■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■at SENGOKU
■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■ - 暇つぶし2ch750:人間七七四年
08/10/02 23:27:52 1ZwzHorE
秀吉は傭兵の本質をわきまえてるよね

751:人間七七四年
08/10/02 23:36:06 fdCFeBTX
そう。
秀吉の金茶室とか美意識で語る人も多いが、あれは人の気を引くには
「お金」という本質を理解していた、というような解釈が正解だろう。
その点、信長は「ケチ」だそうなので、興味深い「対称」とはなってるな。

752:人間七七四年
08/10/02 23:36:59 +uy6dhiV
>>749
「金銀大盤振る舞い」も「人質を取らずに人身掌握しようとした」のも光秀のやった事。
光秀の所業を太閤記で自分のやった事にしただけなんだよ。

秀吉は思いっきり人質取ってる事がわかる書状が今濱に保管されてるよ。

753:人間七七四年
08/10/02 23:38:05 1ZwzHorE
つーか、基本的に光秀も秀吉も、傭兵隊長みたいなもんだからなあ。

754:人間七七四年
08/10/03 00:17:23 NdI7ybOG
>>752
よくわからない。
光秀はどこで「金銀~」して「人質~」ってのは何の話?

755:人間七七四年
08/10/03 00:18:16 hwKOt/+N
>>746
信長に権力が集中していたからこそ信長父子の死後、家臣団による合議となったとも考えられる

756:人間七七四年
08/10/03 00:25:36 pFcz+0GQ
>>755
そこは解釈の問題になっちゃうんだろうな。

757:人間七七四年
08/10/03 00:36:18 7+EwwoN7
13000の明智軍が集結するまでに何故誰も気付かなかったんだろ?

758:人間七七四年
08/10/03 00:39:37 pFcz+0GQ
>>757
光秀が本能寺に到着する前、2000くらいの先鋒隊が囲んだ段階で信長切腹、って状況だったらしいぞ。

759:人間七七四年
08/10/03 00:44:13 7+EwwoN7
>>758
ありがとう。
そうだったのか…

信忠も2000くらい率いてたんだよな?警備が甘かったんかな…

760:人間七七四年
08/10/03 00:52:09 NdI7ybOG
最新の説では本能寺は小規模だった、ということになっている。
ほとんど無防備だったと言ってもいいだろう。

それと事実かどうかはともかく、テレビ等では「ワア~ッ」と攻めるが覚書
では、ほとんど無音でヒタヒタと攻めている。
集合するまでも、ヒタヒタT-1000型みたいにあつまったんだろう。

761:人間七七四年
08/10/03 01:36:04 ZXIbCVtC
津本陽と井伊の子孫さんの対談で
本能寺の変後に、馬廻衆がど~たら、こ~たら
行方が不明だとか、色々話してたけど
ここんとこど~なん?

762:人間七七四年
08/10/03 01:49:12 +lwXp/iL
>>754
安土の金銀をばら撒いた事は兼見卿記等に書かれてる。
京都五山など受け取った側の記録からも確認できるね。
人質の件はフロイスの記録で確認できる。

763:人間七七四年
08/10/03 01:57:11 NdI7ybOG
>>761
津本、という単語が出たらスルーしてオケ。

>>762
金銀って、傭兵にバラまいたんじゃなくて、五山とかの話ね。
それなら必要経費みたいなもんでわかる。
人質の話はまだわからん。
さらに、光秀の仕業を自分のことにした、というのもわからん。

764:人間七七四年
08/10/03 05:07:40 6d3VJ1wB
>信澄は、摂津衆の取り纏め役で、四国遠征軍の副将とされている。


信澄は大阪城管理人として、大阪にとどまり、四国上陸後の信孝軍の
兵站などに従事する予定だったのではないかと思うが、史料が残っていない。

765:人間七七四年
08/10/03 05:10:48 6d3VJ1wB
京都五山に寄付したのは世論工作の期待もあったと思う。

ピットクルーみたいなもんだろ。

766:サイコメトリー
08/10/03 08:07:11 YbFduc4l
>>747
その説、是非とも教えて下さい。

>>760
最新情報だと、本能寺跡には城郭が確認され、ある程度の防御機能が存在し、
単んなる宿泊施設とは違うという事ではなかったでしたっけ?


767:人間七七四年
08/10/03 10:36:47 NdI7ybOG
>>766
本能寺跡については、読本八月号今谷の項参照。

747に関しては「本能寺の変というから個人レベルで矮小化され研究が進んできた」と過去の
手法をバッサリ。ここでいう「怨恨説」「野心説」も問題外。
で、「室町幕府体制の問題」から相当に深い考察がなされてる。
つまり「光秀の制度防衛」と言うべきものが変の真因、とされている。
「本能寺の反乱」と呼べべきだろう、という示唆も。
織豊研究の専門家、三木とかも参加する研究会などで出された説で
論文がいくつかある。

興味深いのは藤田説にも考察が深く、鈴木あたりの反論に対してどう答えるのか
そこらへん。
あの「上様馳走~」って書状ね。義昭に関しても黒幕はともかく、制度面から
言及している。

