09/02/18 00:23:30 itqsdqah
手取川合戦は、織田方が総力戦を仕掛けたにもかかわらず、越後に守りの兵を残した上杉に惨敗した戦い。
498:人間七七四年
09/02/18 03:48:19 1B7UTntn
謙信ってわりと、和田城攻めとか書状で負けたとかハッキリ素直に書くよね。
武田や北条や織田みたいに誇張したり歪曲捏造はやらんでしょ。
後世から見たら損害を出さないように退却したり、長期の城攻めを嫌がり退却したりするのは別に負けじゃないだろうと思うケースがほとんどなのに。
499:人間七七四年
09/02/18 10:02:29 hPUl+LjB
合戦ってのは、会合だから、織田方のアリバイは、安土にいたのだから、
合戦が成立しません。
500:人間七七四年
09/02/18 10:21:42 hPUl+LjB
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
柴田は、謙信と戦ってない。
501:人間七七四年
09/02/18 12:01:23 TVzQH7J1
>>497
織田は全く総力戦じゃないぞ。あの時、総動員された国は柴田の治める越前だけ。あとは近江・美濃・伊勢の兵を一部加勢させたのみ。
多く見積もっても全体のせいぜい三割くらいの兵力でしかない
502:人間七七四年
09/02/18 12:16:07 1B7UTntn
しかし動員されたメンバーの顔ぶれを見れば、途中で逃げ出した秀吉を含めてスペシャル級じゃないかね~。
503:人間七七四年
09/02/18 15:20:31 hPUl+LjB
何度言えばわかるんだ。信長公記の記述を無理やり、上杉の合戦にあてはめるな。
信長公記では、手取川を越えて、焼き討ちをした。秀吉が勝手に帰った。
とあるだけ。しかも、8/8のことで、合戦のあったとされる9/23よりも
1か月以上前。
10月には。加賀南部の2城を修築、兵力を駐屯とあり。
加賀進出に成功している。
謙信が、越前北の庄(福井市)まで攻め込んできて、その後上杉軍は撤退とか書いてあるものがあるけど、
大ウソだぜ。
504:人間七七四年
09/02/18 15:37:29 jnDI3ya8
>>503
> 加賀進出に成功している。
それは違うんじゃね?
あの二城はもともと加賀における織田方の橋頭堡じゃなかったか?
505:人間七七四年
09/02/18 15:55:33 hPUl+LjB
上杉に、信頼のおける1次史料は皆無。
軍記に補足してもらってる実態不明の手取川合戦はずかし。
某軍記では、架空の人物の鬼小島が使者として、信長陣営に赴いたが、
織田軍は撤退したとある。合戦はないし、追撃もない。
506:人間七七四年
09/02/18 16:04:19 zqvcCfVa
上杉の捏造史には織田だけではなく周囲の皆さんが迷惑しています
謝って下さい
みんなに謝って下さい
507:人間七七四年
09/02/18 17:22:42 hPUl+LjB
手取川の名前も信長公記由来。
加賀湊川の合戦としなかった理由!!
朝倉宗滴対一揆の合戦とか、全部同じ名前だから。
508:人間七七四年
09/02/18 18:00:30 iUHE/IHj
信長信者は韓国人かよw
明治まで知られていない合戦だったといいながら、
江戸時代の軍記に書かれていたのを認めてるのはどうなんだい。
姉川みたいに戦果捏造できないから無かった事にしたいんですね?
509:人間七七四年
09/02/18 18:04:20 /mzVo15y
釣りレスもスルー出来ないなら板に向いてないゾット
510:人間七七四年
09/02/18 18:50:47 hPUl+LjB
江戸時代の軍記に手取川合戦はないけど。
織田と上杉が対陣したが、夜半のうちに、織田軍が見事に退却したという記述。
これを、歴代古案などのあった派が、織田軍を追撃、越前北の庄まで来た
などというデッチアゲをつくった。
511:仙台藩百姓
09/02/18 19:15:22 7PmT59Om
もまえら大目に見てやれお( ^ω^)
上杉は謙信最強、軍神、と謳っているものの
実際に謙信はまともに合戦をして華々しい戦果を挙げた事がないお
だから手取川の戦いがどうしても必要なんだお( ^ω^)
例え信長と直接対決していなくても「あの織田に勝った」
という実績を上杉は喉から手が出るほど欲しいのだお
織田なんて戦果や戦国の覇者たる実績が腐るほどあるじゃんお┐ (´ω`) ┌
一度の敗戦が増えたぐらい蚊に刺されたようなものだお
ですので上杉に譲ってあげて欲しいお
上杉にはこれしかないのですお
これだけしかないのですお・゚・(ノω`)・゚・。
512:人間七七四年
09/02/18 19:21:45 1B7UTntn
すっかりこのスレでは信長公記は一次資料でつねワロタw
さすが織田厨はアホ。
513:人間七七四年
09/02/18 19:54:09 zqvcCfVa
松川、臼井、手取川、直江状
早く周りのみんなに謝って下さい
514:人間七七四年
09/02/18 20:13:58 COBx8ElG
手取川で謙信にコテンパンに打痛されたのがとても悔しいんだろうな。
515:人間七七四年
09/02/18 20:17:29 WaJEkKq/
>>513さん
いまだに直江状を偽書だと言っているの?
516:人間七七四年
09/02/18 20:33:34 +3jtqsHa
一気にスレのレベルを下げる連中が出てきたな
517:人間七七四年
09/02/18 20:34:44 jnDI3ya8
>>513
臼井はともかく他三点は実情がはっきりしないねえ。
何らかの核はあったんだろうが、虚像で覆われて核が追い出された格好になってる。
518:人間七七四年
09/02/18 21:04:02 hPUl+LjB
愛の兜も由来書がないうえに、直江が愛の兜をかぶっていたという史料すらない。
神社の自己申告だけ。オレは、ニセモノの気がする。後世の偽作っぽい。
519:仙台藩百姓
09/02/18 21:09:50 7PmT59Om
戦果を誇張というより存在自体が曖昧なものばかりと言うのが
いかに上杉の存在が胡散臭いかを如実に現していますおね( ^ω^)
520:人間七七四年
09/02/18 21:11:47 hPUl+LjB
URLリンク(oshimamd.sakura.ne.jp)
徳川の唐の兜は、甲陽軍鑑に出ている。
が、上杉の愛の兜は由来不明の自称。
521:人間七七四年
09/02/18 21:16:16 hPUl+LjB
歴代古案は、徳川実紀の引用書目に名前が見えません。いつごろ、登場したのか?
おそらく、一般公開は明治以降。
歴代古案は、写しであり、原本がないというご都合主義。元ネタを改ざんした
可能性十分。
越後流軍学とか関係?
宇佐美定行、鬼小島弥太郎などの架空人物が多いのも上杉。
武田でも山本勘助1人だけなのに。上杉は贅沢な。
522:人間七七四年
09/02/18 21:30:12 iUHE/IHj
>>521
歴代古案を一度読めよw
523:人間七七四年
09/02/18 22:04:24 zqvcCfVa
>>522
読めよwwって、何がどうなのかちゃんと言わなきゃ
524:人間七七四年
09/02/18 22:57:16 WaJEkKq/
河越の戦いの日付が違うから歴代古案の信ぴょう性は低いっていう指摘あるけど、
写しだから誤りもあるのは仕方ないと思うけど。歴代古案読んだことない人が言
ってるのかもしれないけど、膨大な量の古文書が収録されてるし、一点の史料か
ら全体の信ぴょう性を疑うのはどうかな。かといって手取川の謙信書状がただち
に信じられる書状ということにはならないけど。
その謙信書状では、本人書状なのに文中に「謙信」が何度もでてくるのがおかし
いという指摘もあるけど、自分の名前が出てくるのが一般的でないということな
ら、むしろこの書状が謙信のものという可能性を強めることになる。
謙信は出奔したときの書状には繰り返し「宗心」、若い家臣を戦場から返したと
きの家族あての書状でも「謙信」を繰り返してる。それが謙信の特徴なんだろう
な。ただ、読んだ感じ、日付を軍記物みたいに細かく書いてるのは気になる。
525:人間七七四年
09/02/18 23:18:09 hPUl+LjB
あやしいのは、信長、謙信、両方が後詰で出兵という記述。
ということは、先鋒同士の激突があったと思うが、上杉の将士の名前が不明って
おかしいだろ。織田は信長公記から引用するとして、上杉は?
また、上杉方の持ち城は、越中の河田が城代の魚津城だけだろ。
これも、織田の斉藤新五に敗北して、越中は織田領になる。
加賀の持ち城不明。能登の畠山は上杉方になったといいながら、
城代を七尾城に置いてない。ということは実質、畠山氏が国主のまま。
織田が能登を接収するくだりで、畠山の武将は出てくるが、上杉はない。
どう考えてもおかしいことだらけ。
526:人間七七四年
09/02/18 23:24:59 1B7UTntn
>>525
お前バカだろ…勉強やり直せよ
527:人間七七四年
09/02/18 23:37:13 hPUl+LjB
↑
上杉信者のかく乱に注意。
528:人間七七四年
09/02/18 23:42:34 COBx8ElG
そのくらいで許してやれ。
そのうち手取川なんて川は実在しなかったとか、謙信は架空の人物だったとか、
上杉家は実在しなかったとか言い出すぞ。
529:人間七七四年
09/02/19 00:26:09 GaXMIyTc
ねらー相手ならこの程度の史料調査で議論が出来るとか思ってるんだろーな。
頼むから研究者相手に手取川不在論を出せるまで理論を固めてから出直してくれ。
530:人間七七四年
09/02/19 00:38:36 c4c2rpKy
合戦自体はあったと”推測”できるけど、では合戦について書かれている謙信書状ほどの戦果があったかは謎ってことだろ?
531:人間七七四年
09/02/19 00:47:11 VvjlN5LT
>>504
勝家は堀江が一揆と共に蜂起したとして討ち取って鎮圧してるからじゃね
謙信が大聖寺以外に北の庄の和田本覚寺など一揆勢を上杉側とした解釈が
越前まで攻め込んだと飛躍したのが手取川合戦なんじゃねーの
532:人間七七四年
09/02/19 01:21:36 mm1W3rq9
>>525
七尾城に鯵坂長実
能登の行政は上条政繁と遊佐盛光
越中増山に吉江景資を配置してるのすら知らないのwww
飯田や島倉らに能登珠洲郡内の知行を宛がったり
能登一宮の社領を三宅に預けたりして配置を決めてるし。
533:人間七七四年
09/02/19 08:15:09 rYSSpARv
>>532
まぁまぁ、
とにかくID抽出してみてみな。 ID:hPUl+LjB
研究本の一冊も読んでないバカだから。近年のアンチ作家頼みで
史料が何かもわからない典型的な2ch型織田厨ね。笑ってあげよう。
534:人間七七四年
09/02/19 13:01:34 TJ6r4uUj
>>531
どうやら、一揆を上杉方とみなして、謙信が越前まで攻め込んだという
ストーリーになっているんだな。
535:人間七七四年
09/02/19 13:14:50 TJ6r4uUj
URLリンク(www.k5.dion.ne.jp)
一揆の坊官が上杉家臣はおかしいですね。
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
しかしそれらのなかには、戦国期の当該地域領主の追慕・顕彰のためや、自家の家格を高めるための由緒書的なものなど、江戸期に偽作されたものも多い。今川家分限帳や鉢形(はちがた)北条家臣分限録などはその代表的なものである。
536:人間七七四年
09/02/19 13:24:12 KFPVbZ0W
被官化しただけだろ…
537:人間七七四年
09/02/19 14:08:03 TJ6r4uUj
江戸期に偽作されたものも多い。
一揆の坊官が上杉謙信の家臣のわけねえよ。
主君は本願寺なんだから。
538:人間七七四年
09/02/19 14:10:57 KFPVbZ0W
北陸一向一揆は本願寺が主君だそうですw
539:人間七七四年
09/02/19 14:20:15 GaXMIyTc
謙信直筆の家中一覧は現存してこの目で見たんだが、
このような超一等史料まで贋呼ばわりするんならこれはもう本物の電波だなw
540:人間七七四年
09/02/19 15:42:11 TJ6r4uUj
どっちにしろ、一揆が上杉の家臣のわけねえだろ。
一揆と上杉の共同軍事行動は存在しないし。
織田軍と一揆は交戦したが。謙信とはない。
541:人間七七四年
09/02/19 18:15:35 8IPK018y
一向宗が加賀を死守したお陰で謙信は七尾を攻略できたわけだから、共同作戦といえるんじゃないか
542:人間七七四年
09/02/19 19:25:25 +2+dXCN6
生暖かく見守ってやれ。
最近、架空戦記本が数多出てるからな。自分の脳内戦記と歴史が違うと
火病起こすんだろうな。
あまり追い詰めると「戦国時代は実は存在しなかった!」とか言い出すかもな。
543:人間七七四年
09/02/19 19:38:27 SvJ7f5t2
実在する手取川合戦の内実はどうなの?
