09/10/08 12:24:38 xOi04qxR
中観は難しくて疲れる
29:神も仏も名無しさん
09/10/08 12:25:07 542tiVaf
>>25の話に賊機なし
30:神も仏も名無しさん
09/10/08 13:00:03 6tHypIit
>>27
> 世俗的に観てもナンセンスだな。意味が通じないなら書く意味がない。
世俗といってもいろいろな状態の人がいる。
そして経論というのは一般の読者に開かれているわけではなく、
あくまで聖者が伝承され体得した内容の補助、防備録として用いるものですから。
> 到彼岸者には世俗言語論理はもはや不要、未達者には意味が通じることが必要だ。
この二分法は意味がない。聖者にも世俗者にもいろいろな状態がある。
そこ五道、十地などがその指針となる。
> 『止、シャマタ、精神集中』なんて到彼岸とは別問題だ。
> でなければ、頓悟禅は成立しない。
分かってないな。禅というのはほとんど『止、シャマタ、精神集中』ばっかやって、
その精神集中がある程度定まったものが、公案などで戯論を止滅させるわけだ。
この点を強調するから頓悟なのであって他の意味ではない。
もちろん、生まれつき精神集中できてる人は、直ぐに頓悟できるわけだが、
そんな人はほとんどいない。
31:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/09 18:30:09 iLqQ3tol
初転法輪の、中道・八正道・四諦はいいですよね。
ここに仏教のコアな部分が全て集約されていると思うのですが、
どうも部派仏教では、このコアな部分が埋もれているようですな。
釈尊の時代から、約700年を経過した頃に龍樹が中論を書いたのですが、
ここでようやく初転法輪に脚光があびる。
“中道”
う~ん、実に素晴らしいですね。
釈尊が中道を悟った。というだけで、実に感動的じゃないですか。
仏教というのは極端な話、この中道だけで事足りる。
ところが、大乗八宗の祖たる龍樹菩薩が出現したにも関わらず、
なんと!大乗非仏説など唱える者数多し。
ここがどうも分らんですなw
机龍之介は大菩薩峠に住んでおります。
よろしかったら遊びに来てくらさい。
32:神も仏も名無しさん
09/10/09 18:36:24 EHv82ZWU
「“中道を”悟った」という言い方が既におかしいと気付けw (>>ALL)
「中道」は、「方法(論)」「“在り様”の一形態」だ。
少なくとも、初転法輪時は(文献上)そうだ。
2chには、二種類のお馬鹿の流派がある。
「空教」と「中道教」、「空教信者」と「中道信者」だ。
どちらも、視野の狭さで張り合う、いいライバルのようだwww
33:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/09 19:21:25 iLqQ3tol
>「中道」は、「方法(論)」「“在り様”の一形態」だ。
中道だから、方法論とか、形態とか、その名称でもない。
世俗諦では中道でいいんだよw
申し訳ないが、それしか言いようがない。
「無」と言うには広義すぎるし、意味不明になる。
つうか、中道というのは、
それ自体が実に素晴らしいじゃないか。
その賛美を書きたいだけです。
すまんですね。
ゼロを発見しなければ、ゼロをいう概念は生じようがない。
それと同じ。
34:神も仏も名無しさん
09/10/09 20:48:03 EHv82ZWU
>>33
相変わらず、のらりくらりですな・・・w
しょうがない。自分でツッコむか・・・w
・ete kho, bhikkhave, ubho ante anupagamma, majjhimA paTipadA tathAgatena abhisambuddhA,
・katamA ca sA, bhikkhave, majjhimA paTipadA tathAgatena abhisambuddhA,
・ayaM kho sA, bhikkhave, majjhimA paTipadA tathAgatena abhisambuddhA,
文献上は、≪「majjhimA paTipadA」は「abhisambujjhati」された≫となっている。
文言として、「中道を悟った」という言明は正当であろう。
注意すべきは、この記述の前には、
「出家者が実践すべきでない(近づくべきでない)両極があり、その二辺を離れることが“中道”である」と言われ、
この記述の後(或いは中身として)には、「八支の道がそれである」「それ(その八支の道)が、涅槃へ導いたのだ」
とされる点だろう。
原文は、abhisambuddhA の後に、
cakkhukaraNI JANakaraNI upasamAya abhiJJAya sambodhAya nibbAnAya saMvattati.