そして、ここで否定されてる怨恨説の「家康饗応不首尾」に関して、事実ではなかったか
として、「けっとばした」はともかく「信長と光秀の間に意見の相違があったのは事実だろう、という
ように展開する。
これだけだと誤解されるのでぜひ論文を読んでほしいが、タイトル忘れた。
思い出してみるわ。



768:人間七七四年
08/10/03 10:40:16 pFcz+0GQ
>>766
信長の宿泊所のことでしょ>本能寺

> 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという
> 新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。
> 昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。
> 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。
> テレビドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が高くなった。


> 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は「この石垣が、信長時代のものであることは間違いない。
> 特に瓦の量などから大きなが伽藍が焼けた可能性は低いのではないか」と話す。
> 遺構の延び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。
> この場所に、信長の御殿があったとみられる。
> 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。
> 圧倒的な兵力(1万3000人)の明智光秀軍を前に、信長はあっけなく自害。
> 戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったようだ。
> 信長はなぜこれほど不用心だったのか。
> 今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が背くとは、考えてもいなかった」とみている。


> 光秀の謀反の理由については、
> ①領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み
> ②佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感
> ③足利義昭や近衛前久ら、旧幕府・朝廷勢力に唆された‐などの説が唱えられている。
>
> しかし今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨説は
> 考えにくいとする。
> やはり、本能寺に小人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と決断したとみている。
> また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。
> ①関白②征夷大将軍③太政大臣‐の3説があるが、今谷教授は
>
> 「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。
> 一方、脇田修・大阪歴史博物館館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある
> 太政大臣ではないか」とみている。
URLリンク(blog.livedoor.jp)

769:人間七七四年
08/10/03 10:46:52 pFcz+0GQ
制度防衛も何も、信長はぎりぎりまで義昭を上に頂いた形での体制しか考えてないじゃん。
信長は一貫して(信長の執権体制の上での)幕府再生派だった。義昭追放してからしかたなく
任官して自己の権威による体制構築にかかったけど。

信長の政権も、擬似室町幕府程度のものになったと考えて、そう間違いは無いと思うよ?

770:サイコメトリー
08/10/03 11:24:11 YbFduc4l
>>767
>>768
情報詳細ありがとうございます。

光秀の制度防衛説に付いて、単純に思ったんですが、義昭から信長に仕え替え
した時点で、室町体制(義昭)に光秀は見切りをつけた事にはならないのでしょうか?
是非とも論文のタイトル思い出して下さいね。読んでみたいス。


771:人間七七四年
08/10/03 11:26:36 +lwXp/iL
>>769
「予がいる処では、汝らは他人の寵を得る必要がない。なぜならば、予が国王であり内裏である」 By信長

772:人間七七四年
08/10/03 11:59:33 pFcz+0GQ
>>771
フロイスをまともに信じてどうする。

773:人間七七四年
08/10/03 12:20:01 NdI7ybOG
>>769
そうそう。
そして、家康が6月に京に12年ぶりに上洛、これは主要な部下を連れて1月以上も
京や堺に滞在、という異例なこと。
なので、ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか、というもの。
家康饗応不首尾もそれに関して、信長ー光秀の間で意見の齟齬があったのではないか、という。
信長が近く希望官職を発表する気だったのは間違いなく「信長ー太政大臣、信忠ー右近衛将軍
家康ー大将軍」こういう新たな体制を作る気ではなかったか、という感じだったかな。

話が戻るが770、光秀は義昭には見切りをつけたが一貫して室町体制派だった。
これは自らの奉行衆として一貫した姿勢で、信長が義昭を解官できずにその体制を室町の
旧体制のままにしていたこととも合致する。
なので、制度防衛というのは、その室町幕府体制を変更しようとした信長への光秀の反乱、
とこういう風だったか。

ちなみに、光秀は信長の部下としてその元にいたのではなく、義昭から見た場合
信長も光秀も同格であった、信長からみても、客将、という感じだったという視点が披露されてます。
こう考えると「天下に面目」とか「信長と言い争った」というのも理解できるような気もします。

774:人間七七四年
08/10/03 12:24:20 6ZduYazA
「室町体制」の定義は何?

775:人間七七四年
08/10/03 12:54:10 NdI7ybOG
>>774
聞かれても困るが、普通の意味でいいんじゃないの。
職制とか制度とか。

776:人間七七四年
08/10/03 13:02:07 pFcz+0GQ
室町体制ってものには、人それぞれいろんなイメージがあると思うけど、
公約数で考えれば、足利(もしくは源氏)将軍を戴いて、畿内を本拠とした体制のこと、じゃないかね?