544:人間七七四年
09/02/20 01:54:59 QKSRN6Jd
手取川合戦は、ないよ。
545:人間七七四年
09/02/20 05:08:12 vw56zTcL
本願寺と加賀一揆衆は思いっきり対立しまくってますが?
そもそも主君ってw
まったく一揆の本質を理解してないですね。本願寺と一揆衆に主従関係なんてないから。
しかも坊官との対立の和解斡旋すら謙信がやってるし。
546:人間七七四年
09/02/20 09:13:00 YwTkuz8E
信野暮厨を煽るのはやめましょう
547:人間七七四年
09/02/20 09:55:30 PMfFDTfF
北陸一揆は坊官の支配を拒否しても
顕如を宗主と仰ぎ最後まで石山に物資や人員を送り続けているが
何が新説でも出たのか
548:人間七七四年
09/02/20 12:56:22 QKSRN6Jd
手取川合戦は、ないよ。
上杉の捏造。
549:人間七七四年
09/02/20 13:58:11 gFTPQUtE
そうなんだ。天下の山内殿は嘘をついてござったか。
550:人間七七四年
09/02/20 16:17:10 Arbbdt3y
>>547
坊官と国人層の仲はそれほどよくは無かったけど、本願寺自体には忠誠を尽くしてるよな。
加賀は天正8年に平定されるまで裏切りらしい裏切りは無かった。こういった例は珍しい
551:人間七七四年
09/02/20 18:50:35 QKSRN6Jd
朝倉宗滴は、一向一揆を鎮圧した名将と朝倉始末記は言ってるが。
信長が朝倉を討伐して、越前平定後に、また一揆が蜂起していることから、
朝倉が一揆を内包して共存していたのは明白。
家康のように、一向一揆を完全解体したわけではない。
一揆の利権を公認して共存していたのが実態。
越前、加賀、越中に関しては。
552:人間七七四年
09/02/20 19:15:06 B3QLZqfP
越すに越せない手取川
553:人間七七四年
09/02/20 19:27:47 AW9BGGM0
>>551
んで、一日に二回も言った手取川捏造説の根拠は?
554:人間七七四年
09/02/20 19:47:57 QKSRN6Jd
鬼小島弥太郎は、軍記に謙信の側近として登場しますが、架空といわれています。
宇佐美定行といっしょ。
側近が、架空の人物だらけの上杉謙信。
また、景勝の側近の直江兼続に関する信頼のおける1次史料は皆無。
555:人間七七四年
09/02/20 21:02:24 L8o6ZC/i
↑
あっそ
556:人間七七四年
09/02/20 22:51:44 QKSRN6Jd
もまえら大目に見てやれお( ^ω^)
上杉は謙信最強、軍神、と謳っているものの
実際に謙信はまともに合戦をして華々しい戦果を挙げた事がないお
だから手取川の戦いがどうしても必要なんだお( ^ω^)
例え信長と直接対決していなくても「あの織田に勝った」
という実績を上杉は喉から手が出るほど欲しいのだお
織田なんて戦果や戦国の覇者たる実績が腐るほどあるじゃんお┐ (´ω`) ┌
一度の敗戦が増えたぐらい蚊に刺されたようなものだお
ですので上杉に譲ってあげて欲しいお
上杉にはこれしかないのですお
これだけしかないのですお・゚・(ノω`)・゚・。
松川、臼井、手取川、直江状
早く周りのみんなに謝って下さい
上杉の捏造史には織田だけではなく周囲の皆さんが迷惑しています
謝って下さい
みんなに謝って下さい
557:人間七七四年
09/02/21 08:57:56 V7QswJyU
はじめてこの板にきてたまたま読んじゃったのですが・・・
患者さんてどこにでもいるのね
558:人間七七四年
09/02/21 09:03:13 CwdkU5+o
松川も手取川も誇張はあるにしても「なかった」と言える根拠出されてないね。
554なんて全く手取川に触れず、直江の一次史料が皆無などとトンデモ発言。
559:人間七七四年
09/02/21 11:53:11 tSF9SM8L
もまえら大目に見てやれお( ^ω^)
上杉は謙信最強、軍神、と謳っているものの
実際に謙信はまともに合戦をして華々しい戦果を挙げた事がないお
だから手取川の戦いがどうしても必要なんだお( ^ω^)
例え信長と直接対決していなくても「あの織田に勝った」
という実績を上杉は喉から手が出るほど欲しいのだお
織田なんて戦果や戦国の覇者たる実績が腐るほどあるじゃんお┐ (´ω`) ┌
一度の敗戦が増えたぐらい蚊に刺されたようなものだお
ですので上杉に譲ってあげて欲しいお
上杉にはこれしかないのですお
これだけしかないのですお・゚・(ノω`)・゚・。
松川、臼井、手取川、直江状
早く周りのみんなに謝って下さい
上杉の捏造史には織田だけではなく周囲の皆さんが迷惑しています
謝って下さい
みんなに謝って下さい
560:人間七七四年
09/02/21 11:55:36 tSF9SM8L
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
561:人間七七四年
09/02/21 11:59:46 oihtB2K8
謝罪・・・ついにどこかの国のようなことを言いだした仙台藩百姓
562:人間七七四年
09/02/21 12:13:43 tSF9SM8L
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
563:人間七七四年
09/02/21 16:01:48 5mj78FQy
ついに火病の発作w
「謝罪を求める」だってさw半島思考が炸裂の織田厨w
564:人間七七四年
09/02/21 17:42:24 9njLBOwe
Wikipediaの手取川の戦いはこの後どうなるの?
565:人間七七四年
09/02/21 18:02:22 n03iX7ZE
全学者>>>>>>>>2ちゃん在住の百姓と約一名の信長厨
矢田みたいな上杉研究の権威だけでなく、織田研究で名高い谷口をはじめ、
学者で手取川否定説は皆無。
まずはネットじゃなくて学者相手にしろよw
566:人間七七四年
09/02/21 19:32:26 5mj78FQy
謝罪の要求の次は生活保護の要求だな。
567:人間七七四年
09/02/21 20:20:10 GmhfIGM9
直江状は昔は桑田忠親とかに偽作とされたのが、今では内容はそのままでないにしても
家康を怒らせる内容の直江書状は実在したとされてるのに、上杉アンチは20年くらい
研究史が遅れてるんじゃないのかな。
568:人間七七四年
09/02/21 21:19:15 9njLBOwe
否定論を展開している学者は居るんですか?
それとも信憑性のないアンチの遠吠え?
569:人間七七四年
09/02/21 21:59:38 7fMsiRna
学者で否定論を出しているのは一人もいないね。
ネット以外で否定している奴はいないよ。
570:人間七七四年
09/02/21 22:37:06 tSF9SM8L
学研の歴史群像の上杉謙信の手取川の合戦のところには、なかったという疑惑
が記述されている。歴代古案の書状1通のみ、という記述も同じ。
よって、なかったと指摘している人はいます。
571:人間七七四年
09/02/21 22:50:46 tSF9SM8L
また、日付がおかしいという指摘も。
あて先は、後から、加筆したものだという指摘も。
やはり、この書状は改ざんの疑惑が。
572:人間七七四年
09/02/21 23:07:53 7fMsiRna
>>570
最新の新歴史群像シリーズじゃ、なかったなんて書いてないだろう。
どの人の文章をさして言うんだい?
引用してみな。
573:人間七七四年
09/02/21 23:50:06 tSF9SM8L
最新の新歴史群像シリーズですけど。
本屋に売ってますよ。読んでください。
574:人間七七四年
09/02/22 00:06:57 kfRrW2o+
超素人向けの歴史群像シリーズをソースにするとかアホくせぇwww
575:人間七七四年
09/02/22 00:33:22 Gjq7lg+3
最新の新歴史群像シリーズですけど。
本屋に売ってますよ。読んでください。
576:人間七七四年
09/02/22 06:46:29 QhgDMXVX
純粋に質問なんだがその学者さんたちは「手取川合戦」の内容はどうだったと言ってるんでしょうか?
577:人間七七四年
09/02/22 08:12:47 sSrggcnq
>>576
ハッキリと「無○った」と言いたいが、新潟県民とかが火病るから言えないでいる
578:人間七七四年
09/02/22 08:16:50 zWyuelod
「あった」というと、このスレのように信長厨が以下略
579:人間七七四年
09/02/22 08:23:13 QhgDMXVX
>>578
それでもいいから具体的な会戦内容をお願い。
580:人間七七四年
09/02/22 08:38:12 6KdmaJxV
歴史群像シリーズも書いてる人によるよ。
あれは研究者じゃなくて歴史作家が書いてることが多い。
歴史作家でも別にいいんだけど、根拠なかったり、軍記物とか
俗説をうのみにしてる場合も多い。
というか史学からいけば手取川があったかどうかはどうでもよく、
それがどういう影響をもたらしたかが大事なので、戦いの有無を
まじめに考察してる人はいないと思う。ただ、歴代古案を信頼の
おけない史料としてるのはあまり聞いたことがない。wikiの手取
川の戦いの項に書いていある歴代古案批判への説明は>>524の通り。
581:人間七七四年
09/02/22 09:33:07 sSrggcnq
>>579
無いよ
紀州徳川が甲州軍学に対抗して宇佐美定祐に上杉軍学をまとめさせた時に歴代古案にこそっと捏造を入れただけ
上杉軍学つえーんだぜってね
それだけの事
簡単に言うと
「上杉さんは織田さんを刺したんだぜ
え?織田さん?うん、死んでないよ、ピンピンしてる
目撃者?いないよ、うん、一人もいない
でも見てよこのナイフ、これと同じナイフで上杉さんは織田さんを刺したんだぜ
え?このナイフは俺が今朝ドン・キホーテで買ってきたんだけどさ、でもこのナイフが証拠さ」
って感じだね
それを上杉厨がうるさいから
「んじゃ、小競合いくらいはあったのかもね」
って妥協案を出してあげてるのに
「いーや、あった!謙信つえー」
って奴がいるからハッキリと「無○った」と言いたくなる
582:人間七七四年
09/02/22 10:19:28 zWyuelod
宇佐美一連の偽造文書や軍記を見たことあるのか?
歴代古案の信憑性ある書状写と比較すれば一目瞭然だが、
手取川を捏造するほどの知識や能力などないぞ。
もしそんなことをやるぐらいなら、軍記にも手取川のことを書いてますわな。
583:人間七七四年
09/02/22 11:02:07 sSrggcnq
>>582
宇佐美が捏造したなんて言ってないんだが
>もしそんなことをやるくらいなら、軍記にも手取り川のことを書いてますわ
そうだね。無かったんだから宇佐美も軍記に書かなかったんだろうね
本当に手取り川があったのなら喜んで書いてただろうね
584:人間七七四年
09/02/22 11:22:32 kfRrW2o+
>>580
そもそも川越野戦は無かったと言うより
前後に川越周辺でたびたび小競り合いを繰り返していたものを、後世に混同して一つの戦いにしてしまってるだけで(国府台の戦いも同じように混同があった)
日付がばらばらなのはその証明。
軍記ではさらに川越夜戦に脚色された。
>>581
紀州藩が上杉マンセーで捏造したとするのは、あくまで俗説であり、明確なソースは存在しない。
585:人間七七四年
09/02/22 13:21:58 Gjq7lg+3
織田信長、豊臣秀吉の本とかには、手取川の合戦は載ってない。
織田の記録にはないから。
586:人間七七四年
09/02/22 13:46:20 DgA8H85f
もし手取川の合戦があったのなら、秀吉の本には残っていてもよさそうなのにね
秀吉は先見の明があったので、早々と勝手に撤退したとかね
587:人間七七四年
09/02/22 14:01:29 Gjq7lg+3
絵本太閤記には、越前に上杉が押し寄せるという風聞だけで、
一向に来ないので、他の敵に備えるために帰ったとなっている。
当然、合戦はない。上杉謙信自体、北陸に出兵してないのでは?
