10/05/07 15:59:19 k81qE7p1
スレリンク(psy板:680番)
キリスト教=イエス・キリストじゃない
URLリンク(www.committed.jp)
>初代教会の記録を見ると、彼らはまさに忍耐をもって、イエスが教えたことをそのまま実践したことが分かります。
>聖書にも歴史的文献の中にも、初代の弟子たちが暴力に暴力で立ち向かったという事実は一つも記録されていません。
クリスチャンに強力な政治権力に対して暴力的抵抗を行う力が無かった、というのも理由としてあったのでは?
イスラムの場合だと、強烈な信仰で束ねられた集団が、部族主義に凝り固まりバラバラな
既存勢力を各個撃破していく様が見られます。
カリフが暗殺で代替わりするという事態も起こってますが。
暗殺で亡くなったローマ教皇っているんでしょうか?
768:神も仏も名無しさん
10/05/07 16:10:03 k81qE7p1
>>766
イエスは律法(モーセ五書)を完全とする。→モーセを否定しない。
つまり聖絶も認めている、ともとれる。聖絶は神の命令、かつ、当時では
捕虜を養えないため、殺し尽くすしか無い。当時としての合理性はある。
「神からみた正義」と「合理性」が兼ね備わっていれば、戦いも許される?
>「悪いものに手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つものには、左の頬も向けなさい」
右の頬を打った手で、左の頬を打つ場合、手の甲ではたくことになる。
このことから別の意味合いが読み取れる、という意見を前に見た記憶があります。
>「自分の敵を愛しなさい。迫害するもののために祈りさない!」
エゼキエル書での「神は悪人が悔い改めるのを望む」記述や、福音書の悪人にも自然の恵みを
くださっている、という発言に対応?悪人も神に委ねられる人々であり、なおかつ
自分の義をふりかざして断罪するのは、当時の律法学者と紙一重ということなのか。
769:神も仏も名無しさん
10/05/07 16:43:09 BObTKmMF
>自分の義をふりかざして断罪するのは、当時の律法学者と紙一重ということなのか。
自分の義と神の意志とが同じであればこんな楽なことはないのでしょうが、
おおよそそんなことは有り得ない(反省)。だから啓典からその言葉を
探してみたいと思ったのです。
とりあえずの疑問としては、かなり世俗的な論点ですが、暴力絶対否定論の可否。
あるいはこれに関連する意味で、政治の世界にある非武装中立論なるものが宗教的には
どのように判断されているのか、という点でした。
私の個人的な思いでは、おおよそこのような現実から乖離した荒唐無稽な議論などは、とても有り得ない。
なぜならば、人類史上そのような主張をした者は、本当に極一部の教派を除いては、無いと思うからです。
ところが日本のキリスト教は「右の頬を打たれたら左の頬を云々」と強く言っておられる。
だから、これはもしかしたら、失礼ながら、イザヤペンダサン/故山本七平氏が著述した
日本にはキリスト教ではなくて日本教キリスト派がある、ということと通じるものが有るのではないか
と思って、聞いてみたのです。
770:神も仏も名無しさん
10/05/07 17:19:35 BObTKmMF
キリスト教の教義にある『原罪』とは、ローマカトリックが後付けした人間の産物だと聞きました。
そうであるならば、原罪思想が導入される前の初期のキリスト教とは、むしろ罪の意識の束縛から
離れた自由な思想であったという風に捉えても良いものなでしょうか?
例えば仏教では、その大本はお釈迦様で同じであっても、それが各地に伝来して多様に
変化していますし、また、なんと肝腎のインドではヒンドゥーの神のひとつとしてしか
扱われていないのが現実です(良い悪いは別として)。
創始者の考えと現在の教えのありようには大きな乖離がある場合が多いようにも見受けるのですが、
それならば同様にキリスト教でも、初期のキリスト教こそが本来のものであるという風な受け止め方を
してしまうことは、やはり誤りなのでしょうか?