777:人間七七四年
08/10/03 13:27:24 NdI7ybOG
>>772
それに関してもあったな。
これは宣教師に対して「こう考えてくれ」というもので
日本はよく、誰が支配者かわからない、みたいに言われるけど当時も天皇、将軍
信長といて、「セミナリオは誰に頼んだらいいべな?」というような問いに対しての
答え、みたいに解釈すべきだろう、って。
だからフロイスの記述もこういう点では信用できるし信長の返答もことさら
信長の「増大ぶり」をあらわすものではない、ってとこだったか。

778:人間七七四年
08/10/03 13:35:12 kMfMzMzY
浪々の身から国持ち大名になり、近畿周辺の戦乱も収まってこれから地方平定に向かうって時に制度防衛?ってのもな。
光秀自身が思ってても秀満やら利三が同調するとも限らんし。今谷って今谷明?ちょっと小説すぎねーか?
客将扱いってのは面白いけど。家中に尾張衆もいなかったみたいだし。

779:人間七七四年
08/10/03 13:43:11 pFcz+0GQ
>>778
> 今谷って今谷明?ちょっと小説すぎねーか?

今谷のは、一行目の信長の宿舎の事に関してだけだと思うが。

780:人間七七四年
08/10/03 14:23:23 NdI7ybOG
>>778
その、浪々の身、というのからして従来の研究のイメージである、ってね。
ほんで、室町将軍のもと武家が従う、というのが旧体制としたら、それを破ろうとした
信長に反抗するのは、制度防衛、ってことだと思う。
で、かなり大きな意味で使ってるけどね。

781:人間七七四年
08/10/03 14:37:12 pFcz+0GQ
光秀が、細川藤孝みたいに幕府の奉公衆か奉行衆だったって記録でも出てくれば
そう言う説も成り立つのかもしれないが。

782:人間七七四年
08/10/03 14:57:49 NdI7ybOG
>>781
それはあるんでないの?
公家さんの日記とか他の奉行衆との連名の署名とか。

783:人間七七四年
08/10/03 15:09:59 Xp77rtwV
>>782
ありません

784:人間七七四年
08/10/03 15:18:41 kMfMzMzY
幕府絡みだと「永禄六年諸役人付」があるけど、信長上洛後だかに編集されたかなんかしてて
そのままには解釈できないんじゃなかったっけ?
あとは、細川氏関連で元々藤孝の配下だったとかなんとかいうのか。これも史料の信憑性があれだし。
結局、出自や経歴に関しては、時代が近くて信憑性有りそうなのは、
「立入左京亮入道隆佐記」と「兼見卿記」あたりだろ。どっちも光秀が美濃に係わり在るように記してるだけだが。

785:人間七七四年
08/10/03 15:22:56 UHLFVH2Q
>元々藤孝の配下だった


配下ではなく客分ではなかったか。主従関係はないはず。

786:人間七七四年
08/10/03 15:29:55 NdI7ybOG
>>784
信長文書の研究に出てくる「細川、明智、上野」とかの連署は?
全員が有力奉行衆となってる。

787:人間七七四年
08/10/03 15:33:47 NdI7ybOG
>>784
永禄六年~、だと代々の奉行衆と並んで光秀が載ってるから、これなんかは
その証明となるのかな。

788:人間七七四年
08/10/03 15:37:56 NdI7ybOG
>>784
「兼身~」だと信長が光秀の家にとまったこととか、永禄十三年正月二十六日の
記述なんかがどうなんだろう。
「奉公衆方~~~明智~」って出てくるけど、読み方や解釈についてはどうなんでしょう。

789:人間七七四年
08/10/03 15:39:52 pFcz+0GQ
>>787
光秀じゃなくて、足軽衆の名前の中に「明智」ってあるだけなんじゃなかったっけ?

790:人間七七四年
08/10/03 15:57:20 NdI7ybOG
>>789
そだっけか。
信長のとまったであろう光秀邸の周りが奉公衆の屋敷、となってるからそれから
の推測もあるのかな。

791:人間七七四年
08/10/03 19:45:32 QR2a9MO/
>>787
まだそんなこと言ってる無知な奴がいたんだね。
「永禄六年諸役人付」は、義輝と義昭の代が合わさった名簿であり、
「明智」は当然のように後者の部位に記されているんだよ。

792:人間七七四年
08/10/03 20:49:41 DZGl7PuX
>>773
その論文は読んでいないのでなんともいえないけど…
>ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか
これはいくらなんでも無茶が過ぎると思った。
天正十年の時点での家康を過大評価しすぎだ。

それから
>光秀は信長の部下としてその元にいたのではなく
>信長からみても、客将、という感じだったという
元亀の頃までの光秀ならともかく、天正以降の、坂本を宛がわれ、丹波を拝領した
光秀を部下でなく客将とかって。

793:人間七七四年
08/10/03 20:55:33 wHfnYKx6
>ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか


惣右衛門文書では
「信長の命で明智軍が滞京中の家康を討つのかと思った」
とある。

兵士たちは信長~家康の微妙な緊張関係を感じていたんだろうか?

794:人間七七四年
08/10/03 20:57:19 pFcz+0GQ
それこそ消去法だろ。近くに有力大名と言える存在は家康しかいない

795:人間七七四年
08/10/03 21:02:04 NdI7ybOG
>>792
天正十年の時点での織徳同盟の分析から述べている。

ほんで、客将、というのは初期の頃だろうね。紹介の仕方が悪かった、あやまる。

さらにすごいのは、本能寺で家康も殺す気だった、実行犯は細川、それが最後に裏切られた、と
下手な小説より面白いよ。
実際細川の変直前直後は行動が不明というしね。
それと家康が主要な家臣連れて一月以上も京周辺にいた理由はどう考えてる?