588:人間七七四年
09/02/22 14:28:26 Gjq7lg+3
裁判やれば、はっきりする!
織田=ない。第3者(目撃者)=ない。上杉=ある。
公判が維持できない。
証拠が、書状の写し1通=紙切れ1枚って。。。。。
589:人間七七四年
09/02/22 14:32:24 kfRrW2o+
織田厨は歴代古案を必死に否定しようとして失敗したねw
歴代古案を見たこともないだろw
信長公記なんて一次資料でもないのに必死にマンセーして笑える。
590:人間七七四年
09/02/22 14:46:33 Gjq7lg+3
信長公記は、徳川幕府公認ですけど?
591:人間七七四年
09/02/22 14:52:51 zWyuelod
信長公記が「聖書」や「人間革命」なんだね
このかたには。
592:人間七七四年
09/02/22 15:32:14 mQpxG4rP
裁判・・・謝罪の要求の次は賠償の要求か?どこかの国と同じだな。
こいつアンチ上杉スレ立てまくってるので注意。
593:人間七七四年
09/02/22 16:38:13 Gjq7lg+3
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
594:人間七七四年
09/02/22 19:05:01 G4Q8fuEt
幕府公認だったら藩かんぶとかもじゃないのか?
正史=史実じゃないからな。幕府公認というのがあるのかどうかわからんが。
太田牛一は家康を「家康」って書いたりしてる。
595:人間七七四年
09/02/22 19:40:34 Gjq7lg+3
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
596:人間七七四年
09/02/22 20:10:09 DgA8H85f
NHKも相当なアホだな
597:人間七七四年
09/02/22 21:00:49 MEMh6Mxk
>>564
wiki手取川の戦いの項目を見た。
これは2chの功績なのかはたまたNHK大河での功績なのかは知らないが、他の戦国武将ファンが羨むくらい確り書かれてるね。
もっとも折角だから、もう少し頑張って貰いたいわ。
信長公記では「添川・手取川打越し」って書かれてるよね。
「>自らも(信長)3万の軍勢を率いて出陣した。」これはどうなの?信長自身は安土から動いてないと本で読んだ。
史料の考察だけど、「>歴代古案は、江戸時代に米沢藩が行った修史事業による古文書。」これも違うね。
折角だからもう少し歴代古案自体の考察があっても良いんじゃないかな?
あと秀吉の無断撤退は公記に書かれてる話だけど、これだけヤンチャやった秀吉のその後の足取りを少し調べるべき。
上杉が主張する湊川合戦が9月23日夜中で、千人は打ち取り捕まえその他大勢も川で溺死。
っでやんちゃやった秀吉は9月27日には信長から中国方面の司令官に取り立てられてる。
信長と言えば、上杉より寧ろ松永の動向について精力的に動いてる。
おいおい幾ら信長軍に無尽蔵の兵があるとはいえ、上杉の主張通りなら北陸方面の柴田が全滅状態(死傷率から言って)なのに余裕過ぎるだろ(苦笑
598:人間七七四年
09/02/22 22:08:21 c+veL/H8
大河どうだったん?
599:人間七七四年
09/02/22 23:02:33 Gjq7lg+3
桶狭間で、今川軍が戦死者が、2500と言われてる。
首実験で、名前もわかっている。義元自身もだが。
が、上杉は、織田の参戦武将不明、討たれた武将の名前不明。
千人以上戦死だってのに。
600:人間七七四年
09/02/22 23:29:48 c+veL/H8
桶狭間は突っ込んだ相手が本陣だからねえ。
手取川は殿を千人くらい打ち取ったとかいうなら
打倒なんじゃ。ろくに武将しんでなくても。
601:人間七七四年
09/02/22 23:41:03 Rmb46VOl
何で信長があたかも出陣したような演出したんだよ大河ドラマは
602:人間七七四年
09/02/22 23:42:08 yMKFPsr1
>>570
>学研の歴史群像の上杉謙信の手取川の合戦のところには、なかったという疑惑
>が記述されている。歴代古案の書状1通のみ、という記述も同じ。
>
>よって、なかったと指摘している人はいます。
学研の歴史群像・・・・・
ゆとりID:tSF9SM8L君
カワイソウwwwwwwwwwww
603:人間七七四年
09/02/22 23:56:14 Gjq7lg+3
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
604:人間七七四年
09/02/22 23:56:37 sRh/SEiX
>>598
大河は大河スレに行くといいよ。大荒れになってるw
簡単に言うと
「織田軍3000丁の鉄砲を、雨の日に夜襲をかけるという画期的な作戦で破った
謙信の前に、織田軍は千人以上の死者を出して惨敗しました。しかし義に厚い
謙信は、それ以上敵地を攻めようとしませんでした」
以上、長澤まさみが全部セリフで説明します。
>>599
川中島四回戦も上杉側は「討たれた武将の名前不明」ですね。
じゃ上杉が勝ったの?合戦なかったの?
そう言えば川中島も「討たれた武将の名前不明」の側が戦線離脱して
以後その土地に戻れなくなってましたねw
合戦がなくても戦線が縮小しちゃう事って珍しくないんですねw
605:人間七七四年
09/02/23 00:01:36 GYrpBKsu
>>604
戦国無双のような台詞だ
606:人間七七四年
09/02/23 00:35:58 0QW78+Hf
なぜそれほどの戦果でありながら、織田側はもちろん、上杉側の軍記物にも手取川の勝利話が出ないのだろうか?
607:人間七七四年
09/02/23 00:41:47 DSkyL3oe
>>604
そんな突っ込みやすいとこ突っ込むなよ揚げ足取りも良いとこ。
だいたい>>599も良く考えろ、死者2500人って何?と思わんかね普通。
常識的に考えて死者が多すぎるだろう。
今川本陣5000、織田軍2000の一刻程度の野戦で今川方死者2500とか無いから。
人間って簡単に死ぬけど、実際問題簡単には死なないんだよ。
阪神大震災で100万人都市が壊滅して即死者5000人程度だぜ?
広島原爆で50%、長崎で30%だ。
もうね手取川合戦の有無を論じてる時に、論理的に矛盾したこと言って敵に餌やってどうするの?
608:人間七七四年
09/02/23 02:08:18 KlFyhXgV
>>572
新歴群のは谷口克広氏。
退却時に追撃されて逃げるだけで、みすみす名をなさしめたと。
609:人間七七四年
09/02/23 02:57:51 Z5XR32md
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
610:人間七七四年
09/02/23 03:02:41 On8NLHCL
>>609
捏造はやめれ
611:人間七七四年
09/02/23 04:22:20 DSkyL3oe
>>608
おいおい大丈夫なの?なんか段々可笑しくなってきだしたよ?
谷口氏は中学生教師で信長研究で著書も出されてるが、手取川合戦を肯定はしても否定はしていないよ。
飽く迄もあったが小規模戦って事でしょ?
612:人間七七四年
09/02/23 04:29:03 KlFyhXgV
ああ、俺別人ね。誰が書いてるって書いてあったから丁寧に教えてあげただけ。
613:人間七七四年
09/02/23 04:29:54 DSkyL3oe
ここで議論してる人は3通り居るね。
①手取川合戦は無かった
②手取川合戦はあったが小規模であった
③手取川合戦は有った
614:人間七七四年
09/02/23 04:33:57 DSkyL3oe
俺は①派だが、俺が思うのは
・謙信自身が9月23日に手取川まで出向き織田軍と遭遇し戦ってはいない
・織田軍が9月23日に手取川付近で戦闘をし、千を越す死者を出し全滅(先鋒の柴田隊にとって千という数字はそのくらい大きな数字)したような事実はない
・信長自身の認識として織田軍が上杉軍と遭遇し「負けた」とは思ってはいない
・歴代古案のあの一文は偽書状である
(何で日付けが19日なのに23日の事を書いてるのよ?えっ棒一本間違える?書状に付く日付は文中のとは比べ物に成らないくらい大事なものだぞ?そんなもん
いい加減で良いなら誰も署名と一緒に日付け書くかよ。普通に『廿九』と書く)
だいたい上杉軍と直接当たってそんな大敗犯したら、いくら幾らなんでも丹羽を北陸から呼び戻して松永攻めをさせるような事はしないだろJK
(丹羽は九月十日の時点では柴田共に北上を続けて折り連名の書状も発している、信長が大和へ軍を発したのが9月29日、10月10日には松永は自害、丹羽の大和従軍は公記にもあり)
615:人間七七四年
09/02/23 05:07:21 FRMskouh
>>614
何度も反論されたことばかりじゃん。
> ・歴代古案のあの一文は偽書状である
むしろ偽なら日付ぐらいちゃんと記すだろw
616:人間七七四年
09/02/23 09:03:59 sLF+Nhoz
>>607
戦闘部隊だけで当時の軍隊は組まれてない。武将の食事などの世話や郷土への連絡のために家人が数人づつ付いてきている。戦闘兵3割に、その他が7割と言われている。戦闘兵3割の死亡率が高くなければ軍隊は崩壊しない。
氾濫した手取川を越えて上杉軍は追撃するリスクは避けた以上、先に逃げ出し渡河した兵は生き残ってるだろう。
>>609
完璧に正確な信長公記←これ(笑)とこですか?
617:人間七七四年
09/02/23 11:09:00 Brp5Tfmk
>>615
>むしろ偽なら日付ぐらいちゃんと記すだろw
んなこたない製作者が手持ちのソースと妄想で作る分
偽作のほうが圧倒的にミスが多いよ。
618:人間七七四年
09/02/23 11:23:22 GR+MwjC2
偽書状に多い間違いは、手近に無い諸史料や実際の地理との相違が大きかったり、
時代考証が誤っていたりするところにあり、
書状が自爆的に間違えているというのは聞いたことがないな。
619:人間七七四年
09/02/23 11:51:11 yMnkMMaS
>>608
それはなかったと言ってることになるのか?
620:人間七七四年
09/02/23 11:51:39 Brp5Tfmk
書状の写しといわれる物な、書状自体は無い
621:人間七七四年
09/02/23 12:25:59 CNS+968w
天正5年9月27日に信長は美作の江見為久宛てに書状を送っている。「羽柴筑前を中国方面に派遣するので、それに協力するように」
との内容だ。ここで重要なのは、書状が出された日が手取川合戦のあった日から僅か四日ほどしか経っていないということ。「合戦で大敗した」
という情報が入っていたら、この様な内容の書状を書くであろうか。不可解である。更に言うと、美濃の信忠の軍も手取川の合戦の直後に松永久秀の
討伐のために大和まで出陣している。上杉勢を警戒しているような行動は皆無といってよい。手取川合戦が織田に与えた影響など微々たる物であったといえる
622:人間七七四年
09/02/23 12:45:43 hfOr/NKF
まあたった一つの本物かどうかも分からない書状だけでなく
その前後の史料も含めて総括的に判断しないとダメだろ
623:人間七七四年
09/02/23 13:05:30 DSkyL3oe
>>615
おいおい勘違いすんなよ。
謙信クラス署名入りの日付け書状は最重要機密だぜ?
書状一つで国が軍が動けば滅ぶ事がある、伊達の書状問答とか知ってるだろう?
ましてや戦況報告を速達で出すような書状の日付けを間違うような事はない。(これが過去の思い出話なら有り得るだろうが)
なら何故後年に書かれた偽書状は日付けを間違うか?と言えば簡単な事で、『閏月』の関係だよ。
ご存じのように戦国時代当時のカレンダーは各国バラバラで統一されたのは後年だ。
だから日付けの誤りは可なり重要要素なのに、例えば>>608の谷口氏の文では「>日付けは29日の誤りらしい。」と書かれてる。
当然信長研究者の氏もその問題点を他の研究者と議論したんだろう。
この「誤り”らしい”」という「らしい」は恐らく「らしい(苦笑」と入れたかったと思うよ。
こんな重要問題も「これは日付けの誤りです」「宛名は後筆で日付けも後筆です、あっでも署名は本物ね」(←いや、だから書状自体が二次、三次の写しなんだが…)って言う謙信研究者が多いんだろう。
624:人間七七四年
09/02/23 13:15:35 DSkyL3oe
失礼、「>(これが過去の思い出話なら有り得るだろうが)」これは違う。
例え過去の話で文中の日付けを間違う事があっても、発給した日付けを間違いうる事はないな(笑
とにかく大名が味方に戦況報告をするのに、発給した日付けを間違うような事があれば書いた右筆は切腹ものですよ。
625:人間七七四年
09/02/23 15:32:15 sLF+Nhoz
前にも暦が各地域で違うって書かれて反論できなかったくせに、また蒸し返しか?
