■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■at SENGOKU
■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■ - 暇つぶし2ch700:人間七七四年
08/09/28 21:58:43 MkljSfdL
>>698
君がね。
道理で、ソース挙げるだけで否定の論証ができないわけだ。
それをやったら嘘がバレて赤っ恥だからな。



701:人間七七四年
08/09/28 23:30:22 VFbrlQ4W


702:人間七七四年
08/09/28 23:43:25 pBfJFIvr
>近江侵攻と叡山焼き討ち表明を混同している愚。
>近江侵攻から焼き討ち表明まで日数があったことさえ知らんらしい。
>恥の上塗り。

「言継卿記」で9月11日付で信長が常楽寺から園城寺に移陣したと書いてあり、
次の日に叡山焼き討ちしているが、こいつに言わせると「近江侵攻と叡山焼き討ちを混同している愚。」らしい
場所を調べれば一目瞭然なんだがね
信長は8月18日に横山へ出陣し、浅井氏と朝倉氏を牽制した後に、常楽寺から園城寺と南下
この間、主だった戦闘は起きていない、摂津・大和の方が激しい戦闘起きてる

703:人間七七四年
08/09/29 08:46:28 M8brhNYV
終わったか?
どう見ても700の負けなんだが、ツッコンだ二人ももう少し明解にやっておかないと
またわいてくるぞ。遊んでたのはわかるが。

704:人間七七四年
08/09/29 13:21:40 M8brhNYV
「女信長」という小説があって、どうみてもゲテモノなんだがこれが案外おもろい。
いろんな逸話、信秀葬儀の振る舞いとか平手自決とか、そういうのをうまいこと新解釈と言うか
こじつけてる。
最後はお約束で、天海が本能寺を語る、んだが、一度ダマされたと思ってよんでみておくれ。

705:人間七七四年
08/09/29 20:35:31 oJl8HGUs
えらく進んでいると思ったら。
本能寺の変の影響について、考えてみませんか。
明智光秀以外で、誰が得をしたのか。誰が損をしたのか。

706:人間七七四年
08/09/29 21:14:01 MxQ+Ymjf
>明智光秀以外で、誰が得をしたのか。誰が損をしたのか。


得:正親町天皇、足利義昭、上杉景勝、毛利輝元、長宗我部元親、高野山



707:人間七七四年
08/09/29 21:15:50 MxQ+Ymjf
損したのは結果論だがのちに衰退する堺商人。

京都南蛮寺の門前の商店街の店主たち。

708:人間七七四年
08/09/29 21:17:52 M1sWyjNN
天皇は不安しか残らないだろ

709:人間七七四年
08/09/29 21:20:07 p2CSlzih
谷口も朝廷関係者は喜んだであろうとは著書に書いてたね。

710:人間七七四年
08/09/29 21:21:11 N4IOjbb5
>>709
人によるでしょ。近衛なんて大ダメージだし。

711:人間七七四年
08/09/29 22:35:11 M8brhNYV
どうして、秀吉や家康が出てこない。

712:人間七七四年
08/09/30 02:10:31 oDbuMKfG
近衛の場合はとばっちりとも言えるんだろうけど、それにしてはあの逃げ方は尋常じゃない。
近衛屋敷から矢を打ち込んだ、というのからこのあたりは朝廷関与説にも利用されたりしてるな。

ただ、信忠が二条屋敷に逃げ込んだのは結果論だから、それをもってして朝廷関与
というのもおかしいのだけど、そういう申し開きが通用せずに逃げまくった、というのは
確かに近衛自身は、ちょっとなにか後ろめたいのがあったんだろかね。

713:人間七七四年
08/09/30 12:39:49 IBb+13xW
>>712
近衛の手紙によると、自分の反対派の策動があって逃げることになった、とか。

これだけでも朝廷とか公家とか天皇とか一まとめにできないよな。

714:人間七七四年
08/09/30 13:02:35 oDbuMKfG
そういう手紙はどこまで信用できるか別だけど、それを理由にしているところが
確かに朝廷も一枚岩でなかった、ということにはなる。
ただ、同じ五摂家でも直後に役職をめぐってゴタゴタしてるし、こういうのはいつどの時代にも
あるもので、とりたてて強調するほどでもないともいえる。
やっぱり、近衛は疑われる要素が十分にあったような。

で、一まとめにはできないのはそうだけど、下っ端がウダウダいうのはいつの時代にも
あることで、天皇とその側近、信長と直接関係を持ち直接その影響を受け責任もある立場と言うのは
ある程度一本化された立場にあったと思うけどね。
ウダウダ言うのは逆に無責任な下っ端、ちゅう感じか。

715:人間七七四年
08/09/30 15:46:41 7xp+CCf3
>天皇とその側近、信長と直接関係を持ち直接その影響を受け責任もある立場と言うのは
ある程度一本化された立場にあったと思うけどね。


正親町天皇の時代に限って言えば、かならずしもそうとも思えない。

716:人間七七四年
08/09/30 16:46:01 oDbuMKfG
もう少し詳しく教えてもらえるとうれしいな。
正親町天皇時代の信長とのやりとりは当然ながら、ある立場、のものが一本化して
担当していただろうし、最後のほうの馬そろえあたりまで、常に信長を権威でその支配下に
おこうとしていた。
ま、当然だが。
なので、朝廷側も一枚岩ではない、といった時に、反信長、親信長みたいなのがあったのかどうか。
近衛が言ってるのは、自分の利害関係、の話で信長勢力に対する朝廷側の立場、というのに
大きな内輪もめみたいなのはないように感じる。


717:人間七七四年
08/10/01 00:43:30 hYWBddUh
五摂家の中で二条家と近衛家は関白の座を巡って仲が悪かったし、公家間でも
所領を巡る争いなどで問題はあった。

はなはだしくは、天皇家が山科家の所領を横領したなんて訴えが起されている。
この頃の公家は武家と違って武力を持たないので、争いが合戦という目に見える
判りやすい形で起らないので後世の人間が気付きにくいというだけ。

親信長といえば、間違いなく近衛。信長と公家の付き合いではこれまで山科家が
注目されていたが、天正以降最も信長と公私にわたって親しかったのは近衛。

718:人間七七四年
08/10/01 01:04:42 Y54CKhrK
近衛が親信長というのは理解できる。
こいつは趣味が馬乗りというぐらいで、ひ弱なマロ系の公家じゃなくて、体育会系だったらしい。
さらに馬揃えでも、もちろん官職の関係もあるだろうが、公家代表みたいな感じで登場してる。
だもんで、秀吉に疑われた、というのは、屋敷から矢をいかけた、とかそういう話じゃないとこで
共謀と言うより、あれだけ親しいので何か知ってるだろ、みたいなとこもあったのかな。

その後も秀吉の関白就任のとこでも名前がでてくるよね。
だもんで、何か変後のどさくさで秀吉に弱み握られてたとか。
小説で悪いが。

719:人間七七四年
08/10/01 02:08:19 yXr19Foh
光秀は信長を襲って 他の奴らから袋だたきになるのに なんで謀反したのかねぇ 全員潰す自信があったのか

720:人間七七四年
08/10/01 02:43:54 yqOUygRL
光秀が近衛屋敷の屋根に軍勢を上げる事を申請し、
近衛がそれを許可。

近衛屋敷の屋根から二条城内に鉄砲が打ち込まれて信忠が自刃に追い込まれた。




721:人間七七四年
08/10/01 02:45:42 yqOUygRL
>>719

ある程度の期間、こう着状態で持ちこたえれれば朝廷や足利の調停で
畿内の支配権が確保できるという甘い見通しはまかったか?

