困るほどの律儀者、佐竹義宣を語るat SENGOKU
困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る - 暇つぶし2ch2:人間七七四年
08/03/08 20:11:18 5YkPWQKJ
家を任せる息子だと気苦労が絶えないが(笑)、
友としては最高の漢だと思うがどうだろう?

3:人間七七四年
08/03/08 20:54:41 X1R2Z+Or
はいはい

終了

4:人間七七四年
08/03/08 21:17:55 Sgs8gipH
関ヶ原後に藩政を担うブレーンを自身の側近(梅津憲忠や渋江内膳)に
シフトさせて体制を確立させているけど、この話を扱った「雪の峠」は結構この板の住人では
呼んだ方も多いのではと思う

5:人間七七四年
08/03/08 21:35:22 5YkPWQKJ
>>4
「雪の峠」は、今は入手困難なんだよね。

6:人間七七四年
08/03/09 01:36:55 ywOKQjoS
家康から隠居を申し渡された三成を佐和山まで護衛したのは佐竹勢で本当?

7:人間七七四年
08/03/09 02:44:10 Lm1o5GVw
ま た イ左 ケケ 厨 の オ ヵ 儿 ├ ス レ ヵ`

8:人間七七四年
08/03/09 03:05:15 9zftFmnb
>>6
それって結城秀康じゃなかった?
そのときのお礼に三成が秀康にあげた脇差が正宗で
「石田正宗」と言って越前家の家宝になったとか

9:人間七七四年
08/03/09 03:38:27 ywOKQjoS
>>8
勘違いだった。確かにら結城秀康であってる(家康の指名だった模様)。

義宣が三成を護衛したのは、武断派襲撃後から隠居までの間で、
小西や宇喜多と共同してとのことらしい。

10:人間七七四年
08/03/09 11:04:11 ZdQgTE3V
佐竹は鹿嶋の殿様を「酒っこ飲みに来い」言うて毒殺したデレスケのゴヂャッペ

11:人間七七四年
08/03/09 11:09:47 ZdQgTE3V
デレスケは栃木茨城福島の方言でくず野郎。ゴヂャッペは嘘つき

12:人間七七四年
08/03/09 12:22:04 f7mnEjG/
重複しています
こちらへ移動してください

\●/佐竹氏を語るスレ 其の2
スレリンク(sengoku板)

13:人間七七四年
08/03/09 20:00:28 Y2vbzgRD
ちくらっぽ言ってんな

14:人間七七四年
08/03/10 04:31:32 FvxH7bh5
「もとより諸将に対して悪意は無いが、公命に背いていない治部少輪を討つのは私怨。危急を見過ごせず救援したまで」


やっぱり格好良い!


15:人間七七四年
08/03/11 19:15:24 9ta/11fm
野戦指揮官としてはどうかな? さすがに親父殿にはおよばないはずだが。

16:人間七七四年
08/03/11 19:42:22 OPKuXIBy
>>15
義宣って野戦で指揮取る機会
大阪冬と摺上原、小田原時の忍の他にあったっけ??
家督もらってから惣無事令までの期間が短くて
野戦指揮の機会はほとんどなかったのでは?

17:人間七七四年
08/03/12 10:43:48 tnv/5N18
困るほどの律義者の従兄弟は困るほどの不義理者。
本当に同じDNAが含まれてるのか?

18:人間七七四年
08/03/12 15:59:13 lVPNVqKq
>>15-16
そもそも初陣っていつだ?


19:奥七郡の人
08/03/12 23:12:08 5Dh/0FsL
義宣の初陣は天正13年と言われる
天正14年初頭に家督を継ぎ4月には総大将として軍勢を率い下野を転戦した
それ以後、常陸南部や下野・陸奥に出陣し北条方や伊達方の軍勢と戦いを続け
小田原の陣・奥州仕置でも佐竹洞中を率いて出兵した
その後、浅野に従い常陸の反抗勢力を討伐した

20:人間七七四年
08/03/13 04:41:01 k6XoqFlO
>>19
家督継いだのって天正14年だっけ?
俺の記憶では天正17だったと思うんだが…
といっても文献などで確認したわけではないので17が事実かどうかはわからないが

21:人間七七四年
08/03/13 06:25:07 eh9RLI18
(豊臣)天下の六大将。

22:奥七郡の人
08/03/13 17:47:11 Sg5EWhgu
>>20
天正14年4月に初めて義宣が軍勢を率いて宇都宮氏へ後詰めした事が宇都宮国綱の書状に残されている(宇都宮家蔵文書)
また、この一連の戦いで義宣が感状を発給している(秋田採集文書)
7月には大山氏と起請文を取り交わした
ただ、天正14~15年の書状は義重との連署のものが多く、義重が後見していた事が伺える
天正16年以降は義宣のみの文書が大半を占めるようになっている事から
天正14に家督を譲り16年までには完全に義宣へ委ねられたと見られている
佐竹家譜では富岡与一左衛門訴帖に義宣が17才で家督を継ぐとあることから
生年から見て天正14年であるとしている

23:人間七七四年
08/03/13 18:47:59 k6XoqFlO
>>22
なるほど、ありがとう
確かに天正14年ごろは近場でも上方でも情勢がめまぐるしく変わってたから
いきなり義宣を全面的に前に立てるのは難しかったのかもね。

24:人間七七四年
08/03/13 22:53:04 JAmbFwqM
弟達とは仲良かったの?

25:人間七七四年
08/03/14 14:16:48 +qwIl/ww
末弟以外は10歳にも満たない頃に養家に入ってしまったから兄弟の仲を感じる暇もなかったんじゃないかな?
末弟の彦次郎は年が40以上離れてるからこれはこれで弟のような気がしなかったかもしれない
佐竹関連本では子供のできなかった義宣が我が子のように可愛がった云々と書いてあるのをよく見る
実際のところはどうか知らんけど一時世継ぎに据えたのは事実のようだ

26:人間七七四年
08/03/14 20:08:07 qIwHtJ0f
六大将…徳川、上杉、毛利、前田、島津、佐竹
と言うのだろうが、
六番目は宇喜多だろう?

27:人間七七四年
08/03/14 20:22:58 gVy2lZVF
朝鮮出兵時の出陣式では、佐竹は伊達政宗の後を行進している。
当時の両者の力量を端的に示している。

28:人間七七四年
08/03/14 20:32:50 +xcC5o7m
>>27
全体の順序をkwsk

29:人間七七四年
08/03/15 02:15:34 oY6AXpyD
伊達はおだてて朝鮮に送り込む気だったんだからしゃーないわ

30:人間七七四年
08/03/15 04:52:27 9WDBdA11
煽てるも何も命令が出たら嫌でも海渡る事になるだろ‥

31:人間七七四年
08/03/15 09:45:19 tGOQdE7J
佐竹厨の特徴はやたら伊達家に対抗意識燃があるとこだね。
完全に格下なのにな

32:人間七七四年
08/03/15 10:47:37 +PIHOFfQ
侍従止まりの佐竹が
中納言の宇喜多や織田
少将の伊達を
差し置いて豊臣六大将?

33:人間七七四年
08/03/15 10:52:35 D4h6c+wx
>>31
格下だと思っているのならこんなところまで来て暴れないでください。
普通にしてれば佐竹系スレは北条方の話や白河あたりの話で楽しくやれるのに
伊達の方々が来るとどうしてか人取り橋の話や石高比較の話になってしまい不毛です。

佐竹なんかよりもっと大きくて、あなた方が思う伊達と同格以上で、
かつ伊達が渡り合った相手のスレがあるならそちらへ行って存分に思いの丈をぶつけてきてください。
大崎スレとか。

34:人間七七四年
08/03/15 11:15:40 D4h6c+wx
>>32
「豊臣政権の六大将」が豊臣政権化のいつ頃言われていたことなのでしょうかね…

宇喜多は57万石ですから公式発表における石高としては佐竹より上。
官位も従三位の上一応秀吉の一門衆。六大将に入ってないのは確かに不思議です。

伊達が少将になったのは慶長二年。秀吉のほぼ最晩年でした。
伊達は豊臣政権化では冷遇されてる感がありますね。経緯を考えると仕方ありませんが。

逆に佐竹は実力というより三成と懇意だったということや、
立地などの物件的に厚遇されています。そういう面も加味しての六大将かもしれません。
宇喜多に関しては実に謎ですが。

35:人間七七四年
08/03/15 11:25:06 tYj29Wqh
単純に宇喜多は豊臣準一門(秀吉猶子)なので除外されていると思っていた

36:奥七郡の人
08/03/15 11:25:24 xoZ43/JY
いつも自分らで突っ掛かって来て伊達に対抗意識持ってるとか言われても困るわな

37:人間七七四年
08/03/15 11:55:15 +PIHOFfQ
そうか岐阜中納言は主筋だし、
備前中納言は身内だからランク外か
勉強になりましたm()m

38:人間七七四年
08/03/15 14:15:04 XjpuvLyh
伊達に対して格上・格下という感情は無かったんじゃないかなあ。
というのも身内だからさ。身内親族にそんな感情持たないだろう。普通は。
一蓮托生みたいなもんだもん。

それだけに政宗が佐竹領を攻め出したときは
心底「なんでやねん!!」と思っただろうな。水戸の人だけども大阪弁で。
それくらいの行為。まさに寝耳に水の行為だったろう。

39:奥七郡の人
08/03/15 15:28:59 xoZ43/JY
さすがにそこまでは甘くないかと
周囲はみんな親戚みたいなものだし
佐竹の宿敵である小田や那須だって親類
伊達あたりは遠方だから大して関心がなかっただけで
お互い激しい敵意を感じ始めたのは天正15年の葦名氏後継問題からだろう
それも豊臣氏の東国進出により3年程で終った

40:人間七七四年
08/03/15 19:03:59 ARdsdPZR
南陸問題は複雑怪奇、て混沌状況だったからね
血縁があるからこそ紛争の種になる

大体、佐竹は身内同士の争いで中世の大半を過ごしたようなものだ
それを克服したからこそ、戦国期には一門の分裂だけは起きなかったが
義宣の代にも大掾一族の謀殺、秋田での老臣粛清等々やっとるね

41:人間七七四年
08/03/15 23:24:22 jMY5JLSa
血縁というか義宣の場合は長男で()多分姉がいるが)本家だからな。
秋田で兄弟くわせなあかんからね。
戦争より内政を取った場合・内政でもうけたお金で食べていこうと思った場合
久保田城を選ぶわな。平野だしね。そのいざこざで粛清が。

まあ宿老粛清はさすがに問題だが、
将来を考えれば久保田選ぶわな。律義者の場合は、ここらへんのビジョンがはっきりしていたな。
兄弟改易されて戻ってきているわけだし、一族の長としてこれからずっと皆を食わせなならん。
だから武器は捨てよう、秋田で開拓者となろう。という・・・
まあ、大阪の陣にはもちろん参加はしたけどね。基本は武士だしね。

ただ、リチギーがそこまで皆を思っても、芦名の残党は最終的に迎合できなかったみたいだね。
一度は常陸で復興したものの移転後は角館。そこでまた復興を目論むという。
やはり他家だからな。居心地悪かったのか復興だけは忘れられなかったのか・・・
とにかくいろいろ絡んでいるので難しい。

42:人間七七四年
08/03/16 22:47:31 iBeTeWZL
>関東、南奥州の盟主にして武田家無き後は源氏之頭領!

こんな事誰も言ってないし書いてもない


>若年に家督を継ぎ、後北条の関東侵攻を阻止に立ち上がり、仙道方面では伊達政宗を圧倒!

仙道方面で圧倒してたのは政宗
どうせ煽るなら北条も圧倒と書けばいいのに何で伊達だけ?


>武田信玄、上杉謙信と対等に渡り合いあった戦国最強武将佐竹義重の武勇伝を語り合おうではかいか!!
実際にやり合った北条を差し置いて、何故一度も戦った事もない上杉謙信と武田信玄?

結論 >>1=北条厨

43:人間七七四年
08/03/17 05:09:13 ggh4so6i
なんか、、、誤爆乙

44:人間七七四年
08/03/17 07:27:59 21P34qHc
佐竹には実弟の芦名・岩城・多賀谷の三大名や相馬が寄騎に付けられた。
佐竹+寄騎大名の石高は、宇喜多や伊達を凌いでいる事実がポイント。

45:人間七七四年
08/03/17 08:53:04 /7vkqP+V
>>44
相馬と佐竹って血縁関係があった?
地理的に近く懇意だから寄騎になっただけ?

46:人間七七四年
08/03/17 12:01:45 X0R3g9vU
相馬利胤の最初の妻が芦名氏だし、東北の大名なんてほとんどが何かしらの形で親族になっている。
また、相馬氏の改易が決まりかけたころ、義宣が「うちらの領知のうち一万石わけるけど来る?」と
呼びかけている。ちなみにこの両家は江戸時代も互いに養子を迎えるなどしており、結構親密だよ。

47:人間七七四年
08/03/17 14:57:56 /7vkqP+V
>>46
細かい解説、感謝です。
「一万石あげるから~」ってのも凄い話ですね。

それを断って自力で本領安堵を勝ち取った相馬も凄いですが。

48:人間七七四年
08/03/17 15:16:27 ggh4so6i
>>47
たしか相馬は伊達とも仲良くて、
本領安堵には伊達の裏添えがあったとかどうとか
相馬は田村とかをバリバリ攻撃してる印象が強いが
もしかしたらみんなに好かれるタイプだったのかもしれん。

49:人間七七四年
08/03/17 18:02:42 FBB7o3EV
まあ昔は相馬も佐竹も一貫して北朝だったからな
しかも周りを結城伊達北畠に囲まれて

50:人間七七四年
08/03/19 02:10:55 KTDCj3Iw
相馬の場合は、元々は伊達家から嫁を貰っているから。
大乱ではそういういきさつで種宗側について以来、延々と揉めていた。
ちなみにそのあと何十年立ち、政宗と和解し、その後はだいぶ伊達派になっていた。

それから数年たった頃、伊達家側に寄り出した田村家と揉めて、また伊達家と戦う羽目に。
その後、政宗の人材スカウト戦法で骨抜きにされ、滅ぼされる寸前に。
でも小田原参陣で生きながらえたが、徳川の世で佐竹派とみなされ改易。
というのも16代の娘が佐竹貞隆の妻なので、佐竹派扱いになっていた為。

その後大名復帰。新井白石の本で、政宗の口ぞえで大名復帰ということになっているが、
これは謎。むしろ政宗は相馬領はほしいだろうしな。そこまで口ぞえしないと思う。
とはいえその前年に上杉家に共同で攻めたりしているからありうるかも知れん。謎。


51:人間七七四年
08/03/19 09:10:31 V7D/EpRQ
地政学上(茨城県)面白い位置なってしまってたよね。

52:人間七七四年
08/03/19 18:18:34 rDokS0Iw
愛姫の母親の実家だし複雑なんだよ

53:人間七七四年
08/03/20 16:01:12 ahR9YLgb
>>51
茨城県が面白い位置って?

