、という原則を持っていて、
立派だな、と思う。」と、書いておられるが、造兵団は東北、越後の兵が
多かった部隊で、関東地方の兵団と違い、戦場の礼を守る伝統があったん
でしょう。東北の伝統か?越後の伝統か?何れかになります。
「戦記も一般の日本史の中に繰り入れられそうに」では、広島師団の
特に山口、浜田の聯隊が激闘した「崑崙関」の戦いが話題になっとります。
敵の広西軍は、阿片戦争で英国軍を「崑崙関」撃退した地ですからねえ。
広島師団を武田勝頼軍、前線の広西軍を含めた中国軍を織田・徳川連合軍
にしとってじゃが、広島師団は四面楚歌に包囲され、弾薬が底をつき、
竹槍を造って敵兵を刺殺して武器を奪い、糧量も底をつき、飢えに耐え
ながら、激闘した。旅団長の戦死し、玉砕全滅するのは時間の
問題とされた中、福山41iの奇襲が成功したりして、奇跡的な逆転で
武田勝頼軍と同様にならずに済んだんです。長篠と崑崙関は逆の
結果ですからね。
やっぱし、信長・秀吉に対し毛利側の粘り強い戦闘が伝統として、
郷土広島師団に受け継がれたんじゃと思いますよ。
448:人間七七四年
09/07/28 06:32:50 w/JuIX80
基地害白馬青牛は巣に帰るべき
449:人間七七四年
09/08/02 03:20:25 Ujt49fco
外交的謀略で状況を操る政戦略の大友>>>越えられない壁>>>>>蛮族の酋長島津兄弟>>>>>越えられない壁>>>>>有力者が死ぬのを待つだけの人生80年元就
URLリンク(c.2ch.net)
毛利捏造伝説
URLリンク(c.2ch.net)
450:人間七七四年
09/08/02 03:26:02 Ujt49fco
>>380
対毛利戦では大友や尼子をさんざん利用した大友。
島津の北上ではその毛利や長宗我部までも味方にする宗麟の鬼謀外交術は素晴らしい。
しかも大友軍はまったく戦闘参加せず無傷のまま高みの見物をし、
千石らが大敗し長宗我部の衰退のキッカケまで作る宗麟の奇策。
451:人間七七四年
09/08/02 11:13:23 Ab08u+Y2
>対毛利戦では大友や尼子をさんざん利用した大友。
今だに「大友が尼子を動かした」とか思ってる馬鹿がいるのは驚きだね
なるほど大友が大友を利用したのかww
>島津の北上ではその毛利や長宗我部までも味方にする宗麟の鬼謀外交術は素晴らしい。
大友が島津に手も足も出ずに守勢を取るしかなかっただけだろ
確かに島津に勝てないので秀吉に泣きついて
土下座服従を示した宗麟の鬼謀外交術は素晴らしい。
452:人間七七四年
09/08/03 19:50:21 jabTt11T
2ちゃんのアホ毛利厨だけが大友が尼子残党と手を結んでないとバカな主張するよなw
そんなに大友に大敗したのが悔しいの?
453:人間七七四年
09/08/03 20:51:31 tHpmVxug
手を結ぶ、と動かした
の区別もつかんとはww
馬鹿だねぇ~
454:人間七七四年
09/08/03 21:32:47 rA4D+txo
>>jabTt11T
あれ?
今度はこっちのスレで頑張るんですか?
ご苦労様です。
455:人間七七四年
09/09/23 09:42:54 TPMsW4lq
元就死去寸前は大友に破れ
大内に大都だった山口を荒らされ
尼子や宇喜田に東部を切り取られ滅亡寸前だった。
元就超絶無能。
456:人間七七四年
09/10/13 19:31:06 2jvNjwGo
美伊よぉ。 ワシャがんばっとるのに皆がいじめるんじゃよぉ。
なんとかならんものかいのう・・・。
457:人間七七四年
09/10/16 12:32:20 x/6BoVJ+
しおしおなさいますな
458:人間七七四年
09/10/16 14:36:02 wa/XwDfe
道雪に皆殺しされたら良かったのに毛利家
459:人間七七四年
09/10/16 14:55:34 kX0IOcJv
大国になるまでの評価はないのか
460:人間七七四年
09/10/16 23:25:15 vWhsvcqe
三本の矢を束ねたら、
折れないが遠くにも飛べなかった毛利。
461:人間七七四年
09/10/17 02:32:33 /kHdpcE1
久々に覗いたけど相変わらずの過疎り具合で・・・
462:人間七七四年
09/10/23 23:49:14 1nbiTzx6
>>447
バカがきた
463:人間七七四年
09/11/07 11:39:01 ucRm6jPp
ぼくのひゃくせんむはいのもとなりがまけるわけないよ。
おおともやちくぜんのしるしたしりょうはぜんぶつくりばなしにちがいないよ
464:人間七七四年
09/11/07 22:46:36 fLlRZnOP
>>456
くやしいのうwwwwくやしいのうwwww
465:人間七七四年
09/11/12 23:23:30 wz7c6zrt
さいきょうのおおともがまけるわけないんだ
つよいからしまずにめつぼうすんぜんにおいこまれたり
ひでよしにどげざでなきついたり
さいごはもうりにすてごまみたいにつかわれることになったなんてありえないよ
おおともはつよいんだ
466:人間七七四年
10/03/12 13:54:10 2qF6x7IO
>>452
吉岡長増について
毛利の主力軍が筑前に集結しているのを見て尼子の遺臣山中幸盛に
弾薬、鉄砲資金を援助して尼子の侵攻を手助けし、
毛利に下っていた尼子旧臣の米原綱寛に山中幸盛に合力するよう促し成功。
長増は輝弘を送るにあたり、小早川指揮下で周辺海域を支配している村上水軍の村上武吉を
筑前方面の通行税を取る権限を餌に寝返らせるが、
この寝返りを毛利元就の策略と疑い、
8月9日に大友水軍の若林鎮興に筑前の毛利軍に送る食料補給基地(周防にある)を
襲わせて村上の出方を伺った。すると確かに武吉は見て見ぬ振りをして、鎮興の攻撃は成功した。
大内旧臣たちに大内輝弘に協力するよう調略を開始し、
さらに豊前小倉城を攻めると流言を流してわざと毛利氏につかませ、
10月9日に田原親宏に小倉城を攻撃させて吉川元春、小早川隆景の注意を釘付けにし、
同日、輝弘に兵を与えて筑前に出兵中の隙を突いて毛利領の周防国に侵攻させた。
毛利氏の強みは村上水軍に守られ、大友が周防.長門を攻撃できないことであった。
これを突破したことは長門に本陣を構える元就を驚愕させる。この策は見事に当たり、
兵がいない周防は輝弘によって次々と侵食されてゆき、驚いた元就は主力軍を全て筑前から撤退させた。
467:人間七七四年
10/03/23 17:14:43 YMdPxeJh
スレリンク(net板:655-669番)
468:人間七七四年
10/03/24 10:36:33 6G7q85gN
仮に周囲が弱小だったとしても英雄なんて運要素も含まれるんだから
あれだけでかい領土まで広げた元就が雑魚ってのはないだろう
んなこといったら政宗・早雲・道三等等といったやつらが皆雑魚になるわ
469:人間七七四年
10/03/25 14:23:35 IDvOsOVE
元就嫌いな奴がただほざいてるだけだから気にするなよ
2Chでは通用しても世間では通用しない奴らだから
470:人間七七四年
10/03/31 02:48:59 KO9GMoFY
2chも通用してないがな
471:人間七七四年
10/03/31 18:51:17 YxG3+NuN
>>462
なぜ中世の広島県民は戦争が弱かったのか
スレリンク(history板)
472:小倉兵長
10/03/31 20:03:18 SJYGYvue
やっぱし、信長・秀吉に対し毛利側の粘り強い戦闘が伝統として、
郷土広島師団に受け継がれたんじゃと思いますよ。
なんじゃこりゃ?
