10/06/13 11:56:50 B8HfVZ0o
>>78
律法は、「創造主が作った法」であり、完全であるはずである。その律法を、
「完成する」「成就する」とは、イエスは自分を一体何様だと思っているのか。
イエスは、律法に、さまざまな自分自身の解釈を付け加えているが、すべてが
ピント外れ。
例えば、「淫らな目で女を見る者は、心の中で姦淫の罪を犯した。目玉をくり
抜かれる」などと言っているが、性的に成熟した女を見て性欲が生じるのは、
人間の種属としての生命の存続のために神が与えた最も重要な摂理。相手が人妻
である場合には、相手の配偶者を傷つけないために、その性欲の実行を抑えな
ければならない、ということである。これが、「道徳・倫理」の本質である。
イエスの言っていることは、「殺意を抱いたら殺人罪」と言っているのと同じ。
彼は、「道徳・倫理とは何か」を理解していなかった。人妻か否かは外見では
分らないのだから、これでは危なくて道も歩けない。旧約は、こんなアホな
ことは言わない。
イエスのこの言葉に脅迫されて、聖職者たちが創造主の摂理に反し、性欲その
ものを悪としたため、聖職者に性犯罪が多発している。これは、むしろ、彼等が、
イエスの「教え」の呪縛から逃れて、創造(神)に立ち返ろうとする、いささ
かゆがんだ本能的努力である。
創造とは、「あるがままの人間と自然」のことである。創造は、創造時において
完成しているのである。その精神病の症状としての誇大妄想故に、「自分が神
になりたかった、なった積り」のイエスには、創造に対する畏敬の念は皆無だった。
イエスは、創造主に対して、馴れ馴れしくも「父よ」などと呼びかけ、己自身に
ついて「私はある」という「神の名」を使っている。創造主に対するこれほどの
冒涜があるか。