08/09/30 21:35:24 mkSEDeqj
手取川がなかったとはw
この板の歴史認識はどうなってるんだw
51:人間七七四年
08/09/30 22:01:57 nj9ZVl9p
だってあったのは謙信の書状のみではね
それすらも一次史料ではないし
52:人間七七四年
08/09/30 22:39:24 PDWv+dWr
>>50
取り合えずお前の歴史認識がどの程度なのか試してやんよ!
>>51が言ってる書状の宛先と出された日付けを答えてくれ。
53:人間七七四年
08/09/30 22:55:49 fOAzhvDR
手取川合戦があるとする史料の価値は比較的高く、
しかもその内容は諸史料と矛盾しない。
文献史学ではこの時、「なかった」とは言わない。
歴史の多くはこのように実を詰められていく。
逆にこれをないと主張する根拠こそが不明。
まさか信長公記にないから、とは言いますまいね。
54:人間七七四年
08/09/30 23:09:22 PDWv+dWr
>>53
言ってる事がよく解らない。
>手取川合戦があるとする史料の価値は比較的高く
どの史料に付いて述べたものか?
>しかもその内容は諸史料と矛盾しない
どのような内容がどのような内容と矛盾しなかったのか?
取り合えずこの位は誤魔化さずに具体的に言ってくれよ。
55:人間七七四年
08/09/30 23:21:50 fOAzhvDR
書状の写しを甲陽軍鑑や信長公記などと比較して劣る史料と言えるのか?
諸史料と矛盾云々は、合戦否定派が材料もなしに主張している事実が根拠。
だから「ない」と見る理由がないのではと思ったまで。
手取川合戦があってもなくても構わないんだが、
不在派は何故そんなにないことにしたがるのか、
理由が知りたくてね。
それで少し挑発的に書いてみた。
56:人間七七四年
08/09/30 23:23:23 DARt5bM5
謙信の書状の日付 天正5年9月29日
これは米沢藩が越後長尾「上杉」の歴代の史料を集めた歴代古案に掲載
米沢市立上杉博物館に所蔵、別系統の写本は東京大学史料編纂所所蔵
一次史料でなくともそれに准ずる信憑性高い史料とされている。
信長公記とは次元の違うもの。
57:人間七七四年
08/09/30 23:38:58 fOAzhvDR
「ある」と断定は出来ないが、定説と見るのが妥当。
定説に批判を加えるなら、その材料が必要なわけです。
でなければ論争にすらならず、ただの感情論に終始する。
現状、合戦否定派はその材料もなしに感情的に攻撃を加えている。
「ない」とする論拠を提示せずに「その史料を俺は信じない。他のを出せ」と言うのは、
ネット以外では通用しない詐術ですよ。
58:人間七七四年
08/09/30 23:46:53 eN+4tecT
>>57
じゃ、謙信は胤治に完敗って事で
×謙信最強
59:人間七七四年
08/10/01 00:03:13 SFESauHI
合戦否定派ではなく馬鹿が一人で自演してるだけ
鬱陶しいからいちいちレスすんな。
60:人間七七四年
08/10/01 00:09:11 p+8Po3oH
まぁなんて言うか謙信の書状、書状って言う割には全く知らねえ
奴らの集まりかよ…
>>56
お前日付け間違ってるよ。
おい誰か宛先くらい解る奴は居ないのか?
ちょこっとググれば出るだろう?
それともここはネットすらろくに使えない奴らの集まりなのか?
61:人間七七四年
08/10/01 00:12:54 ne47IiQ5
>>58
もともと最強なんてものはゲームにしか存在しないから。
>>59
エスパーさん、その調子で56の真実も見抜いて下さい。
62:人間七七四年
08/10/01 01:48:01 9y7wBdaU
謙信書状は結城晴朝宛?
63:人間七七四年
08/10/01 02:08:56 p+8Po3oH
>>62
いえ違います。
64:人間七七四年
08/10/01 03:24:48 N5xJCJCQ
信長公記は負けた合戦は載せたがらないか、小さめに書く。
65:人間七七四年
08/10/01 06:52:25 hSOW49Bi
年月日すべてが不明な伊達晴宗の奥州探題任官はやはり捏造ですね。わかります。
政宗も父の代(輝宗)から探題と大ウソを秀吉に命乞いしながら言ってるし。
66:人間七七四年
08/10/01 21:07:49 RxvnEHJ0
手取川がなかったとするなら松永の謀反は何であんな時期に?
秀吉の動きについては?
67:人間七七四年
08/10/01 21:19:44 p+8Po3oH
>>66
その質問は手取川合戦の有無とは全く関係が無いと思います。
68:人間七七四年
08/10/01 21:43:17 SFESauHI
秀吉は松永の討伐を口述に戦線を離脱してるから松永の謀反は手取川の前
69:人間七七四年
08/10/01 21:47:42 goulzAc5
松永の謀反は大和問題が原因で上杉援護の謀反ではないよ。
しかし上杉謙信と松永久秀が手を結ぶっていう考えも何気にロマンだな。
70:人間七七四年
08/10/01 21:58:04 p+8Po3oH
取り合えず手取川合戦存在擁護派は、『歴代古案内の謙信書状の写し』
の日付けと宛名が解る(ぶっちゃけネットで検索できる)程度の人が出
てくれないと擁護にすらなら無いと思うわ。
71:人間七七四年
08/10/01 22:13:49 ne47IiQ5
そういえば、姉川の合戦は織田の敗北との説を唱えついる学者もいるよな。
姉川後も近辺を浅井方が平和に闊歩していたという。
72:人間七七四年
08/10/02 00:08:54 BqGhZeWg
三方ヶ原のあたりも徳川が闊歩していたけど、それで三方ヶ原は武田の敗北とかいうのかねその学者は。
73:人間七七四年
08/10/02 01:29:39 ZeYvalM5
案外受取人に迷惑かけないように名前伏せただけだったりしてな。
74:人間七七四年
08/10/02 23:14:27 G3ujRGPY
だから宛先は結城晴朝でファイナルアンサーなんだよ。
75:人間七七四年
08/10/02 23:30:41 fdCFeBTX
公記を疑う系の学者も、公記は負け戦を載せない、というのが根拠だから
手取川は案外重要と思うのだが、意外と事実かどうかの研究は進んでないのね。
76:人間七七四年
08/10/03 00:08:25 hwKOt/+N
公記には織田家の負け戦は散々載っている
ただ秀吉の負け戦は・・・議論の余地が残るな
77:人間七七四年
08/10/03 02:08:28 NdI7ybOG
公記の負け戦ってのはどういうのがそうなってるの?
78:人間七七四年
08/10/03 09:16:54 lLTGCyXm
義龍に負けた戦いが最低3回くらいあるのに信長記は減らされてるんじゃなかった?
他にも鹿之助を見捨てたのも秀吉側が負けたからだとか。
79:人間七七四年
08/10/03 10:05:10 DunNeQ0L
逆に信長が劣勢の兵力で斉藤側を大破した森部合戦とかも知られてないし、相手側贔屓の史料じゃスルーしているからな。
日本の記録なんてそんなもんだ。
80:人間七七四年
08/10/03 12:33:42 NdI7ybOG
つまり操作でどうにでもなるような合戦は重要ではなかった、ということか。
ま、桶狭間の45000も操作されてるからなんともならんな。
81:人間七七四年
08/10/03 12:47:54 yKO1TinY
結局、「謙信の書状」の宛名と日付けを調べもしないような連中が適当な
事を述べて時間を過ごす訳だ。
歴代古案内に集録されてる手取川合戦を記した謙信の書状の宛名と日付け
は、『長尾和泉守』『九月十九日』です。
82:人間七七四年
08/10/03 12:56:08 x7OwcggB
まあここには大河ドラマを見た程度で歴史通気取りになってるアホが多いからね
83:人間七七四年
08/10/03 13:18:15 NdI7ybOG
大河ドラマならいいじゃん。
今はゲームのイラストのイメージだもんな。
84:人間七七四年
08/10/03 13:43:56 qdWT5l+S
手取川の書状の宛名「長尾和泉守」と日付は
後世誰かが書き足したものだと越佐史料編集者は言ってるようだが?
85:人間七七四年
08/10/03 14:23:12 yKO1TinY
ご存知のように「歴代古案」自体は当時の第一級史料です。
今で言えば大学の教授レベルの人が(知識は違えど人間性は今も昔も違わない)
編纂した資料。
編纂した史料には注釈書きが多く記入されています。
それによると、「9月19日」の前に天正5年である事、「謙信」とは上杉謙信で
ある事、「長尾和泉守殿」とは傳兵衛祖父であること、当時は上州深澤に居た
事など、文中にも多く注釈書きが記入されています。
然るに後世誰かが書き足したものと言うことは、歴代古案に収録される前の書
状自体が写しであったと言う事になる。もっと言えば「文章に書かれている事
は本当だが、日次と宛名は偽造で謙信の署名も同じ文面を書いた者が書き写し
たものです。」って言ってるようなもの。
86:人間七七四年
08/10/03 14:48:03 bnNCcFIU
>>85
「歴代古案」自体が当時の第一級…の当時を江戸時代に変えなよ
「歴代古案」自体が江戸時代の第一級史料って
87:人間七七四年
08/10/03 14:57:18 yKO1TinY
>>85
おいおい勿論そのつもり(江戸時代の第一級史料)で書いたんだが(笑)
上にもあるが、一次史料とは編纂ものであっても当時(編纂された当時)
の認識を知る上で一次史料になる。ただし偽書はその範囲に入らない。
(偽書は編纂した年代事態を誤魔化す手法を取るから)
88:人間七七四年
08/10/03 15:19:06 bnNCcFIU
俺が思うにだ、今でこそ研究が進んでるから例の書状の内容は「あり得ん」と思えるし、ましてや戦国時代当時を生きる謙信としても「あり得ん」と思えるだろうし、実際小競り合い程度のものはあったかどうかは分からんが…
あったとしてもそんなあり得ない話にしようと思わないだろうし
ではそんなあり得ない内容にできるのは誰なのか?
答え・戦国時代も信長も謙信も信玄も伝説的な物語りで、今ほど研究が進んでいなかった江戸時代の人
89:人間七七四年
08/10/03 15:20:34 VCNhYKMt
勝家の北陸方面での活躍が大幅に省略されてるね。
それと秀吉の毛利相手の大敗も無視されているらしい。>信長公記
90:人間七七四年
08/10/03 15:25:21 bnNCcFIU
>>89
手取り川で織田方の大敗があっなら秀吉が柴田の名でもっと大袈裟に書き替えてるだろうね
91:人間七七四年
08/10/03 15:25:43 6YUt0nky
へー、そうなんだ
自分は一次史料とは同時代の史料と習ったと思うが
流石に数十年も時経てばとても同時代の史料と認められないだろう
明智軍記にしろ、甲陽にしろ、武功夜話にしろとても一次史料として認められないうえ
悪書というレッテル張る研究家もいるのに
江戸時代に書かれた史料?をそのまま史料批判もせずに戦国時代の出来事が正確に書かれていると
鵜呑みして良いものかと
92:人間七七四年
08/10/03 15:35:29 2seDYT+M
上杉家の記録って信用できるものばかりでもないけど、
創作された絵空事ないし疑わしいと見られる伝承や記録の大半が、
なぜか謙信と景勝を持ち上げる内容じゃなくて、
むしろ貶めるようなものばかりなんだよね。
あとは個人の祖先の感状。
93:人間七七四年
08/10/03 15:37:54 bnNCcFIU
史料って言っても用途によっては一次として扱われたり二次になったりだしね
平成の時代にまとめられた史料も、五百年後の人にしてみれば「平成時代の人達の歴史認識を知るうえでの一次史料」にはなるけど「戦国時代を知るうえでは二次史料」になっちゃうし
94:人間七七四年
08/10/03 15:50:22 NdI7ybOG
ちょっと横から悪いが、武功夜話は偽書とは思うが小和田は「家伝史料」としてみるべき
と言って十分にその価値を認めてる。
別の研究家も、偽作部分はある、としながらも、全てはそうでない、として
その価値を認めていたりする。
このあたり、一次二次の定義にとどまらず、史料的価値とは、という問題になってしまうんだが、
個別で、明智軍記、甲陽、武功、どういうように解釈してます?
せっかくの機会なので、聞いておきたいんだけど。
95:人間七七四年
08/10/03 15:53:47 yKO1TinY
まぁ当時の他の記録には全く載らず、それを唯一語ってる謙信の書状事態が
手取川合戦の前に出されて居るようじゃあ正直な話合戦が在ったなんて言う
のは無理がありすぎると思うんだがどうでしょう?
96:人間七七四年
08/10/03 15:57:26 yKO1TinY
武功夜話は偽書だと思ってる。
小和田先生はやっちゃった感まるだしだしもう引くに引けない黒歴史。
97:人間七七四年
08/10/03 16:01:48 x7OwcggB
まあ小和田はアホだからな
偽書と認める事は歴史学者として死を意味するから必死なんだよ
98:人間七七四年
08/10/03 16:04:50 6ZduYazA
手取川の合戦自体はあった。
だが戦略的な意味はともかく、戦い自体は上杉方が喧伝するほど大したものではなかった。
こんなところではないかな?
99:人間七七四年
08/10/03 16:10:06 NdI7ybOG
>>96
日本歴史の八月号だったかに、小和田の最新の論文が載ってたけどみた?