と続く。《中道(→八正道)が、行じる者・実践する者を涅槃へ導く》ということだ。
(そして、それらは「magga」であり「paTipadA」である、と・・・。)
さて、仏教は、
『涅槃を(究極のゴール(極)を)悟る』ものか? (→《「悟る」とは、「ゴールを知ること」か?》)
『涅槃へ導く“カギ”を悟る』ものか? (→《「悟る」とは、「ゴールへの行程を知ること」か?》)
机氏はどう思う?w (できれば、禅的言辞からは離れてほしい所だが・・・w)
※余談:
そして、この時興味深いことは、
≪「中論及び龍樹に始まる中観、そこで言われる“中”」は、「magga」でもなく「paTipadA」でもない≫
ということだろう。
35:神も仏も名無しさん
09/10/09 21:04:26 EHv82ZWU
やっぱ、これ
>(できれば、禅的言辞からは離れてほしい所だが・・・w)
は削除しとくか・・・。
「悟る」とか「悟らない」などの“はからい”(“日常的(世俗的)言語習慣”上の分別)を超えて、
(一身(一心)に行じ、実践する時に)ストンと了解してゆくのが本義だろうし、
おそらく、(返ってくるとしたら)机のレスはこの方向ではなかろうか・・・w
ワシのような、2chを覗く(≒言辞に溺れるwww)者は、周梨槃特の逸話を百億回読む必要があるな・・・w
寝る ノシ
36:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/09 21:14:07 iLqQ3tol
>>34
貴殿はなかなかオモシロい御仁ですね。
書き込みを読ませて頂きました。
では僭越ながらレスポンスさせて頂きます。
>『涅槃を(究極のゴール(極)を)悟る』ものか? (→《「悟る」とは、「ゴールを知ること」か?》)
>『涅槃へ導く“カギ”を悟る』ものか? (→《「悟る」とは、「ゴールへの行程を知ること」か?》)
ほらほら、だから普通は「悟る」ってのは、何らかのベクトルがあって・・・
その到達を意味するもんですね。
実際、彼岸というのは、そういう「到達地点」を意味するものでありますが、
ここが中道ですから、極なる到達はない。
じゃあなにか?
中道ってのは、そういったベクトル(方向性)の切断された、
非日常的な直接的に知覚する世界観?を言うのであって・・・
私が“中道”にえらく感動するのは、
観念論とは全く異次元ゆえであるからに他ならないんであります。
まあ、人間というのは、ここまで悟ることが出来る。
ってのを、先ず書きたかった訳です。
>机氏はどう思う?w (できれば、禅的言辞からは離れてほしい所だが・・・w)
おそれいります。
貴殿は学識があっても、なかなか仏教のコアな部分には到達できてないようですね。
まあ、仏教というのは知識ではどうにもならんのですよ。
目が開けばなんとかなりますがね。
では、おやすみ。
37:神も仏も名無しさん
09/10/09 23:22:05 gtcz3AZf
机遁走w
38:神も仏も名無しさん
09/10/09 23:23:03 gtcz3AZf
あ
39:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/10 07:29:33 1ZXyq05i
>>32
>「空教」と「中道教」、「空教信者」と「中道信者」だ。
月(真理)を指し示すには、いろんなアプローチの仕方があって、
貴殿が言う「空教」とか「中道教」とかは全く同義だよ。
ってか、空・中道を分別する意味がどうも解せない。
>どちらも、視野の狭さで張り合う、いいライバルのようだwww
なんか意味不明ですね。
空教信者と中道信者が張り合うんですか?
こういうことは論理的に有り得ない。
空・中道は視野は一極ではありませんから、
「狭くなる」ということは有り得ない。
ってか、ここのとこが最も重要な中観の核心的部分なのだが・・・
まあ、縁があったら語ちていい。
40:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/10 13:03:08 1ZXyq05i
>>36のつづき
>中道ってのは、そういったベクトル(方向性)の切断された、
>非日常的な直接的に知覚する世界観?を言うのであって・・・
方向性の切断された瞬時に三時がありまして、
これが非日常における連続性と言っていいかと思います。
(つまり無我における非連続性の連続であります。
無我でありますが、何らかしの縁において瞬時に我が生起します。
この生起の意味するところは、三時における自己同一性です。
ようするに三時があって自己認識が可能でありますから、
三時と我の生起は同一です。
無我は、それ自体が連続性を有しておりませんが、
刹那・刹那において連続性を有する。
ってことになろうかと思います。
>『存在が存在することの神秘は、 いかなる仕方によっても理解する
>ことができない、ということを私は理解している』
(池田晶子)
41: ◆4yy3YEx6Zc
09/10/10 13:26:17 3s/qdv3Q
舅多いなw
既出ではあるけど入手しやすい中観の概説書
チベットの般若心経 3200円 春秋社
これまで三冊入手した。
一冊はバラして自分に不要な部分廃棄、出先で読み込み、書き込み。
一冊は友達にプレゼント。
現在三冊目、ポストイットで幟乱立w。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
何年か前に高野山大学でテラワダの人を採ったでしょ。
不評みたいだったけど発案者の気持ちが少しわかる気がする。
ある教えが、その人の血肉になるのには時間がかかる。
本当に大乗仏教を復興させる気なら、
左右のわからない若いうちから部派、唯識だけは問答無用で棒暗記させる必要があると思う。
現実の生活の摩擦や衝突ある部分でどうしても実在論、存在論が必要。
倶舎論に通じていないと、どうやっても折衷の立場しかとれないし、言えない。
肝心な所で弱腰になったり、基本的な勘違いで笑い者になったりする。
戦時中の礼賛はやっぱりよくなかったと思う。ノリ重視すぎでしょ?どうみても。
ひろさちや氏のやぶにらみや、家畜化にも似る入信者の態度。左翼との混同w
、、、、存在論があれば随分、マシになると思うんだけどね。
今の困っている個人はどうするの?
