10/07/11 14:21:33 8JMdMoSQ
で、縁起氏については、
信仰者としては大変、尊敬を申し上げますが(僧侶としての敬意も含め)、
けれども、所詮はただ伝統(迷信)を引きずった方に過ぎないのだ。
と、私は思いました。
現に、
こうして大乗が存在する(継続している)ことが“仏意の徴”であるかのような言い草というのは、
その他、総ての諸宗教や新興宗教らの主張と何ら変わらないものです。
これを「縁起」という言葉で正当化したのです。
近代仏教学の成果を無視したその姿勢は、
無我の理解の間違い(私が提示してきた仏教学の主張)に対する指摘にも
ただの“文献学者の戯言”として一蹴りしたのです。
結局、伝統を継承してきた師の教えが唯一、絶対に正しいものとして、
彼ら(伝統の師ら)には修行による実体験の裏づけがあるなどといいました。
これでは迷信は一向に排除できませんね。
まさに“信仰は自由”をそのまま顕した姿だということ。
日記帳化してきたので、一端、終了しますm(__)m