722:人間七七四年
08/10/01 03:35:34 TSTYquRU
1.秀吉→毛利に釘付け。下手すれば軍団そのものが崩壊。
2.朝廷→所詮は権力者にすがるしかない奴ら。
3.細川らの呼応。

こんだけあれば畿内くらいは制圧出来ると思ったんでない?
周りの奴らもそう簡単に包囲網なんて組めないだろうし。

が、実際は細川は動かず、朝廷も反応が鈍く、挙句の果てには秀吉があっという間にもどってきたと。

723:人間七七四年
08/10/01 03:39:22 SHFNkleN
近衛前久の妹だか娘だかが丹波の赤井直正の嫁いでたって話もあるよな。
光秀が赤井氏と戦っていた頃どうしてたのか不明のようだが。

724:サイコメトリー
08/10/01 10:43:49 TEqN1qyN
>>723
近衛前久の妹との様ですね。波多野元秀の娘を正室としてたが、亡くなって
しまったので、前久の妹を妻とした様です。ちなみに間には一女居る様です。

スレチなので、一言で終わりにするが、赤井直正の病死は光秀にとって非常
に大きな事(良い意味で)だったと思う。


725:人間七七四年
08/10/01 10:44:40 Y54CKhrK
>>719
近いものはあったと思う。
武力と朝廷の権威、これでなんとかなる、と。
そして、光秀自身は信長やサルやタヌキよりも自分に自信があり
悪くとも、自分が将軍宣下受けて、他の武将を支配下におく、そういった予定ではなかったか。

なんだが、サルやタヌキが、想像以上の化けサル、化けタヌキだったと。
是非におよばず、というのは光秀にこそ似合うかもしれない。

726:人間七七四年
08/10/01 10:56:46 Y54CKhrK
もう一つの注目点だが、光秀は絶好のタイミングでなかったか、ということ。
もっと早い時点だと、信長を倒しても自分が統一に近いことをして将軍になる、
というのはかなりの難儀だったろう。
また統一後にはさすがに強大な信長は実力上もチャンスという面でも難しかったろう。
なので、丁度あの時点、信長統一寸前で謀反することが、いかにも信長にかわって
「新しい天下人」というイメージにも状況にもなってる。

結果論じゃね、偶然じゃね、と言われたらそれまでだが、それにしては見事なタイミングで
成功してるからね。
朝倉、義昭、信長、と絶好のタイミングで移り渡って出世してきた光秀の機を見て敏という
能力は十分に評価すべきだろう。

727:サイコメトリー
08/10/01 10:58:15 TEqN1qyN
>>719
光秀の構想では、ある程度の自負はあったと思う。
信長に反旗を翻えし、信長を襲った以上、信長の討ち洩らしは絶対に有り
得ないと自覚し、事を進めたはず。プラス織田家点在軍などは、烏合の衆
と侮っていた可能性もあり得るね。特に丹羽・信孝軍は眼中に無かった事
は間違いないと思われます。



728:人間七七四年
08/10/01 11:13:35 zkWNnX0a
結果的には信忠を倒せたが、信忠が京から脱出した場合、
光秀はどうするつもりだったんだろう?

729:人間七七四年
08/10/01 11:15:46 Y54CKhrK
新しいお題だが、読本の少し前のでお茶のほうからおもろい意見が出てるね。
1日に本能寺で大茶会があった、というのは事実誤認である、というのを踏まえた上で
実は二日に大茶会が開かれる予定があった、という文書があるというもの。
これはあまり聞かないけど、以前からあった話なのかな?
で、家康が堺をたって京に向かったのもこの茶会に
招待されたものではなかったか、というもの。

そういう茶会にはものものしい警護などはひかれなかったらしくて、京の文化に
親しんでいた光秀も知っていたのではないか、とすると二日に本能寺にほぼ無防備で滞在する
というのはかなり自信があった情報だったか、という感じでね。
これは桐野の、28日にはまだ決断してなかった説と微妙なところなんだけど、なかなか
興味深い問題提起とは思う。
ほんで宗及や友閑も京に向かった、という記述があるから、堺衆や朝廷が茶器で信長を
おびきよせた、というのもまず成立しないことにもなる。

どうなんだろ。


730:人間七七四年
08/10/01 11:18:24 MA/q4NGd
>>728勝家との連携を徹底阻止するだけじゃね?
元々光秀は北方しか警戒していない感じすらあるし

731:人間七七四年
08/10/01 17:27:14 Y54CKhrK
>>728
そだね。
ほんで時間を稼いで、将軍宣下、を早急に受けてたと思う。
そうすれば、朝敵信長を倒した、という大義名分もついて、織田家の復讐が
朝廷への反逆行為になる。
秀吉がいそいだのも、もしかしてこのあたりまで読んでた、というのはさすがに
かいかぶりか。

732:人間七七四年
08/10/01 19:33:02 hYWBddUh
そもそも当時の信長は朝廷と敵対していたという認識が周囲にあったのか?

733:人間七七四年
08/10/01 19:38:08 3Kqw5GDY
>>732
いえまったく。
後世の人間が勝手に妄想しているだけです。

734:人間七七四年
08/10/02 12:06:43 fdCFeBTX
御所を見下ろす形で城を作った、大変失礼で礼儀知らずな武将がいました。

735:人間七七四年
08/10/02 12:41:48 NKy56FHH
>>725
光秀が将軍位まで視野に入れてたかはちと疑問。
義昭擁する毛利や関東管領の上杉まで敵に回しかねん。
義昭の外交ルートを使って織田残党に対処するつもりなら、
自分が将軍にってのはないんじゃね?
執権なり管領なりは考えてたかもしれんが。

736:人間七七四年
08/10/02 12:51:59 1ZwzHorE
>>734
それも後世の推測じゃん

737:人間七七四年
08/10/02 13:51:10 Ij/85hOv
安土城天主の天主が天守じゃないとかだろ。
長篠で酒井が坂井になってるのと同レベルじゃないのかな。
それで 安土城天守の下に行幸の際の宿泊施設があったから
不敬だってのが 朝廷軽視派の意見だよね。
そもそも天皇の宿泊場所さえ憶測でしかないし。

日本の天皇は唯一の権威だけど 権力じゃないんだ
そして天皇家の方でなければ天皇にはなれない「これこそが権威」
これに取って代わるなんて非現実的。
平清盛のように外戚として、天皇家の権威を利用し
権力を振るいたいと考えるのが現実的。

738:人間七七四年
08/10/02 15:03:48 a9ppBkXH
>そして天皇家の方でなければ天皇にはなれない「これこそが権威」
これに取って代わるなんて非現実的。


足利義満。道鏡。蘇我入鹿。平将門。

739:人間七七四年
08/10/02 15:05:33 1ZwzHorE
>>738
どれ一つとして…

740:人間七七四年
08/10/02 15:43:37 Ij/85hOv
伝奇小説はやめない?

741:人間七七四年
08/10/02 20:06:38 PJWgeCCD
本能寺の変のタイミングですが、明智光秀の得ていたと推測される状況からは、文字通り千載一遇の好機だったわけです。
信長親子は京都に護衛兵をそんなに連れずにいる。柴田は上杉と、滝川は北条と、羽柴は毛利と対峙していて、京都に向かえない。
畿内には、信孝率いる四国遠征軍と、自分の率いる羽柴救援軍しか1万以上の軍勢はいない。徳川は、堺にいて、孤立している。
更に畿内の有力武将の細川と筒井は自分の縁戚で、親族ということで、味方してくれる可能性は高い。
そして、自分は信長に粛清される危険にさらされている。

こういった状況から、今、信長親子を討てば、畿内で独立政権を築けると判断するのは、妄想でしょうか。
座して粛清されるくらいなら、という心境に陥っていれば、尚更、謀反に賭けたくなります。
そして、畿内を制圧すれば、当時の状況からいって、強い者につかざるを得ない朝廷は、明智の味方になると思います。
そうすれば、主君の敵打ちを名目に掲げる旧織田勢力(羽柴・柴田等)を、朝敵にでき、大義名分上は、優位に立てるわけで。