54:人間七七四年
08/03/25 17:15:29 jvzTbumq
徳川期には徳川から
姓も名も貰えなかった
国持ちは山内と佐竹?

55:人間七七四年
08/03/28 17:25:32 Xu/nsa2T
>>54
山内二代目忠義は秀忠からの偏諱と松平姓を賜ったはず…。山内三代目の忠豊の「忠」は秀忠からの偏諱かどうかは判りません…。

56:人間七七四年
08/04/06 17:51:26 u9p0dtDX
なんかもぅ徳川より豊臣の武将というイメージが強いからね
そんな経緯でもらえなかったんじゃ?という単純な話ではさすがに無いか

57:人間七七四年
08/04/24 01:24:41 robALqTc
確か佐竹の庶子家で松平氏がいたはず。

そっちの方が徳川(松平)氏より古い…。

佐竹に松平姓を与えるって事は、佐竹本宗家に佐竹分家の姓を名乗れって事と同じになる。

佐竹は平安時代末からの清和源氏の名門だから庶子家も沢山…。そのなかに松平という庶子家がたまたまあった。

茨城県常陸太田市松平(旧久慈郡水府村松平)



58:人間七七四年
08/05/02 06:31:50 0WzpgHB9
>>41
芦名義廣(盛重→義勝)も弟の岩城貞隆の様に江戸で浪人して再び世に出ようとしなかったのが悔やまれる。

義宣が徳川への実質的な証人として二人は要らないと思ったのか…?

義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
或いは?



59:人間七七四年
08/05/02 17:21:10 Mo9y3PWk
>>58
> 義勝が芦名の縁を頼り天海に取り成しを願い、更に大坂の陣に参加してれば…。(天海が芦名一族の出身と云うのが本当なら)
> 或いは?

味方討ちの失態と娘婿忠輝の無礼を咎めて伊達を改易、仙台は芦名60万石の城下として栄えました。
幕末にも、宗家佐竹氏の助言をよく容れて会津征討に活躍し明治政府でも仙台藩出身者は重く用いられています。
もし、伊達家がその後も仙台藩主であったなら、こうはいかなかったとする識者の意見も多いです。

60:人間七七四年
08/05/05 03:55:19 WEjuBe2x
あははは

芦名が本家筋より大封を得るのか。
そんじゃ本家は忠輝の後釜で越後高田75万石!

秀忠「大御所様、忠輝の後は律儀な右京大夫で如何でしょうか?」

家康「ふむ。悪く無いな…。しかし上杉がねたもうぞ?」

秀忠「右京大夫は関ヶ原で西軍についた訳でもありますまい?」

家康「まあな。ちと灸を据え過ぎたか…。将軍家の善き様にせい」

秀忠「有り難き幸せに御座居ます」



61:人間七七四年
08/05/08 15:42:49 JggcDJ+5
関ヶ原後に領地を没収されることになった相馬を、新領・出羽の1万石で引き取ろうとしたのはいい話だな。

62:人間七七四年
08/05/19 23:13:18 TZ7OKaSK
親父の義重は義広の白川入嗣の際、白川義親の婿養子(大関)晴増がとばっちりで廃嫡となったのを申し訳なく思い常陸で5万石を与え客将として遇した…って逸話を思い出した。

親子揃って義理堅いなぁ。

63:人間七七四年
08/05/20 00:02:06 XN2c0rYM
ところが白河結城氏は伊達家一門になってしまったとさ

64:人間七七四年
08/05/23 02:35:31 fWYzbyT+
放浪の末に…だったか?

秀吉への贈り物を政宗に託したが改易…

佐竹を裏切って伊達に鞍替えした大名家は秀吉に潰されてるな…
石川昭光とかも。

65:人間七七四年
08/05/29 00:48:23 XHfNcqho
豊臣政権下で佐竹氏は優遇され佐竹与党の諸候は生き残れたが、唯一宇都宮氏の改易は残念だったと思う。

与力しかも従兄弟の宇都宮国綱が改易…。
佐竹氏も連座で危なかったとか…。

この危機を三成のお陰で助かった…って事だが、具体的に三成はどの様な働きをしたのか?

又、宇都宮改易の真実とは?
浅野からの養子を断わったからとか、検地(石高)に不正があったとか…。
本当だろうか?


66:(´ω`)
08/05/29 01:15:27 rlxd6W6O
>>65
惣無事令違反。
国綱と近臣らは浅野養子を認める方向で動いていたらしいが、芳賀高武がこれに反対。
勝手に養子の件は無理と三成に報告。養子肯定派のひとり北条何某を四条河原で斬首。
そのうえ下野に戻って肯定派の今泉高光の上三川城を攻めた。思いっきり私闘。
そんで大名の国綱が責任を取らされて改易。

石高は多分全く関係ないし、養子の件も間接的な原因であって直接の理由ではない。
おそらくこういう非常に恥ずかしいことから改易されたため、
それを糊塗するために石高とか養子とかが理由だと後付けされたのだと思う。

67:人間七七四年
08/05/29 02:23:22 XHfNcqho
>>66
サンクス!

しかし惣無事令は九州や関東奥羽の地域限定…。
関東奥羽惣無事令は1587年発令で、1590年の小田原征伐そして奥羽仕置での天下統一後で法令自体の目的は達せられたはず。
宇都宮改易は1597年、発令から10年後…。
それでも惣無事令は廃止されず生きてたのか?

秀吉が出した切支丹禁令が徳川幕府成立後再び持ち出されようなものか?

それにしても芳賀高武、よく切腹や斬首させられなかったな。不思議。



68:人間七七四年
08/05/30 21:49:26 u3DXtiFX
宇都宮と言えば、結城氏に養子として入ってた朝勝を佐竹が引き取ってるね。
同族ながら葦名や岩城や多賀谷、以外なら宇都宮や辞退されたけど相馬と盛り沢山。

69:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/02 05:17:54 YVoNsm7s
芦名・岩城・多賀谷は兄弟だし、(宇都宮)結城朝勝は従兄弟。
相馬利胤(三胤)の嫁は芦名出身で親戚。

秋田の佐竹家は北関東・南奥の名家やその家臣が盛沢山。

本当に義理堅いよ、義宣。


70:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/02 06:34:06 FsM13khD
佐竹義宣は現在の県庁所在地を二つ作った、都市計画の達人…と、何かで読んだけど。
もっと評価されても良いのでは?


71:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/05 06:18:27 Z/orRfHn
>>66さんへ

>>67さんは一応「サンクス!」と答えているが、レス自体は消化不良っぽい気がする。僕もなんか、もうちょい解説が欲しいな。

出典とか出して、「その後」も含めて詳細をレスして頂ければ幸いです。

その後の佐竹氏。
その後の宇都宮氏(一族含む)

また、その時の秀吉、家康、三成、長吉等々。

あるいは、景勝や秀行。


72:(´ω`)
08/06/05 11:24:27 1bFy986Z
あんた、てどお氏だね(゚д゚)9m
それは兎も角、この「宇都宮氏改易事件は芳賀高武の私闘のせいだった説」は実証できない。
つまりオイラの推測に過ぎないのだ。というのもそれに関する史料がなく、
よく探せば見つかるのかもしれないけど(あれば実証されてるので多分無いんだろう)、
オイラもめんどくさいのでそこまではしたくないからなのだ。
じゃあ何でそう思ったのか、ということを説明する。

まず宇都宮氏改易の原因とされるものには概ね次のようなものがある。
1.初めの検地で18万石だったにも関わらず、あとの太閤検地で39万石も出てきたので、
石高を詐称していると指摘されたため。
2.浅野長重が養子に入ることを断ったため。
3.(2)をしたために長重の不興を買い、(1)であると讒言されたため。

まず(1)だが、これは有り得ない。これは他のスレでもオイラが何度も言っていることだけど、
初めの検地は差出検地なので国人や家臣からの申告から導き出された数字であり、
過小に申告されるのは当り前だからだ。秀吉が検地をしたのは関東が初めてじゃない。
長浜時代からきちんと官僚たちが実測した検地を行っていて、実測の太閤検地を行えば
必ず差出のときより大きな数字が出てくるのは分かり過ぎるほど分かりきっていた事なのだ。
秀吉は以前高野山金剛峯寺を検地したことがあって、その時には差出から実測の検地で
17倍もの違いが出てきた。しかし金剛峯寺は刀狩を厳命されただけだった。
従って、たかだか18万→39万で2.2倍ほどの宇都宮が、それが原因で改易されるならば、
「公儀豊臣」が成り立たず、(3)も含めるならば、全くの私怨で裁定されたことになる。
もちろんそういうことがあったかもしれないことを否定するわけじゃないが、
オイラとしてはそう考えることはあまりにも馬鹿馬鹿しいので(だって私怨で公儀が
捻じ曲げられることがあるというなら、もはや法令なんて必要ないし、何でもありじゃないか)、
この説は消さざるを得ないのだ。当然(3)も無くなる。
また太閤検地は文禄四年(1595)であり、宇都宮改易は慶長二年(1597)。
なんで石高詐称が発覚してから改易まで二年も要するのかも説明できない。

(2)は所謂謀略説で、その後浅野長重は(3)を行ったとされる。
(3)は上記のことから無いので(2)だけ見る。
実は宇都宮国綱は長重が養子に入ることを一度了承している。
しかしこのことは宇都宮の家宰にあたる芳賀高武を通さず、国綱が北条何某と今泉高光の
間で決めたことであり、その為に高武は激怒して、養子の件を破棄することを石田三成に
告げて、北条を京都の四条河原で斬首、次いで国許に逃げた今泉を追って下野に帰り、
慶長二年(1597)五月頃に今泉の居城上三川城を攻め高光を自刃させた。
以上のことはぶっちゃけ史料を見たわけじゃなく、ネット上から拾った情報だが、
別に否定する根拠も無いので実際にあったことなんだろう。多分上三川町市あたりでも
見ればそれなりの史料付きで載っていることだと思われる。
さてこれが事実だとすると、仮に(2)が有り得たとしても、それ以前の問題となってしまう。


73:(´ω`)
08/06/05 11:27:43 1bFy986Z
>>67氏によれば惣無事令(関東奥羽も含めて)の目的はそれ以前に達成された
ということだが、惣無事(私闘禁止)というのは常に維持されるべきものだ。
では小田原征伐、奥州仕置以降は私闘をしてもいいのかという風には当然ならない。
即ちそれ以降も当然ながら惣無事であって、態々別の法令を以って惣無事令に変える
必要も無いので、常に惣無事は生きていると見るのが自然。
結果的に秀吉の死を以って、事実上惣無事令は棚上げされるけど(家康も三成もどちらも
「公儀豊臣」を掲げたに違いないので、関が原ではどっちも私闘ではないと言い張った)。

この宇都宮改易について佐竹義宣は父の義重に書状を送っている。
「宇都宮殿御不奉公有之に付而」と改易の理由を詳しくは語っていないが、
「就之我等身上などへも上様より仰出之儀も御座候」と佐竹にも秀吉から
何らかの咎があるのではないかと言われたというようなことが書かれている。
しかし三成に執り成してもらって「身上相続候て満足仕候」となった。
だが「猶々宇都宮欠所に付而、宮之荷物一駄も我等分国中江相透申候はば、
可為曲事由」「宮之荷物一たんもとをし不申様に可被仰付候事肝要に候、
境目江は涯分申付候」ともあり、必ずしも佐竹が潔白であるとは
認識されていない様にもとれる。
仮に(2)が原因だとしたら、佐竹が上記の書状のようなことを言われることは
無いはずだ。浅野長重養子のことは純粋に宇都宮家中のことであって、佐竹には
何の関り合いも無い(もし佐竹に関りがあるとすれば、秀吉は佐竹にも長重のことを
宇都宮に取り成すように連絡した場合だけだ。無論そんな事実は今のところ無い)。
しかし芳賀高武の惣無事令違反ならそうはいかない。
芳賀高武は佐竹義宣の従兄弟であって、義重の甥にも当たる。
当然国綱も同然で、佐竹にも親族としての多少の監督責任が発生すると
見られても不思議ではない。つまり「汎佐竹親族」間の徹底した一族管理体制が
成されていないと見られたということだ(逆に言えば、秀吉は佐竹にまで疑念を向けることに
よってこれ以後同様な事件を佐竹家中では絶対に起こさないようにと釘をさしたとも取れる)。

以上ということです。
オイラから見れば、(1)(2)(3)のどれよりも、芳賀高武が馬鹿な行動を
咎められて改易に至ったというほうが、シンプルで、判りやすく、不明な点も一切無いので、
そう考えるわけです。態々別の説を立てて浅野の陰謀だの何だのという必要もないし。
問題は史料から実証できないということだけで(´ω`)
まあ結局は信じるか信じないかという話になってしまうわけだけど。


74:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/05 12:35:42 4cxEvzrF
佐竹は宇都宮や結城みたいにならなくて良かったね。

75:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/07 08:15:03 lpyFVPg+
宇都宮家中の内紛を惣無事令違反と見るか、国綱の家政不行き届きと見るか…。

惣無事令違反は大名同士の私戦を禁じた法令…で、大名家家中の内紛(闘争)での適用は大袈裟過ぎと思われるのですが…。



76:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/07 08:57:32 e5eIM/9i
>>75
恣意的な運用や適用はよくあること。

77:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/07 09:40:16 1eEjkjqJ
>>76
恣意的…誰のですか?

