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<“佐渡での大闘争”より>
「我日本の柱とならむ我日本の眼目(がんもく)とならむ我日本の大船(たいせん)とならむ等とちかいし願(ねがい)やぶるべからず」(御書232ページ)
日蓮大聖人が、極寒の佐渡の地で著(あらわ)された「開目抄(かいもくしょう)」の一節である。
当時の佐渡は「法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪(にく)みしより百千万億倍」(同1132ページ)と、念仏者たちが大聖人の命を狙っていた。
しかも、住まわれた塚原三昧堂は、屋根のすきまから雪や雨が降り、身を切るような寒風が吹きつける廃屋(はいおく)同然であった。
そんな劣悪な環境の中にあっても、大聖人は「日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」(同223ページ)との大境涯であられたのである。