09/06/18 13:08:16 Pzsy5J9U
修行中の人も、法の体得者と同じ扱いをするのは、如何なものかと思われるでしょう。
悟りに達する修行は、sati 気づきの実践なのです。気づきの実践をしている瞬間瞬間に、
こころは一時的に貪瞋痴から離れるのです。こころが貪瞋痴で汚れても、たちまち気づき
を実践して、治すのです。妄想を完全に停止した覚者のこころの真似をし続けるようなも
のです。喩えで考えましょう。俳優たちは、舞台に上がる前に稽古をするのです。稽古だ
からといって、いい加減でふざけてやるわけではないのです。真剣まじめなのです。
稽古中であっても、観る人は感動します。衣装も何もなく、普段着のままで汗をダラダラ
たらしながらするリハーサルを観ても、見る人々は感動するのです。
リハーサルで感動させる能力が身に付いたならば、本番になるのです。
修行中はリハーサル中の俳優と同じです。ですから、自分が実践している教えを他人に語ると
、他人のこころは感動して実践したくなるのです。ゆえにお釈迦さまは、教えの説得力という
立場から見て、修行中の人も、法の体得者も、同じ扱いにしているのです。
Dhammadharo が語る場合は、その言葉に摩訶不思議な力があるのです。
その言葉を聞く人々のこころは、よい方向へ変わるのです。さまざまな問題で悩んでいる人々は、
法を自分の身体で体験している人のアドバイスを受けるならば、悩みを解決できるのです。ここ
ろが変わる教えこそが、人々の役にたつのです。法を知ることよりも大事なのは、法を持つこと
です。人々は仏法を学識的に学ぶだけで満足してはならないのです。人の死後を定めるときは、
学歴は効きません。学者であっても知識がない人であっても、富豪であっても貧乏な人であっても、
俗世間的な価値観と関係なく、死後幸福になるのは「こころが清らかな人」なのです。