10/03/17 21:39:29 AQJdnpHd
禅といえば、最近お寺では組んでいないけど、私は1時間は結跏趺坐で座っていることができるよ。
坐禅用の枕みたいなクッションなしで。もちろん最初の頃は全然だめだった。15分も持たなかった。
足がしびれてきて痛みで精神統一どころではないからだ。
しかし、ある日を境に30分ができるようになり、気がついたらそれが40分になって、1時間になった。
その結果何がいえるかというと、精神統一と痛みは関連があるということさ。
つまり、精神が静かになると、痛みを感じなくなるのだ。
いや、それどころか肉体そのものを感じなくなる。空気に意識だけが浮かんでいるような感じになる。
しかしそれでもまだ、瞑想する者と瞑想する対象という主客の幻はそのままなんだけど、
肉体を意識しなくなると、痛みを感じなくなる。もちろんストレスとかそういうのも。
記憶の再生である思考が存在し、自我が存在するときだけ苦しみは存在するというのは、
精神面だけのことではないのだ。肉体的にもそれはいえることで、苦痛と苦痛に悩まされている人
などというものは存在せず、ただ完全に静謐な意識だけがあるのだ。苦痛はその意識のスクリーン
に映し出された幻にすぎず、それと同レベルになって一体化したときにのみ大問題になる。
禅の瞑想で肉体的な痛みさえも超えることができるか?もちろん可能だ。
問題は自由になりたいという意志を持つ人が、最近増えてきたとはいえ、ほとんど見あたらないことだ。
これだけが、この動機だけが必要な全てだ。