信長・秀吉に対し一戦もせず。
三木・鳥取を見殺しにして運良く生き延びたのが粘り強い?
意味不明だな‥
473:人間七七四年
10/03/31 20:06:58 SOhjx+jB
このスレ立てる前に、いろいろな文献を調べてみようと思わなかっただろうか。
戦いを挑むのにそれ相応の準備をしてから、挑むわけだが、
無防備で戦いの仕方も知らない人間が、大衆の面前で「チェストー」
って叫んでも「なんだあれ?」と思われるだけだと思うが…。
474:小倉兵長
10/03/31 20:26:42 SJYGYvue
毛利元就は陶軍を宮島で撃滅させた。
これは評価して良いだろう‥
じゃが、撃滅させたのは明らかに戦略ミス。
殺すのは陶軍の大将各の武将だけで良かった‥
その後領土の広さに比べ、動員兵力が著しく低下し‥
北九州攻略失敗の遠因となり、織田(秀吉軍)へも対抗出来なくなった。
元就が中国地方の守りに専念せよ。と語ったのは兵力不足である事を裏づけている。
475:す@死
10/04/01 02:55:40 rigc4iQc
尼子と大内の強大な勢力に挟まれて生き延びた手腕は評価されるべきでしょう
キツイよこれ
島津の方が楽勝なんじゃないのか、弱小九州の覇者
476:小倉兵長
10/04/01 03:08:55 vg8dlZQJ
戦国時代初期頃、島津家は分裂状態にあり‥
戦争状態で周辺国より不利な状況にあった。
477:人間七七四年
10/04/01 18:11:42 pOcFFgCi
>>475
毛利は代々の安芸における一揆の盟主の家柄であり
武田が大内の支配に協力しないとわかると
毛利を保護し、海側に領地をやったりと厚遇していた。
尼子も安芸を握るポイントを一揆の盟主の家柄である毛利と踏んで好条件を提示したりしており
二股をかけて利益を得ていた毛利の肥え太り。
大内も尼子も毛利を滅ぼそうとしたことなど一度もない。
ただ自陣営側に引き入れたいだけだった。
元就はなんら策なく、ただSEXに励んでいただけ。
策はなくとも裏切り人生だけは持っていたので長女を生贄にして
裏切り急襲など、裏切りには暇が無い。
478:す@死
10/04/01 18:27:40 8jxvD4Mu
尼子と大内飲み込んだんだから大したもんだよ毛利は
479:人間七七四年
10/04/01 18:59:54 pOcFFgCi
尼子と大内が自滅しただけ。
敵失を評価することはできない。
しかも陶や義久は元就を信用していたのに
完璧に裏切られたように
信義の欠片すらないキチガイをどう評価できるのか?
さらに大友に敗北し、大内残党には山口を焼かれ
尼子残党には東側を侵食されまくられ
元就死去前後の毛利の領地消失率で考えれば
滅亡の寸前の瓦解がはじまっていた。
元春の働きがなければ
義隆や義晴の死去時の瓦解開始と似た条件が揃っていた。
480:人間七七四年
10/04/01 19:01:39 pOcFFgCi
×義晴
○尼子晴久
481:人間七七四年
10/04/02 02:26:00 HrL1W4/R
>>479
大丈夫、自滅の一言で簡単にかたずける君がどう思おうが世間は評価してるから
482:人間七七四年
10/04/02 10:38:56 PsptJC7X
>>481
毛利厨はソース皆無のマンセー捏造軍記でも読んでオナヌーしてろw
483:人間七七四年
10/04/03 22:39:22 +McktuYs
>>482
お前はいつもニチャンで自慰行為だもんなww
484:人間七七四年
10/04/09 11:20:46 iI2sK1nr
毛利厨って基地害過ぎだよな。
元就だけでなく隆元や隆景まですげー過大評価しまくりだし。
元春だって九州で殿と言う最も軍事的才覚と指揮と統帥と組織力が要求される戦略的撤退において大失敗して立花道雪らにフルボッコされて軍隊として崩壊した挙げ句に長駆大敗走してるし。
485:人間七七四年
10/04/09 18:09:30 Jv0vb7Il
元春って陶に掘られたんだよな。
隆元は義隆に掘られたし
兄弟そろって尻の穴がユルユル
486:人間七七四年
10/04/10 08:30:42 iDOHC/bn
隆景も義隆にホラれてるぜ。
487:人間七七四年
10/04/12 00:33:10 nMBOajpV
mjika
488:人間七七四年
10/04/16 23:04:14 gVpulmBL
大内仕込みのテクで兄弟同士で男色やってたっぽいな
大内義隆はザビエルに男色を非難されて席を蹴って出ていったくらい男色大好きだしな。
489:人間七七四年
10/05/02 03:22:39 S+WXPwNg
隆のトコだけなぜかホモと連呼します!
