■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■at SENGOKU
■■■本能寺の変徹底考察スレ■■■ - 暇つぶし2ch2:サイコメトリー
08/08/01 13:03:52 9cGw7XgI

スイマセン。本能寺の変考察スレ③です。

PCで立てられなかったので、携帯で立てたら脱字をしてしまいました。
本能寺の変徹底考察スレ③段目です。

3:人間七七四年
08/08/01 13:24:19 VazsJOLQ

●前スレ
■■本能寺の変徹底考察スレ②+■■
スレリンク(sengoku板)l50

●過去ログ
■■本能寺の変を徹底考察するスレ■■
スレリンク(sengoku板)l50x

●関連スレ
本能寺の変
スレリンク(sengoku板)l50
【本能寺の変】明智日向守光秀【山崎の戦い】
スレリンク(sengoku板)l50



4:人間七七四年
08/08/01 14:22:39 a540eA+b
>>1
重複


本能寺の変
スレリンク(sengoku板)
もし、本能寺の変がおきなかったら
スレリンク(sengoku板)

5:サイコメトリー
08/08/01 14:41:04 9cGw7XgI
>>3
過去スレ張り、感謝致します。ありがとう。

>>4
前回も言ってますが、重複承知で本能寺の変徹底考察スレ③を立ててます。



6:人間七七四年
08/08/01 17:28:27 kPVd1zCd
時は今!我慢汁がしたしる五月み○り!!!!!!

7:人間七七四年
08/08/02 13:14:56 ddmLh0Yw
読んだよ。
まず、肝心の変の要因については鈴木方式で怨恨・黒幕説をぶった切って、野望説を提唱している。
ただ、変の要因の立論にはほとんどページを割いておらず、「変の真相解明」からはほど遠い内容。
変の要因を知りたいって人にはオススメできない。

「本能寺の変」樋口晴彦
URLリンク(item.rakuten.co.jp)




8:人間七七四年
08/08/02 17:16:16 L234STsk
前スレから引っ張るけど、純粋な野望説は揚げ足取りが、ってのはやっぱり
「史料をだせ」「妄想はやめろ」というのを避けてるわけでしょう。
せっかく夏休みだから、そういうのは最後にするとして、いろんな視点、見解
からそういう純粋な野望説、を聞いて見たい気もする。
どうせ生年だって確定してない人なんだから、あまり史料にこだわらずに
語るのも夏の夜には面白いかもよ。

9:人間七七四年
08/08/02 17:21:41 HlN7O5XO
前スレ996へ
もちろん知ってるよ。
それでも本能寺の時点で明智をナンバー1と呼ぶのは疑問だということ。

10:人間七七四年
08/08/02 17:32:30 L234STsk
>>9
詳しく、教えて。
4年の間に何があったかざっとはわかるけど、馬そろえで京での
対応責任者になった、家康の供応係というのまで、そういう信用は
続いてたとおもうし。

光秀の領土、兵力、そういうのの他の家臣との単純比較、
そういうのも含めて、ナンバー1って言うのは疑問ですかね。


11:人間七七四年
08/08/02 17:39:24 /1WvdHXL
>>8
>前スレから引っ張るけど、純粋な野望説は揚げ足取りが、ってのはやっぱり
>「史料をだせ」「妄想はやめろ」というのを避けてるわけでしょう。

うーん、俺の書き込みをどうとったのかいまいち分からんが、
「揚げ足」と俺が表現したのは、
「野望説というなら、純粋に野望一本が動機で、他の理由はないんでしょ」
的な発想のことね。

これ逆に、他説でも同様なんだよね。
例えば、四国政策での衝突とか、将来や地位への不満を主張する人でも
それらの理由一筋で光秀が謀叛したと言い張ってるか?といえば、そうじゃないよね(多分)
そうした理由が主となってるという主張であり、
光秀に一切その他の野心や不満や怨恨が無いと言ってるわけじゃあない。

12:人間七七四年
08/08/02 18:04:45 OIBO4xU3
>>6 は夏厨だろう。

13:人間七七四年
08/08/02 19:51:03 o8wgP6ib
商人連合陰謀説◎
朝廷陰謀説★
秀吉野望説○
光秀家康秀吉共闘陰謀説◎◎
光秀単独怨み野望説▲
利休野望説△


14:人間七七四年
08/08/02 20:30:07 QsY/rAiI
朝廷陰謀説というより
正親町天皇の謀略説だろうな。

15:人間七七四年
08/08/02 20:51:30 8pYxIbDr
>>14
> 正親町天皇の謀略説だろうな。

そんなこと本気で考えてるのはこのスレに住み着いてる変なキチガイ一人だ。

16:人間七七四年
08/08/02 20:59:01 qkrQhn4g
光秀が4~5番手だって?

家康秀吉共闘陰謀説が◎◎◎?

いつから、↑こんな流れになってんだろう~。
一概には言い切れないが、少なくとも光秀は織田家中3番手以上だし、変で秀吉と家康が関わった流れ等、主流になった事などない。前スレでも、前々スレでもね。
このスレ③回目の序盤で
いきなり変な流れにしないで欲しい。


17:人間七七四年
08/08/02 21:15:58 QsY/rAiI
>>15

宮内庁の工作員のかたですか?

18:人間七七四年
08/08/02 22:10:32 E5hsC8dK
当時の光秀の所領は丹波一国に近江志賀郡に京都を除く山城
石高だけならともかく、京からの距離考えると光秀は重要地域を任されている感じはするな
その上、信澄忠興を娘婿に、筒井に次男を養子として送り込むと。

19:人間七七四年
08/08/02 22:19:10 /1WvdHXL
>>16
>>9(前スレ992)はナンバー1ということに疑問を示している
それに対し、前スレ993は
「まあ織田一族除けばナンバー4か5くらいの地位はあったんじゃね? 」
と、一番でなくても、少なくとも4~5くらいの地位にはあったんじゃないか?と言ってる。
別に「光秀が4~5番手」と断言して主張してるわけではない。

このスレに入ってから問題とされてるのは、あくまで「光秀が一番か?」ということ

お前さんも、もうちょっと頭を冷やしたほうがいい。

20:人間七七四年
08/08/02 22:29:16 /1WvdHXL
織田家臣団の序列については、前スレのはじめごろでも話題になってたね。
結論自体は特にでてないように思えるが。
織田政権の性質自体に関わる問題だから、そう簡単には答えがでるとも思えないし。
個人的に前スレ63の意見には注目してる

>織田家は本能寺まで信長のほぼ完全な独裁。ナンバー2はいない。
>はっきり言えば勝家も光秀も秀吉も使用人に過ぎない。
>織田家の政権中枢は信長そのもので、その信長が事毎に、必要と思われる人間の助言を聞いて
>政策を支持し、実行させていた。

>だから信長時代の織田家に、他家のような家臣序列があったと考えるのは間違いだと思う。

これはちょっと極端としても、
織田政権は急速に膨張し、かつ統一戦争の真っ最中ということもあり、
その構造はかなり未成熟であり、流動的なものだったと思うんだよね。
だから、家臣団の序列とか、ある程度の目安のようなものはあったとしても、
明確に秩序だったものは完成されてなかったと思っている。

21:人間七七四年
08/08/03 02:13:04 wIk6wLaT
>>20
なるほど、それは正しいだろうな。

でも、家臣団とか、そういううのは根本的にどうなんだろう。

そこに重視を置くのはちょっと、深読みというか考えすぎだと
思う。

そんなに難しく判断する必要があるのだろうか。

織田家の構造とか、序列、とかは正しくて正解なんだろうけど
実行犯の光秀の心中をさぐるにはそこから判断すべきなんだろうか。

このあたりは、歴史解釈の手法まで戻ってしまうから、
限定で語りあいたいと思う。

織田家の、いや信長の解釈と、光秀個人の思想とは
個別に語るべきで。

このあたりはマジでつめたいと思うのだけど、
チャチャが入って大変。

22:人間七七四年
08/08/03 03:16:27 eQPBR1zu
>>21
基本的に同意。
光秀も個人的な想いと軍事的な算段は、別にしてたはず。
野望的な思考では、天下の実権を信長に変わり、握ろうとしたと言う事でなく、結果的に京を中心とした領土確保が出来れば御の字と考えていたと思われる程度の野望思考。
怨恨的な思考では、何度となくあった確執と信長との折り合いの問題。
よく怨恨類は確証がないと言われるが、信長との間にいさかいがなかったはずかない。
信長とは、誰しもがうまくいっていたとは思えないがね。
野望+怨恨が1番妥当だと思う。


23:人間七七四年
08/08/03 04:40:54 +cgXWb33
>>21
光秀の序列が何番目なのかに神経質になってる人がいるから、
前スレの話題を引きつつ「正確な序列なんて決めれないんじゃない?」という話しただけ。

個人の思想云々の話だと、光秀他家臣団の面々が、
みんななかよく横一線、なんては当然考えてないだろうね。

ただちょっと気になるのが「織田家の構造」と「光秀個人の心中」は
完全に区別して考えていいのか?という問題
そこら辺、個々の説によってもとらえ方は変わってくるだろうけどね。

24:人間七七四年
08/08/03 06:44:23 pUyoOM8f
>18
>京都を除く山城
これを言うには、本能寺前から
①井戸が明智組下
②明智が青龍寺城を支配
などを証明する必要がある。
おそらく山城は信長の直轄かと。

定頼についてはもう少し調べてから書いたほうがよいかと。

25:人間七七四年
08/08/03 09:03:19 63R2kB1s
話をずらすが。

神戸信孝と丹羽長秀が、津田信澄を討ったのは、光秀の娘婿というよりも、信長の後継者として、自分よりも上位だったから。
というのを、以前読んだことがあるのだが、本当なのだろうか。

本能寺の変の第一報を、四国遠征軍が受けたとき、神戸信孝や丹羽長秀、津田信澄は、全軍共同して、明智光秀を討とうとした。
しかし、続報が入るにつれ、織田信忠や織田勝長(信房)まで死んだことが判明し、成人した織田(津田)家の人間が信澄しかいなくなった。
そして、今、光秀を討ったら、信澄がその功績から織田家の当主になる、と信孝や長秀は考えて、信澄を殺した。

というのだが、確かに信孝や信雄が清州会議で信長の後継者になれなかった理由の一つが、他家の養子になっていたことなので、
私としては、ありうるかも、と思ったのだが。
信長の後継者の順序としては、第一が信忠なのは間違いないが、その次以降は誰になるのだろう。

26:人間七七四年
08/08/03 10:18:09 dJmnKm01
>>25
後継者の順序と関係あるかは分からんが、馬揃えの序列では
信雄>信包>信孝=信澄、だっけ。
ただ、信雄が伊賀平定でミソつけたときに、信長から「兄貴の顔に泥塗るようなヘマするな!」って折檻状
下されてるから、信雄は一応2番手だが兄貴とは超えがたい格差があると思う。
信澄は信孝の副将に甘んじたことから、信孝は序列では信澄の下ってのはどうかなあ?
単に「光秀の婿の信澄が謀反に呼応する」って風説が流れて、信孝が信じただけでね。

>>22
同意。前スレでも話題になったが、「信長の人間性」だって怨恨の土壌になる。
光秀には、野望も怨恨もあった。でも、謀反を後押ししたのは光秀にとって偶然としか
思えないラッキーな状況の出現で、そのワンチャンスに決行した。



27:人間七七四年
08/08/03 12:16:31 2BZYLeHU
>信長との間にいさかいがなかったはずかない。
本能寺の変の研究はこういった確執が具体的に何であったかを推察するのが目的なのよ。
議論が衰退してる。

28:人間七七四年
08/08/03 13:06:28 xS5xktbb
>>22
>信長とは、誰しもがうまくいっていたとは思えないがね
そりゃ当たり前だろ。だからなに?の世界だ。逆に言えば、信長とはものすごく上手くいっていた人もいた。
それこそ命を捨ててまで従った武将たち。元亀の危機にも裏切らなかった尾張美濃の武士。本能寺でわざわざ
かけつけて明智軍に切り込んでいったり、切腹して殉じた側近たち。そういった存在を無視してまるで一般論
かのように言うのはフェアじゃない。

>信長との間にいさかいがなかったはずかない
これも当たり前だ。問題は、そのいさかいが謀反になるほどの差し迫ったものなのかということ。
例えば秀吉は結構問題を起している。それでも内心はどうあれ、少なくとも謀反だのなんだのは起さず、生前は
信長に忠実だった。光秀と信長にいさかいがあったとしても、それが謀反の動機になるほど重大だったかどうか
というのはきちんとはかるべき。

それと信長の性格人格を問題視する意見はいくらもあるが、光秀の性格人格を論じているのがほとんどない
のも問題だろう。大抵信長の性格に問題があって光秀が被害者とするスタンスだが、それを鵜呑みにするのも
どうかと。
当時の光秀評を見ると、こちらもかなりとんでもない人物像が出てくる。高柳氏などは、光秀は信長と実に
似通った合理主義と、同じく当時の規格常識から外れた部分があって、それで信長と非常にウマが合い、重用
され出世したと評価している。

29:人間七七四年
08/08/03 13:16:03 /a7N/SVk
本能寺の恋

30:人間七七四年
08/08/03 14:01:04 zK/j+plg
変後の事態収拾が膠着して長引いた場合、
朝廷あたりの調停で津田信澄が三法師の後見人になる収集案が浮上したかもしれないな。
可能性はそれほどは高くないんだろうが。

