仏教 議論スレッド その4at PSY
仏教 議論スレッド その4 - 暇つぶし2ch392:神も仏も名無しさん
10/06/20 21:48:44 5hdiioYz
奈良さんが仏教風呂敷論なる言葉を発する理由は、そのあたりにあるだろうと思う。
(もしかしたら、「仏教文化史」という専攻の方向となった理由も、そのあたりに端を発するかもしれない。)
「仏教は、ヒンドゥ文化の中に、2500年前のインドに発生したものである」という視線を外さないスタンスとして・・。

393:神も仏も名無しさん
10/06/20 21:55:05 qlTY56xp
>>389-390
竜樹とかが非常に緻密な思考力の持ち主で、物凄く
頭が良かったのは分かる。釈迦もそうだったと思うけど。

>たどり着いたのが『無我』への認識転換。

釈迦は実践の人だったんで、この無我というのも
どこまで拡がりを持った概念なのかなあ、とは思うんだよね。

ただまあ現代人、釈迦をあまりいじめるなよ、と時々思うことはあるw

394:神も仏も名無しさん
10/06/20 22:05:00 qlTY56xp
>>391
まあ確かに、古代人を真に理解するには古代世界で生きるしかないし、
現代人はとりあえず、共通用語としての現代の知見に則って
話すしかないんだけどね。

ただ釈迦が当時としては卓越した論理的思考力の持ち主だったとしても、
周囲にはマントラで病気が治るとかガチで信じていた人が
溢れていたわけで(釈迦もそういう環境で生育し生活していたわけで)、
当時の哲学的・宗教的概念を理解するには、そういう事情も
忘れないようにしないとなあ、と思ったんだよ。

395:神も仏も名無しさん
10/06/20 22:39:00 5hdiioYz
だから、ブッダは(シッダッタは)【本気で】【生き物は輪廻する】と考えていたろうと思う。
ただ、「苦の完全なる滅」が実現可能だと気付いた時、
それが実は「輪廻などない」というものだったとしても、
「輪廻を脱することができる」という表現として発せられた可能性はあるだろうと思うし、
輪廻以外の様々な要素に関しても同様だろうと思う。

伝承は尊重しなければならない。
だが、(直接の言葉が残っていないにしても)、釈尊の足跡、思考の道程を追いかけるなら、
「ヒンドゥ文化の影響」を視野に入れつつも、【同じ人間として】「自身の心の在り様・動き」を見つめ、
現存する言葉(≒文献)と相対すべきだと俺は思う。


(※やっぱり、縁起一代のレスは貴重だったなぁ・・w)

396:前世は一在家
10/06/21 00:10:48 89179rYN
>>350
>なぜなら、【法華経は阿含(の時代)には説かれていなかった事・伏せられていた
>ことを明かす経典】だからだ。
>そして、その伏せられていたこと以外は既に全て説かれ、その時代の弟子達は
>【それによって一旦は悟っている】。

阿含(原始仏典の時代)に「常住のものはない」と説かれた釈尊が、
法華経(大乗) では「仏国土(世界)も仏も常住である」と菩薩達には説いており、
龍樹(大乗)の空の体系(言語論理学上での演繹論理学)と矛盾したとしても、
貴兄はあくまで原始仏典の範囲で語っているから正しいという意味は了解しました。

あるがままに見る認識主体の「世俗諦」と、中身の無い(空)の言語論理学の
「第一義諦」との何れ普通の人の日常生活にとって大切かを考えれば、後者
だと思料します。

「去るものは去らず」ですが、「去るものは去る、ではない」と最初から認識
していれば良かったようですが、言語世界の言葉足らずに私も振舞わされていた
ようです。もう少し学習を進めてまります。


397:前世は一在家
10/06/21 01:25:06 89179rYN
>>383
>ただ繰り返すが、釈迦の全ての説に厳密な論理的整合性を
>求めるのは釈迦に酷だと思うよ。元々人間の頭と記憶だけを頼りに
>構築・保持されている宗教体系なんだから、矛盾があったとしても
>全然驚かない。