確かに全部が昭和になってからの偽作、にも思えなくて悩ましい。
とりあえず吉乃とか土田とか出てきたらスルーすることにはしてるが。
100:人間七七四年
08/10/03 16:10:11 Fo2fq9tY
小和田なら武功に騙された本だしてもう一儲けするだろ
101:人間七七四年
08/10/03 16:11:17 yKO1TinY
先生も犠牲者なんだって、名義貸しと同じで軽い気持ちだったのに反響が
余りにも大きすぎた。第一実物を研究する以前からみんなで一斉に本物に
しちゃった。有名作家が書いた本に「小和田先生先生、ちょっと帯にコメ
ントくださいよ!」って菓子折り持ってきた知り合いの編集者が居たとし
たら、人の良い先生が「はいはい」ってコメントする→「大先生のお墨付
き完成!これは史実!!」って成って気づいたら偽書を片手に第一線で戦
う羽目になったって感じ。
102:人間七七四年
08/10/03 16:18:55 Xp77rtwV
>>101
それを俗にアホっていうのです。
103:人間七七四年
08/10/03 16:26:58 NdI7ybOG
そう。
ツガルもそうなんだけど、引くに引けなくなって、というのは自分の責任。
小和田せんせが、まだ「一級史料」を「家伝史料」に変えてがんばってるの見ると
このあたりで引いたほうが・・とは思うんだ。
104:人間七七四年
08/10/03 16:35:14 yKO1TinY
例えば手元に「戦国武将100話」って本がある。
本には「桑田忠親 監修」ってだけ乗っている。
監修の言葉として本の帯に「100人もの人物を選択し、網羅したところに、
まず苦心のあとが窺われる…」って数行程度の文がある。
でっ本を読めば史料から持ってきた話もあれば、どっかの作家が書いた話が
載っている。書いた人は特に山岡荘八のファンであったんだろうなってのが
ありありと伺えられる。
まぁこれがコーエーなどのゲーム本で参考図書となる訳だ。桑田先生は悪く
ないっていうか書いては居ない。飽く迄も観賞して数行のコメントを寄せた
だけだ。だが本の表紙にはタイトルと桑田先生しか出ていない。末尾には写
真入りで桑田先生が紹介されている(本を書いた人の履歴やコメントもある
が本の表紙には一切載っていないし写真も無い)
まぁこんな感じで学者が利用されるわけだ。
105:人間七七四年
08/10/03 17:46:58 NdI7ybOG
オチがあるのかと思った・・
106:人間七七四年
08/10/03 18:14:51 zH5YrbT3
つまり信長過大評価の流れで手取川を不定してるわけですね
107:人間七七四年
08/10/03 20:13:57 yKO1TinY
>>105
十分なオチだと思ったんだがな(笑)
因みに>>104で紹介した桑田忠親先生なんてのは第一線を退いたあと、75歳
過ぎても何十冊って本が出て、亡くなられた後も普通に新刊が出てた。
流石にそろそろヤバイだろうって、死後10年にしてようやく筆を休められた
大先生だ。
108:人間七七四年
08/10/03 20:33:29 NdI7ybOG
>>107
今回のオチは良かったぞ。500石加増つかわす。
桑田せんせは、怨恨説、広めた元凶だけに死後の世界から
影響力及ばしてたんだろな。
109:人間七七四年
08/10/03 21:13:00 8QqhGZe9
>>95
戦国時代は暦は地域ごとに独自のものを使ており謙信の書状の日付が手取川の前
の物だとしても否定の根拠にはならないと前スレかなんかで見たような。
110:人間七七四年
08/10/03 21:20:41 XRnSPK6r
>>91
戦国当時の一次史料などをいろんな所から集めて編纂したのが江戸時代であって
江戸時代になって書かれた史料を江戸時代に集めたわけじゃないと思うが
無論偽書や江戸時代に入ってから書かれたものも混ざってはいるだろうけど
111:人間七七四年
08/10/03 21:50:33 bnNCcFIU
>>110
そう
だから参考にはなるけど、全部鵜呑みにはできない
他の物と照らし合わせて矛盾が無いか調べなくてはならない
そして「手取り川」に付いてはだ、他にそれと該当する話は他史料には無く、内容も信じがたい内容である
そこまでは事実
それでも「有った」「無かった」を言うのは最早感情論以外の何者でもない
112:人間七七四年
08/10/03 22:02:36 lLTGCyXm
ちなみに北条は三島暦を使ってたが京とは日にちにズレが思いっきりあったし
信長も尾張と京の暦の違いを、どちらが正しいか調べるように命じていたが本能寺で死亡
113:人間七七四年
08/10/03 22:44:26 Ez8Pe4Rk
京暦は日食外れ。
三島暦の方が正しかったらしい。
114:人間七七四年
08/10/04 00:08:54 M5S3gimT
>>79
森部はしっかり信長公記にのってるが兵力は書いてない。
毎度のことながら劣勢で、って何が出典なんだよ。
森部をいうならその後完敗した14条が知られてない事も留意しろよ。
115:人間七七四年
08/10/04 01:55:21 qxewa6sV
十四条も普通に載っているだろ
116:人間七七四年
08/10/04 14:02:44 C/Mh9m8M
>>111
同意
そもそもそれだけの大敗を喫っしたにも関わらず
柴田勝家に信長から全く咎めがなく
またそれ以前に無断撤収した羽柴秀吉があの程度の謹慎で終わったのは解せない
天王寺の戦いで惨敗敗死した原田直政の一族は追放されたし
第一次伊賀攻めで無断攻撃し惨敗した信雄は一門衆でありながら事実上独断で兵を動かすことを禁じられ
次に失態があれば親子の縁まで切ると信長は激高した
これを鑑みると果たして手取川の合戦なるものが本当にあったのか疑問をはさまざるを得ない
117:人間七七四年
08/10/04 14:49:25 LBX9D9Ht
>>116
さすがに極論じゃないかね?
怠慢に厳しい信長なら、
命じられた援軍に間に合わず、手合わせもなしにすごすごと引き上げる方が叱責するだろ。
「それだけの大敗」と言うけれど、数千人討ち取りされながら将領クラスは失っていない。
お咎めについても織田は手取川の記録も残してないんだから、
実際には咎められたかどうかすらわからないが。
118:人間七七四年
08/10/04 15:16:59 C/Mh9m8M
>>117
書き方がまずかったか
自分も手取川の合戦なかった派だよ
119:人間七七四年
08/10/04 15:35:18 ngdFaOXg
なかった事にしておいても、誰が何を困るというの?
120:人間七七四年
08/10/04 15:59:38 1+fikJE2
NHK様がお困りに成るに決まってんだろ!
121:人間七七四年
08/10/04 16:05:15 LBX9D9Ht
あると困る人もいるみたいだよw
122:人間七七四年
08/10/04 18:23:32 JflmIG2i
>>111
事実は逆で近年研究が進むにつれ手取川の戦いがあった可能性が高くなってるの
近年大河ドラマなどの影響で信長の評価が高くなり(過大評価?)研究も進んだ
事実手取川の戦いは歴代古案みたいな信憑性の高い文献に載っていながら1980年代
あたりまで無視されていた、大河ドラマでも1988年の武田信玄の最終回で一瞬ふれるぐらい
手取川と言う名称さえ出てこない。
>>81
得意になってるところすまんが、そのことは前スレに出てるんだけど。
123:人間七七四年
08/10/04 19:22:18 LBX9D9Ht
手取川の合戦がないなら、柴田もせっかく大軍を編成したのだから、
そのまま加賀を征圧しただろうね。
124:人間七七四年
08/10/04 19:33:26 SDN3a4xO
織田軍の戦略目標は能登の救援だろ。
加賀北部まで出られたなんて、そもそも手取川うんぬん以前に戦略的に大敗北してる
だろ。
125:人間七七四年
08/10/04 19:48:46 ark+JahV
>>124
最後まで能登を支配し続けていたなら上杉の戦略的勝利だっただろうね
でも実際はそれが切っ掛けで織田との戦いが本格化していき、上杉の衰退が始まるわけで
しかし小規模な夜襲くらいはあったとして、それを話を膨らませて自慢したくなるほど謙信にとってはビックネームだったんだね>柴田勝家
126:人間七七四年
08/10/04 19:59:13 SDN3a4xO
まあ謙信存命時に衰退が始まったんなら、手取川なんてどうでもいい合戦だよな。
実際は織田軍のオールスター軍団が何もできずに、一気に上杉軍の進出を許した
無様な戦争。 手取川なんて局地戦の有無なんてどうでもいいことだよ。
秀吉なんて怖くて怖くて逃げちゃったんじゃない?
127:人間七七四年
08/10/04 20:02:26 HscE1K26
小牧の戦いで家康が池田勝入その他を破ったのを宣伝したようなもんだろ
実際の指揮官が誰であれ織田信長に勝った!と言えるわけだし
128:人間七七四年
08/10/04 20:53:30 LBX9D9Ht
結局は>>127が結論でしょうね。
後詰めを失敗させ、加賀の一揆勢を上杉に帰属させ、
既にあってもなくても大勢に変化のないような局地的な戦闘だったけれど、
謙信が誇大して吹聴すれば、情報追撃が加わる。
信長公記に書かれていないのも、その情報戦の延長かもね。
129:人間七七四年
08/10/04 20:54:18 1+fikJE2
>>122
>事実は逆で…
なんて恥ずかしくも無くよく言うわ。どんな事実が出てるんだよ。
上杉ってば全国の戦国大名の中でも可也研究されて本も出てるが、手取川
合戦に付いては全く史料が出てこないじゃないか。歴代古案の中にある千
以上の書状の中でも1通しか確認できない。しかもその書状事態が非常に
怪しい。
前スレにもある日付けなどは擁護派がわざと『9月29日』に直してまで主
張してる。だから日付けを聞けば勘違いした奴が(>>56)出てくる始末。
130:人間七七四年
08/10/04 21:52:43 LBX9D9Ht
>>129
書状写がなぜ「非常に怪しい」のかがわからんなあ。
そういう台詞は、実際に当時の情勢と矛盾する材料があってはじめて成立するもんだよ。
一枚二枚しか史料のない戦なんて少なくない。
本当にでっちあげなら、もっとそれらしい書状や感状がわんさかあるんじゃないかね?
仮に書状写が写しであるだけの理由で「非常に怪しい」なら、
信長公記なんて史料価値ないぞw
写しであり、更に何か疑うべき条件があるなら、
あんたのご説もネット以外で通用するかも知れないがね。
131:人間七七四年
08/10/04 23:43:02 1+fikJE2
>>130
書状の日付けと宛名が可笑しいだけでも十分怪しい理由に成ると思うだがな。
情勢で言えば文中での織田家の動向を伝えた文面も間違っている。
また信長公記についていろいろ言われているが、信長公記が大きな事件に注
意して記載しているのは巻八以降である。
他の情勢(謙信のその後の能登分国仕置き等)を見ても上杉が手取川まで軍
を動かした様子は無い。
あと織田軍のオールスターって言う認識も少し違うな。
秀吉が撤退したのは一ヶ月以上前であり、手取川合戦頃には織田軍の主流は
北陸には既に居らず2万程度の軍勢だった。
当時の織田軍の主力が動いた戦いを見れば、天正3年の越前一向一揆や天正
6年の上月城救済などは7万規模の軍勢を動員している。
132:人間七七四年
08/10/04 23:58:04 1+fikJE2
まあそれにさ常識的に考えて、当時(手取川合戦時)は誰も知らなく
て話題にも載らない謙信公の大勝が、江戸中期になって急に上杉家だ
けに史実として語り継がれるように成ったのは可笑しいと思わない?
謙信公舐めていない?
どんだけ江戸初期から謙信マンセーされてると思ってるの?
将軍家なんてのは無理やり川中島の合戦書物創らせるしさ、対抗した
紀州公も負けじと謙信マンセーするし保科や上杉家入り乱れて家の格
上げたんだから、手取川合戦なんてあったら遠の昔に語り継がれてるよ。
133:人間七七四年
08/10/05 00:29:36 OCtGdIDq
>>132
徳川家だって自分たちの開祖大権現家康様が隷属してた信長様が無様に負けた
戦をクローズアップしたいとは思わんわな、秀吉がケツまくったことだけははクローズアップ
したいかもしれないけど。
134:人間七七四年
08/10/05 00:30:43 0QFclTCq
日付違いは地方別の暦の問題と説明できる、と少し前にレスがされていたね。
宛名は別人かも知れないがそれで書状の内容まで疑問視される理由がわからない。
信玄の恋愛書状が宛名が後筆になってるが、
相手が代わろうとも彼の恋愛を示す史料には何も違いないよ。
当時は誰もが知らなくても後から知られたってのは、
それがただの小競り合いだったからじゃないのかね。
俺は手取川があってもなくてもいいんだが、
書状写しを完全否定する理由がないので、
謙信側にこのような放言を許す状況が当時にあったと思う。
それが本当に「オールスター」相手に「千余人」も殺傷したかどうかは疑わしいけどね。
ただ、それは当時の全ての軍事報告について言える事だが。
135:人間七七四年
08/10/05 00:38:12 0QFclTCq
それと、上杉マンセーと言うけど、
マンセーされてるのは宇佐美だよ。
上杉はむしろ宇佐美の都合のいい君主にされている。
野尻池とか晴景殺害とかね。
しかも宇佐美側は上田に怨みがあるのか、
御館の流れを景勝側が悪く見えるようにしてる。
そして宇佐美は御三家紀伊潘のお墨付きだから、
こいつが上杉年譜の記述に参加しても口だし出来ず、
上杉年譜は宇佐美の自己宣伝に曲げられた形跡すらあるw
136:人間七七四年
08/10/05 01:01:32 pk8CRFv5
>日付違いは地方別の暦の問題と説明できる
いえ出来ません。文面に「先に送った書状と同じ月の何日に~なになにが
あった」って書いてる訳です。でっ書状を記した日時が9月19日に成ってる
訳です三島暦を採用していた上杉家でも説明がつきません。
>信玄の恋愛書状が宛名が後筆になってるが…
よく宛名が後筆と言われる人が居ますが、歴代古案の謙信の書状の宛名は
後筆ではありません。宛名の人物を説明した文が後筆なだけです。宛名が
後筆ということであれば、文面も謙信の署名もすべて後筆に成っちゃいま
す(笑)
137:人間七七四年
08/10/05 01:13:10 pk8CRFv5
ちょっと言葉足らずだったです。
日付けに付いてですが、「先に送った書状と同じ月の23日に~」って
言う文章が書状の中にあるから書状に署名した9月19日が翌月以降に
なるって事に成るのです。
宇佐美もそうですが、まぁ徳川家の歴史(将軍家が事実上断絶しその
後は紀州家が事実上の天下を取る。ヨーロッパならば家が変われば王
朝が変わったとみなされ紀州朝でも可笑しくない)も影響しますね。
ただ、将軍家光の代で既に武田や上杉は別格の扱いを受けて、歴史が
編纂されていますよ。
138:人間七七四年
08/10/05 01:55:50 OCtGdIDq
>>137
俺も手取川があってもなくてもどっちでもいいんだが。
ようするに君の言いたいことを噛み砕いて言うと9月19日に出した手紙に9月23日の
事が書いてあるてこと。
まっ100歩譲て謙信の書状が捏造としてもあまりに幼稚過ぎないか?