ただ津田信澄は御神輿タイプの人間で、自分から野心的に動くことはしないと思う。


31:人間七七四年
08/08/03 14:05:05 i2kZP2Ca
>朝廷あたりの調停

はい座布団一枚




32:人間七七四年
08/08/03 14:10:18 Oj+O4lYr
>>25
信澄が信孝よりも上、という珍説をあえて出す意味がわからなかったけど
>朝廷あたりの調停
を言いたかったということなら納得

33:人間七七四年
08/08/03 14:34:42 2BZYLeHU
朝廷あたりの調停だなんて超低レベル

34:人間七七四年
08/08/03 15:54:57 GfXYf8JP
朝廷が調停できる件でもないだろ
誰かが名目上というか筋の通し方として朝廷の権威を借りて、というならわかるが

35:人間七七四年
08/08/03 18:37:23 dJmnKm01
>>28
>当時の光秀評を見ると、こちらもかなりとんでもない人物像が出てくる。
これはもっと重視すべきだな。
比叡山焼き討ちでも光秀は積極的に関与し、山門領押収もやっている。
高柳の指摘は至当で、だからこそ浪人あがりとは思えないほどの出世を遂げた。
また、少なくとも天正10年正月時点では、信長は光秀を安土城の貴賓室に一番に招待し、光秀は信長直
筆の掛け軸を尊崇し、両者にわだかまりは見えない。
だから、少なくともこの時点ではうまくいっていたわけだ。
これ以降に両者を決裂させる何かがあって、複合説では四国政策問題がそれに該当するとされている。
ただ、四国主将から除外されてもそれに代わって中国征伐の仕事をもらってきるから、中国派兵自体
に不満に感じるものでなければ、さらなる要因が謀反には必要な気がするな。



36:人間七七四年
08/08/03 21:26:35 2BZYLeHU
光秀の場合地方の方面軍の責任者から畿内の官僚に仕事の比重が移っただけで、
地位の低下だとか四国政策の転換とする桐野説なんかはどうも釈然としないが。
それだけ肩入れする問題ならそれこそ変後に接触しててもいいわけだが、その気配はないよね。

37:人間七七四年
08/08/03 21:40:32 a/dEtD2c
佐久間失脚までは織田の有力な一武将の一人でしかなかったのだから
元から地方の方面軍の責任者で無かった気もする

38:人間七七四年
08/08/03 22:58:11 fiJ95d3I
元亀元年に信長は、二度に渡り光秀の屋敷(京)を宿所としており、また光秀の
異例な出世などからも、両者は当初から親密な関係であったと考えられる。
妹のオツマキとのこともしかり。

ただ晩年には側近達が台頭し、信長の気好しであった妹が亡くなったことで、
光秀は疎外感みたいなものを抱き始めていたんじゃないかな。

39:サイコメトリー
08/08/04 09:35:33 syZLpI8n
前スレでも何度か語った事だけど、別の方も来てると思うので、再度皆に意見を聞きたい。

自分は基本的に>>22同意で、変の要素としては怨恨+必然的or結果的野望が
多くを占めてると思う。怨恨と言えば、確たる証拠も文献も無いと言われるが、
変に付いて、それはどの説も同じ事。

決して信長=暴君。光秀=忠実な部下。の図式で考えている分けではないよ、
フロイスの光秀評を妄信はしないが、光秀も戦国時代の武将という事、人間
という事なのかな。馬が合うとか、反りが合わないとかは時と状況により人間
関係は変化する分けで、蜜月の時があれば、それはいづれ終わる。

信長と光秀の間にあった事は推測でしかないが、同じ状況が秀吉とあったとし
ても秀吉は気にも留めないだろうと思う。桑田忠親氏が言う面目を失う事が、
何度かあったと推測出来るが、秀吉の様な性格の持ち主ならば、謀反とはならなか
ったと思う。感情論と言ってしまえば、それまでだが、感情の動物である人間の
事由の理由に感情論がないはずがないと思うのです。

ちょっと歴史語ってる感じじゃなくゴメン・・・。

40:人間七七四年
08/08/04 10:33:05 hDoDT21N
>>25
それさ、信澄ってのは信行の子でしょう。
だから首巻の是非にまで入るからとても難しいのだけど
一度別スレでもやりたいぐらいなんだ。

信澄が光秀を討つ功績、以前に、信長と信行の出生の話
ということね。
信長は謀反人ということで信行を殺すけど、その子の信澄を
どうして生かしておいたか、という問題にもからんでくる。

弾正忠家の正式な家督とか、当時の文書の解釈にも
からんできて大変難しい問題なんだが、桐野が雑誌でなかなか微妙な
言い方をしてたし。
つまり、信秀が急死して弾正忠家の血統、家督、そういうのは信長が
正嫡で信行が謀反、と簡単に片付けられないのではないか、という
とこにまで話が戻るんだ。

だから信長が死んだ時に、その子と同時に信行の子、にもそういう
血統の正統性はあるのではないか、というように25の話に戻る。

ちなみに信行についたのは織田家旧臣の勝家だし、これは清洲会議の
解釈としても、そこまでさかのぼって語られたのをあまり知らない。
首巻の時代の微妙な織田家内部の事情は勝家なんかはまさに
当事者だったわけだしね。

史料を出せ、と言われるのがこわいから軽く問題提起にしておくけど、
信行ー信澄親子は信長ー信孝親子に殺されることになった。
兄弟間での殺し合いもえぐいが、織田家自体に関する話もなかなかおもしろい
とこではある。

41:人間七七四年
08/08/04 10:38:15 pq2YVWOp
>>39
まぁ信長は極悪とまでは言わないが、臣下にとって怖主であった事は間違いないね。
四国取次、秀吉援軍などより、心理的に佐久間の
件が与えた影響は光秀にとっては大きい。

まぁ佐久間より自分の方が功労者だとの自負は自負としてあったと思うがね。

42:人間七七四年
08/08/04 12:02:20 NvIdp7Dt
>信長は謀反人ということで信行を殺すけど、その子の信澄を
どうして生かしておいたか、という問題にもからんでくる。


信澄って人間として存在感が薄い、坊さんみたいなキャラクターのように思うんだが。
信澄のエピソードはなんかあるか?


それと勝家が信行についた理由がよくわからん。
佐久間信盛と丹羽は信長についたはずだが。

43:人間七七四年
08/08/04 13:25:09 cP2S0YZL
>>37
同意。
丹波平定後に「方面軍」が組織されたとされるが、鳥取救援・武田征伐・中国救援と、方面軍としての主体的活動は
存在しない。
よって、「近畿方面軍」みたいな表現は不正確やと思う。
厳密にいえば、光秀には「丹波方面軍」だった経歴しかない。

44:人間七七四年
08/08/04 15:00:32 cP2S0YZL
>>36
光秀が畿内で官僚やっていたってホンマなの?
まず、朝廷関係では天正3年以降は村井一人でやっていて、光秀は京都馬揃え以外関わっていない。
次に、検地関係では明智に先駆けて柴田が越前の検地をやっているし、光秀は大和は滝川・丹後は細川と共同でやって
いるにすぎない。
官僚というなら、方面軍の出納を一手に引き受けた大津長昌みたいなイメージがあるのだが、光秀が官僚だといえる根拠が分らん。

45:人間七七四年
08/08/04 15:00:41 u9YEz8o1
方面軍って言葉は高柳氏の造語で元々観念的なもの。
織田家家中において大名並みの権力移譲された人物に対して使った言葉であって
どこどこの攻略に専念しますって意味ではないよ。

46:人間七七四年
08/08/04 16:14:37 hXZuCpFx
信長は組織作りがものすごくいい加減だからな。

47:人間七七四年
08/08/04 17:01:26 u9YEz8o1
>>44
官僚≠内政官 官僚=要職

光秀の丹波攻略は領土拡大を目的とした方面軍としての役割以上に、
京都での正統性を得ることを目的としており、京周辺の支配及び禁裏料所の回復が主務であった。
これは京都奉行職の延長といった方が正しく、柴田や羽柴等と同列とは言い難い。
その証拠に佐久間追放時には数カ国切り取った秀吉を差し置いて、天下面目云々と称され
名前が筆頭にあがるほど功績が認められた。

48:サイコメトリー
08/08/04 17:44:00 syZLpI8n
>>47
解釈に同意です。
光秀の立場と職務は、織田家の他の誰とも比較出来ず、役割としても特殊。
所司代の村井貞勝と比較すべくもないと思うが、馬揃え等も一種のパレード
的にとらわれがちだが、天下に織田家を示した功績は大きく、その前段階の
用意周到さも光秀らしさがうかがえる。

佐久間追放には、思う所はあったと思うが、自身の功績+役割を鑑みるに、
己の危機とまでは考えなかったと思います。

49:人間七七四年
08/08/04 17:49:18 kZ5tPF15
>>47
朝廷との交渉は村井がやって、朝廷の財政基盤回復は光秀の仕事ってことか。
丹波平定戦が、京都奉行の延長って評価は?だが、信長が一番に評価したのには京都支配の正統性確保
できた点があるのは同意。

50:人間七七四年
08/08/04 18:32:01 JI+8fylU
>>40
信長信勝(行)の嫡庶問題というのは、昔別スレでやったことがあるが、結論は、
「信長庶子信勝嫡流説」は成立し難い、というところで落ち着いた。
両者が正室の子(嫡流)ということはあっても、片方の信長が庶流というのは、それ
こそ当時の資料から状況含めてまず考えられない。

ちなみにあなたは信澄を活かしていたことを挙げているが、もし信長庶流信勝正嫡
だったとしたら、信長が嫡流になる信勝の子供達を活かしておく理由がなくなる。
むしろ、積極的に殺す動機の方が生まれる。

それと勝家はこれまで講談で誤解されてきたんだが、織田家の譜代なんてものではなく
勝家個人の功績で一代で成り上がった存在。

51:人間七七四年
08/08/04 19:38:19 u9YEz8o1
>>49
この年は公家領徳政の執行と二条家に養女を送るなど朝廷政策に意を注いでる。
公家領の回復については村井貞勝・丹羽長秀の両名によって行われた。
この事から京都奉行職の延長とした。

52:人間七七四年
08/08/05 07:59:06 eql9oueQ
>>50
へ~、それは参加したかったな。
自分もまだはっきりとした結論は保留なんだけど、単純にうつけとイケメン
という記述の比較から、なんか不自然なものを感じてて、信行との家督
争いのほうに話が移っていくのだけどね。

最近では、三郎という署名があるから弾正忠家の家督をついでいた、とは言えない
みたいだし、弾正忠を先に名乗ったのは信行だったのかな、なんか結構昔の
シンプルな定説とは違う論も出てきてるみたい。
ひまがあったらまとめてみたいとこだ。

で、信行が正嫡だったらその子を生かしておくのはおかしい、なんだけどこれに関して
もし信長が将来天下取りに立ち上がる意思がそのときからあったとして
そういう血統的な正統性、一応信秀は官職ももらってるし、そういう時のために
安全無害な子供は生かしておこう、みたいに考えた、というのはないかな。

いったんは許した信行をまた殺すけど、これはその前年に長男信忠が生まれたからだ
みたいな論もあって、当時から血統、跡継ぎ、そういうのを意識してたのはあっただろうからね。
ましてや、自分が正嫡ならそういうことに何の問題もないのだけど、母親が信行とは別であった
なんてのが事実とするとそういう家督争いにおいて、血統を意識するのは余計あったろうし。

そういや、信長は2歳の時だったかナゴヤの城に出されるけど、母親と住んでたのは信行
のほうだった、というのも前に展開されてたな。
最初に信行と争った時に仲介に入ったのが信行の母親で、このいうことを聞いてるから
やっぱり、両者の母親は同じだったのかもしれないけど。
長くなった、ごめん、この問題は結構関心があるもんで。

53:人間七七四年
08/08/05 08:15:08 eql9oueQ
>>50
せっかくだからもう一つ。
信行の子を生かしておいた理由に、信行についた家臣もいるわけだから、
それらの家臣を少しは味方につけておくため、というのもあるかも。
美濃との抗争中で、家臣が完全に離反したらさすがにまずかったろうしね。

勝家だけど、織田家旧臣というのは言いすぎだったね。
せいぜい父信秀が信行につけた、年上の家臣ぐらいにしておこうか。
最近桐野が言ってたけど、織田家のそういう立場の人が主に
信行につき、信長についたのはもっと新興的な家臣、というのがあって、
こういうように織田家家督争いを考えるとわかりやすいか、というのはある。
津島湊の支配権とかね。

そういや、稲生川の時、信長の武器というか勝因は「大音声」と「御怒り」
というのが微笑ましい。まるで大魔神のような。

54:人間七七四年
08/08/05 09:40:55 XBwevg6+
>>51
なるほど。
二条養女の件は知らないが、徳政・公家領回復は丹波征伐前だよね。
あと、丹波平定の名目は朱印状では「追放した義昭に与した宇津・内藤ら逆徒の征伐」になっている。
この名目からすれば、京都奉行の延長って評価に疑問がある。
また、天正3年7月以降に京都の政治にかかわる文書から光秀の連署が一切消えている。
だから、丹波征伐を機に光秀は京都奉行の任を解かれたと考える方が妥当なので、?って疑問を呈した。

ちなみに、宇津はかつて丹波山国荘の禁裏御料を押領して、朝廷が「宇津をなんとかして」って信長に訴えた経緯
のあるいわくつきの武将だから、丹波征伐の名目に「宇津」の名前があることは禁裏御料回復の意図はなくもないって
考える余地は十分にあると思う。
いずれにせよ、佐久間折檻状で光秀をべた褒めした意図については非常に参考になったよ、㌧。

55:人間七七四年
08/08/05 11:41:08 49ZxL7md
スレチになるからこれ以上はやめておくが。

信長庶流で信勝嫡流なんかだったら、どんな理由があろうと信勝を殺して息子を
生かす理由はない。なにせ、反信長派の正統な御輿になってしまうから。信長と
敵対しようとするものは、嫡流(この場合は信勝の息子)をかついで、庶流のくせに
織田家をのっとった悪人信長を討て!と大義名分にするでしょう。つまり、騒乱の
タネにこそなっても、安定には寄与しない。

むしろ信長に対するそういった非難批判がないことを見ても、無理な仮説だろう。

>信長は2歳の時だったかナゴヤの城に出されるけど
那古屋はもともと信秀の居城。さらに幼少の頃から信長に譲られたとういう説も
否定されている。今では、推測になるが信長元服を期に城を任されたと考えられて
いる。

家臣についてもおかしい。
信長につけられたのは、信秀腹心側近ナンバー1の平手と、尾張一の大族林氏。
さらに、信長についたのが新興の家臣だといって、桐野がそこであげているのは
津島系列の武士たちだが、桐野の知識は大丈夫かといいたい。津島といえば、信長の
祖父の代から弾正忠家と結びついた、ある意味で成り上がりの弾正忠家にとって
数少ない、三代がかりの譜代家臣だぞ。
譜代の津島系列に比べれば、個人一代の武功で成り上がった柴田勝家の方が、織田家
からしたらよっぽど新参勢力だ。

56:人間七七四年
08/08/05 12:13:15 x2LxjH1i
結局、信秀在世の頃の筆頭家老は誰だったの?

