10/04/19 20:53:24 ybNfap57
>>560
なかば同意しますが、なかばちょっとそれは違うとも思う。
あくまでもマルコ、マタイに書かれているイエスの言葉が事実であったと仮定して論を進めます。
マルコ伝
「アバ、父よ、あなたには、できないことがありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、御心のままになさってください」。
そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と呼ばれた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイ伝
うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、
この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、
御心のままになさって下さい」。
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。
それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マルコ、マタイで描かれるイエスは神の計画を認識しており自分の運命も悟っていた。
それでもこの杯(十字架上での刑死)を飲まずに済むのであればそうして欲しいと願っていた。
十字架にかけられてもなお、この希望を捨てずにいた。その希望がついえた時出た言葉が
例の「レマ サバクタニ」であった。「命を失うものは命を得る」と認識していたイエスは
もちろん命が惜しくて慟哭したのではなく土壇場での神の奇跡が起きなかったこと、
つまり自分の願いが聞き入れられなかったことに慟哭した、のではないでしょうか?
自分が犠牲の子羊として死に、かつ復活する必要性を認識していたイエスには
「犠牲の子羊」が神において不名誉であるなどという認識は微塵もなく、
ましてや誤解など恐れてもいない。それでも地上において恥辱と苦痛を一身に受けねばならない
というシナリオとは別のシナリオを求めていたのではないか。
人間イエスとしての苦悩と失望が、先の二つのイエスの言葉に表されているように
思えてならないです。そしてそれを追体験する読者はイエスの復活において
宗教的カタルシスと宗教的確信を獲得するのだと思う。
そのように、マルコ、マタイはイエスを描いているのでしょう。