坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れるat PSY
坐禅と見性67章 達磨は来ず途法に暮れる - 暇つぶし2ch114:神も仏も名無しさん
09/08/14 03:22:13 Tt04w4Pm
>雪峰真覚大師が或る時、集まった者に示して曰わく、
>「このことを会得(えとく)しようと思えば、我が心は古鏡に似ている。胡人が来れば胡人を現し、漢人が来れば漢人を現す」と。
○凡夫の分別知の世界を指すか?胡人(迷い)、漢人(悟り)の二元論。


>すると、玄沙が出(い)でて問う、
>「古鏡ではなく、明鏡が来たらば、如何様(いかように)に成るのでしょう」。
○明鏡=悟ったものが見ればどうでしょうと。

>師曰わく、
>「胡人も漢人も共に隠る」。
○悟りも迷いも無いのだよ。


>玄沙曰わく、
>「私は然(しか)にはあらず、と思います」。
○そうでないと私は思います。

師曰わく、
>「では明鏡が来たらば、如何(いか)に」。
○では悟りの見地とはどういうことですか?

玄沙曰わく、
「木っ端微塵(こっぱみじん)で御座る」。
○識別判断を否定します。真空無想の世界です。(菩提本とより樹無し、明鏡も台に有らず)

師曰わく、
「左(さ)れば、わしに その(木っ端微塵にされた明鏡)破片を 返すべし」。
○では、その真空無想という物体を見せてくれんかね?(心を持ち来たれ、汝が為に安んぜん)



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