親佐竹の宇都宮家改易は、対徳川包囲網を綻ばせ…親徳川の蒲生(減転封されたとはいえ)を宇都宮に封じた点では失策と思われ。

蒲生の後釜に上杉を会津に転封して奥羽の鎮将として伊達・最上~徳川ラインを断つ…としても、飛び地だらけの上杉は仮想敵国が多すぎた。
これも失策ではないか…と思われ。

この為、後の上杉征伐で宇都宮や小山が一時本営となり義宣が身動き取れなくなった。



78:人間七七四年
08/06/22 22:41:32 /21BosXo
事前に電話予約で先着50人、受講料1000円です
日程はこんな感じ
第1回:平成20年5月17日(土)10:00~11:30 文禄の役と佐竹義宣①
第2回:平成20年6月28日(土)10:00~11:30 文禄の役と佐竹義宣②
第3回:平成20年7月19日(土)10:00~11:30 佐竹義宣肖像画の謎

↓連絡先などはこちらまで
URLリンク(www.iju-join.jp)

こういうイベントを増やしていって
少しずつ太田辺りでも佐竹家が見直されるようになってくるといいね

79:人間七七四年
08/06/25 03:01:20 TGbwMteD
義宣は西軍に通じてたせいで秋田に飛ばされた訳だけど
結果的には良かったのかもしれないな
関東や近畿の大大名なんて、殆ど徳川三代で改易の憂目に遭ってるし
東軍について常陸を安堵されても結局潰されたと思う
明治の世で侯爵にまで出世する佐竹家はなかっただろう

80:人間七七四年
08/06/25 03:06:00 TGbwMteD
あ、佐竹氏全体の事の話題は別スレがあるのか
移動します

81:人間七七四年
08/06/25 08:54:04 EcYDasun
佐竹高校

82:人間七七四年
08/06/25 22:19:02 DA80aQ8z
佐竹って来年大河に出るの

83:人間七七四年
08/06/25 22:45:42 oJYz2dPd
漫画に出てきた軍師の人は実話?

84:人間七七四年
08/06/26 09:22:29 neEM2lKd
大河には出るでしょう

上杉・佐竹は長年の盟友 義宣は景勝大好きのはずですが

85:人間七七四年
08/06/26 09:42:11 jtxhdd1/
大好きってなんじゃい。
江戸に近い常陸に54万石持つ佐竹は、徳川にとって脅威だったと言われることがあるが、
北条政権を事実上継承した徳川は、むしろより佐竹にとって脅威じゃい。
関が原以後の転封は徳川視点で見られることがあるが、
純粋に佐竹の視点から見れば、徳川の存在は北条よりもでかかったんじゃい。
豊臣による天下の元で戦場は封鎖されていたから、秀吉生存前は大して問題ではなかったが、
秀吉が死んだあと、上杉佐竹vs徳川という抗争が始まったのは、
小田原討伐以前の状況の再現じゃい。
徳川が佐竹を関東から追い出して、関八州支配するのは全く当然のことで、
佐竹が上杉と徳川に対抗したのも歴史的に当然のことなんじゃい。

86:人間七七四年
08/06/26 11:49:51 TCsQ7LZb
よく分からない??

だから 佐竹と上杉はいい関係なんでしょ?
だから 大河出るかって?って書き込みに、出るって書いただけだけど?

大好きが気に入らなかった?
小説では 義宣が景勝に兄事してたって感じで書いてあったから書いただけですよ。

87:人間七七四年
08/06/26 14:29:02 YQyzfRRG
佐竹も関東にいる限りは危険視されてどうせ大減封や遠国飛ばしは間違いないんだから
野心をもって戦ってから減封&遠国飛ばしされれば良かったものを

戦わずして飛ばされた情けなさだから歴史的にはマイナーキャラクターになっちまった。
俺は佐竹好きなんで残念で仕方がない。
PHPの佐竹義宣なんて「退却中の内府に佐竹得意の追い討ちをかけてやる!」なんてカッコいい事を書いてあったから思わず買っちまったしw
関ヶ原から少し経った辺りで、「島津も交渉長引いてるがやはり交渉は粘りだな」
と常陸一国安堵になりそうだと楽観してる義宣がなかなかお坊ちゃんで微笑ましいが。

88:人間七七四年
08/06/26 18:58:30 kum8VI4i
>>83
漫画…ってのは『雪の峠』のこと?
梶原政景なら実在した人物だよ。

89:人間七七四年
08/06/28 00:49:13 mPx/cdTj
巨人の星の人ですね。わかります。

90:人間七七四年
08/06/30 01:39:56 YSxdx837
>>79
マルチ!

西軍に通じた?
西軍に通じたと見なされた…か、上杉に通じた…の方が、まあ妥当だろう。

事実上は中立で、心は上杉にあり…家名存続の為、徳川に使者を送った。

その後東義久に軍勢を持たせ秀忠のもとへ送った事実を考慮すれば、積極的で無いにしろ徳川方(東軍)とも言えるだろう。



91:人間七七四年
08/06/30 01:49:04 4bs2tGh6
>>89
きゃつはチョン。>>88の言う梶原とは別人じゃ!

家康自身はいつから「吾妻鏡」読み始めたのだろうか?
秀吉に「関東はぬしにやる」とか言われてからだろうか?
小田原北条氏とは懇意にしていた家康としては、京都の魅力もさることながら、関東への憧憬もあったのでは?
秀吉が京を取るなら、こっちは関東でかまわぬ、むしろ頼朝・後北条氏がそうであったように、自分は関東で覇を唱える所存だったのでは。

で、吾妻鏡で佐竹氏の記述があったのを見かける。
源平期には、平家方として頼朝陣営の脅威であった佐竹氏。
佐竹の存在ゆえ、頼朝は京へ上洛するのを躊躇ったとまで書かれている。
家康が関東を一手に握るには、佐竹の存在は目の上のこぶ。

92:人間七七四年
08/07/08 21:03:13 DLIGlDtO
>87
結果論だよな
あからさまに敵対して負けたら滅亡って普通は考えるじゃん?

家康と上杉にハシゴ外されたからお手上げだろ


93:人間七七四年
08/07/13 14:38:33 0sgNW4Qu
仮に飛ばされなかったとしたら・・・。

家光の時代には源氏正当性論争が起き、後年の由比正雪が正統源氏として佐竹を反徳川の看板にしていたのでは?と妄想。


94:人間七七四年
08/07/13 17:52:46 npzfTWrl
>>93
佐竹にとってのハッピーエンドがまったく思いつかないのはなぜだ?

95:人間七七四年
08/07/13 18:38:43 tN0b/nUr
佐竹がハッピーエンドを迎えるには関東に政権がない事が条件だな
清盛、尊氏、秀吉ら西国政権の時は隆盛した
頼朝、家康ら東国政権の時は駆逐された
なにも難しい事はない
それだけの話しだ

96:人間七七四年
08/07/16 23:34:00 WBu+79vV
義宣の肖像画を見て気になった事なんですが、どう見ても左足が無いように思える。
右の草摺と比べて、左の草摺は明らかに太腿を考慮しておらず、威した糸も鋭角に落ちている。
鎧櫃の上で足を折っているなら、当然草摺の隙間から見えるべき左の脛当が無い。
また、左の袴は鎧櫃の角で明確にたわんでおり、袴の中に何も無い事が見受けられる。

佐竹義宣が左足を欠損したという記録は無く、また伊達政宗の彫像などの例を考えると、
こういう見え方のする肖像画を欠損の事実無しに残す事も考え難い。
この肖像画って、本当に義宣を描いた物なんでしょうか?

97:人間七七四年
08/07/17 01:06:49 A0RljBHt
顔も見えないし誰とでも言えそうな肖像画だ

98:人間七七四年
08/07/17 14:10:01 3ANe3cT4
学者には、全武将の肖像画を、一度は洗いなおす事を考えて欲しいわ。マジで。

99:人間七七四年
08/07/17 21:35:46 3O3oHsdZ
確かによくみてみると片足だな
義宣と判断できる要素もよくわからない
兜が義宣の物と伝わるものに似てるような気はするけど

そういや太田市梅津会館でやってる今週土曜の佐竹義宣講座
第三回はちょうど
「佐竹義宣肖像画の謎」
だな
誰かネラーの参加者いないかな

100:人間七七四年
08/07/18 02:20:36 DCjj+2Vf
疑問があるなら何故自分できちんと調べようとしないのか。
最も知られている天徳寺蔵佐竹義宣像は佐竹義宣本人。
少なくとも佐竹家の人間であることは間違いない。そうじゃないという理由は何も無い。

義宣は梅毒に感染していたので、顔には相応に崩れていたと思われる。
よって顔をあえて肖像画には出さなかった可能性もある。
肖像画では左足は台の上に胡座をかくような形で乗せられており、
足の先が正面の草摺からちょこっと飛び出しているが、
大きさ的に微妙なのは、梅毒によって左足が収縮などしていたのかもしれない。
身につけている具足も間違いなく義宣のもので、
その二枚胴は現在八幡秋田神社が所有している。

義宣蔵には他にちゃんと顔の出ているやつもあって、
そこで着ている人皮仏胴の具足も義宣所蔵のもの。
ちなみに兜のフサフサは毛虫を表していて、ケムシ→ゲムジ→ゲンジ→源氏のシャレ。

101:人間七七四年
08/07/18 08:23:31 OTdWP8fS
伊達成実も毛虫前立だな
百足と同じで縁起物だったのだろう
水戸の県立歴史館にも義宣の毛虫前立兜のレプリカあったな
毛虫というか動物の尻尾みたいだけど
ふさふさしてて触ると気持ち良さそう

102:人間七七四年
08/07/18 08:33:07 7HIyeqfE
熊の毛なんだよ

103:人間七七四年
08/07/18 10:14:34 /c06/8yS
資料をあたるのにも知識が必要だべ。
梅毒が体の崩れるレベルまで進行しているとするなら、晩年に描かれた物という事になるな。
どう考えても不名誉な姿だから、後の代への戒めとしたのかねぇ。

104:人間七七四年
08/07/18 20:20:39 OTdWP8fS
肖像画は別に変じゃないと思うけど…
肘の下辺りに膝が来てると見れば足も普通だし
甲冑姿で鎧櫃に腰掛けて戦国時代の勇姿を画いてるわけじゃん
勘繰り過ぎだよw

105:人間七七四年
08/07/19 01:56:26 f4V7XwXV
>>104
人間の体は、股を開いた時に爪先が表を向かないような構造にはなって無い。

106:人間七七四年
08/07/19 09:06:51 cSQXqiw5
>>105
爪先なんて見えてないじゃん
絵のバランスが悪いからわかりにくいけど三枚の草摺りは正面に付いている
右側に見えているのが本来左足の前にある草摺り
その横から膝が出てるのが見えるよね
左足首は股間の前に付いてる草摺りから右足の下に入っている

107:人間七七四年
08/07/19 18:53:46 f4V7XwXV
>>106
爪先がケツの下にあるなら、
鎧櫃のカドに引っかかっている袴が何処の物なのか分からんと言ってる。
脛当があるなら、ああいうたわんだ形にはならないだろ?

108:107
08/07/19 19:01:32 f4V7XwXV
追記。私自身はあの絵が下手糞だったりバランスが悪いとは思わない。

109:人間七七四年
08/07/19 19:06:52 osXG3r8X
上手い下手というか、昔の肖像画なんてそんなもんじゃね?

絵画の技法とか分からんけど、当時の肖像がなんて現代から見ればどれもいわいる
写実的な「そっくり」さを追求するタイプじゃないもんばっかりなわけだし。
ぶっちゃけ足がどうこうとか絵を見て判断するより、来歴とかそっち調べた方がよくね?

110:人間七七四年
08/07/19 19:12:10 f4V7XwXV
>>109
つまり>>100の手法がもっとも究明に近い、と。了解。

111:人間七七四年
08/07/21 16:10:01 s6k1AfU0
甲冑着てるんだから戦国時代~大坂の陣の頃をモデルにしてるわけで
どっちにしろ梅毒が進行する前って事だ
あの甲冑をいつ頃愛用してたかが分かれば年代も分かって来るんじゃないか?

112:人間七七四年
08/07/23 13:38:12 Jk9gUTPp
義宣の毛虫前立兜と肖像画の兜はかなりデザインが違うと思うんだけど

113:人間七七四年
08/07/23 20:55:50 DCHnco7k
茨城時代の老臣を皆殺しにしたのはガチなのか。首都移転に反対しただけで。

114:人間七七四年
08/07/24 09:48:40 ahiEuqvG
土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。
つまり二頭体制になってしまうわけだ。
例えば武田で、晴信が信虎を追放したり、信玄が義信を廃嫡したりしたのは、
この二頭体制の克服を目指したものなんだわ。
佐竹は武田ほど激情型ではなかったので、やんわりと家督交代が行われてきたが、
それでも最終的には義宣が義重の家臣をブチ殺すことで、
ある意味「義重の息の根」を止めたということ。
実は義宣vs義重の戦いだったということだぬ。

義重時代も義重の近臣筆頭の車斯忠と、死んだ義昭の近臣筆頭の和田昭為が争って、
結局義重は和田昭為を追放してる。
あとはやっぱり豊臣を見ていて、三成派と清正正則派で争ったのとかを見て、
二の舞にはならないように先手を打ったんだろうな。

115:人間七七四年
08/08/26 04:34:26 kCE+VJYu
大事にそだてた渋江を討ち取った木村重成の子を匿っているんだから
新入りの身からすれば良い上司だったんだろう>義宣

秋田で酒造やってた筈>木村重成子孫

116:人間七七四年
08/08/26 15:30:49 S6RnseWT
>>114
> 土崎湊に築城建設に反対したっつーか、佐竹にとって家臣団統制は鬼門だったんだわ。
> 北条とかと違って家に家人がいるんじゃなくて、
> 佐竹は「義重の近臣」と「義宣の近臣」という風に人に家人がついていた。
> 例えば「義重は隠居したあとも実権をふるった」とよく言われるが、
> そうじゃなくて、人に家人がつくために、例え隠居したとしても
> 自分の家人に対しては自分で政務を行わなくてはならない。

島津義久・義弘・忠恒の「三殿体制」も有名だし、小倉時代の細川忠興・忠利の二頭政治も山本博文氏の本で知られるようになった。
島津家の例は極端だしあまり例がない話だが、この時期の隠居と当主と両方いる家には大なれ小なれ似たようなことがあったのではなかろ
うか。

117:人間七七四年
08/08/31 19:31:15 p6oClXL4
父親の義重は、先祖の新羅三郎義光が活躍した場所だからといって、秋田行きを喜んでいた。そして義光の住んでいた横手に本拠地を置こうとしたのに義宣が勝手に秋田市を作ってしまった。


118:人間七七四年
08/09/04 00:06:55 r5tyamP9
>>117
勝手というより、「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?
常陸太田は内陸だけど、海からはそう遠くない。
横手は川沿いとはいえかなり奥地。

119:人間七七四年
08/09/04 00:12:07 bCLh6/w4
義重の時点で鉄砲を大量に輸入してたり、商業センスもないと確保できないだろう
もう引退してたから政治どうでもよくて無責任に好きなこと発言してただけじゃね?
別に本気で言った訳じゃなくて、息子の方も本気とは受け取ってないんじゃない?