>>791
786に関しては?無知だから教えておくれ。

796:人間七七四年
08/10/03 21:03:35 pFcz+0GQ
>>795
> さらにすごいのは、本能寺で家康も殺す気だった、実行犯は細川、それが最後に裏切られた、と
> 下手な小説より面白いよ。

それは小説だよ

797:人間七七四年
08/10/03 21:08:19 NdI7ybOG
>>793
そうそう。本城文書とフロイスの記述に整合性がある不思議さはこのスレでも前にカキコしたことある。
で、信長と家康ではなく、光秀と家康の微妙な関係というのかな。
なにせ従来の本能寺をめぐる考察とはかなり解釈が違うからね。

798:人間七七四年
08/10/03 21:38:47 kMfMzMzY
家康へ接待については、
「御振舞の事、維任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ、おびただしき結構にて、・・・」
ってまともに接待してるのが公記に書いてる。何かあったら牛一が付けたしてると思う。
信長と家康の関係についても、
松平家忠の家忠日記に、家康に従って上洛してる酒井忠次から残ってる家忠に、家康が帰国したら
西国に出陣することになった(から準備しとけ)って連絡あったこと書いてるらしいから、普通に
武田征伐の礼+西国征服の増援依頼(実質、命令なんだろうけど)と解釈して問題ないんじゃないか。

799:人間七七四年
08/10/03 21:53:57 NdI7ybOG
>>798
もちろん建前はそうだし、新体制発表なんてことを牛一は知らないだろうしね。
なにせ12年ぶりで2回目の上洛、というのも軽視は出来ないかもね。

800:人間七七四年
08/10/04 00:01:37 kMfMzMzY
>>795
多分、>>786のは、元亀元年か三年の物とされている藤孝、光秀、三淵藤英、上野中務大輔秀政が
連署で義昭の近臣の飯川信堅と曾我助乗に宛てた文書だと思う。
ただ、光秀は同時期に秀吉や長秀等の織田家臣との連署もそこそこあるしね。
本圀寺の変の件とか義昭から致仕しようとした時に取り成してくれた曾我助乗に宛てた文書とかあるから
将軍と繋がりがあったのは確かだと思うけど、それが早い時期からそうだったとか、その制度を防衛しよう
としてたとかいうのは???て感じだな。藤孝とか上野氏は、多聞院日記とか言継卿記で織田と接触する
以前の動向を垣間見ることできるけど明智はそうでは無いし...。

801:人間七七四年
08/10/04 00:20:35 ZbltE0L9
>>800
さんきゅ。
早い時期というのは、信長が宿泊するほどの光秀邸があった、というのからも
推測されてるんだろうけど、そうすると朝倉に仕えた、との整合性がなくなってくる。
ともあれ研究家が光秀は奉公衆であったろう、と認めているので、そうでない、という人は
またいろいろ教えておくれ。
図書館行けばわかるが、なにせ単語忘れてググれなひ・・

制度防衛、というのも非常に深い考察、と思うので、まずは結論だけということで。
最初にも書いたけど「本能寺の変というから矮小化されている、明智の反乱とよぶべき」
というのは従来とは違う視点でそれなりに理解しておくのも、本能寺の背後を知る上で
なかなかかなってね。

今までは光秀個人にその原因を求めてきたのは確かだろうから。

802:人間七七四年
08/10/04 00:28:42 KMMByJPC
本能寺制度防衛論なんて、昔散々言われたでしょうに。

803:人間七七四年
08/10/04 00:41:28 /a/tKnEq
小和田なんかもこの系統の説だしね。

804:人間七七四年
08/10/04 02:05:20 bAHgTF4l
>>795
光秀の中では家康は京にいたと認識していたのかな?(実際は堺だが)
それを、丹後にいた細川が殺そうとした?ごめん本当にわからない。本能寺にすら
参加せずに領国にいた(これは確証がある)細川がどうやって家康を殺すの?

ほんと、「下手な小説」よりは面白そうな小説だな。

>家康が主要な家臣連れて一月以上も京周辺にいた理由はどう考えてる?
>798の言うとおりだと思う。当時の徳川は周囲を完全に味方に囲まれて領国は安全な
状態だったし。
というか、十二年振りの上京だからなんなの?

