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この頃までに、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、
1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピ
サロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパ
と会談するため、エルナンド・デ・ソト、ビセンテ・デ・バルベルデ神父及び
現地人通訳フェリピロをアタワルパの元へ送った。
バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否す
るならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国
にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否
した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの
戦いと呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。
スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したこ
とで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対
し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねた
とき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇
帝は聖書を調べ、「なぜこれは喋らない」と尋ね、地面に放り投げた。この行動
はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対
しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だ
と叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のイ
ンカ兵が殺された。アタワルパは太陽の神殿に投獄された。