大内義ホモ
陶ホモ房
毛利ホモ元
小早川ホモ景
490:人間七七四年
10/05/17 23:11:54 Hz0ld97b
なるれす
491:人間七七四年
10/06/04 12:23:17 wHaTZjp+
>>489
汚いホモ4兄弟。
492:人間七七四年
10/06/25 15:19:10 iNAWPhTA
隆景って正妻に会う時、
よそよそしくて
しかも服装もしっかり正装して
辞宜までして接してたって言うから
完全に重度同性愛者だよね。
子が生まれないのも当然だ。
そもそも側室を持たないのも上記の話を聞けば
当然なことなんだよね。
これを歪曲して女性に対しても誠実だったとか書くバカは
脳が腐ったスイーツすぎだよな。
493:人間七七四年
10/06/29 05:49:57 n+9rK2ue
謙信VS元就 どっちがスゴい!?スレ
越後39
越中38
能登21
加賀35-5=30
佐渡1
上野49-34=15
信濃+出羽+飛騨+下野=6
かなり小さく見積もって150万石ってところか。
あまりに小さく見積もりすぎて削りすぎかな???
さすがに上野は削りすぎかも・・・
加賀も削らなくても良いのかも知れんね。
+10の160万石でもぜんぜんおかしくないような気がする・・・
門司城攻防戦
宗麟との同盟軍の尼子軍が後方で侵攻開始し
宗麟が政戦略外交を駆使して毛利を屈服させ香春岳城・松山城・門司城を大友に返却し和議させる。
この際に宗麟は自分から将軍に大金をつんで和議斡旋を頼んでおきながら元就が困って和議を受託しようとしたら
条件を次々に出してなかなか和議を結ばないという卓越した外交交渉をしてのけたので元就の一方的譲歩になった。
1566年尼子滅亡
多々良浜の戦い1569年
宗麟の謀略として大内輝弘の逆上陸が開始され
後方では隠岐国から上陸した尼子残党が出雲一国をほぼ奪回寸前になり
毛利軍は多大な犠牲と苦戦の末に落とした立花山城を大友に返却し撤退。
1571年に元就死去。
1574年山名氏から援助を受け尼子軍が因幡国より出雲侵攻。
1577年織田軍に参加した尼子残党が播磨上月城を攻略
494:人間七七四年
10/06/29 05:50:53 n+9rK2ue
35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:35:52
宇喜多直家は勇武で鳴る三村家親を暗殺し翌年1566年7月には息子三村元親を明善寺合戦で破り
備前西部・美作から三村氏を追い払い備中深くまで侵入し
1568年には撫川城(備中南東)・猿掛城(備中南西)・斎田城(美作・備後国境沿い)と宇喜多の前に次々落城し、
最後の仕上げとして直家の調略で備中の名族庄氏が裏切り備中中枢の松山城の居城を奪われ三村氏は崩壊。
三浦氏(美作西部の有力者)も三村氏より美作西部の要衝高田城を奪還。
1569年元就が対大友戦で長府へ(翌年正月に輝元をおいて元就は吉田へ帰る)
大友との多々良浜の戦いが開始され大友に支援された大内軍が後方の周防国へ上陸し
破竹の進撃を開始しついに山口攻撃を開始し無視できない状況に。さらに尼子残党が隠岐より上陸し出雲一国をほぼ制圧してしまう。
毛利は大損害を出しながら何とか確保した立花城さえ大友に譲渡し九州完全撤退を決意し交渉に入る。
毛利軍が備中猿掛城を落城させるも備中斎田城で宇喜多勢に大敗。毛利方香川春継が尼子・三浦氏より高田城奪取。
1570年2月尼子残党の月山富田城攻略失敗。尼子と宇喜多直家は手を結ぶこととし、
尼子勝久・山中幸盛らは備中より美作へ1000の援軍を派遣し三浦氏を支援し10月には毛利軍を破り高田城は落城。
尼子勢は備中を次々に降し幸山城(倉敷北方)・松山城などの諸氏は尼子に降り毛利方の城攻めを開始しほぼ毛利は備中失陥。
同年に宇喜多配下の花房職秀は荒神山城を築城し美作支配の拠点とする(宇喜多が美作をほぼ制圧完了)
9月に元就重症の急報あり尼子残党を元春に任せ、輝元と隆景は大友の動きを警戒しながら元就のもとへ急行。
1571年6/14元就死去。
8月に新山城で山中幸盛を元春が捕縛するも逃げられる(尼子勢力が減退し始める)
毛利が備中中部で反撃を開始し松山城落城させるも備中幸山城が備中北部を制圧していた尼子に攻められ降服。
1572年毛利の支援で三村元親が佐井田城を奪取し松山城に居城を移す(備中の軍事バランスが毛利方へ)
宇喜多と毛利はこの後も一進一退の抗争を繰り返す。
1574年対織田で宇喜多・毛利は同盟し毛利の背反に激怒した三村氏は織田へ。
1575年毛利が松山城や猿掛城を落城させ三村氏を滅亡させ備中平定に成功。
1576年毛利氏が美作高田城奪取。
1577年宇喜多によって浦上は滅亡へ。
495:人間七七四年
10/06/29 05:51:57 n+9rK2ue
36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:38:25
周防16
長門13
石見11
出雲18(尼子残党が暴れていたが詳細不明につき削らない事にする)
備後18
安芸19
備中17-10=7(尼子残党とそれを支援する宇喜多同盟軍がかなり攻勢に出ており三村滅亡寸前だが元就死去後には挽回し始めている)
隠岐4(尼子残党の拠点になったりしてるので元就時代に領有してたか不明だが+する)
美作と備前(元就死去時はほぼ宇喜多支配下)
毛利元就死去時の石高は106万石
九州(大友の四国侵攻による宇和郡領有による伊予での河野氏支援も含む)と中国東部での無意味な二面作戦という愚策で
東部・西部ともに劣勢に追い込まれるが死去寸前に愚かさを悟り九州から完全撤兵(健康への不安からか?)
