10/05/01 22:39:16 WbGZxcdP
聖書も人間が書いたもの。「神」とは、人間の空想上の産物。
古代人が、その生存という至上目的のために、何故、神概念を作り上げ、それを他者に
説かなければならなかったのかを、人間の生物的生存努力の面から、考える必要がある。
その場合、古代人は科学について無知蒙昧であった事実を考慮に入れる必要がある。
共生集団をまとめるためには、何らかの権威が必要である。その目的のために、更なる
はるかな過去において集団をまとめていた優れた指導者の記憶をイメージ化したのが、
神概念であろう。その過去の指導者も、自己の補助者として、複数の人間を要したこと
には間違いない。どんなに偉い王でも、補助者としての同僚や忠実な臣下が必要である。
そのような複数の同僚や臣下の記憶のイメージ化が「多神」ではなかろうか。「神々の
会議」である。
「神概念」が人間の想像の産物である以上、「人間の生存のための必要性」の面から、
神の起源を考えるべきではないか。
イエスは、はるか後世の人間であるから、「神」とは関係ない。彼は、すでに形成
されていたそのような神概念が、「過去の指導者(及びその臣下)の記憶のイメージ
化」に過ぎないことに、もはや思い至ることができなかったのであろう。現代人でも、
未だに「人間にあらざる神」を信じ込まされているのと同様である。
なお、引用における「beside」は、英語的には、あきらかに「other than」の意味。
過去の指導者の同僚や臣下が捨象され、一人の指導者のイメージのみが拡大されて
抽象され、生き残ったのであろう。
例えば、大国主命も、過去の優れた医療者の記憶のイメージ化であろう。