57:人間七七四年
08/08/05 12:24:06 esNfkDYG
>>54
「追放した義昭に与した宇津・内藤ら逆徒の征伐」
これは誰かの意訳?
どの文書を見たか解らないけど
「京都錯乱(または騒乱)」の頃から「逆心」を止めず「出仕(出頭)」にも応じないから「誅罸」をする為に明智を派遣する旨
という内容の文書は見たことあるけど。
名目上は京都錯乱に対する沙汰だから本来ならば京都所司代の管轄でしょ。

58:人間七七四年
08/08/05 14:00:01 wigd/9jY
原文は、
「内藤・宇津の事、先年京都錯乱の刻、この方に対して逆心いまだ相やまず候哉。
出仕なく候わば、誅罰を加えるため、明智十兵衛をさし越され候」

おれは、「京都錯乱」は天正元年の足利義昭との槙島合戦などを指していると考える。
上記の朱印状は京都錯乱防止のためっていっているわけではなく、京都錯乱の時から
依然として信長に逆心を抱いているから誅罰するって意味じゃないかな。
うまく説明できないが、京都錯乱の刻=槙島合戦の時から依然義昭党の宇津らを征伐する
名目で明智を口丹波に派遣したと考えるので、岩成らと同じ将軍方残党征伐のひとつで
管轄うんぬんを持ち出すのは?と思うわけ。
あなたは、「名目上」と断っているから以下の記述はスルーしてもらって結構だが、実際は
同年3月の藤孝宛の朱印状で、石山合戦のため口丹波2郡の国衆を彼に付属させようとしたが、
彼らが応じなかった(上記の朱印状の「出仕」とはこれを指すと考える)ため、空手形に終
わったのが直接的な原因だと思うね。

59:人間七七四年
08/08/05 14:38:32 g/eoU38K
そろそろスレチには終了して頂き、話を戻すが、変の要因として理由を
もう一度上げて、考察して欲しい。

俺はそんなに戦国時代詳しくないが、信長と光秀が好きで、変に関しての本だけ
は良く読んだ、基本的には桐野朝廷説を支持してたが、本人が撤回してしまった
為に複雑な気持ち・・。

単純に本能寺の変が起きた事を残念に思っている。信長や光秀や秀吉が活躍する
日本とはどんなものだったか、想像するとワクワクする。

60:人間七七四年
08/08/05 17:49:26 mnwqd4SM
>>55
鋭いレス感謝。
スレチで悪いが、もう少しだけお願い。

庶流と嫡流についての議論になるが、信秀奥さんの序列と言うか、正室、
について、案外不明確ではなかったか、というのではないか。
つまり父が急死したのでそこらが織田家内で不明確、なので生前に
与えられていた家内権力について、家督争いというのか、信長と信行の
間でそういうのが起きたのではないか、とこのあたりが今の時点での
推論になっている。

ナゴヤに出された、というのも当時は奥さんのとこで出産したろうし、
しばらくはそうやって母親と一緒に暮らしたろう。
それがナゴヤに出された、というのでこれもどういう意味合いか
検討中。
奥さんが名前が残らないような意外と低い身分ではなかったか、なので庶流、とまでは確定
できないが、そのあたりは辻褄はあうような展開では。

家臣なんだけど、長くなるからやめとくが、決して55のカキコに反対せずに
別の解釈も可能ではないか、と思ってる。
ぜひ、お聞きしたいとこだ。

ちなみに、日本歴史八月号に小和田が寄稿してるけど、読まれました?
ブコウヤワが「偽書じゃない」とまではっきり言っててだいじょうぶなのかな。
あれに信が置けるとなると信長の出自に関してもまた別の角度から
検討の必要がある。

ちょっと横からのアプローチだけど、自分は「ツガル・・」もある程度
理解してるので、偽書、についての意見もぜひお聞きしたいところ。
スレチで悪いが、このあたりは一度は触れておきたくて。

61:人間七七四年
08/08/05 22:32:13 49ZxL7md
>>60
まず信秀正室については複数の記録がある。さらに言えば、信長の生母についても複数の記録がある。
信秀正室についてはまず尾張守護代織田達勝の娘。こちらは後に離縁したことが記録にある。
次に『津島大橋記』『干城録』から小嶋日向守信房の娘。こちらは信長の生母との記述もある。
そして土田氏。ただし、出自がまず不明。尾張清洲の土田氏、美濃可児郡の土田氏、近江六角の庶流土田氏説などがある。
 そもそも土田氏は当時の史料による裏付けがなく、はっきりと明記しているのは『武功夜話』
他に、『美濃国諸旧記』では佐々木六角高頼の娘が信長生母と記述がある。事実なら、家格からいって正室だろう。

どうあれ、信長生母については、記録は一貫して「正室」としている。

>父が急死したのでそこらが織田家内で不明確、なので生前に与えられていた家内権力について、家督争いというのか、
信長信行の間でそういうのが起きたのではないか
父信秀の死後からも、信勝というか末森衆は信長に服属している。信長からの出陣命令がくれば素直に兵をだしている。
少なくとも信秀死後しばらくは、その兄弟息子たちは協力しあっている。信秀死後に即内乱が始まったようなイメージが
あるが、それ間違い。信勝が敵対の意志を表明しだすのは、信秀死後四年もたってからの1555年以降。つまり信秀死後の
数年間は、弾正忠家は信長を棟梁として行動し、そこには争いなんてない。

>ナゴヤに出された、というのも当時は奥さんのとこで出産したろうし~
意味不明。信長が那古野で生まれたことは記録にあるし(正室なら当然)、信秀がかなり長い間那古野を居城にしていた
ことも記録で確認されている。

>日本歴史八月号に小和田が寄稿してるけど、読まれました?
読んでないので明日にでも見てみる。しかし小和田氏はロクな調査もなしに「信憑性がある」とか断言した前科があるからなー。
もっとも小和田氏に限らず、これまで武功本物派は、ちゃんとした史料調査もせず根拠も示さず否定意見に対するまっとうな
反証による反論もなしに、信憑性を主張してきたので、また同じかなと思わなくも無い。

>偽書、についての意見もぜひお聞きしたいところ
『武功』についてだったら。むしろ逆に、何の根拠があって、アレを「信憑性がある」と主張できるのか是非お尋ねしたい。

これ以上は別スレを立てるなりなんなりしてください。

62:人間七七四年
08/08/06 01:50:11 wysV+NX7
>>58
それ原文じゃなくて書き下し文だね。
「出仕なく候わば」は「出仕しないのならば」の意であって、
あなたが意図する出仕の意味だと「候に付き、候由」をつけるべきだと思うけど。

永禄12年に宇津頼重には「違乱」の禁止を命じてる。
自分は「京都錯乱」は永禄11~12年の三好三人衆による京中への侵入を背景に起こった各種の違乱を指してると考えてる。
本圀寺の襲撃事件が有名なのかな?
永禄12年の文書に「去年錯乱」と表現したものがあるから、これも一つの証左であろうか。

>同年3月の藤孝宛の朱印状で、石山合戦のため口丹波2郡の国衆を彼に付属させようとしたが、
>彼らが応じなかった(上記の朱印状の「出仕」とはこれを指すと考える)ため、空手形に終
>わったのが直接的な原因だと思うね。
兵三百五十余人しか率いていない様な遥かに格下の細川藤孝の与力にするって事は通常ありえないからね。
こんな侮辱のような要求すれば応じないのは目に見えていただろうし何故こんな事をしたかが重要だと思うけど。

信長は逆心を止めないとしているが、実際には義昭追放後目立った反乱等は起こしてなかったみたいだし。

63:人間七七四年
08/08/06 06:43:31 QunGS8JU
>遥かに格下の細川藤孝


官位や家柄は細川が圧倒的に上ではないか?

64:サイコメトリー
08/08/06 08:17:07 +Lnu/nq9

申し訳ありませんが、これ以上のスレ違い書き込みはご遠慮願います。
ここはあくまで『本能寺の変』に関連する内容を書き込みして頂く場所です。

現在の状況ですと、初めてこのスレに訪れてくれた方は二度来てもらえない
状況になってしまいそうですので、くれぐれも宜しくお願い致します。
>>25
>>40
>>52
>>54
>>55
>>56
>>57
>>58
>>60
>>61
>>62
>>63

織田家初期の諸状況を教えて頂き、ありがとうございました。
是非とも本能寺の変に付いてのご意見をお聞かせ願えればと思います。


65:人間七七四年
08/08/06 10:05:53 oXVduZ+5
祝 スレチ終了。

さっそくだが、堺衆関与説が取り上げられている
本には、どんな物があるのかなぁ?
へうげの利休黒幕話も堺衆関与説と言えるだろうが、利休にあそこまでの影響力があったとは思えない。

66:人間七七四年
08/08/06 11:28:51 RTWFi+/x
お題をだします。

「本城覚書」について。
これが、偽書かどうか、については確認はどうなってるのでしょう。
書式、書体、文字、墨、紙、その他専門家の検査を受けて当時の本物と確認
できるのか。
まずこのあたりに詳しい人いらっしゃいますかね。

次に、内容面でフロイスとの整合性。
昭和5年の時点でフロイスの訳本が普通に入手できたかどうか。
出来たなら内容的にも偽書の可能性はあるが、困難だった、というのなら
この整合性は非常に重大な意味を持つだろう。

また、隠居後の自慢なら誇張的に書かれるのだろうが、この覚書には
信長自体は出てこず、自らの見聞きした範囲内での記述になっている。
このあたりをどうとらえるか。

現在のところ他の史料とかけはなれた内容で確認が出来ないので
判断保留、となっているようだが、もしこの覚書がとりあえず偽書ではなく
貴重な一次史料と確認されるなら、現在の定説等にも重大な影響を
及ぼすであろう。

公になって約80年、これだけの史料を、保留、ですませておくのも
惜しいので夏休みの課題がわりに、少し整理しておきたい。


67:人間七七四年
08/08/06 11:30:20 qvqpOVFF
直接の理由はともかく、反乱を考えた時、源平交代説に後押しされた所はあるだろうな。
今が平氏の信長の天下なら、次は源氏の俺だ、と>光秀

68:人間七七四年
08/08/06 11:52:15 oXVduZ+5
源平説はないと思うと、前スレでほぼ結論が出てるよ。
一族郎党のすべてをかけて、源氏やら平家にこだわる分けがない。って事
になってるよ。

69:人間七七四年
08/08/06 11:57:18 qvqpOVFF
>>68
心理的後押しと言っておる

70:人間七七四年
08/08/06 12:49:20 ubNfAnlQ
源平交代思想があったのか?

71:人間七七四年
08/08/06 12:52:26 qvqpOVFF
>>70
南北朝の時代には既に存在するがな

72:前スレより
08/08/06 13:38:25 bqfEbgaQ
【本能寺の変の要因で可能性が高いもの:◎異議なし。▲異議あり。】

◎信長を襲える状況だった事
◎各地の織田軍が簡単に京に戻れないと思っていた事
◎四国政策の転換で信長と光秀がバッティングしたこと
◎フロイスの足蹴りの記事から天正10年5月に二人が何らかの要件で衝突していたこと
◎変後においては朝廷と接触した形跡がある事
◎特に何らかの上位者を旗印として掲げた形跡は無いこと
◎朝廷が一枚岩でないこと
◎織田家の序列は明らかでないこと

▲光秀が信長を好きではなかった事
▲近江をはじめ畿内平定を進めていたことから野心はあった事
▲光秀が疲れたから
▲手紙などから信長・光秀に性格の不一致があったこと
▲愛宕百韻で自分の野望をにおわせたこと
▲源平交替思想を光秀が重視したこと
▲斎藤利三の件が、本能寺の変の最終的な一押しを光秀に与えたこと
▲秀吉の四国ルートである三好ラインで光秀と衝突したこと


他に何かある?