私が光秀の立場なら、本能寺の変を起こしますね。

742:人間七七四年
08/10/02 20:21:05 6hMyKssS
大阪の信孝軍が動けないだろうと見たのはギャンブルだったと思う。

結果的に成功したが、薄氷を踏む思いだったのではないか。

743:人間七七四年
08/10/02 20:52:49 cWRSnJJA
>>742
ギャンブルかな。光秀から見れば、津田信澄という味方になる可能性が高い人物がいる。
本当に優秀なら、光秀に味方せざるを得ない(光秀の娘婿であり、信長の弟の信行の子である以上、内通の疑いがかけられ、信孝に殺されて当然。)。
味方せずとも、信澄を殺してしまった四国遠征軍は自壊する(信澄は、摂津衆の取り纏め役で、四国遠征軍の副将とされている。)。
実際に史実でも、信澄が死んだことから、取りまとめ役を失った地元の摂津衆は四散し、四国遠征軍は、秀吉の到着により、崩壊状態のところを救われている。
更に言うなら、独立した軍勢を率いての実戦経験豊富な光秀に対し、信孝はそもそも大軍を率いた経験はなく、四国遠征軍で最も実戦経験豊富な丹羽長秀にしても、独立して軍勢を率いた経験はない。
これらからすれば、四国遠征軍の実戦能力は、見かけ倒しと、明智光秀が考えるのも無理からぬ気がする。

744:人間七七四年
08/10/02 21:22:59 BqGhZeWg
>>741>>743
>細川と筒井は自分の縁戚で、親族ということで、味方してくれる可能性は高い
縁戚だけで反乱に同調すると考えるのはかなり浅はかだと思う。これは戦国時代では特に。
そもそも、荒木謀反のときに縁戚でありながら同調しなかったのが他ならぬ光秀だろうに。
他人の謀反には縁戚でも同調しないで見捨てるけど、自分が謀反を起した時は縁戚は同調
してくれる、なんて都合のいい夢想を抱く人だったんですかね光秀は。

>強い者につかざるを得ない朝廷は、明智の味方になると思います
これは必ずしもそうとは言えない。室町戦国における朝廷のスタンスは武家の争いには
介入しない、であり基本的に局外中立をむねとした。講和の仲介などは担った(むしろ武家
から求められた)が、自身が政治的に何処かの勢力に加担するということはしない。
これは信長に対しても同様で、求められれば講和に携わるが、信長の征服事業に積極的に
加担したことはない。信長も征服戦争に朝廷を具体的に利用したことはない。
当然、自分の敵である本願寺や武田や毛利らを
>旧織田勢力(羽柴・柴田等)を、朝敵にでき
などと朝敵にしたことはないし、朝廷もかれらを信長のために朝敵認定したこともない。

>津田信澄という味方になる可能性が高い人物がいる
これも上の理由でクエスチョン。一応織田一族として厚遇されている信澄が、織田の天下を
覆し光秀の天下のために働く?

>信澄は、摂津衆の取り纏め役で、四国遠征軍の副将とされている
初耳ですね。証明をお願いします。当時摂津は池田のものだし、副将についてはこれまで
丹羽とされ、谷口氏がいや丹羽を副将とする確かな根拠はないとされていますが、信澄が
副将格だったというのは初めて聞きました。
年齢、経歴、官位、所領全ての面で信澄より上な丹羽を越えて副将だったというのだから、
よほど確かな根拠があるのでしょう?
ちなみに縁戚関係でいえば、長秀の妻は信長庶兄信広の娘で一説には信長の養女。息子
長重の妻は信長の娘。

745:人間七七四年
08/10/02 21:39:46 8/hHeqpg
本能寺の変、ギャンブルと言えば、ギャンブルだが、信孝丹羽軍の動向においてギャンブル性は低い様に感じる。なぜなら、命令系統の弱さ+組織の統一性の弱さ。

746:人間七七四年
08/10/02 21:55:03 1ZwzHorE
明智が倒された後の清洲会議で、信忠まで死んだという状況があったとはいえ、
織田一族ではなく、家臣団による合議により主君を決めると言う、一揆的形態丸出しの状況を見ると、
信長の体制における君主権は、さほど強くなかったのではないか、って気もするな。少なくとも
巷間言われているほどには。

747:人間七七四年
08/10/02 21:56:21 fdCFeBTX
>>735
「足利幕府消滅は天正10年6月13日」という専門的な研究はご存知?
つまり本能寺も、室町からの体制、と言う面から語られるべきで、野望とか
怨恨とか個人レベルでは語るものではない、というの。
この説に関してはまだこのスレでも出てなくて、機会があったら紹介するけど
とりあえず、光秀は執権なり官領なり「錦の御旗」を考えていた、というぐらいでどう?



748:人間七七四年
08/10/02 22:49:01 +uy6dhiV
>>744
津田信澄が無実だったなんて何がソースなの?

749:人間七七四年
08/10/02 23:23:31 fdCFeBTX
光秀からみたら、一番近くにいて反撃してくる可能性があったのが信孝軍であり
当然その動向に配慮したであろう。
ギャンブル、というより戦えば勝てる、という自信だったのではないか。

ただ信孝軍が四散解消したのは、信澄、は関係なく「傭兵中心」だったからだろう。
「信長についていけば一旗あげられるかも」「お金ももらえる」この二つが無くなれば
当然脱走する。

ちなみに、大返しで秀吉は姫路で「金銀大盤振る舞い」して兵士に全部配り
鼓舞したという。
さすがやのぉ。


750:人間七七四年
08/10/02 23:27:52 1ZwzHorE
秀吉は傭兵の本質をわきまえてるよね

751:人間七七四年
08/10/02 23:36:06 fdCFeBTX
そう。
秀吉の金茶室とか美意識で語る人も多いが、あれは人の気を引くには
「お金」という本質を理解していた、というような解釈が正解だろう。
その点、信長は「ケチ」だそうなので、興味深い「対称」とはなってるな。

752:人間七七四年
08/10/02 23:36:59 +uy6dhiV
>>749
「金銀大盤振る舞い」も「人質を取らずに人身掌握しようとした」のも光秀のやった事。
光秀の所業を太閤記で自分のやった事にしただけなんだよ。

秀吉は思いっきり人質取ってる事がわかる書状が今濱に保管されてるよ。

753:人間七七四年
08/10/02 23:38:05 1ZwzHorE
つーか、基本的に光秀も秀吉も、傭兵隊長みたいなもんだからなあ。

754:人間七七四年
08/10/03 00:17:23 NdI7ybOG
>>752
よくわからない。
光秀はどこで「金銀~」して「人質~」ってのは何の話?

755:人間七七四年
08/10/03 00:18:16 hwKOt/+N
>>746
信長に権力が集中していたからこそ信長父子の死後、家臣団による合議となったとも考えられる

756:人間七七四年
08/10/03 00:25:36 pFcz+0GQ
>>755
そこは解釈の問題になっちゃうんだろうな。

757:人間七七四年
08/10/03 00:36:18 7+EwwoN7
13000の明智軍が集結するまでに何故誰も気付かなかったんだろ?

758:人間七七四年
08/10/03 00:39:37 pFcz+0GQ
>>757
光秀が本能寺に到着する前、2000くらいの先鋒隊が囲んだ段階で信長切腹、って状況だったらしいぞ。

759:人間七七四年
08/10/03 00:44:13 7+EwwoN7
>>758
ありがとう。
そうだったのか…

信忠も2000くらい率いてたんだよな?警備が甘かったんかな…

760:人間七七四年
08/10/03 00:52:09 NdI7ybOG
最新の説では本能寺は小規模だった、ということになっている。
ほとんど無防備だったと言ってもいいだろう。

それと事実かどうかはともかく、テレビ等では「ワア~ッ」と攻めるが覚書
では、ほとんど無音でヒタヒタと攻めている。
集合するまでも、ヒタヒタT-1000型みたいにあつまったんだろう。

761:人間七七四年
08/10/03 01:36:04 ZXIbCVtC
津本陽と井伊の子孫さんの対談で
本能寺の変後に、馬廻衆がど~たら、こ~たら
行方が不明だとか、色々話してたけど
ここんとこど~なん?