120:人間七七四年
08/09/04 01:03:32 /fMpKgL9
改易となった本多正純を預かった義宣の心中や如何に。
関ヶ原の戦後処理のこととか、色々あったろうに。

121:人間七七四年
08/09/04 09:43:30 uzb3kVgL
>>118「海運」の重要性を知りつつあったんじゃまいか?

うーむ、そうだろう。
常陸太田は内陸だけど、のちに本拠とした水戸城は、川や湖に囲まれていて、
本丸直下まで舟で行けた。江戸城や大阪城も同様なのだから、秋田の新城も
「海運」を重要しただろう。
ただし、水戸の水運は、那珂湊まで容易に行き来できるが、
鹿島灘方面の波が荒く、川舟に米俵を積んだまま海に出られなかった。


122:人間七七四年
08/09/04 09:48:51 uzb3kVgL
だから、米俵を積んだ川舟は、那珂川を下ってくると、水戸に着くが、
江戸に運ぶとなると、鹿嶋や九十九里浜の波が高いため、
水戸から涸沼にいったん運ぶ。ここで陸揚げして馬で北浦まで運ぶ。
北浦からまた舟に乗せて、利根川に入り、さかのぼって江戸川に入り、
江戸に運んだ。こうすれば川舟のままで運べる。

123:人間七七四年
08/09/04 11:48:14 bCLh6/w4
そこまでするなら陸運でおkだろ
東海道があるし


かの北畠親房も挫折した水戸の海よ

124:人間七七四年
08/09/05 12:31:17 GFGLI/tT
>>123
江戸時代までは、大量輸送と言えば舟。遭難のリスクはあるが、同じ量を運ぶ場合のコストは低かった。

125:人間七七四年
08/09/05 21:38:51 Wq8sc6ru
仙台藩の米は、これはやや大型の舟を使ったので、
鹿島灘や九十九里浜を一気に超えて、房総半島の先端を通過したが、
東京湾(江戸湾?)に入るのは、風向きの都合でやや難しかったようで、
南風が吹くまで湾口の港で待ったらしい。

佐竹のいる秋田から、江戸へ舟を回航するのはほとんど無理か。
むしろ、大阪に物資を舟で輸送した方が容易だったろう。
常陸育ちには、海運はほとんど無理。

126:人間七七四年
08/09/06 16:56:15 GT9K5/vW
>>122
おいおい
利根川の東遷は江戸時代だろ
江戸初期までの利根川は江戸(東京)湾に流れていたのだから、佐竹の常陸時代には無理

127:人間七七四年
08/09/25 14:57:18 m+PHuKRZ
来年の大河で、やっぱり佐竹は無視?

128:人間七七四年
08/10/01 23:58:00 cxf9AN2K
いやでるよ。しかも、車某もね!

129:人間七七四年
08/10/02 16:37:15 16MwD7Ca
ケムシっていうのは、
前にしか進まない生き物=決して後ろに引かない
という意味を込めて、前立に使われてるんだけど。

ひょっとしてこのスレの住人、
あのケムシ兜の意味知らない人の方が多いのか。


130:人間七七四年
08/10/03 19:55:41 zzTvaz/n
>>129
当たり前すぎて誰も書かないんだろw

131:人間七七四年
08/10/14 05:46:05 ChlxBYbR
>>128
まじ!?
配役は決まったのかな?

大河は謙信の頃から描くようだから、義昭は無理っぽいが義重・義宣辺りは端役で出てくるのかな?
車丹波もかぁ…
義宣より丹波の方が出番多かったりして…orz

132:人間七七四年
08/10/29 23:11:28 2o/Z2UHB
まあ、佐渡仕置きの頃では、葦名盛隆-義廣もちらっとでるかね?

133:人間七七四年
08/10/30 10:14:07 bMKTif/w
義宣がカッコよく頬宛てしたまま登場しないかな。
肖像画で顔を隠してるのは病かなにかで顔があれなんだっけか?

134:人間七七四年
08/10/30 12:17:52 2ZeuMpZY
甲冑姿だから頬あてしてるだけでしょ
隠すくらいなら若い頃の姿にすればいいし
と言うか恐らく若い頃をモデルにしたんじゃないかと思う
甲冑を纏い粗末な鎧櫃に腰掛ける姿はいかにも戦国武将という感じだ
品のいい江戸大名より戦国を生きた荒武者的な表現をしたかったのだろう
義宣も戦国時代を駆けた最後の世代だし、そういう自負を多分に持っていたと思う

135:人間七七四年
08/10/30 13:25:57 bMKTif/w
独眼竜では赤地に白扇の佐竹の旗しか映らなかったからなぁ。
せめて東義久が登場して「親方さま!ついに佐竹の地は安堵されましたぞ!」→腹黒松方家康が食事に毒まぜていて義久急死→佐竹減転封→松方家康が悪魔の笑み
みたいな流れだと非常に楽しめるんだがw


136:人間七七四年
08/10/30 15:06:59 2ZeuMpZY
その流れは上杉とは関係ないから無理でしょ
大河で佐竹義宣でもやらん限りは…

137:人間七七四年
08/11/03 23:42:03 lacoL/Ng
天地人をよむしかないか?

138:人間七七四年
08/11/04 01:09:00 kThazXkf
「天地人」は駄作だから、図書館で借りて読むのをおすすめします。


139:人間七七四年
08/11/06 23:58:21 W7eckBvl
>>138
そうかい。上下化粧本買おうとしたよ。
単行本でるまでまつか。


140:人間七七四年
08/11/10 16:08:35 TmcdmreV
>>139
文庫本は今月出るはず
天の巻・地の巻・人の巻だったような

大河関連本も今月色々出るよ


141:佐竹敬久
08/11/10 23:09:20 m72d1yr+
 全国市長会長の佐竹敬久秋田市長は10日、秋田市役所で会見し、政府の追加経済対策の定額給付金
に所得制限を設けることについて「とても耐えられない。市町村での実務に混乱が起きる」と述べ、
難色を示した。
URLリンク(www.47news.jp)

142:139
08/11/14 00:40:27 pxdli/3+
>>140
ありがとう

143:人間七七四年
08/11/22 04:02:49 zbn7ZAWC
>>142
ごめんなさい。文庫本じゃなかった…「新装版」でした。文庫本よりちょっと大きい…。
内容もハードカバー版より微妙に追加や削除がなされているようです。

そういえば新人物往来社の「常陸・秋田 佐竹一族」も、新装版が出てた。
絶版だったから買ってみたが誤植が多かった(名前間違いとか)…orz
こちらもおすすめ出来ないかな。「新装版」に釣られたよ。間違い探しするなら別だけど(笑)


144:人間七七四年
08/11/28 17:30:04 NqFbTbMr
義宣公の武勇伝てなんかあったっけ?
家臣と33館の暗殺は武勇伝とも違うし


145:人間七七四年
08/11/30 03:22:12 ebuo82pg
>>144
三成救出!

146:人間七七四年
08/11/30 11:35:55 4zu4ki7c
出ないでほしい、好きだけど

147:仙台藩百姓
08/11/30 13:38:31 PWR4HyU1
義宣て軍記物なんか見ると岡見氏とか小田系の勢力に負けまくってるおね( ^ω^)
大坂の陣でもボコボコにやられてるし思いのほか戦下手だお( ^ω^)

148:人間七七四年
08/11/30 17:04:04 E7rn5gQ5
来年の大河は大坂の陣までやるらしいから義宣は確実に出るだろ。
引き立て役で。

149:人間七七四年
08/12/01 08:37:00 1hDo/2vR
佐竹が大ピンチなところを命がけで救出するので、恥ずかしい思いをするだけです

150:人間七七四年
08/12/02 04:28:00 aWlZZa9O
>>149
寿命が尽きそうなのに参陣した伊達三河守はまたイッセー尾形がいいな。

151:人間七七四年
08/12/03 13:14:46 tVknFmVl
三成、上杉以外に他の大名との友誼はあったのかな?
政宗とは仲悪いんだろうけど

152:人間七七四年
08/12/03 22:48:05 CYAcAL6F
彼は茶の名人で文化人!

153:人間七七四年
08/12/04 02:10:26 LwJkJRrp
>>151
【陸奥】相馬氏を語る【下総】
スレリンク(sengoku板)

154:人間七七四年
08/12/11 02:04:17 VnsYxMrk
>>151
古田織部

155:人間七七四年
08/12/18 05:13:28 nYUY6Rrh
>>147
公儀からの軍勢催促が少なかった為苦戦したんだ
一万位の軍勢は出そう思えば出せたろう
二、三千の寡兵で善戦したんだ(上杉の助けもあり)

軍功の為なら前方の味方を攻撃する様な卑怯な振る舞いをした奴も居るのにな


156:人間七七四年
08/12/21 06:10:05 FBK9tDHN
[

157:人間七七四年
08/12/28 15:49:27 jJ5Thf/q
>>154
へうげものに義宣も出てくるかと思ったらぜんぜん出なくて絶望した。

158:人間七七四年
09/01/04 12:47:38 X2NEw6Nh
>>157
土居輝雄でも読んでろw

159:人間七七四年
09/01/25 11:41:08 NingtQUk
NHK大河ドラマ「天地人」義宣スルーage

160:人間七七四年
09/01/28 22:32:20 UenYpsiL
佐竹秋田市長が出馬へ 4月の知事選
URLリンク(www.sakigake.jp)

161:人間七七四年
09/02/20 11:26:22 7UYxD/Ev
義宣以降の秋田佐竹家では茶道はすたれたのだろうか?

162:人間七七四年
09/02/22 09:41:38 six4+oC1
御父上の次郎殿は山内殿からの籠城を続ける関宿の救援要請を受けながら、わざと到着を遅らせて
むざむざ北条に明け渡す失態を演じられましたな。山内殿は越山してまでしてきた関東でのこの仕打ちに
情けなく思っておられましたぞ!

163:仙台藩百姓
09/02/22 10:24:21 YGcgC2GZ
佐竹なんて弱小大名の力を頼りにしないと城一つ防衛できない関東管領の方が情けないお( ^ω^)プッ
越相同盟で関東衆にそっぽを向かれて以来
上野周辺でちょろちょろするのが精一杯で何もできなかったおね
いかに謙信の実態が無力であったかよく分かるお( ^ω^)

164:人間七七四年
09/02/22 10:30:27 kfRrW2o+
たしかに関宿喪失は佐竹の戦略眼の無さを表しているな。
あそこで上杉と共同して北条を撃退してたら、北条の下総下野上野戦線はかなりの停滞を余儀なくされていたろう。
南奥戦線も被官化できなかった為に、彼らの士気は低く、田村攻略戦での攻城戦は停滞ばかり。
そもそも佐竹は攻城戦が下手なのだろうか。
野戦に関しては金山採掘を背景に鉄砲3000丁で川や湿地帯を前に対陣して戦線維持が基本のようだが。


165:仙台藩百姓
09/02/22 11:10:57 YGcgC2GZ
要するに謙信は自力では何もできなかったと言うわけですおね( ^ω^)
里見、佐竹、結城といった連中の占める力の方が大きかったと
さすが口だけ番長だお( ^ω^)ピ

166:人間七七四年
09/02/22 16:07:50 C/6SlDGN
書状なんか見ると次郎さん自体は馳走する気満々だったみたいだが、
御家来衆の中に山内殿さんへの不信感があって馳走に反対したみたいですね。

167:人間七七四年
09/02/22 16:21:01 C/6SlDGN
裏を返せば次郎さんは佐竹家臣団の傀儡だったということも
言えますな。山内殿さんが関東での信用が薄かったのも
結果的に簗田持助さんが割りを食った要因なわけでしょうね。

168:人間七七四年
09/02/22 20:34:25 uPQGB7Se
困るほどの律儀者は酒宴に呼び寄せた豪族達を皆殺しにしたりしません

169:人間七七四年
09/02/23 11:57:07 sLF+Nhoz
んなこと言ったら黒田如水が宇都宮一族を惨殺したのだって…豊臣政権下では任地の統治に失敗したら改易になりかねんから仕方がない。
君主権の確立と中央集権化とはそういうこと。幕府下で大規模なお家騒動が起きなかったのも
この時の処置のおかげでもあるんでないかな?

170:人間七七四年
09/02/23 12:04:35 +mWgVJTC
だからそんな大層な律儀者ではないと>>168は言いたいんじゃないの

171:人間七七四年
09/02/23 15:52:11 xY9QO6ze
律儀者だからこそ
国人が集団で佐竹の城に来たのだろう
よもや謀殺されるとは誰一人思ってなかったに違いない

172:人間七七四年
09/02/23 16:38:16 viRpOw6u
宇喜多直家「そう通り、律義者だからこそ来るんだよな」

173:人間七七四年
09/02/26 09:00:24 B6uYIfer
最上義光「みんな呼んだら馬鹿みたいにノコノコ出向いて来るよ。出羽人は人がよい単純な人たちばかりだからのぅフフフ…」

174:人間七七四年
09/02/26 09:36:10 4mxkm8vg
最上の義光ちゃんの事だよな>人がよい単純な人

175:人間七七四年
09/02/27 00:32:59 dvz4/ZwA
あと藤堂高虎とかも旧主の子孫の面倒をよく見るいい人

176:人間七七四年
09/02/27 03:40:07 LCpbRAyf
最上ちゃんは別に人良くないだろ…

177:人間七七四年
09/02/27 18:56:08 nbmecHJM
>>176
妹の長男(甥)よりは…

178:人間七七四年
09/03/01 10:33:57 TpSRsVL1
最上やんは>>173のイメージではないな(仮病で呼んで暗殺って白鳥の1回だけだし)
謀略仕掛けるときは手紙攻撃だ
あとは寝返った武将に「旧主は殺さないで」ってお願いされて守ったり
家康に所領問題で味方して貰って以来、ずっと味方してて義理堅い人

179:人間七七四年
09/03/01 19:12:07 rB2JlcXJ
湯沢城主や義康も呼び出して暗殺したろ!