謙信が関東を放置し上洛戦で北陸に戦力集中したのと違い元就は戦略変更が遅すぎて宇喜多や大友の支援で尼子残党が巨大化してしまった。
元就死後に中国東部のみに敵を絞り込み反攻しある程度の成功を収めてるところを見ると老害が出始めていたかも。
伯耆(10万石)因幡(8万石)情勢
1564年 西伯耆の要衝たる尾高城は毛利方の杉原盛重が派遣される。
1568年 毛利氏の九州出陣で伯耆の領主たちが九州に赴いた隙を狙って
尼子勝久・山中幸盛らによる尼子再興戦が開始され伯耆各地を奪回し始める。
1569年 山中幸盛らの尼子残党に尾高城を奪われる(陰徳太平記)
1571年 毛利と同盟して因幡を乗っ取った武田高信が但馬侵入するも山名氏の塩冶高清に大敗。
西伯耆の浄満原で杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦う(陰徳太平記)
1572年 因幡国人の大半が山中幸盛側になびき武田高信の大敗で鳥取城陥落し因幡が完全に山名領国化。
西伯耆と分断された東伯耆の国人の南条宗元は毛利と同盟しているが
孤立無援の中でかなり苦戦してると思われる(毛利に援軍派遣の余裕はない)
※陰徳太平記は毛利氏によって編纂されているので毛利贔屓になっている。
よっておそらく杉原盛重は浄満原で負けていると思われる。
496:人間七七四年
10/06/29 05:53:00 n+9rK2ue
37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 01:42:20
元就死後に元春のがんばりで対尼子の出雲情勢が好転してくる状況で、なおかつ美作国方面はほぼ宇喜多の手に落ちている。
よって伯耆以東は尼子の勢力圏化が進み連絡線も断たれ孤立した各国人が独自の防衛政策で必死に守っており
毛利の軍事プレゼンスも期待できない以上は影響力が皆無に等しく毛利領と見なすのはかなり無理がある。
しかも出雲・隠岐もかなり尼子に蹂躙されているが>>693ではまったく石高を削っていない状況なのでさすがに伯耆分は追加不能。
厳密に計算したら元就死去時の石高は、ほぼ100万石くらいまで落ちる気がする・・・がそんな事したら毛利厨が過小評価だと騒ぎ出しそうだし遠慮しとこう。
>>645>>650
微妙なところなんで謙信の場合はあいだをとって155万石とするか・・・160万石でもおかしくなさそうだがそんな事したら毛利厨がヒイキとか騒ぎ・・・w
やはり隠岐は毛利領から石高削るべきだな
隠岐は現在こそ島根県だから近いように感じが実際は出雲と伯耆の境目の北海上にある。
また山中鹿之助が拠点を置いていたのは新山城といい松江市の北だ。
とするとさらに背後にある隠岐はまだ安全圏だろうし新山城の位置から万が一には隠岐に脱出するルート保全もあったと思われる。
ちなみに羽柴秀吉の中国遠征軍(てきとうに概算)
播磨35万石
但馬11万石
因幡8万石
伯耆10万石のうち東部3郡羽柴方の南条6万石
宇喜多備前22万石+美作18万石
合計100万石
あーもう石高で同等に追いついちゃってるよ・・・
これじゃ毛利軍はどうあがいても100%かなわないわ。
そういや他にも近江長浜からつれて来てる兵や信長からも与力つけてもらってるし
淡路6万石
長宗我部に侵攻され滅亡寸前の三好讃岐領もあるんだよな。
39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/28(水) 04:44:52
毛利元就200万石って大ウソなんだな…85歳って天下統一した家康の年齢と同じだけ生きたのに50歳過ぎでやっと安芸一国統一レベルじゃな…
497:人間七七四年
10/06/29 05:56:25 n+9rK2ue
昨年の歴史読本6月号だったか!?
に歴史学会の新説についての特集が
あり、そこでは厳島合戦での陶軍の
兵力は8千人との新説が紹介されていた!
それによるといままでいわれていた2万
の兵力は陶側が各地の戦線に配置した総数
とのこと(いわゆる桶狭間の今川軍が2万
5千人中の5千人のようなもの)
オマエら難しく考えすぎw
簡単な話なんだよ。単純に周防17万石VS安芸20万石の戦いだよ。
陶は大内義長を自分の手のうちに収めるために手勢を置くだろうし
北九州にも備えが必要だし、内藤氏の内紛でも援軍を送らないとだし
石見にも和睦したとは言え多少の駐留軍が必要だが
毛利は全軍を投入できる。よって陶軍が寡兵で毛利軍の方が多かった。
陶の視点からだと毛利の事をどう思ってんだろ。
郡山城攻防戦の時に隆元とともに陶は援軍を派遣するように大内義隆を説得する助太刀してたし
陶と元春は武勇バカ同士でホモ文通するくらい仲が良かった。
陶が謀反する時は事前に毛利に知らせて同意を得ているし
謀反成功後は毛利に安芸は好きなようにしていいよって言ってる。
陶からしてみれば毛利に裏切られ火事場泥棒される理由が見当たらないんだよな。
42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/02(月) 17:15:38
過大評価って戦国大名にはつきものなのか、とも思うね。
「来島扶持を以て隆元、我ら頸をつぎたる事に候」(永禄十一年 元就書状)
厳島の戦い後、十三年経っても、あの戦いは来島水軍の助力がなければ、毛利家滅亡の危機
であったことを元就自身が白状している。現に合戦当時、厳島の宮の城から隆景に「来島が
来てくれなければ万事休す、何としても助力が得られるよう交渉しろ」と、哀れなほど追い
詰められた書状も出している。これらは、毛利家文書、小早川家文書に現存しているよ。
何が起こるか予想のつかない現実の戦場で、講談のごとく、何から何まで計算通りにいく、
なんてあるわけ無いでしょ。
折敷畑合戦はなかった
URLリンク(www.mmjp.or.jp)
1554年9月15日とされている折敷畑合戦を証拠立てる文書とは、
この合戦に関して発給されてたとされている感状である。全部で五通あるが、
そのすべてが偽造、もしくは限りなく黒に近い偽造文書であると結論
498:人間七七四年
10/06/29 05:57:54 n+9rK2ue
