10/05/01 16:26:05 fNmQT9+N
>>657
重要な着眼点だと思います。ただしエッセネ派の秘儀的解釈という特徴を考慮すると
イザヤ書がマソラ本文と同一であっても、唯一神に関する正統ユダヤ教の解釈と
エッセネ派の解釈は必ずしも同一であるとは言い切れないと思います。
とはいえ、私も>>658の解説を読む限りエッセネ派が多神論的な解釈をする教団だとは
思えません。
(ここからは>>658さんがリンクを載せた主旨とは全く関係ない私の印象です。
私は一つ目のリンク先の、エッセネ派の教義からイエスへとつなげていく論法に
非常に違和感を覚えます。エッセネ派における祭司・王・預言者の三者が
イエスの中にひとつになって統合されている、と言いうるには
そもそもエッセネ派の解釈において三者の統合されたペルソナなどという
存在が許容されるのか、イエスは自覚的に自らをその三者の統合体であると
考えていたのか、など説明を必要とする論理の欠落があまりにも多く見受けられるからです。
ヨハネ福音書を媒介としてエッセネ派とイエスを結びつけようとする意図が強く働いている
気がします。まあこんなふうに思うのも私がヨハネ福音書を否定的に捉えてるから
かもしれませんが。)
>>659
> who has told it from then? Is it not I YHWH? and there is no other
> 2. God beside me; a righteous God and a Savior; there is none beside me.
一行目と二行目はつながっているので
「私の他に(or私と並ぶ)神はいない。義なる神にして救い主。
私の他に(or私と並ぶ)神はいないからである。」という感じでは?
besideの元のヘブライ語がどのような意味範囲を持っているかによって
訳(解釈)は違ってきちゃいますね。besideという英訳は元のヘブライ語の
多義性を反映してるのかな?どちらにしろ他の句と照合すると
まず間違いなく「他に」の意味で使ってると思われます。