京と尾張の暦が違くて信長がどちらが正しいか聞いたり
北条は三島暦を使ってたらしいこと
江戸の秀忠が上洛するのに日付がめちゃくちゃで困って、駿府で家康が使ってたの参考にして上洛したりとバラバラ。
626:仙台藩百姓
09/02/23 17:00:50 43hf/F+u
長尾信濃守には、嗣子はなく、上田へ嫁いだ娘しかいなかった。この系統が勝手に山内殿(関東管領)を名乗り、米沢藩を
起こしたに過ぎず、藩祖が依頼して謙信という虚像を捏造したに過ぎない。しかし、江戸時代よりの芝居の種が通例になってしまって
いるのは嘆かわしいものである。
627:人間七七四年
09/02/23 17:28:58 GR+MwjC2
>>623-624
君はログが流れるたびに論破されたことを繰り返してるなw
謙信書状写は日付以前の問題があって「信長」を「信玄」と誤記しているんだがw
文体や文字の使い方は謙信の他の書状とよく似ているし、
状況説明も空想の産物とはかけ離れたものじゃない。
どうしてもあれを完全捏造のものだとしたい(手取川があるい嫌)みたいだけれど、
捏造する労力と危険の意味があるのかね?
かつて上杉家(吉良、宇佐美ら)は幕府に正史の提出を求められ、捏造だらけのものを出してこれを睨まれたところ
幕臣の入れ知恵で事なきを得た経緯がある。この時提出した軍記まがいの正史は歴代古案とは似ても似つかない低質な出来で
高度な史料集の歴代古案とは根本から異なり、厳格性が強く求められた学術調査の結果であるとわかる。
学術的良心がなくては作りえない史料集だが、それを自ら冒して危険な綱渡りを繰り返し、
そして出来たのが信長みたいな弱将相手の微々たる戦果とは割りに合わず不可解としか言いようがない。
君が何としてもこの書状を偽書にしたいのはよくわかるけれどね。
628:人間七七四年
09/02/23 18:04:02 6/oVdXWr
確かに捏造だとしたらしょぼいな。
手取川の戦果。
信長の姉川なんか「野も畠も朝倉浅井の死骸ばっかで一々首なんか数えてらんないぜ。
これで江北は平定したも同然だな!」とか言ってるし。
最終的には朝倉浅井合わせて一万四千以上討取って浅井長政も戦死とかいう凄い事になってるし。
誇張というならでかい戦果を出すもんだよね。
信長自身も江戸時代にそれほど高い評価じゃなかったんだし
捏造しても得になったとも思えないし。ましてこの程度の戦果じゃ。
629:人間七七四年
09/02/23 18:27:50 On8NLHCL
とりあえず手取川合戦がなかったと主張してる学者はいるの?
2ちゃんねらーじゃなくて
630:人間七七四年
09/02/23 18:42:05 Z5XR32md
手取川合戦単独の研究本すら発行されていない。謙信本に一部おまけで載ってるだけ。
桶狭間のような注目度がないから。
631:人間七七四年
09/02/23 18:53:20 GR+MwjC2
>>627
日本語がおかしかったので訂正。
>状況説明も空想の産物とはかけ離れたものじゃない
>状況説明も空想の産物のように周辺情勢とかけ離れたものじゃない
>高度な史料集の歴代古案とは根本から異なり、厳格性が強く求められた学術調査の結果であるとわかる
>高度な史料集の歴代古案とは根本から異なり、歴代古案は厳格性が強く求められた学術調査の結果であるとわかる
>>628
本当に捏造なら、勝家、秀吉、光秀の誰かに重傷を負わせるぐらいやりそうだよね。
>>630
桶狭間みたいな重要な合戦は戦国時代にいくつもない。
姉川の合戦だって単体で研究本あるの?
632:人間七七四年
09/02/23 18:54:17 6m+Ay90r
>>630
それは当然。桶狭間は合戦の経緯はおまけで、信長が飛躍するきっかけに
なった社会的に大きな事件。歴史学上も研究価値がある。
手取川はあったかなかったかは別にして、結局、史学の世界ではさほど大
きな価値のない合戦。だから単独の研究本が出てないとかいうのはこの問
題には関係ない。史料も少ないし、研究するもの難しい。
633:仙台藩百姓
09/02/23 18:59:16 43hf/F+u
手取川どころか上杉謙信という出羽米沢藩の捏造物を大河に登場させるNHKの良識も
甚だ疑問である。
634:人間七七四年
09/02/23 19:09:32 Z5XR32md
謙信最強を捏造した宇佐美の軍記にも、手取川がないってことは、
手取川合戦があったという認識がなかったのだろう。
635:人間七七四年
09/02/23 19:12:24 ec+FGFI+
どうした?百姓…何かあったのか?言ってみろよ。相談にのるぞ。
636:人間七七四年
09/02/23 19:57:16 m6atlYsU
>>633
いつもと口調が違うね。
謙信が米沢藩の捏造だとしたら織田・北条・武田をはじめとする
周辺諸国の書状や記録に謙信が大量に登場するのはなんなんだろう?
637:人間七七四年
09/02/23 20:04:44 +rvGLvNP
これが噂の似非百姓か?
638:人間七七四年
09/02/24 06:32:06 wQIbNqVm
大河ドラマでもやっていたじゃん手取川の合戦。
おまけにラストのコーナーでも石碑とか狂歌を交えて紹介。
歴史考証担当の学者、二木謙一も認めたって事?
639:人間七七四年
09/02/24 08:40:52 Pv2oS10Z
歴史の事象を認める認めないなんてのは学者としてはナンセンス。
例えば大化の改新が今言われているような事が、実際にあったどうかなんてのは解らない。
だけど昔からそう言われてる、そういった記録を元に歴史が作られた事実は事実としてある。
という事が大事であり、実際はどうであったかなどと言うのを歴史家は推測しないのが鉄則。
640:人間七七四年
09/02/24 09:14:49 LZtLbYb0
>>619
いわゆる手取川会戦はなかったということだろう。
手取川でなんらかの戦闘があり、上杉方が勝利したって方向性に異論を差し挟んでる
学者・研究者はほほんどいないだろう。
641:人間七七四年
09/02/24 09:35:05 5rfS8NQ0
>>638
時代考証:小和田哲男
風俗考証:二木謙一
642:人間七七四年
09/02/24 14:19:34 q7cGc3TZ
加賀地元の史料調査が進まないことにはこれ以上合戦の内情を図り知ることは出来ないね。
643:人間七七四年
09/02/24 14:43:34 Al2RoeYz
石碑とか狂歌は、
明治以降の捏造。上杉の記録にない。
644:人間七七四年
09/02/24 14:49:31 Klrpz9NE
マジレスするとだな
当時手取川という名の川なんて無い
645:人間七七四年
09/02/24 15:50:56 Al2RoeYz
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
646:人間七七四年
09/02/24 15:57:43 T47txlsh
ID:Al2RoeYzはマゾなんでしょうか。羞恥プレイを自ら率先してやっておられる。
647:人間七七四年
09/02/24 18:00:23 Al2RoeYz
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
648:人間七七四年
09/02/24 18:50:22 JiAsgBlm
加賀松任城を上杉軍が攻めたのは確か
当時の加賀一向一揆は上杉に味方していたので松任城は織田方だったと推察される
松任城は陥落し、一向一揆軍が占領して3年後に柴田勝家に奪回されるまで支配が続く
649:人間七七四年
09/02/24 20:34:01 Al2RoeYz
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
650:人間七七四年
09/02/24 23:07:24 CN0WDYKb
本当に嘘も100回言えば…を実践し始めたな。
ここのコピペ厨
651:人間七七四年
09/02/24 23:47:45 T7y0wmOD
>>ID:Al2RoeYzさんの夢が叶いますように♥
652:人間七七四年
09/02/25 00:46:38 6QK+GAJ4
アクエリアス
653:人間七七四年
09/02/25 02:35:23 2mm9l6qv
4万も大軍を派遣して戦わずに逃げかえったほうが無様なのにねww
富士川の合戦の平家軍を笑えないじゃんww
能登を平定した謙信がわざわざ南下して松任城を落した所をみると
信長と戦うつもりだったと思う
654:人間七七四年
09/02/25 02:43:00 6nrKOzSA
松任城に上杉軍がいたなんてことは、信長公記に書いてない。
上杉謙信自体、北陸に出兵した事実はない。
信長公記には、越中の河田が、上杉家臣として出ているだけ。
柴田・佐久間は、加賀の一揆と交戦しており、謙信と交戦した事実はない。
655:人間七七四年
09/02/25 02:50:08 akLyPkkJ
過去の積み重ねや研究を否定するなら根拠がなくてはいけないが
手取川がなかったという新しい事実がでないかぎり意味ないんだよね
史学的には手取川を否定できないし、する学者はいない
656:人間七七四年
09/02/25 02:59:53 DNIsU6as
ID:Al2RoeYz
必死になる奴ワロス
馬鹿に見做されると気付かんのかw
657:人間七七四年
09/02/25 03:02:22 6nrKOzSA
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
658:人間七七四年
09/02/25 03:14:48 VQ5TKVje
>>655
無かったとする根拠よりも
あったとする根拠のほうがショボ過ぎるわけだが
織田の記録に無い
上杉の記録にも無い
その他の記録にも無い
地元の記録にも無い
1の話を10に膨らませるような軍記物にも登場しない
唯一の手掛かりの書状も現存しない
否定する学者がいない?
みんな手取川を語る一方で根拠が一通の書状しかない事は述べる
それくらいにしとかないと上杉ファンの嫌がらせや抗議が殺到するからだろ
俺らと違って学者さん達は個人情報丸出しなんだから
659:人間七七四年
09/02/25 03:24:59 akLyPkkJ
>>658
妄想ですか?
660:人間七七四年
09/02/25 03:36:54 VQ5TKVje
>>659
うん妄想
だからも一回書いちゃう
無かったとする根拠よりも
あったとする根拠のほうがショボ過ぎるわけだが
織田の記録に無い
上杉の記録にも無い
その他の記録にも無い
地元の記録にも無い
1の話を10に膨らませるような軍記物にも登場しない
唯一の手掛かりの書状も現存しない
否定する学者がいない?
みんな手取川を語る一方で根拠が一通の書状しかない事は述べる
それくらいにしとかないと上杉ファンの嫌がらせや抗議が殺到するからだろ
俺らと違って学者さん達は個人情報丸出しなんだから
661:人間七七四年
09/02/25 03:49:40 4+YXqQe2
>>660
手取川の事は江戸時代以降の資料とかでは
「松隣夜話」「太祖一代1軍記」「謙信軍紀」「日本外史」
とかにあるよん。
載ってない軍記もあるけど乗ってる軍記もあるわけで。
北微遺文の感状はあるよ。
662:人間七七四年
09/02/25 03:51:23 4+YXqQe2
>>654
>>上杉謙信自体、北陸に出兵した事実はない。
北条さんが何かいいたそうな顔です。
663:人間七七四年
09/02/25 03:57:09 VQ5TKVje
>>661
よし、では言い方を変えよう
無かったとする根拠よりも
あったとする根拠のほうがショボ過ぎるわけだが
織田の記録に無い
上杉の記録にも無い
その他の記録にも無い
地元の記録にも無い
1の話を10に膨らませるような軍記物にも登場しない(歴代古案編集後の軍記には出てくるが…必死さが伺える。しかし史料的価値は無い)
唯一の手掛かりの書状も現存しない
否定する学者がいない?