73:人間七七四年
08/08/06 15:52:55 4P4Rfiug
それは要因で可能性が高いものというより
要因とは関係あるか無いか分からないが、取りあえず事実の可能性が高いものと
創作や想像で史実であるか根拠に乏しいもの
じゃないか?

74:人間七七四年
08/08/06 16:12:29 qF2kI9XQ
> ◎朝廷が一枚岩でないこと


正親町天皇の個人的な才覚(政治力など)に関する検証が望まれる。

75:人間七七四年
08/08/06 17:42:14 vl9KqIwT
源平説に関してだけど、血統的なら源平思想。
実力的な側面なら、関東支配、こんな感じで当時の
将軍を評していた、ぐらいでいいと思うよ。
68の結論はちょっとな。

天皇の個人的な才覚が証明できない以上は天皇黒幕説は
成り立たないもんね。他にも根拠はあるが。
ただ、1573だったかで譲位を望み信長の許可受けながらしなかった。
そして結局いつでも可能なのに譲位せずに最後まで踏ん張るところは
天皇としてなにかしらの、思想、意味、があったのかもしれない。

このあたりは治天の君、院政、とかそういうほうに話が戻ってまた
スレ違いとなってしまうが。

76:人間七七四年
08/08/06 18:59:57 0kAbIMHv
源平交替思想も、将軍になるのに関東支配も、
当時にそれを示すまともな史料がろくに存在しないから、かなり怪しい
というのが前スレまでの流れじゃないかな?

熱心に主張する人はいたが、ソースは全く出してくれなかった

77:人間七七四年
08/08/06 19:09:48 qvqpOVFF
>>76
太平記にまんま出てくるし、信長の時代にも、義昭追い出したときに
「源平交代の理どおり、今度も平氏の信長が源氏の足利から政権を奪ったのだ」って坊さんの日記とか
残っているのだが?>源平交代思想

78:人間七七四年
08/08/07 00:35:10 97HXShD+
天下人の定義にもよるだろうけど、例えば三好長慶なんかは現在はともかく
当時は足利にかわる天下人と認められていた。
こういうのはどうだったんだ?三好って平氏なのか?
そういえば三好の前の細川政元も当時は天下人と見なされていたな。
そして信長の後に天下人と認められた豊臣秀吉は、源氏でも平氏でもなかった。
その豊臣から天下を奪った徳川家康は?

こうして詳細をみていけば、源平交代なんてとっくに破綻していることがわかる。

79:人間七七四年
08/08/07 00:36:35 hWZmnnHa
>>78
破綻していようが何だろうがそう言う思想が存在した事は確か。そして信長も意図的にそれを利用した。
それを否定するのは、非学問的態度だ。

80:人間七七四年
08/08/07 01:31:18 97HXShD+
>>79
思想がその時代に存在していたことと、その時代にどれほど受け入れられいたかは別。

そういった部分の証明や考察を抜きに、ただ記述があるからとそのまま使うのは非学問的態度だ。

81:人間七七四年
08/08/07 01:32:21 hWZmnnHa
>>80
では君は、それを調べてから文句を言うべきだな。

82:人間七七四年
08/08/07 01:44:03 EUiSIa/p
源平交替思想が当時の人々に、政権交代に、それだけの影響与えてたという根拠は?
信長が意図的に利用してたという証拠は?

そんな思想が過去にあったから、みんなそれに完全に従って生きているという発想が
よっぽど非学問的態度。
自分の気に入らない相手には、反射的にそういうレッテル貼りで罵倒しようとするのが
よっぽど非学問的態度。

83:人間七七四年
08/08/07 01:45:37 EUiSIa/p
>>80
内容かぶってたね。ごめん

84:人間七七四年
08/08/07 01:57:55 hWZmnnHa
>>82
なんか勘違いしてないかID:EUiSIa/pは?誰がどこで「みんなそれに完全に従って生きている」なんて言った?
そう言う思想が広範に存在した事を言っているだけなのに、何故にそう言う捉え方をする?

源平交代思想を信長が利用していないと言うのなら、信長が藤原氏から平氏へと氏を変えた理由を
源平交代思想以外で合理的に説明しなされ。

85:人間七七四年
08/08/07 02:56:24 97HXShD+
織田氏は信長以前から藤原を名乗っていた。
信長が平氏を名乗るようになるのは、史料的には元亀二年から。

信長が足利を越えるために平氏を名乗ったとするのなら、むしろ時期的に中途半端。

だいたいこの時代、平氏を名乗ったのは信長に限らない。彼らがみな源平交代思想に
基づいて平氏を名乗ったと看做すのは無茶だろう。
政権交代に源平交代思想を持ち出すのがこの時代のメジャーだったのなら、足利を
抑えて天下人となった細川や三好が平氏を名乗らないのは何故?
ちなみに秀吉は、信長の死後一時期平氏を名乗っている。平氏の信長の後を継いだ
秀吉が平氏、おかしいね?なぜ源平交代思想に基づいて源氏を名乗らなかったんだろう。
ちなみに秀吉が義昭に養子を願って断られたというのは資料的に確認できない、江戸
時代の創作と考えられている。

86:人間七七四年
08/08/07 03:10:43 EUiSIa/p
>>84
「そう言う思想が広範に存在した」と言ってる割に、
挙げてる実例が、時代の違う、しかも軍記物の中のお話と
坊さんの日記(誰のか知らんけど)の二例だけだもんな。

肝心の当時の武士なんかが、源平交代思想に触れた実例聞いたことないし。
政権の正当化として主張された実例も知らない。

そうした考証もろくに無く、信長も光秀も源平交代思想なんて与太話に沿って動いてたといわれてもねえ。

広範に存在して、それが利用されてたというのはそちらの主張。
立証責任はそちらにあるのを忘れないように。

87:人間七七四年
08/08/07 09:39:02 EPMCCy+5
あれ、話がずれてないか。
征夷大将軍になる暗黙の条件、だったでしょう。
だから78で言う三好なんかは別に関係ないし、細川
なんかはそれ自体が名門で今更姓を変更なんてのも
ありえない。

あくまで出自がはっきりしない人物が将軍になるにあたって
源平や東国支配が問題にされる、という展開じゃなかったか。

ほんで、85が秀吉がどうして源氏を名乗らない?というけど
彼が出自が下賎というのは知られてたから名乗りたくても
名乗れない。家康的な系譜のごまかしではね。
そのぐらいは周知の事実だから反論自体がおかしいのが
ここいくつかのスレで続いてるような。

86の主張も妙で、実例がない、考証がない、じゃなくて
ちょっと前の日本の歴史を知ってればある程度の武将なら
どういう過去にいきさつがあったかはこれも常識。
政権の正当化じゃなくて、より自分が適している、という暗黙の
主張ぐらいだったと思うよ。


88:人間七七四年
08/08/07 09:43:36 hWZmnnHa
>>86
「知らない」ということを自慢するなよ…。

89:人間七七四年
08/08/07 09:45:17 p4c16EBE
>>75->>86
スレチな話題を引っ張るな、ヴォケ。
よそでやれよカスが。

90:人間七七四年
08/08/07 09:53:57 B2quNlfF
源平交代思想って古典教養の無い現代人の感覚からするとマーフィーの法則みたいなもんだが、
当時の人間にとっての源平交代思想は、現代人のポスト構造主義論のような一つの社会観念思想で広く認知はされていた。
という事だと思う。

>>84の言う思想って社会観念思想の事なんだろうけど
>>85>>86はマーフィーの法則として捉えてるから話が噛合ってないね。

91:人間七七四年
08/08/07 10:26:40 pBL0rlah
>>59
桐野は単独説に転向したけど、京子のオババはあさっての方向に転向したからね。
オババも公武対立論に限定して持論を補強してりゃ、あそこまでバカにされなんだのに。
桐野が近著で「自分のせいでオババがあんな風になった…」って書いてあったのにはワロタ。

よろず、黒幕説は朝廷説に限らず変後に光秀が黒幕の存在を示唆しなかったという最大の欠点が
クリアできないのが難点だと思うね。

92:人間七七四年
08/08/07 10:46:18 EPMCCy+5
>>91
近著って教えて。

その、示唆しなかった、だけど、固く口止めされていた、というのは?
史料は無いけど、特に朝廷説に関しては、主君殺しというのに
加担したのでは権威にかかわる、とか言って。

ま、本気じゃないけど、ひつまぶしに黒幕説でも出さないと
盛り上がらないかな、と。


93:人間七七四年
08/08/07 10:55:25 y3roVf2V
光秀はちっとも助けてくれない共犯者の名前を死んでも口にしませんでした。

94:人間七七四年
08/08/07 11:05:39 B2quNlfF
>>91
>よろず、黒幕説は朝廷説に限らず変後に光秀が黒幕の存在を示唆しなかった
信長も義昭を利用した時、具体的な名は出さずに上意って使ってたし、
上杉氏の書状は怪しいにしても土橋氏の書状は明らかに上意と使ってるよね。
否定派は年次比定がおかしいとする以外反証出来ずにいるが、
土橋氏の書状は天正10年の状況とピッタリである。
ただそうすると細川宛の書状において義昭を示唆しなかった点について疑問も残る。
この書状は内容が不自然で「忠興を取り立てるため」謀反を起こしたと書いてるよね。

仮説ではあるが、義昭を示唆しなかったのではなく出来なかっただけではないのか?
細川は義昭追放時には将軍譜代家臣達とは立場を違え信長に鞍替えした。
つまり細川は義昭を上洛させて政権の中核にすえる行為には賛同しかねる理由があり、
それゆえ不自然な謀反理由を伝えたのではないか。とも考えられる。

95:人間七七四年
08/08/07 11:07:44 y3roVf2V
>>94
単に相手によって修辞を変えてるだけでしょ。

96:人間七七四年
08/08/07 11:28:40 B2quNlfF
>>95
うん、だからなおさら上意を示唆して正統化をしない点に疑問があるの。

97:人間七七四年
08/08/07 11:56:54 EPMCCy+5
不自然な謀反理由というのも確かに理解できる面もある。
仮に義昭とか、朝廷でもいいけど、事前協議してたら
細川から見て「どうして自分にも教えてくれなかった、
そっちは将軍になるつもりかもしれないが自分は
その部下ということ?」みたいにヘソをまげてしまうかもしれない。

なので正当化をしないというのは、光秀なりの細川への気配りと言うか。
別に、黒幕説を支持するわけじゃないけどね。
最大の欠点と言うのもそれなりに説明は出来そうかな、と。



98:人間七七四年
08/08/07 12:03:06 EUiSIa/p
>>94
>否定派は年次比定がおかしいとする以外反証出来ずにいるが、

いやいや、否定はも天正10年という年次比定自体は否定してないよ。
鈴木眞也にいたっては
「藤田が年次比定を改めたようなことを偉そうにいってやがるが、
そんな意見前からあったし、俺も前からそう主張してたよ、ふざけんな」
と年次比定を藤田が自分の手柄にしてるのにお怒りw

否定派の主張は、常識的に読んで、
これが単に変後に義昭が土橋を通じて、光秀に協力を求めたことがわかるだけ、というもの。
むしろ、変以前に光秀と義昭が没交渉であった、土橋を経由しなければ光秀と連絡がとれなかった
その程度の関係だったことを示す史料でしかない。

つまり、変後に土橋経由で義昭が協力を求めて来たわけだから、
細川宛に義昭の件が触れてないのも、まだ無い話が書けるわけも無いというだけの話

99:人間七七四年
08/08/07 12:17:33 97HXShD+
>>87
>彼が出自が下賎というのは知られてたから名乗りたくても名乗れない。家康的な系譜のごまかしではね。
秀吉の出自が下賎だと知られていたのは事実だが、しかし史実で秀吉は平氏を名乗り、
家康的手法で摂関家の一員となり、さらには天皇家の隠し子説まで名乗った。

なのに、源氏を名乗ることはできないんですか?すごいですね初めて聞きました。
源氏を名乗ることは、平氏を名乗ったり摂関家に関わったり天皇家を名乗ったりする
よりも厳しかったとは。是非史料的に証明してください。証明責任はそちらにありますから。

あなたは源氏というブランドを過大評価しすぎです。

>>94
では筒井の説得に義昭を持ち出さなかった理由は?蒲生や山岡など光秀に加わらなかった
近江の武将達の説得に義昭が使われなかった理由は?摂津の中川や高山など、史実では光秀
に加わらなかった武将たちを説得するのに義昭を材料にしなかった理由は?

畿内の諸将、つまり真先に味方につけなければならないものたちへの説得に義昭が使われず、
遠国大名の上杉の説得にだけ義昭を持ち出す理由は?

あなたの説は、特定一部の説明にはなっても、その他の大部分の理由説明は出来ていない。

100:人間七七四年
08/08/07 12:27:54 hWZmnnHa
>>99
否定のための否定はいい加減止めないか?君。

101:人間七七四年
08/08/07 13:15:35 B2quNlfF
>>98
>変後に土橋経由で義昭が協力を求めて来たわけだから
これどうやって変後と断定したの?
「仰せの如く未だ申し通ぜず候処に、・・・」
光秀からの返書は初めてだろうけど、義昭からの通達自体はだいぶ前からあった表現なんだよね。
一方通行の意思疎通だろうから、藤田氏の黒幕共謀説まで行くと突飛だとは思うけど、
細川に書状を送る頃には光秀が義昭上洛構想を念頭に持っていたとしても何もおかしくないしむしろ自然なんじゃないの?