有田中井手の戦いもウソ臭い。従来よく言われるのが元繁が討ち死にし武田氏は衰退滅亡したということ。
だが実際には跡を継いだ武田光和は勇猛な英主で、父の死去の影響はまったくない。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城を包囲したが徹底的に抵抗し
尼子経久の援軍が来るまで持ちこたえたし、厳島神主家の後継者争いにも介入し勢力を拡大し続けた。
父が毛利に敗退し衰退してる姿など微塵も感じられない。
熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死した事で事態は急変。
若狭守護武田氏の養子をもらう事で重臣の主導権争いが勃発し内紛により武田信実が若狭に逃亡し衰退したのだ。
それでも安芸における更なる拡大を目指し尼子詮久に毛利攻めを要求し実際に毛利攻めの際の武田氏は佐東銀山城に集まり、
大内の大軍の猛攻を支え続ける勇猛ぶりを発揮し毛利への援軍を阻止し陶の別働隊を組織し毛利援軍へ派遣せざるおえなくなる。
毛利が尼子の軍を相手に籠城したことばかりを過大に宣伝するバカがいるが
実際には大内領に隣接した武田の士気の高さと防衛ぶりの方がすさまじい。結局、尼子の撤退で孤立無援でフルボッコ。
なおも耐えていたが尼子経久の死去に伴い尼子派国人領主が大量に大内氏へ寝返ったため完全に孤立し滅亡した。
58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/08(日) 19:28:38
厳島合戦で毛利が勝ったのは
能島村上水軍が陶
因島村上水軍が毛利
そして来島村上水軍がどっちに付くかで毛利は来島水軍が味方についてくれなきゃ終わりだと言ってた。
瀬戸内海の水運権益を手放して大幅常歩した結果、来島水軍が味方になり毛利が勝っただけ。
毛利は何もしてない。
60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/09(月) 14:28:50
>>43
毛利の資料ってほんとデタラメだよな。
武田もそうだけど尼子も経久死去した後に晴久が暗愚だったから新宮党を虐殺し衰退したみたいに書かれてるけど
実際は晴久時代の尼子が最盛期なんだよな。
晴久の急死後に20歳の義久が石見銀山ごと石見国を毛利に譲渡する和睦を結んだのが致命傷になっただけで。
大嘘つきの元就が見事に約束を反故にして出雲の国人を次々に切り崩して月山富田城まで侵攻された。
499:人間七七四年
10/06/29 05:58:41 n+9rK2ue
大内と尼子の自爆待ちで
気付いたら当時の平均年齢50歳でみんな死んでて
自分が地域の長老になってたので
死んで他に誰もいないのでやむをえずみんなに推戴され
(元就視点ではもともと安芸の国人一揆の盟主の家柄だし当たり前じゃボケ国人どもめ!)
吉川も小早川も普通に跡継ぎいないから次男か三男くれない→いいよ別に!
大内義隆が陶の謀反を知り調伏の護摩焚いてたらマジに陶が殺しにきた→陶が山田事件起こす→石見国人謀反→討伐中に元就火事場泥棒→
厳島でなにやら占いや気をみたりする陶がここ数日は大凶だから休戦日だな!→大凶?関係ねーよと元就襲撃→卑怯なり元就ぃ!
→石見銀山ゲット!ってあれ晴久突然死→20歳義久は毛利をビビリ石見を毛利にプレゼントするから和睦しよ♪→石見の国人見捨てられる→
うっひゃひゃ銀を出雲国人にばらまけ和睦なんて関係ねーし侵略じゃ!
実際は水上兵力を含めれば毛利より少なかったりしてなw
なんせ当主を殺してしまったので主従が疑心暗鬼になり、まとまりにかける陶軍は石見で大苦戦して和睦せざる負えなくなったくらい追い詰められた軍だし
石見から強行軍で中国地方を縦断して進軍してきたら使役の割に褒美がもらえるかもわからんし部下も離散するだろう。
長門守護代の内藤氏すら甥と叔父が内紛中だし。
周防の残留軍は火事場泥棒した毛利にすでにやられてるし北九州にも一応は備えないとだし石見にも兵力を拘置しなきゃならん。
陶は背後に多くの火種を抱えて戦力集中はできないのは明白。周防の石高から6000も動員できないんじゃないか?
元就の壮年期はセックル大好きでひたすらガキを作りまくって成長後には親戚作りをやってたんだろう。
外交的にはことなかれ主義で主に大内の庇護と援助をうけていた。
家督問題介入で怒ってたが尼子にも良い顔をしたりと卑屈だが八方美人をしてた。
大内としても安芸守護武田の支配に対して昔から反抗していた国人一揆の議長役をしていた毛利を通して安芸支配を固めていた。
尼子も武田がダメなら安芸支配のポイントは毛利だとして吉川氏経由で支援して優遇していた。
要するに大内と尼子の勢力圏の緩衝地帯に毛利がいたってわけ。
だから双方の傘下に両属し厚遇された毛利はけっこう美味しい地位にいたし力を蓄える事ができた。
またセックル好きのおかげでガキに恵まれ自身も地域の長老になるとかなり有利になった。
毛利は典型的な他力本願タイプで寄生虫・宿り木・小判鮫をして主家が衰退するのを待って地位を簒奪したと言える。
毛利家は代々の安芸国人一揆の議長役という地位が非常に有効になったんだろう。
500:人間七七四年
10/06/29 06:00:35 n+9rK2ue
49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/03(火) 18:58:20
周防も安芸も同じ瀬戸内海だから平等な土俵じゃないか。
水運経済は水軍に依存しており毛利だって小早川水軍を持ってたから通行税やら湊使用料を同じように取ってたろう。
だったら差を分けるのは地力
瀬戸内海があるから比較できないなら琵琶湖水運があるからとか日本海貿易があるからとか
伊勢湾があるからとか河川流通があるからと何一つ比較できないだろが。
毛利厨だけがそうやっていつも逃げるんだよなw
陶は大友にもある程度備えないとだし
陶が支配の正統性の象徴である傀儡の大内義長が拉致られないよう兵を置かなきゃならん
長門の内藤氏の内紛にも兵を出し介入し自派に勝って貰わなきゃならん。
石見で苦戦しまくり和議したものの破棄して背後を襲ってこないようにある程度の兵を置いて備えなきゃならん。