龍樹は哲学者で論理性を重視し、釈尊は衆生の救済を重視されて、
相手のレベルに応じて四通りに説法をされたそうですから、意図的な
論理矛盾があったという仮説を立てております。

医師が癌だと認定した患者に「あなたは癌です」と伝えることは真
であり、「癌ではない」と伝えることは偽でしょう。

でも慈悲深い医師であれば患者に「あなたが癌かどうか私には分かり
ませんので、もう少し様子をみましょう」と論理学上の偽を伝えますが
救済上では真かも知れませんね。


398:神も仏も名無しさん
10/06/21 02:54:50 nRoLgjOL
釈迦の「無我」「無常」には、やはり無理がある。「無」とは「有」に対する
概念であり、「無」という以上、「有」の概念を前提としているからである。
「有・無」は、あくまで「相対的・関係的概念」だから、竜樹の「有にあらず、
無にあらず」が正しい。本当に無なのなら、そもそも「無」などという必要は
ない。

釈迦の「苦の滅」は、苦を「滅すべき異物」とし、「苦は、人生において不可避
であり、苦を苦にし過ぎて、滅しようとすればするほど深まる」という事実に
思い至らなかった点で誤り。苦を生の一部として、積極的に受け入れてこそ、
初めて苦を滅することが出来るのである。苦がなければ、他者の苦を理解し、それ
に共感する能力の育成(これを、人間の成長と呼ぶ)が不可能になってしまう。

苦を、人生には付き物であり、自己の成長への糧として積極的に受け入れてこそ、
初めて苦が苦ではなくなる。「人生は、自分の思うとおりにはならない」と
初めから達観しておれば、苦は苦にならない。これが「悟り」である。

釈迦の「苦への執着」は全く異常。彼の鬱病の症状としての病的心理以外の
何物でもない。健常者に苦の概念を植え付けることにより布教しようとするのは、
キリスト教における罪概念の植え付けと同様、それ自体が「地獄に墜ちるべき
罪」の典型である。

釈迦仏教が、キリスト教と並んで、人間にとって極めて有害な超カルト宗教で
ある所以である。

399:神も仏も名無しさん
10/06/21 03:48:34 tDwGEFYX
>>398
ぼくが知ってるお釈迦さまと、君の脳内のお釈迦さんは違うみたいだね。

400:神も仏も名無しさん
10/06/21 04:17:47 5tbDqSTW


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□☆☆☆☆☆♪


人間には、百人百様の論理が可能であるが、それが「生存」の方向に向って
いる場合にのみ、それを「正しい」という。☆★

いなかる論理を弄してみても、それが「人間の生命の否定」に向っている場合
には、「正しい」とは言わない。論理が、人間の生命の機能である以上、当然
のこと。さもなければ、論理の発生源そのものを否定するという矛盾に陥る
からだ。

これは古今のどの「本」にも書かれていない「ありがたいお言葉」だよw。☆★

 
(*^。^*) 


□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□☆☆☆☆☆♪



401:?
10/06/21 06:17:12 MZtRl4iC

 ↓ 卍 お経を自分で勝手に解釈して観る 【臨時 避難

スレリンク(entrance2板:131番)

 ↑ >>381  宝珠愚者 ◆9XuF3XEACk  様へ!

 ↑ レス!  ありがとう  ございました!

402:神も仏も名無しさん
10/06/21 08:48:26 zEExbLY1
>>398
>「有にあらず、無にあらず」

釈迦仏教の事象の真相は時空際断ゆえ言語論理では、直指肯定(“~である”)できず
“~にあらず”の否定形で顕さざるをえない。
これが世俗諦としての限界だ。

わかっているひとは、おまえのようになんでも直指断定(“~である”)するほどアホではない。
頭の体操で、例えば「点」(>>328)は有なのか無なのか?を考えればわかる。



403:妄想教祖インキョ神の洗脳にご注意w
10/06/21 09:07:12 mVfKED1a
堕落系キリスト教徒脳思考のインキョ神は398の内容の様に、
証明出来ないことを善悪判定し裁くw