180:人間七七四年
09/03/02 00:44:20 gRUNj/UW
息子の暗殺は講談だろ

181:人間七七四年
09/03/02 09:09:02 3EBLoE+r
湯沢城も義光は偽書を使って敵同士で暗殺させたんだが


最上さんの家臣って降将ばっかで
降った人間には手をかけないしいい人はいい人よ
税も軽かったみたいだし


定めたターゲットには容赦ないが

182:人間七七四年
09/03/03 14:16:09 qQWwg61O
は?なにデタラメ言ってんの。
仙北一揆のどさくさに紛れて、湯沢城主を呼び出して義光自ら暗殺してるからウソついてんじゃねーよ。
義康暗殺だって義光が山形城へ呼び寄せてから高野山へ行かせた道中に暗殺してんだろが。
こんなクーデターまがいのことを家臣が勝手にやれるとでも?
家康に人質に出した次男を跡目に据える為に義康暗殺したのは明白。

183:人間七七四年
09/03/03 17:19:58 YSr3Ed6N
湯沢城を攻めたときの最上って
まずは楯岡の名前で湯沢城代の八柏に嘘の寝返りの予定の手紙を書いて、わざと小野寺側に手にはいるようにしむけ
義道は八柏を斬る
んで鮭延が書状で西馬音、山田、柳田、松岡、深掘の五将を最上側に引き入れ
由利や延沢らと三方から押し寄せて湯沢城は火付けられて散々に燃えた

あとは関ヶ原後にも仙北一揆があったけど
これは六郷の方で佐竹側が処理しているが

184:人間七七四年
09/03/03 17:37:49 TDHn/raj
>>183
それお前軍記だろw
偽書なんて本気で通用すると思ってんの?
毛利元就が偽書で新宮党w晴久に滅亡させた話も講談レベルのネタだし。
秀吉の奥州征伐後に起きた仙北一揆の時の湯沢城代は三春日向だから。

185:人間七七四年
09/03/03 22:00:31 YSr3Ed6N
それは何に出てくる記述?

186:人間七七四年
09/03/03 22:59:39 GRKS4253
軍記と軍記物では資料価値が違うんだけどわかってなさそうだ
信長公記と太閤記の違いが

187:人間七七四年
09/03/04 01:24:10 KVbDwnhr
そもそも信長公記は軍記ではない。

188:人間七七四年
09/03/04 22:13:44 XnuSyJVY
ジャンルとしては軍記だって

189:人間七七四年
09/03/05 01:09:30 GjQEsFYc
ジャンルとしてはライトノベルも純文学も同じ小説だしな

190:人間七七四年
09/03/05 07:42:11 mA8gngQ6
>>183
そもそも仙北一揆の鎮圧で小野寺側の湯沢城をそんな大規模かつ派手に攻めたら、
奉行の大谷も上杉側と一緒に来てるんだから言い逃れできずに秀吉の怒りを買いまくり改易だろ。
なんの本を見て書いてるんだよお前は…政宗だって手紙で様子を探ろうとするなど仙北一揆に興味津々だったし甥にチクられるぞ(たしか解釈によっては仙北一揆に政宗が関与してるようにも見える怪しい書状なんだよな)

191:人間七七四年
09/03/06 00:16:05 NrBaTXXF
何のホンって奥羽永慶軍記よ。東北は殆ど史料になるようなものないから
小野寺はそのあと秀吉にちゃんと訴えたって書いてありましたよ

そっちこそ何に書いてあるのさ、その三春日向を謀殺した話
後学の為に教えて欲しい

192:人間七七四年
09/03/06 16:14:23 wdDcDnb+
>>191
お前は書状とか知らんのか?
色部文書における小野寺氏横手宿老中書状とかの内容すら知らないみたいだな。
それでは神戸小野寺氏文書の内容や藩主亀井コレ政宛言上状も読んだことないね?
ちなみに研究者は三春日向を三春弥三郎のことなのではないかとしている。


193:人間七七四年
09/03/06 16:19:22 wdDcDnb+
研究者ってのは金子拓氏ね。

194:人間七七四年
09/03/06 20:06:08 oJWVLLJ5
トンクス
明後日読みに行ってくる

195:人間七七四年
09/03/07 00:31:56 yFtTsvG2
最上スレに移動願います
小野寺スレに移動願います

謀殺の話から宇喜多直家登場→最上義光登場→最上謀殺話→小野寺へ飛び火…


196:人間七七四年
09/03/07 00:37:34 yGjTjrrd
最上や伊達が秀吉からある程度の裁量権もらって軍事行動起こしたのは事実だし。
関ヶ原後に島根で落ちぶれた小野寺の自己申告の信憑性なんて軍記とどっこいどっこいだろ。

そしてスレ違い甚だしい。いい加減にしろ

197:人間七七四年
09/03/07 10:09:21 bgugRa51
大谷吉継が小野寺の意見を認めていたわけだが。
それに最上の裁量権ってなんだ?単に仙北一揆の鎮圧を命じられたに過ぎない。
家康と並んで関東惣無事の通達役だった上杉や豊臣奉行の吉継に比肩できる裁量権でも何でもない。
伊達は仙北一揆で裁量権どころか兵も出してないわけだが?
小野寺氏横手宿老中書状には義光が計策の人だから用心しろと指示していたし、小野寺は義光の通過に対して大谷や上杉にも不安を打ち明けている。
民も悪謀多き義光を極度に恐れていた。
そして案の定、義光による暗殺事件が起きた。
これみんな一次資料なわけだが。


198:人間七七四年
09/03/07 10:55:59 bYxlKyoz
ちょっと変なのが居ついちゃったみたいですね。
某所では有名な荒らしなんでスルーしたほうが懸命です。

伊達・上杉・最上関連荒らし報告スレ
スレリンク(sengoku板)

199:人間七七四年
09/03/07 11:30:09 DYaSY9vu
出典ソースを出した方を荒らしなんて恣意的に決め付ける方が基地外荒らしなのは確定的なわけだがw

200:人間七七四年
09/03/08 02:48:48 lTDc1FCJ
スレタイ読めない方が荒らしに決まってるだろjk

201:人間七七四年
09/03/08 11:07:07 P03DhLlh
そもそも>>196で馬鹿な反論をしつつ牽制でスレ違いだと反論させないようにするが、
過ちを糺すために反論され議論に負けるとすぐそれだw

202:人間七七四年
09/03/09 08:08:59 taBbn5rB
結論が出たところで終了ってことで。
佐竹の金山採掘技術って他の大名に比べても技術高い方だったんかな?
秋田へ移封後には日本一の鉱山発見したくらいだし。


203:人間七七四年
09/03/09 10:26:00 pGdVtdE0
変わらんと思うよ、鉱山の当たり外れは運みたいなところもあるし

204:人間七七四年
09/03/09 13:01:26 H7RlMwyx
八溝系金鉱は義宣時代は全国でも五番以内に入るぐらいの産出量があったが
水戸徳川時代は甲斐の金堀衆などを招いて採掘したが
殆ど採掘できずに水戸藩は貧乏だった
なので地元では佐竹の金堀衆は高度な技術を持っていたと言われている
しかし近代でも八溝金鉱の採掘は行われているがたいして産出されなかった
単に掘り尽くしただけかもしれない

205:人間七七四年
09/03/09 15:09:25 I9S0jYgb
院内銀山
佐竹が秋田移封後に即発見した旧最上領だった地

URLリンク(ja.wikipedia.org)

206:人間七七四年
09/03/11 12:27:47 0lPXli+H
佐竹の金山調査技術ってのは
いつ頃からあるんだろうね?
武田や上杉からの技術移転かな。


207:人間七七四年
09/03/14 12:41:30 wXc1E6jv
佐竹は鉄をどうやって手に入れていたのだろうか?

208:人間七七四年
09/03/15 10:47:20 dl1dCrQc
砂浜から磁石で

209:人間七七四年
09/03/20 00:56:54 /DG0fI6+
近江国友とか堺でかったんだろうが

210:人間七七四年
09/03/20 10:10:16 rloz7vED
>>206
八溝山系はかなり古いよ
承和3年(836年)には既に金の採集を行っていた記録がある
この辺りには古くから金堀衆がいたものと思われる

211:人間七七四年
09/03/20 20:58:03 DGKooVAx
>>192
色部文書じゃむしろ軍記の裏付けというか元ネタになるんじゃ?
鮭延が陣張りして困ってるよーな内容だし
三春日向の名前だって小野寺氏側の史料にしかでてこないぞ?

212:人間七七四年
09/03/21 22:46:16 ankVlYQl
スレ違いネタを亀レスで蒸し返す神経が知れん

213:人間七七四年
09/03/25 17:03:41 2fMrjnj3
>>211
山形県史・山形市史・酒田市史などの否定に続き、今度は横手市史も否定か…さすが最上鮭教は害基地。

214:人間七七四年
09/03/27 23:43:01 0sEGP3tw
色部氏は新潟県史だろjk…

215:人間七七四年
09/03/28 12:23:05 /n0wbKyR
三春日向に関しては横手市史公認だよ。
色部文書は越後や庄内、秀吉の奥羽征伐での検地や仙北一揆関連で横手など手広く書簡の一級資料がある。
これが軍記の元ネタとは恐れ入る基地外ぶりだ。

216:人間七七四年
09/03/28 17:24:51 KjIpao40
色部文書は山形市所蔵のものもあるけど
載っているのは新潟県史で違いない

217:人間七七四年
09/03/28 20:11:44 Dc8BEeT+
色部文書は「奥州」軍記の元ネタみたいなもんだろ
→色部文書は仙北とか「奥州」の事を手広く扱ってんだよ!


三春日向は「小野寺」側の資料にでてくるよね?
→三春日向は「横手」市史にでてくるんだよ!
※小野寺氏=横手周辺に勢力を張った大名





お前何がしたいの?

218:人間七七四年
09/03/29 08:55:12 Zn5NtJCQ
色部文書が奥羽永慶軍記の元ネタだったんですか?
他に色部文書の時代区分から該当する軍記はあまりないですね。
奥羽永慶軍記が元ネタとは初めて聞きましたが誰が唱えてる説なんでしょうか?
色部文書を使ってるなら明らかに間違いの部分が奥羽永久軍記にはありますが、なぜ間違いを訂正してないんでしょうか?
あと著者は佐竹側の方ですが、色部文書を見れる立場だったんですか?

219:人間七七四年
09/03/29 20:50:01 BPl92SAJ
>>211で裏付けって言ってるでしょ

220:人間七七四年
09/03/30 08:30:50 +blJwTYw
裏付けと言うか【元ネタ】←ここ注目w

221:人間七七四年
09/03/30 19:32:23 HS3XNgN8
元ネタ的なものになるんじゃね?って意味でレスしただけだけど勘違いさせたみたいなら謝るよ
でも軍記はちゃんと一次史料と合わせてみても優良なモノであることに違いはないよ
多くの研究者も史料にしているしね(奥州の史料少ないのもあるけど)
佐竹領の人間が書いたってだけだからわりかし公平だし(少なくとも最上や小野寺を贔屓にする理由はない

222:人間七七四年
09/03/30 23:01:23 0hctNx2a
けっきょく色部文書と軍記の間に矛盾はないことと
小野寺側にしか城主暗殺の記述が確認されてないことに
反論できてないのなw

223:人間七七四年
09/04/01 07:25:12 zziTfR9B
奥羽永慶軍記が色部文書を見て書いたから、矛盾のない一次資料だとかバカを飛び抜け過ぎててワロタw
奥羽永慶軍記において、誤解した上杉定勝が自分の母を殺したと思い込んで、直江兼続を憎み殺した話も色部文書に書かれてる話なのかwww
能書きいらんからさっさと色部文書からソース出してみろよアホがw

224:人間七七四年
09/04/01 12:49:18 qY+R3L46
どうでもいいけど佐竹の話しろよ

225:人間七七四年
09/04/04 07:53:17 cJIUVu/S
>>211
具体的に軍記のどの部分の裏付けだよ?ちゃんと書いてみろよ。
例えば奥羽永慶軍記の岩崎合戦なんて存在そのものが史家によって否定されたりしてるわけだが。
だいたい仙北一揆の詳しい内容は上杉年譜や景勝一代略記や越後治乱記や管窺武鑑によるところが大きい。
最上側資料自体がほとんどないし、鮭延寺開基之縁起は18世紀半ばに作られたから内容なんて怪しいもんだ。
しかし小野寺資料は津和野藩の亀井氏の江戸家老米原綱貞に話した内容は1640年には完成しており、藩主亀井氏に宛てた言上状はそれ以前に書かれている。しかも小野寺義道本人が書いている一次資料に三春弥三郎と書かれている。
お前は一次資料を否定してムチャクチャな事を言ってまで最上を美化して気持ち悪い。
義光を美化するために都合が悪い義時や三春日向の暗殺を否定したりして歴史を捏造すんなよ基地外!

226:人間七七四年
09/04/05 08:58:56 GbYZGGeo
>>213
アンチ直江の鮭厨は真性基地外荒らしだから、
自治体史を書く史家はことごとくみんな嘘つきらしいよw
最上義光は人間性のかけらも無い、神にも等しき清廉潔白で、正々堂々にして人殺しを憎み、優しく義理人情に溢れた正義超人なんだとさwww
そんな神聖かつ偉大な人物像なのに、なんで天下をとれなかったんだろうねプププ

227:人間七七四年
09/04/12 21:17:52 TlDFcTaj
末裔は羽後を統一できたね

228:人間七七四年
09/04/12 21:25:52 TlDFcTaj
秋田周辺の領主から、羽後の旗頭に

229:人間七七四年
09/04/12 21:42:41 XGmW9DIO
4月12日秋田市長に秋田藩主佐竹氏一門の佐竹北家当主佐竹敬久氏が再当選

230:人間七七四年
09/04/12 21:54:46 hZmWTw0G
>>229
あれ?初当選じゃ無かったか?