かりに米沢藩が捏造したとして誰でもわかるよなもん作らんだろ。
これは単純に日付を写し間違えたと思うのが自然じゃね。
139:人間七七四年
08/10/05 02:11:19 pk8CRFv5
それこそ幼稚な発想では?
誰も米沢藩が捏造したとは言っていない。第一学者って言う部類は今も昔も
生真面目過ぎるくらい生真面目だ。だから未だに「東日流外三郡誌」なんて
のを真面目に信じてる学者もいる。
歴代古案を編纂した者達も一流の学者達だったと思う。故に態々後筆や朱書
を書いて補てんしている。あと日付けを書き間違えるってのも今のように、
「一九」「二九」なんてのはない。「二十」は「廿」と書かれるから。
140:人間七七四年
08/10/05 02:27:06 pk8CRFv5
結局さ、手取川合戦の当時の史料を探しても何も見つからなかった現代の
学者達はこの一通の書状の辻褄を合わせる為に、「書状の文面も謙信の署
名も本物だが、同文で書かれている(つまりは歴代古案に載せられた時に
同じ筆跡だった)日時と宛名は偽装されたものである」って言う可笑しな
結論になった訳だ。
141:人間七七四年
08/10/05 02:46:23 uWnyBiRG
謙信の書状直後に
摂津石山の下間ライレンが謙信に従った加賀衆へ感状を出してんだろ?
北徴遺文とかいう一次史料
名を高める首を挙げた貴方は素晴らしい!感動した!って内容が書かれてたとか
数日後に摂津に伝わるくらいの合戦だったのかなあ
と思うんだが
142:人間七七四年
08/10/05 06:08:39 0QFclTCq
自分には歴代古案を見直さないと書状について検討できないのでひとまず当論は人に譲るとして、
手取川がなかったとしたら、>141にあるように、上杉ではなく加賀衆と織田の小競り合いがあり、
織田の敗退はそこに因があると言うことになる。
そして上杉はその自ら織田を撃退した加賀衆を、
なぜか上杉の被官として軍役を課しているが、
これはどういう事なのか。
足を踏み入れずに他国の衆を組織に取り組むなど、
その組織に相当な圧力がなければ不可能な事だが、
上杉には手取川などなくてもこういう芸当が出来るほど、
強い力がその名に付加されていたのだろうか。
そんな漫画みたいな話があるのかどうか、強い疑問を感じる。
143:人間七七四年
08/10/05 07:50:31 AZK5aO3d
ちょっと意味わからんのだが
「先に送った書状」ってのがまずあるんだろう?どんな内容だったん?それに9月と明記されて謙信が署名してんの?
歴代古案に収録されてるのが「先に送った書状と同じ月の23日に~があった」謙信が9月19日に書いた?送った?受け取った人物が書き足した?
だから9/23の出来事を9/19に書いたと言うこと?
あと伊豆の三島暦は旧北条領と一説に甲斐や駿河で使われていたとの事だが、
伊豆から遠い越後でも使われていたのは初耳なんだが…?
19日に忙しい中で途中まで書いておいて、謙信が書状を23日に、いざ送る時になって文を付け足したんでないかね?
あるいは署名などは右筆が書いてるとか。
謙信は越山した時に寒さで手が震えて書けないから署名用のハンコも持ってたろ。
144:人間七七四年
08/10/05 08:00:46 AZK5aO3d
あと当時は名前や日付の誤記はよくある事だよ。
しかも加賀や能登での現地の暦で謙信が書き分けている可能性もあるし。
信長も尾張と京との日付があわないと不便だから、どちらの暦が正しいか調べろと言ってるし。
江戸の秀忠が上洛する時に日付が京と合わず困って、家康が駿河で三島暦を使ってたのを参考にして日付を調整して上洛してる。
関ヶ原の秀忠の遅参も暦のズレと言う可能性すらあるくらい。
145:人間七七四年
08/10/05 08:45:22 AZK5aO3d
ついでに謙信って大ウソ吹聴書状っていろいろあったっけ?記憶にないが…
信玄や氏康らは情報合戦やってたみたいで過大宣伝のウソ書状とかあるが。
146:人間七七四年
08/10/05 09:16:42 iEBpDVHZ
合戦がなかったとしたら織田方が兵を越前まで引いた理由が説明出来ないよな。
40kmも引いているが、いくら上杉方の南下の情報を掴んだとしたとしても引き過ぎだ。
安土と京都間の距離と同じくらいだ。
これだけの距離を引くのは自然に考えれば敗走したと考えるのが普通。
合戦せずに様子見を決め込むための引きならば、この半分の20kmくらいで充分だ。
147:人間七七四年
08/10/05 09:29:49 NJafNr6Q
偽情報とかに撹乱されて後方が不安になったからだろうが
そんな事も分からんのかボケ!!
148:人間七七四年
08/10/05 09:36:00 iEBpDVHZ
>>147
それは敗走と同じだろ。
源平の富士川の合戦を知ってるか?
まともな戦闘がなかったから合戦ではないというなら富士川の合戦は合戦じゃなくなるよな、おまいの発想では。
149:人間七七四年
08/10/05 10:00:53 UxgQ6Aw0
>>145
だれそれは足を撃ち抜かれだれそれは大怪我しました、
他は軍の被害状況を家臣が体の不自由な私を気遣って
隠すので詳細は分かりません、とか
書いてる手紙はあるから単純に謙信が状況把握できてない書状はあるかもな。
150:人間七七四年
08/10/05 10:04:59 NyoA6OoX
手取川があってもなくても織田の負けであることは変わりないなあ。
151:人間七七四年
08/10/05 10:11:40 Ax9dmGqT
>>150
↑
たまに妙な煽り入れる奴がいるね
上杉んとこにはあんまりこういう奴見掛けないから、どっかの○○厨が紛れ込んで煽ってると考えていいのかな?
152:人間七七四年
08/10/05 10:39:26 pRMfQfMt
29日と記す史料と19日と記す史料があるらしいね。
歴代古案は19日。
153:人間七七四年
08/10/05 10:53:40 k4hDpaqr
まあ織田厨は手取川ない説に拘って、能登を保持できず加賀まで侵略された
戦略的大惨敗を糊塗しようと必死だよね。
154:人間七七四年
08/10/05 11:06:25 Ax9dmGqT
>>153
保持?
能登は織田領だったの?
長連龍さんが能登の領主だとでも?
155:人間七七四年
08/10/05 11:11:58 Ax9dmGqT
>>154
失礼
続連の間違い
156:人間七七四年
08/10/05 11:39:49 dYcPiV3d
ざっとログ読んでみた。そして歴代古案の書状全文読んできた。
これはどう見ても江戸時代に創作しうるような文章や内容ではない。
仮にこれが偽書状だとしてこうまで巧妙に偽書状を作るだけの学力(天正年間の知識)があるなら、
順当に考えてこんなことに精力を注入せず他のことに用いると思うのだが。彼らだって暇じゃないしね。
歴代古案はその成立が軍記ものと異なり、上杉家の喧伝のためではなく、
純粋に学術的史料として編集された性格である以上、
このようなでっちあげをやるものとは考えがたい。
日付に関しては暦の問題か誤記かのいずれかと見るのが妥当だろう。
でなければ、ここまで完璧に天正記の長文の書状を作りながら、
間抜けにも日付でヘマをやったりしない。
ところで手取川の合戦否定説ってネットから生じたものだよね?
この数年、wikipediaとか参考にするくだらないライターが真に受けて否定説があるとか取り上げるけど、
wikipediaってネット起源の論説は独自研究になるから採用しない方針じゃないのかw
157:人間七七四年
08/10/05 11:58:47 Ax9dmGqT
>>156
そりゃあんた単純過ぎるって
仮に今君が捏造書作ろうとして、現代語で作るか?
まず当時の文語を学ぶなり専門家に訳してもらうだろ?
その出来が完璧だったから、日付が違おうが内容がトンでもなかろうが、全て真実で罷り通るなんて、そりゃ無いわ
158:人間七七四年
08/10/05 12:14:26 AZK5aO3d
謙信の書状さえ怪しいなら、日付さえあってれば、でっち上げさえ可能だよな。
そんな事を言い出したら完璧な捏造文書が世の中の史実として
たくさん罷り通っているからすべて疑がわしいものになるわな。
武功夜記が捏造とされた決め手は戦国期に使われない言葉や地名だろ。
謙信の文書には具体的に不信な言葉遣いや地名が出てくるのか?
日付の誤記なんて信長公記だって、ふつうにあるだろ。そもそも公記なんて天理本や池田本など何十種類もあって、みんな微妙に違うだろが。
公記池田本では池田も武田滅亡戦に参戦してるしw
159:人間七七四年
08/10/05 12:22:35 GH9q8gGz
書状自体の信憑性と書状の内容が事実か否かは別の話ではないのだろうか……?
160:人間七七四年
08/10/05 12:27:14 dYcPiV3d
>>157
要するに完璧な捏造書を作る動機や根拠が乏しいといいたいわけですよ。
文章がまっとうで内容もまっとう。これで疑えという方が無理ではないかと。
彼らがなんでそこまでして手取川の合戦をなかったことにしたいのかがわからない。
陰謀史観にハマった人や従軍慰安婦問題で戦う韓国人の人たちと似た感じだよ。
はじめに結論ありきで語るから、強引になる。とにかく積極的に何か見つけてはつつく。
史料批判の限界を超えてもつつく。
冷静になってほしいと思う。
161:人間七七四年
08/10/05 12:45:23 Ax9dmGqT
>>160
同意
もう一度冷静になって書状の内容がまっとうか考えてみようぜ
まず答えありきでは無くてさ
162:人間七七四年
08/10/05 12:59:04 73E+CH3z
決定的な代物が出ない限りは繰り返しだな。
それに手取川合戦のそれ自体があろうがなかろうが大局に影響が無さそう。
163:人間七七四年
08/10/05 13:22:34 Ax9dmGqT
だな
ついでに>146に答えると
戦線伸ばして一向衆に後ろ取られるから
合戦有無問わず当たり前の判断だよ
164:人間七七四年
08/10/05 13:31:45 tERnUj1z
この時、加賀一向宗と謙信が連携してる可能性がどれだけ高いのか
それも肝だと思うな
頼簾の感状は激戦に応えて、現実に発給されてるんだし
謙信が松任から諸隊を先行させ、自らも出陣したという書状の日付とも重なる
この発信元が違う、二つの一次史料を精査した井上鋭夫は
手取川に到るまでの一向宗と謙信との関係をも纏めてるけど
この時期の加賀一向宗って、謙信を「御屋形様」と書状にしたためるなど
かなり服属してるんだよな
あとこの戦の一月後、越前で柴田義宣が門徒の蜂起に遭って討死
柴田勝家自身も加賀北部への出馬はおろか、加賀南部にすら殆ど出兵しなくなるわ
加賀南部の制圧だけで3年近くもかかり、放火を繰り返すなど相当手を焼いてる
165:人間七七四年
08/10/05 13:37:32 Lh4IxFKb
まあ元の書状自体は謙信が書いたと判断したとしても、
やはり問題になるのは織田方の合戦被害でしょ。
千人以上討ち取られて、かつ川で溺死した人数も少なくないようだけど、
織田軍は名のある武将が一人も死んでない。
166:人間七七四年
08/10/05 13:45:07 73E+CH3z
織田軍が撤退したのは七尾城が陥落したとの一報が入ったからじゃないの?
目的は七尾城の後詰なわけで作戦的にはこれ以上進軍する理由が無い。
越前に戻るのが普通の軍事行動かと思う。
167:人間七七四年
08/10/05 13:57:27 DMGZEkij
>>156
谷口克広なんかは信長公記や当時の一次史料に合戦の記述がないことから、
通説のような大規模な合戦はなかったんじゃないかと考察してる
ただ彼にしたって合戦の存在そのものは否定してない
自分は「手取川が上杉による完全な捏造だ」と主張してる人は2chでしか知らないな
168:人間七七四年
08/10/05 14:05:13 OCtGdIDq
織田軍が手取川を越えたことは勝家の書状で確認されてるしその書状には
これから松任城を攻撃する旨のことが書かれている。
松任城と手取川の距離がどのくらいかわからなし(地図でみると10kぐらい?)、その書状が書かれたとき謙信が
松任城に入てたかは分からないが織田軍と上杉軍がかなり近い距離にいたのは間違いないのでは
それでなにもなかったとするのは物理的に苦しいのでは、それに謙信ほどの武将が射程距離に入った織田軍を
おめおめ逃がすとは思えないが。
169:人間七七四年
08/10/05 14:10:22 tERnUj1z
>>165
それはある程度説明がつくような
戦国最大の山岳戦とか謳われる三増峠でも
浅利さえ流れ弾に当たらなければ名ある武将は死んでない
上杉軍 対 加賀・越中一向宗・神保・椎名連合軍の尻垂坂合戦でも
河が血の色に染まるほどの激戦で
この合戦以降、北陸一向宗は勢威を失って上杉が西へ大きく伸張する
謙信死後、河田長親が斉藤新伍に大敗した月岡野も被害武将は聞かない
手取川の頃の織田北陸方面軍は、支配して間もない敦賀~越前など
降伏したばかりの将兵を多く抱えていた時期
彼らの中には元・越前一向宗も多く含まれている
大抵こういった地元の連中が、最も危険な先鋒や殿を任される
上方で織田側の記録をつけてる者も、上杉側も、彼らを詳細には把握出来てないだろう
昨年、先月、昨日まで一向宗だったのに、最近織田方になった将兵などは
170:人間七七四年
08/10/05 14:13:04 tERnUj1z
>>169
上杉軍 対 加賀・越中一向宗・神保・椎名連合軍の尻垂坂合戦でも
河が血の色に染まるほどの激戦で
この合戦以降、北陸一向宗は勢威を失って上杉が西へ大きく伸張する
が、この大合戦でも両軍名有る武将の被害は不明 ←肝心の一文が抜けていた
171:人間七七四年
08/10/05 14:21:30 dYcPiV3d
武将の死傷が確認できない合戦は探せばいくらでもあるね。
謙信のいう「千余人討捕」も死傷させたという意味じゃなくて、
単にその人数を敗北させたという意味だろうから、
大決戦があったのでなく、逃げ遅れたか置き去りにされた
先方衆が撃退されただけということになる。
当時の成敗、討ち取る、闇討ちなどは、
今みたいに「相手を殺す」という意味じゃなく、
あくまで「負かす」っていう意味との説もある。
少なくとも謙信が千人あまりの織田方に勝ったのは事実なんだろう。
172:人間七七四年
08/10/05 14:34:30 GH9q8gGz
>>171
> 少なくとも謙信が千人あまりの織田方に勝ったのは事実なんだろう。
手取川付近で何らかの戦があり、遠征してきた織田方を上杉方が追い返したのは事実だろうが、千人あまり云々というのは事実とまでは言えないんじゃないかな?