771:神も仏も名無しさん
10/05/07 17:45:47 I2GTLzPw
URLリンク(ja.wikipedia.org)原罪#.新約聖書の原罪観
「原罪」そのものはパウロが記していますね。
罪の意識というのは、神の前で善に徹することが出来ず
誤りもおかしてしまう自分への反省・洞察から来るものと考えられます。
イエスが否定したのも、律法を誤って解釈する(「神を愛する」「隣人を愛する」を根底におかず
それを傘に来て他人を裁く)という「罪」であるとも言える。これもまた「神に対して善でいられない」
という意味では、同じように捉えることができる。
772:神も仏も名無しさん
10/05/07 18:49:06 fRxARRcF
良心的兵役拒否
URLリンク(blog.livedoor.jp)
木寺廉太 『古代キリスト教と平和主義 教父たちの戦争・軍隊・平和観』
読んでみたい。
773:神も仏も名無しさん
10/05/08 00:40:15 h26bQ7IL
>>765
事実の理解も論理的思考もできない池沼が、都合のいい妄想に走る。
それでもオツムが弱いのはバレバレなので、脳内の妄想大全の方が
次元が高いのだと必死で言い張る訳です。
もちろん、次元の意味なんて知るよしもないので、語呂がいいから
有り難く使っているだけで、数が多くなれば単純に複雑で偉くなる
と信じている訳です。
774:神も仏も名無しさん
10/05/08 01:15:31 KXNKH5Jw
>>772
最大限に譲歩して、個人が内心の自由の範囲で良心的兵役拒否を主張する権利を有する事までは
認めたとしましょう。
しかし、たとえそうであったとしても、例えば自分が地域の長などの責任ある立場であったとすると、
地域住民の生命と財産を守る義務が発生するわけですから、やはり地域住民の為に出来うる全ての
事を行います。これは当然の事であり、また世界の常識です。
問題点は、上記の場合に、当該地域の長に対して良心的兵役拒否者が絶対戦争反対論までを
主張することが宗教的見地(あるいはキリスト教の立場)から許されるのかという疑問です。
そして、更に掘り下げてみると、仮にこの長がクリスチャンであった場合には、
この長の考え方はキリスト教の教えに照らして、どの様な評価を受けるのか、という事でもありますね。
おそらく世界中の全ての人は、上記は当然の事であるとして、全ての方が賛同されることでしょう。
しかしどうも日本のキリスト教だけには、異なる意見(反対意見)が多数であるかのような
イメージが有るのです。ですから、この点について、ご見解をお聞かせ頂きたいと思っているのです。
775:神も仏も名無しさん
10/05/08 01:53:41 KXNKH5Jw
上記を要約すると
良心的兵役拒否は、個人が個人の範囲内で個人的に思索しているに留まるのであれば構わないが、
行政に対して過度に主張することまでは、宗教的見地からしても許されてはいないのではないか?
ということですね。
その理由は
平和主義の美名を隠れ蓑にした過度の無抵抗主義は、かえって他者からの攻撃を誘発することとなり、
結果において人々の生命財産を脅かすこととなるため、結論としては神の御意志にすら
反することになるのではないか?
という問題意識から発生する、良心的兵役拒否反対論です。
776:神も仏も名無しさん
10/05/08 02:38:31 N1sZxsMs
個人の信念、良心に基づく徴兵拒否を認める制度が、主な先進国ではたいていあります。
フランス、イタリア、イギリス、アメリカ、ドイツに、今もあるんです。
ほとんどキリスト教国です。
しかし、日本には合法的な良心的徴兵拒否というのは今までに一回もなかった。
徴兵拒否というと非国民ということになってしまう。
良心的な絶対平和主義者を犯罪人としか認めないんです。
彼らは少数です。
だから兵力には影響ないけれど、その良心的徴兵拒否を制度的に認めるかどうかというのが、
人権の問題ー信教の自由ですねーと非常に深く関連しています。
徴兵ということを考えるとき、良心的徴兵拒否が認められているか、いないかということは、
原理的な問題として大きな問題です。
現在のドイツでは良心的兵役拒否者の数は非常に多い。何万人といる。
もちろん良心的徴兵拒否を認められたら、家で寝てればいいというわけではない。
福祉活動をしなきゃいけないんです。
軍隊とは違う方法で、同じ期間、徴兵二年間だったら二年間、福祉のために働かなければいけない。
しかもそれはかなり激しい運動になっています。
今のドイツの福祉活動、たとえば老人介助とか、あるいは身体障害者のための仕事とか、
そういう分野を担うかなりの労働力は、良心的徴兵拒否者から成り立っています。
777:神も仏も名無しさん
10/05/08 02:41:46 A33HDPKj
兵役の倍はやるべきだ。
778:神も仏も名無しさん
10/05/08 03:48:09 KXNKH5Jw
>>776
>良心的徴兵拒否を制度的に認めるかどうかというのが、
人権の問題ー信教の自由ですねー
これでは質問に対する答えにはなっていませんので、ちょっと困っています。
質問は、
>平和主義の美名を隠れ蓑にした過度の無抵抗主義は、かえって他者からの攻撃を誘発することとなり、
結果において人々の生命財産を脅かすこととなるため、結論としては神の御意志にすら
反することになるのではないか?