細川、三好、織田と将軍擁立政権が続いていたのに、
光秀はそういった構想を山崎合戦直前にいきなり思いついたとする方が強引だと思うけど。
単独説、突発説ありきな論理展開かと思う。

102:人間七七四年
08/08/07 13:37:56 y3roVf2V
>>101
> 細川に書状を送る頃には光秀が義昭上洛構想を念頭に持っていたとしても何もおかしくないしむしろ自然なんじゃないの?

そうだとしたら細川は義昭の意思なんか重要視しないと思ったから光秀は書かなかった。
さらに言えば光秀自身も義昭のことを重要視していなかったから書かなかった。
そういう風になるなあ。

103:サイコメトリー
08/08/07 13:55:57 Gnk3apGr

室町やら義昭の威光は、当時、それほど強いものだったのかなぁ?
変後の状況展開から鑑みても、義昭と共闘してた節が全く見られないと思う。
義昭藤田説は、前スレでも取り上げたが、黒幕説の中で最も可能性が薄い様
に思うよ。

むしろ、後付けで光秀が少しでも権威を利用しようとした動きは見れるが、
細川や諸将へ送った書状の本意は、自軍へ靡かせる為の内容だと思うが。

104:人間七七四年
08/08/07 14:59:47 bXbHPM4U
信長は事あるごとに、寺社を焼き討ち
してきた。
毛利攻めが本格化してきて、毛利勢が
厳島神社に立てこもれば焼き討ちされるのは
必定。実は寺社好きの光秀は、それを食い止めるため信長を
始末した。


広島住まいの者のお戯れです・・・。


105:人間七七四年
08/08/07 15:05:41 B6e8wK69
光秀は寺社や足利将軍を守るために挙兵するとは思えないなあ。

ただし朝廷というか天皇個人を守るための挙兵はしそうなキャラである。

106:人間七七四年
08/08/07 15:09:49 hWZmnnHa
織田家は神官の出

107:人間七七四年
08/08/07 16:16:32 p4c16EBE
>>92
「誰が信長を殺したのか」(PHP新書)
>その、示唆しなかった、だけど、固く口止めされていた、というのは?
立論自体に資料がないのに反論しようがないよ。

>>94
>仮説ではあるが、義昭を示唆しなかったのではなく出来なかっただけではないのか?
それなら、義昭の子の義尋の名前だしゃいいじゃん。
義昭を追放した当人の信長ですら、義尋を暫定的に擁立している。その余は>>99に同意。

>>101>>103
細川が光秀に味方しなかったのは彼が謀反人だからで、「将軍カード」を使えば「征夷大将軍の命令で彼を追放した
逆臣信長を成敗した」という名目で、光秀は謀反人という評価を回避できる。
ところが、細川宛文書の内容は光秀が相当テンぱっているのが伝わるものであるにも拘わらず、将軍と縁の深い細川に
方便でも「将軍カード」を使っていない。
また、信長が万が一のスペアとして用意していた義尋を光秀が擁立しなかったのも不審だな。
光秀は将軍擁立の気持ちなんてなかったと思うね。


108:人間七七四年
08/08/07 16:20:54 vd0IeyXC
>>99
ひまだからつきあうね。

平氏を名乗るのは、その時点では源氏の世で有力平氏なんていなかったから
自称しても秀吉の威光でなんとでもなった。
摂関家の一員になったのも、お金で買った、わけだから笑いもの。
天皇の隠し子なんてのも単に笑われただけ。

ただ、足利将軍がまがりなりにもいた以上、源氏である、というのはその
出自を明確にする必要があり、系譜的なものを持ち出したとしても
笑いもの以前に、詐称、ウソつき、というのがバレてしまう。
下賎の出、なんてのは周知の事実だからね。

だもので、あの時点で秀吉に関する限り、源氏を名乗る、ことは
かなり難儀だったわけ。

あなたは、この、秀吉に限り、というのを一般論に拡大解釈して
そして史料とか証明とか責任とかさらに演繹してるわけ。

82でも同じ論法を使ってるでしょう。
これは100さんが言うように、否定のための否定、という目的が
先にあるからそうなってるわけで、およそ議論の手法としては
幼稚で問題外なんだ。

ゼミかなんかでそういう手法でいつも論破したように勘違いしてるのかも
しれないけど、それを許す教授もちょっと怪しいぞ。

前に皇位簒奪の話の時に、道長も義満もみんなそういう意思があったと
言うのだな、なんて拡大解釈してた人がいたけど同じ人じゃないかな。

109:人間七七四年
08/08/07 16:36:38 B2quNlfF
>>99
>では筒井の説得に義昭を持ち出さなかった理由は?蒲生や山岡など光秀に加わらなかった
>近江の武将達の説得に義昭が使われなかった理由は?摂津の中川や高山など、史実では光秀
>に加わらなかった武将たちを説得するのに義昭を材料にしなかった理由は?
一次資料で確認できるのは筒井の使者と明智の使者の接触があった事くらいだけど。
何故あなたは具体的な交渉内容まで知ってるの?

>>107
>義昭を追放した当人の信長ですら、義尋を暫定的に擁立している。
追放後も信長は室町幕府の権威を利用しようとした傍証だね。
ただし在位の将軍が存命であった為に義尋は将軍にはなれなかった。
光秀も紛い物の将軍では役に立たない事は解ってたはずだけど。
ただし義昭を利用する過程で義尋を保護する事は有効な手段であった。
それには大和の筒井氏を味方につける事が先決だったわけだけどこれには失敗してしまったからね。

110:人間七七四年
08/08/07 16:50:14 p4c16EBE
>>109
>ただし義昭を利用する過程で義尋を保護する事は有効な手段であった。
>それには大和の筒井氏を味方につける事が先決だったわけだけどこれには失敗してしまったからね。
文意が読み取れないが、義尋は変当時に奈良の大乗院にいたってこと?
この時期はまだ出家していないと思ってた。

あとあなたは>>101で光秀の将軍擁立構想を主張してるけど、擁立するのに義尋が不適格ということが
いいたいの?もうちょっと噛み砕いて説明して星。

111:人間七七四年
08/08/07 16:58:09 p4c16EBE
>>109
>一次資料で確認できるのは筒井の使者と明智の使者の接触があった事くらいだけど。
あと、日本年報追加でジュスト高山と光秀の交渉は確認できるな。やけに具体的なのが
ウソ臭いが。

112:人間七七四年
08/08/07 17:12:07 97HXShD+
>>108
戦国時代には松平以外にもほいほいと源氏を名乗った連中がいるわけで、そいつらも
秀吉ほどではないにしろ身分の低い、源氏と証明もできないで源氏を名乗っている。

それから秀吉が笑われたというが、笑われても名乗ることはやっている。摂関家に
ついては、金で買ったとういから笑いものになるのなら、松平だって金で徳川を買って
笑われているね。信長だって同じだよ。本当に平氏かどうかなんて信長が勝手に名乗って
いるだけで真実かどうかは不明、むしろ周囲はロク信じてもいないだろう。それでも
成立する。なんで秀吉だけは成立しないの?

ついでに言っておくと、出自(実際に体を流れている血統)と家は別扱いだから。

113:人間七七四年
08/08/07 17:23:25 kShUYd9W
当時の本物の源氏は佐竹がいるなあ。

114:人間七七四年
08/08/07 18:34:56 MS2UbZa5
佐竹って……。
彼家が本物の源氏だから何?

変に於いて源平論はないという事で。

115:人間七七四年
08/08/07 18:46:27 hWZmnnHa
>>112
だから君は何が言いたいの?何を主張したいの?

否定のための否定じゃなく、きちんと自分の考えているあの時代のグランドデザインを説明しなさい。

116:人間七七四年
08/08/07 19:12:03 7zDqmMyq
多聞院日記には秀吉の関白就任の方法を批判してる記述があるが、それ以前の
正親町帝が秀吉に将軍就任を薦めたという記述には感想もなく淡々と事実のみを
記してたりもするしなあ。

117:人間七七四年
08/08/07 19:13:31 EUiSIa/p
>>114
同意。
積極的に変と源平思想結びつける証拠となる話も、結局特別出てこないし、
変の要因としてあげられるほどの話でもなさそう。

レッテル貼りや人格批判に踏み込んで煽るやつが出てきてる始末だし
これ以上続けたとこで、実りある議論になるとは思えんなあ。

さて、この話はこれまでにして、義昭関与説に戻ると

結局、義尋は変当時どこにいて、どうしてたの?

118:人間七七四年
08/08/07 22:51:18 B2quNlfF
>>110
多聞院日記にかいてある。興福寺にいる。
>この時期はまだ出家していないと思ってた。
じゃあ多聞院日記にでてくる直接信長に会える大乗院門跡って何者なのよ。。。

119:人間七七四年
08/08/08 01:44:32 SnpyAi7M
>あとあなたは>>101で光秀の将軍擁立構想を主張してるけど、擁立するのに義尋が不適格ということが
>いいたいの?もうちょっと噛み砕いて説明して星。
義昭の追放で広義には室町幕府は滅んだ事にはなってるが、
義尋擁立をしようとした事は幕府体制の維持を意味してるわけでしょ。
しかし天正3年頃には正統性の求める先を朝廷に転換してるように、義尋では将軍権威をうまく利用できなかった。
史家さんによっては、天正二年の蘭奢待の切り取りを以ってこの転換期と見る人もいるみたい。
自分は上様という敬称が出だしたのが天正3年頃だから、この頃を転換期と見てる。

義尋との関係は出家後もしばしば安土城に出仕してることから、
足利家の跡継ぎとしてではなく普通に親子として仲良かった様にも思える。
みどり子の生い立つ末を思ひやり  心前
  猶永かれの命ならずや     昌叱
と連歌衆は義尋と思わしき人物を心配してるのも気にはなるけどね。

120:人間七七四年
08/08/08 12:04:36 MiHzpnS/
義昭関与説はおいといて、信長が義昭を追放した時点でもう足利としての
権威、武家の棟梁としての権威は事実上消滅しているのでは。
なので錦の御旗として光秀がそれをかつぐ、というのには無理があるだろうし
素直に自分が将軍を狙った、ぐらいのほうが無理がない。

東大寺切り取りは室町の故事に倣ったものだろうし、このあたりで
信長が足利家を越えよう、と意思を持ったのはそうだろうし、公記でも
御動座、とかそういう表現になって事実上回りも信長を天下人のように
認めていたろう。

変の実行者光秀を、主君殺し、という観点から考えると裏切りものとか
そういう矮小化されてしまうわけで、事実上の天下人を倒して新たな天下人が
誕生した、そういう視点から考えるとまた違ったものも見えてくるかも。

大返しも、秀吉から見て「先に光秀が将軍宣下受けたら自分が部下になってしまう」
という危機感からの必死の行動かもしれないし、先に少し出てた細川が光秀に
味方しなかったのも「逆臣だから味方しなかった」というシンプルな説に加えて
「自分だけいい思いをしようというのか」という感情が入ったであろう事も説明
できる。

そして光秀が変の直後に朝廷への金銭的な気配りを見せたのも、もちろん
逆臣の汚名を少しでも減らそうとした意味もあるだろうが、やはり朝廷からのフォロー
一番の理想の将軍宣下、をまず目指した、そのように考えていくのも
当時の状況をよく説明できるかもしれない。

もちろん野心説の論拠なんだけどね。

121:人間七七四年
08/08/08 12:15:09 npxBa/v2
>>118
多聞院日記に書いてあったのか、指摘㌧。

>>119
同意。
少なくても、天正3年までは信長は義尋を通じて室町体制の維持(権威利用)しようとした形跡があるね。
そして、天正3年といえば、陣宣下で右大臣・右大将となり政敵義昭と肩を並べた年でもある。
転換期は天正3年でいいと思う。

変の話にもどすが、義昭にせよ義尋にせよ光秀が変直後に彼を推戴した(しようとした)形跡
がないのは、義昭関与説の否定のみならず、光秀が旧幕府権力に神輿の効果を認めていなかった
ということでいいのかな?

122:人間七七四年
08/08/08 14:19:43 AY0/QdyB
>光秀が旧幕府権力に神輿の効果を認めていなかった

これには賛成。



>義昭関与説の否定

7割くらい賛成。源氏の光秀は義昭ではなく天皇の臣下になることを考えていたのではないか。
ただ、義昭の性格から見て光秀に「信長を討て」との密書ぐらいは
送ってきていたとは思う。



123:人間七七四年
08/08/08 14:25:01 SnpyAi7M
幕府権威をかざせば敵が逃げていくとか平伏して味方につくとか思ってないだけでしょ。
政権の正統性とは程度が違いすぎる。

124:人間七七四年
08/08/08 15:19:24 ASRXhCvu
>>123
>政権の正統性とは程度が違いすぎる
光秀は政権の正統性を「京頭の義堅く申しつけ」の勅使に求めたのかな。
でも、光秀が朝廷等に献金したのは変直後ではないから、光秀が朝廷の権威を利用する気がホンマに
あったのかはやや疑問がある。
戦国期の足利政権と政元~長慶の畿内政権って、朝廷との間は結構ドライだよね。
光秀は、天正3年以降の信長のひそみにならって朝廷の権威の利用を考えたのか、それとも畿内政権の
ひそみにならって朝廷の利用はあまり眼中になかったのか、どっちだろう?