762:人間七七四年
08/10/03 01:49:12 +lwXp/iL
>>754
安土の金銀をばら撒いた事は兼見卿記等に書かれてる。
京都五山など受け取った側の記録からも確認できるね。
人質の件はフロイスの記録で確認できる。

763:人間七七四年
08/10/03 01:57:11 NdI7ybOG
>>761
津本、という単語が出たらスルーしてオケ。

>>762
金銀って、傭兵にバラまいたんじゃなくて、五山とかの話ね。
それなら必要経費みたいなもんでわかる。
人質の話はまだわからん。
さらに、光秀の仕業を自分のことにした、というのもわからん。

764:人間七七四年
08/10/03 05:07:40 6d3VJ1wB
>信澄は、摂津衆の取り纏め役で、四国遠征軍の副将とされている。


信澄は大阪城管理人として、大阪にとどまり、四国上陸後の信孝軍の
兵站などに従事する予定だったのではないかと思うが、史料が残っていない。

765:人間七七四年
08/10/03 05:10:48 6d3VJ1wB
京都五山に寄付したのは世論工作の期待もあったと思う。

ピットクルーみたいなもんだろ。

766:サイコメトリー
08/10/03 08:07:11 YbFduc4l
>>747
その説、是非とも教えて下さい。

>>760
最新情報だと、本能寺跡には城郭が確認され、ある程度の防御機能が存在し、
単んなる宿泊施設とは違うという事ではなかったでしたっけ?


767:人間七七四年
08/10/03 10:36:47 NdI7ybOG
>>766
本能寺跡については、読本八月号今谷の項参照。

747に関しては「本能寺の変というから個人レベルで矮小化され研究が進んできた」と過去の
手法をバッサリ。ここでいう「怨恨説」「野心説」も問題外。
で、「室町幕府体制の問題」から相当に深い考察がなされてる。
つまり「光秀の制度防衛」と言うべきものが変の真因、とされている。
「本能寺の反乱」と呼べべきだろう、という示唆も。
織豊研究の専門家、三木とかも参加する研究会などで出された説で
論文がいくつかある。

興味深いのは藤田説にも考察が深く、鈴木あたりの反論に対してどう答えるのか
そこらへん。
あの「上様馳走~」って書状ね。義昭に関しても黒幕はともかく、制度面から
言及している。

そして、ここで否定されてる怨恨説の「家康饗応不首尾」に関して、事実ではなかったか
として、「けっとばした」はともかく「信長と光秀の間に意見の相違があったのは事実だろう、という
ように展開する。
これだけだと誤解されるのでぜひ論文を読んでほしいが、タイトル忘れた。
思い出してみるわ。



768:人間七七四年
08/10/03 10:40:16 pFcz+0GQ
>>766
信長の宿泊所のことでしょ>本能寺

> 「本能寺の変」(1582年)で、織田信長が宿泊していたのは寺の建物ではなく、ごく小規模な専用御殿だったという
> 新説を、今谷明・国際日本文化研究センター教授(日本中世史)が発表する。
> 昨年、旧本能寺境内で相次いだ発掘調査の成果などから、「建物は最大40メートル四方クラス」と判断した。
> 予想外に簡素だった理由については「大坂本願寺に移る予定だった」と推定。
> テレビドラマで繰り返し放送される大きな本堂前で奮戦する信長は虚像の可能性が高くなった。


> 発掘調査にあたった吉川義彦・関西文化財調査会代表は「この石垣が、信長時代のものであることは間違いない。
> 特に瓦の量などから大きなが伽藍が焼けた可能性は低いのではないか」と話す。
> 遺構の延び方からみて、堀が巡らされていたのは、境内の東北隅にあたるほぼ40メートル四方。
> この場所に、信長の御殿があったとみられる。
> 規模の小さな御殿で、しかも警護の者は少ない。
> 圧倒的な兵力(1万3000人)の明智光秀軍を前に、信長はあっけなく自害。
> 戦いはすぐ決着がつき、伽藍の被害もそれほど大きくなかったようだ。
> 信長はなぜこれほど不用心だったのか。
> 今谷明・国際日本文化研究センター教授は「光秀が背くとは、考えてもいなかった」とみている。


> 光秀の謀反の理由については、
> ①領地替えを命じられたり、安土城での家康接待役を免じられたりしたことに対する恨み
> ②佐久間信盛ら重臣が次々、追放されたことに対する焦燥や危機感
> ③足利義昭や近衛前久ら、旧幕府・朝廷勢力に唆された‐などの説が唱えられている。
>
> しかし今谷教授は、光秀は城持ち大名になったのも早く、かなり優遇されていたことなどから、怨恨説は
> 考えにくいとする。
> やはり、本能寺に小人数で宿泊するとの情報を得た光秀が「天下取りのチャンス」と決断したとみている。
> また信長は、近々朝廷に、自分の望む官位を伝えることになっていた。
> ①関白②征夷大将軍③太政大臣‐の3説があるが、今谷教授は
>
> 「毛利氏の攻略にめどがたった時点で、征夷大将軍を受け、幕府を開こうと考えていた」と話す。
> 一方、脇田修・大阪歴史博物館館長は「平氏の流れをくむと自称していたから、平清盛の先例もある
> 太政大臣ではないか」とみている。
URLリンク(blog.livedoor.jp)

769:人間七七四年
08/10/03 10:46:52 pFcz+0GQ
制度防衛も何も、信長はぎりぎりまで義昭を上に頂いた形での体制しか考えてないじゃん。
信長は一貫して(信長の執権体制の上での)幕府再生派だった。義昭追放してからしかたなく
任官して自己の権威による体制構築にかかったけど。

信長の政権も、擬似室町幕府程度のものになったと考えて、そう間違いは無いと思うよ?

770:サイコメトリー
08/10/03 11:24:11 YbFduc4l
>>767
>>768
情報詳細ありがとうございます。

光秀の制度防衛説に付いて、単純に思ったんですが、義昭から信長に仕え替え
した時点で、室町体制(義昭)に光秀は見切りをつけた事にはならないのでしょうか?
是非とも論文のタイトル思い出して下さいね。読んでみたいス。


771:人間七七四年
08/10/03 11:26:36 +lwXp/iL
>>769
「予がいる処では、汝らは他人の寵を得る必要がない。なぜならば、予が国王であり内裏である」 By信長

772:人間七七四年
08/10/03 11:59:33 pFcz+0GQ
>>771
フロイスをまともに信じてどうする。

773:人間七七四年
08/10/03 12:20:01 NdI7ybOG
>>769
そうそう。
そして、家康が6月に京に12年ぶりに上洛、これは主要な部下を連れて1月以上も
京や堺に滞在、という異例なこと。
なので、ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか、というもの。
家康饗応不首尾もそれに関して、信長ー光秀の間で意見の齟齬があったのではないか、という。
信長が近く希望官職を発表する気だったのは間違いなく「信長ー太政大臣、信忠ー右近衛将軍
家康ー大将軍」こういう新たな体制を作る気ではなかったか、という感じだったかな。

話が戻るが770、光秀は義昭には見切りをつけたが一貫して室町体制派だった。
これは自らの奉行衆として一貫した姿勢で、信長が義昭を解官できずにその体制を室町の
旧体制のままにしていたこととも合致する。
なので、制度防衛というのは、その室町幕府体制を変更しようとした信長への光秀の反乱、
とこういう風だったか。

ちなみに、光秀は信長の部下としてその元にいたのではなく、義昭から見た場合
信長も光秀も同格であった、信長からみても、客将、という感じだったという視点が披露されてます。
こう考えると「天下に面目」とか「信長と言い争った」というのも理解できるような気もします。

774:人間七七四年
08/10/03 12:24:20 6ZduYazA
「室町体制」の定義は何?