231:人間七七四年
09/04/12 22:06:48 VBaXH66I
初当選で砂

232:230
09/04/12 22:07:05 hZmWTw0G
初当選じゃ…と思ったが、別の意味じゃ再当選なんだな。
藩主復帰って事で…

233:人間七七四年
09/04/12 22:12:32 jYn58qZX
>>229
秋田市長→秋田県知事
つまり、領主が国主・藩主になったようなもんだな。

234:人間七七四年
09/04/12 22:25:04 OrvSgCsT
またサブが荒らしてんのか
最上スレでいじめられ以来、病状進行したね

235:人間七七四年
09/05/17 10:14:21 k62FVzpf
保守

236:人間七七四年
09/05/17 13:37:57 AaMxrS15
>>233
市長や知事は昔風に言えば奉行や代官にちかいんじゃねーの??

237:人間七七四年
09/05/17 13:48:38 idtIRMUM
江戸時代は地域の代官の事を知事と呼んでいたな。

238:人間七七四年
09/05/17 13:55:02 85ji3G2U
戦前の任命知事なら代官相当だが
公選知事は領主の方が近い。

239:人間七七四年
09/05/20 13:22:25 oWSmiSjO
統帥権なし、立法権なし、司法権なし、4年任期で交代あり
今の知事と昔の領主と比べると権力があまりに違いすぎる
憲法的にも主権国民なんだから知事は限定的な権力を預かってるのに
過ぎない

240:人間七七四年
09/06/15 11:44:35 1mFdjocA
小田原包囲中に二階堂の家臣の矢田野兄弟が政宗に反旗を翻したのも佐竹の謀略だろうね。佐竹やるじゃん。
政宗と小田原に来た矢田野伊豆守は義重の陣に駆け込み、弟の矢田野藤三郎義正が大里城に泉田や明石田ら二階堂旧臣500を集めて挙兵。
結局、7/4には成実や景綱ら1万以上もやって来て伊達が全力で攻撃するも落城せず、
6/25に黒川城へ政宗帰国、7/5小田原落城、7/10に政宗が浅野や木村に会津黒川城引き渡し7/13米沢へ移動、
7/26に秀吉が宇都宮へ着陣。
秀吉の奥州案内の道造り(太閤道整備)をさせられていながら街道筋の大里城を落とせず完璧に面目丸潰れの政宗が8/2に大里城攻撃を諦め撤退。
8/7に秀吉が長沼城に到着と同時に矢田野は城を燃やして撤退。
その際に秀吉は矢田野義正の武勇に大喜びして安房守を与えて、蒲生氏郷に矢田野の本領安堵を下知。
8/9に黒川城へ秀吉が入城。
須賀川二階堂氏が最後の意地を見せつけた戦いだった。
これにより矢田野は佐竹騎下の角館で二階堂氏の名を継ぐ事になった。


241:仙台藩百姓
09/06/15 14:02:59 KiQpm4LB
そりゃないでしょお( ^ω^)
後詰めにも行けないのに敵中で蜂起させても捨て駒にする他ないし
信頼でもってた義重がそんな事するとは思えないお( ^ω^)
まあ、向こうは当てにしてたかもしれないけど
佐竹にとっては大事な時期に無駄な騒ぎ起こしたくないだろうし迷惑な話しだったおうね( ^ω^)

242:人間七七四年
09/06/16 01:10:52 eRkUHYrH
元々、佐竹は須賀川の反乱を支援してたからね。
もし佐竹が関与してなきゃ義重の陣にやってきた時点で拒絶してたろうね。
佐竹内には岩城経由で二階堂盛義の正妻(伊達出身)や重臣の須田盛秀も在陣してたし。

243:人間七七四年
09/07/02 02:05:07 OewS63RT
義重の陣なの?
忍城攻囲中か転戦中の義宣の陣じゃないのか?
義重は義宣に小田原参陣させて自身は太田に居て北方の守りをし、大勢が決したあと宇都宮で秀吉に謁見したと思ってた…

244:人間七七四年
09/07/05 12:59:05 z8MZvRqU
資料によって錯綜するが、おそらく義宣の陣に逃げ込んだと思われる。
もしかしたら小田原からの帰路に太田近辺の義重陣に入ったのかも知れない。
なぜなら政宗は義正が矢田野に下り弟に合流すると考えて、早飛脚で成実に対して帰路の道中で討ち果たせと命じている為。
この挙兵は佐竹-相馬-二階堂の連携パターンのような気がする。
なぜなら参陣しなかった相馬が秀吉の了解を得た政宗に討たれる事態を回避したから。
当時の相馬は伊達領の駒ヶ嶺を攻めている為に、明らかに惣無事違反を行っており、
政宗は相馬侵攻を狙っていたが大里城が陥落せずに秀吉の会津着が迫り、
全国の大名たちが見守る中でメンツをかけた伊達全軍をかけた大里城攻撃になってしまい相馬討伐どころでは無くなってしまった。

245:人間七七四年
09/07/08 19:21:44 YdFlDCzW
>>240
矢田野兄の伊豆守に対して弟に安房守かぁ
秀吉は粋だねぇ
伊豆と安房は海を隔てて向かい合わせ

246:人間七七四年
09/07/08 21:04:14 5YopciW6
>>241
佐竹が斡旋して秀吉が矢野田の所領安堵を引き出したわけだが。
相馬攻めする予定だった伊達軍を引きつけた二階堂の矢野田の時間稼ぎの間に、参陣もせずに伊達を攻めていた相馬も佐竹の秀吉への働きかけで佐竹寄騎として許された。
参陣途中の鎌倉で当主が死んだ岩城には義重三男が養子に入ることを秀吉が命じたし。
佐竹の打った手はバッチリ当たり完全に政宗涙目だわな。

247:人間七七四年
09/07/10 20:20:00 X2P97FUv
それはどうだろう
箭田野氏が領地を安堵されたなら蒲生氏に取り込まれてしまったわけで
義宣の思惑が上手く行ったとは言い難いと思うが…
箭田野兄弟がどこまで佐竹と連絡を取り合っていたかは分からないが
南会津の葦名残党は義広が秀吉と連絡を取り合って伊達に抵抗していたのは間違いない
葦名当主として健在なのを秀吉にアピールし会津の支配権を取り戻そうとしていたわけだ
だが、実際には秀吉は葦名の存在を無視してしまい上手くいかず
同じく滑津など石川庄周辺の佐竹領も没収されてしまい返還される事はなかった
伊達も佐竹も豊臣政権に翻弄されたと言ってよいだろう
どうにも惣無事令の基準は分かりにくい
豊臣内の派閥争いなども絡んでいるらしが

248:人間七七四年
09/07/12 12:05:52 R2+ZR3Gq
箭田野が蒲生に取り込まれ佐竹残念…
かも知れないが豊臣政権の奥羽探題格の蒲生家に佐竹派の箭田野が存在する事になったのは良かったのではないか?
箭田野を引き取り領地を与え家中に加えるよりはね…

249:人間七七四年
09/07/12 14:15:28 mDsGPEz5
佐竹と伊達のどちらの顔も立たせる為に葦名領を彼らの緩衝地帯として氏郷が入ったわけだし、
佐竹の役割が奥羽鎮護では無く、対家康用になったので
葦名領堪忍分として常陸の旗頭を認め厚遇されたんでしょ。
里見などに比べたら破格どころじゃない厚遇は旧葦名領分含みだから。
だから北過ぎる太田から、江戸に近い南方の佐竹領でなかった水戸に本拠を置くように言われたわけだし。
北は相馬を寄騎や岩城に三男養子、さらに赤坂や赤館まで安堵されたわけだし(佐竹大陪臣的な義久は小早川や直江や石川や鍋島みたいな位置だが)下野佐竹領も安堵。
下野宇都宮氏も佐竹と関係深かったわけだし。
さすがに兄弟がいた位置が佐竹領にならないのが失敗は無理やり過ぎる。

250:人間七七四年
09/07/12 15:28:03 D3BKtR/I
>>248
何を言っているのかわからんが、少なくとも箭田野義正は秋田へ行っている。
そんで義宣と対立した梶原政景を態と秋田領から逃がしている。

251:人間七七四年
09/07/12 22:23:07 KfsT5g4+
蒲生が減転封になった時にでも佐竹に拾われたんじゃないの?
そうじゃないと辻褄が合わない

>>249
佐竹は洞中を自領として申請したわけで別に秀吉が恩賞として増やしたわけではない
豊臣政権を上手く利用して洞を廃し集権化を図る事に成功したと言える
赤館や下野の一部は佐竹の領地だし安堵されるのは当たり前かと

252:人間七七四年
09/07/13 05:55:27 PEJY3EK6
佐竹は江戸氏や小田氏や南方三十三館などまで悉く洞中だと主張したの?ムリヤリ過ぎじゃないか。

253:人間七七四年
09/07/13 08:04:45 zm3LZbYM
江戸、小田、南郡衆は悉く佐竹洞中です。
同時代の人々もそのように認識しておりました。

254:人間七七四年
09/07/13 13:22:16 PEJY3EK6
>>253
例えばどんな時に彼らは認識してたの?
それがわかるような書状とか教えて。
私は北条側について秀吉に参陣しなかった事が彼らの破滅だったと思ってたけど違うんだ。
鹿島まですべて佐竹洞中だから秀吉が与えただけなんだ。

255:人間七七四年
09/07/13 22:38:27 +gX5xyag
義宣は秀吉に所領を安堵される前に義久に対し南郷・保内と鹿島郡の領地替えを命じている
つまり佐竹では初めから鹿島郡辺りも自領と認められるつもりでいた事になる
そして義宣は洞中の領地を書き出して秀吉に渡し、御朱印を貰った事を書状の中で説明している

256:人間七七四年
09/07/14 01:28:34 rcUbpbbd
>>255
それらはすでに三成と調整ができた後では?

257:人間七七四年
09/07/14 17:11:54 CuiQMbFd
>>256
三成との調整て何?

258:人間七七四年
09/07/16 09:46:51 PRT3rWCo
>>254
『遠藤広家文書』(天正十六年)三月十三日付遠藤高康宛伊達政宗文書写

「(前略)
佐竹ニ而者、府中と江戸殿間に干伐出来、義重自身有出張、一和之雖御意見候、
江戸殿悉手詰故、時宜相切、府中へ義重打向、被及弓矢候由ニ候、佐竹洞中悉取糺候
(後略)」

政宗が府中と江戸が戦争たことを示して佐竹洞中が取り乱れたと言っている。

また岩城の仲介で江戸が懇望して佐竹義舜と条々を取り交わしたた際にも、
江戸は佐竹の「洞之諸沙汰」に申し合わせることが肝要であるとの起請文を受けている。

小田に関しては直接佐竹の洞中に属したことを示す文書は無いが、
天正十一年に氏治の当時五歳の嫡子守治が佐竹に行ったこと、
天正十五年に小田に帰されたことが『烟田旧記』にあり、
これは守治が佐竹の小田に対する人質となったことを示している。
このとき小田は佐竹に屈服し、小田洞は佐竹洞の下位の洞として包摂されたと見る。

洞についてあれこれと言うならば、せめて市村高男のせめて「戦国期における
東国領主の結合形態」くらいは読んでおかなければならない。

259:人間七七四年
09/07/16 10:11:48 PRT3rWCo
あと書き忘れたが、恐らく石田三成は秀吉の小田原の陣以前の一、二年前に
(伊勢辺りからの船で)少なくとも二度以上、太田城に直接来ている。
また同様に佐竹義久も小田原陣以前に上洛し、秀吉と直接面談していると思われる。
その際に東国関東の秀吉の成敗について詳しい内示があったと見られ、
佐竹洞中の一部が小田原に参陣したかったのは、佐竹と羽柴の間での密約があったと見える。
このことは多分佐竹の近世常陸領形成に割合に重要な意味を持つと思われるんだが、
どうも研究がちゃんと進んでいないのか、残念ながら誰も指摘しない。

260:人間七七四年
09/07/18 23:24:04 31upJBix
鹿島郡や行方郡の諸将は天正年間には佐竹洞中に組み込まれている
木田余城を攻略した際に鹿島・行方の諸将を入れているし
小川岱の対陣でも佐竹方として出兵している
多気山城の築城の際にも普請に駆り出されているしね
正確に言えば江戸氏や大掾氏の洞中であるため佐竹の洞中に包括されていた
だから彼らを介して出兵を要請する事が多かったようだ
それが次第に佐竹が支配を強めて直接支配を及ぼすようになる

ちなみに後に討伐される額田氏や三十三館主の島崎氏、烟田氏、田野辺氏などは小田原に参陣している
常陸誌料等によると江戸氏も家臣を義宣に従軍させた事が記されている
額田や水戸、鹿行などは義宣に領地の明け渡しを要求された話しが残っており
又、義宣はしきりに配下の領地替えを行っている
つまり彼らは転封を嫌って反発し討伐されたのではないだろうか
この辺りはまだまだ研究の余地があるね

261:人間七七四年
09/09/07 00:24:45 Ssov/2gw
保守

262:人間七七四年
09/09/13 21:47:51 JZqfiY/W
今回の大河ドラマ、全くかすりもしねえなあ。
地図に名前が出てきたのと、話題に出たのみかい?