みんな手取川を語る一方で根拠が一通の書状しかない事は述べる
それくらいにしとかないと上杉ファンの嫌がらせや抗議が殺到するからだろ
俺らと違って学者さん達は個人情報丸出しなんだから
664:仙台藩百姓
09/02/25 06:31:55 oshztb1n
そうだお。謙信自体が存在しなかった可能性が高いお。
長尾信濃守には嗣子は死んだからいるはずはないお。
上田家が米沢藩の「箔付け」の為の架空の人物だお。おとぎ話の主人公に過ぎないお。
665:仙台藩百姓
09/02/25 09:01:59 oshztb1n
伊達家の縁ある土地に勝手に入り込んだ米沢藩は
謙信という虚像を創り出すことで、自らを正当化しただけだお。
謙信実在説よりも九郎判官殿成吉汗説の方が信憑性は高いお。
666:人間七七四年
09/02/25 11:58:52 vE7a73SL
最近の研究だと、
伊達政宗も実在しなかった説が有力らしいね、
667:人間七七四年
09/02/25 12:28:41 k2Vm0uG4
政宗は義姫に暗殺されたんだろ。
668:人間七七四年
09/02/25 12:36:44 CMeLrK8i
一般的にイメージされる○○は実はそうじゃなかった
って論法なら我が国ですら存在が危うくなるわな
669:人間七七四年
09/02/25 12:43:18 9HbYxv72
信長公記ではなぜか毛利相手の苦戦が省略されているのですが、
これはなぜですか。
670:人間七七四年
09/02/25 14:45:32 6nrKOzSA
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
671:人間七七四年
09/02/25 16:23:44 IFOt/ic3
学会では手取川合戦が実在するとする説はほとんど見当たらないね。
ゲームならともかく戦国板では恥ずかしい主張。
672:人間七七四年
09/02/25 17:07:43 akLyPkkJ
>>671
創価学会ですか?
673:人間七七四年
09/02/25 18:17:35 6nrKOzSA
手取川の合戦 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の本に記載なし。
上杉謙信の本のみに記載。
674:人間七七四年
09/02/25 18:24:54 BkMdT78c
>>672
歴史学会では、わざわざ手取川合戦があったかななかったかなんて
論争しないぞ笑
675:人間七七四年
09/02/25 18:39:36 MdRIFcmx
柴田・佐久間信盛・信忠・明智・荒木細川・丹羽
当時の軍団で大きい順にこんな感じか。信忠は家督相続後でかなりでかい。
天正5年の手取川合戦の前後にあった、根来雑賀と久秀討伐では
柴田軍団以外全部に召集が掛っている。羽柴滝川も根来雑賀と久秀討伐に参戦。
>>200,206,207によると柴田+丹羽(羽柴トンズラ)で動員が前後2会戦より薄い。
何が言いたいかというと、合戦後に対北・謙信アラートを解除して
信忠以下畿内に殺到しているところから見ると
信長は手取川での戦闘を負けと認知しなかった。また実際に損害が無かった。
(1万+の10%が死傷すれば全滅と呼んでもよかろう)
当時JAROが存在しなかったことが、上杉にとってせめてもの救いである。
676:人間七七四年
09/02/25 18:54:30 CfuHSZ/W
何で大和一国(45万石)の守護の筒井より佐和山5万石の丹羽の方が大きいのさ
677:人間七七四年
09/02/25 18:58:02 MdRIFcmx
直江兼継が家康の工作員なんて冗談があるが
謙信の「くるくる詐欺」も織田家拘引陽動作戦で
本命は畿内での革命クーデターだったのだろう。
当時畿内で情報宣伝工作が活発になされ、
狂歌の類が流布されたに相違ない。
ただ公家や大僧侶の日記類に手取川戦勝の記載がないのが
解せない。今のマスゴミのような大衆向けのブラフにしてもだ。
678:人間七七四年
09/02/25 18:59:33 MdRIFcmx
>>676
大和は寺院領が多く、小領主が割拠していた。
秀長が後に苦労する。
679:人間七七四年
09/02/25 21:21:28 6nrKOzSA
信長公記には、謙信の名前すらないけど。
680:人間七七四年
09/02/25 21:56:15 nQQ7Eugm
>>679
よかったね。
絶対無比の正史に書かれないから謙信なんて存在しないってことが証明されたね。
謙信がいないんだから手取川も川中島も嘘だね。
681:人間七七四年
09/02/25 22:17:35 6nrKOzSA
謙信最強を捏造した宇佐美が、上杉家に仕えたことは注目!!!
682:人間七七四年
09/02/25 22:34:55 Kya0lWcG
>>680
謙信が存在しなんて!
武田関連の書状に大量に謙信が登場する事や
他ならぬ信長が謙信に書状を送ってる事はどう説明したらいいんだ!
683:人間七七四年
09/02/25 22:39:43 6nrKOzSA
信長公記には、謙信の名前すらないけど。
さらに、上杉軍すら登場しない。
越中、能登、加賀は、上杉の領土などではない、同盟勢力かもしれんが。
織田家の記録では、越中、能登、加賀は上杉の領国とみなしていないし、
一揆や土豪と対立しているだけだ。
684:人間七七四年
09/02/25 22:45:14 2mm9l6qv
>>654
信長公記に書かれてないってww
謙信が加賀松任城を落したのは長家家譜に書かれてる
そもそも松任城主の鏑木氏が滅亡してるのは確かだし、地元にも謙信が本陣にした跡地(出城跡)が残ってるから確かだろう
685:人間七七四年
09/02/25 22:53:43 MdRIFcmx
>>684
長家家譜
URLリンク(www.spacelan.ne.jp)
さて謙信は同二十九日加州津幡に至り陣す、その勢六千余。
それより松任城を責め、城主鏑木右衛門尉頼信防戦の術を尽くし城陥らず。
謙信思慮を廻し、一万貫(一説に一万石)の所地加恩せしむべきの約束を以て和融事なる。
鏑木家臣白石右近謙信に拝謁す。
謙信右近に脇差しを与う。
ここにおいて謙信松任城に陣す。
七尾援兵既に加州水島に着陣す。
謙信今度七尾において獲るところの首七、倉部・柏野中間に梟し上方勢に視す。
ここにおいて七尾落城の事を察して上方勢は帰陣す。
謙信は年来望むところの一戦勝利手の裏にあり、明旦兵を進めて織田勢を討ち敗るべく、各忠を抽くべきの由下知を
加える。
一番貝に糧食し、二番貝に物具を着し、三番貝に打ち立つべき旨軍令を下す。
その夜城内において猿楽(三番あり)を催し、翌日未明に軍を進めて水島に至る。
時に織田勢悉く退散す。
謙信上方勢甚だ武勇拙きを嘲弄し、引き残れる雑人等数十人を切り捨つ。
猶進んで越前に押し入り、旗を丸岡に進めて民屋を放火し、それより越後に帰陣す。
ふむふむ兵6000か・・ 後半部はリアルだね、米沢藩苦心作のお手紙よりはw
686:人間七七四年
09/02/25 22:55:24 nQQ7Eugm
勝家らの連名書状で謙信の動静を首尾よく掴めず困惑していたよな?
更に、謙信の兵が加賀の兵を従えて陣を構えたとの情勢も伝えていたが。
しかし一次史料より信長公記が上とするならしかたない。
謙信はいなかったんだから、勝家らは薬でもキメて幻覚でも見ていたんだろう。
687:人間七七四年
09/02/25 23:17:35 MdRIFcmx
同じく長家家譜(連龍1)
URLリンク(www.spacelan.ne.jp)
その援将には柴田勝家(略)その勢四万余、
宗先とともに九月下旬安土を発し、十月上旬先陣が既に加州水島まで着陣のところ、
十三人の物見が走り来たり、 「七尾落城と相見え長家一族の首・・・
・・・嘆願したが、秀吉は許容これなし。「その志切なりといえども、
七尾陥城のうえは信長公の御下知なくては私に決し難し」と一戦の旨各評議これあり。
水島より帰陣につき、是非能わず愁憤を押さえ、
掛け置き候首を取り収め、ともに安土へ帰陣なり。
>>685と微妙に食い違うな
688:人間七七四年
09/02/25 23:27:55 MdRIFcmx
天下の書庫・加賀藩の史料いいかげんすぎワロタwww
ネットの文章に誤りが無ければね。
689:人間七七四年
09/02/26 00:14:00 K8/XIMJs
家譜の類は、軍記と同じ信憑性。
690:人間七七四年
09/02/26 00:16:24 K8/XIMJs
従来、この合戦は長家家譜などの記録によると、1543年に起こった石塚の合戦と伝わっていたが、橋本芳雄氏や久保尚文氏ら富山県側の研究によって、1550年であると訂正されている。
URLリンク(ja.wikipedia.org)
長家家譜いいかげんすぎ。。。。。。。。。。。。。。
691:人間七七四年
09/02/26 00:21:57 jhWdk2H5
信長公記という織田家の家譜だっていい加減だろ
朝倉を滅ぼして越中まで分国にしたと法螺吹いてるからな
692:人間七七四年
09/02/26 00:25:16 jhWdk2H5
URLリンク(hakubutsukan.gooside.com)
693:人間七七四年
09/02/26 00:26:59 K8/XIMJs
長氏文献集
責任表示 校訂・解説:太田敬太郎
出版地 金沢
出版者 石川県図書館協会
出版年 1972
形態 222p 図13枚 ; 22cm
注記 昭和13年刊の複製
内容細目 長氏系図,長家家譜,長家古文書類纂,鹿島半郡水帳
全国書誌番号 73010286
個人著者標目 太田, 敬太郎 (1874-1945) ∥オオタ
昭和13年発行の本だろ。長家家譜なんて、大げさな名前つけて。
江戸時代の資料じゃない。
694:人間七七四年
09/02/26 00:35:08 jhWdk2H5
松任城を1577年から任されたという加賀一向宗の若林長門は、1580年に柴田に討たれて首を安土に送られている(加賀一向一揆の幹部19人も同様)
695:人間七七四年
09/02/26 00:49:17 O0IH+nM4
>>691
信長公記を織田家の家譜って本気で言ってる?
696:人間七七四年
09/02/26 01:22:16 jhWdk2H5
信長の娘婿でもある秀吉の命令で信長公記を作ったということで
697:人間七七四年
09/02/26 01:27:59 jhWdk2H5
無理がすぎたかもしれん
698:人間七七四年
09/02/26 01:32:51 K8/XIMJs
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
699:人間七七四年
09/02/26 07:25:14 JtrlDqwj
そのコピペ飽きた
700:人間七七四年
09/02/26 08:45:18 2pmIetUe
手取川は歴史の研究者なんて目もくれない~みたいな話あったけど、信長
公記は織豊時代の研究に欠かせない第一級の史料とされてるから信ぴょう
性が高いものであることは間違いない。
ただ、信長公記にないからといって手取川がなかったとするのも性急すぎ
る。太田牛一が日々付けていた記録を信長公記としてまとめる過程で間違
ったり、記憶違いなどで抜けたりしてる場合もあるだろうから。
小瀬ほあんも「太田は忙しかったから抜けてるとこもないこともない」み
たいに言ってる。
701:人間七七四年
09/02/26 09:07:01 +DiHcUWi
近年じゃ地方史でも信長の研究書でも手取川を取り上げないものを見たことがないな。
特に信長の事跡や戦争は、一枚の書状でしか確認できないものが多数あるわけで、
そういうものをすべて排除したら二級史料の信長公記以外何もなくなる。
702:人間七七四年
09/02/26 09:51:40 OJba1T/V
誰か信長公記の虚実を検証するのスレを立てたら
703:人間七七四年
09/02/26 10:05:24 7/s0Y9Rz
>>701
信長公記が2級史料ならそれ以上の一級史料って何さ?
同時代の武士・僧侶・商人が記した日記や書状だって推測や思い込みで書いた記述多いぞ
704:人間七七四年
09/02/26 12:26:44 B6uYIfer
織田厨がバカなのが理解できました。
はいはい信長公記が一次資料(笑)なんですねわかります。
705:人間七七四年
09/02/26 13:06:40 y/ZFkyTY
まてww一応言っておくけど
身長公記は一次史料で間違いじゃない
二次なのはノブナガ公記のほうな
706:人間七七四年
09/02/26 13:08:06 7/s0Y9Rz
だーかーら信長公記以上の一級史料とやらを出してみろって言ってるんだよ。
日本語通じてるのかい?w
707:人間七七四年
09/02/26 13:14:59 jhWdk2H5
信長公記を編纂した時期には上杉家は有力大名として健在だから
謙信が信長を散々破ったと絶賛することは政治的に難しいと思われ
708:人間七七四年
09/02/26 13:21:41 y/ZFkyTY
身長が二次以降の史料なら
それの元となる一次資料名あげてみろよw
と言われるぜ?
