06/10/20 12:08:30 buAV4pyy
うわ~っ!
スレタイ間違えた!西軍が勝っていたら?やった
3:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 12:21:13 iHlcYHCS
おまえが天下人
4:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 12:25:47 5kJiplbM
西軍が勝って、やっとミリタリーバランスが均衡するのでは?
5:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 12:31:44 HjYeAXQN
1のバカタレ
6:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 12:33:39 bWDVvue8
よし、妄想するか。もし東軍が勝っていたら
首謀者の石田治部、小西行長、恵瓊は六条川原で斬首大谷刑部は討死、宇喜多は逃亡のち八丈島に流罪
西軍の所領はことごとく没収され、毛利は防長20万石に削封、長曾我部・立花らは改易、島津は安堵
豊臣の直轄領から東軍へ恩賞を与えてしまい、豊臣は河内65万石の大名に転落
そして徳川は征夷大将軍に任じられて幕府を開き、その12年後に方広寺の鐘に家康を呪う文字があると
言い掛かりをつけて豊臣方の大坂城を二度に渡って攻撃し滅亡させると思う。
ちょっと飛躍しすぎたかな?東軍が勝利するifならこんなもんでしょ
7:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 12:59:09 2RS+plRh
>>6
どうだろう。そもそも東軍が勝つという前提が難しい。
西軍は上方と大阪城を抑えていたわけだし当初こそ東軍は岐阜城を落したり
勢いがあったが大垣城から西軍を誘い出すまでが限界で
関が原の布陣では西軍に先手を取られたじゃないか。
あの関が原では早期撤退すべきだったのを、何を血迷ったか
家康は本陣を繰り出し、あげくのはては静観していた小早川秀秋に
攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
8:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:04:11 SDyZr+06
これは目の付け所が斬新なスレですね
9:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:04:43 SDyZr+06
これは目の付け所が斬新なスレですね
10:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:11:04 9DQTzJrR
東軍厨必死やなw
三成は家康以外の大老4人、浅野長政以外の奉行衆3人を味方に付けてたわけやで
更に京、大坂を押さえて豊臣家や朝廷もしっかり掌握してた
この時点で家康には大義名分も何もあらへん
そもそも家康みたいな石高だけがでかい関東の田舎大名が天下を狙えるわけあらへん
小田原征伐の北条家みたいに滅ぼされるのが落ちや
後ネットで関東弁使うのは止めろや
きちんと標準語くらい喋れんのかw
11:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:12:53 hD6yyas4
まあ、島津隊の総突撃で戦況が一変したからな。
もしも大淀様が先陣を切って西軍を率いてなかったらどうなってたか。
近衛牛車隊のまさかの参戦もよかったよね。
まあ、賊康は哀れってことで。
12:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:38:07 2RS+plRh
>>10
しょうがないだろ。どうせ漏れは田舎者
やはり江戸夏の陣の開戦理由が悪辣なだけに徳川への同情をよんでるんだろうな。
こんなスレが立つって言うことは。
豊臣家が徳川に方広寺の造営工事させときながら
鐘の銘文「君臣豊楽」 「国家安康」
を豊臣の名を切って逆にして呪い、家康の世を齎そうとするものだって
いいがかりはひどすぎる。
あのせいで鐘の銘文でいいがかりつけた安国寺恵瓊と
大老・石田三成との人気は悪いからねー。
昔ドラマの『関が原』ってのがあったが
加藤剛が謀略で徳川を追い詰める三成を
森繁が徳川家康の悲惨な末路を熱演してたし
あれで徳川スキーになった香具師多いんでないの?
他にも司馬遼太郎が徹底した徳川贔屓の小説『関が原』『城塞』で
天下に野心無くただ太閤秀吉の遺命を守ろうとした家康を
三成が謀略で追い詰め戦争に追い込んでいく様が、これでもかってーくらいに
悪辣に書いてたしな。
13:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:43:23 9DQTzJrR
まあわいも豊臣の言い掛かりに対して必死で抗議した本多正信は好きやけど・・・
けどあれはそもそも江戸城を立ち退かなかった秀忠が悪いんやで
豊臣家は徳川に仙台60万石を用意してたのにな
時勢が読めない江君の言うことを聞いたばっかりに
14:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 13:50:27 6zRgO/FU
このスレは伸びる
15:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:01:54 7i7svUc1
上杉軍の判断が良かった。
16:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:04:19 2RS+plRh
仙台60万石
そういや伊達政宗の前の領地だったな、そこ。
直江が伊達の領地安堵を約束して西軍に協力させたのに
戦後処分で南部津軽に転封になっちまったという悲惨な結果だったんだよな。
約束どおり不戦をしたってのに石高4分の1の15万石まで減らされたという・・
17:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:05:26 WWLG7QEu
いまごろ江戸が首都になってたんじゃないのwww
18:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:20:11 bWDVvue8
>>7
>あげくのはては静観していた小早川秀秋に
>攻撃しかけて東軍壊滅のきっかけまでつくったではないか・・
そうそうそこなんだよね。あの時家康は小早川に対して発砲したけど
実弾は込められてなかったという説がある。ここからは俺の妄想だが、小早川は家康との間に
寝返りの密約を交わしていたのではないだろうか?
>>10
あの時東軍が勝っていたら今ごろ標準語は江戸ことばだよちきしょうめwww
>>11
島津が突撃して本多忠勝隊が孤立して敵中突破したよな。
「本多の退き口」だっけ?
19:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:26:32 bWDVvue8
>>13
っていうか 江 君 (ゴウギミ)ってwwwwwww
20:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:26:58 0ZGa0ZZE
>>18
僅か五百の手勢で敵中突破カコイイ
たしか義弘はその時の怪我が元で死んでるんだよな。
21:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:40:51 9DQTzJrR
また本多厨かw
本多の敵中突破なんて講談やねんけどな
実際は旗を巻いて目立たないように宇喜多勢の脇をすり抜けようとした本多勢を義弘が目ざとく見つけ上げただけ
それに死んだのは義弘本人じゃなく影武者である甥の豊久やろ
結局関東まで逃げ帰って娘の嫁ぎ先の真田に命乞いしたへたれ武将に過ぎへん>忠勝
むしろ忠勝を処刑しようとした三成に「戦も辞さぬ」と啖呵を切った真田は男前やで
22:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 14:55:20 bWDVvue8
おまいら面白すぎwwwww
家康が捕らえられて六条川原に連行されるとき家康は「鯛を食べたい」と言ったらしいが
このエピソードの続きを知ってる人がいたら教えてくれないか?
俺にはここまでしか思い付かな(ゴホンゴホン)思い出せない
23:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 15:33:21 tMyzu4qh
淀殿の政治手腕は見事の一言につきる
徳川や本多と対等に渡り合った日本が誇る女傑だよ
お江は最悪の悪女だったけど
24:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 16:37:18 bWDVvue8
織田がつき
羽柴がこねし天下餅
座りしままに食らうは・・・・・・?
25:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 16:57:05 Uubxv76c
しかし、あれだな
結果負けはしたものの
江戸の陣で見せた、山ノ内一豊の勇姿は本物だよな
山ノ内一勇士しかり、山ノ内丸しかり・・やっぱ山ノ内一豊が最強だよな
26:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 18:16:29 2RS+plRh
>>18
それはない。小早川秀秋といえば豊臣秀吉の養子で、その才覚から
小早川隆景に請われて小早川家の養子に入ったと(小早川家の公式書類には記載してる)
言われる才将だぞ。関が原の勝利は松尾山にありといわれ
戦後は秀頼を補佐して成人までの間は関白を務めた人物
何が哀しくて関白という頂天を放棄して狸親父の子分にならねばならんのか?
>>22
敗者への情けとして振舞われた鯛の天ぷらで腹を壊して
護送中に脱糞ではなかったか?
27:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/20 19:09:29 hD6yyas4
>>23
お江はたとえ徳川が天下をとったとしても評価低そうw
何かお家騒動起こしそうな匂いがプンプンするんだよな
誰だっけ?土井なんちゃらっていう若造といかがわしい噂が絶えなかったらしいし
織田有楽斎は巧く立ち回ったよな
江戸城にお江の叔父として入城してたけど大坂にも情報垂れ流してさ
いざ開戦って時に当たり前のように城を立ち退いてるからな。
まあ、あのくらいの数寄者になるとどっちが勝とうがどうでもいいんだろうな。
28:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 02:35:13 h/dJ0wEA
>>12
それにしても司馬の秀吉評は酷すぎるわ
「日本人の民族的性格が肥大化され、奇形化された」とか
「日本人が嘗て美徳として持っていた謙虚さを失い、傲慢になったのは豊臣家の責任が大きい」とか
「それらは秀吉自身の個人的性格から出ているところが濃い」とか滅茶苦茶
こんな電波作家が未だに人気あるなんてどうかしてるでホンマ
29:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 03:58:46 OAaDR4Xi
>>17
それはないだろうな。
確かに関東の市場はよく整備されてはいたが
やはり日本の首都は御所がある京以外からは離れられない、経済の要衝でもある。
歴史がそれを証明している。
30:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 09:28:50 r7iL4UOA
>17
江戸が首都になっていたら、広大な関東平野がすべてが都市圏だから、
バブルのころの地上げはなかったかも。狭い大阪平野や京都を首都圏
にしたおかげで全部地上げ、もう昔からの住民は住んでいないでしょ。
何よりも大阪大学と東京大学の立場が逆になっていたかも。
あっ、関関同立、日東駒専の立場も逆か。
31:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 11:22:48 kDDiI2eO
やっぱり、早よ、終わったなぁ…。
このスレ…
32:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 14:31:10 DGG54AOi
いくら自身があるからって3倍の大軍に突っ込むなんて
ま、案の定、宇喜多に袋叩きにされたけど
33:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 14:42:28 z6ukGctS
市松か・・・
34:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 17:26:47 uuj/tizq
>>30
おいおい。
現代ですら数十万規模の都市が点在してる程度の関東平野に首都だなんて、
よく妄想できるなwww
日本の首都は畿内しかありえないだろ。江戸なんかに幕府作っても仕方ねーって。
もし東軍が勝ってても畿内に乗り込んできてただろーな。
35:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 20:50:31 C9dsi/3D
東軍オタがよく言う吉川広家公が不戦の約束を反古にしなければ勝てたっていう妄言だけど
本当に不戦の約束をしていたのか?
広家公がそんな口約束を簡単にするとは思えないんだが
36:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 22:40:59 ot+p9Juf
東軍厨がいうには太閤秀吉の形見分けで石田三成が吉川を無視したとかいう
非常に根拠薄弱な点を誇大解釈して
石田三成と吉川広家は敵対していたと解釈してる。
それと実際に約束したが相手は黒田長政だったという説がある。
仲は良かったそうだし・・でも、これもどうだかなー
長政がそんな如水ほどの謀才があったとも思えん。
実際吉川広家公は関が原で退却する徳川軍はじめ東軍を殲滅させる
大功労者で、関東征伐の先陣も承ってるし・・そんな軽率な人物じゃないだろ。
実際のところ家康狸は西軍総大将となった毛利輝元の覚悟と
統率力を甘く見ていたんだろうな。
長政との口約束で不戦の約束をさせりゃ十分だとね。
37:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 22:41:30 IvAUZI41
だいたい何処にどのくらいが展開してるかなんて解らないだろ
東軍だか何だから知らんけど、あの位置まで入って来られてるんだから慎重になるよ
38:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 22:47:51 aHfPm/x3
それだけ吉川広家の智謀が優れてたって事でしょ?偽りの不戦を信じ込ませるくらいに。
39:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 22:54:02 ot+p9Juf
しかし返す返すも不思議なのは
なぜ豊臣家は20万石に減封した徳川家を
わざわざ方広寺の一件で故意に挑発して
潰したのかだ。
なんせあの江戸なんかに全国津々浦々の大名諸侯豪傑武将が勢ぞろい
数十万以上の大軍勢で、あの貧相な城を包囲して
しかも和睦して堀を埋め立てるというセコイ手で
ようやく陥落させたわけだが
大老・三成は本当に戦下手だよな。
実際関が原はよく勝てたといいたいな。
40:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 22:55:23 h/dJ0wEA
まあ実際に広家が不戦の約束をしてたとしてもそんなの信じる方がアホやろ>家康
毛利は西軍の総大将、戦わずに負けたら良くて改易、悪ければ一族全員六条河原で撫で斬りやぞ
そんな裏切り行為をまともな感覚を持った人間がするわけないわなw
41:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:07:53 ot+p9Juf
>>40
でも黒田長政は本気で信じていたようだが?
逸話では顔を赤らめて「金吾(秀秋公の蔑称)と吉川は許すまじ」
と逆切れしてたというからな。
ちなみに長政は命は助かったが
どこにも奉公も仕官も出来ず、乞食にまで身を落としたそうだ。
黒田家に使えてた後藤又兵衛基次はが黒田家存続と長政助命を条件に
三成の臣となり、後に豊臣家の直参大名として12万石を拝領したそうな。
器量の違いはここまででるなW
42:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:11:48 aHfPm/x3
あの親父の息子とは思えないよな。
43:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:20:29 z6ukGctS
戦国初心者ですが、質問です。
関ヶ原に勝った西軍は、総大将毛利派と首謀者石田派そして関白小早川派に別れて争わなかったんですか?
歴史まったくわからないのでよろしくです!
44:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:34:25 h/dJ0wEA
小早川秀秋は関ヶ原後数年して謎の急死を遂げるんだな
秀頼が成人して邪魔になったから三成に消されたとみる説が有力
徳川家の祟りだという噂もあるけどこっちはホンマかどうかわからん
45:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:36:06 hUpOwUzZ
忠勝の奮戦は今でも語り草になってるけどさ、
各地に残る家康や忠勝の生存伝説もあながち嘘だとは言えないだろ。
東軍オタでは無いが、
忠勝の首実検で本人かどうか判断が出来なかったとする人も多いわけだし。
46:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:54:36 3KC14gkz
おまえら真田昌幸の事忘れるなよ!真田が徳川秀忠捕虜にして江戸に迫ったからこそ
江戸の攻略が上手くいったんではないか。
真田は信玄の再来とまで言われて甲斐信濃に真田流軍学の活躍は楠木以上の物にだぞ
真田は豊臣に警戒されつつも甲斐信濃に100万石の礎を作ったんじゃないか。
47:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/21 23:56:44 3KC14gkz
真田が小兵で馬鹿殿秀忠の大軍を打ち破ったのは何度もドラマ化してるしな。
まさに日本一の兵だよな
48:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:05:07 ot+p9Juf
市松(福島正則)は戦後八丈島に送られて関が原武将の中では
最も長生きしたそうだが
彼の逸話で有名なものがアル。
八丈島に酒好きの大老宇喜多秀家の酒を積んだ船が座礁し
その中の樽をひとつ正則が所望したそうだが、
後にこれを知った秀家は、その船乗りを呼んで
「酒好きに悪い奴はいない。よくやった褒めて取らす」と
言葉を賜ったそうな。
その後八丈島には宇喜多公から正則宛に酒樽が送られるようになったそうな。
49:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:05:14 usWpkhu+
にも関わらず。。鳥居は。。
50:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:29:05 BnzOjDGa
大谷隊を壊滅寸前まで追い込んだが、最期は小早川の側面攻撃にあえなく
自害に追い込まれた虎様は無念。
その後小早川秀秋は謎の死を遂げたが、これは藤堂高虎の呪いによって殺されたのだ・・・
一方、大谷吉継は高虎を称えて、藤堂家の家臣を末代まで面倒見たという。
51:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:36:59 BnzOjDGa
島左近と激闘の末に敗れた黒田長政。
長政は大津城の門前で晒されたところ、登城中だった宇喜多秀家は、
「自害もせぬとは!恥を知れ!」と罵倒し唾を吹いた。
しかし、石田三成は、長政に
「勝敗は時の運。黒田殿はよく戦いなさった・・・」
と健闘を称え、自身の陣羽織を被せてやった。
しかし、三成が豊臣家文治派を裏でまとめあげ、吉川・小早川を懐柔した張本人であることは
誰も知らない。
52:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:44:59 BnzOjDGa
東西両軍に分かれて戦った真田親子
真田昌幸・幸村は長男・信幸の助命を嘆願する。
敗軍に属した者を容赦なく斬る石田三成だったが、
真田昌幸の「信濃40万石を返還してでも・・・」の言葉にこころ動かされついに助命を受け入れた。
それから数年後の「江戸冬の陣」で豊臣軍をおおいに苦戦させるのは、
紛れもなく、生かしてしまったこの男である。
53:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 00:50:49 qN6iPxnF
>>52
ああ、劣勢だった西軍に身を投じて(諸説はあるが、俺はどうも当時の状況を考えたら西軍は劣勢だったと考えてる)
抜群の軍功があった大谷吉継が幸村公の岳父だったってだけで、真田信幸の助命を願い出て
「助命嘆願が聞き入れられなかったら豊臣勢と一戦つかまつる」って言って周囲を唖然とさせたんだったよな。
54:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 01:15:33 ehmV0N/G
>>53
真田昌幸と石田三成も親類だぞ。
>>劣勢だった西軍
ああなんとなく納得できるな。でもなきゃ病身でまともな戦働きが無理そうだった
大谷吉継が越前100万石なんて大封になるわきゃ無い罠。
いくら三成タソの心の友だったとはいえ
東軍厨に言わせれば、東軍が勝ってたら加賀百万石のはずだった
と騒ぐ某北陸県民が多いが・・これもどうだか
徳川も前田ごときに100万石もやらんやろ。
西軍に献身的な働きを見せた義将吉継と三成の信頼と友情あったればこそ
大谷100万石はあったと見る。
55:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 02:07:38 BJpPg7ym
島家が最終的には岡崎5万国ってのは納得いかんな。
まあ倅の代の不祥事ではあるが
56:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 02:58:01 GYnRVqdz
このスレ、なかなかスリリングなテーマだな。
>>55
左近のせがれって、冗談で「謀反するじょ~」って言って、それで潰されたってやつ?
島家って、潰されていたと、勘違いしていた。
ん? 別人か? だれかフォロー頼む。
西軍が劣勢とか言っているやつもいるが、西軍圧倒的。
東海道沿いの諸将の寝返り・日和見続出で、東軍が関が原に着いただけでも立派だよ。
掛川城を早まって家康に渡した一豊は、呆然としたろうな。
ってか、そう発言させた堀尾の智略に恐れ入る。
57:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 04:05:57 ocILO2fA
す、すげえ… このスレは歴史に残るで
58:56
06/10/22 04:13:30 GYnRVqdz
掛川城云々の補足。
山内が掛川城を徳川に提供しなかったら、慎重居士の家康は、
関東から出てこなかったのは明白。
おそらく小田原あたりに留まり続けただろう。
他人に城を提供させて家康を油断させ、本拠地から関が原までおびき出したのが
光成-堀尾ラインの成功。
59:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 04:52:58 BJpPg7ym
謀臣梶尾の知略も見事だがやはり大老石田光秀だろ
日本の曹孟徳と呼ばれる知略こそが語られるべきだろう
上杉の陽動から始まる壮大な戦略に軍を分けた徳川別動隊を足止めさせ
各個撃破の軍を鶴翼の包囲下に置き繊滅
こんな壮大な戦略みたことない、人気ないのが疑問だわ
60:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 05:18:38 ixu9b1zs
このタイトルを見てなんて間の抜けたタイトルなんだ?と思った。
このスレをクリックしたら、
「や~い、騙されちゃったんですね!
歴史の知らないオタクは去ってください。ば~か!」
ってAAを期待していた。
ごく普通のスレだったので、100倍がっかりした。実話。
61:ななしさん
06/10/22 05:24:13 IbIxv6b0
西軍が勝っていたら毛利家が第2期室町幕府のような脆弱政権を
作ってたんじゃないかな
また世は乱れ戦争ばかり起きてたかもね
62:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 07:33:13 iUsk0ycg
空気よめ
63:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 09:49:06 84u8xr0j
>>61
いや、実際そうなったから。
ただ、関が原合戦後も、秀頼の生きている間は
名目上は豊臣家の天下だったってことはお忘れなく。
64:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 10:18:01 UhQdPhAd
でもまぁそうやって長く乱れてくれたからこそ今の俺たちが何百年分も
戦国を楽しめるって事だしな。同時代人じゃないから気楽なものさ。
関ヶ原で終わってたら政宗なんか「生まれるのが10年遅かった」とか
言われてたに違いない。
65:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 11:28:35 ehmV0N/G
>>61>>63
そうなって原因は豊臣政権の飽きない海外進出政策だろ。
秀吉の文禄慶長の役でやめときゃいいのに・・今度は
不足する恩賞の代わりに「異地切り取り自由」のお墨付きまで
三成が出した為だな。
大陸沿岸から東南アジアからインドまで進出していく状態が続いて
世界中に植民地が出来たはいいけど人材が流出しまくって
本国では豊臣家とか、ろくな人材いなくなって海外出遅れ組みの諸侯が覇権争いしだしたんだろ。
秀吉没後の豊臣政権も人材は独立大名にしていた性で家中にろくな人材がいなくて
家康につけ込まれが・・同じ失敗何度も繰り返すかねー。
66:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 11:40:52 8YcXwVtp
結局、日本人としてアイデンティティを確立する前に世界に散ったのがまずかった。
海外組も軍閥化や半独立、海外諸侯同士の宗教戦争など、もうぐちゃぐちゃ。
秀頼は秀頼でなにもしないから、五奉行派の独走を許しちゃうし。
ぶっちゃけ、家康が政権を取っていたら、と思うよ。
67:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 11:54:02 ehmV0N/G
秀頼の後半生では天下は乱れてたしね。
大老筆頭の毛利は、はなから日本の内輪は無視して輝元晩年には
「戦争は他の連中に任せておけ。幸運な毛利よ、汝は結婚せよ」
て言葉を残してるな。
で海外諸侯との婚姻で領土拡大、おまえはハプスブルグ家かと。
68:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 11:56:40 vH9vzSYo
>>66
海外進出の結果、東アジアの揉め事には必ず巻き込まれてきたからね。
国内外で戦争が絶えなかったし、日本人意識が育たなかったのは悔やまれる。
インド人の謝罪と賠償要求にもいい加減うんざりだし。
ありえない話だけど、もし300年くらい引きこもり外交してたら、
今の日本も少しは豊かな国になってたりしてね。
69:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 11:58:47 c62fGDxH
拡散も何も鎖国をすべきだったのは明白。あの時代貿易で
日本が輸出してたのは奴隷と銀だけで単に資本流出してただけ。
もうけたのは大商人と大名ぐらいで下々は悲惨だった。
毛利はそのうまい汁にしがみついて、国家戦略は皆無。
毛利の合議政権でなく、早く強力な中央政権ができるべきだった。
もしを語れば切りが無いが徳川政権ならば植民地の憂き目を見ずに
済んだ可能性が高いし、うまく行けば先進国になれたかもしれない。
70:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:05:48 UhQdPhAd
でもまぁこうやってネットに繋いで昼間っから2ch出来てる時点で
さほど現代の日本を悲観する気にもならないんだよなぁ。
逆にあの時海外に拡散したお陰で華僑と日系は世界中どこにでも
居るって状況になったわけだし。
71:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:06:34 c62fGDxH
まだ金、銀がとれている間はみんなが言う通り東アジア進出も
できたが、取り尽くした後の悲惨な近代を忘れてるんじゃないか。
まだ鎖国をしようとした明の方がましだよ。今漸く成長してるからな。
それに引き替え日本はアフリカ並だぜ。どうするんだよ今から。
72:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:12:22 ehmV0N/G
>>69
一応新大陸とか海外に日本が建国したり独立した国は発展して
先進国の仲間入りしたりしてるから
日本も先進国になれたかもしれない可能性はあるな。
でも日本は昔からろくな資源もないしねー徳川でも大差ないかもしれん。
狭い日本に閉じ込められてたぶん外交音痴になってた可能性も高い。
現実といえば九州や琉球あげくは蝦夷地まで北海道として独立してしまったし・・
琉球の“百万両の夜景とか”九州の魔都博多とかのメガロポリスを見てると
日本本国だけNIESにもなれない発展途上国なんていう
笑えない状況だしね。
73:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:21:04 WNOs2IJ3
必死な徳川ヲタが来てから急に糞スレになったな
74:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:21:35 84u8xr0j
>>72
九州は日本連邦構成地域。強い自治権が認められているだけ。
小学校からやり直せ。
しかし、Ifだけで近代以降の現象を論ずるのは無茶。
近世までの話しか議論対象にならんと思われ。
75:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:29:21 QfKG3NjH
でも結局豊臣幕府は維新の時伊達と山内と最上の連合軍に滅ぼされちゃったからね・・・
関が原で取り潰しておけばよかったのに。
薩摩や長州の人間はまだ仙台の人を嫌ってるらしいからね・・・
76:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 12:42:00 c62fGDxH
別に徳川はどうでもいいが、ifを語るにしても都合の悪いところは
全部無視はひど過ぎる。って思っただけだが。
毛利オタには都合の悪い指摘があれば糞スレと感じるのは
仕方の無いことだろうけどな。
77:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 13:01:24 84u8xr0j
>>76
いや、言いたいことはわかる。
ただ話を近現代までもってくると、スレの性格が変わってしまうかと。
また豊臣・毛利は朝敵だとひたすら叫び続けるやつが出てきかねない。
そんな荒らしがくる恐れがあるので、下げ進行が井伊と思う。
>>75
土壇場の土壇場で肥前が維新側についたのが笑える。
豊臣(ってか実権を握っていた毛利)のためには、肥前も潰すべきだった。
鍋島は、家康にも通じていたって話もあったみたいだし、口実にはなると思う。
いや、俺、本当に鍋島家来の末だから、残されてよかったんだが。
78:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 13:03:25 c62fGDxH
第一、毛利では合議政権になるのはその通りで、合議政権では
強力な全国的な政策は難しいし、毛利は貿易で利益を得ていた
事を考えれば鎖国の可能性は低い。
後はその当時の貿易がどんなものかってだけの話で徳川は
殆ど関係ない。
79:77
06/10/22 13:03:52 84u8xr0j
誤:下げ進行が井伊と思う。
正:下げ進行が良いと思う。
俺のパソの変換、変なバイアスがかかっているな…。
80:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 13:27:24 16aGEryb
>>73
同意
81:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 14:00:21 SvcFbFMA
>>79
ああ、井伊直政か。俺も好きだよ。
島津鉄砲隊に蜂の巣にされても家康のせがれを逃げさせたんだったよな。
そのせがれが樺太に渡ったったって伝説があるよな。
82:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 15:42:28 TTIpF5XJ
>>81
樺太に行ったのは、江戸の陣の後だがな。
実際には蝦夷地で病死したって噂。
家康が死に、徳川四天王も代替わりしたあとの徳川が、
豊臣とやって勝てるわけが無い。
どうしても生き延びたいんだったら、素直に秀忠は隠岐に転封されるべきだった。
事実上島流しだとお江に反対されようとも。
>>73 >>80
「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」だから、
徳川びいき気味になるのは仕方ないので、勘弁してほしい。
83:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 18:25:12 6KWXdATE
三成が伏見の徳川屋敷に逃げてきた時に殺しておかなかったのが家康の最大の失敗ですよね。
敵でも自分を頼ってきた人間は助けるというのは優しい家康らしい話で好きなんですけど。
ここで三成を殺さなかったことが本当に悔やまれますよね。
後の歴史を知っているから言える後知恵ですけど。
84:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 18:41:38 TTIpF5XJ
↓これで江戸の陣は乗り切れる?
慶長14年、関ヶ原の勝者秀頼は天下統一の仕上げとして徳川に戦を仕掛ける
故・右大臣家康が縄張りをするも完成の日はこなかった居城江戸城
そこにはかっての栄光を取り戻すため、秀忠のため多くの浪人、武将が集まっていた
かっては掛川6万石の主 山内一豊
西軍を田辺城に釘付けにした幽斎の子 細川忠興
秀忠の兄・結城秀康の息子 結城忠直
小早川家では1万6千石を拝領した男 稲葉正成
信義のため1千石の捨扶持をなげうち馳せ参じた 真田信之
徳川家臣筆頭井伊直勝の弟 井伊直孝
家光の乳母の義理の孫、弱冠17の美男子 堀田正盛
かれら七将の他、本多忠次、大久保忠教等の歴戦の強者達
しかし、江戸城の最高権力者は秀忠の妻・江とその取り巻き達であり、七将らの発言力は弱かった
又、この七将達も思惑はそれぞれ。真に徳川の為に戦うは、井伊、堀田、結城くらいか…
その時、浪人で溢れかえる江戸城の人だかりを掻き分けて本丸に向かう男が一人
全身に水を滴らせ、息も絶え絶えだが、眼光鋭く人々は気押され、彼のために自然と道が出来ていた
しかし、一介の城兵を城内に入れるわけにはいかぬと彼を遮る門番。しかし、そのずぶ濡れの男は一喝した
その頃、殿中では真田、後藤らの野戦出兵策は退けられ、籠城と戦いの方針は決まっていた
「真田殿、細川殿の策を取れば勝てようものを……」
歴戦の武将達はこの大坂城の首脳陣を嘆くと共に、彼等を押さえ、七将すら束ねる強い指導力と実績を持つ男が居れば…と思わずにはいられない
初めはそれを、家康の遺児、秀忠に期待したものだが、もはや望むべくもない…そんな時だった
―バタン!!
ふすまを開き、ずんずんと上座に進む男。それはさっき、大坂城に現れたずぶ濡れの男だった
「何者ぞ!!」
叫んだのは若き家光の忠臣、堀田正盛
しかし、彼の後ろの江や秀忠、いや、彼らだけでなく細川や真田ですらその顔に驚きを浮かべ、ただ呆然とその闖入者の顔を見ていた
「父上……」
結城忠直がようやくといった感じで放った言葉に、正盛を初め、その場に居た武将達は皆、驚きの声をあげた
「結城宰相秀康、徳川家の御危機を聞き、八丈島より 泳 い で 参 っ た !!!」
家康の外様の家来、いやそれ以上の疎外を受け育ち、一時は豊臣秀吉の猶子であった男が再び徳川の為に戦うため帰った来た…
85:84
06/10/22 18:43:44 TTIpF5XJ
一箇所、関係無い奴の名前が混じっているな…。
86:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 18:46:01 EFmxNV/i
井伊の赤備え、所詮は猿真似だな。
後に、真田が家康の本陣を粉砕した際に、
赤備えの真の実力を見せ付けてましたね。
87:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 19:08:01 GsgyiblB
>>84
いつか誰か書くと思ってたw
結城秀康かwwwwwww
適役wwwwwwwwwww
88:84
06/10/22 19:12:45 TTIpF5XJ
>>87サンクス
実はこの文章(の配役)を、半日考えていた。
せっかくの休日が…。
89:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 19:20:34 SvcFbFMA
>>84
それ、仮想戦記・関が原東軍勝利シリーズの『大坂の陣宇喜多秀家公大遠泳大坂御入城』の場面の改変だね
90:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 19:20:43 GsgyiblB
>>88
しかし史実(このスレ内の史実ではなくリアルの史実)では大阪冬の陣の前に死んでるからなあ
キチガイ忠直卿と猪武者秀康父子の奮戦が実現してれば面白かっただろうな・・・
ぜひ続きを書いてくれ!
91:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 19:31:46 UhQdPhAd
>>83
マジレスすると、逃げ込んだのは伏見城内の自分の屋敷というのが現在優勢。
関ヶ原前に関しては史実通りで良いんだよな?
それとも徳川信者を装うネタレスだったのか……線引きが良く分からん。
92:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 19:36:27 GsgyiblB
(関ヶ原で桃配山の家康本陣から松尾山の金吾に鉄砲を撃ちかけるまでは史実と同じでいいと思うよ。)
93:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:10:00 jP12D1k5
2007年のクリスマスは、サンタクロースの大井競馬場での騎乗のため
中止となります。また、それに伴いましてクリスマスイヴやプレゼント交換会
も中止となります。ご了承下さい
URLリンク(2chart.fc2web.com)
また、昨年お伝えしましたように、2006年のクリスマスも中止です。
URLリンク(2chart.fc2web.com)
毎年、各所でこのような楽しいクリスマスの風景が見られましたが
自粛でお願いします。
URLリンク(2chart.fc2web.com)
94:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:21:18 BJpPg7ym
徳川事変後の新五大老と封地ってどれくらいだったっけ?
95:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:26:59 GsgyiblB
関白が小早川改め豊臣秀秋
毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家が領地を増やし
前田利長は家康との関係があって減封の上に5大老から外され・・・
あれ?新しく増えた二人の大老って誰だっけ?
96:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:37:48 IOfWhwEk
佐竹
97:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:39:35 BJpPg7ym
筆頭大老の石田三成は当然解るんだけどもう一人がね
98:84
06/10/22 20:44:47 TTIpF5XJ
>>90
だーかーらー、小説と史実の区別はしようね(笑)。
しかも架空戦記物でしょ。
私の知っている史実では、秀康はちょうどそのころ八丈島で行方不明になっているが、あくまで生死は不明。
そもそも死亡説のひとつは梅毒説で、もうひとつは暗殺説だけど、
八丈島で梅毒にかかる機会はあるのかな?と。(当然すでに流行している可能性もあるが)
もうひとつの暗殺説は、秀忠がすでに流罪となった結城家当主を暗殺する必要があるのか?と。
よって、両説を含む死亡説は不確実。
一緒に流された黒田長政ほどではないにしろ、
秀康もそれなりに生きていると思いたい。
それはともかく、励ましの言葉、ありがとう。
仕事があるし、資料も集めなきゃなんないので、書けるにしても一週間はかかるだろう。
ってか、あのクオリティーで書く自信ない…。
功名が辻、来週、一豊は掛川城の提供を宣言してしまうよ。
馬鹿だなあ、これで毛利や石田への言い訳ができなくなるのに。
99:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:50:06 UhQdPhAd
梅毒は罹病してから十年以上生きる事もあるから梅毒説にも特に問題はないと思うのだが。
100:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:54:17 TTIpF5XJ
>>99
そうなのか…。やっぱり死んだのかな。
101:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:54:39 BJpPg7ym
ああ、山内は大河のここ迄の流れで秀吉の時代から試されてきたのに
最後の最後で判断に過ったよね。
もっとも壮絶な最後で講壇師の影響か人気も高いし
もし東軍が勝ったらこの人は大河の主役は張れないだろう。
ある意味よかったのかね。
(あと言ってみたらネタスレだからガチガチでなくてもいいさ。面白かったんで続き待ってる)
102:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 20:57:05 BJpPg7ym
↑は>>98宛
103:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 21:28:44 UhQdPhAd
いや、論としての合理性に問題がないだけで、逆に言えば
梅毒にかかりながら30年以上生きた例もあるし、
(それで如水の有岡城の一件も実は梅毒の初期症状説がある)
梅毒での死を装って島外に逃れた、て話があったんじゃなかったっけ?
104:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/22 21:57:48 TTIpF5XJ
>梅毒での死を装って島外に逃れた、て話
を採用しておきましょう。
で、関ヶ原で東西に分かれた九鬼親子の息子の方って、江戸の陣に参戦したっけ?
Wikiにはあまり詳しく書いていないから、よくわからん。
いくらIf小説だからって、あまり史実を無視するわけにもいかないから、
知っているがいたら、教えて。
105:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 00:53:28 jYkZnFFK
>>104
ばっかお前
「鬼九鬼の海上封鎖」って言って
その後の海軍の教科書に載るくらい有名なエピソード作ったろ。
106:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 01:22:35 DjrUeASg
>>105
すまん、文意が伝わりにくかったかもしれん。
海上封鎖やったのは、豊臣方の、嘉隆四男・主殿助だよね。
俺が聞きたかったのは、関ヶ原では東軍についた守隆の方。
江戸湾をあっさり弟に良いようにされて、そのままで黙っていたのかと思って。
てか、そもそも生きているのかな。
107:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 02:49:47 rcAZUavT
こうゆう現実と妄想の境目に存在するスレが好き
108:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 03:12:00 mq3MFKsR
>>106
幽閉先の下田から遁走して江戸城に入っている。
しかし、隠居所から親兄弟に宛てたあの情けないぼやき手紙からは考えられないような奮戦ぶりだったぞ。
圧倒的寡兵でありながら、結局海上決戦では関西方と互角に戦い、浦賀水道を死守し江戸湾に一隻たりとも立ち入らせなかった。
まあ短期戦を諦めた大坂方の海上封鎖を、結局は突破できなかったけどね。
109:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 10:20:13 DtFOu55W
>>94
五大老には徳川と前田を外し
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の残留に加え石田三成、小西行長
奉行には浅野を外し安国寺恵瓊
三成はともかくなぜこの2名がこの役職についたかは不明
そのため東軍厨が妄想の東軍戦勝関が原では
必ず石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を切腹処分にしている。
封地については
毛利輝元は大老の筆頭になるのは辞退し加増もなし
上杉景勝が越後一国と山形の一部を加増され150万石
石田三成は近江一国80万石ほど
ただ毛利の場合、実戦闘に参加した吉川広家、毛利元康、毛利秀元
と輝元が推薦した宍戸、熊谷といった家臣合わせて10名近くが
新たな封地を頂戴して独立大名になっているので
実質毛利一門で100万石以上の加増になっている。
逆に上杉は加増したが直江を独立大名にして米沢を失っている。
110:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 10:24:01 DtFOu55W
(↑こんなもんでいいでしょ。)
宇喜多秀家は漏れも詳しく知らない。
ところで>>98
八丈島にいったのは結城秀康と福島正則だろう。
福島正則が漂着してきた宇喜多の酒樽を頂戴した逸話は有名
黒田長政は黒田家廃嫡の上追放処分だろ。
111:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 10:52:20 6ycUiLSp
小西行長が大老になったのは堺陰謀?説に賛成かな。
配下の水軍、堺の経済力、キリシタンとしてのネットワークを背景に
当時本土における対外貿易関係を仕切ってたのは確かなんだし。
三成は例外として一人石高や地位に劣ってるからそれ以外に理由を
見つけないと苦しい。
後は個人的に五大老内のバランスとりの意味もあったかと思うけど。
元々宇喜多家に仕えてたんじゃないかと言われてるから、
毛利(+一門)、上杉(+直江)+三成?、宇喜多+小西て感じで。
宇喜多は加増されたといえ、前田が減封されて五大老外れた上に
歴史浅いから一門や類縁も少なくて発言力低くなってたから。
112:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 11:57:00 BT++0loJ
>>96
佐竹は関ヶ原の戦闘自体には参戦してないんで無かった?
当主の義宣と先代の義重が対立したせいで、一応西軍だけど結局動かなかったはず。
義宣自身は上杉景勝や石田三成と親交深かったし、石田三成襲撃事件のときの義理も
あったからか加増を受けたけど、文字通りの恩賞ってわけじゃなかったらしいぞ。
佐竹って関ヶ原後にかなり加増されて100万石(細かい数字は知らん)越えてたけど、
アレは常陸の大大名として、奥羽とか関東の勢力を牽制させる意味合いが強い。
特に奥羽は関ヶ原で消耗してないから、まだまだ不穏な勢力が残ってたし。
佐竹は奥羽の抑えと、関東の後背から睨みを効かす役割をまとめて押し付けられた形だ。
まぁ重要な役だけど負担はどえらいし、かなり貧乏くじだな。
江戸の陣の時なんて、奥羽から江戸城を目指す軍相手に孤軍奮闘する羽目になったし。
それなのに江戸の陣の後はまったく加増されてない。
結局、佐竹義宣は三成らに信用されてた一方で、体良く使い潰された感じだな。
実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
113:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 12:19:04 BT++0loJ
>>112訂正
×実際、佐竹義和みたいな名君を輩出したりで1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)
といわれたりもしたけど、莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
○実際、1700年代には実高200万石(かなり誇張だが)といわれたり、佐竹義和みたいな名君を
輩出したりもしたけど、初期の莫大な借財のせいで内情はカツカツだったらしいし。
114:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 12:22:20 3Fr9R/Iu
佐竹は関ヶ原の後に江戸駐留組にちょっかいだして小遣い稼ぎしてるよ
大大名になっても伸びしろがなかったのは、場所が関東だからとしか言いようがない
湊は無いし、経済文化の中心地は京畿だし、どうしようもない
115:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 13:23:10 fD5NuB0W
>>110
すまん、まちがっていた。
>>48にもあるとおり、
八丈島に流されたのは、結城秀康と福島正則だね。
スマソ。
しかし宇喜田は情に厚いな。
もし東軍が勝って、宇喜田が遠流にでもなったら、
正則も同様に酒を送るような友誼をしめすかな。
116:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 14:27:00 fD5NuB0W
>>115
しかも 宇喜田 でなく 宇喜多 だな。
シンデクル。
117:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 20:13:27 jTPJLQCX
福島正則もどこかそういう所あったらしいからやってたかもな。ところで正則と秀康の八丈島での仲はどうだったんだろうな。
118:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 21:42:05 N0TVJKia
梅毒仲間で島中に梅毒を移した。
119:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 21:43:29 fD5NuB0W
正則と秀康は仲良かったって聞いた記憶はあるのだが、
関ヶ原合戦より前のことなのか、東軍キチの言う関ヶ原合戦の東軍勝利後のIFの話なのか、
俺の頭の中ではっきりしない。
関ヶ原合戦前から仲がいいのなら、八丈島でも仲良しだったと予想されるが。
>>111
そうか、小西の存在も忘れていた。
商業と政治の両面に口出しできる小西家がいなくなったら、
戦火にあわずに発展した堺の経済も停滞していたかも。
120:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 21:44:26 fD5NuB0W
>>118
ひでぇ…。
121:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 21:52:37 DtFOu55W
ここはsage進行だぞ。
それはともかく・・>>118
結城秀康といえば
梅毒で鼻が壊死して木で型を作ってたといったな。
江戸城に泳いで入城した際にはティンポコも木で型を作ってたのが
極端にでかすぎて、衆目を浴び、恥ずかしがった秀康が
自分の名を問われた際に「ウタマロだ」と偽称したから
その後極端にでかいティンポコを指してウタマロというようになった
という俗説があって、それが秀康の江戸入りが単なる
伝説に過ぎないといわれる理由だそうな。
122:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 22:02:21 DtFOu55W
ごめん、ちとマジレスだが、
>>1-5を見るにこのスレのタイトルは「もしも、関ヶ原で東軍が勝っていたら」
ではなく「もしも、関ヶ原で西軍が勝っていたら」だったようだな。
でもそのタイトルだと同じ内容のスレが大量にアルしな。
タイトルを間違った >>1・・よりも、上手く誘導した>>6-7の功績かな。
ここまで面白スレになっているのって
123:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/23 22:08:30 fD5NuB0W
私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。
で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
――――――――――――――――――
私も思うが、>>6とそれをうまく受けた>>7は偉大だな。
さすが、きちんと歴史を知っているって感じがする。
で、>>84の続きではなく、その前を作ってみた。
五行目以降は、(実際のところ江戸城入城の伝説もあるようだが)完全にIFね。
仕事の最中、こんなことばかり考えていた…。
――――――――――――――――――
関ヶ原の合戦に破れた結城秀康と福島正則は、八丈島に流された。
八丈島へは時折、宇喜多家の船が立寄り、正則への酒と、心尽くしの品を置いていくこともあった。
猛将同士気が合ったのか、一掬の酒も一片の肴も、正則は秀康と分かち合った。
慶長19年・晩秋の船は、正則に酒だけでなく驚くべき情報をももたらした。
徳川家あやうし、と。
正則にこの事実を告げられた秀康はためらうことなく言い放った。
「江戸へ行く!」
正則はこの言葉を聞いた瞬間、己もまた江戸へ行くことを決めた。
豊臣家への忠誠も義なら、友を助けるのもまた義。
まして今の豊臣家の意志は、憎き三成の意思。
されば、命を捨てに行く友に殉じるべし。
その翌日、秀康は以前から患っていた梅毒で死に、遺骸は直ちに荼毘に付された。
己の葬儀を掘建て小屋の中から見つめる秀康と、正則は、八丈島からの脱出を話し合った。
島には見張りもいる。目立つ船はつかえない。泳ぐしかない。
二人のいくさ人は腰の大小すら外し、闇に隠れて海の中に飛び込んだ。
海流に逆らい二人は泳ぎ続けた。疲れ果てた秀康が眠ると正則がかかえ、正則が眠ると秀康がだいた。
島伝いに泳ぎ泳いで幾日経ったか、夕闇の浦賀に近づくと、かがり火を焚く多くの軍船が漂っていた。
ひらめく旗の印は、九曜、三つ巴、丸に上…。
そして安宅舟には、五七の桐!
豊臣の紋を懐かしんだ正則は、上ずった声で絞り出すように言った。
「夜の静けさには、我々の泳ぐ水音も聞きとめられよう。
かといって昼を待っても、明るい日の下ではたちまちに見つかるであろう。
さればそれがしが、注意を引く。その間に秀康殿は船の間を泳いで抜けられよ」
正則は船団から離れた一艘の小早に乗り込み、疲れきったはずの体で数人の兵士を瞬時にたたき伏せ、海に投げ込んだ。
「今の水の音で、敵共はこちらに気づいた。早く行かれよ。
それがしが江戸へ行っても将兵はまとまらぬが、秀康殿が行けばまとまる。」
秀康は何もいえぬまま泳ぐしかなかった。
正則は小早に残された銃を放ち、大音声を轟かせた。
「侍従羽柴正則朝臣ここにあり! わしを亡き太閤殿下のもとへ送るものはおらぬか」
捕縛ようと小早に乗り込む武者を、正則は奪った刀で薙ぎ、突き、切り裂いた。
多くの兵が倒れ、やがて挑む敵も現れなくなった。
遠巻きにする安宅船から鉄砲が掃射された。正則は掃射を三度までうけてようやく倒れた。
倒れ伏した正則の顔をあらためようと雑兵が小早に乗り込むと、小早の中にはくるぶしの深さまで血が溜まっていた……。
124:123
06/10/23 22:09:37 fD5NuB0W
出だしが重複しているが、気にせんでくれ…。
125:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 10:03:19 YJNnTGW5
それにしても高台院様も不憫だったよな
大淀様に亡き太閤殿下正室の座を追われ
宇喜多家預かりの身になるとは…
126:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 13:08:39 MDzhvE6g
ああ、自分に子供ができなかったのを棚にあげて淀様に楯突いたあの裏切り者か
亡くなったとはいえこいつが豊臣を裏切ったから子飼いの将も流れた
最低の裏切りもの。
127:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 15:33:57 mZXWpz/i
でも、その「子飼いの将」がもし残っていたら、三成と争って、
結局、漁夫の利を得た毛利が完全に政権を奪っちゃうって落ちになったんじゃないの?
逆に「子飼いの将」らが東軍についているおかげで、もし東軍勝利で家康が権力を握ることになっても、
福島、加藤が牽制して、家康も豊臣をつぶすわけには行かなかっただろう。
家中を分けたことで、どちらの結果でも豊臣の安泰につながる(可能性がある)ので、
そういう意味では功労者。
…ひょっとすると家康は、ねね様を正室にして、秀頼の義理の義理の父親になり
実権を掌握したかも。
128:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 16:13:34 154jjJs2
高台院はむしろ三成と懇意だった説もあるから、豊臣内部での政権闘争って線もあると思うぞ。
129:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 16:23:21 mZXWpz/i
>>128
いまいち言いたいことがわからんのだが、
三成と毛利の対立によって、三成に近い高台院が幽閉されたってこと?
130:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 16:53:09 154jjJs2
>>128
うん、そう。
実はこれに関連して昔から一つ疑問があってさ、三成の三女、辰姫の事。
そもそもあの石田三成を父に持ち、秀吉正室高台院の養女になった女性が
北の果て津軽藩に嫁すのはちょっとおかしいと思わないか?
恐らく彼女は本来もっと上位の家へ嫁す予定だったんじゃないかと思うんだ。
当時権勢を誇った石田三成の実娘を、関白を複数人輩出した豊臣の姓を持ち
本人も従一位を授かった高台院の養女にして送り込む先といえば……
宮中に入れる準備だったとしてもおかしくはない。
それをさすがに豊臣の他派閥は黙過できなかったんじゃないかな、と。
131:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 16:58:14 mZXWpz/i
ねねが近江人の三成と仲が良いというのはぴんと来なかったが(というか考えもしなかったが)、
確かに毛利なんかに比べれば、ずっと近い関係にあっておかしくないな。
132:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 19:18:55 8AMq26NK
ねねは成人後の加藤、福島らとは意外と疎遠だったって聞く
ところで三成の娘を養女にしたのは何でなんだ?
単に三成と懇意だったからなのか、大淀派の三成を取り込むための政略的なものなのか
133:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 20:04:50 JiL9rL5W
三成淀殿のことめっさ嫌ってただろ・・・・・・
淀殿が妹の嫁ぎ先の徳川についたんだからさ
西軍が勝って、高台院さまが淀殿放逐したのに、皆何言ってんのさ
134:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 20:30:48 154jjJs2
そこらへんちょっと曖昧なんだよね。
淀殿が一時大坂を追い出されたのも事実、高台院が最終的に宇喜多に行ったのも事実。
その理由に関して、戻った淀殿との権力闘争に負けたとか、秀吉と自分が可愛がってた
養女豪姫と猶子秀家の所へ自分から大坂に嫌気がさして出て行ったとか諸説あるわけで。
135:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 20:39:06 8AMq26NK
大淀派ってなんだ俺orz
そか。
秀頼が、石田三成か大野治長が淀殿と密通して生ませた子とかって俗説があったりするから
それなりに親しかったのかと思ってた。
言われてみれば三成は、淀殿が秀頼の母として政治に口出しするの嫌ってたって聞いた希ガス。
勘違いだったらしい。
136:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 20:46:53 mZXWpz/i
>>134
追い出されたのか、自主的なのかというのは分からないが、
とにかく互いの顔を見たくなかったんだな。
秀家あたりは、近くに義ママがきてうれしかったりするのか?
137:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 21:03:46 O+REVKgN
皆! スレタイ見てみ!
138:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 21:08:11 yu/XdRmX
東軍が勝っていたら高台院は長生きしただろう
139:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 21:08:20 CSU8wCe7
そりゃ東軍が勝ってたら茶々は大坂城の主に納まったかも知れないけど
西軍が勝って毛利宇喜多上杉体制になっちゃんだから茶々なんて用なしさ
実際戦後の領地配分だって大老たちが決めてるだろ
140:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 21:12:48 mZXWpz/i
だから家康ねねの、熟年夫婦が誕生するんだよ。
141:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 22:33:50 mGzC+MzJ
淀殿が大阪追放になったのは建前の上では、秀吉の遺言に従って
秀頼の御台所を家康の孫千姫にしようとしたせい。
あまりに政治音痴だったわけだな。空気読めよ淀
実は東軍に愛人の大野治長がいたので東軍に肩入れしたのがばれた為
とも、それを口実にして煩い淀を一時的に隔離したとも。
高台院が最終的に宇喜多にいった。それは多分宇喜多の京都屋敷でしょ。
寺と屋敷の往復生活だったと聞く。
なぜにこんなことをしたのか理由は不明だが、秀吉正室の彼女が宇喜多の
後ろ盾だと明確にしておくことで秀家の立場を応援したんだと思う。
重成は豊臣秀頼の小姓として大坂城にいたが、小姓仲間で津軽為信の嫡男であった津軽信建の案
142:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 22:37:35 mGzC+MzJ
↑ごめん・・最期の一行は間違いです。
143:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 23:11:54 yu/XdRmX
徳川秀康は家康が生きていたらかえって冷遇されていたかもな
豊臣朝臣を名乗ることも、徳川氏を名乗ることも許されず
結城秀康のまま一生を終えていたかも
144:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 23:13:29 mGzC+MzJ
ところで豊臣一家についてだが
豊臣秀頼には
正室との間に嫡子、これが豊臣秀仁
身分の低い?侍女なにがしとの間に庶子が一人
この方が幼名国松 豊臣秀文
で最期に娘が一人 清子
彼女は晩年に天秀尼として女人救済の寺を建立したことで著名
で秀仁様は愛妻家か恐妻家かしらないが正室一人だけで
生まれたお子様も愛子という娘がひとり
このせいで女性関白容認論議というのが
当時の政権首脳部で激論となっている。
また、そのせいで秀仁は世に名高い悪法生類憐みの令を発布している。
で秀文のほうは奈良に所領を賜り、なぜか豊臣の姓を緩されず
豊篠家の姓を名乗っている。彼の正室は三成の孫娘
こちらも生まれたの娘ばかりでやっと男子を誕生したが
この男子に豊臣関白家を継がせるかで揉めたのは
結構有名な話。
秀吉-秀秋-秀頼-秀仁に続く五代関白をどう決めるかで
有栖川宮家から豊臣家に養子をして存続を図るように
主張する連中が揉めている。
最期の清子だが黒田・・・じゃなかったw前田利常に嫁いでいる。
前田清子ね。
こうしてざざっと見ると・・万が一徳川家が勝利していたら
あそこは子沢山なだけに、世継ぎの男子が生まれずに
五代目を有栖川宮家から養子にしようとか
男子出生祈願のために生類憐みの令なんて悪法もでなかったろうから
その点では西軍が勝ってよかったのやら・・
145:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 23:17:36 mGzC+MzJ
・・これでいいのかな(少々タイムリーすぎるか悪のりしすぎたか)?
豊臣一家の構図これでよかっったかな?
漏れも詳しくないので詳しい方の意見欲しい。
146:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/24 23:23:04 MXiRwePC
来年の大河ドラマは久々に小西行長だったな。楽しみ。ただ主役が気に入らん。
亀梨ってジャニタレかよ。関ジャニの関東訛りで主役が務まるとは思えん。
147:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 10:42:47 7XppGqT0
大河ドラマねえ・・・
今年は変に家康を律儀の人に仕立てて、変なことになっているからなあ
148:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 16:29:45 e1xY8O8v
>>147
東軍が勝ってれば正しい評価として扱われてたかもしれないぞ?
家康の評価は後年の豊臣マンセーなゴマすり国学者や講談のせいで
イメージ定着しちゃってて、どこまで捏造かわけわからんところもあるからな。
まぁそれにしても今年の家康のキャラは無理やりだと思うが。
キャスティングのせいか?ヤツが脚本に注文つけた可能性もある。
149:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 17:44:23 Hy2vQSU/
大河といえば山岡荘八原作の大河ドラマ『石田三成』は
極端に言えば義に厚い忠義の三成像として褒めすぎのきらいがあったな。
>>148
秀吉死去のあと家康が大阪城西の丸にもう一つの天守閣つくったり
勝手な縁組して前田利家と喧嘩になったりしたのは事実のようだから
いくらなんでも、その辺のことを全部スルーして家康は律儀と評価するのもねー。
150:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 19:20:45 n8wxy1oU
大河つながりで。
11月から葵・徳川三代、時代劇専門チャンネルにて。
あわれなる徳川家の行く末に、涙しましょう。
>>143
家康は、関ヶ原から数年でぽっくり逝ったからね。
家康が生きていたら、多分忠輝も冷遇されっぱなしのままに滅亡。
…って、秀康、徳川姓はどうか知らんが、豊臣姓までは名乗ってないだろ、まず間違いなく。
ネタ?
151:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 21:26:06 Y1Fvz1j7
武家においては5姓の中で豊源平藤橘の序列順だから
152:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/25 21:40:55 dg0OJ9gi
うーん。あの状況で東軍が勝つなんて、中山道の秀忠隊が
開戦前に到着する意外に考えられんよ。
実際、真田親子がいたから無理なんだろうね。
本多正信ってあの時に捕らえられて、家康を扇動したって
嘘みたいな理由で斬首されるけど、さすがにあれは無いよな。
153:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 00:02:30 pLO8pePi
しかし負け組庶民には人気があるよな家康は。
判官贔屓ってやつかな。
154:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 00:24:36 CTRC9tpW
忍耐、苦労の人のイメージで売ってたからな
関ケ原で勝っていたら家康の評価も一変したろう
155:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 00:28:33 WHX/uPTy
処刑直前に、柿は痰の毒だからって断る話は、
健康マニアたる家康らしいエピソードだよな。
156:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 00:42:06 fDywx5Nc
でも死因は天ぷらの食中毒ってのが、またご愛嬌だよな
それも斬首される河原でのバカ食いだからな・・
157:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 11:18:16 0LMRetc9
家康って斬首されそうになった?
封地は削られているけれど家は残っているし、軟禁状態でのストレス死な印象もっていたけど。
なんにしても食中毒がきっかけで死んだのは間違いないんだろうけれどね。
158:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 12:08:35 VlzklI5A
あれだろ? 有名な家康影武者説。
159:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 12:21:39 ISvsN5Bg
家康は斬首されてる・・・ただ存命説もあって
三成死没後の豊臣政権に出入りし暗躍した南光坊天海は家康であるという
説が強い。彼が豊国明神に祭った灯篭とかの碑文には
羽柴三河守と刻まれてるのは有名な話だ。
あと江戸の豊国明神を建立したが、ここには桐ではなく葵の紋が使用され
てるのも、その説を証明している。
160:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 12:58:32 jCnhlY28
最近は天海を出家した家康の名前にして普通に出してる時代小説とかもあるからな。
存命説が確定したって学説は知らんが、まぁそれで面白ければおkか。
義経=チンギスハン説よりはましだしw
161:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 14:52:12 0LMRetc9
しかし……首まで切られて、なんで徳川家はのこったんだ?
162:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 14:56:25 T/0UquDv
ノヴァ・イスパニアに逃れたって説もあるけどなぁ
ホントのとこどうなんだろ?
163:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 15:14:48 VlzklI5A
>>161
単純に「250万石いきなり潰したらどうなるか」考えれば良いんじゃないかと。
164:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 15:40:31 0LMRetc9
戦場で捕らえられたといわれているんだっけ?
でもなきゃ、首ちょんぱは無理っぽ。
165:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 16:18:24 VlzklI5A
そのはず。
あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
捕らえて渡せば大功になる所を、表に出すと取引で生き残る可能性を考え
後の禍根を立つためにあえて曖昧なままその場で始末をつけた、て話。
少なくとも公の面では冷酷官吏だった石田三成が真田関連の始末(信幸や
その岳父本多忠勝の件)では奇妙なほど真田側の赦免願を通してるのは
上田城戦だけじゃなくこの件も絡んでるんじゃないかと言われてる。
そのせいか東軍勝利のifだと大坂の陣では今一歩の所で家康を逃してしまう
場面を用意する作者も多いよな。
166:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 16:34:02 0LMRetc9
>あるいは関東へ逃れる所を真田信繁が捕らえて切ったという説もある。
これが京へ送られてさらし首ってことか。
しかし家康処遇に関する史料は、なぜこんなにばらばらなんだろう。
小説では無いが、影武者説って言うのが真実味を帯びてくる?
しかし、幸村がやったとすると、秀忠は、はやばやと切り上げずに
むしろ上田城に張り付く、またはあえて関ヶ原にすすんでいれば、
家康は生き残ったという可能性もある。
が、とろとろしていたら、関東に帰る前に袋叩きか…。
歴史のすべてを知っている立場でも、振る舞いに迷うところだな。
ベストシナリオはどれだろう。
167:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 16:57:16 0LMRetc9
しかし、幸村がやったとすると
じゃなくて
しかし、信繁がやったとすると
の間違い
168:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 17:12:41 93b8NQy9
教科書では本能寺の変は明智と家康の共謀ってことになってるが真偽は分からん。
家康は意外といい奴だったかもな。でないと逃亡説が真実だったとしても、
協力者なしには逃げられないだろうし、そもそも東軍にあれだけの兵力を揃えられんだろ。
ちと判官びいきかな。
169:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 18:10:19 0LMRetc9
>>168
本能寺云々は、豊臣史観ってやつだな。
でだ。本題だ。
東軍がかったら、どうなったか。
大きく分けると、
1、毛利を中心とした西軍の巻き返し
2、豊臣秀頼のもと、家康による執権政治
3、家康による政権簒奪
だろうか。
勝ち方にもよるし、なんともいえないけれど。
170:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 18:34:40 T/0UquDv
謙信と並んで律義者の代名詞の家康だよ?3はねーよ
171:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 18:55:20 ISvsN5Bg
家康は関が原の敗北後逃走中に捕縛されて六条河原で処刑されている。
が、公式文書には徳川家康ではなく世良田二郎三郎元康なる名前で記載されており
これが影武者徳川家康であるといわれる理由だとか・・
>>169 漏れは1だと思う。徳川家康といえば蒲生氏郷に天下を見る器じゃない
ケチと酷評されてたからな・・恩賞出し渋って東軍諸侯にも離反され
追い落とされて戦国乱世というのが妥当かと。
歴史家は家康率いる東軍が勝っていたら戦国乱世が続き
天下泰平な豊臣の世は訪れなかったという見方で一致してる。
172:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/26 20:11:58 0LMRetc9
うーん、色々考えてみたけれど、家康の思い通りに行ったとして、家康による執権政治、なのかな?
律儀っていうのもそうだが、組織のナンバー1よりナンバー2の方が安全そうだし、家康の性格にあっていると思う。
豊臣の嫡流が絶えたら、鎌倉幕府を参考にして、摂関家の人物や親王を戴いて、完全に傀儡にしてもいいんだし。
173:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/27 01:00:43 N+zkxr2K
そういや江戸夏の陣で自害した秀忠の生存説もあるよね。
確か忠勝が逃がして、島流しになる前に正則が逃げてた黒田領
にいたって話。
もっとも、後年はアル中になって煙たがられてたらしいがw
あと秀忠の息子は島原の代官だかで、善政敷いてた天草時貞
って人らしい。
174:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 02:17:40 qUhh+pri
花の様なる秀忠様を、鬼の様なる黒田が連れて、引きも引いたり筑前へ
ってやつね。
本当に生きていても、大勢に何の影響も無いだろうがな。
175:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 02:37:08 rttSb7on
ごめん、ド忘れしたんだけど姫路宰相って誰だっけ?
176:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 02:41:06 inK75Drw
たしか立花宗茂だったような
まあ、すぐに改易されるんだけどな
177:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 02:46:46 qUhh+pri
宗茂って、東軍についていたら(なおかつ勝ったら)、
秀康あたりと気が合って、五奉行クラスにはなっていたような気がする。
178:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 08:09:12 hZwp3gGj
宇喜多大納言秀家様が
関白になられるそうな
179:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 12:51:39 IWLPsJ0Y
宇喜多といえば現在でも宇喜多財閥で有名だけど石田公爵家ってどうなっちゃったの?
180:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 14:01:03 qUhh+pri
石田「侯」爵家な。
よくしらんけど、二次大戦後の財産税でほとんど傾いたんじゃない?
最大90パーセントの税率だってよ。
181:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 16:25:22 yPH5RRO+
宇喜多財閥は解体されて宇喜多グループになったんじゃなかったっけ
182:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 18:29:04 /mXzYU7p
そうか、財閥解体後は「財閥」と呼ばずに「グループ」と呼ぶのか。
マジで勉強になった。
183:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 19:26:43 YNLVemCq
>>178
それは当時の俗説だったような。
当時は「石田様には及びもせぬがせめてなりたや関白に」と歌われる
三成全盛の時代だったから。
関白になって秀頼に政治への関心が無かったせいか
関白秀頼に太閤三成ありといわれてる。
処刑直前に鯛の天ぷらを振舞った三成が用意したタイは目白鯛だったといわれ
三成は祝いの席には必ず目白鯛をだした。
あと三成の館の庭には大きな池が用意され高価な鯉が泳いで、これをよく
来客に自慢していたそうな。
ここから「目白の闇関白」といえば影の最高権力者やキングメーカーへの呼び名
となり、権力者は三成にならって屋敷には鯉を泳がせるのがステータスとなった。
184:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/28 19:43:34 sEvLGe2g
三成は鯉の刺身の食いすぎで寄生虫にやられて死んだんだっけな
185:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 01:06:15 Wa/a91GY
このスレの住人は、東軍が勝つ可能性なんて考えたくも無い、
豊臣派ばっかなのか?
俺は、東軍が勝ったら、家康は世界に先駆けて共産主義国家を設立したと思うぜ。
朝廷からは将軍に任命されて、
家来が家康を呼ぶときは、「われらの同士にして偉大なる家康大将軍さま」ってよぶの。
186:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 01:09:14 hFHKdlaB
>>185
俺は根っからの東軍派だ。
律義者の家康だから東軍が勝っても豊臣家は残りそうな気がするんだよな。
秀吉子飼いの将も健在な訳だしな。
ただ統治者としての家康の能力は未知数。
187:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 03:47:48 74P/dEmQ
>>186
関東入りを調べて貰えればわかるけど結構なものだよ。
前年まで敵国だった北条領を上手く切り盛りしつつ発展させてる。
ただ、家康の関東での功績は全部直江兼続の手柄になっちゃってるけどね。
188:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 10:02:32 rQY7L0vz
西軍が勝ったおかげで、合議型政権だったけど、どうなんだろうね。
毛利は部下は優秀だけど、大将が優柔不断。
石田は頭が切れるけど、石高少ないし、敵が多いし。
上杉、前田は天下取りの野望がなかったし。
どこか一つでも真面目に天下取りを目指していたら面白かったかも。
東軍が負けたことで多くの武士が海外に逃亡。
いまだに東南アジアでは、武士のよろいと言えば、赤が標準だと思っているらしい。
189:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 11:11:26 dILkd55o
>>186の言うように豊臣が残るとすれば、やはり京都が政治の中心地かな。
古来、京を守る軍勢は負ける、という例も多し、家康は京には定着しないと思う。
その代わり、岡崎・浜松あたりを取り上げて、そこに本拠を移すんじゃないかな。
地元だし、京に比較的近いし。
190:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 21:24:31 t6IAag6d
家康は三河の時代から「三奉行」制を敷いたり、
関東入りのときには伊奈忠次のような能吏を登用したりしている。
家康の政治家としての能力は武将としての力量を上回ってるよ。
ただ、家族的結合の強い譜代の三河武士が家臣に多いのも事実。
その処断を誤れば秀吉政権とたいして変わらなかったかもしれない
191:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/29 22:58:56 JdCWAV0x
家康を甘く見ないほうがいいのでは?
彼の模範としたのは鎌倉幕府だぞ?
鎌倉幕府の執権北条氏みたいに徳川が執権となって
豊臣家を謀殺してしまうのは目に見えてる気がする。
あの狸は結構したたか、実の息子殺すくらいだぞ。
ただあの家康は全国の仕置きは無理なのは自明だろ。
今でいう農本主義っていうのか
米とか田畑のことには精通していても、商業とか興味ないと思うので
西国とか到底治めきれないと思う。
家康の代は何とかなっても苦労知らずな秀忠か、その子の代には
毛利とか島津や小西とかの連中が商業資本や朝廷と結託して
時代錯誤な徳川を追い落とすようになると思うな。
192:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 01:21:25 QYvHAPNE
秀康、代わりに頑張れ。反徳川はみんな打ち殺せ。
忠輝、おまえも頑張れ。反徳川はみんな叩き潰せ。
193:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 01:29:43 E1biS4yn
>>191
タヌキはしたたかですか。
どうもアンチ西軍という訳ではないですが豊臣家の実権支配を明確にする為に
立ち上がり破れ滅んだという鮮烈なイメージが頭にあって
どうしても家康は律義者って意識が脳内補完されがちでしてね。
194:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 04:00:40 tnibKoJm
そろそろ豊臣史観から抜け出してもいい頃だな
195:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 08:41:07 EgDM0xQp
東軍が勝ってたら、徳川氏の本拠地の江戸が発展しただろう。
今頃、100万人を超える大都市になってたかも。
196:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 09:49:03 bD49R1dw
>>195
江戸市もこのたび浜松市とともにめでたく政令指定都市になりましたが
197:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 12:21:27 CpuuKXe2
江戸が大規模都市になってたかもって関東人は夢見すぎだろ
あんな京から遠い僻地に今以上の人が住み着くとは思えないんだけど
198:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 16:54:20 8tTYPQe7
関ヶ原のIFネタは、関東人は夢見ちゃうからね。
いくら関東入り以後それなりに発展し始めていたとはいえ
当時政治の中枢を移すだけのキャパシティは江戸には無かったんじゃないか?
田中角栄が日本の首都を新潟に移すって言い出すようなもんだと思うぞ。
もし当時の関東に十分なキャパシティがあったなら、関ヶ原以後関東に入封した大名は
後々あんなに苦労しなかったと思う。
199:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 18:07:40 dei1J8hm
>>198
関東が首都圏になると、京洛から江戸にいたる旧徳川系の地域が
東海道メガロポリスとかになっていたかもね。
そのほうが太平洋に面していた分利便性はよかったかもしれない、
関東なら広いしね。
でも現実にはいまだに
会津越後から京洛にいたる旧上杉系と前田系の北陸道地域から
そのまま宇喜多 毛利系の地域である中国筋から北九州にわたる
北越―山陽メガロポリスになってるわけで
大きな影響を及ぼしたのかもな関が原ってのは。
200:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 18:09:53 HaJLMER+
確かに田んぼしかない静岡にも、大都市が形成されたかも。
201:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 18:35:25 WxQi+2yA
関東平野の広大な農地のおかげで我が国は食物自給率100%を優に超える米輸出国だからな
あれが農地じゃなくて人口ぎっしりのメガロポリスだったら日本人は何を食えばいいのか
想像するだに恐ろしい
202:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 19:48:56 HaJLMER+
>>食料自給率100%
米と一部の農作物だけ。
203:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 20:13:26 rzeAhYqU
オレ、山形生まれなんだけど、上杉が最上を追い出して越後と羽前
を治めてくれたからすげー良いよ。
京からは遠いが、今じゃ東北一の大都市だぜ。
もし東軍が勝ってても、最上は陰湿だからすぐ改易か取り潰し
だったろうな。
さらに北の横手に押し込められた最上ざまーみろw
204:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 20:17:22 RlSVySat
横手は小野寺だろ
205:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 21:46:37 rzeAhYqU
>>204
結局取り潰されて、後から小野寺入ったんだよ。
関ヶ原直後は最上。
で、子孫はお情けで大坂の旗本。確か五千石だったかな。
三男の山野辺家は上杉で一万石貰って山野辺城主させられてた。
206:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 22:23:27 RlSVySat
元から横手の小野寺は何処に行った?
207:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 22:35:08 1C6RIS+T
小野寺は最上憎しで西軍についたから
旧結城領に加増転封になったんだっけ
208:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/30 23:17:40 MVfTJpr+
お前ら記憶が曖昧になってきてるぞw
209:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 00:22:08 ebiPd9Uj
上杉は旧徳川領に移封。
ま、関ヶ原直後ではなく、徳川滅亡後にだけどね。
210:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 01:38:40 ghMn90Eq
で、会津には加藤清正が入ったと
体よく追い出したな、ホント
211:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 02:22:21 2hYR5n+8
清正も関ヶ原後はどうなる事かと思ったが
一説には三成に土下座までして許しを請い、会津35万石に返り咲きだからすげえもんだ
江戸の陣での働きもかなりのもんだったけどな
212:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 02:48:26 eMYBnSWJ
関ヶ原で浪人になって唯一大名に返り咲いた武将なんだよな>加藤清正
213:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 09:21:22 ZAmPea35
意外に伊達政宗が天下取ったかも
江戸夏の陣では真田を叩きのめし、三成をけっ散らかして秀頼に自害覚悟させたほどだし。
まあ後藤と薄田に討たれてしまったが・・・
やっぱり野心がないから駄目か? 親父の輝宗は野心家だったんだけどな
214:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 09:38:20 +Ame8dEh
>>212
似たような立場だった市松は改易後島流しだし
関ヶ原で東軍として出陣していなかったのも大きかったのかな
会津もうまく統治してたみたいだし、凄い人だよね
215:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 10:18:20 OH5l2/Po
>>209
上杉は関東には移っていないぞ。
上杉は関東管領の職責の追認と関東の総取次になったんだ。
佐渡もあり越後羽前で実高200万石といわれ
日本海交易も盛んで旨みのある場所を
わざわざ移るわけ無いよ。
関東移封は当初は宇喜多が希望していた。が京洛の防備の観点から
宇喜多が加賀に移って120万石
当初関が原において東軍だった為、減封されていた前田を
江戸の陣の戦功と合わせて江戸120万石に据えた。
ただ関東の小大名は全て上杉の軍令下に入るので、その辺は
関が原の東軍参加の影響が後々まで残した禍根だな。
216:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 12:36:40 wr132lDs
おまいら意外に憶え違いが多いですね・・・学校でちゃんと日本史履修したか?w
217:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 14:07:44 Sro662/t
まあ、高校ではここまで細かくはやらないからな。
資料集なんかには微妙に載っているけれど。
>>213
関ヶ原以後、豊臣と徳川を除けば、伊達と前田が二巨頭。
伊達は米沢や他の領地を得て、いくらか関東に近づくだろう。
徳川はおそらく本拠を尾張~駿河に移すだろうから、関東は手薄に。
ここまでは多分確実。
家康の死後、伊達が前田と結ぶか、徳川を君側の奸に仕立て上げるのに成功すれば、
関東領有→東海を上るのも可能になると思う。
218:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 16:07:07 OH5l2/Po
>>217
どうだろうね。前田は関が原に参戦できないわけだし、母親人質にしてる段階で
徳川に対する巨頭なりえない。伊達に至っては上杉と和睦し南部を攻めてる。
これは関が原の勃発前からの行動だから東軍が勝っていても
伊達は潰されたんで無いの?
>>216
そもそも関が原がマニアックなんだから仕方ないわなw
学研の「異説関が原」でちょっと2ちゃんねらーの歴オタに
注目されただけだしなwww
本能寺の変でならイフの歴史も成り立つが
関が原は「西軍が勝つべくして勝った戦」東軍の勝つ要素が低すぎる。
万一東軍が勝っても、豊臣恩顧と家康はギクシャクしてたようだし
まして家康とその周辺は商業とか上方に疎い田舎侍ばっかだw
まず天下を治めること不可能
蒲生氏郷が家康はケチと看破したように恩賞ケチってブーイングの末に
失脚したのは確実だろう。
そして戦国が続いて西欧列強の植民地がオチだろうな。
大概関が原で歴史に詳しいものがイフを語れば
東軍が勝ったら日本は戦国で疲弊した末に西欧の植民地ってのが
お決まりのパターンだ。
学研の「異説関が原」のように
家康が三国志のトウタク、秀康がリョフの役どころとなったのと
同様の結末を辿ってってのはちょっと笑えるが・・
淀殿を二人を離反させるチョウセンにするのは無理ありすぎだろうww
219:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 16:24:52 betcpCJB
関ヶ原で東軍が勝ってたら、東軍の逆転劇とかで大注目されたのかな?
確かに東軍が勝てば面白いことは面白いが、現実的に難しいんだよな
後世には「布陣の段階で勝負は付いていた面白みの無い戦」とか言われるし
戦国時代の幕切れとしてはちょっと物足りない感じはある
だからIFを考える人もいるんだろうが
220:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 16:49:34 OH5l2/Po
戦国時代の幕切れは
ずばり江戸の陣でしょう。
徳川家に改修を命じた方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」
を豊臣の姓を切って逆にして呪い奸臣家康の名を祝うものと
安国寺恵瓊長老の難癖同然の横槍が入り
方広寺の鐘銘問題で、なぜか本多正純と秀忠嫡子竹千代の乳母お福を
別に大阪に下向させる。しかも本多を応対した片桐且元が
厳しい叱責を、お福を応対した大蔵卿局が甘い対応をしただけで
本多正純は内応した裏切り者扱いされ追い出され・・開戦。
江戸城では家康の正統と三成こそ君側の奸ゆえ討つという檄文を
かつての東軍諸侯に送ったが
前田、黒田、藤堂、浅野、最上、堀尾・・いずれもこれを拒絶
参加したのは関が原で国を失った浪人大名(有名どころで黒田長政)と
西軍に遺恨を持つ無数の浪人が集まった。
総勢10万弱
221:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:02:00 OH5l2/Po
大老筆頭石田三成は、このとき大阪城で一人哄笑していたと
いわれる。
ただちに江戸征討の命がだされ東軍奥羽の諸侯が動員した
総勢18万続いて西国大名の10万が江戸城を包囲
その軍は、毛利、小早川、吉川、上杉、前田、佐竹、島津、浅野
石田、小西、増田、長束、九鬼、宇喜多、長宗我部、蜂須賀、堀尾・・
といった諸侯と片桐且元や大野といった秀頼直参の旗本譜代といった
全日本の兵力の精髄が結集、総兵力は30万をくだらないといわれてる。
しかも、この江戸の陣には徳川家からも参加してる。
大名からは家康の子徳川忠輝 豊臣家旗本として結城秀康の子忠直、あとひとり
宇喜多公の陪臣といえば明石全登と小笠原権之丞のキリシタンコンビ
この二人は陪臣ながら10万石の領地と官位を賜っているのだが
実は小笠原は家康の子供だったりする。
222:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:14:40 OH5l2/Po
武将としても島左近、真田信繁(幸村)、明石全登・守重、毛利勝永
塙団右衛門、木村重成、薄田隼人、速水甲斐、黒田長政、島左近等
伊達政宗、最上義光など古今の名将猛者が一堂に会してる。
一説には結城秀康と、福島正則も泳いで江戸入城したという。
伊達家も成実が後見で秀宗が家督を相続して存続
最上も上杉家に臣下の礼を取った義康が相続
政宗と義光は黒田長政同様、御家と無関係の浪人として奉公
禁止の沙汰と追放処分を受けていたが、これも入城してる。
この戦こそ戦国の幕切れにふさわしいと思う。
223:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:30:59 ZAmPea35
>>219
ちょっと難しいような
豊臣譜代の西軍大名が根こそぎ寝返るか日和るかすれば別だろうけど
現実的じゃないと思う。
引き分けに持ち込むのが精々じゃないかな。
まーそうなったら伊達とか黒田とか島津とか悪巧みして戦国に逆戻りしそうだけど・・・
ところで武断派率いての負けっぷりとか先行して猪呼ばわりされてるけど家康って本当に猪だったのかな?
小牧で戦略的に負けたりしてるせいで戦しか脳がないみたいに言われてるけど
実際悪賢い古狸とも言われてたんだよね?
224:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:41:23 WjokflaC
金吾が裏切ってたら東軍は勝ってた・・・ってありえんか。
数少ない豊臣一門であり、関ヶ原直後に関白になってる忠臣だもんな。
関ヶ原の後わずか2年後に心労で死んだが関白は激務だったんだろう
まさに豊臣のために働いた若武者だな。
225:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:51:46 rnjQi+4m
>>222
江戸の陣でわざわざ兄信幸ではなく信繁を上げるのか……
武蔵戦記から始まる一連の流れが誇張含みとしてもやはり立役者の一人だと思うがな。
信繁も出来は良いんだが性格か生まれた時期かいかんせん父と兄に食われた感があるから。
しかし江戸の陣と言えば三成は場内に真田が入ったと聞いて昌幸の遺策ではないかと関ヶ原
同様腹を壊したという逸話があったよな?
既に三年前に亡くなっているにも関わらずこれだから、案外本当に上杉辺りと組んで何か画策
してたんじゃないぁ、妄想だけど。
226:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 17:59:05 OH5l2/Po
>>225
しまつたーっ「真田日本一の兵ぞ」といわれた立役者の信幸忘れてターッ
一番肝心な将ではないか・・・欝だ_| ̄|○
227:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 18:00:18 WjokflaC
このスレの人たちが、他の考察スレに比べてうっかりしすぎな件wwwww
228:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 18:00:29 Sro662/t
>>220-222
解説お疲れ。
しかし文章が錯綜気味で、よくわからん。
特に>>222のところで、篭城組と攻城組がごっちゃになっとるな。気をつけよう。
229:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 18:12:27 betcpCJB
>>227
ちょいと範囲が広いからな。他スレはもう少し限定してるとこが多い
日本全国の多くの大名が関わってるからえらい複雑になるし、あんまり
メジャーじゃないとこも語ってるからねぇ
それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると間違いも混ざるのは致し方ない
みんな、間違いを見つけてもやさしく訂正してあげようwww
230:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 18:16:57 betcpCJB
>>229
○それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると間違いも混ざるのは致し方ない
×それぞれ詳しくない範囲も語ろうとすると勘違いも混ざるのは致し方ない
にしといて
そういう俺も随分前に大間違いして突っ込まれたさ~orz
231:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 18:20:32 rnjQi+4m
元々ifネタ妄想スレだし気楽に書き込める雰囲気作りにわざと間違えてる人とか
便乗してる愉快犯も居る気がする。
まぁどうせ2chなんてID変われば別な人なんだし、恥ずかしい事なんてないさ。
232:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 19:29:17 2hYR5n+8
このあたりは黒船来航のときに資料とか全部焼かれちゃったからな
多少食い違いがあるのもしょうがねえ
233:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 19:51:13 Sro662/t
そうだな。
まして負けた側の記録となると、全部、とはいかずとも本当に数少ない。
二次記録となってしまうが、このころの史料でお勧めなのは、「武功夜話拾遺」。
最近、民明文庫になったから、読んどくといい。
234:233
06/10/31 20:29:29 Sro662/t
間違えた。「新武功夜話」だった。
「武功夜話拾遺」は別のもの。
ちなみに、今、俺の頭の中に
「でっち上げようとした割には、すんなり語句が頭に浮かぶのでおかしいと思った、と白状せよ」
という怪しげな電波が届いている。
235:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 23:07:03 +49EBhPo
大河ドラマ「嫌われ山内の一生」もいよいよクライマックスか
236:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 23:47:18 29XbPW0u
最近山内一豊とか伊達政宗とか負け組のドラマ化多いよね
秀家とか義弘とかドラマ化されたことないし
237:名無しさん@お腹いっぱい。
06/10/31 23:59:15 xBqjM/0x
オマイら日本の標準語は大阪弁やなかったか?
238:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 00:18:10 saWbxiOT
関東お笑いブームとかで関東弁はかっこええみたいな風潮もあるし
ネットだと関東弁使いたがる厨はようおるよなwww
あとは単純に田舎者なんかもしれへん
239:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 00:19:37 /VchNHJn
俺は東軍オタが高じていっつも関東弁使ってる。
よくウザがられるけどね。
240:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 00:41:26 z94Mk/Ff
わざわざPCの変換を打ち直して関東弁を書いてるこの苦労が分かるかーっ
関東弁じゃ未だに、たまにヘンな変換されるんだぞwww
241:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 01:20:02 GTpNU2BC
生粋の大阪弁と標準語の使い分けでけへんヤシ多いで
ちなみに標準語の場合「できひん」と京都ことばをつかうから
242:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 12:25:39 z94Mk/Ff
ま、ここは東軍が勝っていたらってスレなんだから、関東弁がデフォでいいんじゃね?
実際に東軍が勝ってても、関東弁が標準語になることは無いと思うが。
243:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:13:09 4vVBy9aO
関が原で東軍が勝利できたと主張する輩は、どういう根拠で
勝てたといえるのか?と思うときがある。
徳川家康は五大老筆頭として天下の政務を太閤秀吉自らに委託されているのを
よいことに、勝手な縁組や難癖つけて征伐敢行とか
大阪城西の丸にはもう一つ天守閣造営
どうみても主家乗っ取りを企む君側の奸にしか見えない。
朝鮮出兵にも出ていないことから朝鮮出兵は家康が豊家消耗を
狙って秀吉公に吹き込んだという話は教科書にも載ってる有名な話だし
関白秀次に冤罪を、秀長や千利休の死も家康がやったというのは
豊家や諸侯の日記や資料に載っており普通の歴史ドラマの定番。
きっかけの上杉征伐は家康の思いつきによる急な行動なのは歴然だし
西軍決起後は東軍の背後を狙う立場になった上杉は、徳川に協力すべき
最上は腰砕けで屈服、伊達は勝手に和睦したりと到底役に立ってもいない。
しかも他の東軍諸侯を信用できず関東に篭ったまま清洲の東軍諸侯に
先端を開けというばかりの臆病ぶり。
しかも家康が実際に戦闘を指揮したのは関が原からだが
徳川は秀忠の率いる主力は遅刻で参加できずw
家康といえば小早川に発砲して西軍総攻撃と東軍壊滅のきっかけを
つくっただけという戦下手っぷりだ。
それでいて東軍で真っ先に逃亡したのは家康だしさ。
244:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:13:50 Xlcx7llP
東軍が勝った世界から来た者だけど、
家康は江戸に幕府を開いて250年続いたよ
豊臣は滅亡した
245:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:19:12 4vVBy9aO
西軍といえば19万石の身代で250万石の大老家康に挑む
義士・三成の義挙で立ち上がり豊臣政権の4大老4奉行が参加
大阪と京洛の上方をがっちり抑え、西国の錚々たる諸侯が
賛同、天下三兵法と謳われる直江兼続、島左近、真田昌幸がそろって
帷幕に加わり、東と西から家康を挟み撃ちという壮大な戦略を実現
兵站財務の天才の石田三成、増田、長束が名を連ね戦中戦後の政権運営にも
兵站他にも支障ない。
決戦の舞台となった関が原でも見事に布陣の段階で勝利は約束されていた。
西軍敗北の前提条件も名文も理由も皆無じゃないか。
西軍は打倒家康で結束してたのに比べて
東軍は勝手な天下取りを夢想した伊達や如水の無軌道ぶりや
豊臣忠義の福島と徳川に通じる裏切りの黒田長政、藤堂高虎
事態静観の中立的な堀尾、中村、山之内といった
ばらばらの寄り合い所帯だし
史料や残っている手紙からでは西軍諸侯で内応や裏切りが皆無だったのと
比較しても伊達や東軍からの内応や情報漏洩は山のようにあるわけだ。
246:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:24:55 4vVBy9aO
>>244
うーん・・東軍が勝ってた場合
戦国乱世が再発してたというのが予想できるところ。
せいぜい家康一代の天下だろう。
250年も続くとも思えん。
247:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:40:15 aLCtYd1s
後を継ぐのがアホの秀忠だもんな
関ヶ原で負けたのもこいつの援軍が間に合わなかったせいだし、
江戸の陣で惨めな最期を遂げたし、期待できないな
248:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:56:09 RTbOn5oT
東軍が勝ったらどうなるか、というのは、勝ち形によってまったく変わると思うから難しいな。
たとえば
「西軍の将兵が平氏のような腰抜け、東軍の将兵が荒くれた坂東武者だからあの布陣、兵力でも勝てた」
というんだった、そのまま勢いで東軍(の誰か)が天下を取れると思う。
実際にはそんなことないけれど。
>>244
豊臣をつぶして長期間天下を取るなんて…。
親王を関白か征夷大将軍にでもして執権になったのかい?
あるいは天皇家の外戚にでもなったのかい?
外国の力を借りたのかい?
アメリカと戦争して勝ったりするのかい?
やはり近代科学よりも錬金術の方が発達しているのかい?
249:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 18:59:54 SR5uapn0
秀忠はそんなに出来悪くはないぞ、減封後の領国経営の手腕はなかなか見事だった。
軍事面でアホなのはもう上田と江戸の件だけで十二分に分かるけどな……。
ていうかむしろ関ヶ原と江戸の陣という戦国時代でも五指に入る華やかな戦場で二度も
醜態をさらすはめになったのが可哀想とすら思う…・・・世の中得手不得手があろうものを。
家康がもうちょっと我慢して秀忠に譲ってれば、案外しっかりきりもりして国力を蓄え、
二、三代後には豊臣の乗っ取りくらいできたかもしれないのに。
家康には頼りなく見えちゃったんだろうかなぁ。
250:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 21:16:44 GTpNU2BC
二代目はボンクラなのが多い。親父の築いたものを食い潰す。
秀忠もだが、石田重成だって似たようなもの。
251:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 21:21:52 RTbOn5oT
でも最終的には、家康にたいしたものを残してもらっていないからなあ、秀忠は。
そういう意味では、重家や重成と並べるのはかわいそう。
残されたものがおおければ、249の言うような別の顔を見せたかもしれない。
(よろしくない片鱗は見せていたけれど)
252:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 21:51:41 h+WCh3TW
江戸の役敗北の最大の責任者は
於江与君だよな
同じ姉妹でも慎ましやかで聡明な淀の方とは対照的。
いくら亭主がボンクラとはいえ
女が戦の采配を揮っちゃ勝てないよ
253:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 22:29:29 QvJOjK9/
江与君もだが、竹千代の乳母の斎藤氏の責任も大だろ。
この2人が主導権争いに明け暮れた所為で江戸方は大混乱。
むしろその状況で浪人衆はよく戦ったよ。
と、江戸方贔屓の俺が言ってみる。
254:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/01 23:37:26 FDWEeoDr
おまいらスゴい詳しいね。
最近関ヶ原辺りの時代背景に興味を持ち始めたんだけど、オススメの文献や小説を教えてくれないか?
255:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 19:19:50 iamMBXO6
>>254
影武者徳川家康をオススメする。
これは東軍が勝利していたらと言う世界を斬新な切り口で
考察した小説。
まあ分かりやすく言えば、家康を暗殺して西軍勝利を確実にせんと
あせった三成が家康を暗殺した為に、戦下手な本人から
政戦両面に才のあった影武者が活躍してしまい東軍が勝利してしまった
という世界。
当時の俗説だった
小早川秀秋の裏切りや吉川毛利の不戦の密約疑惑ももっともらしく
描かれている。
がラストの家康が東照宮という神社で神として祭られているという段になると
ちょっと徳川贔屓が過ぎる気がしないでもない。
いくら神君秀吉の嫡子秀頼公に仇なした奸臣として墓の造営も禁止され
後に遺体を掘り起こして鞭打ちして曝したという扱いへの同情が
あったとはいえ・・・・・。
256:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 19:36:43 qgLwcN0D
司馬遼太郎の関ヶ原もなかなかだぞ
まあ司馬の家康びいきがすぎるけどな
三成とか左近は大悪人みたいに書かれてる
257:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 19:44:00 iamMBXO6
史実のように毛利、上杉、宇喜多、前田、小西や石田の連立政権
合議型公儀だったからこそ、まがりなりにも天下は平和になったが
この本の言うように東軍が勝っていたら生き残るのは
大老徳川による独裁政権だから、逆に纏まりはなくなり天下は
麻の如くに乱れるだろう。
豊臣恩顧は健在、前田は手が出せない。伊達は長期戦の間に巨大化してるだろうし
上杉も越後最上は併呑してるだろうから容易に手が出せなくなってるのは確実。
毛利も本土が無傷しかも大阪城を抑えている。西軍が敗戦しても毛利が
すんなり大阪を出るはずも無い。せいぜい家康は伏見で政治を見るくらいだ。
西国諸侯も無事、黒田が巨大化してる・・
こんな状況で家康が勝っても、家康独裁ということは徳川への協力者も
皆無ということだから、なおさら孤立無援になって
徳川は失脚、天下は混乱であろう。
徳川の天下で世が治まったというラストは、やはり小説でしかないんだがね。
258:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 20:57:59 7gBYPgG6
家康の孫で日本全国をぶらついてる爺さんの話しらない?
259:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 23:16:50 9LA0q/d7
>>258
講談かなんかで人気の出た創作だよね。
今の子は知らないだろうな。いや、パチキのあいだでは大変な人気だそうだ。
260:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 23:35:35 yJ1RMaE1
さあ?
自分は聞いたことが無いな
江戸の陣の後秀忠の息子が長崎に落ち延びて天草某になったとか言う伝承は有名だが
261:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/02 23:50:17 iDzaSH6E
>>258
260が知らんのも無理ない。
モデルらしいモデルすらいない、完全な架空の人物だからね。
その爺さんどころか、爺さんの父(つまり家康の息子)とされるやつも、存在しないから。
262:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 01:57:22 o5ZajyRW
関が原西軍勝利後、豊臣政権の特別職『大目付」を秀頼公より拝命した石田三成は、名を『石田大成」
と改称。豊臣政権の検事総長になって、徳川征伐と徳川100万石に減封を画し
たが、いまだ、その願いは、加藤清正、福島正則らによってはばまれている。
が、加藤清正は、寝返りの遅すぎ、福島も見物に転換のため、それぞれ、9万石
となる。石田三成の処刑願いが、毛利輝元に一括され、助命減封となった。
そのかわり、石田三成は、『豊臣家」のため、豊臣が危ないときはいつでも、徳川
征伐に立ち上がることができるようになった。徳川家康は、引退させられ、
秀忠は『豊臣家の朝廷工作で失脚」『結城秀康が二代目の徳川を継ぐことに
なった、」秀康は豊臣秀吉が,一心に寵愛した人物で、秀吉公に信服。秀頼
とも近い。むここに豊臣傀儡の徳川が誕生。次第に、徳川の本来の土着性の
団結力、勢力は弱められ、あと、20年もたてば、今の半分の100万石に
なるであろう。秀康が徳川二代目である限り、豊臣は安泰。政権を維持できる。
石田は終生、豊臣の検事総長として、行く末は、大老職をも拝命するであろう。
よかったね。豊臣が勝って。これで、日本は欧米と肩を並べて、大陸進出、植民地
を得ることができ、『民族自決」の時代に大陸進出をするという、時代おくれをせず
いち早く、現地民族を日本に併合。西欧と仲良く、支那を分割でき、日本も自存自立
できた。よかった。よかった。豊臣勝って、本当によかったね。
263:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 05:09:38 8hQr0Tmu
石田側の約束では
小早川秀秋が西軍勢につけば
小早川秀秋は関白になれていた。
264:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 06:20:29 mKNRONuK
金吾は実際に関白に就任してるじゃないですか。わずか二年間だけど。
265:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 07:01:20 1hNAfVG1
よかった、よかった。
……検事総長って!?
266:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 17:03:11 kxIQYvuk
小早川秀秋が死んでなければどうなってたんだろう?
三成が責任もって暗殺したって説もあるが
生きてれば豊臣にとっても結構面倒なことになってたんジャマイカ
267:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 17:22:55 EqpxFoTR
しかし織田秀信も損だよなぁ。
戦後、三成に「もう少し岐阜で足止めしてたら濃尾二国の国持ち」
と皮肉られ、故地である福島正則旧領の尾張半国だもんなぁ。
しかも正室が徳川家光の伯母ということで相当警戒されてみたい。
江戸の陣でも大阪城留守居役だし。
その中で所領を守りきったことはやはり名君だと思う。
268:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 17:36:38 oifAJYM9
>>265
>>262が言っているのは学研の歴史群像新書でかたられているイフ物の
ひとつだ。史実じゃない。
改姓と改名したのは小早川秀秋のほうだ。
小早川は関白就任時に姓を豊臣と改め名前も2年後に秀詮としている。
歴史ゲームでもその段階になると秀秋の名前変わってるから知ってる香具師は
知っているw
このせいで2年後で死んだという説が出てるが実際は秀頼成人まで生きてる。
子供もいる。本願寺大谷派の大谷家は秀秋の血筋だしな。
これは東軍厨でも詳しい香具師は知っていてこっそり筋書きに入れてる。
269:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 17:43:38 oifAJYM9
大目付を秀頼公より拝命したのも真田昌幸だ。
徳川家は100万石も許されてない。30万石程度で江戸で秀忠が家督を継いでいる。
秀康は八丈島いきになっている(理由詳細は不明)。
彼の子供達は江戸の陣後も三河岡崎10万石で徳川の社稷を守った家康最期の子
忠輝のもとで細々と続いているのは>>6-261までの経緯で推察つくだろう。
270:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 18:05:53 kxIQYvuk
>>268
そうだったのか
俺はてっきり金吾は死んだものと・・・
豊臣秀詮と同一人物だったとは
>>267
まーうまくやってても、濃尾二国はもらえなかったんじゃないか?
位置的にあそこを二国まとめて与えるのは微妙な気がする
271:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 19:42:05 KcwQDTwM
新しい設定が出来たの?
272:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 20:10:45 oifAJYM9
>>271
マジレスすまんが・・秀秋が秀詮に改名したのと秀秋に隠し子がいて
現在まで家系が存続しているのだけはマジだったりする。
詳しくググれば、でてくるんでないか?
てわけでこのネタスレでも使用したの。
273:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 20:32:39 e4dydHv6
石田大成は、家康を倒さねば豊臣家があぶない。といってただ、
一人立ち上がって、西国大名を説き伏せ、関が原にて家康を敗北
に追い込んだ「名将」である。彼が立ち上がらなければ、真田昌
幸も上杉を攻めていた。真田昌幸には、秀忠3万8000を
信州にて、釘づけ、ついに関が原に到着下のは、西軍勝利後の
家康逃亡後のこと。この釘付けの巧により、豊臣秀頼公より、
奉行職を拝命しておる。
274:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 20:44:21 e4dydHv6
西軍は、やっとのことで、家康を敗北、逃亡
させたが、当面、豊臣政権を維持できるに精一杯。
江戸の陣は、結城秀康、徳川二代目就任ご、
10年経ってからじゃ。なにしろ、すでに豊臣政権
のカサのもと、徳川家康は大名の人事権を完全ににぎって
おった。それを排除、江戸に送り返し、引退させただけ
でも豊臣家としては大手柄。天下の人事権は、毛利輝元、
宇喜田秀家、上杉景勝、されに新たに、大谷形部のこ、
大谷大学、豊臣四大老が合議にて行う。石田大成は
一定の大名人事権に、干渉できる、『大目付」では
あるので。豊臣家を危うくする人材の登与は干渉権
が与えられた。後は石田の能力次第、石田はもっと
頭を低くして、諸侯に使えるとの「わび」にて
石田嫌いの諸侯も一時の落ち着きと安堵をえたのだった。
275:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/03 23:58:46 lgq/tdCb
>>274
妄想劇場はいいよ。ここは「もし東軍が勝っていたら」スレだから、
東軍が勝っていた場合のおまいの予想を書けよ
276:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 00:28:40 Rr/tTzwa
東軍が関が原でもし、勝っていたら、日本は、
世界から取り残され、後の侵略の災いとなっていたであろう。
徳阿羅の乞食坊主が神となり、日本は混乱に告ぐ混乱で、
世界の進歩に三百年はおくれたであろう。妄想はよしとして、
豊臣が勝ったおかげで、満州は今でも日本の傀儡国家だ。
大慶油田は、わが国の石油供給の長年の生命線になってきた。
豊臣勝ってほんとうによかった。よかった。よかった。
277:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 02:56:35 1d4OdW/S
石田壱成は三成の何代目だっけ?
278:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 03:19:50 9CF60yil
おじいちゃんだろ
279:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 08:49:22 vMHkaZFA
石田家は十代で一成→二成→三成→(省略)→十成→一成と一周するから、
壱成は三成から数えて18代目の当主だな
もっとも一じゃなくて壱を使ってることから分かるとおり分家だが
280:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 10:10:27 i9lEkaLj
分家じゃなくて妾腹だろ
281:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 10:30:41 O8behcsI
純一の妾腹だな
282:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/04 23:55:11 AX3wldIG
石田純一は三成の子孫なのか?
こりゃ、驚いた。
283:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 00:37:29 seH11omG
>>282
セレブだからねー
284:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 02:36:52 zTmROy1Z
>>279
すさまじい事実に気づいたな。
285:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 11:30:47 zKRejw2N
>>268
小早川は家康の悪霊に悩まされて狂い死にしたんじゃなかったっけ? 何でも関ヶ原の時に、東軍に裏切る密約を交わしていたのを破ったからだとか。
286:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/05 17:06:05 zTmROy1Z
まあ、中年といわれる時期までは生きているからなあ。
悩んで死ぬんなら、もっと早く死んでいるだろうし、ただのデマだと思う。
殿中などで悩み苦しんでいる姿を見られているとかいう話があれば信じる気にもなるけど。
287:名無しさん@お腹いっぱい。
06/11/06 00:03:24 YnITLIYx
そういや宇喜多のお家騒動で出奔した奴らってどうなったんだ?
関ヶ原では東軍に加わってたらしいが
しかし家康も騒動煽ったりしたわりには詰めが甘かったよな
弱体化狙ったらしいけど不穏分子排除で秀家には思いっきり追い風になった
自爆したといわれても仕方ないよ