09/05/21 03:09:06 Zs0hNlWv
(´・ω・`)<
因があれば果があるとして・・・
過日は貴団体の他のスレを拝見させていただいて、法華経より、儒教的な
大儀名分の”誠”が先行していては本末転倒ではないかと思いレスを
させていただきましたが・・・・
一般的に法華経の眼目が妙法蓮華経如来寿量品第十六であり、その
経に説かれている久遠実成と娑婆即寂光土にあると言われています。
久遠実成である御仏の恒久の救いの中で、私達は生まれ変わり死に変わり、
仏になるべく修行を重ねて、いまここに存在していると仮定します・・・
そう考えてみると、現世の人生わずかな期間の内で、目前の玉串に込める”誠”
も結構なのですが、問題なのは、その過度なある種の情熱が、最終の局面で
価値観の逆転現象を生み出した場合、それが膨大な負のエネルギーになるの
ではないかと思った次第です。
例えば、一時的に育まれた偽り(?)の幸福感が崩壊し、その人の娑婆即寂光土
が○○○○へと、瞬時に逆転変換してしまったらと思うと、これは悲しみの極みと
言わざるを得ません。
かの空海の主著である十住心論にもありますように、儒教の立場 第三段の嬰童
無畏心は、法華経の世界である第八段の一通無為心よりも、常に下位ですよね。
それとも、密教や空海に対しては否定派でしょうか?
”娑婆即寂光土”が例えどの経典にあろうとも 仏教>儒教”誠”という事です。
ちなみに、上記をふまえた”難解難入”の意味は、情熱や玉串で即日のうちに
”悟り”を得ることは不可能だから、時間をかけてマッタリと大切に生きていこうよ
ぐらいの意味でしょう。