263:人間七七四年
09/09/14 19:56:52 7Fe0Pr5g
三成が襲撃されたときすら
名前出てこなかったねw

264:人間七七四年
09/10/04 09:06:47 eI0gniYD
三楽はいつになったら大河に出演するんだ…見たい。

265:人間七七四年
09/10/04 11:22:17 psuEg5HC
兼続と佐吉時代の三成の出会いの辺り観たら、幸村や義重や慶次絡めた青春群像にするかと思ったんだが

266:人間七七四年
09/10/04 11:23:13 psuEg5HC
>>265
義重×
義宣○

267:人間七七四年
09/10/04 16:31:30 rHUNig+a
兼続、三成、義宣、幸村、慶次の青春群像・・
(慶次は爺さんだけどw)
あー見たかったなそういうの、、吉継や秀康とかも一緒に

268:人間七七四年
09/10/04 17:57:35 IFfym2zK
それこそ、スイーツ脚本家的には良いネタなんだろうが、
いかんせん実力ないから書けないんだろうね。

269:人間七七四年
09/10/04 21:07:18 +tRJJikP
実力っつうか知識がないので、おいしいネタや人物がわかっていない。

270:人間七七四年
09/10/04 22:58:03 eI0gniYD
小和田がアドバイスしてないのだろうか。

271:人間七七四年
09/10/04 23:48:24 nYWnQD1I
上杉と同盟云々で動いてたのにね(´・ω・`)

272:人間七七四年
09/10/10 10:06:38 UmJzAv4Y
神指城の築城に佐竹も人足をたくさん派遣して協力したのにね。

273:人間七七四年
09/10/10 12:05:07 lCfJVO/A
単に、佐竹を書くのは難しいんだと思う。
逆に、書ける人にとっては良いネタとは思う。
関ヶ原について裏まで脚本作り込んだら
かなり面白いドラマできるだろうなぁ。

274:人間七七四年
09/10/12 23:24:53 kuyLA2sN
>>270
小和田教授のアドバイスを無視した結果があのスイーツ大河

何せ戦国時代に京都から大坂まで1日で行けると思っているような連中ですからw

275:人間七七四年
09/10/13 16:07:25 1vMscgzs
きっと「伏見も京都のうち!」とか思ってるんだぜ


276:人間七七四年
09/10/14 17:54:27 D7wQrrAq
>>274
小牧の合戦のとき
秀吉軍は4日で大坂から岐阜まで進軍してるから
『不可能』ではないと思うけどね。

277:人間七七四年
09/10/19 23:27:44 P5Lb0lrX
脚本家を奉り立て挙げないとだめでしょうね。
今次の脚本家はダメダメxx

278:人間七七四年
09/11/06 23:24:23 GsvhFwy4
そういえば角川で佐竹義宣の本が出てたけど。なかなか良さげだよ。
これは買いだね。

279:人間七七四年
09/11/06 23:45:19 hmX5E/Ry
N原M雄の本だな。今年春に文庫落ちしたやつ。
拙い話ではなかったが、わりとありきたりで今ひとつ盛り上がりに欠けた。
池波正太郎ほどでなくてもいいから
もう少し独自のドラマを展開させても良かったな。

280:人間七七四年
09/11/07 07:00:00 PZ0oh3lo
PHPの小説とどっちが面白いだろ?>角川の小説

281:人間七七四年
09/11/07 20:53:57 kf/380ju
パラッと立ち読みした印象だけど、秋田転封以降が三行で済まされてなければ買ってもよかったかな

282:人間七七四年
09/11/08 03:38:26 dBQ/TVJY
三行半より短いのかよ

283:人間七七四年
09/11/08 22:11:59 GBrsotkS
義宣の愛人として遊女(作者の創作)が出てくるんだが、
これがまたステレオタイプというかご都合主義の典型というか
設定に何の捻りもない。
他の武将との丁々発止や義宣の葛藤がうまく書けないから
適当な女を持ち出してお茶を濁したという印象。

284:人間七七四年
09/11/09 23:15:58 lDR+RxY3
>>283
まあそれはそれでよいのでは?
家臣団が多く出てくるのもおもしろいね。


285:人間七七四年
09/11/10 01:24:27 zOWcGEcj
当時の秋田って意外と富んでいたらしいからラッキーだったんじゃないの。
鉱山もあったし。住めば都ってここが由来でもいいだろって感じ。
東北の中では、着倒れとか言われて派手好みだったし比較的恵まれて
いたんじゃないか。

286:人間七七四年
09/11/10 04:46:18 husqC0Sk
由利を最上と交換して得た旧小野寺領内で関ヶ原後すぐに発見された院内鉱山のおかげで江戸期を通じて奥羽一の収入を佐竹は得ていた。
また源義家などの件から、源氏隆盛の故地だから縁起がよいなどと義重などは言っていたとか。

287:人間七七四年
09/11/10 08:18:55 xAJDWfbh
>>285
恵まれてたというのは言い過ぎ、ひいきの引き倒しだ。
それほどひどくは無かった、という程度。

藩財政は江戸前期から累積大赤字。
近年の研究では、江戸時代の百姓はわりあい裕福だったというけれど、
秋田藩は例外的に、マルクス主義者が言うような
重税と飢饉、に打ちひしがれ、餓死や間引きが横行した悲惨な百姓そのものだ。
秋田の農業は、米ひとつに依存しすぎだし、
江戸時代の秋田は、米作りには寒すぎる国だった。

288:人間七七四年
09/11/10 09:10:38 Z8U2b75f
秋田藩で例外的で悲惨だと、もはや盛岡藩や津軽藩なんて人の住む場所じゃ無くなってるんじゃないかw
そもそも藩財政が黒字の藩の方が例外的だしなw

江戸時代の奥州が米に向かないのも、佐竹が重税で百姓を圧迫していたのも事実だが
余所者な上、殿様・その係累に趣味人多いしな

289:人間七七四年
09/11/10 10:08:57 auHZ+FgM
茨城にブスが多いのは佐竹家の秋田転封にともなって
美人を皆連れていったからってのは無茶なこじつけな気もするが
ありえない話ではない気もしてきたよ。。。。

290:人間七七四年
09/11/10 10:52:01 Ur+kIY2B
いや、有り得ない
国替えの際に百姓は連れていっちゃいけないし
さすがに女中が何千人もいたなんて聞いた事がない
元々武家の割合は5~6%の上に、義宣に従ったのは半数以下
それで美人がいなくなったというなら元々極僅かしかいなかったと言う事になる
あと、茨城県南・県西地方は佐竹領じゃない所が多い
美人の話しは鰰・金山と共に水戸藩に対する当て付けであって、歴史ではなく笑い話しの類だ

291:人間七七四年
09/11/10 11:41:54 rlHx2jCr
秋田美人って言われるくらいだから、やはり茨城から連れて行った
可能性はあるんじゃね?

292:人間七七四年
09/11/10 11:52:40 BAr1Lev4
それなら茨城美人じゃないか

293:人間七七四年
09/11/10 11:57:46 Ur+kIY2B
なぜ素直に元々秋田に美人が多いと考えないんだw
秋田に限らず東北は美人多いし

294:人間七七四年
09/11/10 23:00:58 gN+Y8vUZ
西軍寄りの中立なのに素直に国替えに従ったから徳川家も

茨城の美人を秋田に連れて行く
秋田からはブスを茨城に送る

ほぼ同人数と同年代の娘を条件に徳川も容認したんだよ

だから両極端になっているんだ、400年経っても

295:人間七七四年
09/11/10 23:16:30 xAJDWfbh
マジレス

秋田美人という概念ができたのは昭和に入ってからです。

296:人間七七四年
09/11/11 05:23:36 NYO+xIQd
平賀源内と小田野直武だろ……

297:人間七七四年
09/11/11 11:16:42 jzSfTgd1
よく考えると、美人連れていったと言う話しは嘘だけど
茨城にブスが多いのは事実なんだよな
つまり現実には逆に秋田にブスが増えたって事だよなw

298:人間七七四年
09/11/11 12:16:03 bVWsEaKn
三大ブス都市仙台は、
5年前くらいまで仙台はブスばっかりで驚愕したけど、今年仙台行ったら可愛いやつがかなり生息してたw
不景気で東北の美人が仙台に集まってきたんかなwww
茨城県も岩城や相馬から美人を誘致しろよw

299:人間七七四年
09/11/11 18:12:08 fkB8NRS8
伊藤美咲は相馬だっけ?

300:人間七七四年
09/11/11 18:33:32 7NYmbwzb
>>298
化粧に誤摩化されるな。

301:人間七七四年
09/11/11 20:33:53 NYO+xIQd
>>298
「仙台」は昔からそうよ
近県産の美人がいるから「仙台」にいる女性は美人がいる
一歩仙台から出るとガッカリ
あるいは地元産の女学生の顔をみるとガッカリ

302:人間七七四年
09/11/11 21:36:55 dpUJfKCt
茨城の場合も一般的にブスの産地と言われるのは「水戸」なんだよね
まあ、水戸は水戸市だけじゃなく「水戸藩領」を指す場合が多いんだけど。
県南は近世になって他県から流入した人が大半を占めているから基本的に別
完全に標準語で茨城弁分からない人が多いし。
あと、県境の地域は隣県からの行き来があるから幾分マシだ。

303:人間七七四年
09/11/11 23:08:50 i3KXQCDV
だんだん佐竹義宣から離れていくな

304:人間七七四年
09/11/12 08:54:08 O+3dj5nH
筑波の年寄りの会話は日本語のかけらすらない完全な外国語。
単語ひとつ理解できない。群馬県方面は語尾のアクセントが違うくらいなのに、なぜ筑波はああまで違うんだ。
江戸のスパイが潜入してもすぐわかるようにするためか?
もう5年以上前だが盛岡からバスで大館市内に連泊仕事で行った時、?百貨店1階を歩いていたら美人店員ばっかで感動した。特に資生堂の人。
その百貨店潰れたらしいのが残念だな~。

305:人間七七四年
09/11/12 10:01:30 99BxaFIf
昔ながらの茨城弁が通じないのは平安以来の古語が残っているから。

つか、百貨店の店員が標準語使えないほうがおかしいだろ。
資生堂の店員がブスだったら企業イメージに係わるだろ。
沖縄だって内地観光客相手の店はウチナーグチじゃなかったぞ。

306:人間七七四年
09/11/12 10:33:58 erWinDjr
方言と美人の話は別のコトとして話してるように見えるが?

307:人間七七四年
09/11/12 12:04:33 tt9nEWyL
戦国時代までは何代も地方に留まっていたからどこの大名も方言丸出しだったろうね
義宣とかは完全に茨城弁だったはず
義宣「出羽さ国替えだとよ」
頼久「でぇ~~~、なぁ~んだっぺまずー」
昭為「久やん(義久)があーだらごと言ったからだっぺよ」
義宣「したっけ徳川で城受け取りにきっから仕度しといておごれや」

308:人間七七四年
09/11/12 12:56:08 erWinDjr
マジレスすると殿中言葉もちゃんと存在するだろ
武家は和歌とか必須科目だし

309:人間七七四年
09/11/12 15:37:05 O+3dj5nH
和歌も方言まじり

310:人間七七四年
09/11/12 17:39:25 iwjC3X0h
>>304
正札竹村

311:人間七七四年
09/11/12 19:29:20 iTJf3Qm/
京言葉が話せなかった地方大名は全て田舎者扱いだった
「~だぎゃあ」「~ぜよ」「~ずら」「~でがす」etc

312:人間七七四年
09/11/12 22:13:31 O+3dj5nH
>>310
あぁ滅亡したのは、たしかに正札大名だったかも。
なぜか中三大名とごっちゃになって迷って「?」と書いた。

313:人間七七四年
09/11/13 09:26:10 seZLfwcC
きりたんぽって保存食でしょ。
ちっとも美味しくないんだが。
個人の好みにもよるけどね。

314:人間七七四年
09/11/13 09:43:18 22ET4w6D
きりちんぽみたいなのが鍋に入ってた料理うまかったけどなあ。

315:人間七七四年
09/11/13 10:19:00 seZLfwcC
稲庭うどん、あれは美味しいね、取り寄せて食べてるよ。

佐竹の何代目かが広めたんだろ

316:人間七七四年
09/11/13 14:06:05 gidy8NF/
>>313
どこで食べたの?
おみやげのきりたんぽセットとか食べただけで言ってない?
秋田のまともな郷土料理の店で食べてごらんよ。

317:人間七七四年
09/11/13 14:12:06 DvvSZ4hS
俺は好きだけどな。











カレーライス

318:人間七七四年
09/11/13 14:43:25 4DkZzzQ5
>20才のとき,正室(那須資胤の娘)が24才の若さで自殺するという悲劇にあう。
>その後,側室との間に嫡男ができるも2才で病死するなど,私生活は不幸続きだった。

自殺って何か理由でもあったの?

319:仙台藩百姓
09/11/13 15:27:51 bqVL82vM
那須氏が改易されたから佐竹に害が及ぶのを恐れて云々という説をあげている本が結構あるけど
どこでも婚姻関係は複雑に絡んでいるし今更正洞院だけ死ななければならないと言う事もないおね( ^ω^)
義宣は後に側室も追い出したりしているから単に不仲だったのかもしれんお( ^ω^)
要するに何だか分からないお┐ (´ω`) ┌

320:人間七七四年
09/11/13 15:49:25 gidy8NF/
>>319の言う通り、良く分からない。

「茶や能楽、京文化にかぶれて文弱に流れた義宣を、死をもって諌めた」
と史書にはあるが、それも後代の人間があれこれ想像した理由に過ぎない。
実家の那須家が滅んでしまい絶望したのか、と想像する人もいるが。

321:人間七七四年
09/11/13 17:38:14 +ycfmyp8
良く分からない、という部分をうまいこと利用した本が読みたいな
常陸国の事は箇条書きで秋田移封後が三行で終わる小説はつまらん

322:人間七七四年
09/11/13 18:25:12 sxeN3Ofv
これから佐竹がくるな

URLリンク(www.mononofu.net)

323:人間七七四年
09/11/14 01:41:10 xFFCiKxi
毛虫の前立てがどれだけ歴女のハートをつかむかだな

愛の前立てより若干つかみが悪いかもしれん

324:人間七七四年
09/11/14 01:53:57 O9Bsq2T4
角川での佐竹義宣の本、あの表紙(義宣具足)カッコええのぉ。
礫徐は奇萌伊から。。。

322>>貧乏臭いね。。。

確か岩城貞隆愛用の茶器とか。もっと格式あるものじゃないと


325:人間七七四年
09/11/14 02:11:45 O9Bsq2T4
URLリンク(item.rakuten.co.jp)
ここにありますのでご参考に

326:人間七七四年
09/11/14 02:33:13 O9Bsq2T4
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
これも

327:人間七七四年
09/11/14 12:17:25 SvUCSANJ
秋田時代の義宣はいつも面頬をつけていたというが
常陸時代からの習慣だろうか
伏見にいた頃はさすがにスッピンだったろうけど

328:人間七七四年
09/11/14 20:33:09 vzVM01Bk
病気で顔が…、という説があったような。
鼻が欠けてたとかさ。

329:人間七七四年
09/11/14 22:20:44 rQopczVk
単にシャイだったとかw
昔は梅毒説もあったが今は否定されているようだ

330:人間七七四年
09/11/15 00:10:27 ZKNaRG/g
人相が分からないと、影武者使う時には便利じゃないか?
オヤジの義重も用心深い人だったし、その辺は似てるかも。

331:人間七七四年
09/11/15 11:29:24 H2q5dTgg
>>327
いつも面頬をつけていたって本当?
出典はあるの?