805:人間七七四年
08/10/04 04:11:54 wb5F6Uh1
本来明智スレに書いたほうが良いのかもしれんが、こっちのほうが賑わってるので書かせてもらう。
誰か「霊陽院殿御番帳」っていう史料について知らないかな?
雄山閣っていう出版社の織田信長総合辞典の明智光秀の項に載ってた情報として、
「霊陽院殿御番帳」っていう義昭が朝倉に身を寄せていた永禄十年頃の側近の交名をしるした物に
足軽衆として「明智」としるされているって自分のノートにメモってあったんだ。
足軽衆で明智とか「永禄六年諸役人付」にそっくりなんだけど、本当にそういう史料が存在するのか?とか
>>791での義昭のに相当する部分が「霊陽院~」なんだとか、実際はそんな史料は存在しないとか存在
してるけど信憑性薄いとか。ぐぐったけど引っかからないし、何か知っている人いたら教えてくれないかな。
お願いします。

806:人間七七四年
08/10/04 06:05:18 wb5F6Uh1
っていうか、昨日 ID:NdI7ybOG氏が語ってた内容は、
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」(小林 正信 著・岩田書院)なのかな?
戦国時代関連の良書スレでは、評判良く無さそうな本っぽいけど。

807:人間七七四年
08/10/04 10:35:59 c1grJFT4
>>785
>配下ではなく客分ではなかったか。主従関係はないはず。
「多聞院日記」天正10年6月17日条には
「惟任日向守ハ…山階ニテ一揆二タタキ殺レ了、首モムクロモ京へ引了云々、浅猿々々、
細川兵部太夫カ中間ニテアリシヲ引立之、中国ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩
致曲事、天命如此」とある。

多聞院日記は、噂話は「雑説」と注書する特徴があるが、本件記述にこのような注書はない。
だとすると、光秀は藤孝の中間侍だということになるね。

808:人間七七四年
08/10/04 12:17:08 44qHN3dE
多聞院日記の著者が伝聞情報に基づいて記述をしているのであれば
細部においては事実と食い違っている箇所があってもおかしくないのではないだろうか?

809:人間七七四年
08/10/04 12:21:09 20nEPNdI
あ、それだ。
スレ主さん、806さんにお礼よろしく。
捕捉すると織徳期研究会で語られている論で、このスレにも当てはまるような
視点を批判する論調なのでふれておく価値はあると思って。
805さんの質問とかも含めて、地元なので研究会のシンポに行って
聞いてきてもいいと思ってます。

>>804
光秀は家康の京での饗応係ですよ。実際にどこまで勤めたかは別にして。
また、細川が領国にいた、というのは細川家記に記述されてますが、これはもちろん
「信用できない」として他の文献の確認をしています。
よろしかったら該当書をご覧下さい。



810:人間七七四年
08/10/04 12:40:45 20nEPNdI
>>807
光秀が確実に史料にあらわれた時点で細川との関係はどうだったんでしょうね。
その1年ぐらい後にあの五箇条のあて先になってるぐらいで、いきなり室町幕府の
代表と言うかかなりの立場にあったのは確かでしょう。
連歌興行にも参加しているその文化的知識という側面からも、若い時に浪々の身
というのは少々理解しがたく、秀吉的成り上がり、というのとは異なる生い立ちであったようにも
受け取れます。
もちろん、不明、というしかないのですけどね。

811:人間七七四年
08/10/04 14:58:06 0gCPf3D0
北条早雲みたいに、幕府の仕官だったのではないか?

812:人間七七四年
08/10/04 17:48:15 uqoLehMC
>>805
>「霊陽院殿御番帳」
>>806の小林本(337ページ)に記載あり。
「(略)この番帳は前後期に分かれており、それが記されている後半は足利義昭の番帳であって、
霊陽院殿御番帳ともいうべきものであることは、すでに長節子によって論証されているので、(以下略)」
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」(小林 正信 著・岩田書院)より引用

記述のニュアンスからすると、小林氏の独自のネーミングじゃね?

以下スレチだが、氏は「宮城系図」の進士信周=進士晴舎、明智十兵衛光秀=進士藤十郎藤延
という仮説を立てているね。詳細は文献をあたってもらいたいが、なかなか大胆な妄想…、失礼
推測やな。

813:人間七七四年
08/10/04 18:33:07 wb5F6Uh1
>>812
情報どもです。>>791を検証したのって確か長節子氏じゃなかったっけ?
どうも「霊陽院~」は、「永禄六年~」の義昭パートのようですね。
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」は、高いし評判悪いみたいで手出してませんでした。

814:人間七七四年
08/10/04 21:23:47 5c9Fy9pr
様々な事柄が本能寺の変では考えられるが、なんだかんだ言っても、

光秀が信長の討った理由は、討てる状況と光秀に信長を討つ意思があったから。
その討った理由は何かと言えば、人間の本能的な理由によるもの。人間に限らず、すべての生命体の原始的な本能によるもの。



815:人間七七四年
08/10/05 00:02:10 xTmqCpAl
>813
内容が気になるなら、まずは『郷土文化』に載った氏の論文を読んでみては?
・明智光秀と制度防衛 56巻2号
・織田・徳川同盟と天下布武の構造
 ―信長の政権構想における家康の地位について― 57巻1号
・光秀没落の諸事情と国権の移転的推移(王権の浮上) 57巻3号
本はたぶんこの辺の論文をまとめたの+αだろうから。

816:人間七七四年
08/10/05 00:10:02 qtKx9kls
>805
途中に「霊陽院殿□番帳」と書き入れされた版の「永禄六年諸役人付」があって、
たぶんそれのことだと思う。
…ということも長節子氏の論文に載っている。46年も前の論文なのに大活躍。

