坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れるat PSY
坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れる - 暇つぶし2ch226:やまい ◆TUChI2/Nas
09/08/20 17:10:17 nZgwke/B
これは、禅の第六祖慧能の言葉である。 よく噛みしめるように。



学道のものは用心せよ。教えの真理を識らないではすまされない。
自分の誤りだけならまだしも、他の人まで迷わせてはならない。
自分が迷っていることに気がつかなければ、経典の教えを謗ることにもなる。
このようなことで無念をもって根本とするのである。
すなわち、迷っている人は対象についてあれこれ念(おも)いをめぐらし、
その念(おも)いの上に邪見を起こす事によって、全ての煩悩や妄念が
ここから生じてくるのである。
だからわが教えでは、無念をもって根本とするのである。
世間の人は、対象を離れて、念(おも)いを起こさないようにするけれども、
もし、念(おも)いのあることがが無かったなら、念(おも)いの執着を離れるとする
無念も成り立たなくなる。

無とは何が無いのであり、念とは何を念(おも)うのであろうか。
無とは何も無いのではなく、相対的な分別や、様々な煩悩を離れることであり、
念とは真如そのものである本来的な仏性を念(おも)うのである。
真如とは念(おも)いの本質をいい、念(おも)いとは真如の働きであって、
自己の本性である真如が、そのはたらきである念(おも)いを働かせるならば、
見たり聴いたり覚知したりしつつも、いかなる対象にも執着することがなく、
常に自由自在である。それが無念の真意なのである。

維摩経にも、
「外にはあらゆることのありようをよくわきまえつつ、内には第一義の真如の本性にあって、何の動ずることもない」
と説くが如くである。




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