インキョ神には人間の脳の創造性は不要で生命唱えて解決するのみで、
インキョ神のそれに反する者、人間の脳の思考性を想定する釈迦も精神病になるのである。
堕落系劣化新興宗教の教祖達と同じ、インキョ神の様に
思いつきの妄想思考体系を絶対化する。
思いついた妄想が事実認識を無視し絶対化し、
それに反する者は悪である、精神病であるとか、判定される。
オウムを見よw
根拠なく米軍ヘリがサリン攻撃を仕掛けてきたという事実認識の無いインキョ神の妄想思考を選択しているのである。

まさにまた、「苦」の精密分析、原因分析を否定する善悪裁きの激しい堕落系劣化キリスト教徒脳思考そのものである、
注意されたしw
キリスト教徒脳思考のインキョ神なのである。


404:妄想教祖インキョ神の洗脳にご注意w
10/06/21 09:11:32 mVfKED1a
>釈迦の「苦の滅」は、苦を「滅すべき異物」とし、「苦は、人生において不可避
であり、苦を苦にし過ぎて、滅しようとすればするほど深まる」という事実に
思い至らなかった点で誤り。苦を生の一部として、積極的に受け入れてこそ、
初めて苦を滅することが出来るのである。苦がなければ、他者の苦を理解し、それ
に共感する能力の育成(これを、人間の成長と呼ぶ)が不可能になってしまう。

>苦を、人生には付き物であり、自己の成長への糧として積極的に受け入れてこそ、
初めて苦が苦ではなくなる。「人生は、自分の思うとおりにはならない」と
初めから達観しておれば、苦は苦にならない。これが「悟り」である。


インキョ神の妄想洗脳世界では、
経済悪化、ゲームの勝ち負け、精神的破滅の分析は不要である、
原因分析はインキョ神洗脳宗教には不要なのであるw
釈迦の「苦」というのは人間の精神的自滅を分析するものである。
なお、インキョ神洗脳宗教では生命唱えれば、経済悪化、ゲームの勝ち負けの問題、精神的破滅は回避されるらしいw

まさい、インキョ神新興宗教教祖による洗脳とインキョ神のお言葉に対する絶対的信仰で解決できるらしいw

まさにまた、「苦」の精密分析、原因分析を否定する善悪裁きの激しい堕落系劣化キリスト教徒脳思考そのものである、
注意されたしw
キリスト教徒脳思考のインキョ神なのである。




405:妄想教祖インキョ神の洗脳にご注意w
10/06/21 09:49:54 mVfKED1a
下記は妄想教祖インキョ神の洗脳された哀れな姿w
人間の思考、原因分析、「苦」など精神的破滅回避の為の分析不要w
生命唱えて解決する妄想宗教w

400 :神も仏も名無しさん:2010/06/21(月) 04:17:47 ID:5tbDqSTW


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人間には、百人百様の論理が可能であるが、それが「生存」の方向に向って
いる場合にのみ、それを「正しい」という。☆★

いなかる論理を弄してみても、それが「人間の生命の否定」に向っている場合
には、「正しい」とは言わない。論理が、人間の生命の機能である以上、当然
のこと。さもなければ、論理の発生源そのものを否定するという矛盾に陥る
からだ。

これは古今のどの「本」にも書かれていない「ありがたいお言葉」だよw。☆★

 
(*^。^*) 


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406:神も仏も名無しさん
10/06/21 11:32:50 PCc57B4e
>>402
釈迦の「無我」「無常」「縁起(因果関係)」「中道」「空と観ぜよ」は、
すべて「有」を前提とする「二項対立」の思想。竜樹の「関係性としての
空」には及びも付かない、似ても似付かぬ、単なる思い付きの幼稚なもの。

