08/01/14 22:48:08
原会長さんは当時、学習院の高等部に在籍していたそうです。
昭和19年になると授業も徐々になくなり、学習院の高等科の学生は
下丸子にあった東京無線(株)に勤労動員(学生が動員されて工場な
どで働くこと)で通勤することになったそうです。
この年の半ばを過ぎると、学習院自体が無線機生産の工場になり、
経験のあった原さんは検査係。
その後、2度にわたる東京大空襲で東京は半分が焼け、学習院の校舎
も焼けてしまった。
原さんは先輩に連れられて、海軍の技術研究所に入り無線機関連の開
発を手伝うことになる。
当初、勤務場所は東京の目黒であったが、空襲の恐れがあることから
栃木県の日光に疎開。
日光の由緒あるホテルを全館使い30センチレーダーの開発の手伝う
ことになる。