709:人間七七四年
09/02/26 13:42:20 40tafweo
信長公記
染谷光廣
「同時代の古文書や日記とともに正しく第一級の史料」
谷口克弘
「織田時代の絵kん灸を手掛ける場合、不可欠というべき史料」
など歴史研究の上でもすでに価値は認められてる。今更スレを
立てて検証することもない。
ただ、谷口氏が「史料として基本的な欠陥があることを忘れてはならない」
としている。天正3年以降は正確性が高くなっていることのことではあるが。
まぁ、信長公記が記録性の高いものだとしても、記述がないだけでは手取川
の戦いがなかった根拠としては弱いと思う。
710:人間七七四年
09/02/26 13:59:42 p7dxlcza
信長公記に有る無い以前に、上杉方も含めて他のどの史料にも謙信の書状に書いてあるような合戦が記されてない事のほうが問題だと思う
711:人間七七四年
09/02/26 14:07:37 B6uYIfer
一次資料と第一級資料では天地の差がある。
信長公記は一次資料ではない。
712:人間七七四年
09/02/26 14:25:24 W4OHWnVy
で、「手取川合戦」の具体的な内容は?
713:人間七七四年
09/02/26 14:49:53 GSME7us3
だから何も載ってないと何万回言わすんじゃボケ!!
714:人間七七四年
09/02/26 14:50:47 KeTe4TT0
>>700
信長公記は一次資料じゃないと思うぞ。
同時代に書かれたものじゃないから。
時代が下った後で太田が書いたもんだから。
実際その記述には明らかに織田礼賛が満ちており
織田の不利なところとか書いてなかったり手心加えられたりしてる事が多い。
小瀬がそんな風に言ったとは知らないな。小瀬は太田を評して「歴史なんてバカ正直にかくもんじゃないよw」とか
言ってるけどな。まあ川隅太閤記とかじゃ太田の記述に不備がある事は記されてるな。
記憶違いというか明らかにスルーしてるんじゃないかと思われるところ結構あるけどな。
>>703
同時代で書かれた書状やら記録やらでしょ。
信長公記は明らかに時代が下った後で書かれたものだから2次資料だろ。
>>705
小瀬の信長記と太田の信長公記があるけど太田のは2次で
小瀬のは2次以下だろ。小説なんだから。
>>706と>>708
当時の書状やら記録やら。
>>709
>>織田時代の絵kん灸を手掛ける場合、不可欠というべき史料
織田家の書状が少ないから信長公記使わないとろくに研究にならないんじゃないだろうか。
でもやっぱり抜けてる所結構あるのよね。
公記を盲信する手あいって信長公記を絶対としてそれに無理やり史実を当てはめようとするからな。
そういうのって見てると痛いのよね。
715:人間七七四年
09/02/26 14:52:17 K8/XIMJs
↑
キチガイの盲説妄言に注意。
716:人間七七四年
09/02/26 15:02:44 +DiHcUWi
信憑性が高い=一次史料=完全無欠の記録かw
信長公記はすごい代物なんですね。
717:人間七七四年
09/02/26 15:02:55 KeTe4TT0
>>715
どこら辺が虚言?
あげてみて。
718:人間七七四年
09/02/26 15:15:37 p7dxlcza
あのな、無いから何も書いてないんだよ
逆に「手取り川で千人も死ぬような戦はありませんでした」なんて書いてあったら、むしろ在ったと考えれるけどな
何もないから何も記録が無いわけよ、織田にも上杉にも地元にもな
信長公記が一次二次言う前に、まずは手取り川で合戦があったと記録する一次史料を言えっての
それだけの合戦があったなら、どっかにあるはずだろ
誰かの日記でもいいからよ
719:人間七七四年
09/02/26 15:20:43 KeTe4TT0
>>718
歴代古案や北微遺文や長家家譜でいいじゃん。
720:人間七七四年
09/02/26 15:33:48 p7dxlcza
>>719
歴代古案が戦国史の一次史料なんか?
感状とか何の感状なんだよ
普通他にあるだろ、日記とかよ
どっかから戦勝の祝辞とかよ
721:人間七七四年
09/02/26 15:38:12 KeTe4TT0
>>720
とりあえず謙信の書状と認定されている以上
一次に近いとみられてるんじゃ。
手取川があったとされる同時期同地域での夜戦における感状。
よっぽど大きな戦いで一方が宣伝しまくらないと祝いとかないもんだが。
722:人間七七四年
09/02/26 15:39:58 fgueDiUv
合戦は有ったんだろ多分
すげー小規模なやつだろうけど
723:人間七七四年
09/02/26 15:46:36 p7dxlcza
ああ、きっとな
どこにでもあるような小さい小競合いがな
本当に謙信の書状と言われるような内容の合戦があったなら、一番喜ぶのは将軍タマだろうしな
724:人間七七四年
09/02/26 15:48:54 KeTe4TT0
謙信書状にしても追撃して千人程度打ち取ったってだけだし。
数万単位の戦いならそこまで大きなもんでもないだろ。
将軍様は毛利の所いるし
725:人間七七四年
09/02/26 15:54:14 p7dxlcza
>>724
毛利の所にいるから戦勝を祝う手紙一つ送れない理由がよく分からん
毛利の所にいるから上杉の勝利を記録できない理由がよく分からん
726:人間七七四年
09/02/26 15:59:02 KeTe4TT0
>>725
北陸での一戦程度、しかもそこまで大きな戦いでもないのに
わざわざ送る必要ないと思うが。
謙信もそこまで大きな戦いと思ってなかったんだろ。
727:人間七七四年
09/02/26 16:20:02 p7dxlcza
>>726
千人以上も死んでりゃ充分デカいと思うけどな
謙信の書状の内容が真実だとするならね
その書状が本物だとするならね
728:人間七七四年
09/02/26 16:38:59 O0IH+nM4
>>724
ゲームの感覚で語らないように。
万の軍勢で、千が討ち取られたのなら特筆されてしかるべき。
729:人間七七四年
09/02/26 16:41:23 hOHxkzH9
この時期の将軍と謙信は、義輝と謙信の時代ほど密接ではないしな。
義昭は遡れば信玄の勝報にすらあんま反応していない。
730:人間七七四年
09/02/26 16:44:51 KeTe4TT0
>>727 >>728
織田勢3、4万の中での千だぞ。
30か40分の一なのに特筆とはいかんだろ。
長篠での武田7千で千、三方ヶ原で徳川一万で千から二千となれば
特筆だろうが。
731:人間七七四年
09/02/26 16:54:50 p7dxlcza
>>729
信玄の時は信長の手の中にいただろ
謙信の時とは違うだろ
謙信が更に軍を興して上洛したらどうなる?
謙信が将軍になるのか?
違うだろ
ヨッシーが帰洛するだろ
誰でもそう思うだろ
ヨッシー本人だってそう期待するだろ
そうなったらヨッシーから信長に鞍替えしてきた奴らはどうなる?
ヤバイだろ?
何かしらアクションがあるだろ?
なのに何も動きも記録も書状も無いのは異常だろ
ヨッシーも何もしないのはおかしいだろ
732:人間七七四年
09/02/26 16:56:42 F1PERqHV
>>731
妄想を根拠にしてはダメ
これは鉄則ですよ
733:人間七七四年
09/02/26 17:00:44 F1PERqHV
たとえば本能寺の変も明智の独断とは考えにくいけど
確たる証拠がないから断定できないよね
734:人間七七四年
09/02/26 17:01:47 p7dxlcza
>>732
妄想というより、状況から不可解な点を指摘してみたんだが?
謙信が上洛に成功したらヨッシーが帰洛
ヨッシーはそれを期待しないの?
735:人間七七四年
09/02/26 17:03:54 YO3//vYb
軍事衝突があったのは事実と見ていいと思うんだが。
加賀へも上杉が入り込んできてるわけだし、後、魚津で藤丸勝俊が籠城
してるし、規模はさておいても加賀で上杉氏有利の流れに傾いた出来事が
あったとみていいと思う。
『歴代古案』の例の書状の信憑性を問うなら、具体的にどこがどう問題で、
なにゆえ信用できないというか、ハッキリとした根拠を示さねば話に
ならないぞ
736:人間七七四年
09/02/26 17:04:02 K8/XIMJs
長家家譜は、1次史料じゃない。気づかないか??昭和13年発行の本だ。
徳川家家譜って変な表現だろ。普通、徳川家譜とかだろ。
737:人間七七四年
09/02/26 17:09:33 K8/XIMJs
藤丸勝俊は、関係ない。信長公記に出てこないし。。。。
738:人間七七四年
09/02/26 18:43:29 W4OHWnVy
1.天正4年、謙信、七尾城を攻める。
2.翌年8月、長続連、信長に救援を求める。
3.信長、勝家らを派兵する。
4.勝家ら、敵地である加賀を一揆勢を平定しながら北上。
5.長続連と反目する遊佐続光、温井景隆ら親上杉派が謙信に内応したため七尾城はついに落城。
6.勝家ら、七尾城が開城した事を知り撤退を決意する?
7.「手取川合戦」?
8.勝家は加賀の御幸塚や大聖寺などを固めつつ越前に帰る。(御幸塚や大聖寺は出陣前から加賀における織田の橋頭堡)
9.越前や加賀の一揆勢は上杉に靡き(被官化までいった?)反織田の動きが活発になる。
この流れは確実だと思うんだが、このスレ的に肝心な7.の部分の詳細が不明なんだよな。
6.の時点で勝家が速やかに撤退を開始したのか、多少でも抵抗しようとしてたのかでも結構変わってくるように思えるんだが……
739:人間七七四年
09/02/26 18:49:50 B6uYIfer
書状が他にないとか言ってるが、そもそも書状が遺ってる事が奇跡の世界なわけだが。
当時発給された書状などの大半は失われていると言われてんだぜ。いま残るのはほんの一部。
長家家譜だって遺ってる資料をまとめた物の現代語訳が昭和になって出版されただけだろ…
740:人間七七四年
09/02/26 19:23:40 hOHxkzH9
>>731
> 謙信が更に軍を興して上洛したらどうなる?
> 謙信が将軍になるのか?
> 違うだろ
> ヨッシーが帰洛するだろ
上杉だけじゃなくて毛利も動き、織田を潰滅させないと帰洛しないだろう。
にわか上洛で京都で幕府を運営するなんて無理な話。
だから光秀の時もなんもなし。
741:人間七七四年
09/02/26 19:44:37 B6uYIfer
関東行ったり、七尾城を二度に渡り長期包囲を繰り返し疲弊困憊した上杉軍の進出を止める動きをせずに、わざわざ加賀まで出向きながら越前まで撤退する無駄はやらんだろ。
加賀の領国化を目指すことすらしないのはおかしいね。
勢力均衡が破れ加賀が上杉側に傾く何らかの戦は存在したでしょう。
742:人間七七四年
09/02/26 20:04:05 YO3//vYb
>>736
昭和13年発行って、活字化されて刊行されたのが昭和13年だ。
前にも他の大名の史料を、活字化された年に成立→だから捏造とかほざく
やつがいたけど、本気で言ってんのかな。長家家譜の信憑性云々以前の
問題だよ。
>>737
加賀の国人出身の藤丸氏や一揆系の勢力が『名字尽』に記載されてるなど、
加賀衆が明確に家中に組み込まれてるわけだし、加賀でのパワーが上杉方に
傾く何かがあったんでしょうよ。
『信長公記』に出てこないよ、なんて論点がずれてるとしか
743:人間七七四年
09/02/26 20:04:34 p7dxlcza
>>740
だからこそヨッシーが何もしてないのが変だと言う
あって然るべき物が一つも無いのがおかしいのだと言う
ヨッシーは帰洛を諦めてるのか?
織田の進退には興味ないのか?
反織田には無関心なのか?
