09/11/05 09:19:50 0uQ9bOfX
>>252
>おつとめで救われるのでしたら、とうに世の中全員が平和に過ごせてるはずです。
>きれいごとでは済ませられません。
だから…。
“天理教を信仰している者”が何かに思い悩んだ時、最終的にはおつとめをさせていただくこととなります。
前レスで“天理教を信仰している者”と断りを入れてます。
天理教を信仰している者は最後には、おつとめをせずにおれんようになります。
それが天理教の信者であることの証やからです。
厳密に言えばおぢば、甘露台を囲んで行われるおつとめと、月次祭のおつとめとは違います。
しかしながら、受け取っていただきたいという思い、願いは同じです。
それは神実さんがない所でもおなじことです。
この世界全体が神さんの体やとお聞かせいただいております。
思いは通じると私は思っています。
出来うるならば自らのたすかりではなく、人様のたすかりを願うおつとめがよろしいかと思います。
しかしながら、それぞれいろんな道中がございます。
自らのことを願うのは幸せの前借りみたいなもんです。
おさづけは道の路銀と言われてますが、私はおつとめにおきましてもそれは同じであると考えています。
この道の初代さんは、みんな神さんから前借りしてたすけていただいたんやと思います。
前借りは悪いことでも何でもありません。
前借りの支払い方法は人様のたすかりを願うこと。
願うだけで善いのです。
後は神さんの領分でございますから。