安芸に振り分けられる兵力なんてごくわずか。
>小早川は別家で関係ねーよ。毛利は安芸の大内陶派を討って安芸をほぼ統一したのが厳島の数ヶ月前
1年ほど前までは安芸の中枢部沿岸部すら大内の支配下にあったから水運経済なんてねーよアホか。
→元就が尼子から大内氏に寝返ったときにの条件として、大内氏から広島湾に近い飛び地の所領数カ所をもらっています。
>毛利の影響下にあるのは山間部ばかりって言えるし財政的にも弱い弱小勢力だったのに。
→山間部でも相当な収益を上げていました。毛利氏の足元の安芸吉田で駒足銭という通行税を徴収する権益を井上氏は持っていた。
吉田は出雲街道の要衝にあり石見銀山や石見、安芸の国境地
帯に広がる当時我が国最大の一大製鉄「工業」地帯に往来する商人達の通行が
多く駒足銭の徴収権は重要な経済的な権益だったが井上を滅亡させ元就は横領した。
また正妻の実家である吉川氏を奪い貴重だった鉄の生産地も手に入れ(謙信も毛利から鉄を買っていた)
元就は高橋氏に出した人質の娘を見殺しにして高橋氏を滅ぼし木材売買も手に入れた。
>まず義長が大内にいるのに大友に備えてというのは不自然。 これでは義長がいる意味がない。
それと大友義鎮の書状で「義長に援軍頼まれたけど毛利との約束で自分は泣く泣く弟を支援しなかった。
その辺のことを考えて、九州の大内領は大友が継承するのを認めてね。
あと秋月とか筑紫が反大友で騒いでるけど支援しないでね。」みたいな文書が残ってる。以上から大友に備えてと言うのは不自然
→これは大友が筑前豊前権益のため義長を犠牲にして毛利に内通してることを現しているって事です・・・
だから陶はそちらにも兵力を置いて牽制しなきゃならんのです。
それに基地害になった陶は野上房忠に命じて筑前守護代杉興連を殺害し豊前守護代杉重矩も殺したり宗像騒動で北九州情勢は不穏です。
>義長が拉致されないようにと言うけど、厳島合戦に参加しなかった多くの大内氏家臣や内藤隆世は守ってくれてるはずだろ?
→ 娘婿である毛利隆元とその父元就を支持する五男・隆春派と内紛中で山口にまで抗争は波及してます。
501:人間七七四年
10/06/29 06:02:43 n+9rK2ue
>毛利だって尼子に備えて兵を置かなければならず、宍戸隆家が残ってるだろうが!
→当時の石見も備後も大内領国化していて安芸は安全圏になっています。下記年表をご確認ください。
尼子晴久の戦力集中は東側で1551年~1554年に渡り備前に出陣し播磨の浦上政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出
1553年4月備後北部の三次盆地に勢力を持つ江田氏は毛利氏を中心とした大内氏方国人の攻撃を受けた。
江田氏を支援するため、晴久は自ら備後国高へ出陣して萩瀬にて毛利の援軍の陶晴賢率いる大内軍と激突したが勝敗つかず、
10月には江田氏の居城・旗返山城は落城し山内氏も大内方へと下った。尼子側国人宮氏も滅亡し備後は大内氏側へ。
1554年新宮党を謀殺する。この年の前後には相変わらず浦上氏と敵対し尼子の戦力は備前へ。
1555年に厳島合戦により石見の大内勢力が大減退によりやっと尼子が石見に再進出。
1556年に毛利軍を忍原にて撃破(忍原崩れ)9月には石見銀山を奪取する→尼子晴久急死
→尼子義久20歳が銀山ごと毛利に譲渡し和睦を願う→元就が約束を裏切って銀山収入を使って出雲国衆を裏切らせる。
>対する陶は大内全体の軍事指配を行っていた豪腕の持ち主で、当主義隆を討った後に家中をまとめあげ、更に大友家から当主養子を
迎え実質的に九州からの脅威を排除するという政治的センスもある男で今項羽とか西国無双として中華まで知れ渡ってた男だ。
→陶は北九州を混乱させ恐怖政治の殺戮だけでなく無能の石見守護代の問田隆盛を信任して
石見の吉見正頼の謀反が鎮圧できず津和野三本松城の戦いなどで陶自らが周防から遠征し大苦戦し実質敗北の失策続き。
そもそも陶は実力でのし上がってきた男ではありません。少年時から美男で義隆に寵愛されただけ+父の威光の七光りの無能。
直情型で独断専行な性格で文官の相良武任との政争に負けた挙句に追い詰められ破れかぶれの無計画な謀反です。
陶は主家殺しで疑心暗鬼になり片っ端から有力大内家臣団を虐殺し自らまわり中に敵を作りまくり自爆した。
末期症状で自分の領国の周防さえ満足に統治できなくなってたろう。
陶の主力となった元就をよく知る勇将江良房栄の殺害を安芸守護代弘中隆兼に
身の潔白を示すために殺せと命じ軍のさらなる不和を演出w
さらに慎重論を進言し再三諫めたら弘中隆兼を臆病者呼ばわり。
渡海後に弘中隆兼が武王の例を引用し宮尾城の準備ができてないので運気や占いを信じずに今すぐ落城させろと
陶に進言するも大凶日は休戦日として軍備を解き無駄に日数を費やすアホぶり。
今項羽とか西国無双もそんな厨っぽい記述は一次史料にありません。
>>厳島に囮として宮尾城を築城し桂元澄が陶に偽りの内通をさせて郡山城に行かせずに宮尾城に誘き出した。
→まったくの大ウソ
宮尾城は以前から厳島に存在してたし桂元澄内通の偽起請文なんて存在してないデタラメだし、
1540年に陶が郡山城を救援しに行った時も岩国から厳島に渡海してる交通路。
しかも厳島合戦に従軍した名前に内藤や杉の名前はなく戦死者の名前も陶氏の家臣や周防南部の武士ばかり。
どう考えてみても周防からの動員数しかいない。
はっきり言って毛利の記録は捏造歪曲と自己正当化のウソばかりで信用できないシロモノです。
502:人間七七四年
10/06/30 20:22:53 xJl72lPw
明治政府によって毛利元就は献金の功により正一位を授与された
他にも捏造した講談で人気があるが、史実では略奪ばかりで国内を疲弊させただけの大名連中も高い官位を授与されている
それに引換え、国内の商業・産業の発展に寄与し
多額の献金で朝廷や寺社を支援した大内義隆は全く評価されずに従二位のままだ
長州藩により防長の領民を、長州閥により全国に「大内義隆は暗愚、だから毛利の簒奪は正当」
という教育が行われてきたんだよな
いまだに信長の野望では毛利は大内から独立した大名だし。