>>119
>義尋との関係は出家後もしばしば安土城に出仕してることから
「多聞院日記」天正2年閏11月19日条の「大乗院新門」、同3年2月13日条の「大乗院新御所」が義尋ってことか。
後者の記事では「二条殿ノ大政所」とあるから、義尋を指すってことでいいんだろうね。

125:人間七七四年
08/08/08 15:50:45 VGSMamWi
室町の権威を必要としたのでなく、利用出来る物は何でも利用したかった状況が光秀の信長殺った
後の状態。

126:人間七七四年
08/08/08 15:52:26 JzEybMiZ
>>124
朝廷を利用したかったのではないか。
もちろん根拠は、逆臣、という汚名を少しでも減じ
自らの立場を正当化しようとするものとして、ね。
これは、勤皇家、とかそういう思想的なものではなくあくまで
戦術的利用、という意味で。

そして天正三年以降の信長が天皇をどう思っていたか、
これはまたスレチになるから深入りしないけど、馬そろえとか
京で信長の近くにいた光秀は、信長と朝廷との関係をよく
理解していたはず。
なので朝廷を利用したかった、というのは信長の延長線上
でも、反面教師、でもどちらでも理解はしやすい。

朝廷の権威を利用する気があったかどうか、という点について
三好たちとは違い、あまりに逆臣として敵が多い、そして将軍宣下まで
狙っていた、と考えると、権威利用というのは最大の利用価値があった、
ぐらいまで踏み込んでいいのではないだろうか。

127:人間七七四年
08/08/08 17:16:16 A5fcVF1l
これからはロケーションビューで、戦場の場所を調べる必要があるな
URLリンク(www.locaview.com)


128:人間七七四年
08/08/08 19:07:44 H7LOdRhV
>>127
本当は桶狭間とか小牧とか登ったり歩くのが一番いいよ。
そして公記に書かれてる表現ならどのように見えただろう、とか考えたりね。
そうすると今川45000はないだろう、とか小牧で秀吉、家康は2キロまで接近したとか
そういうのがよく理解できる。
ちなみに名古屋ドームで満員の時がざっと33000か、みたいにいつも想定してる。
これだけが動いたら細かい連絡どころではないだろうな、とかね。
本能寺を囲んだざっと1万人かな、これも瑞穂グランドのお客さんが囲んだぐらいで
ちょうど四方にいるからリアルでわかりやすいんだよね。
あれが、ぎゅっと囲んだらそれこそ、是非に及ばず、だろな、って。
二重三重どころではなかったろうな、とか。

129:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM
08/08/08 23:12:39 JGaiqFi5
ユーストア横の古戦場跡に立って360度見渡す。
桶狭間住宅は沼地、ユーストアは竹林。セト山は草原。

130:人間七七四年
08/08/09 08:55:07 VTngL1HL
天正10年、ほぼリアルタイムに成立した惟任退治記には惟任公儀を奉じてとあるから、
将軍擁立構想を抱いていた事か幕府権威を正統化に利用した事は判明してる。
公儀を信長と解釈する逃げ道も無いわけじゃないけど、
前後の文章の意味に繋がりが悪くなるから、これだと反論の為の曲解になってしまう。

光秀の10日あまりの天下でその間に朝廷、幕府共に利用した事はわかるし、
そのまま推移していくと足利幕府の復興に行きつきそうではある。
逆説的にいえば光秀の支持層を考えるとその方向以外に進むのは難しい。

上位者を推戴した形跡がないっていうのは、後年の軍記物に見られる矮小化された光秀の虚像であって
太閤記などの神格化を指摘する観点からも示唆されてる。

131:人間七七四年
08/08/09 10:44:56 xLHYv92C
>>129
お、近所の人見っけ。
あのあたりに竹やぶとか多いでしょう、ま、どこにでもあるけど。
あーいうのって、それこそ江戸とか又はそれ以前からずっと宅地造成のすきまをぬって
そのままになってるのかな。
名古屋大空襲にも負けずに。
だとすると今でも落ち武者狩りみたいなこと、なにか残ってないかとか、できないかな。

それともいったん燃えたりして、昭和になってからあんなに茂ったのかな。
いつも部分的にポチッと残った竹やぶ見ると、江戸の昔は全部こういう風
だったのかなって思うのだよね。

江戸と戦国と一緒にするなと言われそうだけど、信長の頃の景色がまだ
少しは残ってるとしたら、なんかすごくない?

132:人間七七四年
08/08/09 13:03:06 hU9oM9SP
竹林は燃えにくいと思った。

133:人間七七四年
08/08/09 15:00:44 7b12l7rP
ちゅうことは残ってるのか。
400年たって何か残ってるかな。

134:人間七七四年
08/08/09 18:19:32 0qLmcfYC
光秀は流浪の身から、様々な手段を駆使し、それまでの地位を確立した。

古典に通じ真面目な人物評もあれば、フロイス評の様な人物評、それらは両極端なイメージ。

少なからず、自身と自家の為以外に変を起こす根拠が見当たらない。

135:人間七七四年
08/08/09 19:29:32 ayVJPQS+
ほんとは信長を殺したのは秀吉じゃないの?

136:人間七七四年
08/08/09 19:45:46 0qLmcfYC
うん。
へうげものではね。

137:人間七七四年
08/08/09 21:33:58 UhwnT0V9
>>134
何の成算もないのに?
近しい細川親子でさえ距離を置くくらい、同時代の人間から
見てもありえない暴挙という認識じゃないかな?
(光秀に乗ろうとした若狭武田みたいなのもいることはいるが)

138:人間七七四年
08/08/09 22:09:23 0qLmcfYC
>>137
謀叛な分けだから、暴挙と言えば、暴挙だね。

ただ細川や筒井が光秀につかなかったのは、秀吉の動きや周辺諸将の動向を見極めてた為。
秀吉の進軍が遅かったり、毛利の動きが積極的だったら、少なくとも細川筒井は光秀につき、それに伴い、中川高山もつき、長宗我部も対光秀軍を牽制していたはず。

139:人間七七四年
08/08/09 22:25:48 UhwnT0V9
>>138
謀反だろうと、根回しがあればかろうじて暴挙にはならない。
大内に反旗翻した陶みたいに。
普通は家康とか織田配下の有力武将、もしくは反織田の有力大名と
連携してから謀反するもんだろ?

ということは突然の思いつきで謀反したが、根回しもなにもなさそうなんで
成功を怪しんだ細川親子らから距離を置かれてしまったってことか。
孤軍で謀反して同盟勢力もろくにない人に、誰も与力したくはないわな。

140:人間七七四年
08/08/09 22:50:48 0qLmcfYC
>>139
いやいや、謀叛の定義は連携でなく、単独でも成り立つよ。

変については、あなたの言う様に突発的行動だと俺も思う。プラス野望的打算よりも信長を殺す事を大前提にし過ぎた為に
様々な配慮に欠けてしまった感は否めない。

まぁ秀吉の行動は誤算だったものの、日の本一の武将を確実に殺す事が出来たのは光秀の周到さも凄い。

141:人間七七四年
08/08/09 23:17:53 10S7h76o
>>137
>何の成算もないのに?
光秀が謀反できたのは、偶然の要素が大きい。
いわく、光秀が中国派兵準備の名の下に京都周辺で公然と軍事活動できたこと、信長親子が
ほぼ丸裸で京都にいたこと、他の方面軍が雑軍の信孝軍を除き遠隔地で敵と戦闘中だったこと、
これらの状況がすべて出揃ったのが5月29日だから、成算を立てるための根回しの準備にかける
時間がまったくなかった。
これらの事実を考慮せずに「根回しがない」って指摘すんのは的外れやろ。根回しする時間がなか
っただけ。
見通しが甘いかどうかは別にして、光秀は「信長をやればなんとかなる」って見通しをしていただけや
ないの?そして、信長殺害は成功している。
根回しなしでも、筒井に関しては中国大返しの報告が入るまでは味方か中立かよく分からん態度にでた
訳だし。

142:人間七七四年
08/08/09 23:36:10 UhwnT0V9
>>141
根回しできなかったなら、謀反をやらなけりゃいいのに。
秀吉が来れなかったとしても、謀反して信長殺して畿内固めて
さぁどうする?
最高にうまくいって、全盛期の三好一族と同じく畿内ローカル政権
くらいしか構築できないぞ。
それ以上望むなら反織田の大名だって黙ってないだろうし。

143:人間七七四年
08/08/09 23:41:50 VTngL1HL
チャンスであると同時に、四国説と三職推任絡みの説の場合は
この時点で立たざるを得ない状態であった事も勘案せねばね。

144:人間七七四年
08/08/09 23:56:07 VTngL1HL
>>142
>最高にうまくいって、全盛期の三好一族と同じく畿内ローカル政権
>くらいしか構築できないぞ。
足利政権のような支配を理想とする思想だってあるでしょ。
それとも天下統一しないとエンディングにならないルールでもあるとか?

145:人間七七四年
08/08/09 23:57:44 0qLmcfYC
バレーも1セット返したね。

四国と三職推任をあえて関連付ける必要あるのかな?

146:人間七七四年
08/08/10 00:05:24 wY+r/Grt
>>142
根回しとか、その後の展開を前提で変を起こしてないのよ初めから。

誰かも言っていた様に偶発的要素を利用し、確実に信長を殺す事が光秀の最重要目的なのよ。



147:人間七七四年
08/08/10 00:30:57 4MMYkaze
>>144
それ無理。
なんで明智ごときに大名連合の頭目とられなくちゃ
ならないんだって誰も従わないから。
しかも逆臣だし。
>>146
それじゃ若者の無軌道な衝動みたいじゃないですか。
主君の不意を突いて急襲して殺すだけ、なら有力家臣なら
誰でも出来る。
その後を考えていないのが腑に落ちないわけで。

148:人間七七四年
08/08/10 00:43:01 tGCofQA2
>>147
光秀は有能な武将だよ。
何度も言ってるが、秀吉の機転的行動力がなきゃ、ほぼ間違いなく畿内周辺を抑えてた。
長宗我部との友好関係を生かせば、織田残軍には簡単に撃破出来ない。

あなたは光秀の事を過小評価し過ぎ。
歴史的結果論を語る事は誰にでも出来るよ。

149:人間七七四年
08/08/10 01:46:47 QbXKyZ1b
それは逆に過大な気もするけどね。

一ついうと、当時の長宗我部には織田軍を牽制する力はない。海を越えて畿内に
上陸して作戦を展開する能力もない。

150:人間七七四年
08/08/10 02:03:05 kQTT11JP
>>149
別に長宗我部に全てを委ねる必要はないんじゃない?

実際、滝川は北条に敗れて関東失ったし、
柴田も、上杉の反抗にてこずって、簡単に動けなかったわけだし。
川尻みたいに、占領地の反感喰らって、一揆でやられたり。

秀吉のあの迅速すぎる逆転劇がなけりゃあ、
地方の織田諸将は時と共に不利になる一方。
むしろ、光秀と戦うどころじゃなくなってたとさえ思うよ。

151:人間七七四年
08/08/10 02:27:53 tGCofQA2
>>150
全く同感。

152:人間七七四年
08/08/10 02:37:40 tGCofQA2
>>149
上陸作戦展開ってあ~た…。ゲームと混同しちゃダメよ。

長宗我部は存在だけで、牽制になるのよ。秀吉に諸将が付いたのだって、たまたまよ。あなた、まさか秀吉黒幕説支持者?

153:人間七七四年
08/08/10 03:57:00 t8ElwSsF
ていうか、朝廷謀略説が主張されたのに、いつのまにか無かったことに
なってるんだが、宮内庁の圧力がかかったのか?