173:人間七七四年
08/10/05 14:47:02 Ax9dmGqT
まあ関東遠征に向けてのプロパガンダだったんだろうね
でもその矢先に倒れて、そのまま死去
プロパガンダの最初の一手だけが残り、それを史実と勘違いする学者がいる
本当に史実なら他にも記録が残っていてもいいはず
174:人間七七四年
08/10/05 14:49:41 GH9q8gGz
>>173
> 本当に史実なら他にも記録が残っていてもいいはず
まあ、それも思い込みだとは思うけどね。
175:人間七七四年
08/10/05 15:54:24 ZM2waoe4
撤退するときに、織田首脳陣は
我先に、船橋で渡河して安全を確保したんだろ。
置き去りにされた兵が氾濫した川の濁流に飲み込まれるか
渡河できずに殺された。
まぁ雨天での機動突撃戦だよな。
諜報戦で信長の作りあげた組織はすでに負けている。
176:人間七七四年
08/10/05 16:03:06 Ax9dmGqT
>>175
氾濫した川を渡し船で渡るなんてムリだから
しかも何艘いるんだよ?
何往復するんだよ?
177:人間七七四年
08/10/05 16:24:27 ZM2waoe4
バカだな。
早い時間帯に渡河した柴田らは助かったんだよ。
その後に、濁流化して
船橋が崩壊。
ちなみに利根川も船橋で渡ったりしてる。
即席で橋を作るのに舟は便利なんだよ。
お前もしかして、川底に木を打ちつける橋なんて
作ると思ってんのかw
178:人間七七四年
08/10/05 16:32:18 Ax9dmGqT
>>177
なんでみんな柴田と一緒に行動共にしなかったの?
残された兵は誰が率いてたの?
179:人間七七四年
08/10/05 16:37:54 OCtGdIDq
もうなんかアポロは月に行ってない必死に言い張る太田みたいだな。
180:人間七七四年
08/10/05 16:52:57 tERnUj1z
>>178
この頃柴田勝家は「殿様」と呼ばれてるから
真っ先に逃げただろうね(周囲が逃がしたというべきか)
渡河点というのはそれほど広くない筈
丹羽、滝川はじめ信長・信忠直属の美濃衆らも引き揚げないといけないし
相当な時間を要したと察せられる
普通に考えて前田・佐々・不破・金森、そして柴田一族(佐久間関係が多い)
ここらへんの北陸方面軍が、まずは勝家を逃がした後
越前衆を率いて殿を勤めたんじゃなかろうか
自分達の担当地域だしね
181:人間七七四年
08/10/05 17:39:39 Ax9dmGqT
いや、だから逃げる必要ないって、大軍率いてるんだから
本願寺と上杉の講和もなってるから一向衆だってどこに潜伏してるか分からないし、先に少数で逃げるほうが何倍も危険だから
182:人間七七四年
08/10/05 17:53:44 mukwbP68
じゃあ、逃げずに戦いなさいよ。柴田は。
謙信が襲撃してきていないならなおのことでそのまま北上するべきでしょ。
183:人間七七四年
08/10/05 18:01:03 Ax9dmGqT
>>182
能登攻略に向かったわけじゃないから
援軍に駆け付けようとしたんだから
その対象の七尾城が落ちたんだから帰ってもいいじゃん
184:人間七七四年
08/10/05 18:21:07 tERnUj1z
>>183
柴田は松任城を近日中に攻略したいって目標を目前の城に変えてるよ
松任を抜けば一向宗の本拠、金沢小山御堂も焼き払える
そうなれば加賀一向宗は事実上壊滅
加賀全体が柴田の支配下に収まる
しかし松任を攻めている最中、謙信率いる大軍に後詰めをされた場合
自分達が殲滅させられてしまう
手取川を渡り加賀南部へ戻れば、織田の大軍に大打撃を与えるほどの勢力は無い
それに大聖寺城という拠点も確保して有る
情報を遮断された中、謙信の大軍が南下してくるであろう加賀北部に留まるか
大した勢力の無い加賀南部へ戻るか
答えは簡単だろう
185:人間七七四年
08/10/05 18:49:03 Ax9dmGqT
まあ目標と今持ってる軍とは別だけどね
城攻めするなら物質的準備や戦略的環境を整えてからじゃないとね
186:人間七七四年
08/10/05 18:55:16 mukwbP68
だったらやっぱり撤退するのが適切ということですね。
187:人間七七四年
08/10/05 19:20:45 tERnUj1z
>>185
でも七尾へ後詰めに向かうのに
加賀北部の勢力を野放しにしたままってのは考えにくい
松任~金沢を捨て置いて北上したら、
下手すると能登の謙信&加賀北の一向宗とで挟撃されてしまう
せっかく信長から直属軍を分けてもらい、更に他国の領主まで派遣してもらった
勝家からしてみれば面目の上からも、成果が欲しい所
これだけの大軍が手元に有るというのも滅多に無い
当初から目標としていた、松任城攻略を願うのも無理はない
しかし情報を遮断された為、織田軍の諸将は不安に駆られ
予想以上に早く謙信が七尾を落とし、それどころか末森まで落とした為
勝家は引き返すしかなくなった
といった所ではないか
188:人間七七四年
08/10/05 21:06:07 AZK5aO3d
信長は士気に関わるから負けてもいいから一度は戦えと言ってるよな
189:人間七七四年
08/10/05 21:21:12 mukwbP68
その信長の言葉の出典は何ですか?
190:人間七七四年
08/10/05 22:00:04 OCtGdIDq
センゴク
191:人間七七四年
08/10/05 22:40:03 ZM2waoe4
正確には
「兵力差があって劣勢でも」
が最初に付いていたような記憶が・・・
192:人間七七四年
08/10/05 23:02:26 ugs5CDQI
謙信は織田軍は弱すぎると言ってたんだよね
193:人間七七四年
08/10/05 23:08:31 cSG6LMmQ
ノブオンだろ
194:人間七七四年
08/10/05 23:58:37 pk8CRFv5
手取川合戦の問題が行き詰ると必ず加賀の一向宗の話になるな。
まぁ肝心の上杉に合戦の史料が無いんだから仕方が無いが、もともと織田家
は対上杉というより、一向宗を相手に戦ってたのがスルーされ過ぎねえ?
だいたい書状の通りなら「両越と越中の兵を先達に向かわし云々」ってある
だろ加賀の一向宗と織田家の戦いを手取川合戦って言うのは基本違う。
あと大軍で上杉にあたって言うのも、当時の織田家の実情から言えば違う。
そりゃ天正3年時に正規の兵力が5千ちょいの上杉から見たら、2万近い織田
の軍勢は大軍だろうが、織田が同時代に行なった軍事行為に比べたら威力行
為レベルなんだよ。現に9月10日の段階で柴田らの連名で「重ねて軍勢の派遣
はしないようお願いします」って言ってる訳だ。
195:人間七七四年
08/10/06 00:02:11 pk8CRFv5
しかし威力行為の権化のような謙信ファンが「威力行為は敗戦です!」
って言うのは可笑しいよな。威力行為後の撤退が敗戦なら謙信なんて
100戦100敗の迷将じゃないか(苦笑)
196:人間七七四年
08/10/06 01:23:53 /5GGT+2i
あー、やっぱり織田厨だったんだね。
謙信憎しの感情をモロに出し始めた・・・。
197:人間七七四年
08/10/06 02:04:07 412mrqNz
最近武田スレが静かだと思ったら、織田厨達はここにいたか。
武田厨達“だけ”をを責めてて自己満してた織田厨達は更なる上をいく上杉厨達にはかなわないかw
まあ、とことん自分らが責めてた武田厨達の気分を味わうんだな。
198:人間七七四年
08/10/06 02:38:33 iRRYAIeM
>>194
でも実際この時期の上杉と加賀一向宗は切り離せないのでは。
小山御坊の旗本達は連名で謙信に加勢を依頼してるし。
その河田に宛てた書状は殆ど臣従してる内容。
反謙信の頭目だった杉浦を切腹させてまで上杉に擦り寄ってる。
謙信も加賀一向宗の意思統一を更に求め、石山本願寺に奥と鏑木の赦免を依頼。
手取川に到るまで上杉と加賀一向宗の関係は
まだ指揮系統が違う可能性が有るとはいえ、かなり強固になってるかと。
この合戦の時だけ上杉と一向宗を分けて考えるのは不自然だよ。
199:人間七七四年
08/10/06 05:16:26 4l6pWVYt
>>197
↑
要約しよう
「なんだよp(`д´#)q
最近構ってくれないのは上杉君と遊んでるからなのかよp(`д´#)q
また俺っちとも遊んでくれよp(`д´#)q
仲間に入れてくれよp(`д´#)q
寂しいじゃんかよp(`д´#)q」
200:人間七七四年
08/10/06 15:26:03 DEry1RdN
合戦があったかなかったかの問題は一旦棚上げさせてもらうとして
果たして織田の大軍なるものが天正六年の加賀に存在し得たのかという基本的疑問が生ずる
ときには数万などと四方が敵の戦況で留守居の兵を残さず織田全軍を集結したみたいな
途方もない兵力がその時加賀に集結したとは到底想定しづらい
柴田勝家は越前の三分の二を所領としていたが、兵農分離は進んでいたとはいえ
恐らく最大でも動員兵力は一万弱がいいとこ
前田、金森ら与力が合力したところで一万数千
それからまだ一向衆がうろつく越前・加賀南部に留守居として三千は残さねばなるまい
他の戦況を考みれば秀吉を除く明智、滝川ら遊撃軍も一万に満たないだろう
従って柴田軍が加賀へ入った兵力は推定二万弱
かつて加賀制圧を命じられ失敗した簗田広正は一万の兵だから妥当な戦力
それに勝家は越前の民政にも力入れていたため兵を余計に集められる財的余裕があったかも疑問
逆に兵農分離されていない上杉側は他正面が安定していたため
農閑期の根こ削ぎ動員が可能で兵力が必要な攻城戦も想定していたから
恐らく柴田軍より兵力が上回っていたのではないだろうか
これは織田、上杉双方に加担しない中立の立場からの意見だが
長レス申し訳ありません
201:人間七七四年
08/10/06 16:13:09 pN1AzdJ0
>>200
寡兵で敵地然たる加賀を進んで、
信玄と並ぶ名将相手の決戦をさせて、
信長は、謙信に勝ち戦の手柄を立てさせたいと?