775:人間七七四年
08/10/03 12:54:10 NdI7ybOG
>>774
聞かれても困るが、普通の意味でいいんじゃないの。
職制とか制度とか。

776:人間七七四年
08/10/03 13:02:07 pFcz+0GQ
室町体制ってものには、人それぞれいろんなイメージがあると思うけど、
公約数で考えれば、足利(もしくは源氏)将軍を戴いて、畿内を本拠とした体制のこと、じゃないかね?

777:人間七七四年
08/10/03 13:27:24 NdI7ybOG
>>772
それに関してもあったな。
これは宣教師に対して「こう考えてくれ」というもので
日本はよく、誰が支配者かわからない、みたいに言われるけど当時も天皇、将軍
信長といて、「セミナリオは誰に頼んだらいいべな?」というような問いに対しての
答え、みたいに解釈すべきだろう、って。
だからフロイスの記述もこういう点では信用できるし信長の返答もことさら
信長の「増大ぶり」をあらわすものではない、ってとこだったか。

778:人間七七四年
08/10/03 13:35:12 kMfMzMzY
浪々の身から国持ち大名になり、近畿周辺の戦乱も収まってこれから地方平定に向かうって時に制度防衛?ってのもな。
光秀自身が思ってても秀満やら利三が同調するとも限らんし。今谷って今谷明?ちょっと小説すぎねーか?
客将扱いってのは面白いけど。家中に尾張衆もいなかったみたいだし。

779:人間七七四年
08/10/03 13:43:11 pFcz+0GQ
>>778
> 今谷って今谷明?ちょっと小説すぎねーか?

今谷のは、一行目の信長の宿舎の事に関してだけだと思うが。

780:人間七七四年
08/10/03 14:23:23 NdI7ybOG
>>778
その、浪々の身、というのからして従来の研究のイメージである、ってね。
ほんで、室町将軍のもと武家が従う、というのが旧体制としたら、それを破ろうとした
信長に反抗するのは、制度防衛、ってことだと思う。
で、かなり大きな意味で使ってるけどね。

781:人間七七四年
08/10/03 14:37:12 pFcz+0GQ
光秀が、細川藤孝みたいに幕府の奉公衆か奉行衆だったって記録でも出てくれば
そう言う説も成り立つのかもしれないが。

782:人間七七四年
08/10/03 14:57:49 NdI7ybOG
>>781
それはあるんでないの?
公家さんの日記とか他の奉行衆との連名の署名とか。

783:人間七七四年
08/10/03 15:09:59 Xp77rtwV
>>782
ありません

784:人間七七四年
08/10/03 15:18:41 kMfMzMzY
幕府絡みだと「永禄六年諸役人付」があるけど、信長上洛後だかに編集されたかなんかしてて
そのままには解釈できないんじゃなかったっけ?
あとは、細川氏関連で元々藤孝の配下だったとかなんとかいうのか。これも史料の信憑性があれだし。
結局、出自や経歴に関しては、時代が近くて信憑性有りそうなのは、
「立入左京亮入道隆佐記」と「兼見卿記」あたりだろ。どっちも光秀が美濃に係わり在るように記してるだけだが。

785:人間七七四年
08/10/03 15:22:56 UHLFVH2Q
>元々藤孝の配下だった


配下ではなく客分ではなかったか。主従関係はないはず。

786:人間七七四年
08/10/03 15:29:55 NdI7ybOG
>>784
信長文書の研究に出てくる「細川、明智、上野」とかの連署は?
全員が有力奉行衆となってる。

787:人間七七四年
08/10/03 15:33:47 NdI7ybOG
>>784
永禄六年~、だと代々の奉行衆と並んで光秀が載ってるから、これなんかは
その証明となるのかな。

788:人間七七四年
08/10/03 15:37:56 NdI7ybOG
>>784
「兼身~」だと信長が光秀の家にとまったこととか、永禄十三年正月二十六日の
記述なんかがどうなんだろう。
「奉公衆方~~~明智~」って出てくるけど、読み方や解釈についてはどうなんでしょう。

789:人間七七四年
08/10/03 15:39:52 pFcz+0GQ
>>787
光秀じゃなくて、足軽衆の名前の中に「明智」ってあるだけなんじゃなかったっけ?

790:人間七七四年
08/10/03 15:57:20 NdI7ybOG
>>789
そだっけか。
信長のとまったであろう光秀邸の周りが奉公衆の屋敷、となってるからそれから
の推測もあるのかな。

791:人間七七四年
08/10/03 19:45:32 QR2a9MO/
>>787
まだそんなこと言ってる無知な奴がいたんだね。
「永禄六年諸役人付」は、義輝と義昭の代が合わさった名簿であり、
「明智」は当然のように後者の部位に記されているんだよ。

792:人間七七四年
08/10/03 20:49:41 DZGl7PuX
>>773
その論文は読んでいないのでなんともいえないけど…
>ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか
これはいくらなんでも無茶が過ぎると思った。
天正十年の時点での家康を過大評価しすぎだ。

それから
>光秀は信長の部下としてその元にいたのではなく
>信長からみても、客将、という感じだったという
元亀の頃までの光秀ならともかく、天正以降の、坂本を宛がわれ、丹波を拝領した
光秀を部下でなく客将とかって。

793:人間七七四年
08/10/03 20:55:33 wHfnYKx6
>ここで信長は家康に征夷大将軍を与える気ではなかったか


惣右衛門文書では
「信長の命で明智軍が滞京中の家康を討つのかと思った」
とある。

兵士たちは信長~家康の微妙な緊張関係を感じていたんだろうか?

794:人間七七四年
08/10/03 20:57:19 pFcz+0GQ
それこそ消去法だろ。近くに有力大名と言える存在は家康しかいない

795:人間七七四年
08/10/03 21:02:04 NdI7ybOG
>>792
天正十年の時点での織徳同盟の分析から述べている。

ほんで、客将、というのは初期の頃だろうね。紹介の仕方が悪かった、あやまる。

さらにすごいのは、本能寺で家康も殺す気だった、実行犯は細川、それが最後に裏切られた、と
下手な小説より面白いよ。
実際細川の変直前直後は行動が不明というしね。
それと家康が主要な家臣連れて一月以上も京周辺にいた理由はどう考えてる?

>>791
786に関しては?無知だから教えておくれ。

796:人間七七四年
08/10/03 21:03:35 pFcz+0GQ
>>795
> さらにすごいのは、本能寺で家康も殺す気だった、実行犯は細川、それが最後に裏切られた、と
> 下手な小説より面白いよ。

それは小説だよ

797:人間七七四年
08/10/03 21:08:19 NdI7ybOG
>>793
そうそう。本城文書とフロイスの記述に整合性がある不思議さはこのスレでも前にカキコしたことある。
で、信長と家康ではなく、光秀と家康の微妙な関係というのかな。
なにせ従来の本能寺をめぐる考察とはかなり解釈が違うからね。

798:人間七七四年
08/10/03 21:38:47 kMfMzMzY
家康へ接待については、
「御振舞の事、維任日向守に仰付けられ、京都・堺にて珍物を調へ、おびただしき結構にて、・・・」
ってまともに接待してるのが公記に書いてる。何かあったら牛一が付けたしてると思う。
信長と家康の関係についても、
松平家忠の家忠日記に、家康に従って上洛してる酒井忠次から残ってる家忠に、家康が帰国したら
西国に出陣することになった(から準備しとけ)って連絡あったこと書いてるらしいから、普通に
武田征伐の礼+西国征服の増援依頼(実質、命令なんだろうけど)と解釈して問題ないんじゃないか。

799:人間七七四年
08/10/03 21:53:57 NdI7ybOG
>>798
もちろん建前はそうだし、新体制発表なんてことを牛一は知らないだろうしね。
なにせ12年ぶりで2回目の上洛、というのも軽視は出来ないかもね。

800:人間七七四年
08/10/04 00:01:37 kMfMzMzY
>>795
多分、>>786のは、元亀元年か三年の物とされている藤孝、光秀、三淵藤英、上野中務大輔秀政が
連署で義昭の近臣の飯川信堅と曾我助乗に宛てた文書だと思う。
ただ、光秀は同時期に秀吉や長秀等の織田家臣との連署もそこそこあるしね。
本圀寺の変の件とか義昭から致仕しようとした時に取り成してくれた曾我助乗に宛てた文書とかあるから
将軍と繋がりがあったのは確かだと思うけど、それが早い時期からそうだったとか、その制度を防衛しよう
としてたとかいうのは???て感じだな。藤孝とか上野氏は、多聞院日記とか言継卿記で織田と接触する
以前の動向を垣間見ることできるけど明智はそうでは無いし...。

801:人間七七四年
08/10/04 00:20:35 ZbltE0L9
>>800
さんきゅ。
早い時期というのは、信長が宿泊するほどの光秀邸があった、というのからも
推測されてるんだろうけど、そうすると朝倉に仕えた、との整合性がなくなってくる。
ともあれ研究家が光秀は奉公衆であったろう、と認めているので、そうでない、という人は
またいろいろ教えておくれ。
図書館行けばわかるが、なにせ単語忘れてググれなひ・・

制度防衛、というのも非常に深い考察、と思うので、まずは結論だけということで。
最初にも書いたけど「本能寺の変というから矮小化されている、明智の反乱とよぶべき」
というのは従来とは違う視点でそれなりに理解しておくのも、本能寺の背後を知る上で
なかなかかなってね。

今までは光秀個人にその原因を求めてきたのは確かだろうから。

802:人間七七四年
08/10/04 00:28:42 KMMByJPC
本能寺制度防衛論なんて、昔散々言われたでしょうに。

803:人間七七四年
08/10/04 00:41:28 /a/tKnEq
小和田なんかもこの系統の説だしね。

804:人間七七四年
08/10/04 02:05:20 bAHgTF4l
>>795
光秀の中では家康は京にいたと認識していたのかな?(実際は堺だが)
それを、丹後にいた細川が殺そうとした?ごめん本当にわからない。本能寺にすら
参加せずに領国にいた(これは確証がある)細川がどうやって家康を殺すの?

ほんと、「下手な小説」よりは面白そうな小説だな。

>家康が主要な家臣連れて一月以上も京周辺にいた理由はどう考えてる?
>798の言うとおりだと思う。当時の徳川は周囲を完全に味方に囲まれて領国は安全な
状態だったし。
というか、十二年振りの上京だからなんなの?

805:人間七七四年
08/10/04 04:11:54 wb5F6Uh1
本来明智スレに書いたほうが良いのかもしれんが、こっちのほうが賑わってるので書かせてもらう。
誰か「霊陽院殿御番帳」っていう史料について知らないかな?
雄山閣っていう出版社の織田信長総合辞典の明智光秀の項に載ってた情報として、
「霊陽院殿御番帳」っていう義昭が朝倉に身を寄せていた永禄十年頃の側近の交名をしるした物に
足軽衆として「明智」としるされているって自分のノートにメモってあったんだ。
足軽衆で明智とか「永禄六年諸役人付」にそっくりなんだけど、本当にそういう史料が存在するのか?とか
>>791での義昭のに相当する部分が「霊陽院~」なんだとか、実際はそんな史料は存在しないとか存在
してるけど信憑性薄いとか。ぐぐったけど引っかからないし、何か知っている人いたら教えてくれないかな。
お願いします。

806:人間七七四年
08/10/04 06:05:18 wb5F6Uh1
っていうか、昨日 ID:NdI7ybOG氏が語ってた内容は、
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」(小林 正信 著・岩田書院)なのかな?
戦国時代関連の良書スレでは、評判良く無さそうな本っぽいけど。

807:人間七七四年
08/10/04 10:35:59 c1grJFT4
>>785
>配下ではなく客分ではなかったか。主従関係はないはず。
「多聞院日記」天正10年6月17日条には
「惟任日向守ハ…山階ニテ一揆二タタキ殺レ了、首モムクロモ京へ引了云々、浅猿々々、
細川兵部太夫カ中間ニテアリシヲ引立之、中国ノ名誉ニ信長厚恩ニテ被召遣之、忘大恩
致曲事、天命如此」とある。

多聞院日記は、噂話は「雑説」と注書する特徴があるが、本件記述にこのような注書はない。
だとすると、光秀は藤孝の中間侍だということになるね。

808:人間七七四年
08/10/04 12:17:08 44qHN3dE
多聞院日記の著者が伝聞情報に基づいて記述をしているのであれば
細部においては事実と食い違っている箇所があってもおかしくないのではないだろうか?

809:人間七七四年
08/10/04 12:21:09 20nEPNdI
あ、それだ。
スレ主さん、806さんにお礼よろしく。
捕捉すると織徳期研究会で語られている論で、このスレにも当てはまるような
視点を批判する論調なのでふれておく価値はあると思って。
805さんの質問とかも含めて、地元なので研究会のシンポに行って
聞いてきてもいいと思ってます。

>>804
光秀は家康の京での饗応係ですよ。実際にどこまで勤めたかは別にして。
また、細川が領国にいた、というのは細川家記に記述されてますが、これはもちろん
「信用できない」として他の文献の確認をしています。
よろしかったら該当書をご覧下さい。



810:人間七七四年
08/10/04 12:40:45 20nEPNdI
>>807
光秀が確実に史料にあらわれた時点で細川との関係はどうだったんでしょうね。
その1年ぐらい後にあの五箇条のあて先になってるぐらいで、いきなり室町幕府の
代表と言うかかなりの立場にあったのは確かでしょう。
連歌興行にも参加しているその文化的知識という側面からも、若い時に浪々の身
というのは少々理解しがたく、秀吉的成り上がり、というのとは異なる生い立ちであったようにも
受け取れます。
もちろん、不明、というしかないのですけどね。

811:人間七七四年
08/10/04 14:58:06 0gCPf3D0
北条早雲みたいに、幕府の仕官だったのではないか?

812:人間七七四年
08/10/04 17:48:15 uqoLehMC
>>805
>「霊陽院殿御番帳」
>>806の小林本(337ページ)に記載あり。
「(略)この番帳は前後期に分かれており、それが記されている後半は足利義昭の番帳であって、
霊陽院殿御番帳ともいうべきものであることは、すでに長節子によって論証されているので、(以下略)」
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」(小林 正信 著・岩田書院)より引用

記述のニュアンスからすると、小林氏の独自のネーミングじゃね?