817:人間七七四年
08/10/05 03:04:30 xgG9nq9B
そそ、言いだしっぺだが、815が言うように当該本は論文集、なんですよね。
評判悪いのは、今谷、みたいに結論がすべて「推論」になっててそれが
あまりに「独自性」にあるからじゃないのかな。

地元のセミナーで、藤田、井沢、桐野、とあって、各料金が違うのがあれなんだが、
要は質疑応答を受け付けてくれるかどうか、で悩んでる。

こういう人たちは公開されてない文書まで絶対に知ってるはずで、それが「ポロッ」
とでないかなって。

「公開されてない」についてなんだけど、昔、バイト仲間と話してて「俺のと~ちゃん、
次期00当主らしんだよ」って、そのバイト名札が某有名織田家臣だったんだよね・・
もう30年以上も前の話なんだが、そいつが全く「親不孝」みたいで偶然いろんな話を
聞いたんだ。

でも、そういう史料は一切出てきてないし、わしもオープンにする立場にない。
あまり語れなくて悪いが、とりあえずは該当研究会と、藤田、桐野、には直接
オフレコで聞きたくて仕方がない。
自分が詳しくないだけに、詳しい研究家さんならどうするのだろう、ってね。

一つだけ言うと「あんなの毎年みんなが見てるのに今更、な」みたいなこと言ってた。

今、東大の部署が公記の調査やってますよね。
あれに関わってる人いますかね。
データベースじゃなくて、異分野の走査、ここに重要な発見が無いか、
期待してるのですけど。


818:人間七七四年
08/10/05 20:06:14 1xlUocQL
>>814
本能とは自己防衛本能の事か?本能寺と本能をかけてんのか?

819:サイコメトリー
08/10/06 08:46:51 A4m40v+7
>>806
調べて頂き、感謝です。
>>814
本能とはどんな本能か具体的にお願いします。
>>817
専門分野のセミナーは非常に興味がありますね~。当方田舎在住の為、都心で
行われる催し物にはとても参加出来ないので、聞いた方の感想を聞きたいな。

本能寺の変に限らず、歴史事実の研究は研究者の説に異論を立てる事に始り、
持論の補強と別説批判の繰り返しになる。根本的に新資料が発見されない限り、
どんな珍説が飛び出しても、全否定は出来ない所が、議論の散漫性を呼ぶ。
中々収拾出来ないが、その中でもやはり、否定材料を吟味するしか方向性は
ないのだろうか?

820:人間七七四年
08/10/06 12:29:00 fNtEG5vn
>>819
新資料が発見されても結局他の資料との整合性がないと、保留、になってしまうので、
先送りになってしまうのが残念だね。

問題になってる小林本は、光秀の正体、について他の要人との同定という仮説も出してる。
このあたりが専門家にはウケが悪いか。
ただ、あれだけの人物が前半全く記録なし、というのは他の人物として登場してなかったか、
なんてのは少し考えたことあったから、ちと驚いたんだな、これが。

あ、805で出てたのか、ごめん。
その後この仮説がどうなったか、あの研究会に行って三木御大あたりに聞いてみたいもんだな。

821:人間七七四年
08/10/06 13:22:50 yn8fE8it
>>819
歴史学の世界は閉鎖的だから、新手が新資料発見しても、徹底的に潰しにかかると思う。
少し前にニュースになった古代史の第一人者が自作自演で遺物埋めて、発見としてた話。いかにも凝り固まった人間のやる事らしい。遠藤周作の本でも、そんなのあったな。

822:人間七七四年
08/10/06 14:23:40 0bfLPwGw
あれだけの人物が前半全く記録なしってのは不自然といえば不自然だな。

823:人間七七四年
08/10/06 14:51:43 fNtEG5vn
不自然をこえておかしいぐらいかな。
よく出自が話題になって土岐とか濃姫との関係が語られるけど、いきなり
歴史に登場した時にあれだけの要人だったのだから、記録がないというのも
不思議でね。
朝倉始末記とかにも載ってないのかな。
というか、諸国浪々の身とか朝倉に仕官、というのはどこから出た話?


824:人間七七四年
08/10/06 16:41:10 yn8fE8it
謎めいている人間は古今東西、魅力的なのかな。
光秀は信長を討ったからこそ、人気が高い。
スレチ、スマン。

825:人間七七四年
08/10/06 16:44:56 uKBhvrK7
>>822
> あれだけの人物が前半全く記録なし

豊臣秀吉も滝川一益も、それどころか柴田勝家も丹羽長秀も、前半生良くわかってないぞ。

826:人間七七四年
08/10/06 16:56:58 /jfE0Fe5
「永禄六年~」の後半部分は、永禄九年八月~十年十月の頃のらしい。
この時期は、義昭が近江→若狭→越前に移動する時期に重なる。若狭に行く時などは、側近含め4~5人程の時も。
朝倉の援助で一息つけた為、陣容固め。護衛用に足軽衆登用、その中に明智光秀。
義昭、美濃へ。信長、将軍の動向監視の為、光秀と誼を結ぶ。将軍後援者の信長と親しくなったことから光秀の影響力増す。
まあ、妄想だけど。
この時期の義昭陣営は、かなり手薄な様子だから、本貫無くした国人クラスが地縁・血縁の繋がりで二十人程が手弁当で集まって
護衛兵として取り入るようなことも出来たのではないかなと。