503:人間七七四年
10/06/30 22:10:16 A2H6Iwv0
>>502
陶を無能とする事で毛利を無能にしようと必死w
まあ陶は実際大した戦功もないんだがな
何にせよそんな元就にまんまと領土奪われ滅ぼされた大内尼子はド屑の集まりですね
504:人間七七四年
10/07/01 01:43:57 ecj0up5K
大友ごときにボロクソに負けた毛利。
よっぽど中国地方のレベルが低すぎるんだろうねぇ。
畿内からやってきた秀吉にもボロクソ。
日本で一番レベルの低い争いをしてたとしか思えんねぇ。
505:人間七七四年
10/07/01 17:24:37 SgGQRnMK
>>502
前に戦中に出版された
現在の毛利関連本や毛利親子の評の元ネタとも言うべき元就や元春の本を読んだけど
さすが戦中だけあって気持ち悪いくらい軍国教育研究の成果が反映されてた。
もう私利私欲の公私混同で長州閥が官位位階までいじってるのが明白だよね。
贈正一位 毛利元就 明治41年4月2日 従四位上
贈正三位 吉川元春 明治41年4月2日
贈正三位 小早川隆景 明治41年4月2日
贈正三位 毛利隆元 明治41年4月2日
ちなみに
贈正一位 豊臣秀吉 大正4年8月18日 従一位
贈正一位 織田信長 大正6年11月17日 正二位
506:人間七七四年
10/07/02 10:27:49 75icAsvD
つまり元就>信長という事か
何という捏造勝ち
507:人間七七四年
10/07/02 15:21:03 v/QV6gZp
輝元は?
さすがに長洲閥のゴリ押しでも暗愚輝元には贈れなかったのか
508:人間七七四年
10/07/02 17:05:05 vJ2L0LCw
さすがに家康に騙され実質改易の刑で出家した輝は難しいだろ。
なんせ周防・長門2カ国は秀就を宛名として
新たに家康が与えたもんだから
現役当主のままだった上杉景勝などよりよっぽどダメダメな結末。
509:人間七七四年
10/07/03 01:21:58 sGe2D/zM
輝元は劉禅以下の能力だからなぁ。
隆景に折檻体罰を受けまくってたから
頭を強く打ってしまい池沼になっちゃったんだろ。
510:人間七七四年
10/07/03 02:38:37 5PoOXxAo
>>505
毛利家四人しかもらっていないならともかく
他の偉人たちも官位をもらっているじゃないか
伊達政宗や上杉謙信なんかは毛利兄弟より上の従二位をもらっている
それに私利私欲の公私混同ならもっと早くにあげてもいいし
他の毛利家の人間にもあげていてもよくないか
そもそも早くもらったからどうとか遅くもらったらどうとか何か関係でもあるのか?
結局はもらっているわけだし、元就と信長のもらった年数の違いも9年しか違わない
>>507
あの時の毛利家当主は輝元の子孫じゃなくて秀元の子孫だからじゃないかね
島津家も義弘は正三位をもらっているが義久はもらっていない
>>505
毛利家四人しかもらっていないならともかく
他の偉人たちも官位をもらっているじゃないか
伊達政宗や上杉謙信なんかは毛利兄弟より上の従二位をもらっている
それに私利私欲の公私混同ならもっと早くにあげてもいいし
他の毛利家の人間にもあげていてもよくないか
そもそも早くもらったからどうとか
遅くもらったらどうとか何か関係でもあるのか?
結局はもらっているわけだし元就と信長のもらった
年数の違いも9年しか違わない
>>507
あの時の毛利家当主は輝元の子孫じゃなくて秀元の子孫だからじゃないかね
島津家も義弘は正三位をもらっているが義久はもらっていない
>>509
戦にも出ていた輝元を劉禅と比べちゃだめじゃね
それに頭を強く打ってしまったという一次資料でもあんの?
511:人間七七四年
10/07/03 02:54:37 sGe2D/zM
そりゃあ毛利親子を長州閥が無理矢理、
位階を引きあげて悪しき前例を作ってしまって以来、
みんな濫発するようになったからね。
正直、毛利親子の位階が無茶な昇進した日を境に
位階制度は骨抜きにされ、戦国安土桃山時代の人物の贈は
なんらの価値もないものにされたよな。
512:人間七七四年
10/07/05 01:26:11 R/m+KfyY
>>496
毛利厨って元就は信長や謙信や信玄より上とか言ってたけど
実際は宇喜多や長宗我部よりも下じゃんw
元就死去前後の毛利って元就の戦略ミスのせいで
一歩間違えたら滅亡もありじゃん。
513:人間七七四年
10/07/05 01:59:14 R/m+KfyY
>>508
しかし輝元って馬鹿だよねぇ。戦国の常識もわからんとはね。
例えばこんな話がある。
伊達が田村支配を狙って侵攻した際に
邪魔をして挙兵した石川弾正。
その弾正の討伐に向かう伊達軍の邪魔をするべく
大内備前も背後で挙兵し、成実の城などを次々と落城させる。
困った政宗は大内兄弟に土下座し自陣営にくるよう頼む。
すると大内兄弟は領地を与えろなど次々要求。
政宗がそれを飲む返事を出す。
しかし大内は「いやいや、口先だけの約束とかまったく信じられないからw」
「グダグダと言ってないでさっさと政宗に直筆の書状を書かせて持ってこいや」
そして政宗はやむなく自ら書いた書状を持たせた。
大内定綱でさえ自筆の書状じゃなきゃ信じねぇって言うくらいなのに
輝元は黒田や井伊が「家康公は毛利領を安堵してくれる約束してるよ♪」
輝元「ほ、ホントに!さ、最初からナイフ様に逆らうつもり無かったの信じてくれたんだ」
なんて簡単に騙されるとか愚者すぎだろwww
514:人間七七四年
10/07/05 02:55:25 tLaLz2BU
>>494
元就のおかげで
宇喜多大分得してるな
515:人間七七四年
10/07/05 11:00:19 9X8StlOy
壊れたテープレコーダーさんは大変だなwwwwwwwwwww
複数スレにおいて深夜の布教活動乙でありますwww
516:人間七七四年
10/07/06 02:55:14 Q2uyP0aH
皮肉なことに
毛利の戦略的失敗の連続が
宇喜多を育てたようなもんだからね。
517:人間七七四年
10/07/07 11:40:06 C+yXeGMk
毛利元就はなぜ山口を本拠地にしなかったのでしょうか?