また、人生における本当の「苦」を味わったことのない釈迦に、苦は語れない。

よーく考えてみよう。

407:神も仏も名無しさん
10/06/21 14:52:35 zEExbLY1
>>402
>「二項対立」の思想

『世俗の表現(言語慣習)に依存しないでは、究極の真理(勝義諦)を説くことはできない。』(中論24-10)
それらの言語は勝義空諦(無差別相)からの還滅により、世俗諦(差別相)において二項相対言語論理で説明したものだ。
説明と言っても、いわば暗に中道を示唆できるに過ぎない。
無分別の分別ともいう。
中道を体得するには直覚する以外にない。
『マーガンディアよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない』(スッタニパータ837)
『ブッダはいかなる教え(法)も、どこにおいても、誰のためにも、説かなかった』(中論25-24)し、
また説き得ないのである。

なんら生起も寂滅もありえず、まさに中道という以外にない。

このような空諦からの還滅から解しないと
おまえのようにトンデモ誤解、ご都合主義曲解(→除俗數法)になる。勝義第一義空経参照。

ところで、「点」(>>328>>402)とは有なのか無なのか?お答えください。

>人生における本当の「苦」→とはなにか、ご教授ください。


408:神も仏も名無しさん
10/06/21 15:28:35 BdoRG6O5
>>407
>中道を体得するには直覚する以外にない。
生活を離れた修行や瞑想などにおける「直覚」は、「変性意識下」における感覚や
思考として、人間の「正常な感覚・思考」からは排除される。勝義は、その
内容が生活者(世俗)の生活体験として納得できるものでなければ、存在し得ない。

>『マーガンディアよ。「わたくしはこのことを説く」、ということがわたくしにはない』(スッタニパータ837)
何も説かれていない「教え」をあたかも説かれたものと錯覚しているのが、釈迦教徒。

>『ブッダはいかなる教え(法)も、どこにおいても、誰のためにも、説かなかった』(中論25-24)し、
>また説き得ないのである。
竜樹は、自分(竜樹)のような教えは釈迦は説いていない、と言っているとも
解釈できるね。それはまさに事実である。

>>ところで、「点」(>>328>>402)とは有なのか無なのか?お答えください。
「(黒)点」は、空白部分との関連においてのみ有である。全面が黒色なら、
黒点は存在しない。

>>人生における本当の「苦」→とはなにか、ご教授ください。
自分の生存本能の指示に従えない場合を「苦」という。それは、自他の生存本能
との関連においてのみ生じる。個体の生及び共生にとって「不可欠な要素」で
ある。

409:407
10/06/21 18:07:21 zEExbLY1
>>408
>人間の「正常な感覚・思考」
   直覚とは日常的な既成概念(言語論理思考を含む)から脱却してあるがままをつかむことだよ。
世俗日常だけが『正常』という『信仰』を説く生命根源教には精神レベルが低すぎてわからない。
  いわばコンドームセックスだけが正常だとの『信仰』を説く生命根源教には、ナマセックスは異常な『感覚・思考』なのだろうw
隠居の唯物生命が根源だという生命根源教は検証抜きの完全な戯論『信仰宗教』なんだよ。
観念神が根源だというのと同一構造の論理だ。

>何も説かれていない「教え」
そう、時空際断においては言語論理はありえず、何も説きえない。
非言語論理的に直覚するのみ。

>解釈できるね。それはまさに事実である。
不生不滅の中道(時空際断)において、定まった教義や自らの主張をたてることはありえない。
『わたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない』(龍樹「異論の排斥」より)
『如来によって説かれた法というものはなにもありません』(スプーティ「金剛般若経」13-b)

>「(黒)点」は、空白部分との関連においてのみ有である。
点は次元がない。だから有無は問えない。問えるのなら極小でも平面であって点ではない。
空白部分と相対化し、空白部分が無限大なら、点は無限小であって、
存在として相殺され、有無を観念できない。
既成概念によって「存在」と妄想しているものはすべて有無を観念できない点の集合による妄想であって、
空=中道というしかない。
これが仏の教えである。