>行政府の首長に対して良心的兵役拒否者が絶対戦争反対論までもを強硬に主張することは
宗教的見地(あるいはキリスト教の立場)から許されるのか?
>たとえば仮に、事やむなきに至り、行政府の長が国民の生命を守るために戦争を決意せざるを得ない
状況に立たされて、そのように決断したケースを想定すると、
当該首長の判断はキリスト教の教義に照らしてどのように評価されるのか?
という内容だったのです。
兵役拒否に賛成する立場からは、一番答えにくい質問かもしれませんね。
779:神も仏も名無しさん
10/05/08 04:45:17 KXNKH5Jw
>>776
Q1
良心的兵役拒否に賛成する776さんの眼には、
志願して兵役に就いておられる方はどのように映っていますか?
Q2
志願して兵役に就くことは、キリスト教の中でも特に良心的兵役拒否を賛成する立場の方からすると、
どのように評価されるものなのですか?
Q3
そもそも良心的兵役拒否とは、いわゆる主流派キリスト教からは異端視されてきた考え方のように
感じられてならないのですが、この点はどうなんでしょうか?
また、なぜキリスト教の大多数は良心的兵役拒否に積極的に賛成しないのでしょうか?
780:神も仏も名無しさん
10/05/08 08:18:25 0Ed8bMzd
原罪がアダムから生まれたという原罪思想は
旧約を読むユダヤ教、イスラム教は支持していない。キリスト教の作り事。
781:前世は一在家
10/05/08 09:59:29 Vg7lnHJU
>>780
>原罪がアダムから生まれたという原罪思想は
>旧約を読むユダヤ教、イスラム教は支持していない。キリスト教の作り事。
マリアの福音書ではイエス様は「罪は存在しない」と説かれております。
(・世の罪についてのペトロの問いと答え)
ペトロが救い主に言った、「あなたは全てのことを私達に告げて下さいました。
もう一つのことを私達に言って下さい。世の罪とは何ですか。」と。
救い主が言った、「罪というものは存在しない。本性を真似たこと、(例えば)
姦淫をあなた方が行うと、これが罪と呼ばれるが、(存在するのは)その罪を
犯す人、(つまり)あなた方なのである。この故にこそ、その本性の根のところ
へと本性を立て直そうとして、あなた方の領域にいかなる本性のもののところへも
善い方が来たのである。」と。
※後半の訳が分かりにくいので、ベルリン写本の第一文書の底本を確認する
ことが必要ですね。
R.MeL.Wilson/G.W.MacRae,"The Gospel of Mary(BG 1)"
782:前世は一在家
10/05/08 10:17:47 Vg7lnHJU
>>781
「罪」を行う真因は「欲心」であり、エッセネ派のクムラン宗規要覧に記載の
人類創造時に「光の箇所」と同時に受肉しました「闇の箇所」に起因しており
ますでしょうか。
(・心魂の上昇の叙述) ※マリア伝より引用
欲望が言った、「私はお前が降るところを見たことがないのに、今お前が昇る
ところを見ている。お前は私に属しているのに、どうして私を騙すのか。」と。
心魂が答えて言った、「私はあなたを見た。あなたは私を見たこともないし、
私を知覚したこともない。私はあなたにとって着物のようであったのだが、
あなたは私を知らなかった。」と。心魂は大いに喜びつつ、去って行った。
783:前世は一在家
10/05/08 10:41:41 Vg7lnHJU
>>763 他称「隠居」氏
>従って、神や神の言葉は、人間がどのようにでもでっち上げることも可能。
>ゴマンとある宗教ごとに、神の姿や神の言葉が異なっていることが、それらが、
>人間による百人百様の「創作」であるということを、如実に証明しているでは
>ないか。
貴兄の指摘する通り神仏の言葉だといって人間がでっち上げることも可能です。
また神仏でない存在(悪霊、低級霊、憑依霊)が騙る場合も多々あるでしょう。
日々の生活を送ることがやっとだった当時の人々がボロ着をまとった自称預言者
や修行僧の説法に耳を傾けて、更に信じるはずが無いでしょう。
では、なぜイエス様や釈尊の説法を当時の人々が信じたのでしょうか?
文献的に見ますと、彼らは癒しによる救いの奇跡や苦しみの解消を行いつつ
信を集めていっていることになります。
イエス様は聖霊による洗礼を多用され、釈尊は対機説法(しかも読心通活用)を
実践して歩かれました。
まず人々を救い、救った後に福音を述べた、と解釈する方が理にも適っております。
784:神も仏も名無しさん
10/05/08 11:41:29 1guMg+3b
> イエス様は「罪は存在しない」と説かれております。
イエスさま自ら原罪思想を否定しておられましたか。
妄説でイエスさまの教えを台無しにしてしまったのが教会という
不完全な人間の独り歩きなのでしょう。
785:神も仏も名無しさん
10/05/08 12:56:48 wkmgLgyL
大元がおかしいところに何を積もうが虚構
786:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:03:06 KXNKH5Jw
キリスト教にとって聖書は絶対のものではないのですか?
全て聖書を基に判断されていると思っていたのですが、
どうして解釈に混乱が生じているのですか?
787:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:09:05 wkmgLgyL
虚構だから仕方ない
788:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:12:59 KXNKH5Jw
聖書は神からの啓示を受けて成立したものというお立場ではなかったのでしょうか?
789:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:14:24 wkmgLgyL
嘘は嘘。真にはならない。
790:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:16:30 KXNKH5Jw
それでは、神からの啓示という根本的な教義、そのものを批判されているのですか?
791:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:23:00 wkmgLgyL
霊から物質に情報は移せない。
792:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:27:17 KXNKH5Jw
神からの啓示を受けて成立した宗教という部分を否定するお立場である、と理解して良いですね。
793:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:31:33 wkmgLgyL
立場なんてファンタジーの数だけある。
啓示の不可能は事実である。
794:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:37:12 KXNKH5Jw
つまり、宗教とは道徳の中のひとつのジャンルにしか過ぎないという意味の事を
仰っているのでしょうか?
795:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:38:26 yCgLkvIX
妄想の一種
796:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:40:46 KXNKH5Jw
あなたは現存する宗教に、何らかの存在意義を認めますか?
797:神も仏も名無しさん
10/05/08 13:53:11 N1sZxsMs
>>779
Q1
立派なことだと思いますよ。
Q2
無宗教ですよ。
良心的兵役拒否に賛成ではありますけど。
Q3
>この点はどうなんでしょうか?
考えたことないですね。
>なぜキリスト教の大多数は良心的兵役拒否に積極的に賛成しないのでしょうか?
絶対平和主義者が少ないからではないですか。
798:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:02:02 KXNKH5Jw
>>797
>>なぜキリスト教の大多数は良心的兵役拒否に積極的に賛成しないのでしょうか?
絶対平和主義者が少ないからではないですか。
お答え、ありがとうございます。
もうひとつ質問させて下さい。
そもそも世の中の宗教は、797さんが願っている『絶対的平和主義』ではないと思います。
797さんは絶対的平和主義ではない宗教に絶対的平和主義(=無抵抗主義?)を
強要しているだけのように感じられますが、この点についてはどのようにお答えになりますか?
799:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:04:01 yCgLkvIX
>>796
意義ではなく、脳が作り出してしまうものだから、まあ仕方ないのだろう。
そのようなシステムが生き残っているということは、今のところは結果的に
有利に働いて来た面がある事も否定は出来ない。
が、所詮は幻想、妄想の類いである事は弁えておくべきだろう。
800:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:05:40 yCgLkvIX
話し合って理解し合えば争いはなくなるという幻想。
こいつは日本教と言ってもいいかも。
801:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:10:35 KXNKH5Jw