827:人間七七四年
08/10/06 17:45:56 fNtEG5vn
>>825
そういうのは個別で考えるべきだよね。
秀吉たちは初出で特に重要な存在でもないし、理解できるような登場の仕方
だよね。知られてないのも、そんなたいした存在でなかった、だろうから。
でも光秀の場合はいきなり京の要人として登場している。
1年後には日乗と並んでたりするし。つまり登場の仕方が問題になってる。
ところで、光秀初出は永禄11年として吉田文書とか妙顕寺文書とかなってるが、
どれが信憑性とかで確かなんだろう。

>>826
朝倉に仕官とかは細川の記録からなのかな。
ただ、文化人としての側面はそんな足軽とかが身につけられるものではなかろう。
一体どこで連歌興行に出席できるほどの教養を身につけたのか。



828:人間七七四年
08/10/06 17:47:18 XIywwI+M
まったく素性の知れない者を随員に入れるかな?松永や三人衆から見れば義昭はお尋ね者なわけだし
京都落去の時にも幕府の奉行・相伴衆が随行してることからも
幕府関係者とみるのが自然じゃないかな

829:人間七七四年
08/10/06 18:01:07 rEDdBVoX
そりゃ当然「それなり」の家ではあっただろう
いくら落ちぶれたとはいえ、足利家の者に身分不詳の人間が
簡単に近づけるとも思えない



830:人間七七四年
08/10/06 18:13:03 C9MxxSg6
光秀=タイムトラベラーでしょ
歴史を捻じ曲げたかどで時空警察にやられた
時空警察は足軽に扮していた

831:人間七七四年
08/10/06 20:10:38 sZ+mZnac
信長は死せず...、野望は世界に...。

国盗り学習ゲーム世界戦国編β版公開
URL : URLリンク(soresuta.jp)


832:人間七七四年
08/10/06 20:33:25 LR1tTnAu
たしかに北条早雲のような例もあるから可能性はあるな>他の要人との同定

ただそうすると、どうして「明智」姓をなのるようになったのかの説明が必要になるけど。
(早雲だって、当人は死ぬまで伊勢氏で通している)

ただ、光秀が幕府関係者出身だったとしても、それだけでは幕府制度を守るためという
動機の説得力には繋がらないがな。

833:人間七七四年
08/10/06 21:03:19 fNtEG5vn
「立入~」なんかの光秀美濃出身はほぼ確定になってるのかな。
それとの関係が難しくなってるけど、明智姓はそこから後で信長から
もらった、みたいになってるな、小林本。
ほんで、田舎ものが取り立てられて義輝の奉公衆になる、そういうのを
恩義に感じて、そして一族のため、それが幕府制度防衛につながる、という感じか。
動機に関してはなんとでもなるようなもんかな。

834:人間七七四年
08/10/06 21:04:25 uKBhvrK7
>>833
結論のための過程を作ったようにしか見えないわな。

835:人間七七四年
08/10/06 21:08:46 uKBhvrK7
>>827
秀吉も確認できる当時の資料からは、六角攻めでいきなり部隊長の一人として登場し、
しかも上洛してすぐ京奉行の一人になるのだが。

この辺から秀吉は、織田に寝返って六角攻めの下工作をした、六角の元家臣説があるわけだけどね。

836:人間七七四年
08/10/06 21:11:50 rEDdBVoX
>>835
佐々木哲を思い出すぜ

837:人間七七四年
08/10/06 21:36:13 fNtEG5vn
>>835
秀吉の部隊長はたいしたことないでしょう。
尾張と言う田舎の一部隊長ぐらいの出世ならそれこそ普通に
いくらでもいるような。
ほんで京奉行ってのはあくまでも信長が任命したわけでちゃんと説明できるというかね。

でも、光秀ってのは日乗と並び、京にも信長が宿泊するほどの屋敷を持ち、そういった
幕府の要人って形での出現、こういった京でのある意味実力者が「足利記「朝倉記」
「応仁後記」こういったものに出てこない、それを不思議、というのは理解できるんだ。

ま、秀吉の例を出して「秀吉もだ、不思議じゃない」と思うのは別にいいけど。

838:人間七七四年
08/10/06 23:17:37 /jfE0Fe5
義輝のころから京近辺で活動してたのなら、もうちょっと足跡なり噂話なりが
残ってて然るべきじゃないかってのがね。後年の活躍も京近辺なんだし。
それが、土岐明智・石津郡多羅の進士・若狭の刀鍛冶・族姓も知らぬもの等だからね。