以下スレチだが、氏は「宮城系図」の進士信周=進士晴舎、明智十兵衛光秀=進士藤十郎藤延
という仮説を立てているね。詳細は文献をあたってもらいたいが、なかなか大胆な妄想…、失礼
推測やな。

813:人間七七四年
08/10/04 18:33:07 wb5F6Uh1
>>812
情報どもです。>>791を検証したのって確か長節子氏じゃなかったっけ?
どうも「霊陽院~」は、「永禄六年~」の義昭パートのようですね。
「織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって 」は、高いし評判悪いみたいで手出してませんでした。

814:人間七七四年
08/10/04 21:23:47 5c9Fy9pr
様々な事柄が本能寺の変では考えられるが、なんだかんだ言っても、

光秀が信長の討った理由は、討てる状況と光秀に信長を討つ意思があったから。
その討った理由は何かと言えば、人間の本能的な理由によるもの。人間に限らず、すべての生命体の原始的な本能によるもの。



815:人間七七四年
08/10/05 00:02:10 xTmqCpAl
>813
内容が気になるなら、まずは『郷土文化』に載った氏の論文を読んでみては?
・明智光秀と制度防衛 56巻2号
・織田・徳川同盟と天下布武の構造
 ―信長の政権構想における家康の地位について― 57巻1号
・光秀没落の諸事情と国権の移転的推移(王権の浮上) 57巻3号
本はたぶんこの辺の論文をまとめたの+αだろうから。

816:人間七七四年
08/10/05 00:10:02 qtKx9kls
>805
途中に「霊陽院殿□番帳」と書き入れされた版の「永禄六年諸役人付」があって、
たぶんそれのことだと思う。
…ということも長節子氏の論文に載っている。46年も前の論文なのに大活躍。

817:人間七七四年
08/10/05 03:04:30 xgG9nq9B
そそ、言いだしっぺだが、815が言うように当該本は論文集、なんですよね。
評判悪いのは、今谷、みたいに結論がすべて「推論」になっててそれが
あまりに「独自性」にあるからじゃないのかな。

地元のセミナーで、藤田、井沢、桐野、とあって、各料金が違うのがあれなんだが、
要は質疑応答を受け付けてくれるかどうか、で悩んでる。

こういう人たちは公開されてない文書まで絶対に知ってるはずで、それが「ポロッ」
とでないかなって。

「公開されてない」についてなんだけど、昔、バイト仲間と話してて「俺のと~ちゃん、
次期00当主らしんだよ」って、そのバイト名札が某有名織田家臣だったんだよね・・
もう30年以上も前の話なんだが、そいつが全く「親不孝」みたいで偶然いろんな話を
聞いたんだ。

でも、そういう史料は一切出てきてないし、わしもオープンにする立場にない。
あまり語れなくて悪いが、とりあえずは該当研究会と、藤田、桐野、には直接
オフレコで聞きたくて仕方がない。
自分が詳しくないだけに、詳しい研究家さんならどうするのだろう、ってね。

一つだけ言うと「あんなの毎年みんなが見てるのに今更、な」みたいなこと言ってた。

今、東大の部署が公記の調査やってますよね。
あれに関わってる人いますかね。
データベースじゃなくて、異分野の走査、ここに重要な発見が無いか、
期待してるのですけど。


818:人間七七四年
08/10/05 20:06:14 1xlUocQL
>>814
本能とは自己防衛本能の事か?本能寺と本能をかけてんのか?

819:サイコメトリー
08/10/06 08:46:51 A4m40v+7
>>806
調べて頂き、感謝です。
>>814
本能とはどんな本能か具体的にお願いします。
>>817
専門分野のセミナーは非常に興味がありますね~。当方田舎在住の為、都心で
行われる催し物にはとても参加出来ないので、聞いた方の感想を聞きたいな。

本能寺の変に限らず、歴史事実の研究は研究者の説に異論を立てる事に始り、
持論の補強と別説批判の繰り返しになる。根本的に新資料が発見されない限り、
どんな珍説が飛び出しても、全否定は出来ない所が、議論の散漫性を呼ぶ。
中々収拾出来ないが、その中でもやはり、否定材料を吟味するしか方向性は
ないのだろうか?

820:人間七七四年
08/10/06 12:29:00 fNtEG5vn
>>819
新資料が発見されても結局他の資料との整合性がないと、保留、になってしまうので、
先送りになってしまうのが残念だね。

問題になってる小林本は、光秀の正体、について他の要人との同定という仮説も出してる。
このあたりが専門家にはウケが悪いか。
ただ、あれだけの人物が前半全く記録なし、というのは他の人物として登場してなかったか、
なんてのは少し考えたことあったから、ちと驚いたんだな、これが。

あ、805で出てたのか、ごめん。
その後この仮説がどうなったか、あの研究会に行って三木御大あたりに聞いてみたいもんだな。

821:人間七七四年
08/10/06 13:22:50 yn8fE8it
>>819
歴史学の世界は閉鎖的だから、新手が新資料発見しても、徹底的に潰しにかかると思う。
少し前にニュースになった古代史の第一人者が自作自演で遺物埋めて、発見としてた話。いかにも凝り固まった人間のやる事らしい。遠藤周作の本でも、そんなのあったな。

822:人間七七四年
08/10/06 14:23:40 0bfLPwGw
あれだけの人物が前半全く記録なしってのは不自然といえば不自然だな。

823:人間七七四年
08/10/06 14:51:43 fNtEG5vn
不自然をこえておかしいぐらいかな。
よく出自が話題になって土岐とか濃姫との関係が語られるけど、いきなり
歴史に登場した時にあれだけの要人だったのだから、記録がないというのも
不思議でね。
朝倉始末記とかにも載ってないのかな。
というか、諸国浪々の身とか朝倉に仕官、というのはどこから出た話?


824:人間七七四年
08/10/06 16:41:10 yn8fE8it
謎めいている人間は古今東西、魅力的なのかな。
光秀は信長を討ったからこそ、人気が高い。
スレチ、スマン。

825:人間七七四年
08/10/06 16:44:56 uKBhvrK7
>>822
> あれだけの人物が前半全く記録なし

豊臣秀吉も滝川一益も、それどころか柴田勝家も丹羽長秀も、前半生良くわかってないぞ。

826:人間七七四年
08/10/06 16:56:58 /jfE0Fe5
「永禄六年~」の後半部分は、永禄九年八月~十年十月の頃のらしい。
この時期は、義昭が近江→若狭→越前に移動する時期に重なる。若狭に行く時などは、側近含め4~5人程の時も。
朝倉の援助で一息つけた為、陣容固め。護衛用に足軽衆登用、その中に明智光秀。
義昭、美濃へ。信長、将軍の動向監視の為、光秀と誼を結ぶ。将軍後援者の信長と親しくなったことから光秀の影響力増す。
まあ、妄想だけど。
この時期の義昭陣営は、かなり手薄な様子だから、本貫無くした国人クラスが地縁・血縁の繋がりで二十人程が手弁当で集まって
護衛兵として取り入るようなことも出来たのではないかなと。

827:人間七七四年
08/10/06 17:45:56 fNtEG5vn
>>825
そういうのは個別で考えるべきだよね。
秀吉たちは初出で特に重要な存在でもないし、理解できるような登場の仕方
だよね。知られてないのも、そんなたいした存在でなかった、だろうから。
でも光秀の場合はいきなり京の要人として登場している。
1年後には日乗と並んでたりするし。つまり登場の仕方が問題になってる。
ところで、光秀初出は永禄11年として吉田文書とか妙顕寺文書とかなってるが、
どれが信憑性とかで確かなんだろう。

>>826
朝倉に仕官とかは細川の記録からなのかな。
ただ、文化人としての側面はそんな足軽とかが身につけられるものではなかろう。
一体どこで連歌興行に出席できるほどの教養を身につけたのか。



828:人間七七四年
08/10/06 17:47:18 XIywwI+M
まったく素性の知れない者を随員に入れるかな?松永や三人衆から見れば義昭はお尋ね者なわけだし
京都落去の時にも幕府の奉行・相伴衆が随行してることからも
幕府関係者とみるのが自然じゃないかな

829:人間七七四年
08/10/06 18:01:07 rEDdBVoX
そりゃ当然「それなり」の家ではあっただろう
いくら落ちぶれたとはいえ、足利家の者に身分不詳の人間が
簡単に近づけるとも思えない



830:人間七七四年
08/10/06 18:13:03 C9MxxSg6
光秀=タイムトラベラーでしょ
歴史を捻じ曲げたかどで時空警察にやられた
時空警察は足軽に扮していた

831:人間七七四年
08/10/06 20:10:38 sZ+mZnac
信長は死せず...、野望は世界に...。

国盗り学習ゲーム世界戦国編β版公開
URL : URLリンク(soresuta.jp)