さすがに、日本史最高の英雄である信長を朝廷が謀殺したことがばれたら
困るんだろう...。

154:人間七七四年
08/08/10 04:15:01 kQTT11JP
>>153
夏休みだからって、そんな釣り針たらすんじゃねーよw

155:人間七七四年
08/08/10 09:36:01 0uSJEWUZ
>>150
同意。
前スレでも話題になったが、織田権力は信長の専制体制で、組下を従え強大な軍事力を保有
する方面軍ですら、組下は軍事面以外は司令官の下知ではなく信長の下知に従う必要があった。
だから、専制君主信長の死によって、各方面軍は中国・北陸以外はあっけなく瓦解し、友軍の
北条・徳川ですら領土的野心を隠さなかった。
軍事力をかろうじて維持できた北陸軍も前線の部隊に兵力を割かざるを得ず、近江で光秀と決戦
することはできなかった。
また、織田家の本貫地たる美濃も大混乱して、三法師は尾張に避難し、準本貫地たる伊勢も北畠
一揆が蜂起する有様だった。
また、秀吉が天下人への橋頭堡を築けたのは、信長のみならず「天下を御与奪」させた信忠も死ん
で織田権力が空白になったのも大きい。
「信長(親子)をやる」ってことはそれだけの大きな効果があるのを看過してへんか?
その意味では、光秀の謀反は荒木・松永と異なり「信長をやる」って点において、的確な読みに基
づいとる。

光秀の政権構想について、>>142のいう畿内政権を志向していた可能性が高いことは、細川宛書状から
傍証できる。光秀だって織田版図が丸ごと承継できるなんておめでたいことは考えとらんやろ。


156:人間七七四年
08/08/10 10:11:36 saWk4dd3
甲斐、信州の一揆が強すぎる。
他でも一揆は起こったけど、川尻、森と重臣クラスが駆逐されて追い出されたのはこの地域だけじゃないか?
川尻が死ぬ前に川尻領に所領安堵状が家康から出てるのを見ると、一揆扇動者として一枚噛んだかな。

157:人間七七四年
08/08/10 11:26:04 atwj6awi
>>156
それだけ織田への反発が強かっただけの話。

158:人間七七四年
08/08/10 11:44:01 QbXKyZ1b
支配統制が固まる前におきちゃったからね。

例えば能登では変後にやはり一揆がおきているけど、それはすぐに鎮圧される程度だった。
前田家に組み入れられた豪族達はほとんど参加していない。

甲斐ではそういう、豪族を支配体制に組み入れる前というか作業中に起きてしまった。
変の勃発があと三ヶ月違ったらまた変わっただろうな。
もう一つ、川尻は記録によれば兵二千とともに甲斐に入国したとある。甲斐の国人を
川尻家に編入させるつもりだったのだろうが、この直接軍事力の低さが裏目に出た。

159:人間七七四年
08/08/10 12:17:23 1CiiS/bm
>>158
越前も朝倉滅ぼしてから完全に織田のものにするのには時間かかっていたしね。
嘘か誠か知らないが、松姫が織田家のものになっていたら、展開は変わるかも。

160:人間七七四年
08/08/10 12:54:11 W9EX74NV
源実朝暗殺も事前に北条氏が知っていた形跡があるな。

暗殺者をたきつけた者もいそうだな。

161:人間七七四年
08/08/10 13:15:21 eIE9ztUc
公暁は北条から派遣されたアサシンだろ
マンガ日本の歴史ではそういう書き方だった

162:人間七七四年
08/08/10 13:24:40 atwj6awi
>>161
ありゃ北条じゃなくて三浦だ>公暁

163:人間七七四年
08/08/10 14:41:06 kQTT11JP
光秀に近い位置にいて、一番チャンスがあったなんていわれることのある丹羽なんか、
実はかなりの大ピンチだったろうね。

自分の領国から離れた位置にいて、戻って体制を整えようとすれば、
明智の勢力圏を突破する必要がある。
どころか、その領国さえ危うい。軍の動揺は相当なもんだったろう。

丹羽とか、あの周辺の諸将にとって、秀吉の早期期間は
救世主的存在だったんじゃあないかな、と思う。
丹羽、池田あたりが、その後秀吉支持に徹したのも、
仇討ちを成し遂げたという名分以上に、
そうした、自軍崩壊を救ってもらった恩義で、秀吉に頭が上がらなくなった。
という要因が大きいと思っている。

164:人間七七四年
08/08/10 15:55:17 0uSJEWUZ
>>156
>一揆扇動者として一枚噛んだかな。
件の安堵状は、山崎合戦前の6月12日に出されとる。
当然ながら、甲斐は織田領なので家康が安堵状をだせる筋合いはまったく無いわな。
一枚噛んだどころか、家康の野心そのものやろ。
>甲斐、信州の一揆が強すぎる
伊勢・伊賀の一揆の平定には半年かかっとる。
長曽我部などの根回し云々ばっかじゃなく、かれら一揆の蜂起だって光秀にとっては
十分な味方になる。
光秀は、信長の占領地支配のあり方をみて、占領地の国衆の一揆扇動で方面軍を足止め
できると考えたのかもしれない。

>>158>>163
信長の人材抜擢方法の欠陥が図らずも露呈している。
小身の武将を抜擢しても中核となる軍隊が少ないし、抜擢された武将は組下に舐められたら
おしまい。
信長が生きとったら組下の統御に苦労は少ないが、信長が死んでもうたら組下が従う根拠が
なくなるから案外にもろい。
逆説的な意見だが、織田家累代の重臣を定石どおりに起用していたらこんなにもろくはなかった
かも知れんな。

165:人間七七四年
08/08/10 17:35:38 QbXKyZ1b
>>164
意味になってないぞそれ?
小身から抜擢された武将は現地の豪族達を取り立てて自家の形成する。
これは織田家累代の重臣だろうと新参だろうと関係ない。もともと織田家の規模事態が
小さかったのだから、成長すれば拡大にともなって組したを服属させていくのは当然。
例えば柴田は江南に配されて当地の国人たちを取り込み、越前に入封されてそのこの
豪族達を柴田家に組み込んで言った。これは羽柴でも明智でも変わりない。
そして重要なことは一端組み入れられたものは、基本的にその家に従う。信長に関係なく。

実際、変後に反乱を起したりしたものは組み込まれていなかった連中で、すでに組込まれて
いるものはそのまま普通に従属を続けている。
甲斐や信濃ではその作業の途中だったため、完全に組み込まれていない勢力の方が多かった。
だから反乱も大規模になった。逆に加賀や能登など組み込まれて何年もたった地域では組み
込まれなかった少数の連中が上の同様を狙って反乱を起したにすぎないので、小規模ですぐに
鎮圧された。それだけの話なんで、
>信長が死んでもうたら組下が従う根拠がなくなるから案外にもろい。
これ、間違い。信長が死んでも、すでに組み込まれている連中はほとんど反乱を起していない。
例を二つ挙げると、美濃と雑賀。
美濃では信長から追放された安藤が混乱の隙に反乱を起したが、織田家に組み込まれていた
他の豪族達はまったく同調しなかった。
雑賀も同様で、織田家に組み込まれていなかった連中が、組み込まれていた孫一に対して反乱
を起した。

166:人間七七四年
08/08/10 17:58:21 tGCofQA2
先ほど、別スレ覗いて来たら、変には秀吉が暗躍してるのが定説くらいの勢いだったよ。こちらに来て詳しい方々の意見を見てみればって言っておいたから、有識者の皆さん宜しくね。

167:人間七七四年
08/08/10 18:10:28 iqRyQuv3
>そして重要なことは一端組み入れられたものは、基本的にその家に従う。信長に関係なく。
信孝は四国出兵に際して光秀の組下に属するはずの丹波衆や大和衆に
光秀を介することなく命令してる件。

168:人間七七四年
08/08/10 18:16:48 iqRyQuv3
伊勢、伊賀は組み込まれてだいぶ経ってると思うけど、お国柄だとでもいうかね?
色々と例外の多い理屈だの。

169:人間七七四年
08/08/10 22:26:57 QbXKyZ1b
変の知らせを聞いて逃げ散ったのはそういった各地から抽出され集められた雑軍、いわば傭兵部隊に近い。
信孝や丹羽蜂屋といった郡持ち国持ち直属の、すでに組み込まれている連中で編成された軍は、同様はあった
だろうが、崩壊せずそのまま主将に付き従っている。そのまま彼らは山崎合戦に加わり、その後の追撃や
京支配、残党追輔などの軍事力になっている。

170:147
08/08/11 00:01:51 82PhqtGS
中国大返しがなかったら、光秀が畿内を固められたと
言う見解が体勢みたいだな?
でも織田信雄ら一族や家康などの織田与党が
復讐戦挑んでくるのは必死。
信雄が伊勢から織田本拠の美濃尾張をまとめたり、
後顧の憂いのない家康が自国の兵を率いて来たら
畿内平定どころじゃないだろ?
その折に誰が光秀に味方してくれるというのか。

171:147
08/08/11 00:06:27 bzSvrFr/
あと細川忠興に出した泣き言みたいな書状が気になっている。
「娘婿を引き立てるためで、自分は隠居する」
とか、こんな弱腰見せたら、味方してくれなくなるだろう。
嘘でもいいから
「親族だからって高みの見物は許さん。
このまま参じないなら、畿内平定したら次はお前らだ」
位の強気で行かないと。


172:人間七七四年
08/08/11 00:34:29 a+D+rEYn
秀吉家康光秀がグルってことじゃなの
でないと織田家の権力がここまで削がれる理由も見当たらないw
勝家が勝ってれば織田家復興が成功したかもねw
三国志の司馬イのクーデターも
結局、魏の乗っ取りが目的でしょ


173:人間七七四年
08/08/11 02:17:46 ewA72rmA
架空戦記は受け付けてないんだ。

174:人間七七四年
08/08/11 02:38:26 yUTW0SJw
少し話のレベルが下がって来たな…。

家康に憂いがない?
織田残軍が黙ってない?

史実での秀吉の動きが機敏だった為に光秀は過小評価されがちだが、そんな事はないよ。

秀吉の動向が少しでもズレていれば、光秀の畿内掌握は確実。
まず、信長信忠がいない状況では織田家中は統一性が計れず、命令系統が確立出来ず、不用意に動けない。
家康にいたっては史実通り、どさくさで自領拡大が良い所。信長の仇打ちなんてとんでもないよ。

秀吉に味方した武将がたくさん出たのも、緊急避難的行動。秀吉は信長は難を逃れ、京から脱出してると言い続けてんだから、情報網持っていない武将や底能武将はそりゃあ、光秀側には付けないよ。

175:人間七七四年
08/08/11 03:24:43 tEv0md4Z
>>174
なるほど
低レベルな私と違う、賢しい貴殿の高レベルな結論は
「光秀は秀吉の迅速な行動がなけりゃ畿内平定できた」
ですか。
組下武将は光秀の元に参じ、家康は火事場泥棒に専念、
親を殺された信雄は動かず、畿内が地盤の三好一党などは
光秀の覇権を認めると。
目からうろこです。
さすがに高レベルのお方が言うことは参考になります。

176:人間七七四年
08/08/11 03:28:48 pOBph2hw
みんな信長がほんとは死んでること知ってたけど、
あえて気づかないふりして秀吉についたんだろ

177:人間七七四年
08/08/11 06:54:12 TcS3r5kT
>秀吉の動向が少しでもズレていれば、光秀の畿内掌握は確実。


ただ、光秀が使える水軍はしょぼいんだよね。

武田水軍を継承していた家康にはかないそうにない。

178:サイコメトリー
08/08/11 09:27:38 +/xAR5rR

まぁまぁ光秀の変事好転話は自分も興味あるけど、もめない様に行きましょう~よ。
伊賀越えをして、すぐに軍をとって返すのは家康には困難だったとは思うよ。


179:人間七七四年
08/08/11 09:38:27 Ej2PCUsQ
>>165
>例を二つ挙げると、美濃と雑賀。
>美濃では信長から追放された安藤が混乱の隙に反乱を起したが、織田家に組み込まれていた
>他の豪族達はまったく同調しなかった
美濃岐阜城が斉藤玄蕃允に占拠されている件はどう説明する?
史家の評価は彼が明智寄りだという点で一致するが。
>>167>>168のいう通り、例外の多い立論して、意味になってないぞそれ?って言われても
説得力に欠けるな。



180:人間七七四年
08/08/11 12:32:57 SKXSfdBo
>>130
>天正10年、ほぼリアルタイムに成立した惟任退治記には惟任公儀を奉じてとあるから、
>将軍擁立構想を抱いていた事か幕府権威を正統化に利用した事は判明してる。
>公儀を信長と解釈する逃げ道も無いわけじゃないけど、
>前後の文章の意味に繋がりが悪くなるから、これだと反論の為の曲解になってしまう。
惟任謀反記(「天正記」の一部)確認したけど、大村由己って「天正記」では信長のことを一貫して「将軍」
って書いてあるんだよね。
だから、信長の命令=公儀ってのは曲解どころか素直な解釈と思うけど。
次に、前後の文脈をみても、例の一文の前は「惟任日向守光秀を軍使として、早々着陣せしめ、秀吉と相談すべし。
合戦の行に依って、御動座あるべきの旨、厳重なり。」ってあるから、「惟任公儀を奉じて」ってのは前の文章に書いて
ある信長の命令を指すって解釈に何ら不審はないわな。
ただ、大村は信長の命令・意思を御下知(播磨別所記)とか御錠・上意(惟任謀反記)ってバラバラに表現
していて、藤田に「公儀=義昭の意思」って主張する余地を与えただけやないの?

光秀が将軍を推戴したって藤田の解釈が曲解やろな。

181:人間七七四年
08/08/11 12:43:31 /ahdMmZa
「秀吉が迅速で~」だけど、畿内平定の確率は高かったと思われる。
まず、朝廷側から使いが来るなど、それなりの錦の御旗はついてた。
これは大きいだろう。
そして日和見的な武将はどこかで態度をはっきりさせないといけない。
秀吉が戻ってこれない、ということは毛利が動いた、ということだろうから、
秀吉につくものも少ないだろう。
となると緊急避難的にいったんは光秀につくものもあっただろう。

はっきり敵対するのは信雄と勝家ぐらいだろうが、それぞれが共同戦線
張ってもたいして強いとは思えない。
ましてや安土燃やしたかもしれない信雄なんて同じ織田家でも
あきれてるのじゃないか。

一番の強敵は家康で、家事場泥棒、で済ますには惜しいぐらいの実力がある。
同盟に乗っ取り勝家たちと組んでいったんは光秀に立ち向かう可能性も
高いだろうし、そうなった場合が光秀の最大の危機。
ただ、ぐずぐずしてると光秀が将軍宣下受けてしまうかもしれないし
このあたりはもうイフの世界だから、論じてもまた違う話になる。

重要なのは、秀吉が天下取りへの頭角を表したのは、大返し以降、であって
それが成功しないのだったら、織田家の他の武将と同様、敵討ちにも
成功してない普通の家臣、という扱いを受けてたろう。
なので、家康が「これはチャンスだわぃ」と光秀やっつけて
結局同じような歴史になってたかもしれない。

なんかつまんない結論だな。





182:人間七七四年
08/08/11 12:49:37 ewA72rmA
でも歴史ってそんなもんだろ。

183:人間七七四年
08/08/11 13:56:11 GdF3lThc
>ましてや安土燃やしたかもしれない信雄なんて同じ織田家でも
あきれてるのじゃないか。


安土城を焼いたのは信雄ではなく土豪という説もあるが。
信雄がいくらアフォでも安土城は焼かないんじゃないかとも思う。

184:人間七七四年
08/08/11 14:02:43 0PSX1KL1
>>180
史実の信長は自身を公儀と称した書状とか出してたりはしてるだけに、なまじ知ってる人は混同するんだろうけど、
少なくともこの作品中では信長の命令=公儀として一度も使ってないのよ。

185:人間七七四年
08/08/11 14:15:52 0PSX1KL1
二万余騎の人数を揃へって所だけにかけて読めば信長の命令と読めない事もないけど
それって作為的な読み方でしょ?