さすがにそれはないだろう。
202:人間七七四年
08/10/06 16:17:35 412mrqNz
>>199
その要約無理があるなw
自分は引きこもってた殻をやっと破って進出した織田厨達ちょっと評価してるが。
いままで武田厨ばかり叩いてて自己満してた織田厨達は社会の厳しさを知った高校生に似てる。
(心の中だけで「自分はできる人間なんだ!」と言ってていざ社会にでたらたいした事なかった高校生にw)
203:人間七七四年
08/10/06 16:20:40 D+zVpZ66
>>202
巣に帰れ武田厨スレ違いでウザいんだよ
204:人間七七四年
08/10/06 17:05:33 412mrqNz
>>203
上杉厨だったら素直に謝る。
織田厨だったら
「スレ違いでうざい」←どう見ても言い訳。
じゃなくて
「悔しくてムカツク」
だろ?www
205:人間七七四年
08/10/06 17:06:04 DEry1RdN
>>201
七尾城の後詰めが柴田勝家の目的ならば城中の畠山・長軍と合力すれば
地の利もあり例え多少なりとも柴田側が寡兵であっても問題無しと思われる
織田信長は天正四年に天王寺砦に自ら僅か三千の兵を率い
雑賀鉄砲衆も含む本願寺勢二~三万の重囲を突破、後詰めに成功
光秀ら天王寺砦の守兵を救出しているからね
206:人間七七四年
08/10/06 17:15:29 t0OTtd2R
>>200
光秀は不参加でしょ
この時は柴田ら越前衆の大半に
若狭+佐和山の丹羽に北伊勢5郡?の滝川
西美濃3人衆と斎藤
それに当初は羽柴の着た近江郡
滝川丹羽羽柴らは10万~20万石ほど有しているし、西美濃3人衆と斎藤も美濃衆の中では大勢力
もう少し多いんじゃないかと
>>201
一応最初は後詰として信長信忠もあとから加わる予定だったんじゃ、
松永を警戒して出陣取りやめになったらしいが。
207:人間七七四年
08/10/06 18:22:20 wnm+7aWy
参加者
柴田、佐々、前田、不破、原、金森、丹羽、滝川、西美濃衆、武藤、羽柴、斎藤らが従軍。(羽柴秀吉は戦線離脱)
208:人間七七四年
08/10/06 18:31:38 09pjmNz2
>>200
果たして織田の大軍なるものが天正六年の加賀に存在し得たのかという
基本的疑問
おいおいそれはお前ら信長信者が歴代古案より信憑性が高いとほざいてる信長公記
や勝家の書状に載ってるんだぞ、もしかして謙信の書状に織田軍4万とか書いてるとでも思てんの。
それに天正六年に信長が大軍送ったてどの書物に書いてあるんだよ、まさか釣りとか言わないよな。
>>136
戦国時代の越後が三島暦使てたなんて聞いたこと無いぞ、もしそれが本当なら手取川の戦いの有無より大発見
じゃないか。
209:人間七七四年
08/10/06 18:34:32 DEry1RdN
>>206
まず言っておかなければいけないのは
織田の最大版図における兵農分離された全軍最大動員兵力の上限が六万といわれている
無論、浪人衆を召し抱える、又農民を動員するという裏技で暈増しは可能であるし
実際、行われた
例を挙げれば信孝の四国遠征軍の編成
信孝はたかだか二郡の所領しかなく自前の兵だけでは編成できない
伊賀、南近江の他国衆、雑賀衆までも動員しても足りず、上記のように
多数の浪人衆を召し抱え、十五から六十歳までの名主・百姓まで動員して
やっと一万五千の軍を編成できた
後者などは教練すら受けていないので戦力外になるのはわかりきっているが
案の定、本能寺後に自前の兵以外は四散した
もともと三好勢頼りの軍だからだろう
しかし上杉側の農民兵のなかには半農半武士の土豪が多い
上杉家軍役帳から察するに農閑期には上杉家中の専業武士の四倍をこれら土豪衆を動員できる
それはさておきとにかく天正六年の時点では信長側は四方に敵がおり
さらに一向衆の策動や武将の謀反に備えるための予備兵力や留守居は絶対残置せねばならない
従って所領の全動員数=遠征軍兵力になり得ない
あくまで信孝の場合は一門衆ということで信長が特別に遇したに過ぎない
210:人間七七四年
08/10/06 18:43:25 09pjmNz2
だから天正六年てなんなんだよ。
211:人間七七四年
08/10/06 18:51:27 wnm+7aWy
何かに憑依されて言われるがままに書いたんだろう。
212:人間七七四年
08/10/06 19:06:42 pN1AzdJ0
小数の兵を重臣に預けて大敵に当てるなんて織田らしくないね。
じゃあ、兵を分散しすぎてまともな決戦軍を動員できない織田は、
謙信が急死しなければ相当やばかったわけじゃん。
213:人間七七四年
08/10/06 19:39:54 4l6pWVYt
>>212
七尾城がどのように謙信の手に落ちたかを考えれば一概にはそう言えない
214:人間七七四年
08/10/06 19:47:09 ThSNpDcX
疫病と謀略だっけ?いくら上杉でも堅城の七尾は力攻めはできないだろうし
織田としては後詰には十分間に合うと思ってたのかな
予想外に早く落城してなおかつ予想外に上杉軍が接近してきて大混乱して
逃げてる途中で溺れ死んだってのが妥当かな そりゃ謙信からすれば
勝手に崩壊してくれた織田を見れば なにこいつら?弱杉ねー?って
あきれたくもなる罠
215:人間七七四年
08/10/06 19:54:08 4l6pWVYt
>>214
「だっけ?」って…
上杉ファンなら普通に知ってる事を「だっけ?」って…
しかもまた煽るような文面…
なるほど
視察ですね
お疲れです(≧Д≦)ゞ
216:人間七七四年
08/10/06 20:03:06 sZ+mZnac
信長は死せず...、野望は世界に...。
国盗り学習ゲーム世界戦国編β版公開
URL : URLリンク(soresuta.jp)
217:人間七七四年
08/10/06 20:10:02 09pjmNz2
勝家が一向宗と遊んでないでさっさと七尾城向かえば間に合たかもしれないのに
そうしなかったのは、謙信との対決をスルーしたかったためだろ。
後顧の憂いを掃うとか言い訳して時間稼ぎのアリバイ工作をえいえんやってたんだろ
手取川を越えてからも松任城攻めるとか言てるし間に合わす気毛頭ない。
218:人間七七四年
08/10/06 23:07:41 rI+idZaf
それくらい松任城から金沢が厄介だったんでしょ
はじめから無理があるんだよ
この北陸一向宗のメッカを素通りして能登に到達するなんて作戦
向こうは百姓まで上杉に味方して緘口令を布いてるってのに
織田連合軍も水島でウロウロするしか仕様がないわな
219:人間七七四年
08/10/07 09:26:49 X2MssgJR
はじめから信長の戦略ミスがあったわけだね。
勝家は信長の失態を代わりに受けるハメになった。
気の毒といえば気の毒だ。
220:人間七七四年
08/10/07 11:45:04 QFJBpq8/
戦略ミスというのはどうかな?
遠隔地ではあるが友好勢力である畠山氏が(実際にはその家中で権力を握っていた長氏ではあるが)救援を求めてきた。
上杉勢は織田家にとっても敵性勢力である。
援軍を派遣することによって畠山氏を上杉勢から救うことが出来れば、一気に前線を進めることが出来る。
もっとも越前と能登の間の加賀を完全に支配下におけるわけではないけど。
逆に見過ごしてしまえば織田家自身の版図は減らないけど前線において加賀の一揆衆と上杉勢を同時に相手にしなければならなくなってしまう。
ここは厳しいけれど援軍を出すしかない。上手くいけばそれでよし。上手くいかなくてもそれでよし。
こんなところだろう。
221:人間七七四年
08/10/07 16:12:27 X2MssgJR
北陸を敵性勢力に制圧されるのは、
日露戦争みたいに朝鮮半島をロシアに取られるぐらいやばくない?
両者とも上手くいかなくてもそれでよし、と甘い事は考えてないと思う。
222:人間七七四年
08/10/07 18:11:12 +ql47xJG
織田が畠山のために大兵を向かわせたのは事実と見ていいのかな?
それに対し謙信が対陣もしくは迎撃を行ったということ?
どちらにしろ加賀南部から七尾までは遠すぎのようですが。
223:人間七七四年
08/10/07 18:23:34 Wyc7sYKc
加賀衆の手引きもあったのかもね。
織田もまさかこの速さでと見くびっていたのだろう。
秀吉の大返しなどは更に上を行くが。
224:人間七七四年
08/10/07 18:26:51 rc0uWhPQ
信長の立場から言って、あの時点で割けるだけの兵力を差し向けた訳だし、
精いっぱいの事をしたんだと思うよ。
兵力不足の代わりに、織田家が伸張する上で最も功績があった者達ばかり。
つまり織田家家中で選りすぐりの有能な武将を派遣している。
特に稲葉一鉄だが、
信長直属軍において信長の足下に特別配置されるほど、信頼されてる。
信長は稲葉の城にわざわざ立ち寄って、一鉄の歓迎を受けたり。
この時、稲葉親子が信長の前で舞を披露すると信長大喜び。
信長は佐久間が笛を吹くと激怒したのに、対応がまるで違う。
この信長が最も信頼し、手元に置きたがり、高く評価していた稲葉一鉄。
そんな彼に直属軍を預け、北陸に差し向けただけでも柴田らは恐縮しただろうね。
225:人間七七四年
08/10/07 19:22:26 rc0uWhPQ
>>222
信長が長の為に派遣したのは間違いないでしょ。
長は畠山義隆を毒殺したり、一向宗と繋がってる遊佐と対立したり
七尾城内は一枚岩じゃない。
徐々に孤立し始めた長続連はその息子・連龍を
第一次七尾包囲網が解かれた直後から、信長へ使者として送っている。
それに応えた信長が援軍を差し向けるという流れだし。
226:人間七七四年
08/10/08 21:54:56 qNyv1yGN
手取川の戦いてドリフ大爆笑でウエイターの中本工事(柴田勝家)が料理運んでいたらつまずいて
レストランごと破壊してしまうコントみたい。
長さん(謙信)だめだこりゃ。
227:人間七七四年
08/10/08 23:06:06 qeOLW4oX
謙信、信長共に加賀と能登を手に入れる重要な機会であったのは間違いない
手取川があったかどうかは正直どうでもいい。
北陸を巡る一連の戦略で信長が負けたのは事実だと俺は思うけど。
228:人間七七四年
08/10/08 23:27:08 XQ3UKTGB
雑賀合戦直後の信長の戦略の基本は対本願寺じゃないの?
北陸方面は現状維持(越前確保)で上出来だと思うけど。
229:人間七七四年
08/10/08 23:40:02 ghF7hfad
現状維持どころか本願寺と上杉の一体化を促進させて、
しかも相手側の増強を目の前で許しているのはさすがに看過してはいかんだろう。
柴田の出兵はその重要性を信長が理解していた証拠ではないかと。
230:人間七七四年
08/10/09 06:50:32 Yviihamk
>>229
本願寺はもうだいぶ弱ってきてて、これじゃダメだって事で上杉と講和。信長包囲網に上杉が加わったわけで、これは謙信の腹一つで動く事で信長としてはどうしょうもない事だし…
七尾の疫病に付いてもどうしょうもない事だし…
大きくなれば味方も増えるが敵も増える。
上杉に付いてはその増えた敵の部分であって、勝ち負けや、成功失敗で語る事ではないと思うよ
231:人間七七四年
08/10/09 07:27:41 8pUvAg9U
織田は軍勢を動かしておきながら利益なし。人材と資金と労力の無駄遣い。
そればかりか湊川で謙信に千人以上討ち取られて人馬も際限なく流されています。
これは紛れもなく失敗であり、敗北ではないでしょうか。
もっとも信長は天才ですから全てのことが想定内で、失敗や敗北ではないのでしょうけれど、
謙信の名声をあげさせる行為を自ら率先して働くのはどのような深謀遠慮があってのことか興味深いです。
232:人間七七四年
08/10/09 07:34:05 mDWig9oC
柴田の出兵が空振りで終わる一事だけでも利敵・自損かと。
233:人間七七四年
08/10/09 08:11:53 KbiBFo2X
柴田ら大軍を違う場所で有効に使った方がまだ戦果をあげられたが
派遣失敗で能登加賀が上杉領国化したんだから失策以外の何物でもない。
234:人間七七四年
08/10/09 08:21:24 Yviihamk
>>232
それを失うのをケチったら、もっと多くを失ってただろうね
235:人間七七四年
08/10/09 08:27:42 HWdX+NrO
秀吉の途中離脱もね
あまりにも厳しい状況ゆえに生じた意見衝突だったりして
勝家 「猿!わしらは北へ行く!!(上杉を威圧しつつ、金沢を焼く!)」
「お前はここに残って松任城を牽制せい!」
秀吉 「わしらの部隊だけじゃ到底無理だ!」
「一向宗に夜討ちをかけられたら全滅だ!せめてもう2隊残してくれ!」
勝家 「兵は割けん!」
秀吉 「柴田殿は死地にわしらを残し、見殺しにするおつもりか?!」
「無駄死にをするくらいなら・・・」
勝家 「勝手にせい!」
なんてな
236:人間七七四年
08/10/09 11:35:46 9W8+4vfN
>>231
宇宙最強の天才信長ですね わかります
237:人間七七四年
08/10/09 11:49:37 aYhdZ9bt
この頃の謙信の名声って凄かったんでしょ?義将ということで
小田原討伐に行った時は30万の兵が集まったとか
この分だと簡単に上洛出来るって、織田軍に勝たなくても解ってたんでしょう
238:人間七七四年
08/10/09 12:17:26 Yviihamk
>236と>237はたぶん同一人物による工作だから、ツッコミ無用
ねぇ君、上杉ファンも迷惑してるってさ
239:人間七七四年
08/10/10 10:05:54 zpearoh9
天正5年の上杉、織田の北陸攻防戦を見る限り
信長は並みの武将にしかみえない、どうみても七尾城手前の金沢御坊を
素通りできるとは思えない。
まだ加賀を占領して南下してくる上杉軍を迎撃したほうが勝てる可能性は高い様な気がする。
七尾城への援軍は家康以下信長に従う諸大名に向けたポ-ズだと思うが(自分は同盟者を
見捨てたりはしないといった)、本きで後詰めが成功すると思っていたとしたら、信長に対する
現代の評価はかなり下駄を履いてることのなる。
240:人間七七四年
08/10/10 10:28:58 qXvIsZGK
いや、いっぺんの失敗ぐらい誰にでもある。
信長の躍進振りは運だけとは言えないほど異常。
基本的な能力は評価すべきかと。
しかし謙信対策だけはお粗末だった。
長篠に勝利しただけで調子付いて謙信の存在を軽視して、
それまで謙信を経由していた東国武将との交流を独自に開始し、
敵愾心を煽った結果、この危機的な状況を招いた。
241:人間七七四年
08/10/10 10:35:53 lJF2DTln
時系列を自在に操るのなw
242:人間七七四年
08/10/10 10:36:52 i8W3UzNA
頼むから片方贔屓丸出しの妄想だけをID変えて延々たれ流すのは迷惑だからやめてくれやw
243:人間七七四年
08/10/10 11:04:17 Kib760e2
>>239
その通りじゃないか?
七尾救援が名目で実際は加賀に拠点を作り、できれば金沢攻略でないかな。
一向一揆の土地を一国丸々素通りは誰が見ても無謀。
越前ですらやっと平定できた程度なんだから。
上杉の南下は織田の想定以上の速さだったのかも。
244:人間七七四年
08/10/10 17:48:25 I6g2mH6j
信長が運だけとかは思わんが、考えれば考えるほど名将っぽくないよな。
245:人間七七四年
08/10/10 18:45:23 spYkGzRp
信長公記に載っていないから、手取川はなかった!
というご高説はもうさすがに聞かれなくなったね。
もとはといえばこの主張からはじまった議論なんだが。
信長公記が、当時の織田家に関わった事件のすべてを
完全に網羅していると断言するのは、学問ではなく信仰だと、
ようやく気づいたのかも知れないな。
246:人間七七四年
08/10/10 18:54:13 Kib760e2
手取川合戦自体はなんともいえないが織田の大軍が加賀へ向かい、
なんらかの理由で撤退したことは否定できない。
247:人間七七四年
08/10/10 19:29:18 iKkr5XUF
荷駄隊が予定より大幅に遅れたとかで、転進しただけの話しだろうが
248:人間七七四年
08/10/10 19:38:12 spYkGzRp
際限なく人馬を溺死させる転進とは、歴戦の勝家にしては見苦しい失敗をなされいますね。
249:人間七七四年
08/10/10 20:03:30 Kib760e2
史料が謙信の手紙ぐらいなんでなんともいえん
250:人間七七四年
08/10/10 21:31:14 SddR08fV
あの書状でなんともいえんと言い出したら、
歴史事件の大半が疑わしくなるぞ。
251:人間七七四年
08/10/10 21:35:34 Kib760e2
関係者はメチャクチャ多いはずなのに謙信の手紙しか残ってないってのがね
252:人間七七四年
08/10/10 22:17:02 bqt3/VhU
なんで本願寺が発給した北徴遺文の感状は無視されるの?
253:人間七七四年
08/10/10 22:17:47 iKkr5XUF
それほどの大敗をしたのなら、信長公記は秀吉時代にかかれたのであるから
宿敵柴田の大失策としてこき下ろすように書かすはずだろ?
なんで書かないんだ?
254:人間七七四年
08/10/10 22:34:26 0yyUNPRC
柴田じゃなくて信長の失態だからでは。
255:人間七七四年
08/10/10 22:38:42 iKkr5XUF
信長がそこにおって指揮を執っておれば信長の失態だが
采配をしたのは勝家であるから関係ない
現に信雄の伊賀攻めなんかボロカスではないか
信長公記も読んでないアホはすっこんでろ!!
256:人間七七四年
08/10/10 22:39:52 bqt3/VhU
>>253
信長公記の作者が、かつて柴田に仕えてたからでは?
勝家にも思い入れがある
でも案外、事の次第が北陸で握り潰されてたりして
加賀から都は遠いから
257:人間七七四年
08/10/10 22:57:32 0yyUNPRC
>>255
ああ、信長公記ぐらい読んでるし、手元にもあるし、ネットでも読めるぞよ。
ほれ、もともと信長が柴田を派遣したのが大間違いなのはこのスレッド見ればわかるでしょ。
うつけ扱いの信雄は敗戦より独断で動いたことを咎められているわけでしょ。
258:人間七七四年
08/10/10 23:01:33 0yyUNPRC
上杉謙信書状、北徴遺文の感状は一次史料で、手取川の合戦を色濃く示唆する。
信長公記は後世に書かれた政治的な思惑の入った文献で間違いや抜けが多い。
それでも信長公記に書いている書いてないというだけで意見をいうなら、
もう真実の探求じゃなくて信仰の探求だから、好きにして欲しい。
259:人間七七四年
08/10/10 23:07:44 Kib760e2
話どおりなら勝ち戦というか大勝利なんだからプロパガンダにいくらでも使えるのに、
上杉謙信ですら書状一枚というのが信じられん。
感状が残ってるからなんらかの戦いはあったと思うが軽めの戦でも感状は薄給されるしな。
石山本願寺は北陸一向一揆との繋がりは薄いのかもしれんがそれでもなんらかの情報は
得てるはずなのに記録が残ってないのはどうなんだろ。
顕如がなにかしらのプロパガンダに使うにはうってつけだと思うんだが。
260:人間七七四年
08/10/10 23:20:35 0yyUNPRC
信じられんといわれても一枚確かに残ってるし。
これを否定する根拠が一枚しかないというのがよくわからない。
合戦そのものを描写した記録がそうそういくつも発給された例はそんなにない。
ただ、合戦があったんだろうなという形跡はいくらでもある。
合戦当時の両軍は間近にあったとここでも何度か指摘がある。
北徴遺文もそうだし、信長公記でも勝家がその後も加賀の平定に手を焼いている。
翌年二月十日付の謙信書状(結城氏宛てか)でも
「まえに何度も申したように、能登・越中・加賀を思うように処理し」と書かれてある。
そしてその「何度も申した」の書状は消失されて未だ発見されていない。
決定的な証拠が一枚。そしてそれを裏付ける証拠が複数。
これを否定する理由がよくわからない。
結論ありきで否定しているような印象すら受けてしまう。
261:人間七七四年
08/10/10 23:24:26 bqt3/VhU
>>259
石山本願寺的には、そのまま謙信が加賀に残り
織田の大軍を引き付けてくれないと、あまり意味が無かったからでは?
でも謙信は合戦後すぐに能登へ帰っちゃった。
手取川より以前に雑賀攻めがあって、この際、石山本願寺が加賀朝日山だったかを攻め降した謙信に
今が上洛の絶好機だ~!と盛んに促してる。
でもその書状が謙信に届いた頃は、既に越後へ帰った後だった。
その結果、謙信が来ると聞かされ、期待した松永久秀が孤立してしまった。
こういった情報が行き届かなかった過去の苦い経験が、手取川の報に接した石山本願寺を慎重にさせていたのかもね。
下手に反織田勢力を煽って各個撃破されるより、しっかり見極めて煽動しようという戦略に変えた可能性だってある。
しかし現地へは下間頼廉を通して感状だけは出しておこうと。
262:人間七七四年
08/10/10 23:31:58 Kib760e2
>>260
上杉軍と織田軍になんらかの接触があったことは否定はしないよ。
ただいわゆる手取川の戦いレベルの戦闘があったかどうかということ。
加賀平定に手間取ることは一向一揆の勢力下にあった越前平定にすら手間取ったし、
上杉の勢力と一向一揆が結びついた以上は当然かなと思ってるけど。
263:人間七七四年
08/10/10 23:38:17 0yyUNPRC
>>262
ああ、その点なら同意です。
雨中の夜戦で慌しく逃亡する敵軍の数を上杉が正確に把握できるはずもないし、
百を千と、千を万と見間違える可能性も十分考えられるからね。
合戦の規模で正確な記録なんてないと思うし。
264:人間七七四年
08/10/10 23:54:39 sptZGLeC
加賀平定はそれ以前から一向に進んでいなかったから
手取川の有無に関わらず手を焼くと思う。
265:人間七七四年
08/10/11 11:55:58 XIKcZALj
>>247
どうあがいても、
世間は君が読んでいる軍記モノや君自身の希望的観測(げすのかんぐり)より
上杉謙信書状、北徴遺文の感状の方を重視する。
266:人間七七四年
08/10/12 01:56:52 TUmMB8Nu
下間の感状も何らかの戦闘があったことの証明にはなっても
「通説」の手取川の証明にはならないと思う。
267:人間七七四年
08/10/12 04:53:17 wcPhQcAs
傍証の史料として謙信書状の信憑性を保証・補完する価値がありますからね。
世間というより学界が手取川の実在を否定することはこれまでも今後もありえないでしょう。
規模については議論の余地を残すものの、
歴戦の謙信が敵の数を大きく見誤ることはないし、
書状通りの展開があったとするのが妥当かと。
ただし、全軍がぶつかりあったのでなく、
最後尾の殿が上杉軍の餌食になった。
これが真相ではないでしょうか。
268:人間七七四年
08/10/12 12:21:54 IongQIQr
>>267
>謙信書状の信憑性を保証・補完する
北徴遺文については俺もそう思うな
前後の出来事から言って、加賀衆が謙信に吸収されつつあるのは明らかだし
269:人間七七四年
08/10/12 12:30:35 wwRe/5IF
ここ見てると資料分析ってどういうものなのかわかるなあ。
ひとつの文献の裏を取るのにほかのあいまいな文献をつぶさに観察して、
総合的に結論を出す。そうすることで真実に到達していくわけだね。
結論は平凡な通説にたどり着いてるだけなのになぜかとても面白い。
270:人間七七四年
08/10/16 13:24:19 KFJZ3FYJ
史料が謙信の手紙しかない。
しかも日付のあった日以降の事まで書かれていたり、宛名等が後書きだったりとすごい怪しい面もある。
本当に織田に勝ったのなら、信玄が三方原で勝った時のようにもっと宣伝しそうなものだが。
信玄同様、信長を裏切ってかつての敵と組んだわけで、信用を得る材料があれば使うだろう。
271:人間七七四年
08/10/16 13:36:14 KFJZ3FYJ
>>268
実際には加賀の門徒宗は、最後まで本願寺からの指示で動いているんだが。
最後の和睦(実質織田への降伏)もそうだし。
謙信と門徒の関連は同盟者以上ではないだろう。
晩年の関東出陣動員簿といわれる書状には本願寺門徒の名前も書いてあるが、実際に動員できたかは未知。
272:人間七七四年
08/10/16 16:55:28 Ts4Jvoek
>>271
もう少し勉強しような。
軍役帳では加賀衆は動員名簿に名前だけじゃなく人数や装備まで規定されている。
完全に被官として支配されている証拠だ。
そして魚津の玉砕した武将に加賀衆の者がいる。
書状などで明らか。
>>270についても何度も反論されているんだから読み返しなさいな。
273:人間七七四年
08/10/16 17:40:36 HIB+eiRc
謙信についていったもの、本願寺に従ったもの、加賀に残ったもの、色々いるっていうだけだろ。
一括りで話をすすめてどうすんの?
274:人間七七四年
08/10/16 17:59:43 wluymRmr
簡単に言うと謙信に従った者もあればそうじゃない者もいる
織田が越中に入った後まで武田派一向宗の寺町が残っている状態です
この地域が大人しいのは常山記で言う残った柿崎氏が織田から馬貰って云々・・・の間だけ
この話も町名は現存するみたいですが信用度ゼロです
加賀は下間が本願寺の講和に追従しなかったので全部背いたように見えますが
その下間に背いた者も存在するのです
上杉の影響が強い時期は何をしていたのか不明ですが織田が入国した直後に
所領安堵されている者は織田軍と連絡を取り続けていたのでは?とも考えられています
本願寺上杉武田織田の入り乱れた地域は一言では表現できないと言いたいだけですがね
275:人間七七四年
08/10/17 16:06:57 1pdCr5kr
この流れなら富樫の事も語ってくれないか
276:人間七七四年
08/10/18 16:17:08 snUOqmUj
冨樫は手取川の戦いより前に事実上滅んでいるので却下w
277:人間七七四年
08/10/18 18:12:44 f+U+J+ja
でもたまに載てたりもするぞハンター×2
278:人間七七四年
08/10/18 23:24:08 oA9XpzQW
今ある史料じゃ決定打は出なさそうだな
俺は小競り合い説派だけど。
あと富樫仕事しろ
279:人間七七四年
08/10/19 02:48:48 s1tFMhzZ
諦めろw
280:人間七七四年
08/10/19 06:41:39 sBL6fXT8
永野に比べれば冨樫は十分仕事をしている。
281:人間七七四年
08/10/20 23:03:11 Pr6RVizE
松川といい上杉家は捏造ばかりだな
282:人間七七四年
08/10/21 01:37:46 Gi0F00Xt
戦略面では織田の敗けとは思うが…手取り川の戦いは無かったのでは?
能登加賀の織田派が弱かったって事じゃないかな?
283:人間七七四年
08/10/21 02:42:42 7g0ofrGM
上杉は馬鹿強くいて欲しいもんだがなー…
284:人間七七四年
08/10/21 06:13:27 8fDvAR5/
ログ読めばどう見ても状況が「ある」と示しているとわかるんだけれど、
ただの思いつきでいつまでも「ない」と繰り返されていくね。
285:人間七七四年
08/10/21 06:38:36 mjS59oSJ
手取川で何らかの戦いはあったが、謙信が喧伝するほど大して華々しいものではなかったってところが真相だろうな。
286:人間七七四年
08/10/21 07:31:38 867HZEQd
確かに謙信の書状は誇張っぽい部分も有る。
けど、本願寺が発給した感状とも重なってるような気もする。
まず諸軍を先手として差し向けました~
その後、私自身も馬で向かいました~
夜中に敵勢は敗走していました~らへん。
謙信が着陣する以前
織田軍は真夜中に敗走していたという意味でしょ。
それが本願寺の感状↓
『今度夜討之刻、首討捕高名之旨、具遂披露候。』の部分っぽいし。
その内容と、謙信の書状↓
『夜中ニ令敗北候処』とが合致してる。
287:人間七七四年
08/10/21 07:37:47 G2KqCyaM
謙信は川中島の戦いで8000人を討ち取ったと喧伝した。
つまり1000人余りを討ち取ったと喧伝する手取川の戦いは…そういうことだ。
288:人間七七四年
08/10/21 09:27:35 8fDvAR5/
そういうところだろうね。
でも川中島8000人討ち取りは謙信本人が言ったんだっけ?
近衛が伝聞で書いたんだと思うが。
289:人間七七四年
08/10/21 12:30:51 O+3dj5nH
史実の勝者は英傑の信長&伊達>>>>>ガチホモ上杉捏造史観
290:人間七七四年
08/10/21 13:14:54 TTV4XuHY
信長は姉川の戦いで浅井、朝倉を討ち滅ぼしたと喧伝した。
つまり手取川の戦いは無かったと言ってる奴は…そういうことだ。
291:人間七七四年
08/10/21 19:06:01 6McmTclF
>>287
川中島の謙信は「兇徒を数多討取り年来の本願を遂げ、満足」くらいしか言ってないだろ
で、この内容は嘘じゃない
「川中島で八千人討取った」なんて近衛関係の書状でも聞いた事ないぞ
「謙信麾下八千人」ならよく耳にするけど、それは越後軍の兵力だし
謙信に限って言えば、戦果を誇大に喧伝してる書状はあまり無いと思う
例えば
信玄は私を避けて戦おうとしない。
自分が到着すると氏政は去った後でした・・・残念。
私が遅れてしまった為に佐野さん一人で戦わせてしまい、面目ない。などなど
戦ってない時は戦ってないと、結構正直に書き送る傾向がある
そんな謙信が手取川だと
(この味方有利な追撃は)長年神仏を拝んできた賜物だ!
とまで高揚した内容を書き送ってる
これは珍しい
292:人間七七四年
08/10/21 19:20:30 G2KqCyaM
今度於信州表、対晴信遂一戦、被得大利、八千余被討捕候事、珎重之大慶候、
雖不珎義候、自身被及太刀打段、無比類次第、天下之名誉候、
293:人間七七四年
08/10/21 19:46:56 R4SlrK7A
当時の「討ち取り」は必ずしも「死傷させた」ではないな。
「その人数に勝利した」と読み取るのが普通。
294:人間七七四年
08/10/21 20:02:47 R4SlrK7A
>>292
近衛の書状は、やっぱ謙信本人から聞いた感じじゃないね。
わざわざ戦果報告をオウム返しするわけないし、
独自の情報源から仕入れた話を告げて、
「こんなに頑張ったんだよね?」とはしゃいでいるんだろう。
295:人間七七四年
08/10/21 20:16:41 G2KqCyaM
>>293-294
そうだね、じゃあ手取川の「千余人討捕」も1000人ばかりの織田軍に勝ったということなんだろう。
近衛の書状の解釈は色々出来るだろうが、私は上越市史の概説などで
「政虎は近衛前久に「自身太刀に及んだ」と伝えた」と解釈されているように
情報の発信源は謙信だとするのが自然だと思う。
296:人間七七四年
08/10/21 20:36:34 R4SlrK7A
織田は逃げ遅れたわずか千人(ちっともわずかじゃないけど)ほどの人数が敗退した。
これが真実だと思う。
近衛書状は上杉家年表などでも謙信が情報源みたいな扱いだが、
その話はあまり信頼できないね。
近衛は軽率な気質だから、不確かな情報を鵜呑みにしている可能性が高い。
297:人間七七四年
08/10/21 20:40:26 Kxttyb9e
末広がりだろ。
千代に八千代にって
まつり枕詞だろ
298:人間七七四年
08/10/21 23:49:04 5GOc4rB/
>>293
おいおい。俺は手取川はあったと思うし織田勢の敗北とも思うが
その解釈は無理があると思うぞ。
その理屈でいうなら信玄も川中島の後で「敵3千人余討取」とか書状出してるが
上杉勢が3千だったとはならないだろう。
他にも3方ヶ原でも「敵千余討取」と書いてるし
三増峠では6、7千の敵が来たので一戦に及んだと述べた後で「2千余討取」と書いてる。
やっぱりこの討取は敵被害を表していると見るのが自然では。
299:人間七七四年
08/10/22 01:38:35 6xwUNTZG
言葉の解釈はそれでいいとおもうけど、実際にそれでもって八千の死傷者・捕虜が出たとするのはやっぱり無理があると思うな。
そんな歴史的大敗の記録がこの程度しか残っていないのはどう考えてもおかしい。
もしそうだとしたら、謙信とその取り巻きには情報戦略を欠片も知らないアフォばかりということになってしまう。
300:人間七七四年
08/10/22 02:39:57 oCYg0y9A
基本的に戦果を報告した文書は、正確に数えたわけでもないし
スタンスとしては「俺勝った、俺らマジ強い」というアピールが
目的なので、討ち取り数にそこまで拘る必要は無いと思うな
301:人間七七四年
08/10/22 15:04:07 iNau9XRI
どこかで(まあ手取川の近辺だろう)で謙信自身が陣頭指揮をして織田勢を蹴散らしたのは事実だろう。
ただし書状ほどの合戦ではなく小規模のもので織田勢の被害は部将、侍大将級の被害が残っていないどころか、
合戦そのものの記録も無いなど衝突があったことさえ疑われるものではある。
しかしその後の上杉と加賀一向一揆の結びつき、織田軍の加賀平定戦の進捗、
そして小規模の争いでさしたる被害がなければ記録に残らないのは当然ということを考えれば
なにかしらの衝突があった可能性を推測すること自体はおかしくない。
謙信自身は総大将であり外交面でも喧伝する必要があったので手取川の勝利を大きく書いた。
ただし謙信自身もさほどの勝利と思ってなかったのでさほど乱発、喧伝しなかったために書状が一通しか残らなかったと。
またその後も織田と上杉・一向一揆連合軍は小競り合いを繰り返してるので北徴遺文はそっちの可能性もある。
こんなところでないかい。
302:人間七七四年
08/10/22 16:21:28 9QnF6oJN
301にほぼ同意なんだが、謙信の書状に誇張と呼ぶほどの描写は実はないね。
生々しい有様をしっかりと記し、数万のうち千人を討ち取ったとは書いてるけれど、
おそらく謙信の視界には数万の織田が撤退するのが望見でき、
逃げ遅れたか置き去りにされた小部隊の殿軍が上杉軍の餌食になったと見ることが出来る。
303:人間七七四年
08/10/24 14:03:33 uK0CzgWo
謙信が逃げる織田勢を確認するくらいなら先方は完全にガチで戦っているかと
そんな状態で織田が背水の陣なら長篠合戦のごとく壊滅してるわ
304:人間七七四年
08/10/24 19:04:33 eTQAoRbT
逃げるのがもっと遅ければベッキ川みたいになってたろうね
305:人間七七四年
08/10/24 19:20:12 Oiq+Q+uW
>>303
でも実際戦わずして逃げているんだが
手取川が増水しててこれ以上の進撃はないと判断したから戦略的撤退をしたんだろう
306:人間七七四年
08/10/24 19:27:00 HgK3Jc/K
川幅がどのくらいあったか想像できないけど川挟んで睨みあったのかな
張り詰めた空気味わってみたい
307:人間七七四年
08/10/26 17:45:45 FAkw27ej
>>295
そもそも市史ってものは古い解釈のままだし。
近年、新しい史料が発見されたり、解釈や検証が行われた所で反映されないケースが多い。
軍記物も積極的に採り入れちゃってる物が多いしね。
それほど信用が置けるものじゃないよ。
>>294が言ってる通り、オウム返しにするのは不自然だって指摘は尤もだね。
関東に居る近衛に情報が達するまでに、伝言ゲームみたいになってる可能性だって十分有り得ること。
謙信自身による「八千人討取った」という近衛宛の書状が確認されない限り、
何とも言えないわな。
308:人間七七四年
08/11/29 07:57:41 b8LVBAkX
>>291
やたら愚痴っぽい書状が多いけどねw
読んでる相手も「分かった、分かった、いい加減しつこいよ・・・・・」って思ってたかも
309:人間七七四年
08/12/15 19:03:19 jxycTETq
歴代古案
江戸時代に米沢藩士による編纂だろ。。。。。。。。。。。。。。。
武家や公家の日記に載ってないのは。
310:人間七七四年
08/12/15 19:12:50 2Kzmj/l0
古案は幕府に提出した史料集。
口伝をまとめてみました~みたいな藩史とは性格が違う。
書状の内容からみて、信長自身が負けたわけじゃないし、
被害の少ない追撃なんだから、
日記に残らないのも無理はない。
311:人間七七四年
08/12/15 19:17:07 jxycTETq
手取川、松川、まだあるのか?上杉捏造戦史って?
312:人間七七四年
08/12/15 19:21:07 vO9vLUbJ
上杉家御年譜では松川の戦いは八月に起きたらしいw
ソースとして東国太平記や会津陣物語を持ち出す上杉厨ですが、
どっちが正しいんすか?ww
313:人間七七四年
08/12/15 19:30:08 jxycTETq
北越軍談が根拠史料か!!!!!!!!!!!!
おどれえたあああああああああああああああああああ
314:人間七七四年
08/12/15 21:41:45 a66KtXQV
上杉の捏造に周りはみんな迷惑してます
315:人間七七四年
08/12/18 23:12:29 ajN8Q1xf
独りよがりで必死な伊達厨さん
なかなか釣れませんね?
シカトされ非常にミジメな状況ですなw
316:人間七七四年
08/12/20 15:07:29 7q5ueuzS
手取川を否定しているのは2ちゃんだけだろ
否定してる学者は沢山いるの?
317:人間七七四年
08/12/20 15:28:16 oHRYip0q
学者で主張してるのは知らないな。
上杉謙信がよくわかる本レヴェルのものでライターが書いてる程度じゃね?
318:人間七七四年
08/12/22 15:38:50 0tITiDbo
>>317
矢田俊文は上杉研究では高い評価を得てるけど
手取川もちゃんと書いてる。
むしろ学者で真正面から手取川を否定してるヤツなんて聞いたことない。
319:人間七七四年
08/12/25 16:26:35 ItQ0EbRq
あの手紙の書き方だと、謙信は信長自身が出馬してると思ってるよね、
千や二千程度の軍勢を見ただけならそうは思わないよね?
戦闘に入る前に確認したのか、戦闘後かわからないけど、どこかで万単位を見てるはず、
よくわからんけど
320:人間七七四年
08/12/28 12:32:07 VLeScNoF
>>317
おまえバカだな。井上鋭夫もしらないのか。
321:317
08/12/28 13:16:01 QQbjy6DD
井上も「ある」としているんじゃないか?
明確に否定している証拠があるなら教えてくれ。
322:人間七七四年
08/12/28 13:46:18 STA4eTvi
重要なのは手取川を越えて謙信が追撃しなかったってことじゃないか?
明らかに川の向こうでは織田の待ち構えた陣形が出来上がっていたと仮定できる
そこにスキがあれば水量の増した川だとしても謙信なら渡るだろう
323:人間七七四年
08/12/28 14:48:32 QQbjy6DD
織田が人馬際限なく流れて溺れ死んだと謙信が書いてあるから、
とても渡れない状況だったのではないかね。
橋は切り下ろされていたか、もともとなかったか。
船だとしたら逃亡した連中が怖がって戻さなかったため、一隻もなかった。
要するに織田最後尾だけ見捨てられていたんでしょう。
324:人間七七四年
08/12/28 17:57:18 +Sg/7Pwo
そもそも、まともな学者の場合、バトルの内容を
云々というより、その戦いの結果、政治体制や勢力図が
どう変わったかを重視するからね。そして、その結果や残された
史料からバトルの内容を推察するわけで。
バトル<ウォーという扱い
325:人間七七四年
08/12/29 08:21:29 eGLAFXff
謙信にやる気がまだあるなら、織田勢が迎え打つ姿勢をみせようがみせまいが渡ったと思うな、
その時の気象条件は知らないけど、増水がずっと続くわけじゃ無いだろうし、
水位が減れば夜のうちとか、場所をかえるとか、いくらでも渡る方法はあるし、
渡れなくとも睨み合いはもっと長くなるでしょう、
要は謙信が
「もういんじゃね、」って思って帰れるぐらいの何かがあったって事じゃないかな
326:人間七七四年
08/12/29 12:03:31 4KoP68g0
>>321
井上鋭夫もある派だけど。著書によっては温度差があるね。
「上杉謙信」「謙信と信玄」では実際にあったと看做していて、
『霜は軍営に満ちて秋気清し~』の漢詩のみ頼山陽の添削で
元は後人の仮托としてるね。
「一向一揆の研究」でも夜戦自体はあったとしてるけど、謙信自身の
出馬があったのかは不明としている。この本が手取川の戦いついては
一番掘り下げてると思うから、まずはこれを読んでみるといいな。
ちと高い(古本市場でも1万5千円ぐらいする)けど。
327:326
08/12/29 13:08:52 4KoP68g0
逆に自分が知ってる「合戦はない」派というと、石林文吉氏ぐらいかな。
もっともこの人がどういう筋の研究者なのかよくわからないけど、
「加賀能登の合戦」という著書の著者略歴を見ると、新聞記者上がりの
市井の研究者らしい。なんかアンチにはこういう感じの人が多いね。
で、その本の一節では
引用>織田軍は、七尾城が陥落してしまっては、もはや救援に赴く意味がなくなったとして、
水島(松任市)から反転した。一方上杉方は、長らく待っていた織田との決戦がついに
やって来たとして、用意おさおさ怠らず、前夜は猿楽三番を催して戦勝の前祝とした。
ところが一夜明けて水島に進軍したところ、織田軍の姿は見えない。一同は織田軍の
腰抜けとさんざん嘲笑、残っていた数十人の雑人を斬り捨て、さらに越前丸岡にまで進んで
民家に放火して、それから越前へ引きあげて行った。>引用終了
と、まるで見ていたような内容になっている。これの出典は不明。
巻末の参考文献、史料にも目ぼしいものは無い。日置謙氏の著書などが文献として
挙げられてる。
あと謙信嫌いで「武田・真田・小林一茶」研究者の小林計一郎氏ですら手取川合戦はあった
としてるが、そもそもこの人の場合、信長自身が出馬していたと考えてるらしく(武田・上杉軍記)、
これもなんだかなぁという感じですな。
328:326=327
08/12/29 13:16:29 4KoP68g0
>それから越前へ引きあげて行った。>引用終了
越後へ引きあげて行った。の誤りのため訂正します。
329:人間七七四年
09/01/15 03:24:51 jzSChMPm
架空の合戦だろ、これ。
味方原の大敗が、信長公記に記述されているのに、手取り川がないのはおかしいだろ。
330:人間七七四年
09/01/15 09:04:43 OWB999qP
と、田舎の愚民が今日も吠える。
331:人間七七四年
09/01/15 10:40:49 zKdKNXw8
享禄4年(1531)10月には、閏5月に勃発した大小一揆の乱による加賀一向一揆の分裂に乗じて加賀国へと出陣、湊川(手取川)を越えて石川郡で一揆勢と戦ったが、敗れて兵を退いている。
朝倉宗滴の合戦とそっくりでは?????????
332:人間七七四年
09/01/16 01:13:08 uT3oSSxE
>>329
架空に決まってるだろ、江戸中期に米沢藩が傾きかけて編纂された藩の歴史書に、宛先・出所不明の書状の写し1通を書き写して「信長との合戦がありますた!」ってやった訳だ。
それ以前の対将軍家の対抗策で、紀州のバカ殿が越後マンセー(幕府が甲斐マンセーしてたから)して無理やり上杉最強伝説を作り上げた時に出てもねえんだぜ?