>>800
コメの読み間違え。
その証拠に775で良心的兵役拒否に反対している。
802:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:30:09 jze/+PEd
>>800は独り言だ
803:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:33:49 N1sZxsMs
>>798
>世の中の宗教は、797さんが願っている『絶対的平和主義』ではないと思います。
私は絶対平和主義者ではないですよ。
「世の中の宗教が絶対平和主義でなければならない」とも思っていません。
良心的兵役拒否に賛成なのは、主として宗教的信念、あるいは個人的な特別な哲学的立場から、
絶対平和主義者で、軍隊に行かないという人はそれを認めてもいいと思っているからです。
少数意見と言うのは、社会に残しておく必要があるでしょう。
良心的兵役拒否に関しては、合法的に認めるというのは良い方法だと思います。
キリスト教徒の絶対平和主義者がキリスト者の使命とする主張は以下の箇所が参考になるかと。
イザ2:4、福音書マタ5:9、マタ26:52
ちなみに初代教会は信者が兵役に就くことを禁じるなど厳格な平和主義を標榜していました。
キリスト教がローマ帝国の国教とされてからは、一定の条件を満たす戦争を肯定する「正戦」論
が有力となりました。
804:神も仏も名無しさん
10/05/08 14:40:06 KXNKH5Jw
日本に流布されている‘良心的兵役拒否論’は
キリスト教などの宗教を土壌として出てきたものではなかったのですね。
そうであるから、
それならば聖書の言葉など引用したりしなければ良いのに、と傍目からは思ってしまいました。
805:神も仏も名無しさん
10/05/08 15:31:27 xgJn+RVN
>>808
イエスの「隣人を愛せよ」における隣人とは、あくまでイエスを信じる者の
こと。信じない者は「裁かれるべき存在」であった。
だからイエスは、「隣人を、そして『すべての人間を』愛せよ」とは、口が
裂けてもいえなかった。キリスト教は「世界の平和」とは対極にあるもの。
史上におけるキリスト教による無数の異教国の侵略とその原住民の強制改宗、
大虐殺の事実を見よ。
イエス以降のすべての戦争には、イエスのこの思想の影がある。
806:神も仏も名無しさん
10/05/08 15:37:04 xgJn+RVN
>>805は、>>803へのレスでした。
807:神も仏も名無しさん
10/05/08 15:46:53 KXNKH5Jw
記紀神話にある日本の神々は、我が国の国生みの神です。
その一方で、キリスト教には厳しい裁きのイメージを受けます。
原罪から発生するという罪の思想が人々の自由を制約している、という受け止め方は
一面的すぎるのでしょうか?
808:神も仏も名無しさん
10/05/08 17:49:43 V9U0CV4d
【>「敵」という言葉を使った時点で、すでにイエスの「敵意」が表れている。
「敵などいない」と言ったところで、社会で生きる以上「敵」としか言えない相手は存在します。
仮に「敵などいない」とイエスが発言していても、あなたは本能破壊の理想主義と言ってただけでしょう。】(>>751)
>>805
そのレスじたいはキリスト教初期の平和主義の事例(>>803)への反論にはなってないですね。
>イエスの「隣人を愛せよ」における隣人とは、あくまでイエスを信じる者の
>こと。信じない者は「裁かれるべき存在」であった。
「隣人を愛せよ」は旧約からの引用です(レビ記19章18節)。
旧約から紹介されてれば骨太骨太と褒めていたことでしょうね。
>>807
自由を制約する、とは具体的にどういう様子をさしているのでしょうか。
809:神も仏も名無しさん
10/05/08 18:33:38 KXNKH5Jw
>>808
表面的には、戒律のことです。
それから「○○するなかれ」という禁止型の話し方が多いというイメージも持っています。
ただし実質的には、罪という概念が全ての背景にあると感じているので、
「あなたたちはこのように悪い人なのだから、反省して△△しなさい」
と命令されているように感じるということが、自由を制約するという意味です。
おそらく上記に対しては、全てのことは神の許しがあったから生起している、というように
反論されるのではないかと思っています。しかしたとえそうであったとしても、
やはり出発点が処罰される感覚(罪)というものは、西洋の人とは違って、
日本人にとってはしんどいですね。
810:神も仏も名無しさん
10/05/08 18:36:19 EKAyzEor
神からの啓示を得る事は不可能。
一切が妄想の上に組立てられた宗教。
811:神も仏も名無しさん
10/05/08 19:39:04 KXNKH5Jw
そのことは証明できますか?
812:前世は一在家
10/05/08 20:10:29 Vg7lnHJU
>>811
>そのことは証明できますか?
神からの啓示を得たか否かの証明ですか?
神(仏)の啓示はその時代の人々に説いても殆ど理解されません。
そのことは神(仏)もよくご存じだったでしょう。
だから預言者(僧)には何らかの救いの力(神通力)を与えておられます。
モーゼ然り、イエス然り、釈尊然り、弘法大師然り。
「人々を救いて後に福音(真理、法)を述べる」ということでしょう。
813:神も仏も名無しさん
10/05/08 21:27:17 /AY3PbL3
神は霊か物質か?
814:神も仏も名無しさん
10/05/08 22:01:50 7r6s4jgc
三位一体のカテキズム
URLリンク(www.geocities.jp)
問23 神は霊ですが、神は体を持っておられますか。
答 持っておられません。神が霊であるとは、神は非物質的で、形がない実体であるということです。
神は人間が誰ひとり見たことのない、また見ることのできない方です。
(引用)Ⅰテモテ6:15b, 16
問24 ものみの塔は、神は霊者で、霊の体をお持ちですと言っていますがどうですか。
答 聖書は、神のご性質は霊であると言っていますが、神は霊者であるとは述べていません。
またⅠコリント15:44「物質の体があるなら、霊的な体もあります。」を、ものみの塔は引用して、
ですから神は霊の体を持つとしていますが、この箇所は人間の復活の体について述べており、
神の体のことを述べてはいません。ものみの塔の描く神は、物質的な体の材質を、霊と置き換えただけの体を持つ、
霊者である神であり、空間に限定された、小さな絵に描ける神を作り出しています。(以下略)
・日本正教会ウェブサイト、信仰:神
URLリンク(www.orthodoxjapan.jp)
(前略)よく「宇宙の霊的なエネルギイ」とか「科学では証明されない不思議なパワー」などと言って、
特別な儀式などをとおしてその力との一致を唱える人たちもいます。しかし、それは私たちの信じる唯一の愛の神ではありません。
(中略)神は全能の力で「天と地、見ゆると見えざる万物」を創造されました。
神が万物を創造されたと信じる時に注意しなければならないことは、
第一に造った者と造られたものとは明らかに本質的に違うということです。
神はこの世を造った以上、この世の中にはいません。この世を越えた存在です。(以下略)
・日本正教会ウェブサイト、世界観:天使と悪魔
URLリンク(www.orthodoxjapan.jp)
(前略)天使は、しばしば人間の目に見える形で現われたりしますが、属神の(スピリチャルな)世界の存在です。
この「見えざる」世界も、神様が創造されたものであり、神様ご自身の存在とは
本質的に異なる世界であることも注意しておかなくてはなりません。(以下略)
815:神も仏も名無しさん
10/05/08 22:24:42 KXNKH5Jw
日本人にとってはキリスト教の説く罪の概念は、やはり舶来のものであり、馴染みの薄いものだと思います。
古来から日本にはキリストの言う意味での罪の概念は無かった。
よって、日本では概念それ自体が無かったのであるから、キリスト教の説く意味での原罪も無い。
日本人は原罪なるものから全く無関係であったおかげで、おおらかな宗教風土を創ることができた。
罪というものを概念してしまったために、かえってこの概念それ自体が人々を拘束し続けているのではないか
という意味なんですけど、どうですか?
816:神も仏も名無しさん
10/05/08 22:31:38 7r6s4jgc
東方正教会は西方教会(カトリック、プロテスタント)とは異なる「罪」の捉え方をしてます。
教え、罪と救い
URLリンク(www.orthodoxjapan.jp)
817:神も仏も名無しさん
10/05/08 23:00:46 KXNKH5Jw
神からの啓示によって成立した宗教では、神から授かった啓典が全ての基準になると思います。
聖書それ自体には、罪と原罪ということについてはどのように記されているのでしょうか?
また、キリスト没後、教会が成立してから聖書が編纂されていますが、キリスト在世当時では
罪というものはどのように概念されていたのでしょうか?
818:神も仏も名無しさん
10/05/08 23:10:55 yCgLkvIX
霊から物質へも、物質から霊へも、情報を移す事は出来ない。
よって啓示は有り得ないし、祈りも通じない。
819:神も仏も名無しさん
10/05/08 23:11:57 yCgLkvIX
一切妄想。
820:神も仏も名無しさん
10/05/08 23:18:37 KXNKH5Jw
それではコーランや仏典などにも一切の敬意を払わないということ?
821:神も仏も名無しさん
10/05/08 23:42:00 tjZQQANx
>>818
霊がそういう性質をもつもの、という仮定はどこから来てますか?
822:神も仏も名無しさん
10/05/09 01:02:10 q1HDZsKY
>>821
物質と何らかの相互作用を持つなら、それは物質だから霊ではない。
823:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:29:21 LP1J+wFr
キリスト教は自分達の教義に閉じこもるばかりで、現実の問題には答えようとしていない。
824:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:35:30 ZBjNHerd
ファンタジー本と妄想だから、外に出ようがない。
825:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:40:17 LP1J+wFr
よく聖書や法華経をファンタジーと揶揄する人をみかけるが、
この人から「聖書がファンタジー本である」との厳格な証明を受けたことも無い。
826:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:42:03 ZBjNHerd
啓示が妄想なら、自動的にファンタジー本だけど何か?
827:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:42:49 LP1J+wFr
妄想であることの証明も聞いたことが無い。
828:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:44:47 xpfdL+e4
霊から物質への情報伝達は不可能だから、啓示は無論妄想。
829:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:48:52 LP1J+wFr
それでは、霊というものの存在あるいは働きについては、あなたはどのようにしたから
知り得たの?
830:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:49:56 xpfdL+e4
霊は物質じゃないんだよね?
831:神も仏も名無しさん
10/05/09 09:57:02 LP1J+wFr
「霊から物質への情報伝達は不可能」と言うならば、そう主張しているご本人にも
「霊から物質への情報伝達は不可能」ということが分かるはずが無い、ということね。
つまりトートロジー・無限ループに陥っている。
832:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:07:07 xpfdL+e4
霊から物質への情報伝達が可能なら、物質の状態変化を惹き起すことになる。
エネルギーの収支が生じ、霊が観測された事になる。
霊は非物質なんだから、観測されちゃまずいだろ。
833:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:07:41 LP1J+wFr
宗教的な表現をすれば、
「神は全てがお見通しだが、人から神はわからない」
というような、謙虚な態度があるだけではないの?
834:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:09:01 xpfdL+e4
つまり、霊から物質への情報伝達は不可能。トートロジーでもなんでもない。
835:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:09:54 xpfdL+e4
>>833
謙虚でも何でもなく、ファンタジーの為の決めごと。
836:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:11:58 lISpaj4w
仲間内のお約束を決めて、集団妄想に浸ってる訳ね。
837:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:12:13 LP1J+wFr
ファンタジーと断言できる根拠を教えて。
838:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:14:41 lISpaj4w
啓示が妄想だから。
839:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:18:18 LP1J+wFr
啓示が妄想だと断言できる根拠は?
ここを明確に言えなければ、あなたの考えそのものも妄想であったということになってしまうけど、
そうなると、この時点で831の無限ループが完成することになるよ。
そしてこのチャットも終了する。
840:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:22:07 lISpaj4w
霊から物資への情報伝達があれば、エネルギーの収支が生じ、霊が観測されてしまう。
これは、霊が非物質であるという前提に矛盾する。
よって、霊から物質への情報伝達は不可能。
霊からの情報伝達が無いのに啓示とは、はい、妄想。
841:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:24:48 6sA83tcc
>そしてこのチャットも終了する。
ヒキコさんさよなら。
842:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:24:56 LP1J+wFr
情報それ自体にエネルギーが含まれているということの根拠は?
843:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:26:15 joUMMMze
永遠の命→×
永遠の理論のすり替え→〇
844:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:28:22 joUMMMze
>>839
チャット?
845:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:29:50 6sA83tcc
物質に情報を載っけるということは、媒体となる物質の状態を変化させるってこと。
当然エネルギーの収支が生じますね。
846:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:33:55 LP1J+wFr
ID:lISpaj4wさんは逃げちゃったけど、実はこの質問は私もキリスト教にはしてみたかったんだ。
私は反対者には厳格な証明が無いと反論したけど、キリスト教にはやはり証明なり説明をして欲しい。
それから、何故同じ聖典に依拠していながら、罪という概念ひとつにしても
教派によって捉え方が異なっているのかという点もね。
847:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:37:45 6sA83tcc
妄想ファンタジーでもいいじゃないか。
長い進化過程を、ファンタジー機能を持った脳が生き残って来たという事は、
それなりの有利さがあったんだよ。
その意味で神や宗教がまったく無駄という訳でもない。
848:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:39:50 6sA83tcc
>>846
逃げちゃいないよ。連投規制をかいくぐってるだけ。
849:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:42:36 6sA83tcc
>何故同じ聖典に依拠していながら、罪という概念ひとつにしても
>教派によって捉え方が異なっているのか
妄想は少なくとも真実である必要は無いから、自由度は広いでしょ。
850:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:43:58 LP1J+wFr
ID:lISpaj4w=ID:6sA83tccさんにとっては、宗教というものにはいかなる存在価値があるの?
それとも完全な無価値。あるいは存在悪なの?
851:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:46:49 6sA83tcc
>>850
支配の方便、トランキライザー。
善悪じゃなく、要不要ね。
852:神も仏も名無しさん
10/05/09 10:53:07 LP1J+wFr
再質問
キリスト教の方は766の質問には、どのようなご意見なのでしょうか?