744:人間七七四年
09/02/26 20:11:06 K8/XIMJs
名字尽は、著者不明の代物。一向衆の寺院が上杉の家臣に記載されているなど
おかしいことだらけ。
加賀一向一揆の解説で、一揆が上杉の家臣になったなんてこと書いてない。
長家家譜は、江戸幕府時代のものじゃない。
長氏文献集という昭和に発行された本の内容の一部。
大名家の家譜なら、島津家譜、長家譜でなければならない。
745:人間七七四年
09/02/26 20:15:40 W4OHWnVy
>>741
> わざわざ加賀まで出向きながら越前まで撤退する無駄はやらんだろ。
> 加賀の領国化を目指すことすらしないのはおかしいね。
加賀はもともと敵地の上、反織田の加賀の一揆勢が上杉の後ろ盾を得て勢いづいた所で上杉を迎え撃つのは危険だろ?
> 勢力均衡が破れ加賀が上杉側に傾く何らかの戦は存在したでしょう。
別に勢力が均衡してたわけじゃないんじゃね?
もともと反織田の上、織田が撤退すれば、上杉に傾くのは別に不思議じゃない。
なんらかの戦いがあった証左にはならないと思う。
もっともオレは別に手取川の戦いはなかったとは思わんがね。
勝家がとりあえず一戦に及ぼうと立ち向かおうとしたのか、単に撤退する織田軍の殿に追いついて何らかの被害を与えたのかはようわからん。
746:人間七七四年
09/02/26 20:19:06 W4OHWnVy
>>742
> 加賀衆が明確に家中に組み込まれてるわけだし、加賀でのパワーが上杉方に
> 傾く何かがあったんでしょうよ。
上杉の勢力が能登まで及んだからじゃねえの?
織田に対抗するための後ろ盾ができた。
加賀国内における織田対上杉の戦いの結果上杉に靡いたってわけじゃないと思うよ。
747:人間七七四年
09/02/26 20:28:40 hOHxkzH9
>>744
> 名字尽は、著者不明の代物。一向衆の寺院が上杉の家臣に記載されているなど
> おかしいことだらけ。
お前ん中じゃおかしいんだろうけど、あれには矛盾がないばかりか他の史料や論の裏付けになる見事な一級史料だよ
> 加賀一向一揆の解説で、一揆が上杉の家臣になったなんてこと書いてない。
はあ。柴田の書状(宮川文書)に謙信に加賀の兵が参加してるとあるが、これは何?
自分に都合のよい史料だけ絶対化して疑いを挟むことすら禁じるのに、
気に入らない史料はパチモン扱いですね。
あなたの頭こそ中国製もびっくりのパチモンですよw
748:人間七七四年
09/02/26 20:32:04 K8/XIMJs
加賀一向衆が、上杉の家臣になって領国化していたなら、
信長公記に、上杉軍が出てこないのはおかしいだろ。一揆って書いてあるんだよ。
能登の畠山氏も上杉方というだけで、上杉の領国化されたわけではない。
信長公記では、七尾城を攻略した際、畠山の家臣の名前しか出てない。
また、越中の一向衆も最終的に信長によって打倒されており、
上杉が領国化していたのは、東部の一部だけである。
能登、加賀、越中中西部は、上杉に靡いた勢力がいたエリアというだけで、
領国化されているわけではない。
749:人間七七四年
09/02/26 20:40:55 B6uYIfer
七尾城や松任城を上杉は攻めている以上は七尾城も松任城も織田方の拠点。
落城されまくって味方を見捨てて柴田も敵前逃亡w
750:人間七七四年
09/02/26 20:44:01 K8/XIMJs
上杉氏の家臣団については、いわゆる「分限帳」のような史料は残されていないため、家臣名を網羅したような史料や、個々の文書により検討していくほかはないようです。
分限帳は、後世の偽作が多いらしい。名字尽も分限帳の類だろ、おそらく。
一揆の坊主や寺が上杉の家臣って、普通におかしいだろ。
武家の国守を認めずに、一揆ができたのに。
751:人間七七四年
09/02/26 20:47:55 W4OHWnVy
>>749
> 七尾城や松任城を上杉は攻めている以上は七尾城も松任城も織田方の拠点。
おいおい。
それでは信玄が村上義清を攻めたから北信濃は上杉の拠点と言ってるようなものだぞ。
752:人間七七四年
09/02/26 20:55:47 K8/XIMJs
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
これ、読むと、家臣団の名簿を分限帳という。
上杉の分限帳は存在しないのに、名字尽なるもので家臣団の名簿だと言われても困るよ。
753:人間七七四年
09/02/26 21:04:52 K8/XIMJs
URLリンク(www.bekkoame.ne.jp)
名字尽 寛永時代に、同じ用例がありますね。
本当に、天正時代のものなんでしょうか?江戸時代に偽作されたものではないのでしょうか?
米沢上杉博物館所蔵というもの。上杉家文書だからな。
754:人間七七四年
09/02/26 21:12:40 K8/XIMJs
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
上杉家には、こうした分限帳が存在しない。
家臣の所領や扶持高が不明。
755:人間七七四年
09/02/26 21:42:03 K8/XIMJs
URLリンク(100.yahoo.co.jp)
上杉家文書=江戸時代に2度整理。
名字尽=著者・来歴不明で、日付だけはっきりしてるって、普通におかしいだろ。
肝心の上杉家の分限帳が現存してない、あるいは作成すらされてない。
鬼小島弥太郎や宇佐美定行とかの架空の人物の正体がばれちゃうし。
756:人間七七四年
09/02/26 23:09:33 jhWdk2H5
>>751
たとえがおかしい
能登の長連龍は信長に援軍を求めてる
加賀の一部も織田に味方する勢力が確かにいた
757:人間七七四年
09/02/26 23:14:12 jhWdk2H5
能登の長一族の所領は没収されて上杉家の直臣に与えられている
それから謙信は七尾城に掟を定めており領国化しているといっていい
寺を家来にするのは変だというが、織田も熱田神宮を家来にしていた
信長公記を絶対化して他の史料をおかしいと考えるのはいかがか?
758:人間七七四年
09/02/26 23:33:35 W4OHWnVy
>>756
別におかしくないよ。
長連龍が救援を求めたが、それ以前に畠山氏が織田方として動いていたわけでもない。
落ち延びてから頼ったか、危機になった段階で頼ったかの違いでしかない。
> 加賀の一部も織田に味方する勢力が確かにいた
だから何?
759:人間七七四年
09/02/26 23:40:32 hOHxkzH9
柴田らの書状で、謙信が加賀の兵を加えて陣を構えているとあるが、
この一次史料は信長公記にあわないからマユツバなんでしょうねw
760:人間七七四年
09/02/26 23:46:05 jhWdk2H5
>>758
能登畠山は加賀一向一揆との戦いで織田方になった
古くは信長が足利義昭の名で諸侯に上洛を命じた時に本格的に接触したようだ
761:人間七七四年
09/02/27 00:54:33 8h2i7eUf
然而武田入道令病死候、朝倉義景於江越境目去八月遂一戦、
即時得大利、首三千余討捕、直越国へ切入、義景刎首、
一国平均ニ申付候、其以来若狭・能登・加賀・越中皆以為分国、
属存分候、五畿内之儀不覃申、至中国任下知候次第、不可有其隠候、
来年甲州令発向、関東之儀可成敗候、其砌深重可申談候、
御入魂尊要候、猶以芳問大慶候、必従是可申展之条、
抛筆候、恐々謹言、
十二月廿八日 信長(朱印2)
謹上 伊達殿
(折封ウハ書)
「謹上 伊達殿 信長」
762:人間七七四年
09/02/27 01:00:11 29PNB7nk
>>760
織田氏と能登との接触は、この長氏の救援要請までほとんどなかった。
能登の歴史をざっとあげると、上杉派の温井氏、本願寺派の遊佐氏、それに
長氏で守護畠山家を傀儡にしつつ、覇権を競っていた。長氏に関しては、
推測まじりになるが武田と結んでいたのではと考えられる。
天正の頃になると、武田派の長氏+本願寺派の遊佐氏 vs 上杉派温井氏で抗争。
しかし武田が長篠で敗退して勢力を後退させ、替わって上杉が本願寺と
修好して手を結ぶようになると、長氏 vs 温井氏遊佐氏と変わっていく。
強いてあげると、重臣達に追放された畠山義綱は最初は上杉と結んで能登
奪還を目指したが、後捨てられ、信長に保護と援助を求めたようだが信長は
相手にしなかった、という経緯があるが。
>>757
能登は確かに領国化を始めてますね。で、それと加賀国に何の関係が?
763:人間七七四年
09/02/27 01:07:08 8h2i7eUf
分限帳(ぶんげんちょう) 戦国・織豊(しょくほう)期に大名が作成した
家臣団の名簿。家臣の家格や役割などに応じて、その所領や扶持高
(ふちだか)などを記したもの。
上杉の分限帳が存在しない以上、加賀、能登、越中が上杉の領国であることを
証明するものはない。
764:人間七七四年
09/02/27 02:15:58 PLw8gHMV
>>750
武家の国主を認めずに一揆が出来たと言う認識自体ちょっと違う。
守護富樫氏は戦国期までちゃんと存在してるし、加賀自体本願寺を
紐帯に結んだ「郡中」と呼ばれる国人一揆が支配の中核を担ってるんだが、
こいつらも決して一枚岩ではない。
>>763
七尾には謙信の腹心ともいうべき、鰺坂長実が城代として入ってるし、
越中の松倉や魚津には上杉氏の重臣が入っている。とくに越中は
河田長親が知行宛行をしているんだが・・・
765:人間七七四年
09/02/27 02:19:32 y9FAJfe9
一向宗が謙信を屋形と称する書状もあるしなー。
766:人間七七四年
09/02/27 02:21:33 8h2i7eUf
どっちにしろ、手取川の合戦は架空で、上杉の捏造であることは明白。
767:人間七七四年
09/02/27 02:34:19 PLw8gHMV
>>766
なにが「どっちにしろ」だよ。
どうも、史系の板ってすぐに「捏造」と喚き散らす手合いが多くて辟易するな
768:人間七七四年
09/02/27 03:35:44 y9FAJfe9
ここまで話を聞くつもりがないなら、
手取川単体の真偽を論ずるのも無意味だから、
手取川に象徴される北陸における織田信長と上杉謙信の攻防の軌跡を追う
のに話題を切り替えた方がいいんじゃなかろうか。
769:人間七七四年
09/02/27 05:46:09 r7F2V/W4
>>764
織田厨が言うには加賀の百姓一揆は本願寺が「君主」だそうです(笑)
いつから君主制になったのかは一切、説明せず不明で本願寺は何に即位したんでしょうかね?
>>761
天地人でも越中まで織田領として描かれてましたね。朝倉氏が滅亡した後は、織田の威を恐れて畠山氏も織田に服属してたかも知れないですね。
河内や能登や越中が織田方だから、それに危機感を持った一向宗が上杉と共闘を模索したと。
特に越中は、一向宗・神保・椎名が離合集散と背反を繰り返していたわけだし越中東部は為景が守護代として椎名を被官化してきたので上杉領化してたかも知れないが、
越中西部が織田領化したから>>761で輝宗に報告した書状に、武田包囲は完成したから来年は甲斐討つよ!越中も分国だしと書かれているのかも。
それが越後の危機になり謙信が畠山氏に介入したと。七尾城や松任城が織田方だから攻められた。
そして軍事衝突の勝敗で加賀まで上杉領国化。
手取川では越前の一向一揆衆の生き残りまで上杉に呼応したので退路が遮断される戦略的危機に柴田は全面撤退。
770:人間七七四年
09/02/27 07:06:18 T6tM1pmT
織豊期の上杉の分限帳なら、慶長や文禄のならあるじゃん。
矢田たちが出版してたと思うけど。
たしかに謙信時代のは、軍役帳しかないけど。じゃあ信長時代の織田の分限帳って残ってるのか?