紀州のバカ殿の越後マンセーは凄まじかったんだから、これも史実から言えば可なり実情に曖昧な点が多い川中島の戦いを、戦国大勝負に変えてしまうくらいの力の入れよう。
その後紀州藩が天下を牛耳り(徳川7代で将軍家の血筋は途絶える。のみならず御三家すら事実上崩壊した)、上杉マンセーは学会でも主流となり甲州流軍学、越後流軍学の二大軍学になった。
そんな流れで学者連中が形成されたから明治、大正、昭和となり平成になっても嘘が真のままになってる。
333:人間七七四年
09/01/16 05:18:18 YuTGuhi8
>332は手取川があったらどうしても困るらしい。
書状が捏造かどうかは過去ログ読めば想像つくんだが。
歴代古案は上杉マンセーのために作られる種類のものではないし、
将軍に提出するものなので捏造などあれば幕閣から詰問が入る。
実際指摘があって苦しい言い訳をした史書のもある。
本文にも江戸時代に創作された文書にありがちな癖がまったくない。
現在確認できうる当時の動静との矛盾もないんだよ。
334:人間七七四年
09/01/16 08:46:49 xJvQ11Ix
当時の動静との矛盾が無い。
ここが重要なんだよな。
織田軍の北陸侵攻が停滞した原因を鑑みれば、手取川合戦が無い方が不自然。
まともな史家はそういうことを総合的に判断して戦闘があったと判断しているんだがな。
335:人間七七四年
09/01/16 09:17:28 GviyvV/G
否定する連中は信長公記を絶対間違いの無い史料みたいにいうけれど、
歴代古案より遥かにバイアスかかってるじゃんね。
336:人間七七四年
09/01/16 09:53:42 18r1mnlk
北陸侵攻が停滞した?どこが?
むしろ巷説言われるほどの大合戦と大損害の敗北があったのなら、織田家の
勢力圏がそれほど後退していないのが謎だ。手取川の後に謙信が越前まで
追撃したなんて創作もいいところだし。
合戦があったかどうかならあったかもと思えるが、巷説の手取川合戦があった
かどうかとなるとかなり疑わしい。
337:人間七七四年
09/01/16 09:56:17 b2wSmdWh
もしあったのなら総指揮をとった柴田はただではすまなかっただろう
本願寺との天王寺の戦いで惨敗戦死し、光秀らを窮地に追いやった原田直政の一族は戦の後、追放になった
重要な任が果たせなかった者は左遷する事が多いのが信長
もしほんとに合戦とやらがあったなら直ぐに越前国主の首はすげ替えられただろう
もともと七尾城救出が目的であり、城陥落の間者からの報があり撤収した
それなのに上杉方が既に手取川まで出張っているなんて時間と距離、行軍態形から戦闘態形への展開など考慮するとおかしすぎる
もし上杉方が手取川に接近していたのなら先程の間者も七尾城陥落だけでなく、上杉方が接近していることも報ずるだろう
間者の方が重武装した兵団よりは断然早いから柴田側だってたやすく迎撃態勢に入れたはずだ
338:人間七七四年
09/01/16 10:18:41 GviyvV/G
上杉軍は能登を制圧し援軍を駆逐することで地盤を固めた。
これにより目的は充分に達成しているのだから織田の本領まで食い入る必要はない。
手取川が増水して渡ろうとすると溺れ死ぬ有様だったから追撃も最小限にとどまっている。
織田にしても能登の救援に間に合わなかったのだから早々に退却するのが当然。
状況から見て柴田は迎撃の指揮じゃなくて撤退の指揮をとったのだろう。
信長に独断で無用な迎撃を試みて大破すればそれこそ信長が激怒する。
柴田の状況判断が的確だったから謙信から致命的なダメージを受けずに戦力を温存できたと見るべき。
手取川で血が流れた事実を否定するより柴田の見事な撤退を褒めるべきだろう。
339:人間七七四年
09/01/16 10:20:49 Kw4H9uhu
上杉の間者のほうも織田の接近を知っていたわけだろうから
それも織田よりも早く そんで足の速い騎兵だけ先行させて撤退している織田を急襲
後から追いついてきた上杉本隊が織田の後備をフルボッコ そんな感じじゃまいか
340:人間七七四年
09/01/16 10:53:35 EH/znEtO
手取川合戦があったとされる日の前後日の記録とかはないの?
341:人間七七四年
09/01/16 12:00:00 f62z7iqx
越前の勢力がこの戦いの後で一部上杉になびいたのは事実なんんだよな。
戦いがあったのは事実とみるべきだろう。
342:人間七七四年
09/01/16 12:45:13 XWEZBeea
>>341
合戦自体が無くとも上杉が能登まで出てきたらそれと呼応するものが元気付くことはあり得るんじゃない?
343:人間七七四年
09/01/16 13:03:19 f62z7iqx
越中や能登はともかく、
一応織田領であるあの当時の越前までなびいたのは
やっぱりある程度の宣伝材料がないと変じゃないかな。
344:人間七七四年
09/01/16 17:24:12 boRX/egh
>>340
ない。
信長公記の8月8日の手取川越境の焼き討ちを、上杉信者がムリヤリ、
9月23日の合戦に結びつけた。
織田軍の勝利を、上杉の勝利に摩り替えた。
北越軍談、北越太平記など、江戸時代初期に、手取川合戦の記述はない。
手取川合戦を語り出したのは、米沢藩主の上杉。
345:人間七七四年
09/01/16 18:34:07 YuTGuhi8
この人は手取川での流血があると困るんですかね…。
江戸当時人気のなかった武将相手に勝利を捏造?
幕府からのお咎め覚悟でやる意味あるのかなあ、それ。
状況としては圧倒的に上杉が勝利なんだが織田が勝利とする根拠は?
そして謙信書状写を偽書扱いするなら、
あやふやな動機よりも史料矛盾をしっかりと突いてくださいよ。
それとも信長公記は漏れのない絶対完璧かつ公平な史料なの?
346:人間七七四年
09/01/16 18:49:47 18r1mnlk
>>345
絶対完璧とは言わないが、(たしか)「天正五年以降の記録はほぼ完璧」という
評価すら研究者からは受けている。
地方で小部隊と小部隊が小競り合いをしました、ってのならともかく、当時の
大大名同士が万を越す軍隊で激突した(一方は重臣で、もう一方は大名本人が参加)
大合戦が記録にすら無いというのでは、疑念がさしはさまれて当然だと思う。
問題なのは、織田家側の史料どころか、毛利や武田や将軍に本願寺といった、
織田家と敵対している側にすら記録がないというのがさらに倍率ドン。
それほどの大勝利を収めていたのなら、謙信は当然同盟勢力に伝えて然るべきで、
伝え聞いた同盟者もやはり味方や世間に宣伝して士気を鼓舞しようとするのが
この時代の当然。そういった類例は枚挙に暇が無いほどアル。中にはそれほどの
勝利でないものも、政治戦略の一環で「当方大勝利!」なんて宣伝を行ったりも
する(川中島では武田上杉双方が周囲に勝利の手紙を伝えている)。
その痕跡が一切無い。
これで疑問を感じるなという方が無理がある。
347:人間七七四年
09/01/16 19:05:33 f62z7iqx
>>「天正五年以降の記録はほぼ完璧」
そんなバカな。熊見川の敗戦とか書いてないし、
前田利家の一揆虐殺とか瓦に書かれてかろうじて後世に伝えられたものでは。
誰がそんな事言ってるの?
348:人間七七四年
09/01/16 19:25:00 YuTGuhi8
手取川がないと言い張る人ほどこの合戦を誇大評価してるよね。
柴田が置き去りにした殿を謙信がぶっつぶして、
おかげで織田軍主力は無傷という小競り合いでしょ、これ。
少なくとも謙信書状はそういう内容。
長年西を目指しようやく織田に一撃を加えた感動が読み取れるけれど、
川中島みたいな決戦じゃないから謙信も自覚していて吹聴しなかった。
ただそれだけ。
それがなんでわざわざ万軍の決戦に捏造して、しかも軍の接触がなかった事にしたがるの?
これっぽっちでも最盛期の織田がダメージを受けるのを認めたくないのか、
とにかく上杉をネガキャンしたいのかよくわからない。
349:人間七七四年
09/01/16 19:26:19 YuTGuhi8
>>347
これはもう織田信者に見せ掛けたアンチ織田かもわからんね。
350:人間七七四年
09/01/17 00:53:18 v6f3I5Wc
>熊見川の敗戦
ああ、手取川に匹敵する捏造疑惑の合戦ですね。
これも構造は同じで、撤退中に殿に被害が出た、くらいの合戦を、地方誌が
地元礼賛のために侵略者側に大損害を与えたと戦果を過大に過大を重ねて
大勝利に仕立て上げた講談の類の記事。
毛利家(に組する郷土史家)には他にも、六万の後の天下人秀吉が二万の吉川
元春にビビって逃げたとかいう捏造合戦地元マンセーがありましたね。
実際は兵数の時点でまずありえないし、元春はこの合戦に参加していないし、
むしろ吉川軍は攻めていた城も落とせず逆に救援に向った城を秀吉に落とされ
なんの戦果もなく撤退したというのが実情なのに。
351:人間七七四年
09/01/17 01:12:47 tqjeHEtN
信長公記に乗ってなくて
織田に都合の悪い事は全部捏造ですか。
太田牛一1人が織田家の事柄すべてを網羅できるわけもなく
後年に秀吉に仕えてる事や本人の織田家礼讃志向からしても
公記には多分に手心が入ってる事は明らかなのに。
志賀の陣での記事も朝倉から和議を求めた事にしたり(実際は織田から求めた)、
堅田での坂井の敗死を書かなかったり(当時の公卿の記録からも戦死は明らか。)、
織田に都合のいい脚色が多分に入ってる。
352:人間七七四年
09/01/17 02:36:23 v6f3I5Wc
>>351
「都合のいいように記録する」ことと、「記録自体が無い」のは全く別なのだが。
それと記録がないのは信長公記だけの問題ではない、と言っているのに、公記の
ことだけを取り出してそにれだけ批判を加えてさも自説が正しいかのように印象
操作をするのは議論としては卑劣な行為ですね。
>織田に都合のいい脚色が多分に入ってる
「織田のものではない史料にも当然、都合のいい脚色が多分に入っている」
そういう当たり前の想像力も働きませんか?
織田の史料は都合のいい脚色・捏造で、反織田の史料なら全ての記述が正しい。
こんな認識がどれほどおかしく、ダブスタに満ちているかも気付けませんか?
353:人間七七四年
09/01/17 02:40:21 tqjeHEtN
>>352
馬鹿らしい。
毛利側にも上杉側にもしっかり記録は残ってるのに
あんたは信長公記にない、という極めて主観的な理由で
なかったと主張してる。
それがダブスタ以前におかしいといってるんだけど。
太田牛一の書いた後で書かれた意図や脚色の入った2次資料と
同時代資料である書状にある織田の敗戦はどう見ても
同時代資料が優先されるだけの話なんだけど?
いい加減無意味にダブスタというのやめたら?
全然あてはまってないから。
354:人間七七四年
09/01/17 02:41:22 v6f3I5Wc
ああ途中で送信してしまった。
>太田牛一1人が織田家の事柄すべてを網羅できるわけもなく
その通り、牛一は所詮親衛隊の一員程度の身分。内部事情や信長の私生活など、
知りえないことはいくらもあったでしょう。
しかし、ことは何万もの軍勢がぶつかりあったという世間に表立って行われた
事件です。そして巷説に従えば、大損害を受けた敗戦だと。そんな大事件の
記録が当時の織田家の人間が知りえなかったと考える方が無理があります。
同時に、織田家の他の人間、織田家に味方するもの、敵対するもの、寺社や
公家や商人などの第三者も知らず、記録にも残さなかったなどと?
355:人間七七四年
09/01/17 02:47:38 tqjeHEtN
>>354
謙信書状でも被害千余りなんだけど。
数万単位の戦いでこれってそこまで大損害か?
どっちにしろ北陸戦線では前田の一揆虐殺とか太田が知らないように、
北陸の事情はかなり太田は疎いけど。上杉や一揆との戦いだってかなり
端折られてるし。第一無断秀吉が撤退した事で敗北したとあれば
後で秀吉に仕えた太田としては無理に書く必要はない事柄でもあるし。
北微遺文では感状がのこされてるし、謙信の言ってる事を多少割り引けば問題なさそうだが。
姉川みたいに織田が過大宣伝しまくって被害が100倍になってるような戦いじゃないんだし
その後北陸が謙信になびいてる事から考えても傍証としても悪くない。
ないとする理由は特にないと思うが。
356:人間七七四年
09/01/17 09:48:39 rtna5h3j
9月23日に、河川が増水していたってのは変では????????
8月や9月の上旬ならともかく。
357:人間七七四年
09/01/17 10:03:01 4UHrhjFl
何がおかしいのか説明してくださいよ。
358:人間七七四年
09/01/17 10:12:02 N7K5zvZu
久しぶりに上がってると思ったら、
アンチの>>329が沈みに沈んだ昨年12月以来のスレを半月以上も経ってから
あたかも通りすがりのように振舞ってageたレスが発端となっているわけなのか(笑)
それも何度も繰り返されている根拠としては弱い、陳腐な理由を今更挙げて。
もう>>355さんはじめとする同意の論証でほぼ帰結してる命題なんだけどな。
柴田側の殿が不意打ち喰らって1/30以下の損失を負った。それだけのことだろ。
たったこれだけの事を架空の出来事にしたい理由がわからん。
逆に手取川の夜襲を無かった事とすれば様々な面で矛盾が生じるんだがな。
謙信自ら作成した動員帳に加賀勢の被官化が確認されてるんだが、まさかこれも
捏造とかいうつもりじゃないだろうな。
アンチはまず一向一揆の研究(井上鋭夫)を読んで、其れに対する反証を挙げてくれ。
359:人間七七四年
09/01/17 10:17:19 4UHrhjFl
論証になってない歴代古案への疑念を感情的に繰り返す様も同じなんだよね。
しかも何度も根拠となりえないと指摘されているのにレスが流れるとまたそれを持ち出す。
それでいて前回の反省を踏まえていくらか材料を揃えているのかと思ったらそれもない。
百回嘘をつけばそれが真実になるなんて今の情報化社会じゃ通用しないと思うんだけれどなあ。
360:人間七七四年
09/01/17 11:37:47 ZMz4xCcd
そもそもあったのか無かったのかが論点になってる時点で怪しい。