853:神も仏も名無しさん
10/05/09 11:08:40 wpQXTB0i
>>852
アンカーくらい付けようよ。
854:前世は一在家
10/05/09 18:16:08 ZeuRlHEl
>>783
>日々の生活を送ることがやっとだった当時の人々がボロ着をまとった自称預言者
>や修行僧の説法に耳を傾けて、更に信じるはずが無いでしょう。
>では、なぜイエス様や釈尊の説法を当時の人々が信じたのでしょうか?
>文献的に見ますと、彼らは癒しによる救いの奇跡や苦しみの解消を行いつつ
>信を集めていっていることになります。
>イエス様は聖霊による洗礼を多用され、釈尊は対機説法(しかも読心通活用)を
>実践して歩かれました。
>まず人々を救い、救った後に福音を述べた、と解釈する方が理にも適っております。
この板でイエス様や釈尊を精神病者やうつ病者だという人がおられますが、
救う力が精神病者やうつ病者にあるはずもないでしょう。
855:前世は一在家
10/05/09 18:21:55 ZeuRlHEl
>>854
聖書ではイエス様は人に憑依した悪霊と対話しており、その悪霊をとり
除いて救っておられます。
その様子は同行した弟子達や周りの人々が度々目撃しております。
悪霊に憑依された人を現代では精神病の患者と呼ぶでしょう。
その人を救うのが精神科医であり、そのカリスマ精神科医を患者扱い
することは、論理的にも無理があるかと存じます。
856:神も仏も名無しさん
10/05/09 18:22:00 wpQXTB0i
鬱病は知らんが、ある種の統合障害なら、同様の病質傾向のある者や
DQN脳を惹きつけるかも知れない。
857:神も仏も名無しさん
10/05/09 18:23:23 wpQXTB0i
霊は物質ではないから、物質に憑依したり、情報を受け渡したりは出来ない。
858:前世は一在家
10/05/09 18:24:08 ZeuRlHEl
>鬱病は知らんが、ある種の統合障害なら、同様の病質傾向のある者や
>DQN脳を惹きつけるかも知れない。
もし惹きつけたとして、どうやって癒すのですか? 何百人も?
859:神も仏も名無しさん
10/05/09 18:25:47 wpQXTB0i
みんなでおかしくなればいい。
860:前世は一在家
10/05/09 18:32:14 ZeuRlHEl
>霊は物質ではないから、物質に憑依したり、情報を受け渡したりは出来ない。
物質も素粒子の領域で見れば、粒子性と波動性を有しますでしょう。
肉を構成する細胞は粒子性と見なせるでしょうが、脳波はどうですか?
光や音波や電磁波は波動性でしょうか。
原初の言葉(ロゴス)や光は波動性であれば、物質的とは言えないかと
存じます。
相手の脳波を機械を使わずに感じ取る能力があれば、経典に記載の
読心通の可能性もございます。
神や霊は粒子性よりも波動性の存在かという仮説を立てております。
861:神も仏も名無しさん
10/05/09 18:34:33 JkJKJmSM
>>860
脳波を感じ取るってどういうこと?
862:神も仏も名無しさん
10/05/09 18:36:08 wpQXTB0i
>>860
粒子性も波動性も物質の性質ですよ。
863:前世は一在家
10/05/09 19:09:49 ZeuRlHEl
>>862
>粒子性も波動性も物質の性質ですよ。
モーゼ、釈尊、イエスの時代に波動性も物質でしたでしょうか?
864:神も仏も名無しさん
10/05/09 19:40:51 VLJSKXBz
哲学的には知りませんが、波動方程式が見出される前後で、
特に物質の振る舞いが変わったとは、物理学では考えていま
せんね。
865:うさぎ888σ(・ω・*) ◆l8/Ncjcsrg
10/05/09 22:01:38 GVovdefq
「人間の客観的な認識はいかにして可能なのか」
哲学者カントが追及し続けたテーマです。
人間の認識能力についてきちんと検討もせずに
神だとか霊魂だとかを論じようとしたところに躓きの原因が
あったということになります。
人間の認識はいかにして可能なのか、それが客観的であることは
どうして保証されるのかという問題をカントは考えました。
その落ち着きどころは
「すべての認識は経験とともに始まるが、だからといって、
すべての認識が経験によるのではない」
後のウィトゲンシュタインの至言です。
―語りえないものについては、沈黙しなければならない。
866:神も仏も名無しさん
10/05/09 22:21:45 dWTZGWQY
作用せぬものは変化させず、変化が無ければ如何なる情報も伝わらない。
作用すればそれは物質であり霊ではない。
語る以前に、それは存在すらしない。