09/08/22 14:46:16 so0Z1uYD
坐禅は仏を知る為の道具であるが、坐禅をしたからといって必ず仏になれるとは限らない。
禅定は仏を知った結果であると思いますよ。
この考案が大事なのは続きでしょう。
>そこで場祖はどうすれば良いのかを問うた。
>南嶽、「人が牛車を御するようなものだ。車が動かぬときは、車を撃つのがよいか、牛を撃つのがよいか。
> 君は坐禅を学ぶのか、坐仏に学ぶのか。坐禅を学ぶなら、禅は坐臥に関わらぬ。
> 坐仏に学ぶなら、仏に定相はない。何物にも執らわれぬ法においては取捨があってはならぬ
> 坐仏に執着すれば仏を殺すことになるし、坐相に執らわれれば理に達したことにはならぬ。」
一年ほど前、過去スレで同じことを書きました。同じことを繰り返す気はありません。
何が言いたいのかは察してもらえるとおもいます。
道は~で悟るもの、豈に坐にあらんや。