08/08/03 09:03:19 63R2kB1s
話をずらすが。
神戸信孝と丹羽長秀が、津田信澄を討ったのは、光秀の娘婿というよりも、信長の後継者として、自分よりも上位だったから。
というのを、以前読んだことがあるのだが、本当なのだろうか。
本能寺の変の第一報を、四国遠征軍が受けたとき、神戸信孝や丹羽長秀、津田信澄は、全軍共同して、明智光秀を討とうとした。
しかし、続報が入るにつれ、織田信忠や織田勝長(信房)まで死んだことが判明し、成人した織田(津田)家の人間が信澄しかいなくなった。
そして、今、光秀を討ったら、信澄がその功績から織田家の当主になる、と信孝や長秀は考えて、信澄を殺した。
というのだが、確かに信孝や信雄が清州会議で信長の後継者になれなかった理由の一つが、他家の養子になっていたことなので、
私としては、ありうるかも、と思ったのだが。
信長の後継者の順序としては、第一が信忠なのは間違いないが、その次以降は誰になるのだろう。