また、支配者が代わると前政権の否定をするのが常なのに
陶隆房や毛利元就は大内の方針を継承していました。
ところが毛利輝元の代のいつ頃かわからりませんが大内の方針を全否定しています。
高麗版大蔵経(一切経)を惜しげもなく三井寺に寄進しています。
大蔵経といえば歴代の権力者が欲した貴重品。
その他にも厚狭の干拓事業も三年寝太郎というお伽話にすりかえられたり
大内の実績をもみ消すのに必死になっています。
518:人間七七四年
10/07/07 16:09:10 u3NsjA8h
国人衆の集いだからな
変えたらただでさえ不安定になのに崩壊するかもわからん
519:人間七七四年
10/07/12 09:12:51 DcaQQkTR
>>517
山口を拠点にしなかったのではなく復興に失敗して出来なかった。
武田が駿府を活用できなかったのとおなじ。
大内路線を継承したのは大友氏と遺領争いを繰り広げていたことや
日明日朝貿易の利権を継承を目論む目的があった。
毛利輝元も当初は大内路線だったが関ヶ原で大減封されて防長に移ると家臣の整理を行ったが、
他所から従って来た家臣は覚悟はできているが、元々防長土着の国人衆や民は重税で苦しむことになった。
当然、裕福だった昔の大内と重税の今の毛利を比較されるので大内の大否定を計った。
一切経の園城寺(天台宗)への寄進も関ヶ原の後に行われているが
当時徳川家康のブレーンとなっていた天台宗の南光坊天海に関係する政治工作に利用されたという見方もある。
寄進は大内が神仏に手厚いという事実をもみ消しつつ、天海に取り入ることができるという一石二鳥だったわけだな。
520:人間七七四年
10/07/12 17:34:05 ZiHGfqpb
>>512
毛利は大友戦で働いたものへの加増ができず
財政が悪化しまくってしまったようだよ。
信長との戦いも動員兵力がどんどん下がったのも財政が原因。
秀次に大金を借りていたのもそのためだそうだ。
521:人間七七四年
10/07/12 21:39:11 q2V4kCUG
毛利一族で優秀な奴は皆無だよな
戦国随一のヘタレ大名揃いじゃないのか?
元就は多少ましだが、後は最悪の屑しかいない
輝元なんて知性も無なくヘタレだし最悪だろう
522:人間七七四年
10/07/13 00:07:48 BcnKF95/
>>513
政宗がただ自筆で書いただけの書は拒否ってる。
ちゃんと神仏に誓った当時としては
臣下の身分に出すような書状形式ではなく
実質的に政宗の方が頭を下げているレベルを
要求して呑ませてる。
523:人間七七四年
10/07/14 18:59:13 0mPtIgJU
神仏に誓うなんてよっぽどの交渉事じゃないと書かないもんね。
例えば大名と大名との間の重大な和睦交渉で稀にやるくらいだよね。
524:人間七七四年
10/07/15 21:54:23 5Y0aWKvE
>>521
そもそも元就以前は地方の一国人にしか過ぎなかったしな
525:人間七七四年
10/07/16 23:39:06 xTg9RfVr
寧ろ毛利氏にとって元就の存在自体が奇跡のようなもんだからな
526:人間七七四年
10/07/17 02:08:49 s38xNZ8S
そうだよね。
裏切りだけが得意な無能だけどライバルが自爆しまくるなんて
運だけは良かったもんな。
あとはこの地域一円の一揆の盟主の家柄ってのはデカかったな。
おかげで尼子も大内も自陣営に加えたくて厚遇してくれたもんなあ。
527:人間七七四年
10/07/17 16:36:13 CdR29Mrw
595:人間七七四年 07/15(木) 14:19 TRfU3i4p [sage]
毛利輝元以降の毛利氏によって大内義隆は文芸に溺れた暗愚な当主とする風潮が広まってしまいましたが
・備後における神辺合戦のように軍事活動も成功している
・一揆の拠点にされやすい寺社を復興させることは民衆の一揆抑止に役立った
・公家を迎えることは地方の山口において機密情報入手の手段としては適切
・文化人を招いたり、産業を奨励したことは領内における輸出物品の生産という結果をもたらし、投資として成功している
・経典を積極的に求めることは現在人からみれば散財に過ぎないが、当時は四書五経の知識量で人物の優劣を決める経典主義だった
・この方針は中国では1905年まで続いていた。(現在の受験戦争において良い塾に通わせるようなニュアンス)
・出雲遠征以降衰退したとされているのに倭寇取締に支障をきたすこと無く、明王朝から国王として認められ続けている
・同じく衰退しているはずなのに朝廷も従二位を授けている。
・死後、倭寇の台頭。倭寇衰退後の日明貿易途絶と国内通貨危機。それによる南蛮人によるボッタクリなど日本経済の打撃。
略奪や労役で軍事施設を作り国土と民を疲弊させただけの地方豪族達が
合戦の結果だけで戦国大名として優秀と言われていますが
大内義隆を評価できる面は多々あります。
山口県は縁の薄い毛利元就を広島から横取りして戦国ブームのネタにしようとしていますが難しいでしょう。
そろそろ大内義隆を再評価させていくべきではないでしょうか?
運が悪いことに、「大内滅亡を予期していた」と各地の武将に後出しで言われた為に不当に世間の評判が低くなっています。
これらは朝倉宗滴や山本勘助の人物像を高めるために講談で利用されている側面もあります。
佐藤藍子的な後出しであることを各方面に抗議していく必要があると思います。
528:人間七七四年
10/07/17 19:29:02 KOxNmZ0D
コピペ張るだけとかバカの極みだな