186:人間七七四年
08/08/11 15:59:38 SKXSfdBo
>>184>>185
>少なくともこの作品中では信長の命令=公儀として一度も使ってないのよ
確かに、「公儀」はこの箇所しか出てこないが、それは「御錠」もおなじやろ。
この作品には義昭はでてこないので、義昭の命令=公儀と読む積極的理由がないわな。
にもかかわらず、ここだけ違う意味にとる意味がわからん。

>二万余騎の人数を揃へって所だけにかけて読めば信長の命令と読めない事もないけど
>それって作為的な読み方でしょ?
おれはそんな読み方しとらんで。前の文の「軍使云々」=公儀と解釈しているだけ。
なぜなら、さらに前の文では(原文を確認すれば明らかだが)援軍の堀・池田・中川・高山には「卒時の合戦然るべからざる
の旨、御錠ありて」とあるのに、別件での軍使云々の記事については、御錠・上意・御下知など命令を意味する文言はいずれも
使用されていない。
だから、次の文にある「公儀」が信長の光秀への命令と解釈すんのが自然やろ?
また、「惟任公儀を奉じて…密かに謀反を企む。」については、信長の命令を奉じているからこそ、それに矛盾する「謀反」が
「密か」ってこと、すなわち「外見は信長の命令を受けたが、内心は謀反だ」って解釈するほうが「密か」の意味が自然に通じる。





187:人間七七四年
08/08/11 16:11:00 SKXSfdBo
>>183
敵の拠点に利用される前に、自らその拠点を破壊するのが軍事の常識だろ。
だから、真のアフォは安土退去前に城を焼かなかった蒲生じゃね?

188:人間七七四年
08/08/11 16:24:06 0PSX1KL1
>>186
公儀=軍令って捉え方は既に当時の価値観とずれてない?

当時の概念だと公儀は幕府機関など政治理念を含んだ時に使う言葉。
対象が人になる事もあるがそれは公人としての人。
信長が使った例もそれに違わないし、似た表現だと天下って言葉もあるが、
これらの用例については史家さんたちも指摘してるでしょ。

189:人間七七四年
08/08/11 17:08:01 SKXSfdBo
>>188
確かに「命令」は不適当だわな、撤回する。
でも、大村は信長を一貫して「将軍」(一部は「相公」)って表記している以上、公儀=信長(の意思)
でなんら不審はないな。


190:人間七七四年
08/08/11 17:12:26 nV6moMnw
>>187
軍事拠点つうよりも、政庁&シンボル的なもんだったんじゃないの?
特に天守なんてもんは。

信長の野望やってると、天下有数の堅城だから、勘違いするんかもしれんが

191:人間七七四年
08/08/11 17:17:31 ewA72rmA
安土の防御力は地形から考えてもたいしたもんじゃなさそうだし。

192:人間七七四年
08/08/11 17:36:48 SiY6wRGE
>>181
日和見武将は、信雄についた可能性だってあるぞ。彼は単独で一万以上の軍勢で
近江まで進出してきている。彼が光秀の反乱に対して討伐の兵を挙げたのは史実。

信雄は馬揃えで信忠に次ぐ二番目。立派に旗印になる資格を持つ。さらに具体的な
軍事力を持っているとなれば、秀吉がいなくても畿内の諸将が彼につく可能性は
普通にある。

また、秀吉が予想外に帰還を果したからと論をつづけるが、その前の状況を見て
みると、畿内の諸将たちは、秀吉が帰ってくるかどうか判らない、むしろ帰って
くる可能性が低い状況で、光秀から離れていっている。
さらに近江に敵対勢力一万が迫っているとなれば、一万三千の光秀は身動きが
取れなくなる。(ここで、信雄は無能だから脅威にならないとか講談話はなしね)

193:人間七七四年
08/08/11 19:05:02 yUTW0SJw
可能性はなくはないけど、やっぱ信雄じゃ無理なのは明白。
一万いようが二万の軍勢が居ようが、軍隊とは明確な指揮命令により機能する分けだからね。
臨機応変に対応出来たり、機を見るに敏な武将ならば、小牧長久手の様な
対応はとらない。


194:人間七七四年
08/08/11 19:17:21 hotEBY5M
>>192
信雄は蒲生を信用してなかったし、伊勢・伊賀一揆蜂起で土山から進軍できなかった。
信雄だけでは求心力が弱い気がする。
柴田軍が近江に入ってこれば、合流して信雄もいい働きできたかもね。

>信雄は無能だから脅威にならないとか講談話はなしね
フロイスの信雄評や信雄への折檻状のどこが講談話なんだ?

195:人間七七四年
08/08/11 20:05:58 LPv9/9t6
拠点を焼くのは基本なんだけど、信雄がそこにたてこもって勝家
とかが来るのを待てばよい。ま、信雄が燃やしたかどうかはわからないからあれだけど、
そう思われていた、という事実が重要だろうな。

信雄につくのは織田家家臣なら仕方ないだろうけど、日和見武将たち、
ツッチーとか、そういうのが信雄につく可能性はなかったんじゃないかな。
あの時点では織田家家臣もバラバラで、少なくとも織田家の敵討ちを
手伝う義理も何もない。

それよりも、細川がどうして光秀につかなかったか、をもう少し整理しておいた
ほうが良くないかな。
変自体、大返し、もかなり異常な出来事だけど、光秀から見て細川が味方に
ならないというのも、かなりの想定外だっただろう。
おまけに出家したということは、もう完全に争いの外に出てしまった、ということで
日和見とも違う。

このあたりは、細川から見て、光秀アホちゃうかわしゃしらへんで、ってとこで
単独、突発、野心説の良好で重要な論拠となるだろう。
光秀は、事前に相談も出来ないし事後承諾で十分、と判断してたのかもしれないが
これと、大返し、だけはさすがに想定外というかまさに歴史の奇なるとこで
あの11日間というのは不思議なもんだったんだろな、といつも思う。

196:人間七七四年
08/08/11 20:37:47 tNhvNSHY
基本の例は?

197:人間七七四年
08/08/11 20:43:06 st69q8ot
様子見だったんじゃないの?
基本的には明智が負けると思っているけど2割~4割は機内掌握するかもって感じで。

明智勝→大人気なく追悼なんてやってゴメン。
    息子は娘婿だし。兵出してないから許してくれるよね。ハート

明智負→当家は追悼の意志を表していた。
    信長公への恩の大きさから呆然としてたんだ。許してくれるよね。ハート

198:人間七七四年
08/08/11 21:54:53 SUDUxoY+
>>196
良い質問だな。
普通は徹底抗戦して落とされるから、相手も利用しようがない。
明け渡す時は、城主が変わるだけで農民さんや家臣は助けてやってくれ、という
明け渡し方。これは小さい城の話ね。

でも、安土ってのは大阪、伏見に匹敵する、それ以上の城、あんな大城を
簡単に燃やすこと自体が、信雄がいかにとーちゃんの意思をわかってなかったか、の証左。

今、バチカンかどっかでさがしてる日本人がいますよね。
あれが見つかったらかなり歴史が変わるかもしれなくて、楽しみにしてる。

199:人間七七四年
08/08/11 22:00:58 5ucvF4+f
伊勢伊賀は変後一揆発生で、半年後秀吉の援軍を得てようやく鎮圧だから
光秀健在なら、信雄牽制のため更に煽るだろうから信雄だけでなく、帰国した滝川もまともに動けないと思う。

200:人間七七四年
08/08/11 22:13:01 SUDUxoY+
>>197
そういう表現するとからんでくるのが多いけど、実際にあの時点では
二面作戦取りますよね。
例えば、秀吉が戻ってきたから秀吉についた、という言い方は
結果ありき、で、山崎で光秀が勝ってたかもしれない。
実際に、農民の槍、というのが定説ですからね。
だから、秀吉があそこで勝った、というのはもっと高く評価する必要が
あると思う。
ってか、丹羽、信孝合同軍だろ、みたいにならずに秀吉が勝った
という評価をされてること自体が、もっと検証されるべきではないか。

実際、そこで初めて天下への意思を見せて「奇跡の三年」で
関白へ。
家康も1598~1600の三年は神がかってたけど。
これは、結果でなく、その時点に戻ってみると不思議で仕方がない。
すべてが本能寺から始まったとすると、光秀こそがイフを
語られるべきかもしれないな。



201:人間七七四年
08/08/12 00:19:09 uEKRhiVC
西国出兵の軍に細川藤孝は何故参加してないんだろうね。
留守を命じた記録や資料も見た事無いのよね。
事前に話してないのなら同行を促すだろうし、既に交渉決裂済みだったって事だろうかね。

202:人間七七四年
08/08/12 01:49:17 AYtiR9tU
何にしても秀吉黒幕説には浪漫がある


203:人間七七四年
08/08/12 04:17:27 N8yN9SSZ
秀吉黒幕説に限らず、陰謀論自体がそもそも浪漫でなりたってる

残念ながら、浪漫と言わずに妄想と言うことの方が多いが

204:人間七七四年
08/08/12 09:52:21 OfOtI8Cm
秀吉黒幕説を否定するのは案外細かくてふちのほうからの論が
多いからそのあたりが根強く生き残ってる理由なのかな。

光秀単独説だって「史料を出せ」というのがいるから、妄想、という
意味ではすべて同じなのかもしれないな。

205:人間七七四年
08/08/12 10:22:08 uEKRhiVC
なんにしても他人の説叩いて飯食ってる人の信者にはなりたくないけどな。
叩く前に自説の論証をしっかりやれといいたい。

206:人間七七四年
08/08/12 10:32:09 AiWf1eOt
>>205
バカ?

207:人間七七四年
08/08/12 13:13:27 7aX14VYl
ウン、120%馬鹿だね。

208:人間七七四年
08/08/12 13:37:16 HhIqWKm+
>>188
藤田説も将軍黒幕否定説も、土橋宛書状の「上意」=義昭と解釈する点は一致する。
また、毛利宛書状・信長公記で公儀」=信長と解釈すべき用例が存在することも異論がない。
よって、将軍追放後は、上意は信長の専売特許じゃないし、公儀も義昭の専売特許ではない。
惟任謀反記では信長を「将軍」と表記している以上そこらへんの用語使用の境界はなおさら曖昧で、
「惟任謀反記」の「公儀」が義昭をさすかどうかは不明確というのが正解ではないか?
前後の文脈で判断するしかないんじゃないの。

>>195
確かに、筒井と細川ではかなりの温度差あるよね。
「多聞院日記」によれば、筒井は最初は井戸・南方衆を光秀に合流させて近江攻略を手伝っている。
あとは、兵を引っ込めて籠城準備するも、軍使の藤田を呼び返してひたすら時間稼ぎしている。
一方で、13日の決戦当日に「兵をだして故信長への忠節をみせろ」って信孝から書状を食らう始末。
徹底した日和見だよね。
一方、細川は最初の使者の沼田が来たときに「摂津をやるからせめて重臣を上洛させろ」って言われた
のに、剃髪して玉子を味土野に幽閉した。
次の使者の言上はご存じのとおり、光秀の泣きごとみたいな内容になっている。
この点で、明らかに両者の対応は異なる。
ただ、筒井と細川の利用価値でいえば、筒井の方がはるかに上だと思う。
若江3人衆は筒井に同調するって上記資料にあるし、筒井が味方すれば大和・河内
が勢力圏に入るから、信孝・丹羽軍は余裕をもって撃破できたんじゃないかな。
ここで勝利すれば摂津国衆を掌握できる可能性も高くなる。
それが筒井の日和見ですべてオジャンになったから、光秀にはこれが一番コタエた
ように思う。

209:人間七七四年
08/08/12 14:11:29 jM8vcoBe
でも筒井って一見処世上手に見えるけど、
その後あっさり衰亡しているんだよね。

210:人間七七四年
08/08/12 15:46:24 xj2nOpVn
>>208
そだよね。
細川、筒井どちらも味方につかず、秀吉が無傷で帰還。
こういう不運も逆にあまりないぐらいということか。
で、順番から行ったら、信孝、丹羽、秀吉軍が光秀に勝ったのが
山崎なんだろうが、案外そう言わずに秀吉が勝った、見たいに言うのは
やっぱり結果を知ってるからなのかな。
このあたりも少し考慮して、秀吉のすごさに付け加えたほうがいいのかな。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch