10/01/10 13:36:34 +H1rEUWS
脳神経系の活性だけが意識の始発ではない。 人間の意志開始とする “ 意志励起 “が、脳活動の特定信号や特定部位の活性が
それに対応付けられるかは今の物質的脳科学でも確定されない。 被験者が任意の瞬間に “ 指曲げ “ 運動をする場合、
実験環境によってはその場の慌ただしさや、逆に環境がリラックスした雰囲気なら被験者は自己決定を過度に意識するのを止めるなど、
“ 自然の成り行きに任せる “ ことも考えられ、外環境との同調が無意識のうちに成されるなら、それは脳神経系だけとは言えなくなる。
このように唯物的関連を考えるなら当然ながら諸々の被影響を無視できない。 さらに自由意志は幻想であり錯角であるなら、
正常な人間活動は外部の被影響によって行われていることになり、これは統合失調症の主症状である被影響体験 ( させられ体験 )
そのものである。 それでは何らかの理由で自由意志が幻想であり、正常な人間活動は外部の被影響であることを人間が知ったとしたら、
その後の社会適応は実に支障をきたすことが想定されるが、幻想たる自由意志がなぜ社会適応を可能にするのか。
この幻想たる自由意志を知っておりそれが失われれば活動支障をきたすことが想定されるが、それでは何故自由意志は幻想と言えるのか。
それは唯物的自然観に立脚する限りそのことが説明できないからである。 同じく統合失調症の発症原因も唯物論では脳実質に限定される。
しかし自然の存在はマクロな唯物に限らず、物質の微細領域でこそ “ 一体的な汎関係性 “ が想定される。
物質の微細領域まで含めて考えるなら統合失調症の症状は、花粉症での過剰免疫と同様な自我主体の希薄化を防ぐための正常な精神反応であり、
今の薬物治療はこの正常な精神反応を、身体の物質的異常とみなして抑制しているに過ぎない。 ( 投稿、eig35153 )