332:人間七七四年
09/11/15 15:35:05 l3Osv5bY
面頬を付けるのは戦の時でしょ
普段から付けていたなんて聞いた事ないな

333:人間七七四年
09/11/16 09:47:44 9+Fo0ijl
「普段から」黒い面をつけていたので素顔を知る家臣は少なかった
・・・・と、自分も何かで読んだことがある。wikiや小説の類ではなく、学術書で。
だから藩祖なのにスッピンの肖像画がないとか何とか。
ただ義宣の場合、親父の鬼義重のエピソードとごっちゃになってたりするからな。
どこまで本人の逸話なのか、よく分からん。

334:人間七七四年
09/11/16 10:40:45 MEKGQtRF
学術論文だって資料挙げずに口伝の昔話しや憶測を書く人少なくないからな
肖像画って死後何十年何百年経ってから描かれるものがあるし
大名全員の肖像画があるわけでないから別に不思議な事ではない
それと確かに義重と義宣を混同してるものって結構見掛けるよね
義宣肖像画と言われているものも実際どうなのだろうか
去年太田の歴史館で義宣肖像画に関しての講演会やってたけど聴いてみればよかったな

335:人間七七四年
09/11/16 17:20:06 mminZVyH
>>312
中三は、久保田の庶民による一揆で追い出されました。

新しい物にはすぐ飛びつく。
田舎で珍しい行列作ってでも行ってみたり、食べてみたり。
でも、リピートしない。

336:人間七七四年
09/11/16 17:45:07 mminZVyH
>>313
保存食というほど、きりたんぽ自体は日持ちしない。
最近の流行のきりたんぽは、あきたこまちを使った肉厚のたんぽ。
でも、俺は昔のポロポロと煮崩れしてしまうササニシキや、キヨニシキを使ったのが好き。

鶏ガラでしっかりと出汁を取ってね。
使う鳥は比内地鶏を始めとするブランド系のが手に入ればいいけど、何でもいい。
使う鶏肉も何でもいい。但し、鶏もつを入れること。<ここポイント。鶏もつ(産卵管と黄身のところ。)
具材は、ごぼう、長ネギ、舞茸(うちでは昔、金茸という松林に生えるキノコを使っていた。
香りも味も良く、またがきんちょの俺でも採る事が出来たキノコ。今、高級品。)
うちでは、しらたきを入れないけど入れるのが多いみたい、あと油揚げ入れる人も居るね。
仕上げにセリ。せりは根のひげの所を捨てずに(ここが一番うまい)。

たんぽじゃなくて、「だまこもち」ってのも有る。
これは、炊き上げたうるち米を半殺しに潰したて一口大
(肉団子の一回り多きぐらい)に丸めたもの。
今は、このだまこも既製品が有るけど、この手の既製品は焼いてある。
うちで、だまこをやる時は焼かずにそのまま使っていた。
これを、きりたんぽの代わりに入れれば良い。
これなら、小さい子供と一緒に作って食べれるから面白いよ。

337:人間七七四年
09/11/16 18:21:16 0Raamk8f
>>333
『学術書』ねぇ・・・
佐竹義宣について書かれた『学術書』なんてそうそう無いと思うけど。

出典が無い以上、いち奇説として扱っておくべきだろう。

義宣については、家臣が彼を恐れていたため、
顔を仰ぎ見ることができなかったというエピソードがあったけどね。

338:人間七七四年
09/11/16 18:35:20 GLoY6W7B
困るほど上杉景勝

339:人間七七四年
09/11/16 19:38:49 ry+FJjab
>>322
パッと見、海賊見たい。
背中の家紋煩い。


340:人間七七四年
09/11/16 21:13:47 tEqGBNqa
>>337
>義宣については、家臣が彼を恐れていたため、
>顔を仰ぎ見ることができなかったというエピソードがあったけどね

出典は?

341:人間七七四年
09/11/16 22:45:11 MEKGQtRF
それは俺も見た事ある
秋田叢書に集録されている小野寺道維の聞き書きが出典だと思う

342:人間七七四年
09/11/16 23:40:03 FnvO9A6p
やっぱり川井事件のせいで恐れられていたんだろうか

343:人間七七四年
09/11/17 00:09:40 htzrRbcl
>>やっぱり川井事件のせいで恐れられていたんだろうか
やはり、祖父義昭父義重と続く大家頭領だからでしょう。

>>義宣肖像画と言われているものも実際どうなのだろうか
秋田天徳寺や旧太田御殿(太田城)付近の古刹にはもしかしたら秘蔵として
後世に発見されるかもしれませんね。

>>俺は昔のポロポロと煮崩れしてしまうササニシキや、キヨニシキを使ったのが好き。
貴殿は食通? キヨニシキなんて何年ぶりに聞いたでしょうかねぇ。
お釜でたいたキヨニシキなんて最高の香りがして、ササニシキや越光なんか目じゃないですね。
食欲をそそります。





344:人間七七四年
09/11/17 12:26:40 2uJEFAF2
里見家が潰されたことを思えば、石高半減で江戸の近くで存続したより
秋田に飛ばされて正解だった気がするが。


345:人間七七四年
09/11/17 15:47:21 C7oliXZF
ところでだいぶ前に義宣の肖像画は左足がないって話題があったが決着ついたんだっけ?

346:人間七七四年
09/11/17 18:52:20 lTzRFQHj
そう見えるって言ってる人がいただけで
別にそういう学説があるわけでもないし決着もなにも無いと思うけど

347:人間七七四年
09/11/17 20:49:09 eumZAqk3
ID:O9Bsq2T4

ニ●モノ出して、格式って言われてもなあ・・・

最近知ったかぶりが多いな。

348:人間七七四年
09/11/17 21:59:25 PZkqiYYd
左足は、つま先が真正面になる描き方は、日本画ではしないそうだから、
(元、足利尊氏画像ではむりやりガニマタにしてつま先を横に向けた)
左足だけあぐらにした、という結論になったような。

349:人間七七四年
09/11/17 23:34:39 lTzRFQHj
まあ、構図の問題だからね
肖像画は殆どが後世に描かれたもので本人見ながら描くわけではないし
あの義宣肖像画と言われている絵も結構新しく
明治時代に義宣の甲冑見ながら描かれたもので、画家は義宣の身体的特徴など知る由しもない
でも、あの肖像画は異彩を放っていてなかなか良いよ

350:人間七七四年
09/11/18 11:15:25 a+9B+5Cm
明治なんだ~乙

351:人間七七四年
09/11/18 22:35:41 yWVCkuPW
秋田へ移封された後、他の藩主(当時は藩とは言わなかっただろうけど)と
手紙なんかの交流はあったんだろうか

352:人間七七四年
09/11/19 18:42:52 RYB1GaWP
いい話・悪い話スレで
伊達政宗と観劇したりする話が載ってるよ。
もちろん、これも藩主の『お仕事』だけどね。

URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

政宗のこと、大嫌いなんじゃないかと思ってたが
意外とそうでもないのか?
つくろってるだけなのか?
これも、
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

353:人間七七四年
09/11/19 19:46:35 fXGy/8Qp
藩主間の個人的やり取りはなかったんじゃないかな。
親兄弟でもないのにうっかり仲良しこよしして、
徳川幕府から「あいつら手を組んで何か企んでるのか?」と
痛くもない腹を探られてもマズイっしょ。

ふと思ったんだが、佐竹家は結構親兄弟の仲が良いよな。
いがみ合い殺し合いばかりの伊達家とはかなり違う。

354:人間七七四年
09/11/19 20:15:21 RYB1GaWP
僕もそう思ってたけど
いい話・悪い話スレを読み進めていくうちに、
大名同士の交流の話が沢山出てきて、認識を変えた。
政宗とか、三斎さんとか、交友関係幅広い人もいるし。

表向きは禁止だが、裏では羽目外さない程度にやっていいという
典型的な日本的法令(?)だよ、多分。

まあ、義宣は友人多くなかっただろうけどね。

355:人間七七四年
09/11/19 20:44:22 fXGy/8Qp
大幅減封されて、友人作るどころじゃなかったのかな。
そう思うと、ちと気の毒のような・・・・。
政宗は交流好きというか、わーっと騒ぐのが好きそうだよね、何となく。

356:人間七七四年
09/11/19 20:48:43 t88inZMP
>>354
敵が多いとされる治部の友人やってたから、心は広そうだなw

357:人間七七四年
09/11/19 21:49:18 RYB1GaWP
>>355
義宣は寝る時の逸話も示すように、一瞬たりとも気を抜けない一生を送ったと思うよ
政宗みたいに、適度に息抜きしつつ遊んでふざけて人生謳歌、ってタイプじゃないよね。
君主ってホント大変な仕事だよ・・・

>>356
頭はずば抜けていいのに、あちこちで角を立てる不器用な三成と馬が合ったんだろか。
真面目な人間が好きなのかな。
義宣は、理性の人って感じだよね。
悪く言うと冷酷な側面もあるんだけど…

358:人間七七四年
09/11/19 22:25:16 AfkkQblk
個人的には、特に冷酷という印象はないかな。<義宣
結果的に敗者となってしまったから
同じことをした他の君主より悪く見られがちなんだと思う。
まあ移封減封された大名なんて、どこも似たり寄ったりなわけだが。
仮に伊達政宗が一揆の煽動の咎で出羽へ移封になったとして、
佐竹家のようにそこそこ治められたか?というと疑問だな。

359:人間七七四年
09/11/19 22:28:16 AfkkQblk
補足。
政宗が為政者としてどうこう…というのではないんだ。
家臣団が付いて来たかどうかがポイントじゃないかと思うので。

360:人間七七四年
09/11/19 22:57:47 TIx/hGsp
義宣も政宗も多趣味だし年齢も近いから案外気が合いそうな気がする
性格も似てる感じだし
逸話なんかからすると義宣は派手好きでイケイケな人物像が浮かぶ

361:人間七七四年
09/11/19 23:05:20 AfkkQblk
共通点:大名のぼんぼん
相違点:義宣=長男気質、政宗=一人っ子気質
そんなイメージがある

362:人間七七四年
09/11/19 23:13:42 dUjPJLe5
養子の居眠り政宗に指摘されて「恥かいた!お前廃嫡!」ってする程度の仲の良さ>義宣と政宗

363:人間七七四年
09/11/20 00:29:05 lTII7Xur
>>確か岩城貞隆愛用の茶器とか。もっと格式あるものじゃないと
なんか贋作でも作者が腕のいい職人みたなのいで、一つあってもいいかもね。


364:人間七七四年
09/11/20 01:20:12 HMX+2DTa
南部信直は豊臣政権での社交界で「田舎者だからなんかバカにされてる…」って鬱気味だったね。

365:人間七七四年
09/11/20 02:27:47 YGrJX/qP
鮭様も、「もう一度最上の水が飲みたい…」って悲痛な手紙を出してた。
奥州大名は軒並み悲惨。

同じ頃、義宣は茶に能に遊びほうけてたんだけどね。
どうしてこんなに心境が違うのか。

366:人間七七四年
09/11/20 05:04:18 xL9ZXyeX
政宗「田舎者だから和歌が読めないとか京童共が馬鹿にしてるたけど、この前の殿下主催の連歌会じゃ
    俺や最上の爺さんや秋田実季なんかはそれはもう古式に則った綺麗な和歌を詠んだもんだぜ」

と言ってるぐらいなので南部と津軽だけが田舎だったんじゃね

367:人間七七四年
09/11/20 07:43:10 HMX+2DTa
最上はただのヘタレ
伊達や上杉らは朝鮮出兵してる中で
秀次との婚姻のおかげで義光は出兵もしないで何が水飲みたいだよ
しかも小野寺領の火事場泥棒までやろうとして小野寺領侵攻までした。
>>366
政宗は奥州の田舎者だから早く朝鮮から戻れてほんと良かったって言ってるな。
他家資料で政宗の和歌がすごいうまいとか書かれてないから政宗の自己満だろうな。

368:人間七七四年
09/11/20 09:00:25 0cdEMa24
>>653
出兵させられるかしないですむか
分からないまま待機させられていたら
故郷が恋しくなっても不思議はないと思うけどね。
生きて戻れる保証はないわけだし。

あと、当時茶道と能は遊びではなく重要な政治活動の一部だから。
それを疎かにすると仲間はずれなんてレベルじゃ済まないから。


369:368
09/11/20 09:05:45 0cdEMa24
アンカー、ミスった。
誤)>>653 →正)>>365

370:人間七七四年
09/11/20 10:03:02 0A8U6NQL
でも東国大名は渡海せずに済んだか、後期に上陸したぐらいで済んだからまだマシだったかも
もっとも東国からだと名護屋行くだけでも大変だったけど
名護屋普請もしなければいけないし

371:人間七七四年
09/11/20 10:19:18 YRA5/l16
(朝鮮出兵期に最上から侵攻とか横手市史にも載ってない事を主張するのはどこの郷土史家だろう…´_`)

372:人間七七四年
09/11/20 10:37:54 1CTmFGWQ
はい、そこまで
最上と上杉の争いは余所でやってくれよ
こんな過疎スレまで荒らすこたぁないだろ

373:人間七七四年
09/11/20 12:19:04 WROtfw/8
名護屋で相馬義胤と宴会してた義宣公萌えw

374:人間七七四年
09/11/20 12:29:49 HMX+2DTa
最上が朝鮮出兵する必要がないのがはっきりしてたから小野寺侵攻したわけだが。
しかも内政やってた秀次との婚姻から侵攻失敗を不問にしてもらった。
しかしこれが最上らと協調しての秀次謀反と疑われ秀吉に秀次は殺される。

375:人間七七四年
09/11/20 13:03:39 ZSP4YuLf
最上を語りたければ最上スレへ行け
Subなら病院へ行け
スレタイや2つ前のレスも読めないのか

376:人間七七四年
09/11/20 22:43:57 VYCd9+Ud
石田三成について、新事実?がUPされました。

URLリンク(373news.com)
 義弘の家来・神戸久五郎の覚書が面白い。
「途中から黒具足、甲(かぶと)には水牛の角の立物(たてもの)を被った
 武者がこちらに向けて駆けてくる。よく見れば、石田治部殿(三成)ただ
 一人、供の騎馬武者一人も付けられていない。治部殿は佐渡で惟新様(義
 弘)がご苦労されていると聞き、お見舞のため参ったと申された」
 何と、三成はただ一騎で義弘主従を迎えに来たのである。

なんと律儀な三成であろうか。佐竹義宣とウマが合いそう。


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