10/03/13 23:53:25 UbnMGZSY
>>408
そんなに小難しく考えなくても、実在であるか、それとも非実在(空想・妄想)
であるかは、認識の対象が、人間の生命の維持に直接関係するか否か、によって
テストする。例えば、路傍の石ころでも、積み上げて、塀や家屋を作ることが
できるから実在であるが、神や霊は、煮て食うことも、衣服にして寒気を防ぐ
こともできないから、非実在(空想・妄想)である。
人間は、(必要な場合には観測装置を使用して)五感で知覚できる対象を実在と
判断し、それ以外を空想・妄想であると判断する。例外は「皆無」である。
日常生活での経験から、容易に帰納できること。
どんなに偉い宗教者でも、飯を食うとき、「この飯は実在か、非実在か」などと
迷うことはない。
この意味で、五感の知覚は、生命維持のための必須の機能、生命そのものと
いえる。
釈迦は、2500年前、「眼耳鼻舌身」と、実在の構成原因としての五感を
発見した。最後に加えられた「意」は、五感からの入力を統合する「脳」の
ことであり、あくまで五感の一部である。これは、現代の生理学でも全く同じ。
驚くべき観察力である。
仏教者には、「意」が五感、即ち実在の構成原因とは無関係であると誤解している
者が多い。
人間も、その他の動物も、生まれた瞬間から、実在と非実在とを区別し、ひたむき
に生存しようとする。生まれたばかりの赤ん坊も、誰からも教えられることなく、
母親のオッパイにしゃぶりつく。このオッパイは、実在か、非実在か、などと
迷うことはない。
その区別が出来なくなるのが、後天的な宗教観念を植え付けられた宗教信者たち
である。