771:人間七七四年
09/02/27 08:47:21 mQkkpGjM
8h2i7eUfの主張はwikiの手取川の項目を書いた人に似ている
772:人間七七四年
09/02/27 12:02:09 8lDNHCB1
>>738
長家家譜に準拠するなら、7はダンケルクの奇跡だな。
謙信軍松任城攻略直前に柴田軍議で加賀撤退決定、秀吉が離脱、
まあ能登から手取川まで電撃進軍やっったら松任城で小休止だろうな。
で、長家家譜によると秀吉が一番情報を早く掌握していたようだ。
ダンケルクの岬に立ち、海峡の対岸を睨みながら激高するヒットラーw
773:人間七七四年
09/02/27 12:06:43 8lDNHCB1
越前朝倉攻めの敦賀撤退戦も、織田家は初動が早い。
情報網が整備されていたに違いない。
774:人間七七四年
09/02/27 12:29:24 BA0rRTqM
>>772
あの後すぐに英国上陸してロンドン侵攻しておれば世界史は一変したかもな
775:人間七七四年
09/02/27 12:37:13 7tf4U+J1
>>773
敦賀からの撤退は情報入ってから織田が動くまで数日かかってるぞ。
776:人間七七四年
09/02/27 13:32:01 8k8fm0qw
>>774
ドイツは海軍が弱いから上陸は無理
777:人間七七四年
09/02/27 14:08:27 r7F2V/W4
1000人討ち死にして、北陸軍が崩壊。以後の加賀進出がそのために大幅に遅れ、織田領だった越中西部、能登、加賀を失い越前が不穏になった。
日本海を退却用の船もなくダンケルクのような奇跡の撤退はできなかった。手取川から飢餓を餓えながら一向宗に襲われながらの悲惨な逃避行になった。
彼ら指揮官層の大半は恐怖に駆られながら、兵を見捨てて手取川から越前府中までの長い距離を謙信の影に怯え基地外のような速さで逃走した。
そもそも河内畠山氏が織田に所属した為に加賀も越中も能登も織田分国になり、その能登畠山当主が幼少ゆえ、その代理としての長氏のたびたびの救援依頼を、
謙信を恐れる信長はうやむやに誤魔化してきた。
ついに七尾城も末期になり、滅亡確定が見えてきた為に長氏は滅亡を悟り、せめて長子を生き残らせる為に包囲を破り信長の元に遣わした。
何とか生きて信長にたどり着き、泣いて支援を頼む為、さすがに誤魔化せないと悟った信長は援軍を派兵。
しかしその行軍は遅々としたもので、まるで七尾城が早く落ちてくれれば、恐ろしい謙信と戦わずに撤退できるのにと言わんばかりのノロノロ進軍。
当然に間に合わず落城し、謙信と戦わずに済み一安心で軍法が緩み、大雨の中、まさか七尾にいる謙信が来ることはあるまいと撤退もユルユルで急襲され壊滅。
あまりにひどい大敗のため信長公記から削除されたのであった。
778:仙台藩百姓
09/02/27 14:35:27 StMLtFK9
(777^ω^)<という妄想をしてみましたお
779:人間七七四年
09/02/27 14:59:16 rYNUVakQ
手取川付近の松任城を謙信は落としたんだから戦闘はあったんだよ
780:人間七七四年
09/02/27 15:04:23 rYNUVakQ
長氏が親武田wwww
だから何wwwwwwww
781:人間七七四年
09/02/27 15:07:39 Q68I4rsl
>>777
ネタはネタとしてその台詞、べんべんと講談調の名調子で、長沢まさみの
九の一にやらせてみたかった
782:人間七七四年
09/02/27 15:22:49 YWVUzBY0
Wikipediaで、一向一揆研究の基本的な書籍『一向一揆の研究』(井上鋭夫)すら読んでないことがばれてしまったID:8h2i7eUfwww
783:人間七七四年
09/02/27 18:40:17 JqdZLEcc
というか、ウィキでノートでの議論から逃亡して強行編集とは合戦否定厨、どんだけ馬鹿?
784:人間七七四年
09/02/27 18:53:57 8ELhssFP
ところで、七尾から湊川まで夜通し駆け抜けたのはまことにご苦労様だが、それに感状発給するとなると全員に配るのが道理となり、財政が破綻するよね。
785:人間七七四年
09/02/27 19:17:53 7tf4U+J1
>>784
戦功あげなきゃ感状ださんだろJK
秀吉の中国大返しや賤ヶ岳強襲は走った数万の連中全員に
感状出したと思ってるんかい。
786:人間七七四年
09/02/27 19:24:49 Qzv4vXTN
>>774
欧州制覇の条件はロシアは後回しにしろ、イギリスは先に潰せだからな
787:人間七七四年
09/02/27 19:28:01 7tf4U+J1
wikiのノートみたけど何あれ。
手取川合戦否定厨の人、あんなにめちゃくちゃなやり方で編集するなんて
正気とは思えん。
なんでこうまでして手取川をなかった事にしたいのか逆に不思議だわ。
788:人間七七四年
09/02/27 20:31:17 JEMV3ERi
こちらでageてる人と論旨がまったく同じだね。Sabkakusikakuさん自重なさいなw
789:人間七七四年
09/02/28 00:46:20 3nOZ9hJX
Sabkakusikaku、ここでageで捏造論ぶってる馬鹿だと自分から認定
URLリンク(ja.wikipedia.org)
790:人間七七四年
09/02/28 00:55:16 0Nu6W1r9
もまえら大目に見てやれお( ^ω^)
上杉は謙信最強、軍神、と謳っているものの
実際に謙信はまともに合戦をして華々しい戦果を挙げた事がないお
だから手取川の戦いがどうしても必要なんだお( ^ω^)
例え信長と直接対決していなくても「あの織田に勝った」
という実績を上杉は喉から手が出るほど欲しいのだお
織田なんて戦果や戦国の覇者たる実績が腐るほどあるじゃんお┐ (´ω`) ┌
一度の敗戦が増えたぐらい蚊に刺されたようなものだお
ですので上杉に譲ってあげて欲しいお
上杉にはこれしかないのですお
これだけしかないのですお・゚・(ノω`)・゚・。
松川、臼井、手取川、直江状
早く周りのみんなに謝って下さい
上杉の捏造史には織田だけではなく周囲の皆さんが迷惑しています
謝って下さい
みんなに謝って下さい
791:人間七七四年
09/02/28 02:08:51 0Nu6W1r9
もまえら大目に見てやれお( ^ω^)
上杉は謙信最強、軍神、と謳っているものの
実際に謙信はまともに合戦をして華々しい戦果を挙げた事がないお
だから手取川の戦いがどうしても必要なんだお( ^ω^)
例え信長と直接対決していなくても「あの織田に勝った」
という実績を上杉は喉から手が出るほど欲しいのだお
織田なんて戦果や戦国の覇者たる実績が腐るほどあるじゃんお┐ (´ω`) ┌
一度の敗戦が増えたぐらい蚊に刺されたようなものだお
ですので上杉に譲ってあげて欲しいお
上杉にはこれしかないのですお
これだけしかないのですお・゚・(ノω`)・゚・。
松川、臼井、手取川、直江状
早く周りのみんなに謝って下さい
上杉の捏造史には織田だけではなく周囲の皆さんが迷惑しています
謝って下さい
みんなに謝って下さい
792:人間七七四年
09/02/28 10:27:18 HrXQGWnD
最強
793:人間七七四年
09/02/28 11:48:02 2NADaNha
信長は強烈に謙信と信玄にはビビってたんだお
794:人間七七四年
09/02/28 15:29:00 ugMQMG3b
>>789
読んだけどさ、
ねえ・・・これ許されていいの?
こんな強引になかったなかったと喚いて
とにかくめちゃくちゃな論理でもいいから叩きに終始すればいいなんてのを
認めて欲しくないんだけど。
手取川なかったというよりあったというほうがはるかに有力だと思うけど。
なんでこの人はここまでして手取川をなかったことにしたいんだ?
795:人間七七四年
09/02/28 15:48:34 LkNdperZ
>>794
長家家譜によると、両軍団が激突して織田方が敗走なんて激戦は無さそうなんだが。
戦略機動の対立要素
「包囲」対「内線防御」(分散に対する各個撃破機動)
(包囲は完成すれば強力な戦法だが機動中は兵力の分散という欠点がある。)岩波(下)P193
「攻撃者による敵陣地の包囲」
「(防御者)敵の内線に対して起こす行動」
両項いずれかが他に対して優位を占めるなどと断言できるものではない。・・・
彼我の一方が運動を起こせば、その自然的な対抗物として、
換言すれば相手の運動を無効ならしめるいわば解毒剤として、
他方もまた運動を起こすことは自然の摂理だからである。・・・
二通りの方式のうち、最も巧みに運用された方が他に対して優位を占める。
機動の項目では、「包囲」対「内線防御」は同列になっている。将師の腕しだい...
URLリンク(www.bekkoame.ne.jp)
包囲軍・上杉vs内線防御・柴田
上杉馬鹿のひとつ憶え戦術機動で、1万弱の兵力を小松大聖寺そして丸岡と兵力分散、
丸岡まで斥候隊を出して我の不利を悟り、反撃を受ける前に大人しく越後へ撤収した。
竹中半兵衛まんせ
796:人間七七四年
09/02/28 15:54:06 HgUx6ty1
>>789
これは酷い。このキチガイが編集に関わる前の、
合戦の規模についての議論の余地がちゃんと提示されていた版に戻してもらいたい。
797:人間七七四年
09/02/28 15:56:14 LkNdperZ
加賀一向宗の抗戦能力が無ければ4万のローラー作戦で
踏み潰す予定だったし柴田もそれを望んだ。名目は七尾救援だが。
加賀一向宗の拠点は尾山を除くと山間部に集中し、
信長から派遣された軍監秀吉はローラー作戦中止を決断した。
一向宗を掃討するには越冬越年が必要だと計算したのだろう。
畿内がごたごたしてる状況でそれは許されない。
柴田勝家はアホなので信長に猛烈抗議した。
で、猿芝居の蟄居謹慎処分w
798:人間七七四年
09/02/28 16:03:00 ugMQMG3b
>>795
何をいってるの?
謙信書状にさえ両軍団が激突して織田が敗走なんて書いてないよ。
謙信書状でも七尾を攻略した後で撤退する織田勢を追撃して
千人余り討ち取った、だから人数を差し置けば長家家譜とよく似た流れになる。
下に書いてあるのの意味がよくわからん。
799:人間七七四年
09/02/28 16:04:29 ugMQMG3b
>>798の
>>下に書いてあるのの意味がよくわからん。
はこの件とそのリンクとその下のレスがどう関係するのかってのが
よくわからんという意味ね。
800:人間七七四年
09/02/28 16:07:49 ugMQMG3b
>>797
羽柴が自分だけ帰って人々から不審がられ、
柴田達は普通に越前残ってるんだけど。
801:人間七七四年
09/02/28 16:15:31 LkNdperZ
>>798
十八、賀州湊川迄取越、数万騎陣取候所ニ、両越・能之諸軍勢 為先勢差遣、
謙信事も直馬候処ニ、信長、謙信後詰迄聞届候哉、当月二十三夜中ニ令敗北候処ニ、
乗押付、千余人討捕、残者共悉河ヘ追籠候ケル、折節洪水張故、無瀬、人馬不残押流候、(後略)
有名な謙信の手紙を読んだことが無かったw
織田方の撤収のタイミングがねえ・・・異議あり
802:人間七七四年
09/02/28 16:17:26 LkNdperZ
>>800
丹羽滝川両者共、10月10日の松永久秀攻めに参加している
803:人間七七四年
09/02/28 16:25:12 LkNdperZ
要は柴田&織田派遣軍が謙信軍主力を見て
逃げ出したというのが誇張だと思う。
そこまで情報収集能力が無いとは考えられない。
派遣軍の先頭が近江入り、ケツが越前府中あたりか。
1000人の首って松任城落ち武者、等々負傷兵の落伍者じゃないかな。
首偽装w
804:人間七七四年
09/02/28 16:28:34 LkNdperZ
糞田舎のケンシンが天下の織田軍団に夜襲なんて
生意気なんだよ!百年早いわwwwwwww
805:人間七七四年
09/02/28 16:34:17 WFnqRQPQ
その田舎大名に洛中洛外図屏風をはじめ数々の貢物をしてご機嫌伺ってたウツケって誰だっけw
806:人間七七四年
09/02/28 16:37:33 ugMQMG3b
>>803
そうじゃなくてな。
七尾の城を救援に行ったら夜中にそれが上杉に攻略された事がわかって
引き返すところを謙信に追撃されたってのが実相だと思うが。
謙信軍を見たから逃げ出した、じゃなくて引き上げてる所を
謙信に追撃されたってのが実相だと思われる。書状や他を見ると。