10/06/20 18:44:51 ng8LiVPw
>イエス対面後に自分の誤認・錯覚に気づいたのなら、
イエス、ヨハネの認識がそれぞれ
【イエスの言ったエリヤ→「エリヤの名で象徴される役割」
ヨハネの否定したエリヤ→「エリヤ本人」】(>>255)
であれば、錯覚や偽り、ということにはならない。
神がエリヤを遣わす、という考え方の元になった旧約の章句(マラキ書3:23)では
申命記の「モーセのような預言者」のように、「エリヤのような預言者」とは
記述されていない。ヨハネ自身が、(例え話をつかう)イエスとの本格的な出会いの前に
字義通りの意味で「エリヤ本人ではない」と答えてもおかしくはない。
のちにイエスが「エリヤ」という人名で象徴する、肝心の存在の先駆けである、
という認識は伝えているため訂正する必要は無いとも言える。
旧約からのヘブライの死生観によれば、生まれ変わる、ということもなく、
天から降りてきたエリヤ本人ではないことも、ヨハネや彼に言及するイエスや
その弟子たちにとっては当たり前のことだったはず。つまり、わざわざ言うまでもなくわかる。
>その後も別行動だし。
それをイエスは問題にしていたか?問題にしていたなら、記述されているはず。
エリヤの役割を担う人物の価値は重要な問題だから。