>自分の生存本能の指示に従えない場合を「苦」という。
苦は点の集合であって、我執による妄想である。
ゆえに→無苦集滅道。


410:神も仏も名無しさん
10/06/21 22:32:05 yZc8b6ZR
>>396
んっっっっっっxtっっっっとに、どこまでもどこまでもどこまでも、
腐臭が漂うほどの根性の腐りようだなw
そうまでして論点ずらして、自分のミスや愚かさを隠蔽したいか?
在家&隠居の、人としての在り方における屑っぷりは群を抜いてるわw
(宝珠の方がまだ可愛げがあるw)

> 龍樹(大乗)の空の体系(言語論理学上での演繹論理学)と矛盾したとしても、
ハァ?(゚д゚)
誰が竜樹の話をしてるんだ? てめぇが、【この396で】【初めて】【触れ】【結びつけ】てんじゃねーか。
> 貴兄はあくまで原始仏典の範囲で語っているから
ハァ?(゚д゚)
てめぇのレスが、原始仏典限定の話だったんじゃねーか。
てめぇ自身が、「大乗」になぞ、これっぽっちも触れてねーじゃねーか。
それに合わせてレスを入れたら、言うに事欠いて『俺が原始仏典限定の話にしたかの如く』返答する。
姑息とか、そんなレベルじゃねぇ。
『対話の相手を人とも思わず』『自己の保身にのみ躍起になり』『相手の発言まで捏造し』
『相手をとことんまで貶め』『重要部分はスルーし、論点をずらし』
『自己の正当化を図り』『誤りを隠蔽する』。 どこまでも腐り切った屑野郎だよ、お前は。
>>296に対して、きちんと返答してみろ。木瓜茄子が。

411:神も仏も名無しさん
10/06/21 22:57:47 yZc8b6ZR
>>398
> 初めて苦を滅することが出来るのである。
> 初めて苦が苦ではなくなる。
> 苦は苦にならない。これが「悟り」である。

ハァ?(゚д゚)

 > 苦がなければ、他者の苦を理解し、それに共感する能力の育成
 > (これを、人間の成長と呼ぶ)が不可能になってしまう
 >>408>個体の生及び共生にとって「不可欠な要素」である

んですよね?w
貴方の主張に於いて、「苦を無くしてしまって」いいんですか?www


>>408
> 自分の生存本能の指示に従えない場合を「苦」という。
> それは、自他の生存本能との関連においてのみ生じる。
> 個体の生及び共生にとって「不可欠な要素」である。

ふ~ん・・。
貴方は、『肉体的苦痛』を「本当の苦」と言ったり、『貧しさや飢え』が「本当の苦」であると言ったりしてますが、
これらもやはり、
《>自他の生存本能との関連においてのみ生じ》
《>個体の生及び共生にとって「不可欠な要素」で あり》
《>自分の生存本能の指示に従え ていない場合》ということですかね?

また、貴方の「苦」には『心理的要素』『心理的側面』が皆無なんですが、
貴方は『心理的な苦』を感受しないんでしょうか?「心理面での苦は苦でない」、と?

412:神も仏も名無しさん
10/06/21 23:03:09 XEH3/KUn
>>409
論理的に支離滅裂なレス。

1 「生命現象を現している肉体(生命)」ほど、検証が容易なものはない。検証でき
さもなければ、そもそも火葬許可書が出ない。死ねば、仏教はやれない。
一方、宗教には、検証可能な要素は「皆無」。釈迦が解脱しただの、悟っただの、涅槃
に入っただの、一体誰が検証したのか。検証はゼロではないか。すべて妄想。

2 無限小はゼロではなく、存在である。無限小に近い素粒子も存在である。平面も、
平面状上の点も、存在である。平面上には存在がないのなら、すべての仏典も不存在
である。平面上の黒点も文字も、ごく精密に計測すれば、そのインクや墨の僅かな
隆起があるはずだ。従って、三次元である。

3 苦が「点の集合であって、我執による妄想」なら、釈迦も仏教徒も、その妄想に
それほど執着している訳だ。

「老・病・死」いずれも「生命の喪失(の恐れ」という苦である。「生」は、必然的な
生命の消失への途上という意味で苦である。釈迦にとっては、「死」が苦の極致であった。


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