坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れるat PSY
坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れる - 暇つぶし2ch283:やまい ◆TUChI2/Nas
09/08/22 14:46:16 so0Z1uYD
坐禅は仏を知る為の道具であるが、坐禅をしたからといって必ず仏になれるとは限らない。
禅定は仏を知った結果であると思いますよ。

この考案が大事なのは続きでしょう。

>そこで場祖はどうすれば良いのかを問うた。
>南嶽、「人が牛車を御するようなものだ。車が動かぬときは、車を撃つのがよいか、牛を撃つのがよいか。
>     君は坐禅を学ぶのか、坐仏に学ぶのか。坐禅を学ぶなら、禅は坐臥に関わらぬ。
>     坐仏に学ぶなら、仏に定相はない。何物にも執らわれぬ法においては取捨があってはならぬ
>     坐仏に執着すれば仏を殺すことになるし、坐相に執らわれれば理に達したことにはならぬ。」

一年ほど前、過去スレで同じことを書きました。同じことを繰り返す気はありません。
何が言いたいのかは察してもらえるとおもいます。

道は~で悟るもの、豈に坐にあらんや。


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