09/11/08 13:33:24 XdGInDIB
「慈悲」は「視線」だよ。
その視線を投げた後に「行為」がくる。それが(大乗で言う)利他行となる。
最初から、華厳経や法華経やその他諸々の大乗経典、或いはジャータカ群のような
「積極的“身体行為”としての慈悲」を考えているからそうなる。
視線であるが故に、解脱後にも保持されるし、行為として為され得る。
求道の途上に於いて保持され実践されてきた慈悲が捨てられるということはない。
むしろ、視線の広がりが普遍的に一切衆生を覆うものとなるわけだ。
わからんかもしれんけど・・・w
(そう言えば世尊偈にあったな・・、「慈眼視衆生」なんてフレーズが・・・w)
また、誤解しているようだが、
「慈悲(の行為)」とは、「(滅私奉公のような)自己犠牲」を意味するものではないぞ。
そのような形を極として含むとしてもだ。
もし君が《「自己犠牲」のみが「慈悲」である》などと考えているなら、お粗末に過ぎる。
>>831
君へのプレゼントじゃないのか? ちゃんと受け取ってやったか?w
ノシ