日乗との連署や信長の宿泊って元亀元年(永禄十三)のことかな?
永禄十一年の9月に信長が義昭連れて上洛開始。年内に完了。
永禄十二年の1月本圀寺の変。4月以降、光秀が秀吉・長秀等と連署で京近辺の諸政に携わる。
幕臣というだけで無く、京に常駐してる信長家臣的な面も結構強い様に感じるけどな。

光秀と信長が親しくて話が通じ易いという状況を作っておけば、義昭が光秀をそば側近く使う様に
なるのもそう不自然ではなのでは?上洛から1年以上してれば屋敷持っててもそう可笑しくないし。
藤孝と信長が接近するのは、元亀二年以降の様で、まだそれほど親しくなかったようだし。

839:人間七七四年
08/10/06 23:31:27 uKBhvrK7
>>837
> 秀吉の部隊長はたいしたことないでしょう。
> 尾張と言う田舎の一部隊長ぐらいの出世ならそれこそ普通に
> いくらでもいるような。
> ほんで京奉行ってのはあくまでも信長が任命したわけでちゃんと説明できるというかね。

いくらなんでもそりゃ暴論だわ。大体秀吉の京奉行は光秀と同格だよ?

840:人間七七四年
08/10/06 23:52:59 fNtEG5vn
>>838
そう感じですよね、事実も。
ほんで連署というと他の文書と同じ扱い受けちゃうけど、あの五箇条でしょう、
日乗が朝廷の代表と考えると光秀は幕府代表のようなもの、これはかなり重要な
感じがする。
839さんの答えにもなるけど、京奉行と同格、と言っても信長が任命したのと
あの署名の光秀とはかなり差があるでしょう。
つまり、信長家臣的な面はあるけど、義昭と信長の間をとりもつほどの幕府側の実力者
というのはみのがしてはならないのじゃないかな。

ほんで屋敷と言うのも、京の要所、他の奉公衆の並びに構える、というのは普通じゃないような。
例えば秀吉はそういう屋敷持ってたのだろうか。

話戻すと、登場当時要人でその後数年もそれを表す行動、これは秀吉とか滝川とかそういうのの
比較とは違うのじゃないか、ということね。

ちと脱線するが、あの五箇条についてトンデモない珍説がある。
まずはあの書状、信長と義昭の署名がない、あて先が上人と光秀、とか破格の形式
というのだけど、こういうのはあまり問題にされてないのかな。

841:人間七七四年
08/10/07 00:58:41 OwgeBhiq
>840
明石散人の説は当時の常識を完全に無視したトンデモ解釈だからなぁ。
それにあの説だと五箇条の第三条が破綻する。

842:人間七七四年
08/10/07 01:06:21 NSusiMyp
>>840
ちょっとまて。光秀と秀吉の比較について、ごっちゃにしていないか?

843:人間七七四年
08/10/07 02:56:04 jPb3UNTy
結局、幕臣としての光秀を探っても、本能寺の変に繋がるようなことは、見当たらない。
変後の対応見ても、直ぐには足利将軍を担ごうとはしてないし、将軍無視して幕府制度防衛
も何もないよな。

844:人間七七四年
08/10/07 09:17:37 4UVEm0Mp
人大杉になってるよ。
PCで書き込み出来ない、また長い事続くのかな?

845:人間七七四年
08/10/07 09:53:58 caQyWuTM
>>844
宣ブラ入れなさいよ

846:人間七七四年
08/10/07 12:13:40 NWXtZiRl
>>841
へ~そうなの?ありがと。
あとで第三条見てみるからまた教えて。

ただ「正式に家督譲られた」という記述がないとか「信長正統」という確実な記録がない、
というのは細かいツッコミで面白いと思った。
当然そういうの前提で信長論は展開するから、出発点が違う、というのはトンデモ論でも
「間違ってる」と確認できないとなんかスッキリしなくてね。

五箇条に話戻して、書形式についてはどうなんでしょ、袖印とか、誓紙の形式、とか
知らないもので・・やっぱり破格なの?

847:人間七七四年
08/10/07 14:42:08 ycflFfRK
室町の権威を守る為にってのは源平交替思想と変わらない気がするが。

848:人間七七四年
08/10/07 17:53:30 NWFScMoW
>>843
ちゅうか、将軍個人はどうでもいい、というのが小林説。
実際義昭個人を見限って追放に加担したのが光秀たちだし。

だから、光秀は落ち着いたら別の誰かを16代将軍に擁立したのではないか、とこんな
感じだったかな。
小和田的な光秀個人レベルの保守反動としての制度防衛だと鈴木あたりにもトンデモ扱いされちゃってるが、
小林はもう少し広い視点で語ってて、ま、それが谷口には、トンデモ、扱いされてるわけだが。

849:人間七七四年
08/10/07 18:26:20 n/pcM6Gx
>光秀は落ち着いたら別の誰かを16代将軍に擁立したのではないか


鎌倉時代みたいに皇族将軍の選択もあったかもしれないな。

850:人間七七四年
08/10/07 18:39:08 caQyWuTM
つーか、組織防衛ってだけなら、信長も義尋を将軍にして室町幕府の存続を図ろうとしたのに、
義昭の存在があるからそれが出来ず断念したと言うのに。


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