832:人間七七四年
08/10/06 20:33:25 LR1tTnAu
たしかに北条早雲のような例もあるから可能性はあるな>他の要人との同定

ただそうすると、どうして「明智」姓をなのるようになったのかの説明が必要になるけど。
(早雲だって、当人は死ぬまで伊勢氏で通している)

ただ、光秀が幕府関係者出身だったとしても、それだけでは幕府制度を守るためという
動機の説得力には繋がらないがな。

833:人間七七四年
08/10/06 21:03:19 fNtEG5vn
「立入~」なんかの光秀美濃出身はほぼ確定になってるのかな。
それとの関係が難しくなってるけど、明智姓はそこから後で信長から
もらった、みたいになってるな、小林本。
ほんで、田舎ものが取り立てられて義輝の奉公衆になる、そういうのを
恩義に感じて、そして一族のため、それが幕府制度防衛につながる、という感じか。
動機に関してはなんとでもなるようなもんかな。

834:人間七七四年
08/10/06 21:04:25 uKBhvrK7
>>833
結論のための過程を作ったようにしか見えないわな。

835:人間七七四年
08/10/06 21:08:46 uKBhvrK7
>>827
秀吉も確認できる当時の資料からは、六角攻めでいきなり部隊長の一人として登場し、
しかも上洛してすぐ京奉行の一人になるのだが。

この辺から秀吉は、織田に寝返って六角攻めの下工作をした、六角の元家臣説があるわけだけどね。

836:人間七七四年
08/10/06 21:11:50 rEDdBVoX
>>835
佐々木哲を思い出すぜ

837:人間七七四年
08/10/06 21:36:13 fNtEG5vn
>>835
秀吉の部隊長はたいしたことないでしょう。
尾張と言う田舎の一部隊長ぐらいの出世ならそれこそ普通に
いくらでもいるような。
ほんで京奉行ってのはあくまでも信長が任命したわけでちゃんと説明できるというかね。

でも、光秀ってのは日乗と並び、京にも信長が宿泊するほどの屋敷を持ち、そういった
幕府の要人って形での出現、こういった京でのある意味実力者が「足利記「朝倉記」
「応仁後記」こういったものに出てこない、それを不思議、というのは理解できるんだ。

ま、秀吉の例を出して「秀吉もだ、不思議じゃない」と思うのは別にいいけど。

838:人間七七四年
08/10/06 23:17:37 /jfE0Fe5
義輝のころから京近辺で活動してたのなら、もうちょっと足跡なり噂話なりが
残ってて然るべきじゃないかってのがね。後年の活躍も京近辺なんだし。
それが、土岐明智・石津郡多羅の進士・若狭の刀鍛冶・族姓も知らぬもの等だからね。

日乗との連署や信長の宿泊って元亀元年(永禄十三)のことかな?
永禄十一年の9月に信長が義昭連れて上洛開始。年内に完了。
永禄十二年の1月本圀寺の変。4月以降、光秀が秀吉・長秀等と連署で京近辺の諸政に携わる。
幕臣というだけで無く、京に常駐してる信長家臣的な面も結構強い様に感じるけどな。

光秀と信長が親しくて話が通じ易いという状況を作っておけば、義昭が光秀をそば側近く使う様に
なるのもそう不自然ではなのでは?上洛から1年以上してれば屋敷持っててもそう可笑しくないし。
藤孝と信長が接近するのは、元亀二年以降の様で、まだそれほど親しくなかったようだし。

839:人間七七四年
08/10/06 23:31:27 uKBhvrK7
>>837
> 秀吉の部隊長はたいしたことないでしょう。
> 尾張と言う田舎の一部隊長ぐらいの出世ならそれこそ普通に
> いくらでもいるような。
> ほんで京奉行ってのはあくまでも信長が任命したわけでちゃんと説明できるというかね。

いくらなんでもそりゃ暴論だわ。大体秀吉の京奉行は光秀と同格だよ?

840:人間七七四年
08/10/06 23:52:59 fNtEG5vn
>>838
そう感じですよね、事実も。
ほんで連署というと他の文書と同じ扱い受けちゃうけど、あの五箇条でしょう、
日乗が朝廷の代表と考えると光秀は幕府代表のようなもの、これはかなり重要な
感じがする。
839さんの答えにもなるけど、京奉行と同格、と言っても信長が任命したのと
あの署名の光秀とはかなり差があるでしょう。
つまり、信長家臣的な面はあるけど、義昭と信長の間をとりもつほどの幕府側の実力者
というのはみのがしてはならないのじゃないかな。

ほんで屋敷と言うのも、京の要所、他の奉公衆の並びに構える、というのは普通じゃないような。
例えば秀吉はそういう屋敷持ってたのだろうか。

話戻すと、登場当時要人でその後数年もそれを表す行動、これは秀吉とか滝川とかそういうのの
比較とは違うのじゃないか、ということね。

ちと脱線するが、あの五箇条についてトンデモない珍説がある。
まずはあの書状、信長と義昭の署名がない、あて先が上人と光秀、とか破格の形式
というのだけど、こういうのはあまり問題にされてないのかな。

841:人間七七四年
08/10/07 00:58:41 OwgeBhiq
>840
明石散人の説は当時の常識を完全に無視したトンデモ解釈だからなぁ。
それにあの説だと五箇条の第三条が破綻する。

842:人間七七四年
08/10/07 01:06:21 NSusiMyp
>>840
ちょっとまて。光秀と秀吉の比較について、ごっちゃにしていないか?

843:人間七七四年
08/10/07 02:56:04 jPb3UNTy
結局、幕臣としての光秀を探っても、本能寺の変に繋がるようなことは、見当たらない。
変後の対応見ても、直ぐには足利将軍を担ごうとはしてないし、将軍無視して幕府制度防衛
も何もないよな。

844:人間七七四年
08/10/07 09:17:37 4UVEm0Mp
人大杉になってるよ。
PCで書き込み出来ない、また長い事続くのかな?

845:人間七七四年
08/10/07 09:53:58 caQyWuTM
>>844
宣ブラ入れなさいよ

846:人間七七四年
08/10/07 12:13:40 NWXtZiRl
>>841
へ~そうなの?ありがと。
あとで第三条見てみるからまた教えて。

ただ「正式に家督譲られた」という記述がないとか「信長正統」という確実な記録がない、
というのは細かいツッコミで面白いと思った。
当然そういうの前提で信長論は展開するから、出発点が違う、というのはトンデモ論でも
「間違ってる」と確認できないとなんかスッキリしなくてね。

五箇条に話戻して、書形式についてはどうなんでしょ、袖印とか、誓紙の形式、とか
知らないもので・・やっぱり破格なの?

847:人間七七四年
08/10/07 14:42:08 ycflFfRK
室町の権威を守る為にってのは源平交替思想と変わらない気がするが。

848:人間七七四年
08/10/07 17:53:30 NWFScMoW
>>843
ちゅうか、将軍個人はどうでもいい、というのが小林説。
実際義昭個人を見限って追放に加担したのが光秀たちだし。

だから、光秀は落ち着いたら別の誰かを16代将軍に擁立したのではないか、とこんな
感じだったかな。
小和田的な光秀個人レベルの保守反動としての制度防衛だと鈴木あたりにもトンデモ扱いされちゃってるが、
小林はもう少し広い視点で語ってて、ま、それが谷口には、トンデモ、扱いされてるわけだが。

849:人間七七四年
08/10/07 18:26:20 n/pcM6Gx
>光秀は落ち着いたら別の誰かを16代将軍に擁立したのではないか


鎌倉時代みたいに皇族将軍の選択もあったかもしれないな。

850:人間七七四年
08/10/07 18:39:08 caQyWuTM
つーか、組織防衛ってだけなら、信長も義尋を将軍にして室町幕府の存続を図ろうとしたのに、
義昭の存在があるからそれが出来ず断念したと言うのに。


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