10/07/11 14:58:23 68r2c6jJ
>>115
(研究端緒の時期ならいざ知らず)、
パーリの絶対性が、雲の如き揺らぎあるものであることは、多方面で既に了解事項だ。
(>>109で少し触れているように)エッセンスの抽出、原型(古形)の炙り出し作業の上で、
古形含有率の高さを言うなら良い。
それは、受容の仕方が(現存)パーリの系譜では、よりストイックであったことを示すものだし、
資料的価値の高さ、一次資料としての優位性を担保する。
だが、以下(長くなるがw)に引用するように、(或いは>>107に図示するように)、
現存パーリの成立は、各地各言語への伝播及び漢訳開始よりも後であることを忘れてはならない。
古形・原型(≒初期の思想)を探るならば、「現存パーリからも批判的に抽出する作業が必要」ということだ。
(※中村さんも水野さんも、『原始仏教』(初期仏教)と言う時、決して「《パーリ仏教そのもの》を指してはいない」。
『研究の末、それぞれが見出した原型』を指している筈だ。
漢訳(や梵本や中央アジアの断片等)との比較によって初めて、
パーリ所伝の内容の【或る部分】が古形であると確認されるわけで、当然、
パーリにおける伝承の中での改訂・増補も、同時に明らかとなる。
*(馬場さんの1冊は、そうした側面での「(現行)上座部はブッダゴーサによって確立した」という論考だ。))
古形発掘の【試金石】としての優位性は確かに高い。
だが、「パーリだから(南伝だから)原型に近い」というのは、狭量過ぎる。
(※(私もそうですがw)、貴方は漢訳阿含系に触れませんよね。そのことや、これまでの発言の仕方から、
「南伝絶対視」の姿勢、(勿論【『(特徴ある)或る系統の大乗諸経』について言っている】のだと理解してはいますが)、)
「漢訳全ての却下」に繋がる姿勢が垣間見られるので、注意喚起をさせていただきました。
(自分へのブレーキも兼ねて・・w))