これについては”これまで”通り武道やヨガ等、仏教周辺文化からの逆輸入で凌ぐしかないw
他には”血肉化してない”存在論しかないからしょうがない。
職業人としての会社宗教、会社ブッティズムにはもう期待できんみたい。
42:神も仏も名無しさん
09/10/10 22:01:30 YFf5BfzL
>>39
やっぱり馬鹿野狐禅だったか・・・w
2ch歴長いくせに「空教信者」「中道信者」という皮肉が判らんとは・・・。
>空教信者と中道信者が張り合うんですか?
馬鹿か? 皮肉ってるんだ、「空!空!」「中道!中道!」シュプレヒコールのデモ行進並の下劣さだとな・・w
鈍感な奴だ・・・。
_ ∩
( ゚∀゚)彡 空!空!
( ⊂彡
| |
し ⌒J
>>40に至っては、
関係ないことを尤もらしく口にし、何か言ったような気になってるというこの愚鈍さw
お前さん、オワットルわ。
43:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/11 07:09:05 0QRPPT/J
>>40のつづきです。
>無我でありますが、何らかしの縁において瞬時に我が生起します。
ここのとこがいたって重要なのでありますが、
縁において瞬時に我が生起しない場合もある。ってことです。
(前後裁断せり、も刹那では有時であります。→正法眼蔵より)
有時であるから自己が発生する訳でありますが、
(これはハイデッカーの「時間と存在」と理論的には同一)
人間というのは無意識的に自己が発生してるので、
自己が発生しない、ということ自体が想定できない。
縁というのは、それ自体が前後裁断せり。なのであります。
(つまり、その時点では有時と自己は発生してない)
その縁より、有時、自己の発生する瞬間のその刹那。
これが私が>>36で書きました
>非日常的な直接的に知覚する世界観?を言うのであって・・・
であります。
これは体験的なものでありますが、
また詳細は、暇なときに書き込みしとう存じます。
>>41
>舅多いなw
これは“宗徒”ですか?
44:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/11 07:14:17 0QRPPT/J
>>42
>2ch歴長いくせに「空教信者」「中道信者」という皮肉が判らんとは・・・。
空・中道においては、貴殿は専門家でありますから、
私などは足元にも及びませぬ。
どうか、いろいろと御教授くださいませ。
<敬具>
45:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/11 11:36:42 0QRPPT/J
>>43のつづき
>縁というのは、それ自体が前後裁断せり。なのであります。
では縁というのは何たるや?
このことについて具体的に説明しとう存じます。
例えば、
裏山のセセラギの音だったり、秋虫の鳴き声だったり、竹がカァ~ンと鳴ったり、
はたまた、カラスがカァ~と鳴いたり・・・
なんか聞いたような話でありますけど、
多くはこういった聴覚によるものが代表的であります。
じゃあ、カミさんが鳴いているのはどうか?
ここで気づいて頂きたいのは、カミさんというのは日常的である。
ってことです。
日常的であることは、このさい度外視して頂きたいです。
また、聴覚障害者についても特殊性において論外として頂きます。
46:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/11 11:37:45 0QRPPT/J
(つづき)
日常的には、こういった一連の雑音は耳に入ってくることと思われます。
入ってきても即縁生という訳ではなく、
(逆に言ったら、縁生しないかったら殆ど恐怖でありますけど)
縁生した場合には刹那に三時の刹那がドッキングします。
これを刹那においての連続性、と言っております。
(道元は、この連続性を「排列」とか書いておるようです)
また、この瞬間こそが自己生起となります。
(無我においての自己認識)
このことについては、いろんなアプローチができます。
京都学派や、世親(刹那滅・心相続)、臨済禅などが代表的なもんでしょう。
(詳細は後ほど)
この続きは暇な時に書き込みます。
注意:スレッドをageますと荒らされることもありますから、
なるべくsageがいいでしょうね。
47:机龍之介 ◆8Z1PfzdK1.
09/10/11 19:06:20 0QRPPT/J
では、刹那三時について書き込みしてみます。
刹那は無数の刹那にドッキングするんですなぁ。
これを道元は有時と逝っておるんですが、
この流れの繋がりにおいて未来もある訳です。
でもまあ、よく考えてみますと、
刹那三時も縁でありますから、必ずしも刹那同士がドッキングするとは限らない。
(唯識論の謎であります)
ドッキングしない、というのは非常に恐ろしいことであります。
まあ、人間はドッキングするから日常生活が営まれておるんです。
この流れにおいて、アートマンとかの観念も生じるのでありましょう。
でもよく考えて頂きたいのは、
この刹那三時において、またアートマンも生起するのであります。
その生起する前程をですね、
もっと究考する必要があるんじゃないかと・・・
私は思うのであります。
この続きは、また暇な時にでも書いてみます。
48: ◆4yy3YEx6Zc
09/10/11 21:50:37 4vgYSo9r
なんか生産的な事しゃべりたいわ。